連弾 - 小説家になろう

連弾
尾裂狐
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︻小説タイトル︼
連弾
︻Nコード︼
N6449BZ
︻作者名︼
尾裂狐
︻あらすじ︼
10年続いたピアノを環境の変化が影響でやめてしまった少年、
“清水晃”。
ある日の放課後。ふと立ち寄った音楽室で晃は2年離れたピアノを
一人で弾いていた。
2年というブランクがある晃はピアノが上手く弾けないこともあり、
心の隅に残していたピアノを手放そうとしていた。そんなところに
現れた少女によって晃の生活は一変する︱︱
1
序章︵前書き︶
初めての投稿です。
頭の中でずっと抱えていた内容で投稿させていただいています。
連載とはいえ、短編になるか長編になるかわかりませんが、お付き
合いいただけるかたはよろしくお願いします。
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序章
夏の季節がやってきた。
校庭から大会に向けて努力する陸上部の掛け声が響いている。
いつもならこの時間の校内、強いて言うなら音楽室からは吹奏楽
部の演奏で音が響いているのだが、今日はその音がない。吹奏楽部
は毎週金曜日が定休日なのだ。
校内からはなんの音も響かず、陸上部の声が校庭から流れてくる
はずだった。しかしA棟の4階、音楽室から軽やかなピアノの音が
小さく校内を響かせていた。素人が弾くような荒い音ではなく、そ
れなりの練習をした者が弾くちゃんとした﹃曲﹄になっている。
﹁誰かしら。﹂
彼女はその曲を知らない。単純に知らないだけなのか、奏者のオ
リジナルなのか。そんなことはどちらでもよい。そんなことより彼
女にとって、﹃ピアノを音楽室で弾く﹄という目的を阻害するもの
だということのほうが重要だ。
﹁音が荒いわね。﹂
◆
彼は油断していた。
この日のこの時間は誰もここに入ってくることはないと思ってい
た。魔が差したのだ。
授業が終わり、それぞれ部活や帰宅で教室を去るなか、彼はなん
となくその場で惚けていた。なんの目的もなく学校に入り、勉強を
3
している。勉強を終えれば部活に行くこともなく家に帰るだけ。そ
んな流れるような日常に嫌気を差して教室に残ったが、結局彼には
何もなかった。
少しすると彼は校内を散歩していた。初めは帰宅する生徒や部活
のために着替えていた生徒も多くそれなりに賑わっていて、それを
第三者の目で見ることで退屈を紛らわしていた。気づけば校内から
人の姿が見えなくなり、校庭から響く陸上部の声だけが聞こえるよ
うになっていた。紛らわしていた退屈がまた現れ始め、﹃帰ろうか﹄
と思い始めていたとき、そこに彼はいた。意図していたわけではな
い。無意識に歩いていたらそこにいたのだ。
中からは吹奏楽が聞こえてくるはずのここから、なんの音も聞こ
えてこない。
﹁そうか、今日は金曜日か﹂
何もせずに帰るのも癪だと思い始めた彼は音楽室の扉を開けた。
そこには譜面台が複数あり、壁にはベートーヴェンやバッハなど
の作曲家が描かれた絵が多数貼られている。そこで音楽の授業もや
るため、テーブルや椅子も複数個存在している。さらにキーボード
やエレクトーンも数台あるなか、グランドピアノが存在力を放って
いた。一般的な音楽室といえばそうなのだろう。
彼は吊られるようにグランドピアノの前に立った。
誰もいない。
その状況が彼を動かした。
ピアノの前に置かれた椅子に腰をかけ、ペダルに足を掛ける。一
瞬だけ背もたれにもたれかかるが、すぐに背筋を伸ばして鍵盤に手
を掛ける。
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軽くペダルを踏む足に力を掛け、鍵盤を指で押す。
ピアノの音が音楽室を響かせる。
久しぶりの感触に興奮を抑えられなかった。両手の手のひらを伸
ばし親指から小指まで力を込める。ペダルを踏む力を弱め、再び力
を込めた。今度は腕の力と体重を使って力強く鍵盤を押した。
先ほどと違い、力強く太い音が音楽室の空気を揺らす。
心地が良かった。誰もいない。なんの音も響かないこの場の音を
自分が支配している。そんな気さえ起こした。
再びペダルを踏む足の力を抜き、今度は決まった場所に指をそれ
ぞれ触れる。ペダル踏む足の力を順序よく強めながら指を流れるよ
うに音を出す。これは音ではなく曲だ。彼は今、曲を弾いている。
弾いていた当初は﹃久しぶりの感触﹄に興奮していた彼は、次第
に冷静になっていく。
︱︱なんて汚い音だ。
あるピアニストが言うには、ピアノは弾き続けていないと次第に
弾けなくなるという。それは比喩でもなんでもなく、そのままの意
味である。
ピアノとは指を繊細に動かさないと曲として成り立たない。その
ため、ピアニストは指の管理を怠らない。常に弾いていないとその
指が固まってしまう。日常生活には大した問題ではないが、ピアノ
に関することならそれは重大だ。思った通りに指が動かず、奏者が
イメージした曲が弾けなくなる。それはピアニストにとって最大の
ストレスになってしまう。
それは学生である彼も例外ではなく、幼少のころからピアノをや
り始めて10年引き続けていたピアノから2年離れただけでこの体
たらく。指が固まり、昔得意だったはずの曲が全くと言っていいほ
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ど弾けていない。少なくとも自分が納得するような演奏ではない。
音符の並びやリズムは覚えているのに体がついていかない。これは
ピアニストの最大の屈辱と言ってもよい。
﹁やめようかな﹂
楽しかったはずなのに。自分はピアノが好きなはずなのに。自分
はこの一瞬で全てをひっくり返してしまった。悲しかった。ピアノ
が嫌いになってしまった。何より彼は悔しかった。
﹃ピアノは聞くだけにしよう。﹄心の中でそう決意したときだっ
た。
﹁弾かないの?﹂
初めて聞く自分の声とピアノ以外の音。女の声。
鍵盤を見ながら冷や汗をかく彼。徐々に声のした方向に顔を向け
ていく。
ピアノを弾くのに夢中で気づかなかったが、すぐ隣にいたその彼
女。ここにいたということは、自分のピアノを聞いていたというこ
と。
何かを言われたわけではない。それなのに彼は恐怖した。
﹁音が荒いわね。基本はできてるのに、ブランクでもあるのかしら
?指が固いせいでミスタッチが多いし、ところどころリズムが崩れ
る。﹂
彼女の声は届いていない。彼は必死に逃げることだけを考えてい
た。
﹁でも、私はあなたのピアノ、︱︱﹂
﹁ごめんっ。﹂
その言葉を言い切る前に彼はその場を走り去った。言葉を言いき
れなかったことに不満は残ったが、彼を知れたことに嬉々せざるを
えなかった。
﹁清水⋮⋮誰くんだったっけ﹂
6
7
?
夏休みが目前に迫ってきた。
シミズ
アキラ
昼休み。高校入学から数ヶ月が経ち、教室の人間関係が固まって
きた。“清水晃”はその中で一人、自分の席で軽く食事を済ませ、
本を読んでいた。なんの変哲もない片手に収まる本。本の中の世界
に溶け込むことで周りの人間の声を遮断しているのだ。しかし、本
の内容が頭の中に入ってこない。うまく本の世界に溶け込むことが
できない。別のことに気を向けてしまう。
“アリサ・フレッカー”。金色の長髪に碧眼のイギリス人。彼女
は女子のほぼ中心位置にいて会話を盛り上げる人物。日本語が流暢
なのは彼女が日本で育ったからだ。それほど高くない身長に整った
童顔、それなりに膨らんだ胸ということもあり、男子からも人気が
ある。入学当初に行われた非公式美女コンテスト︵男子の一人が勝
手に主催した︶では堂々1位の人気を得ている。
ふと立ち寄った音楽室。そこにあるピアノでたまたま弾いていた
曲を聴いてしまった女子。それが彼女、アリス・フレッカーなのだ。
︱︱︱彼女に聞かれたんだよな、あれ
晃にとって彼女の印象とはそんなものだった。
人と交流するのが苦手な晃は、人の名前を覚えるのさえ数ヶ月掛
かるほどで、あまり呼ばない人物だと1年一緒にいたとしても忘れ
てしまうほど人とかかわるのが苦手だ。そんな彼にとって、アリサ
の人気があろうとなかろうとどうでもよかった。例のコンテストだ
って晃は適当に指した女子に投票しただけで、実際はどうとも思っ
ていない。人と関わるのがどうでもいいわけではない。ある程度話
せる相手は必要だと思っているのも事実で、メールで情報交換をや
り合うだけの友人だって彼には存在する。男女交際の話を同年代の
友人から聞いたりすると羨ましいとは感じてしまう。しかし、自分
もそうなりたいとは一切思わない。何より﹃めんどくさい﹄が最初
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に出てしまう。それは男女交際に関わらず、この場の教室だってそ
の範疇だ。クラス分けが始まってからすぐに人間関係を築かないと
いけないという暗黙のルールのようなものに縛られるのがめんどく
さい。最初にそう思ってしまったのだ。
最初、教室に入ったときはアリサを意識していたのはいうまでも
ない。しかし、彼女自身はあまり晃を気にする素振りを見せなかっ
た。それを見て安堵した晃は何事もなかったかのように授業を受け
た。しかし、それでも彼女にあれを聴かれてしまったことが何より
も衝撃だった。授業中にそれを意識することはなかったが、今にな
って意識するようになってしまった。
︱︱︱忘れたい。むしろなかったことにしたい。
ピアノを弾いていた過去も。
﹁あ、ちょっと私用事があるんだった。﹂
物思いにふけっていた晃が我に返ると、彼女が友人たちにそう言
ってこっちに向かって来るのがわかった。心臓の音が耳まで直接聞
こえたような気がした。単純に彼女が用を済ますために教室から出
るだけかもしれないし、他の組の教室に顔を出しに行くのかもしれ
ない。わざわざ自分のことを気にかけているはずがない。そう言い
聞かせてその場をやり過ごす。なるべく表情を変えず、あくまでい
つもどおりに。
事実、何事もなかった。彼女も晃を気にかける様子もなく晃の席
を横切り、教室から退出する。心臓の音がまだ聞こえてくる。クラ
スメイトのどの声よりも大きく耳を刺激するような気がする。
ただの思い過ごしかと今まで意識していたのが馬鹿らしくなって
きた。少し早いが、次始まる授業の道具を出しておこうとあまり散
乱していないが、余計なものを片付けるために机に視線を向けた。
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そこには見知らぬ紙が1枚おいてあり、違和感を覚えた。一瞬た
だのごみだと判断したが、綺麗に折られたそれがゴミなわけがない。
﹁なんだ、これ﹂
手にするのを少しためらった。これが自分に向けたやつじゃなく、
間違えて置いてしまった手紙だという可能性もある。という思考が
横切るが、すぐに否定された。ずっと自分がこの席にいるのだから、
これが手紙だったとした場合、自分に向けられたものだ。ためらい
ながらも手にとり、またもためらいながら紙を分解していく。破か
ないように。これがただのゴミならそれをそのままゴミ箱に捨てれ
ばよい。しかし、どんどん分解していくにつれ、何かが書いてある
ように見えた。
﹃Dear.清水くん
pia.ali.flecker.no@⋮﹄
メールアドレスのようなものが書かれている。一番右下に差出人
の名前が書いてあった。
﹃アリサ・フレッカー﹄
︱︱︱アリサ・フレッカー⋮っ
背中から冷や汗が流れた。それと同時に疑問が湧き出てきた。
︱︱︱なぜメールアドレスなのだろうか。ここに連絡しろと彼女は
言いたいのだろうか。それなら直接話をすればいいのに。それにな
ぜオレなのだろう。仮にそれが書いてあったとして、オレがそこに
メールをするという確信的なものがあるのだろうか。それともここ
にメールをしないとあのことばらすわよとでも言いたいのか。確か
にそれは困るけど、オレを脅したところで彼女にとってなんの利益
があるのか。まったくわからない。
思考が交差して行動が停止してしまっていた。そもそも何を考え
るにしたって、晃はアリサのことを全くといっていいほど知らない。
ただ金髪碧眼のイギリス人。アリサという名前だってつい最近覚え
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たばかりだ︵珍しい名前は比較的覚えやすい︶。
︱︱︱まさか、告白⋮なんてことはないよな。
