比治山大学現代文化学部紀要,第16号,2009 Bul. Hijiyama Univ. No.16, 2009 145 A Report of a Polished Stone Axe Held by HIJIYAMA University 安間 拓巳・玉井 章裕・中川 真友・三上 真人 Takumi AMMA, Akihiro TAMAI, Mayu NAKAGAWA and Masato MIKAMI このたび本学内での所蔵が確認された磨製石斧の資料紹介と,当資料が本学に寄贈されるに至った 経緯を報告する。当資料は島根県益田市で採集され,昭和40年代に本学に勤務されていた石橋丑雄先 生により寄贈されたものであることが判明した。 Ⅰ 2008年7月,本学の図書館事務室から1点の磨製石斧が発見された。石斧は「説明書」とされた筆 書きの長文のメモとともに箱に納められていた。それによると,昭和44(1969)年に本学に寄贈され たものであることが知られるが,当資料が所蔵されていることは図書課職員の方々はもちろん,現職 の教職員にも知られていないようであった。さらに,本学名誉教授で考古学がご専門の松下正司先生 にも伺ってみたが,先生もその存在をご存じないということであった。そこで,資料の紹介と同時に 当資料が本学で所蔵されるに至った経緯を明らかにしておく必要があると考え,本稿を作成すること にしたものである。 Ⅱ 石斧はいわゆる短冊形を呈する磨製石斧で,色調は暗灰黒色である。大きさは長さ14.3㎝,刃部幅 5.1㎝,基部幅3.7㎝,最大厚2.3㎝,重さ249gである。石材については岩石学的な鑑定を行っていない ため不明確だが,石斧の質感や部分的に見られる新しい剥離面の色調などから泥岩・頁岩・安山岩な どの可能性が考えられる。ただし,安山岩を用いた石斧は一般的ではないことから,泥岩や頁岩とい った石材を想定しておくのがよいであろう。 ここでは便宜上,図の左側平面をA面,右側平面をB面と呼んで資料の概要を述べておく。A面は 基部側にやや大きな新しい剥離面があるものの,全体に質感が滑らかで光沢をもつ感じである。一方, B面は敲打・研磨されているにもかかわらず,一部に成形時の剥離痕を観察することができる。した がって,A・B両面とも研磨が施されてはいるが,A面側がより丁寧に研磨されているといえる。こ れに対し両側縁は,研磨がなされているものの成形段階の剥離痕が多く残されており,基部にいたっ ては大部分が成形段階のままである。断面形状は刃部側が長方形に近く,基部側ほど丸味を帯びて楕 円形状となっており,刃部側をより丁寧に成形・研磨したことがうかがわれる。刃部の多くの部分は 新しい剥離面で覆われているが,残された部分には整形時あるいは使用時についた擦痕が観察できる。 安間 拓巳・玉井 章裕・中川 真友・三上 真人 146 磨製石斧実測図(黒塗りは新しい剥離面) 正面から見た場合,刃部は湾曲せず,直線状となる。刃部の縦断面から見て両刃の石斧であることか ら,伐採用の縦斧であった可能性が高い(1)。刃部の平面形状が左右対称ではなく,A面の右側部分 (B面の左側部分)がより減失しているのも,この石斧が縦斧であったことを示しているのではなか ろうか(2)。 Ⅲ それでは,この石斧が本学で所蔵されるに至った経緯はどのようなものであったのであろうか。こ れについては,石斧が納められていた箱の表書きと石斧とともに残されていたメモからおおよそのこ とが判明する。 まず,箱の表書きを見てみよう。箱は長さ約27cm,幅約8.5cm,高さ約7.5cmのやや厚めのボール 紙でできており,蓋の表に赤色のマジックで次のように書かれている(原文は縦書き。 )。 寄贈 石橋丑雄先生 石斧 一.(説明書付) 昭和四十四年七月十四日 この記述から,当資料は昭和44年に石橋丑雄先生から本学に寄贈されたものであることがわかる。 石橋先生は昭和41(1966)年の比治山女子短期大学創設と同時に本学に赴任され,昭和47(1972)年 比治山大学所蔵の磨製石斧 147 (3) 4月に離任されるまで一般教育の歴史学を担当されていた。 先生は明治25(1892)年のお生まれというので,本学に赴任されたときはすでに70歳の半ばであっ たことになる。