ありえない。晃はそんな期待を絶対にしない男だ。仮にそれを考
えたところで否定してしまう。ネガティブといえばそうなのだろう
が、何より彼は人を信用していない。仮に本当に告白だったとして、
内心では﹃本当にこの人は自分のことが好きなんだろうか﹄という
疑いを持ってしまう。
◆
結局のところ、記述されたメールアドレスにメールをすることは
ないままその日の授業は終わりを迎える。
手紙は捨てることができずに机の中に保管することにして、その
教室から、アリサ・フリッカーから逃げるようにその場を去ろうと
する。
﹁じゃあ、今日は約束があるから。﹂
﹁そっか、じゃあまた明日ね。﹂
女子の集団から一人抜け出して晃に近寄ってくるアリサ。今回も
ただ通り過ぎるだけ。そう思っていた晃だったが、それでもアリサ
のことを警戒してしまう。
︱︱︱逃げなければ。
臆病者だと思う。それでも自分はあのことを知られたくなかった。
知られてしまったことを否定したかった。もし自分がまともにアリ
サと話ができるなら、﹁あー、ごめん、なんの話?﹂と嘘でも言っ
てもらえれば心から安心できる。しかしそんな勇気が晃にはない。
逃げるように教室を跡にする。時々横目で後ろを見ながら早足で
階段を下る。もちろん横目で背後全体が見えるわけではなく、彼女
が追いかけてきていないという確信はもてなかった。しかし、そも
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そも彼女が晃を追いかける理由がない。脅したところで、彼女にと
っての利益が存在しない。それは曲がりようのない事実だ。
追ってくることはない。そう心の中で整理をつけて昇降口で下駄
箱から外履きを取り出す。
﹁そう逃げることないじゃない。﹂
ありえない。最初に思った言葉がこれだ。彼女が晃を追う理由が
ないはずなのだ。
﹁何、そんなに私のことが怖いの。﹂
一言で言えば彼女はかわいい。怖いなんて称号が最も似合わない
女子といっても過言ではない。もしこれが教室で行われていたら注
目の的になっていただろう。それで一つ得心がいった。﹃なぜメー
ルアドレスなのか﹄という点で、二人だけで話がしたかったからと
いうのが妥当なのだろう。本来なら手紙で場所を指定して呼び出せ
ばよかったのだが、そうしなかった理由まで考えてしまうとキリが
ないのでその思考を停止する。それになぜ自分なのかという疑問は
まだ解決に至っていない。
﹁いや、そういうわけでは﹂
言葉を濁すが、彼女の言葉は図星だった。事実、晃はアリサ・フ
リッカーのことが怖い。怖いというのは彼女がではなく、自分のピ
アノ演奏もどきを聴いてしまった人間が、だ。
﹁そんな邪心にしないでよ。ただお話がしたいだけなんだから。﹂
︱︱︱邪心なんて、よくそんな言葉を知ってるな。イギリス人。
内心ではそう思うが、それを口にはしない。
﹁そんなに嫌だった。あれを聴かれるの。﹂
﹁・・・・・・﹂
返答ができなかった。
﹁嫌だったんなら謝るよ。ごめんなさい。﹂
︱︱︱あっさりと謝ってくるんだな。
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少しだけ彼女に関心を持った。やはり自分なんて高が知れている。
器が小さい男だといわれても文句は言えないだろう。なぜなら今も
彼女を疑っているから。﹃何か裏があるのでは﹄と考えてしまって
いる自分がそこにはいるのだ。
﹁少し歩かない?﹂
﹁・・・なんで。﹂
正直断るつもりでいた。しかし、彼女のまっすぐな瞳を目の当た
りにしてしまうとはっきりと断ることができなかった。
﹁言ったでしょ。お話がしたいから。﹂
◆
断りきれずに歩くことになった晃とアリサ。晃は無意識にアリス
の歩く方向についていってしまっていた。しかし、お話がしたいと
いう彼女の言葉とは裏腹に、歩きながらの話はなかった。無言で一
緒に歩くというのは不気味なものを感じてしまう。
﹁あのさ、﹂
最初に口を開いたアリサ。彼女と知り合ったのは数ヶ月程度で、
そのうえ彼女との交流を持ったのは今日が始めてた。それでも晃は
こんな顔のアリサは珍しいと感じてしまう。
﹁なに。﹂
つい邪険にしてしまう晃。やはりまだアリサの警戒は解けない。
﹁あなたがどう思っているのか知らないけどさ、よかったと思うよ。
あなたのピアノ。﹂
早速確信を着いたかと思うと以前とは違った評価を示すアリサ。
﹁この前は酷評したのに﹂
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事実、自分だって同じような自己評価をした。
﹁あれは一般的な見解での話よ。私個人の見解ではないわ。﹂
昨日のピアノ演奏の話題はあまり出したくなかった。しかし、こ
こまで進んでしまうともう止めることができない。彼女が本題に入
らないことには何も始まらない。
﹁私個人としては、あなたのピアノ︱︱︱﹂
﹁結構好き。﹂
耳を疑った。
自分のあの演奏が︱?
アリサの感覚が狂っているのか、それとも自分がからかわれてい
るのか。どちらとも考えられるこの状況で、晃はどう答えればいい
のかわからずに視線でアリサに続きを促す。
﹁あなた、音楽演奏を生で見たことある?﹂
あるもなにも幼少の頃、ピアノ発表会という会場で人前で演奏し
たことがある。そのときに鑑賞したことがあるというのも事実。晃
は静かに顔を縦に振る。
﹁音楽の生演奏ってさ、音や曲だけが重要じゃないの。たとえば、
ロックバンドのライブって歌を歌えればそれでいいわけじゃない。
なんらかの手段で観客を楽しませなければいけない。もし歌を聴き
たいだけなら音楽データでもダウンロードすればいい。それでも生
で聴くのはね、また別の意図があるのよ。﹂
アリサの話には晃も共感せざるを得なかった。それと同時にアリ
サが何が言いたいのかという興味すらわいた。
﹁音楽演奏を生で聴くという行為はね、生で演奏している奏者を見
るという行為に値するのよ。﹂
﹁逆に、ライブと称して音楽データを流すだけのアイドルの口パク
ライブだって、結構人が集まるからな。﹂
﹁そう。それは歌を聴きにきたのではなく、そのアイドルを生で見
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に来たと考えるのが妥当ね。理解が早いわね。清水くん。﹂
﹁うるさい。﹂
アリサは鼻で少し笑った。その姿は本当にかわいいと思う。危う
く晃も彼女を“女性”として意識してしまうところだった。
彼女に対する恐怖はすでに消えかかっていた。少しでも話すこと
で心が打ち解けたような気さえした。それでもまだ彼女に対する疑
いは晴れない。
﹁一般的な見解で、と言ったのは覚えてる?﹂
晃は顔を縦に振る。
﹁それはもしあの演奏がそのまま音楽データになればということな
の。そうすればミスタッチとかリズム感のずれとかが目立つように
なる。
でもさ、私はあなたの演奏を生で見たの。この意味がわかる?﹂
確かに彼女は晃の演奏を生でみた。それは大きく言えば晃のライ
ブを見に来たということに値する。
﹁なにが言いたいんだよ。﹂
﹁つまりね、私はあなたがピアノの前で演奏する姿に、
感動したの。﹂
彼女の顔を見る限り、これが嘘だとか、演技だとか言い切るには
無理がある。この顔を見て疑うほど晃は人を信じられないわけでは
ない。
﹁は?﹂
それでもその言葉が信じられない。
﹁ほら、いるじゃない。音楽データを聴いて﹃うへぇ∼、下手糞∼﹄
とか言う人がそれを目の前で演奏するのを見ると﹃すっげー!﹄っ
てなる人。それと同じようなものよ。﹂
どうでもいい話だが、今の彼女の話は正直迫真の演技を感じられ
た。
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﹁なに、じゃあオレの演奏のレベルはその程度ってこと?まぁその
通りなんだけど。﹂
﹁言ったじゃない。感動したって。﹂
すぐに否定の言葉が入る。
﹁だれの演奏でも感動するわけじゃないの。私は、あなたの演奏だ
から感動したの。わかる?﹂
﹁なんで感動するんだよ。あんな演奏で。﹂
﹁さぁ、そんなのわかんないよ。﹂
︱︱︱そんな無責任な。
気がつけばアリサと晃は普通に会話ができていた。人間とはどん
な状況に陥っても話してしまえば自然と会話ができてしまう。そう
いう生き物なのだ。
﹁そうね、あえて言葉をつけるなら⋮ブランク明けのピアノ演奏者
ってさ、すぐにやめてしまう人多いじゃない?でも、あなたは違っ
た。最後まで演奏しようとしていた。それに関心を持った・・・っ
てところじゃないかしら?﹂
﹁それなら君の見る目はないね。﹂
﹁どういうこと?﹂
アリサの足は止まった。それに釣られるように晃も足を止める。
﹁だって、オレはもうピアノを止めたから。﹂
﹁え・・・?﹂
彼女の顔は本気で衝撃を受けた。そんな表情をしている。
﹁なんで・・・?﹂
﹁だから、お前⋮フレッカーさんが言ってたとおりだよ。ブランク
明けで弾いてみて、うまく弾けなかった。だからやめる。そのピア
ノ演奏者ってやつらと同類なんだよ。オレは。﹂
なぜそこまで彼女はショックを受けるのだろうか。晃にはわから
なかった。彼女も言っていたが、あれは一般人が音楽データで聞い
たとき、それを酷評・・・ひどい時はネットにさらされて叩かれて
もいいようなレベルの演奏だった。それが予想できるからピアノ演
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奏者は辞めてしまう。そんなことはよくある話だ。当然の結論とい
うものだ。
アリサは晃の顔から一切目をそらさずに歩み寄る。
﹁もったいないよ。やめちゃうなんて。﹂
﹁もったいなくない。﹂
﹁だって、私・・・あなたの演奏聴きたい。﹂
﹁オレは弾きたくない。﹂
﹁だって・・・だって・・・﹂
﹁いい加減にしてくれないか。﹂
オレの人生だ。ピアノをやろうとやらなかろうとオレの勝手だ。
そう言いたかった。でも言えなかった。なぜなら晃は、ピアノが好
きだから。それでも自分の演奏に絶望してしまったのもまた事実。
﹁ごめんなさい﹂
目を伏せがちにアリサは晃から離れる。見ると、少し涙をためて
るようにも見える。
﹁なんでそこまで・・・﹂
﹁だから、感動したんだってば。あなたの演奏に。﹂
﹁なんで。﹂
﹁だから、わかんないんだってば。﹂
アリサは顔を下に向ける。
教室にいるアリサはクラスメイトの中心という存在で、いつも笑
顔を絶やさなかった。誰かに喜怒哀楽を見せるようなことは絶対に
しなかった。少なくとも今までそんな姿をクラスの誰も見たことが
ない。それを今、目の前で行われているのだ。
ほほを伝う涙のような一滴の雫。
﹁なんで・・・﹂
晃はそれしか言えなかった。
しばらく彼らに動きはなかった。
アリサは顔を下に向け、そんな姿を始めてみる晃は衝撃を受け。
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そんな状況が続く中、晃は口を開く。
﹁あのさ、何か言いたいことがあったんだろ。言ってみなよ。﹂
﹁無駄よ。あなたがピアノやめるんだったら。﹂
﹁じゃあ一緒に歩いた意味ないじゃん。﹂
引き金が自分にあるとはいえ、このままで終了というのは味気が
ない。せめて彼女が何を考えているのかだけでも聴いておかないと
収まりが悪い。
﹁あなたと一緒に・・・・連弾をやりたいって・・・言おうとして
た﹂
﹁連弾・・・?﹂
﹁でも、あなたがピアノをやめるなら、話はおしまい。ごめんね。
つき合わせちゃって。﹂
﹁あぁ・・・﹂
アリサはやっと足を動かし始めた。
晃を横切って道を歩く。それを追いかける気にはなれなかった。
むしろそのまま帰ろうとさえ思った。
﹁そういえば・・・﹂
アリサが足を止めたので晃も脚を止める。
﹁あなた、清水なに君だっけ。﹂
﹁え、名前?﹂
﹁清水“晃”だよ﹂
﹁そ。﹂
前までなら関心を持っていたかもしれない。しかし、今の彼女に
そんな余裕はなかった。自分だってそんな余裕はない。
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今はただ、この会話がなかったことにならないかと思うばかりだ。
﹁じゃあ、また学校でね。﹂
﹁あぁ。﹂
そのまま、晃とアリサは別れた。寄り道をすることなく、自宅に
帰るのだった。
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?
連弾。それは、一台のピアノに対して二人、あるいはそれ以上の
人数で一つの曲を弾く演奏法だ。
連弾を主に扱う曲は一般的には知られていない。ピアノ教室で指
導者が生徒と隣り合わせになって一つの鍵盤で演奏することがある
が、それも連弾の一つだ。
代表的な連弾曲を挙げるならモーツァルトの“四手のためのピア
ノソナタ”やシューベルトの“軍隊行進曲”などがあるが、それも
あまり知られていない。
なおかつ連弾奏者も少なく、一般的には兄弟姉妹で組むことが多
い。
ピアノを始めたのはいつ頃だろう。一番古い思い出で覚えている
のは幼稚園のピアノ教室で﹃猫踏んじゃった﹄を弾いていたくらい
のものだろうか。後は小さなピアノのおもちゃを触っているころだ
ろうか。
自分がピアノをやり始めたのがいつかなんて実際は覚えていない。
だからやり始めて10年とはいっても正確ではない。とにかく物心
がついたころにはピアノがそこにはあった。
幼稚園に通ってる途中で遠くに引っ越すことが決定した。幼稚園
のピアノ教室をやめてしまい、引っ越した後は近所のピアノ教室に
通うようになった。そこのピアノ教室は子供から大人まで通ってい
る個人で開いている教室だった。なんの曲を弾いていたかと聞かれ
たらやはりこれも覚えてない。正直に言うと先生に言われたことを
ただ従順に動いていたとしか言い様がないことは覚えている。
そこの教室からピアノの発表会で多くの人前でピアノ演奏をする
経験を得た。一度だけだが連弾曲も経験している。
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小学四年生くらいになると、教室にお金を出す余裕がなくなった
ため、教室を辞めざるを得なかった。その代わり、ピアノは自宅に
あったからピアノをやめるきっかけにはならなかった。むしろそれ
は自分にとってよかったことだと晃は自負している。先生の指示で
はなく、自分の好きなように好きな曲を弾くことができるからだ。
基本は教室で教わっていて体に染み付いているため、ピアノを練習
する環境には申し分なかった。
それから中学まではずっと独学でピアノを学んできた。
中学一年生になり、音楽のイベントで合唱コンクールの伴奏にな
った。そのときは久々の大舞台に興奮してた。指揮を見ながら演奏
するのを忘れていて、リズムが合わなかったのを覚えている。むし
ろミスタッチしないことを優先的になっていたと思う。それが最優
秀賞を得たのは今でも忘れられない。
指導者がいないにも関わらず、中学一年のときの晃は伴奏をやり
切った。その自身もあってか、二年生に進級したあともコンクール
で伴奏の立候補に出た。春からずっと課題曲の練習に励んだ。指導
者がいないのだ。秋の合唱コンクールに向けて練習するには早すぎ
るとは言えないだろう。
しかし、同じように立候補者はもう一人いた。女子の演奏者で、
彼女は指導者がいた。独学の晃と違い、指導者による効率的な練習
ができてしまう。中学生の子供にはこの差は激しい。春から練習し
たにも関わらず、審査には彼女が通ってしまった。
ピアノをやらなくなったきっかけであり、さらにまた環境の変化
が起こった。
今までは一軒家でピアノを家に置くことができたが、また移住が
始まってしまい、そこが集合住宅。アパートだった。そんなところ
にピアノはおけずに処分。キーボードも買う余裕がないため、晃は
ピアノを辞めざるを得なかった。
10年。そこにあったものがなくなってしまった喪失感は激しく、
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すべてがどうでもよくなった。学校でピアノを触ればいいのではと
いう言葉もあったが、晃にはそんな気が起きなかった。
ずっと練習してきたのに負けてしまった。それを晃は引きずって
いた。自分には才能がない。ピアノを引くには適さない。そう思う
するようになっていたのだ。
◆
︱︱︱最近憂鬱なことが多いような気がする。
登校中の晃は不意にそう思う。
原因はあの音楽室でのピアノ演奏だろう。晃にとって、それは演
奏とはいえない“演奏もどき”だ。それを彼女に聴かれてしまった
ことがことの一端だ。
一緒に歩いて下校した日から数日が経った金曜日。あれ以来アリ
サから話しかけてくることもなかった。晃は安堵を感じずにはいら
れなかったが、それと同時に喪失感も感じてしまっていた。
︱︱︱かわいいんだよな。あの子。
もしアリサの誘いを受けていたらもっとあの顔を間近で見れたの
だろうか。と物思いにふけるようになっていた。それでもやろうと
は思わない。
実際にアリサの演奏を晃は聴いたことがない。しかし、明らかに
晃はアリサの足を引っ張ってしまう。引きずると言ってもいい。そ
22
れほど彼女の手はピアニストの手だった。
ピアニストを見分ける方法はただ一つ。手を見ることだ。特に指。
ピアノを弾く際、指の筋肉は必要不可欠だ。それでなくとも弾くと
自然と指の筋肉は鍛えられる。さらに離れる音を出すとき、速くそ
の鍵に指をかけなければいけないため、指を伸ばす運動を自然とし
てしまう。その影響もあり、ピアニストは指が長くなっている。要
するに指を見ればどれほどのピアニストかわかるわけだ。
これまで通り、晃とアリサの関係はなんでもないただのクラスメ
イトになった。
普段通りの昼休み。一人で食事をしようと登校中によったコンビ
ニで買ったパンを取り出してそれを食す。何気ない仕草で袋を開け、
パンを取り出して一口一口ちぎって食べる。しばらくそうしてると
めんどくさくなってきた。ある程度食べたら齧り付く。
﹁かわいかったのに。残念。﹂
急に話しかけられて警戒する。そこには弁当袋を持ったアリサが
立っていた。周りを見ると一部の人からの視線を感じてしまい、少
しだけ痛い。 ﹁なんか用?﹂
結果として、あの日に彼女を泣かしてしまった晃は遠慮がちにそ
う言う。
﹁ご一緒してよろしいかしら?﹂ ﹁ダメ﹂
即答した。
﹁まぁいいじゃない。﹂
それなのに彼女は気にせずに前の人の席を借りて座り出した。晃
の机に自分の弁当を置いて遠慮の欠片もなく広げていく。彼女の弁
当は小さなサンドイッチボックスで軽い食事をするのに最適なボッ
クスだ。
﹁ダメって言ったのに。﹂
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﹁じゃあハッ倒してでも退かせばいいじゃない。﹂
そんなことできるわけがない。
晃は説得は不可能と判断し、アリサなどいないかのように食べか
けていたパンに齧り付く。
﹁これでも勇気出してるのよ。私。﹂
言いながら目を伏せる。
アリサはボックスの蓋をあけて中から手のひらの半分もない小さ
なサンドイッチを手に取り、小さく口を開いて齧る。
﹁ていうか、友達とお昼一緒にならなくていいのかよ。﹂
﹁いいのよ。今はあなたが優先。人間関係に優劣を求めるのもおか
しいな話だけどね。﹂
言いながらアリサは再びサンドイッチを口に運ぶ。
﹁で、なんか用。﹂
晃は手にあるパンを食べきり、再びビニールからパンを取り出す。
﹁失礼ね。一緒にお昼を食べたかっただけじゃない。﹂
﹁なんで今日に限って。﹂
﹁今日が金曜日だからかしら。﹂
︱︱︱聞くなよ。
パンの入る袋を開き、再びパンを口に運ぶ。
今日が金曜日であることを強調する彼女は、恐らく自分を何かに
誘おうとしているのだろう。金曜日といえばこの学校の吹奏楽部が
定休日で、音楽室が無人になる日だ。しかし、その教室は開放され
ているわけではない。前に入ったときはたまたま誰かが鍵を閉め忘
れたから入れたのであって、本当なら金曜日は音楽室には入ること
ができない決まりになっている。︵もちろん申請を出せば入れない
こともないが︶
﹁音楽室に何か用なのか。﹂
﹁鋭いわね。﹂
﹁そこまで言われれば誰でもわかるだろ。﹂
﹁そのとおりよ。放課後、少し残ってもらえるかしら。﹂
24
﹁やらないぞ。ピアノは。﹂
﹁いいのよ。それで。﹂
アリサの目的が見えてこない。前の出来事で晃がピアノを弾かな
いということは目に見えていたことだろう。仮に音楽室に行ったと
ころで晃はピアノを弾きたいと思うことはない。それを承知の上で
勧誘するアリサ。さらに謎が深まってしまった。
謎を深める晃を裏腹にアリサは淡々とサンドイッチを食していく。
晃の耳が敏感になり、クラスメイトがそれぞれのグループでして
いる会話がなんとなくその内容が晃の耳にも聞こえてきそうな錯覚
さえしてしまう。
﹁ただ来てほしいだけ。ダメかしら。﹂
暇なんでしょ。と言われているようだった。晃もそのとおりで、
家に帰っても何もすることがない。家族に何かを頼まれているわけ
でもない。部活でもしていれば断る言い訳にはなっただろうが、そ
んなこと晃にはない。いやだからと断るのも容易だが、晃はそれを
したくなかった。
アリサが話しかけてこないことに安堵と同時に喪失感も感じてい
た晃。この機会を逃せば本当にアリサとの繋がりが消えてしまう気
がする。なぜなのかはわからないが、晃はそれが嫌だった。
﹁いいけど。﹂
自分は曖昧だと思う。ピアノは弾かないと言っていた晃。アリサ
の連弾の誘いも断っておきながら繋がりは持っていたいという気持
ちもある。自分は臆病で器が小さくて、曖昧で。最低の男だと晃は
思う。
﹁そっか。ありがとう。晃くん。﹂
そんな晃の気も知らないアリサは、魅力的な笑顔を見せる。
一度しか聞いてないはずの名前を約一週間経った今でも覚えてい
た。一度聞いた名前でも何ヶ月も呼ばないと覚えられない晃と違い、
彼女は教えてもらってから一週間、呼んですらいない名前をあっさ
りと覚えてしまっていた。それ以上に、アリサには晃にない強引さ
25
を感じる。これは心の内で晃がほしがっていたもので、憧れだった
的だ。
周りを見ると横目でこちらを見るクラスメイトが多く、中にはこ
ちらが視線を向けるまでずっとがん見する者もいる。
︱︱︱アリサって人気者なんだよな。
改めて感じさせられた自分と彼女の差。
その上、彼女は自分が続けられなかったものを今でも続けている。
いつからはじめたのかは知らないが、もし自分が彼女の立場だった
ら同じようにピアノを続けられたのだろうかと想像してしまった。
﹁ところでさ、晃くん。﹂
晃は不意に呼びかけられることで、物思い耽っていた思考が現実
に戻された。
﹁何。﹂
アリサは何かを聞こうとしているみたいだが、少しそれを躊躇っ
ている。
﹁君はさ、﹂
両手の指をくっつけてテーブルにひじを着いてそこに体重をかけ
る。口元を両手の親指と人差し指の間にはめるように顔と目を伏せ、
手のひらでそれを隠す。
﹁連弾をしたことはあるのかな。﹂
﹁あるよ。﹂
即答した。虚言をしても意味はないし、何よりそれをしたくなか
った。
それを聞いたアリサは伏せていた目を晃に向ける。その瞳は少し
輝いているように見えた。
﹁どんなだった。﹂
﹁それは雰囲気について聞いてるのか。それとも演奏について聞い
ているのか。﹂
﹁どっちも。﹂
26
晃は考える。
連弾は経験したことはある。しかし、それはほぼ10年も前の話
である。そんな昔の話を覚えているわけがない。正直に言うと誰と
組んだのかすら覚えていない始末だ。
﹁覚えてないかな。﹂
それを言うと、彼女の瞳は輝きを失われた気がした。
﹁そっか。﹂
再び目を伏せていつもどおりの笑顔を絶やさない顔を作って晃に
見せる。
﹁変なことを聞いたかしら。﹂
﹁いや、別に。﹂
そこまでいやな質問ではなかった。
◆
授業が終わり、昼休みの約束を果たすべく、晃は教室に残ってい
た。別に音楽室に来いとは言われていない。あくまで残ってくれと
いわれただけだ。
まだ部活に行く途中の生徒や、下校をする準備をしている生徒も
多数残っている。そんな中で当の彼女は友人と一緒に教室をあとに
した。
︱︱︱残ってくれと言っといて自分は帰るのかよ。
先日は﹃約束があるから﹄と別れていたのに、今回は本当に約束
をしているにもかかわらず、それを言わずに友人に付き合っている。
﹁帰ろうかな。﹂
︱︱あいつがその気なら。
27
そう思ってもらした独り言。
﹁ダメよ。せっかく残ってもらったのに。﹂
不意に横からアリサの声が響く。
﹁なんだよ。帰ったんじゃないのか。﹂
﹁違うわよ。職員室に行ってたの。﹂
そう言いながら彼女は手に持っている鍵を掲げる。音楽室の鍵だ。
﹁音楽室、借りれたから。﹂
廊下には未だに生徒が多数にぎわっていた。
そんな中、アリサに話しかける生徒も数人いて、それを一つ一つ
に笑顔を見せて返していた。もし晃が今のアリサの立場なら軽くあ
しらっていたものも丁寧に返していた。そんな彼女を晃は第三者の
眼で﹃まじめなやつだな﹄と思っていた。
﹁困ったものね、なかなか一直線に行かせてもらえない。﹂
そりゃそうだろう。と晃は思う。
アリサはクラスだけではなく、学年でも人気がある。それに彼女
は色々と頼りにされているため、何かを頼まれて、それを一つ一つ
手伝っていた。
﹁断ればいいのに。﹂
﹁それができれば苦労はしないわよ。﹂
﹁お人好し。﹂
﹁もし彼らがあなただったら軽くあしらってたけどね。﹂
﹁おい。﹂
晃は一瞬目を見開いて、天井を見る。
﹁なぁ、なんでオレにだけは冗談を言えるんだ。﹂
率直な疑問だった。
今疑問に思ったことだが、なぜアリサは晃に対しては冗談を言う
のだろう。他の人と交流している彼女を見たときは正直完璧超人の
ように見えた。まるでその自分を創っているような。別に偽ってい
るわけでもなく、猫をかぶっているわけでもないとは思う。それで
28
も他の人に冗談を言ってるところを晃は見たことがない。
﹁なんでだと思う?﹂
逆に聞き返された。
そんな答えを晃が知っているわけがない。
﹁知らないよ。猫かぶってるわけじゃないよね。﹂
﹁当たり前よ。家族にだってあれだもん。むしろあなたとのほうが
猫かぶってるかもね。﹂
彼女は笑う。
︱︱︱まただ。
アリサ・フレッカーという少女はまた、晃に対して他には見せな
い顔を見せる。
﹁もしかして、オレのことを・・・とか?﹂
﹁え、なに。﹂
肝心なところが口ごもってしまった。
﹁オレのこと、好き・・とか?﹂
彼女は少し驚いた顔で晃を見る。まさかそんなことを聞かれると
は思ってもみなかったということなのだろうか。それは晃自身もそ
んなことを聞くとは思っていなかった。なぜそんなことを聞いてし
まったのかと少し後悔すらしている。
そもそも晃は色恋沙汰には﹃めんどくさい﹄がついてくるはずだ。
人と交流するのがめんどくさいというやつだ。それがなぜ人の感情
を探るようなことをするのだろうか。自分でわからなくなってきた。
﹁どう思う?﹂
満面の笑みを見せるアリサ。
なんとなくからかわれているんじゃないかと思うようになってき
た。
﹁何で聞くんだよ。﹂
﹁んー、答えたくないから?﹂
アリサは言いながら立ち止まる。
気づけばそこは音楽室の前だった。
29
音楽室の鍵を開け、扉を開く。
そのまま釣られる様にアリサはピアノの前に座り、それについて
いくように晃は隣に立つ。
﹁なんでこんなところにつれてくるんだよ。﹂
﹁うん。それはね、﹂
﹁私の演奏を聴いてほしいのよ。﹂
30
?︵前書き︶
タイトルは連弾ですが、時々これだと殺風景かなと思って何か違う
モノに変えようかと思ってたりします。でも結局めんどくさくなっ
てきたのでやめておきます。
31
?