大正年間のはじめに徴兵のため中国北部へ渡り,除隊後もそのまま北京にとどまって 外務省(北京の日本大使館)に勤務し調査事務に携わるかたわら,北京を熱烈に愛してあらゆる古蹟 を研究されたらしい。昭和12(1937)年頃から北京市公署の秘書長室と観光科に採用され,終戦間際 まで北京にとどまって研究を進められた。その間,北京を訪れる人々の観光案内として『北京遊覧案 内』(1934年)を著し,専門的にも北京における満州シャーマン教について研究し,『北平の薩満教に 就て』(1934年)という著書も出版されている。昭和15(1940)年に在外文化功労者として表彰され てからは,北京の紫禁城と諸壇廟について研究され,戦後その成果を公表されている(4)。その人と なりは,学識に関しては大変博学であるにもかかわらず,非常に謙虚,親切かつ丁寧で人望の篤い方 であったようだ。 次に,石橋先生が石斧をいつ,どこで入手されたのかについては,石斧とともに残されたメモから 確認できる(原文は縦書き。適宜,句読点を挿入した。)。 石斧(axe stone) 昭和廿五年七月九日 有田柿木台(六五〇番地),俗に土居の大町と言われる田の南側の畦の崩 かい土壌中から発見せられた斧であります。 石斧は大昔の人々が之に柄をつけて武器又は獵具として使用した物の様で,其の製法には打製と 磨製の両種があり,又その形には短册形と法馬(分銅)形との両種が知られていますが,此の石斧 は短册形の磨製石斧で,石貭はサヌカイトと言われる水成岩の一種であります。 日本では,この石斧が從来彌生式土器と共に発見せられる場合が多いので彌生式土器時代のもの と見られていますが,この時代はまだ確実には判りませんが,大体三千年乃至四千年位前のものと 考えられています。 從来島根西部の海岸地域では,從来こうした石器の発見が殆ど無かった為に,日本考古学界から はこの辺を石器空白地帯と認めていたのでありましたが,此の石斧の発見は從来の学説を覆すとこ ろに学問的に大きな意義があると考えられます。 美濃郡ではかつて真砂村の波田から石斧が発見せられたことがある様で 見るからに堅き 石斧の いでしてふ 日晩山の 昔ゆかしき と言う歌のあったのを覚えています。又那賀郡では川波村波子の辺から発見せられたと言う事を聞 いていますから,この辺でも注意しておればまだ発見出来ると思われます。 この石斧の大きさは長さ四・五糎,幅刃部は五・二糎,頸部三・二糎,中央周囲一一・五糎であり ます(5)。(原本では,以下に採集地を示した略地図が描かれている。) メモの最初にあるように,先生はこの石斧を昭和25年7月に「有田柿木台」と呼ばれる所から採集 されているが,我々にとってはこれが一体どこの自治体なのかということが問題であった。それを解 く鍵は,メモの後半に島根県西部地域の地名が頻繁に現れることにあるように思われた。 とりあえず,石斧について調べるのと同時に先生に関する情報を得ようと,まず本学図書館に保管 されている短期大学当時の卒業アルバムを調べてみたところ,思いがけず先生が島根県益田市にお住 安間 拓巳・玉井 章裕・中川 真友・三上 真人 148 まいであったことが判明した(6)。さらに先生のご著書(『天壇』)の「著者略歴」欄を見ると,住所 が「島根県益田市美濃有田」であることもわかった。これらのことから,この石斧は昭和25年に島根 県益田市にある石橋先生のご自宅の近くで採集され,大事に保管された後,昭和44年になって本学に 寄贈されたということで間違いなさそうである(7)。念のため益田市教育委員会へ照会したところ, 出土地は地名や略地図から『増補 改訂 島根県遺跡地図Ⅱ(石見編) 』 (島根県教育委員会,2002年) 所収の益田市有田遺跡で間違いないであろうという回答をいただいた(8)。 Ⅳ 石斧については,いつの時代のものかについての検討が充分にできなかった。メモを見ると石橋先 生は弥生時代のものと考えておられたようであるが,何か根拠があったのかどうかはわからない。メ モを見る限り,石斧とともに土器片など他の遺物は採集されていないようであるし,益田市教育委員 会にも石斧以外の遺物は保管されていないとのことであった。 