一言で言うならその演奏は見事だった。演奏された曲は偶然にも、
晃がピアノを辞めたときに練習していた曲、モーツァルトの﹃トル
コ行進曲﹄だ。一般的に多く知られているピアノソナタの一種で、
大手動画サイトにはそれに歌詞をつけた曲が出回ってるくらいだ。
自分が練習していただけあって、その曲の難しさはよくわかって
いた。それを一つのミスタッチもなく、なおかつバランスの良いリ
ズム感で演奏されていた。
演奏された後の彼女のスッキリした顔は、自分の演奏に満足した
ものだった。未だ演奏中の胸の高鳴りを感じ、喋るのも困難なほど
息を切らしていた。次第に呼吸も落ち着いていき、しゃべれるよう
になったころに彼女はこちらに視線を動かす。
﹁どうだった?﹂
少しだけ息切れが残っている。
何かを言わないといけないのだろうが、その言葉が見つからない。
圧倒的すぎるのだ。
普段の生活ですら感じてきまう彼女との差を、本当の意味で突き
つけられたような気がした。
もし自分の演奏が音楽データになって配信されたら全国ネットで
晒されて叩かれる物なら、彼女の演奏は全国ネットで賞賛されてテ
レビにも出演できるだろう。それほど晃とアリサの差は圧倒的だっ
た。
﹁正直に言うと、なぜお前がオレを誘ったのかわからなくなった。﹂
﹁だから、あなたの演奏に感動したから。﹂
真顔でいうアリサ。
その言葉を今の圧倒的な差を見せつけたあとに言われると現実味
を失う。まるで雑草で生い茂る花壇に咲くことで目立とうとする一
輪の花のような、そんな感じがしてしまう。
32
﹁わかんねぇよ。お前の言ってること。﹂
素直な気持ちだった。
最初は彼女と話すのは憂鬱だった。しかし、今は少しだけ満たさ
れた気持ちになっていた。今の演奏を聞かされるまでは。
アリサは何も言わない。晃の顔を見つめて何を考えてるのかを伺
っている。
﹁オレとお前、こんなに圧倒的なのに。﹂
﹁圧倒的ってなに?﹂
晃が心のうちを少しだけ晒すと、アリサは咄嗟にその言葉を投げ
つける。
﹁オレは卑屈で陰気で最低な男だ。でも、お前は周りから頼られる
中心的な人間だ。そんなの、釣り合うわけが無い。﹂
︱︱︱何を言ってるんだ。オレは。
いうと同時に惨めな思いをする晃。
﹁ごめん、あなたが何を言ってるのかわからないわ。﹂
︱︱︱だろうな。
自分でも何を言ってるのかわからない。それでも、これが晃の素
直な気持ちだ。
﹁それに、オレはお前の足を引っ張るに決まってる。﹂
﹁連弾の話をしてるの?﹂
﹁まぁ、それもあるかな。﹂
晃はアリサの顔を直視できない。目をそらしてそのまま言う。
﹁ピアノ演奏だって、オレはお前に劣る。そんなのと組んで時間の
無駄だと思うよ。﹂
しばらくの沈黙。
これ以上言葉を続けるのは晃にとって苦痛だった。出来ればこの
まま帰ってしまいたい。彼女の顔を見ると、何かを言おうとしてい
るようだった。これでは帰るに帰れない。しかし、彼女が何かを言
うことはない。この状態を続けるならもう帰ってしまおうと思った。
33
﹁じゃあオレは︱︱﹂
﹁あのさ。﹂
︱︱︱帰るよ。
そう言い切る前に彼女は口を開く。
﹁さっき言ったことけどさ、覚えてるかな? 人間関係に優劣を求
めるのはおかしな話だって言ったの。﹂
そんなこと言ってたっけ。と頭の中で一瞬考え、昼休みにそんな
ことを言ってたようなという風に思い出す。
﹁それってさ、私とあなたの関係にも当てはまるわけだけど。﹂
晃は少しだけ、アリサが言いたいことがわかったような気がする。
﹁あなたの言ってること、すごくおかしいわよ。﹂
言い返せない。
﹁ちょっと臭いセリフを言うけどいいかな?﹂
晃は顔を縦に振る。
﹁ピアノの上手い下手。それは本当に存在すると思う。けれど、私
はピアノの演奏に勝敗はないと思ってるわ。﹂
﹁でも実際、コンテストで優秀賞とか最優秀賞とかは存在するぞ。﹂
﹁そんなの大人の都合でしょ。コンテストでピアノは誰が一番凄か
ったかと競わせることでピアニストの目標を明確にしただけ。その
演奏の本質を明確にはしてないわ。﹂
﹁要するにピアノは勝ち負けじゃないってことか。﹂
﹁まぁ、そういうことね。﹂
そう言い一息つくとアリサは再び鍵盤に手を伸ばした。ペダルに
かけていた足に力を込めて演奏を開始した。モーツァルトの﹃きら
きら星変奏曲﹄だ。これも一般的に知られているピアノ曲で、日本
ではタイトルを﹃きらきら星﹄と略称をして、これに歌詞がつけら
れて知られている。この変奏曲は一般的に知られているよりずっと
長く難しい。音楽室は広いから二人がしゃべらないと音がなくなっ
てしまう。BGMとしてこの曲は、やさしいタッチで滑らかなリズ
ムで弾かれる。癒し効果を期待できる。一つ一つの音がやわらかい。
34
晃もその気になればそういうタッチができないわけでもないが、そ
れを曲として成り立たせるにはとてつもない集中力が必要となる。
それを平然としてしまう彼女は本当にすごいピアニストなんだと実
感させられる。
﹁ピアノを弾くことの本質は演奏者本人が楽しむかどうかだとでも
言うつもりか。﹂
﹁それもそうなんだけど、私はそれだけじゃないと思う。﹂
曲は架橋に入った。ここから口を動かしながら弾くのは無理があ
るのか、急にアリサは黙り込んでしまう。さすがの彼女もここから
は集中しなければいけないのかなと晃なりに分析する。
︱︱︱もしこれがオレなら⋮⋮
演奏を聴いていた晃は無我夢中になっていた。演奏が終わると同
時に演奏中の余韻を感じて動きが止まるアリサ。少しするとこちら
に視線を向ける。
﹁どう思った?﹂
晃の考えてることを見透かすような瞳で見つめる。
このときの晃はこの感情に何て言葉をつければいいのかわからな
かった。これに言葉をつけるならこれは“衝動”といえるだろう。
﹁もしかして、﹃もしこれがオレならこうするかもな﹄なんて思っ
たんじゃない?﹂
まるで拳銃で胸を打ち抜かれたような気がした。ここまで自分の
思考を正確に読み解かれたのは初めてで、少し気色悪かった。
﹁どうなの?﹂
アリサは晃の瞳をまっすぐ見つめる。本当に晃の心を見透かされ
てる気がしてならない。うそをついてもすぐに見抜かれてしまいそ
うな。
35
﹁思った。﹂
無意識に嘘をつくことをしなかった。
晃が言うと、アリサは満面の笑みを向けてくる。
﹁そっか。なんでそんなことを思ったのかしらね。﹂
嫌味のように聞こえた。ピアノは弾かない。ピアノは弾かない。
あれほどしつこいほど自分に言い聞かせていた言葉なのに、この演
奏でそれがひっくり返ってしまった。ピアノを弾かないものが、ピ
アノ演奏を聴いて﹃もし自分なら﹄とは考えない。それを槍でつつ
くようにアリサは言うのだ。
正直に言えば少し不快だった。しかしそれでアリサが嫌いになる
ようなものではない。自分の中の不満を浮き出しにされたようなも
のだ。その浮き出しにされた感情を抑えるがための沈黙。
﹁本当は弾きたいんじゃないの。ピアノ。﹂
正直に言えば、ピアノは弾きたくない。その気持ちは本当に存在
する。しかし、心の隅ではピアノを弾いてみたいという思い。認め
たくはないがそれは存在する。言葉にしてしまえばそれは現実にな
ってしまう。だから意地でもこれを口にしてはいけないと、晃は思
う。
︱︱︱逃げたい。
そんなことを思ってしまった。その瞬間にアリサは晃に席を譲る
ように立ち上がった。
﹁やってみる?弾けないなら教えてあげるけど。﹂
﹁・・・やらない。﹂
理性では逃げる準備はできている。しかし、本能が逃げることを
許さない。足が竦んでしまい、動くことができなくなってしまった。
﹁私はやってみてほしいな。﹂
﹁やらないってば。﹂
﹁じゃあ逃げれば。いつもみたいに。﹂
アリサは左手で扉を指差す。﹃もう止めないから。﹄と言うよう
に。
36
もしここで逃げたとしても、本当にアリサは止めないだろう。本
当に彼女と自分の間には何もなかったことにしてしまいそうな。挨
拶をしても他の人と同じようにあの完璧超人の笑顔を見せられる。
晃にしか見せないあの顔はもう見れなくなる。それが晃は嫌だった。
ならばピアノを弾いてみるか。一回だけ。そう思ってしまっても、
体が震えてしまって動かない。怖いのだ。ピアノを弾くことが。教
えてもらっても何もできずに終わってしまいそうで。あの指が硬く
てうまく弾けない感覚が怖い。思ったとおりに曲を演奏できないの
はピアニストの最大の屈辱であり、ストレスになる。これを植えつ
けられるトラウマは実際に体験してみないと感じられないものがあ
る。
﹁逃げないの?﹂
︱︱︱逃げたくても逃げられねぇよ。
﹁弾くか逃げるか。どちらかしかないわよ。﹂
︱︱︱うるさい。
﹁あなたが選択するまで私は帰らないわよ。﹂
︱︱︱もういい加減にしてくれ。
﹁どうするの。晃くん。﹂
︱︱︱弾かないに決まってるだろ。
﹁どうするの。清水くん。﹂
37
︱︱︱弾かないに⋮⋮決まってるだろ⋮⋮
一方的にアリサの言葉を突きつけられる晃はさぞ滑稽に見えただ
ろう。それでも晃は何もいえなかった。怖いのだ。口を開くことで
何を言ってしまうのか。自分でもわからない。口の中も震え、何も
できずに立ち竦む。
アリサはこれ以上何も言わなかった。
︱︱︱あとはあなたが決めることよ。
そう言われているような沈黙は晃を徐々に押しつぶしていく。
沈黙が続く。
﹁私ね、﹂
それでも選択できないでいる晃に対し、とどめと言わんばかりの
言葉を投げかけるアリサ。
﹁私ね、あなたのピアノ、好きなのよ。﹂
身体中の震えが止まらない。
﹁私ね、あなたと一緒にピアノができる未来を想像してしまうの。
誰に聞かれるわけでもない。何かのコンサートというわけでもない。
一台のピアノに二人で向かい合って、私もあなたもちょっとはミス
をするんだけど、それでも最後まで演奏しきって笑う未来。あの時
ああすればよかったって、反省しあう。そんな未来。﹂
脳内でそれを想像するのは容易だった。
﹁素敵だと思わない?そんな未来。﹂
微笑ましい未来だとは思う。しかし、本当にそんな未来がくるわ
けがないと晃は思う。
38
アリサは晃と連弾することを望んだ。しかし、少し一緒にやって
みるとすぐに幻滅するだろう。ミスが多すぎて助け舟を出すのに疲
れてしまう。そうすると彼女は晃の元を離れて他の相方を探しにい
くだろう。もしくは一人でピアノを弾くことを貫くかもしれない。
これを微笑ましい未来だというのは無理がある。少なくともそんな
未来は絶対にいやだ。
︱︱︱あれ?
晃は違和感を持った。
別に変なことを考えているわけではない。アリサの誘導があった
とはいえ、自分の未来を想像してしまっている。そこに違和感はな
い。その違和感の正体とは何か。考えるとすぐにその答えを見つけ
られた。
なぜか、晃の考える未来には必ずピアノと彼女が存在するように
なっていたのだ。
仮にここでアリサの誘いを断ったとして、そうすると彼女とピア
ノと離れている未来が。アリサの誘いを受けたとしてピアノの腕を
アリサに見限られてしまい、別れてしまう未来。仮にアリサの誘い
を受けて、そして別れなかったとして、連弾をやるようになって、
アリサの言うように微笑ましい生活を送れる未来。全てにおいて彼
女とピアノが存在するのだ。
ただ雰囲気に呑まれてしまっているだけかもしれない。アリサが
自分とピアノと晃の未来を語っているから、それに流されてそれを
想像してしまっているのかもしれない。しかし、それを理解したう
えでも他の未来を考えるなんてできなくなっている。仮にピアノも
アリサも関係のないサラリーマンになったとして、ずっとピアノと
アリサのことが心残りでずっと引きずっている未来を想像してしま
う。
39
⋮⋮⋮なんで
自分の腕に絶望しながらもそんな未来を想像してしまっている。
今のオレがこれなのに。
想像の世界と現実の世界。これには大きな差が生じてしまってい
る。それを自覚して絶望したのに、それなのに自分はまた想像の世
界に縋ろうとしている。惨めだ。情けない。さっさと現実の世界に
戻って来い。ピアノなんてやっていても何が残るんだ。何も残らな
い。
わからなくなってきた。本当に自分はピアノが嫌いなのかどうか。
﹁考えすぎじゃないかしら。﹂
えっ。
アリサは唐突に言う。
﹁単純でいいのよ。出す答えは。﹂
何を
﹁ピアノが好きか嫌いか。﹂
二択を迫られ、晃は迷ってしまった。
昨日までの自分だったら﹃嫌いだ﹄と即答できただろう。しかし
今の自分はどうだ。さっき本当に自分はピアノが嫌いなのかなんて
考えいたんだ。
40
身体中の震えが止まらない。
嫌いじゃないのかもしれない。しかし、彼にはトラウマがある。
指が固まり、思うように弾けなくなるあの感覚。あれだけは克服で
きる気がしない。
不意にアリサは手を前に出した。晃の手をそっと握り、誘導する
ようにピアノの前に立たせる。
今の晃の目の前にはアリサではなく、ピアノの鍵盤が存在した。
ポーン
ピアノを久しぶりに触ってみて、押してみたときのあのときの感
覚。あのときの興奮をまた思い出してしまった。
︱︱︱またあの感覚を味わってみたい。
自然と腕が前に伸びてしまった。鍵盤に指を立て、そして音を出
す。
ペダルは踏んでいないから綺麗な音を出せてはいないが、それで
もあの時感じた興奮が再び湧き出してきた。
﹁きらきら星、教えてあげようか?﹂
﹁⋮⋮⋮うん﹂
◆
41
夕日が空を紅く染め上げる。
アリサと一対一でピアノの練習をしていて気づかなかったが、音
楽室に篭って約一時間経っていた。そろそろ帰らないといけないと
いう理性が働いてしまい、ピアノの練習は中断した。
音楽室を跡にして、晃とアリサは家路に向かって歩き出していた。
﹁なかなかよかったじゃない。﹂
アリサはそういう。
﹁嘘付け。まだ前半もできてないのに。﹂
﹁筋はいいわよ。まさかたったの一時間であそこまでできるように
なってしまうなんて。私の見込み以上。﹂
この日のアリサとの会話はなかなか楽しかった。
心の中のトゲが取り除かれた分、心にゆとりができたのだ。
﹁晃くん。﹂
﹁何。﹂
アリサは前に駆け出して、晃の前に立ちふさがる。荷物を背中に
回し、満面の笑みを作って晃に言う。
﹁私と連弾、やる?﹂
晃は少し黙った後、こう答えた。
﹁どうしようかな。﹂
このときの晃はどんな顔をしていたのだろうか。
それはアリサにしかわからない。
42
?︵後書き︶
アリサの説得を受ける晃
アリサ﹁ピアノが上手い下手?そんなのより大切なものがあるでし
ょっ!バカ!﹂
←
晃﹁はっ﹂
←
アリサ﹁そんなこと考えるのならもう知らない!帰る!﹂
←
晃﹁うわぁぁん!待ってぇぇ!僕やるよぉぉ!﹂
←
アリサ﹁ちょろい﹂
という展開を考えていたんですが⋮
本編を書いてるとき自然と今の形になりました。
物語を考えるのって結構奥が深いですね。
43
?︵前書き︶
あれ、この話、どこにむかって進んでいるんだ⋮?
これを書いてる途中に考えてしまった俺はダメな作者かもしれない
⋮
44
?
﹁おはよう。晃くん。﹂
一年A組。これが清水晃とアリサ・フレッカーの教室である。
教室に入るなり、待ち伏せていたようにアリサが突如現れた。
朝の教室。それなりに早く登校すること習慣にしている晃だが、
それでもアリサの早さには敵わない。アリサが晃の後に登校してき
たことなどないくらいに彼女の朝は早い。
﹁待ち伏せてたのか。﹂
﹁おはよう。晃くん。﹂
晃が朝一の会話をしようと言葉を発するが、その相手は朝の挨拶
を繰り返してきた。気のせいかとも思ったが、そうでもなさそうだ。
﹁おはよう。晃くん。﹂
﹁何回言うんだよ。﹂
﹁おはようは?晃くん。﹂
そう言われて気づいた。晃は挨拶をしていない。
﹁あぁ、ごめん。おはよう。﹂
個人に対しておはようなんて言ったのは久しぶりかもしれない。
ピアノを辞めてから人と話すことを拒んでいた晃は、中学を卒業す
るころにはメールで情報を交換をするだけの知り合いがいただけで、
その知り合いは主に他の人とつるんでいた。
晃がそう言うと、アリサは満足した顔を見せて、黒板の前にある
教壇に手をついて言う。
﹁窓からグラウンドを見てたんだけど、あなたが登校するのが見え
たから。来るまで待ち伏せてた。﹂
﹁どんだけ目がいいんだよ。﹂
晃の教室からグラウンド、強いては校門までの距離は5メートル
を超える。そこを晃を見間違えたり見逃したりせずに特定した。と
45
いうのはかなり目がよくないとできない芸当だ。
﹁いつも早いね。﹂
﹁私は今日は五時起きよ。﹂
﹁五時!?早っ﹂
思わず今までに出したことのない声で驚愕を顕にする。晃がここ
まで大きな声を上げられるとは周囲の誰も思ってもいなかったこと
らしく、その瞬間、同じく朝早いクラスメイトから注目を浴びてし
まう。
さすがにクラスメイトに注目されるのは避けておきたいので、晃
は身を縮こまって言う。
﹁五時って、何してんの。﹂
﹁ピアノ﹂
どんだけピアノバカなんだこの女は。彼女のピアノバカぶりには
関心や憧れを通り越して呆れるほどだった。さすがにピアノをやる
ようになった晃でも、ピアノのための五時起きはゴメンだ。
﹁そんな早く起きて何を引いてんの。﹂
﹁五時起きは今日だけよ。何をしてたかって言うと、土日に考えて
おいたあなたの練習メニューを纏めてたかしら。﹂
﹁は?﹂
練習メニュー?
﹁ちょっと待て。今それを組んでも意味ないだろ。俺んちにピアノ
はないし、学校のピアノは金曜日しか借りられないぞ。﹂
あの日の出来事から土日を挟んで三日が経った。その間にずっと
練習メニューを考えていたのならどれだけオレに集中してるんだと
突っ込みたいところ。
今日は月曜日。放課後に残っても吹奏楽部が音楽室を占拠してい
て、一般生徒の晃やアリサが入れるわけが無い︵もっとも、人脈の
多いアリサなら入れなくもないだろうが︶。晃が自宅に帰ったとこ
ろで、家にはピアノもキーボードもない。
つまり晃には練習する機会が極端に少ないのだ。
46
﹁なら私の家に来ればいいじゃない。﹂
アリサは﹃何を言ってるの﹄と問いかけるような顔をして言う。
﹁いや、何言ってんの。﹂
﹁だから、私の家にピアノはあるし、その練習に来ればと言ってる
のよ。それが嫌ならどこかスタジオを借りればいいんだけど、それ
には一回一回お金を払わなきゃいけないでしょ。だから私の家に来
るのが一番いいでしょ。﹂
言ってることは正しいのだが、彼女には警戒心というものがない。
自分の家に異性を誘うのはそれなりに抵抗があるものだと晃は思う。
あまり女性との交流が多かったわけではないからわからないが、特
に女性がその気が多いイメージを持っている。晃など同性であって
も家に招くのはゴメンだ。
﹁お前は嫌じゃないのかよ。﹂
オレだったら嫌だけどね。そう言葉に孕んで言う。
率直に理由を言わずに察ひてもらえないかもいう期待も兼ねてそ
う聞くのだが、アリサの顔を見ると、彼女はそれがわかってない。
﹁なんで嫌なの?﹂
晃なりの気遣いを難なく打ち払うアリサ。あの時は晃の心情をこ
とごとく読んで突き立てていたくせに、今はまるで別の人間を見せ
られているような鈍さだ。
この質問に回答するのは容易だが、それをしてしまうと少し意識
してしまう。
﹁いや、だから⋮⋮﹂
﹁ん?﹂
訳がわからないよというように首を傾げるアリサ。少しイラつき
を感じてきた晃は気を遣うのをやめた。
﹁オレ男、お前女。おk?﹂
何故かカタコトなうえ、早口になったが、言いたいことを言えた
という達成感を感じざるをえない。これで彼女も異性を感じるに違
いない。
47
しかし、
﹁ん?﹂
何を言ってるの。と言うように頭を傾げる。
イラつきを頂点に達しようとしていた。
今の晃の気持ちをストレートに伝えてしまうと、彼女は﹃この人
は私に気があるのかしら﹄と勘違いされかねない。確かに気がない
と言えば嘘になってしまうが、恋愛感情ではない。と思う。それを
相手に知られるのは相当恥ずかしい。
﹁お前わざとやってない?﹂
﹁え?なにが?﹂
こいつは天才だと思った。
◆
結局、放課後にアリサの家に行くことになった。
朝のホームルームの時間になるまで少し会話をしていた晃とアリ
サ。登校してきた生徒に見せつけるように教壇で話を来ていたため、
変な噂が立つようになった。
﹃アリサさんが一年A組の男子と付き合ってるらしい﹄
そんなこと知る由もない晃は授業中、問題の回答を教員から指定
された。問題の回答のために立ち上がると、クラス中から注目を集
めた。いつもなら教科書や黒板を見ながら晃の回答を聞き流してい
たのだが、今回は気持ち悪いくらい視線が晃に集中した。
それ以外にも、小休憩の時間に晃は用を足しに立ち上がると、そ
れだけで注目を浴びた。さらに廊下を歩くと普段は気にもされない
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晃の存在は、すれ違う度に振り向かれた。
﹁なんなんだ。これは。﹂
ここまで一日で視線を集めたのは初めてだった。いや、久しぶり
と言った方がいいのかもしれない。コンクールで演奏してる時の視
線の雨はこれの比ではない。
それでもピアノ演奏ではない日常で注目され続けるのは相当なス
トレスだった。
昼休み、そんなストレスを抱えたまま食事をする気にもなれず、
朝に買ったパンを机に出したまま手付かずになっている。
そんな晃の様子など知る由もないアリサは、昼休みのチャイムが
なると同時にランチボックスを手に立ち上がった。そのランチボッ
クスはいつも持っているのより一回り大きい。晃の席の前まで行く
と、﹁ごめんね﹂と席を譲ってくれた男子生徒に会釈して着席する。
﹁そういえばあなたってパンばっかり食べてるよね。好きなの?﹂
﹁別に。パンが一番買いやすいだけ。﹂
アリサの問いかけにそっけなく返す晃。瞬間に周り殺気を感じて
しまう。
﹁⋮⋮なんだ、これ⋮﹂
﹁何が?﹂
何も知らない彼女の顔を見て羨ましく思う。
﹁なんか殺気みたいなのを感じる﹂
﹁殺気?﹂
アリサはそう言われて周りを見回す。今になると晃が視線を向け
てもこちらをガン見してくる生徒が、アリサに視線を向けられると、
目をそらし、まるで何事もなかったかのような素振りで会話をする
ふりをしている。
﹁大丈夫よ。殺気なんて放つ人なんてこのクラスにはいないわ。あ
なた、漫画の読みすぎじゃない?﹂
﹁だいしょばないんだよなぁ⋮﹂
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そう言って晃は顔を伏せる。
﹁なら私が大丈夫にしてあげよっか?﹂
﹃は?﹄と言うように顔を見ると、ランチボックスを包んだ布を
広げようとしていた手を離し、そのまま身を乗り出した。そうして
手を前に伸ばし、晃の頭をなで始めた。。
﹁えっと⋮何してんの⋮﹂
﹁頭を撫でてる﹂
何気なく後方から殺気を感じる。
﹁そうじゃないよ。なんで撫でてるのかって聞いてんの。﹂
﹁可愛いから?﹂
疑問符にされても⋮
晃は力なく、なすがままになっている。アリサに向かってやめろ
と言ってもやめないのは目に見えてるし、力で振りはらえば何か別
のところで問題が生じそうだ。