弥生時代には稲作文化などとともに太型蛤刃石斧や扁平片刃石斧といった大陸系磨製石器が朝鮮半 島から伝えられ,使用されるようになる。もちろん,弥生時代でも縄文系の石斧が製作・使用された ことは考えられるが,当資料については縄文時代のものである可能性も考慮しておかなければならな い。本来であれば,島根県西部地域を中心に出土する縄文時代後・晩期∼弥生時代の磨製石斧を集成 し,それらの形状や大きさ,石材などを比較・検討した上で,本資料の位置づけを考えるべきであろ う。後日を期したい。 Ⅴ 当資料が本学に寄贈されて今年(2009年)で40年。思いがけず発見され,奇しくも学園創立70周年 の年に自分が報告文を記すことになった巡りあわせに奇縁を感じている。寄贈してくださった石橋丑 雄先生からお叱りを受けないよう,教育研究資料としてしっかりと受け継いでいきたいと思う。 本稿は,Ⅱを中川が,Ⅲの前半を玉井と三上が担当し,それぞれを安間が補足した。Ⅰ・Ⅲの後 半・Ⅳ・Ⅴならびに,全体の調整および資料の図化を安間が担当した。 註 A 佐原 真『斧の文化史』東京大学出版会,1994 B 残念ながらA・B両面ともこの部分には新しい剥離面があり,現状が本来の形状を示していると は断定できない。しかし,B面の左側刃部近くに残るやや大きな剥離痕が使用時の衝撃により生 じたものであるとすれば,その剥離方向から見て,B面の左方向(A面の右方向)が石斧を使用 する人に近い側であり,縦斧として用いたと推測しても矛盾はない。したがって,現状が本来の 形状と大差ないものと考えてよいのではなかろうか。 石斧の石材や全般的な特徴などについては広島大学埋蔵文化財調査室 藤野次史准教授,広島 大学大学院文学研究科 竹広文明准教授,広島県教育事業団埋蔵文化財調査室 沖 憲明氏から ご教示をいただいた。記して感謝いたします。 C 比治山女子短期大学創立十周年記念誌編集委員会『十年の歩み』比治山女子短期大学,1978 D 石橋丑雄『天壇』山本書店,1957 石橋先生の履歴等については本書所収の文章による。 比治山大学所蔵の磨製石斧 E 149 メモ中で,サヌカイトが水成岩となっているのは誤りである。サヌカイトとは安山岩のことで, 火山岩である。また,石斧の長さ四・五糎となっているのは一四・五糎の「一」を書き落とした ものであろう。 なお,メモの判読については頼 祺一先生,土橋幸正先生からご教示をいただくとともに,守 本百合香氏(言語文化学科日本語文化コース),上岡A己奈氏(地域文化政策学科)の協力を得 た。記して感謝いたします。 F 本学に関わる参考文献の検索・入手については,図書課職員の方々のご教示とご協力を得た。記 して感謝いたします。 G こうした経緯がわかるのも石橋先生が克明なメモと採集地の略地図を残されていたからである。 考古資料を扱う場合には基本的なことではあるが,つい疎かにしてしまいがちなことでもある。 考古学を専門としていないにもかかわらず,このような記録を残された先生の研究者としての態 度に深く敬意を表するとともに,自らも常に心掛けなければと思うしだいである。 なお,先生がなぜ寄贈先に益田市教育委員会ではなく本学を選ばれたのかはわからない。年代 からすると,当時まだ教育委員会に埋蔵文化財を扱う体制が充分整備されていなかったことも考 えられるので,そうしたことが一つの要因であったかもしれない。また,寄贈された年が学園創 立30周年であったことと関係があるのではないかという憶測も成り立つのではなかろうか。しか し,その資料がなぜ図書課事務室でひっそりと保管されることになったのかについては,明確に することはできないであろう。 H しかも,当資料が採集されていることによりこの地が遺跡として認定されているようだ,とご教 示いただいた。本稿を作成するにあたっては,お忙しいところ益田市教育委員会の御手を煩わせ た。お詫び申し上げるとともに,記して感謝いたします。 【キーワード】 磨製石斧 石橋丑雄先生 島根県益田市 安間 拓巳(言語文化学科教員) 玉井 章裕(地域文化政策学科学生) 中川 真友(地域文化政策学科学生) 三上 真人(地域文化政策学科学生) (2009. 10. 31 受理)
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