﹁このまま持って帰りたい気分。﹂
﹁いや、怖いよ。﹂
﹁キスもしてあげようか?今なら出来そう﹂
﹁やめてくれ⋮﹂
なすがままとは言ってもやはり節度を守っておきたい晃は、そう
言って頭を伏せる。
﹁はい、やめた。﹂
不意にアリサは頭を撫でるのをやめた。頭にあったそれがぬくな
ってしまって安心する晃だが、その前に喪失感を感じてしまい、顔
を上げる。
﹁何、もっとやってほしいの?﹂
﹁は!?いいよ﹂
またアリサの顔を見るとからかわれそうで不安だから再び顔を伏
せる。先ほどは食欲を感じずに放置していた袋のパンを取り出し、
開封した。
﹁あんもう。ホントかわいい。﹂
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そう言って再び頭を撫でるアリサ。
﹁からかってるよね。﹂
﹁うん。﹂
アリサは屈託のない笑顔を晃に見せる。
﹁それに、私と何か雑談でもしてれば自然と気にならなくなるわよ。
﹂
﹁そういうものかね。﹂
そう言いながらアリサの手を振り解き、パンをポリ袋から取り出
し、開封した。
﹁ねぇ、さっきの続き。あなた、パン好きなの。﹂
﹁いや、だからパンが買いやすいだけだって。好きかどうかって聞
かれると⋮そうだな。食べやすいから好きかな。﹂
﹁よろしい。﹂
それを聞いてアリサは少し安堵したようだった。
手にしている布に包まれているランチボックスを広げると、大き
なランチボックスの上に小さなランチボックスが重なっていた。ア
リサは大きいほうのランチボックスの蓋を開けた。そこには前にア
リサが食べていたサンドイッチより一回り大きい具材を食パンでは
さんでいた。今回はそれだけではなく、隅のほうにから揚げやポテ
トサラダがそれぞれ小さなタッパーに入ったままランチボックスの
中に入っていた。
﹁そんなに食べるの?アリサ。﹂
晃はその大きなボックスより小さなボックスのほうに向けていた。
これを食べるのならわからなくもないが、それに付け加えて小さな
ボックスに入った何かのほうが気になったからだ。
﹁私じゃないわよ。あなたがよ。﹂
そう言いながら大きいほうのランチボックスを晃の目の前に差し
出すアリサ。
﹁え、オレが?﹂
﹁うん。﹂
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耳を疑って確認を取るが、その言葉に間違いはなかった。
大きいランチボックスとは言うが、一般に言うコンビニ弁当より
は一回り小さく、仮に自分が買ってきたパンと一緒に食べたとして
も食べきるのは容易な量だ。問題なのは量ではなく、アリサが晃に
弁当を持ってきたという点だった。
仮に晃とアリサが恋人ならこういう展開になるのは納得がいくが、
晃とアリサはつい最近話すようになったばかりの﹃友達﹄程度の関
係だ。アリサが言うように、人間関係に優劣をつけるのはおかしな
話だが、それでも﹃友達﹄にわざわざ弁当を持っていくのもどうか
という話にもなっていく。
﹁なんでオレに?﹂
﹁相棒にお弁当を作ってきて悪い?﹂
相棒。確かに晃がアリサと連弾をすることに了承をすればそう呼
ばれるのに違和感はない。だが⋮⋮
﹁まだオレ、連弾をやるなんて言ってないけど。﹂
﹁え、言ってなかったっけ?﹂
﹁言ってないよ。﹂
あの時は連弾をやるかという問いかけに、あえて言葉を濁した。
あれはアリサをからかうためにやったのではなく、今の自分の実力
ではアリサにはつりあわないと思ったからだ。アリサに自分の腕が
劣るとは思ってるわけではない︵実際には思ってはいるのだが、そ
れでもそれが全てではないと思うようにはなっている︶。それでも
自分で納得できるような実力になるまでは組むとはいえないのだ。
﹁じゃあ未来の相棒に対してのお弁当じゃだめ?﹂
﹁⋮それにこれ、作ってきたって⋮⋮﹂
それつまり⋮⋮⋮⋮
﹁誰が?﹂
﹁私が。﹂
﹁手作り?﹂
﹁うん。﹂
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正直こんな展開になるとは思っていなかった。
晃とアリサの関係は﹃ピアノ﹄の連弾をやる“かも”しれないと
いう中であって、男女の関係にはなりえない関係だと思っていた。
アリサはかわいい。それは誰に聞かれても否定できない事実だ。
そんな彼女に言い寄る男はいくらでもいるだろう。彼女曰く、人間
関係に優劣をつけるのはおかしいらしいが、どうしても優劣はつく
はずだ。人間以前に、生き物としての優劣があるのは当たり前なの
だ。そんな言い寄る男を差し置いて自分なんかが男女の関係になる
などありえない話なのだ。一般生徒に聞いても、晃とアリサはどう
思うかというアンケートをやったとしても、﹃アリサと一年A組の
男子﹄という回答しか出てこないだろう。
﹁オレが食べてもいいのかよ。手作りの⋮⋮﹂
﹁ダメなら持ってこないけど。﹂
それもそうだ。
なら、これは本当にアリサが晃のために作ってきた弁当というこ
となのだろうか。
﹁なに、サンドイッチは嫌いだった?なら明日からは違うものを作
ってくるけど⋮﹂
そう言ってアリサは主人にしかられた子犬のようにうつむき、大
きいランチボックスの蓋に手を掛けた。
﹁待て!﹂
咄嗟に晃は犬をしつけるようにそういう。
﹁明日から・・・って﹂
﹁え、うん。明日から。﹂
﹁ちょっと待て。なんでわざわざ弁当を作ってこようとするんだ。﹂
普通、女が男に対して弁当を作るというのは一種の愛情表現だ。
仮に相棒だからといって毎日弁当を作ってくるのはそれなりの苦痛
だろうし、何よりも、彼女のピアノをやる時間を削ってしまう。
﹁どうしてだと思う?﹂
その答えをアリサは言おうとしない。
53
﹁なんで聞くんだよ。﹂
あきれてそう聞くと、アリサは答える。
﹁答えたくないから︱︱︱﹂
前にもそんな会話をしたような気がする。
◆
ある教室。この学校の教室の扉は横にスライドする型が多く、職
員室や校長室もそれに含まれる。しかし、ここの扉だけが違う。取
っ手はユニバーサルデザインを取り入れたもので細長く、扉は外に
向かって引っ張るタイプ。言うなら“普通の扉”だ。扉を開くと一
番に目につくのは大きなガラステーブルと紅いソファ。その奥にあ
るのは成人男性の身長の二倍はあるであろう高さの窓に掛かった大
きく紅いカーテン。壁を見渡すと棚が置いてあり、その中にはなに
が入っているのか想像がつかない。棚の上には当学校の成果を上げ
る表彰やトロフィー、さらには部活動で勝ち取ったトロフィーも飾
られている。そこから天井を見渡すと、大会に優勝した生徒の集合
写真が数多く飾られている。その中の窓際にある大きなデスク。こ
の部屋においてあるものはどこか高級感を感じさせるものが多く存
在するが、このデスクだけは格が違う。一般生徒が見れば、触るこ
とすら恐れ多いと感じさせるほどの存在力を放つそこに座るある人
物。校長よりも上の立場の人物が居座るそこの部屋は﹃応接室﹄。
その人物は一人で書類の整理をしている。
﹁聞きましたか。﹂
その人物に対してソファーに座る見た目スーツ姿の40代前後の
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男性が問いかける。
﹁あなたの娘、交際しているとの噂が建っているのですが。﹂
男性はにやけながらそういう。それに対してデスクで作業を続け
る人物が思い出すように口を開く。
﹁そういえばあの娘はいつもより多い量の弁当を作っていたな。﹂
﹁大丈夫なんですかね。あの話、順調に進められるんですか。﹂
ソファーに座る男性は気持ち悪いくらい顔を引きつらせてにやけ
た。何もしなくても目立つしわがにやけることで異常なほどの存在
力を放つ。
﹁ここは学校です。その話は今夜、あいつも含めてやりましょう。﹂
﹁そうですね、忘れてましたよ。ここが学校であることを。﹂
くっくっくと鼻で笑う男性。
﹁神聖な学び場です。ここはその話は遠慮していただこう。﹂
デスクで作業をしていた男性は、それを中断してカーテンのかか
る窓に身体を向ける。そっとカーテンに手を掛けることで太陽の光
が部屋に侵入してくる。しかし、その光は蛍光灯の光で打ち消され
ている。
﹁夜に、あいつを含めてお話しましょう。﹂
55
?
学校から徒歩で30分。大きな住宅街を抜けて畑や田んぼなどで
緑が深くなるところに、ずば抜けて存在力を放つ広場がある。一般
市民も入れるその広場は、主に子供連れの主婦が集まる広場になっ
ている。子供の遊具もあり、学校の遠足でここに来ることもあるら
しい。広場の奥に進むと人の3倍ほどの高さを誇る塀が設置されて
いて、塀を伝って歩くと、そこには塀の中に入るための門が設置さ
れている。門の近くには﹃Flecker﹄という単語が筆者体の
文字が石版に刻まれている。音は﹃フレッカー﹄。この門の先には
彼女、アリス・フレッカーの家があるということだ。
﹁なんて⋮⋮広さだよ⋮⋮﹂
屋敷の前にたつ晃は思わず驚愕の声を発してしまう。
風貌から見てどこかのお嬢様のような気はしていたが、ここまで
大きな屋敷に住んでいるとは思わなかった。せいぜい住宅街に目立
つ大きな建物に住んでいるのかと思っていたのだが、その想像と現
実のアリサの家は全く一致していない。
﹁そうよね。無駄な広さよね。﹂
その晃の言葉に同意するような言葉を発するアリサ。晃からすれ
ばここは自分の家なのにとあきれてしまう。それをアリサに言うつ
もりで口を開く晃だが、その前にアリサは言う。
﹁人の住む広さじゃないよ。﹂
確かに人の住むには無駄なスペースが多い。しかし、彼女の言葉
は過言なのではないのかと思う。人の住む広さじゃないという彼女
の言葉には何かの因縁すら感じるのだが、その正体を晃は知る由も
ない。まるで、ここに住んでるのは人間ではなく、化物であるかの
ような言い方をするアリサを晃は正直気持ち悪かった。
アリサは門の隣にある小さなインターホンのボタンを押して﹃ア
リサです﹄と名乗ると、門は自動的に内側に開いた。その光景を目
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の当たりにして晃はアリサが本当にお嬢様であることを納得する。
アリサに案内されるがままに門の中に入ると、その先は門の外から
は想像できない大きなお屋敷があった。庭は確かに広いが、人の住
む広さじゃないというほど無駄な広さだとは思えないものだった。
学校のグラウンドの広さと同じくらいだと言えば想像できるだろう
か。その先にあるのは西洋風の建物で、三階くらいの建物だ。学校
にするには少し狭いくらいの建物は、全てアリサ・フレッカーとい
う少女の住む家なのだ。
﹁今は誰もいないから、気にせずにくつろいで。﹂
﹁あれ、インターホンで話していた人は?﹂
﹁あぁ、あれは本家から使用人がカメラとスピーカーを使って私だ
と認識したことで遠隔操作で門を開いたのよ。﹂
﹁え?本家?﹂
晃は本家という単語に違和感を持って聞き返すが、アリサはその
答えを渋った。しかし、その問いかけには偽りのない答えを返す。
﹁私の本当の家は別にあるのよ。﹂
﹁別って?﹂
﹁⋮⋮⋮なんなんでしょうね﹂
自分のことじゃないか。と言おうとした晃だが、すぐに思い留ま
った。アリサが言葉を濁すときは、その問いかけに答えたくないと
きだということをここ数日で晃もわかってきた。アリサにも色々複
雑な事情があるのだろうと無理矢理納得するしかなかった。そこま
で知りたい事情なわけでもない。
その先、晃はアリサの家に対して口を出すことはなくなった。あ
えてその話題を出さないようにして雑談をしていた。案内された部
屋に入ると、そこは大きなグランドピアノが置かれた部屋で、円盤
の机があり、そこには二つ椅子が置かれていた。
﹁お茶を淹れてくるわ。何がいい。﹂
﹁何がって、何があるんだよ。﹂
﹁何でもあるわよ。コーラジンジャー、メロンソーダ、アメリカン
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コーヒーにエスプレッソコーヒー、ブレンドコーヒー、緑茶にウー
ロン茶、ジャスミン茶に⋮⋮﹂
﹁コーヒー!コーヒーでいいから!﹂
﹁アメリカン?エスプレッソ?それとも﹂
﹁どっちでもいい。﹂
飲み物の選択肢を全て言わせていたらキリがなさそうだと判断し
た晃は適当な選択肢をとってアリサに告げる。彼女はうれしそうに
笑顔を見せて部屋を去る。
彼女の帰還を待つ間、晃は部屋を見渡していた。ピアノの譜面台
には楽譜が置かれていて、ピアノの周りには紙が散乱していた。見
てみると、それは全部楽譜だった。譜面台に置かれた楽譜を見ると、
ごく普通の簡単なピアノ連弾の楽譜がある。
﹁⋮⋮あれ?﹂
どこかで見たことがあるような気がする音符の並びだが、何の曲
で、いつ、どこで弾いたのかが思い出せない。子供向けの連弾曲で、
タイトルは﹃子犬がはしって、でんぐりでんぐり﹄。またどこかで
みたようなタイトルで、晃は頭をかしげる。しかし思い出せない。
その楽譜を譜面台に戻して今度は地べたに転がっている紙を手に
取る。ほとんどが楽譜だが、楽譜ではなく、ただのメモとして使用
した形跡のある紙や、手で書かれた音符が﹃×﹄で書かれた楽譜が
ある。全部アリサが書いたものなのだろう。楽譜のほうは五線譜ま
で手書きになっているほど手間が掛かっている。色々見て回ると、
これが何のメモかがわかってしまう。上から下まで文字と音符でぎ
っしり詰められていた。
﹃晃くんの練習メモ﹄
﹁全部オレの練習メニューを研究したもの⋮なのか⋮﹂
﹁うん。そうだよ。﹂
突然声をかけられて心臓が破裂しそうになった。そこにはすでに
コーヒーを入れ終えたアリサが立っていた。テーブルにコーヒーを
二杯入れて晃を後ろから伺っていたのだろう。
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﹁びっくりしたなぁ。戻ってたのか。﹂
﹁うん。面白そうだったから見てた。﹂
相変わらずアリサの考えてることが読めない。普通は自分の部屋
の捜索をされていて面白いと思うだろうか。むしろ変なところを触
らないでほしいと思うのが妥当なところだと思うのだが。
﹁実はこの楽譜を見ていたときからいたんだけど、﹂
そう言ってとった楽譜は﹃子犬がはしって、でんぐりでんぐり﹄
だった。
﹁知ってるの。この曲。﹂
楽譜を手にして晃の顔を見るアリサ。
﹁いや、どこかで見たことあるなって思ってさ。思い出せないんだ
けど。﹂
﹁そう。⋮⋮⋮そっか﹂
楽譜を見ながら微笑むそのアリサの姿はとても魅力的だった。
◆
練習を始めて三十分。晃はアリサに付きっ切りで色々アドバイス
を受けるものだと思っていた。しかし、現実は違った。ある楽譜の
冊子を渡され、﹃全部弾いて。﹄と言われただけで、それ以上のこ
とは言われない。
この冊子は晃も見覚えがある。小学生のころに通っていたピアノ
教室。そこで配布されていたものがこの冊子だ。教室に通っていた
ころはこの冊子を教科書として扱い、本屋に売っている五線譜の音
符が書ける本があるのだが、それをノートとして使用していた。こ
の冊子は最初にピアノの基本的な弾き方や鍵盤の音の種類、指はど
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う置くかなどがこまごまと書かれている。楽譜を見てみると、音符
の上に1から5の数字が書かれている。これは指の種類を書かれて
いて、1が親指。2が人差し指で、3が中指。4が薬指で5が小指
という配分で、このとおりに指を配置して弾けば無理のない弾き方
ができるというわけだ。本当に初心者向けの楽譜で、これを差し出
されたときは懐かしいと思うと同時に﹃舐めているのか﹄と遺憾に
思ってしまった。
それからアリサは晃を残して部屋を退出した。それ以来彼女は戻
ってこず、晃一人で冊子一冊分の楽譜を引いていた。それなりに分
厚い本で、かなり多く楽譜が備わっている。実際、三十分たった今
でも全部は弾ききれていない。
最初は﹃なにこれ簡単ジャン﹄と笑いながらやっていたが、先に
進めば進むほどこの冊子を舐めていたことが判明する。四分音符の
並びだけで構成された楽譜から八分音符だけで構成された楽譜、し
ばらく進むと四分音符と八分音符がそれぞれ構成されている楽譜。
進めば十六分音符や四部休符、八部休符なんかも出てきて、中盤に
差し掛かるとそれぞれが複雑に構成されるようになってきた。正直
ここまではスムーズに弾けていたものの、弾きながら﹃小学生のこ
ろのオレはこんなのを弾いていたんだな。﹄なんてことを思い始め
ていて、改めて弾いてみて驚いてしまった。今弾いている自分がと
ころどころ引っかかりそうになりながらも、それなりにスムーズに
弾けていて。後半に差し掛かるとついに十六分音符だけで構成され
た楽譜が登場。これは指が痛くなってくるほど早いテンポで鍵盤を
指で走らせなければいけない。その上、五線譜を飛び出して高音を
出させる音符も出始め、一端止まらないとどの音なのかが判明しな
いほどだった。リハビリも兼ねての楽譜だったはずのそれは、かな
りの難易度がではじめていた。
﹁やばい、この冊子舐めてた⋮﹂
弾きながら独り言のようにつぶやく晃。やっと後半に入れたと達
成感があるのと、﹃まだ続くのか﹄という背徳感が同時に襲い掛か
60
る。
﹁疲れた?﹂
不意に後ろからアリサの声が耳に響く。それに驚く晃だったが、
同時に正直この流れは晃も慣れ始めていた。
﹁アリサって後ろから驚かせるの好きだよな。﹂
﹁そのつもりはないけど、驚いた顔は面白いわよ。﹂
特にあなたのは。とアリサは付け足して言う。
﹁アリサってS気ある?﹂
﹁どうでしょうね。休憩する?﹂
そう言いながらアリサは丸いテーブルの上に視線を誘導する。そ
こには皿の上に盛られたクッキーの山と、ティーカップの中から湯
気を出しながら待ち構える紅茶が置かれていた。それを見て晃は正
直、﹃上品な休憩タイムだな﹄と思い、自分には性に合わない休憩
だからと断るつもりでいた。しかし、せっかく入れてもらった紅茶
を無碍にするのはという躊躇いも出てしまい、休憩に入ることにし
た。
ずっと向き合っていたピアノから離れてテーブルに向かっている
椅子に座り込む。まるで肺に溜まっていた空気を吐き出すように力
を抜く晃。それに続いてアリサも晃と向かい合って座る。
﹁どう。結構難しいでしょ。﹂
﹁あぁ、小学生のオレはこんなのを弾いていたんだな。舐めてたよ。
﹂
今の自分がどこまでその頃の自分に追いつけるか。今の晃の頭に
はこのことだけが気がかりだった。昔の自分はこれを呼吸をするよ
うに弾いていた。それに対して今の自分はこれを弾くのに苦労して
いる。
﹁そんなに気負うことはないわよ。﹂
アリサはその心を見透かすように言う。
﹁あなたのペースでいいの。昔のあなたのじゃなくて、今のあなた
の、ね。﹂
61
そう言って晃の頭を撫でるアリサ。撫でられながら晃は疑問に思
った。
﹁どうしてオレがこれを弾いてたことがあるなんて知ってるんだ。﹂
﹁さぁね、どうなんでしょうか。﹂
またそれか。この返答には予想がついていたが、正直をれは遺憾
だった。確かに絶対に教えないといけないものではないが、ここま
であからさまな隠し事をされるのはかなり不快なものだ。
﹁じゃあもう一つ聞いていいか。﹂
紅茶の入ったティーカップを手にしながら晃の言葉を待つアリサ。
今度は何を聞かれるのか、と待ち構えるようだ。
﹁お前は連弾をしたことはあるのか?﹂
﹁あるわよ。﹂
これには即答してもらえた。全てにおいて隠し事で通されるのか
と思って不安に思っていたのだが、それに対して晃は安心感が現れ
始めた。
﹁そのときどんな感じだった。﹂
﹁⋮⋮⋮どうでしょうね。﹂
言いながら紅茶を口にする。またか。と晃は安心感を無碍にされ
た気分だった。
﹁じゃあ、君は⋮﹂
またごまかされるのではないかと質問するのにためらう晃。しか
し、これはどうしても聞いておかないと気がすまない。
﹁なんでそこまで連弾にこだわるんだ。﹂
今回始めて紅茶を口に含む晃。予想以上にこの紅茶の美味だった
ことに少々驚いたが、そんなことに気を向けている余裕はない。
色々隠し事をされるのを不快に感じている晃のことを見透かして
いるかのように、アリサは答えるのに躊躇った。彼女もまた、隠し
事をするのは不快に感じているのだろうかと晃は思う。何度も口を
開いて答えようとするが、何も言わずに口を閉じる。また﹃どうで
しょうね﹄と言われるのかと思った。
62
﹁⋮⋮連弾を始めてしたとき、すごく楽しかった。だから、連弾を
してみたい。﹂
躊躇ったにしてはずいぶんと普通の回答だなと晃は思う。
﹁もう一つ。﹂
﹁質問多くない。晃くん。﹂
﹁だって気になるんだもん。﹂
そう言いながら用意されたクッキーを手にしながら晃は言う。
アリサは質問攻めに会うのが好きじゃないようだ。そう察する晃
はこれ以上質問するのはやめておこうと、そう決めたのだった。
◆
ピアノの練習は夜の8時まで行われた。それまで夢中でピアノに
向き合っていた晃とアリサ。時間のことを忘れてピアノに励んでい
た彼らはこの時間になって驚愕を隠せないでいた。
﹁ごめん、晃くん。お母さん、心配してるんじゃないかな。﹂
﹁いや、それはない。﹂
家族の懸念を示すアリサだったが、その否定が即答されてしまっ
た。何をそう確信できるのかと気になるところだが、自分の家に関
することをあれ以上聞いてこないでいてくれる晃の恩義に報いたい
とこのとき思っていた。
念のためと言わんばかりに、晃はカバンから携帯電話を取り出す。
確認するのは着信履歴やメールの有無。これを見て晃のその否定に
確信をつけられた。
﹁たぶん、家に帰らなくても連絡は来ないだろうね。﹂
63
そう言いながら帰り支度を始める晃。そんな彼に対してある提案
を思いつくアリサ。
﹁ねぇ、だったらさ⋮⋮﹂
顔を伏せながらアリサは言う。
﹁今夜、家に泊らない?﹂
雌が雄を誘うように、アリサも晃を誘っていた。頬を赤く染らせ
ながら晃の返答を待つ。そんな彼女の姿は新鮮だった。晃が見てき
たのはいつも余裕な振る舞いを見せる完璧超人だったはずの彼女は、
今は完全な小動物。こんな彼女に興味を持たないかといえばそうで
もなく、それでも晃にも理性がある。女の子の家に男が泊まるなど
という所業を行うわけにはいかないという気持ちもあるが、前述の
通り、晃は今のアリサに興味を持っている。頭の中で葛藤をさせな
がら返答を詮索していた。
そうしていると、彼女は不意に立ち上がり、言う。
﹁ゴメン。嫌かな。忘れて。﹂
そうして今までに見たことのない悲しい顔で顔を伏せるアリサ。
まるでこれから死の試練が待っているかのような緊張感を孕んだ雰
囲気を晃は耐えきれなかった。
︱︱︱このままのアリサを放っておきたくはない。
そう衝動されてしまった。
﹁まぁ、あれだ。﹂
晃が口を開くと、アリサは何かに縋るように顔を上げる。
﹁ピアノの練習、意外と楽しかった。だから、まだ終わりたくない。
練習するために泊まるなら⋮合宿ってことで⋮⋮なら泊まりたい⋮
⋮とも思わなくもない。﹂
何を言ってるんだ自分は。ツンデレかよ。そう心の中で突っ込む
晃。
その言葉を聞くと、先程までは悲しそうに俯いていた彼女の顔は、
次第に希望に満ち溢れたように明るくなる。
﹁泊まってくれるの⋮?﹂
64
何かに縋るようにアリサは問いかける。
﹁あぁ、まぁな。﹂
晃の意思表示を明確にしたアリサは瞼に薄く涙を溜めて、頬を釣
り上げていた。瞬間、嬉しさのあまり晃に飛びかかる。
﹁ちょっ⋮、おまっ⋮﹂
いきなり抱きついてきたアリサに対して動揺を見せるが、アリサ
は気にしない。
﹁ありがとう。今夜は一緒だね。﹂
晃は頬を赤らめて目を逸らした。
◆
午後九時。ある門の前で待ち構える四十代前後の男。以前、学校
の応接室で対話をしていたものの一人だ。
﹁遅いな。﹂
そこで待機して約十五分になる。そこで対談をする約束だったあ
る男はまだ来ていない。
﹁まぁ、色々仕事があるんでしょ。そう急かさなくても⋮﹂
四十代前後の男を諌めるのは二十代前半の、学生時代のむじゃき
さがまだ抜け切れていない若い男だ。男は顔が整っていて、髪の毛
は輝くような金色。瞳は青に近い灰色の日本人とイギリス人のハー
フ。モデルの勧誘を受けてそれを断ったくらいだ。そのうえかなり
の高身長で180くらいはあるだろう。その堂々たるルックスを持
ち合わせながら、大人しめの声を出す。その男もまた、四十代前後
の男と一緒にその場で十五分も待たされていた。
65
﹁お前は欲というものが著しく欠けている。もっと自分の欲するも
のに素直になりなさい。﹂
そう若い男に叱咤する中年男性。この状況から見てわかるように、
中年男性は若い男よりも上の立場にいる。
﹁俺はそれで人の迷惑になるようなことはしたくないな。﹂
﹁お前はそれだから女ができないんだ。いい顔をしてるのにだ。﹂
﹁それを言われたらなぁ。﹂
返答に苦難する若い男は頭を掻きながら苦笑いする。そう雑談し
ている中年男性と若い男の下に、猛一人の人間が歩み寄る。
﹁お待たせしました。橘さん。﹂
﹁本当だよ。フレッカーさん。﹂
このやりとりが、晃とアリサのいる屋敷の前で行われていた。
66
?
﹁今日は泊まることになったから。え?うん。友達の。うん。いや、
違くて、うん。そう。高校でできたやつ。うん。﹂
家に帰らなくても連絡をしない親とはいえ、悪い親というわけで
はない。むしろよすぎる親だと晃は思う。母子家庭で、身を挺して
まで自分のために働いてくれている。しかし、その親も完璧という
わけではない。ある事情があるため、晃の親は必然的に子供を解放
的にしてしまう。ある事情というのは機会があれば話をしよう。
その親に対して何も言わなくても問題はないだろう。しかし、な
んの報告もなく外泊をし、しかも女の子と二人きりというのは何か
と背徳感のようなものを感じてしまう。さすがに正直に話してしま
うと怪しまれてしまうため、﹃高校でできた友達の家に泊まること
になった﹄という言い方で伝えてある。そうすれば中学のころの友
人に連絡が入ることもないだろう。
客室まで案内されたあと、アリサにそこで待たされている間に連
絡を済ませる。
外観から見て相当な広さをもつ屋敷だとは思っていたが、図書館
のように多くの書物が設置されている書斎。家中に張り巡らされた
スピーカー。それら全てに音声が行き届くように設置されている放
送室。まるで学校のような施設が多く設置されている。しかし、あ
くまでアリサの家。アリサの個人部屋もあり、客室、寝室、台所や
リビングだってある。しかし、この屋敷をアリサ一人で生活してい
ると聞いたとき、正直広すぎるとしか思えなかった。無駄な部屋が
多すぎる。まるで本家から隔離されているようなそんなイメージが
晃には沸いてしまった。
﹁お母さんに電話?﹂
客室にアリサが入ると同時に晃に話しかけるが、晃はまだ電話の
途中だった。
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﹁あ、うん。じゃ、切るね。﹂
﹁あ、ゴメン。まだ途中だったかしら。﹂
﹁いや大丈夫。もう終わったから。﹂
そう言いながら晃は懐に携帯をしまう。それを見たアリサは何か
を思いついたように手を叩き、言う。
﹁そういえばさ、そろそろ私にメールしてくれてもよくない?﹂
﹁え、何の話?﹂
不意にそういわれても、晃には覚えがない。アリサとメールアド
レスを交換した記憶がないため、メールするもなにもやりようがな
い。そう考えていたが、不意に思い出す。先日、メールアドレスの
書かれた手紙が晃の下に届けられた。恐らく、それがアリサのメー
ルアドレスなのだろう。しかし、それを見た後、晃はかばんのどこ
かにその紙を置いたのだが、どこにおいたのか、正直覚えていない。
﹁あ、ゴメン。忘れてた。もう一回教えてくれない?﹂
探すより再度聞くほうが手っ取り早いと思った晃は、遠慮のかけ
らのない態度でアリサにメールアドレスを聞く。それを聞いて全て
を察したようで、アリサは溜息をつきながら常に持ち歩いている小
さなかばんから携帯電話を取り出した。いわゆるガラケーというや
つで、今出回っているものより少し古めの機種だ。
﹁わかったわ。申し訳ないけど、私のケータイは赤外線がないから、
直接打ってもらう形になっちゃうけど、いいかしら。﹂
ずいぶんと古い型なんだなと思いながら晃は顔を縦に振る。晃は
自分のスマホで、自分のメールアドレスが表記されるページに進ん
でアリサの準備ができるまで待機する。しかし、アリサは携帯電話
を操作はしているがどこかおぼつかない。もしかして操作方法を知
らないのかと晃が思い始めた時には時すでに遅し。携帯電話と格闘
していたアリサの顔は晃の顔に向けられた。なぜか目には涙をため
てる。
﹁お願い⋮⋮教えて⋮⋮﹂
赤外線があれば一発なのに。とアリサの携帯電話の機種の古さに
68
呆れながら受け取る。本当に古い型の携帯電話で、晃が小学生のと
きに買ってもらった携帯電話とほぼ同じ画面で操作ができるように
なっている。
昔の携帯電話の操作方法を思い出しながら四苦八苦やったのち、
ようやくアリサのメールアドレスが記載されているページにたどり
着く。
晃は少し後悔していた。アリサからもらったメールアドレスの書
かれた紙を探していれば無駄な労力を避けられとのではないかと思
ったからだ。
アリサのメールアドレスを新規メールの宛先に手馴れた感じで入
力する晃。横から画面を覗き込んでいたアリサに、文字を打つ早さ
に感心されながらメールアドレスを打ち込み、送信する。︵どうで
もいいが画面を覗き込むアリサの顔が近くて意識してしまう。︶
そうして待っていると、アリサの携帯電話に着信があった。晃が
送信したメールで、本文に電話番号が記載されていた。
﹁電話番号も交換しとくか?﹂
﹁うん。むしろそっちのほうがよかったかも。﹂
アリサも晃に手間取らせていることに後ろめたさを感じているの
か、異常な口数の少なさを感じる。
本文に載せた電話番号にアリサの携帯電話で発信し、晃の携帯電
話で着信を待つ。着信が来たのち、すぐに通話を切る。
後はそれぞれメールアドレスと電話番号を電話帳に登録すること
で、アドレス交換は完了する。
そこでもう一度晃はなぜ赤外線のある携帯電話にしなかったんだ
と呆れてしまう。
﹁終わったよ。﹂
﹁⋮⋮ごめんなさい。ありがと﹂
そうして受け取った携帯電話。アリサは再びおぼつかない操作を
した後、自分のアドレス帳にたどり着く。そこに新しく登録された
﹃清水晃﹄の文字。
69
今まで数人、アドレスを登録しているが、これほど嬉々したこと
はない。ついにやけてしまう。
﹁そんなにオレとアドレス交換したのが嬉しいか?﹂
﹁うん。﹂
これほど素直なアリサは始めて見た気がする。
﹁ところでさ、なんであの時、手紙にはメアドを書いたの?﹂
﹁ん?﹂
﹁いや、初めて一緒に帰った日にさ、手紙くれたじゃん。あれさ、
メールアドレスしか書いてなかったけど、例えば電話番号とか、時
間指定で特定の場所を指定して書いとくとかさ、話がしたいならそ
っちのほうがよかったわけじゃん。でもなんでわざわざメールアド
レスを書くって回りくどいことしたのかなって。気になってさ。﹂
あの時はそこまで考えているとキリがないから思考停止した内容
だったが、今になって気になってしまう。別にどうしても知りたい
ことではなかったのだが。
それを口にしてからアリサは笑みを浮かべて答えた。
﹁どう思う?﹂
﹁またそれか⋮﹂
この回答にはもう慣れつつある。だからといって気持ちのいいも
のではないのはないのは変わらない。その言葉から彼女の本心を聞
きだすのは不可能だということもわかっている。この話題は中止に
して次の話をしなければ両者共に黙り込んでしまう。とはいえ、晃
には話題を作り出すことが苦手だ。そもそも人と接するのが苦手な
のだ。対象に、アリサはクラスの中心的な立場になって会話を盛り
上げることができる人なのだ。そんな彼女でも、今ここで会話を盛
り上げようとはしない。なんとなくアリサはこの雰囲気を楽しんで
るようにも見える。
そんな状況を延々と続けるわけにはいかない。そう考えたアリサ
は、雰囲気を壊すのは惜しいと思いながらも行動を実行した。
﹁もうこんな時間ね。夕飯、作りましょうか?﹂
70
そういわれて、スマホの時間を見る晃。20:23。確かに普通
の一般家庭ではこの時間には夕飯を済ませていてもおかしくはない
だろう。むしろ終わっていて当然の時間だと言っても過言ではない。
同じ時間に毎日夕飯を済ましている家庭を規則的な家庭だといえる
なら、晃の家は不規則な家に分類されるだろう。そもそも夕飯と意
識して食事をする習慣が晃にはないため、この言葉には少しだけ違
和感を感じてしまった。
﹁なにか手伝おうか。﹂
ピアノの練習メニューを長い時間を使って構成してくれて、ピア
ノを教えてもらって、クッキーを焼いてもらって、お茶を淹れても
らって。そこまでしてもらっておいて何も返すものがない晃。せめ
て何かを手伝わないと申し訳なく感じてしまって仕方がない。
﹁じゃあお願いしようかしら。﹂
手伝うといいながら晃はほとんど何もすることがなかった。それ
なりに料理慣れしているつもりの晃だったが、アリサの腕は見事と
しか言いようがない。ピアノの腕がいい上に、人望もあり、その上
料理の腕もいい。非の打ち所がない。晃がすることとしたらジャガ
イモの皮をむいたり、ニンジンをいちょう切りにしたりといった雑
用をやった。しかし、そんなことを晃がする必要があるのかと思え
るほどアリサの手際はよかった。その上、食器洗いもアリサが全て
済ましてしまうほどだ。むしろ足を引っ張っていたのではないかと
晃は思う。しかし、アリサは笑っていた。一人でほとんどこなして
いたとはいえ、晃と一緒に作業ができて楽しかったのだろうか。
アリサの手によって作られた料理は本当にすごかった。即席で作
ったものだから質素になっても何も思うことはないと思っていた晃
だったが、その心配はなかった。作られたのはカレーライス。しか
もルーはあらゆるスパイスをアリサが直接調合した本物の手作り。
71
ニンジンやジャガイモ、たまねぎといった王道の具材も入っていれ
ば、豚のばら肉やパプリカ、ブロッコリーなど、晃が思うカレーと
は遠く豪勢なものとなった。食感や味では飽きることがなく、ルー
の調合のバランスがよく、晃の舌にあった味となった。
﹁うまい。﹂
これしか言える言葉がない。スパイシーなルーに、甘味を感じさ
せるパプリカ。ブロッコリーの柔らかい食感に、よく火の通ってる
ジャガイモといったように、弱点を探そうにもどこにもそんなもの
がないカレーだった。晃が作ると火の通りがあまく、ニンジンが硬
くなっていたりするのだが、このカレーにはそんなものが一切ない。
﹁そう、よかった。﹂
アリサは胸を撫で下ろす。カレーとは個人の好みによって美味不
味が変わってくる。スパイスをブレンドしたのはアリサだ。スパイ
スの調合の仕方で様々なカレーができる中、アリサが出したカレー
が晃の舌にあっていたのでうれしかった。
さらにカレーだけではと思ったアリサは、レタスとトマトなどの
サラダを作られた。ドレッシングもアリサの手作り。酢っぱいドレ
ッシングが嫌いな晃は、いつもサラダは何も掛けないで食べるよう
にしている。しかし、このドレッシングは酢の味をあまり感じさせ
ない。まるで仕組まれたように晃の好みに的を当ててくる。
﹁なんでこんなにオレの好みの味が出せるんだろう。﹂
﹁だって、晃くんがお昼に食べるパンってさ、クリームパンとか、
メロンパンみたいな甘いパンばかり食べてるじゃない。だからすっ
ぱいのとか苦手なのかなって思ったのよ。﹂
﹁あぁ、なるほど。﹂
普段の食事から逆算して晃の好みを把握したのか。と一瞬だけ関
心をしたが、実際それは不可能だろう。アリサと一緒に昼を共にし
たのは先週の金曜日と、今日のお昼の二回だけだ。それでたまたま
甘いパンを買ったのをたまたま食べていただけかもしれない。もし
かしたら高校入学から数ヶ月。たまたま見たときに食べていたのが
72
全て甘いパンだった可能性もないとはいえなくもないが、それでも
このような展開になることは予測できるわけがない。やはり事前に
晃がすっぱいのが苦手だということを調べているようにしか思えな
い。
確かに晃は甘いパンが好きだ。ミルクパンやクリームパンなどを
多く買ってきてはいるが、決して甘党というわけではない。コーヒ
ーは甘いと飲めないし、紅茶も砂糖が入っていると飲みたくはない。
﹁ところでさ、晃くん。﹂
食べながら雑談を続けていた晃とアリサ。その途中、突然アリサ
は顔を伏せた。今まで雑談していられた軽い空気が一瞬にして変わ
ってしまうようなオーラをアリサから感じてしまう。
﹁何?﹂
急に変化が起こってしまったことに驚きを示しつつも続きを催促
する晃。
アリサの顔を見ると、少しだけほほを赤らめているようにも見え
たが、多分気のせいだろう。
﹁あのさ、私、隠してたこと、少しだけ話そうかな⋮って思ってさ、
﹂
アリサは晃に隠し事をする。あまり気持ちのいいものではなかっ
たが、それも含めて彼女なのだと思ってしまえばそれを全て受け入
れることができ始めていたころだった。アリサはそんなことを言い
始めた。
正直、隠し事を明かしてくれるのはうれしい。しかし、それを知
ってしまったら後戻りができないような気がしてならない。それを
聞いてしまっていいのだろうか。今までずっと聞きたがっていたこ
となのに、やと聞けるとなると晃は少し躊躇ってしまう。
﹁なんで急に⋮⋮﹂
﹁だって、私⋮⋮⋮﹂
73
そうアリサが言いかけたころだった。
﹁お邪魔するよ。アリサ。﹂
不意に背後からする中年男性の声。その声を聞いたとき、晃はそ
の主が外国人であることを察する。後ろを振り向けば、白に近い金
色の髪に灰色の瞳。少しふけ顔だが、それなりに整っているハンサ
ム顔の男性。少しだけアリサに似ているような気がしなくもない。
﹁お父様⋮⋮﹂
アリサの顔を見てみると、驚いた顔と、恐怖の色を隠せない顔を
見せていた。その言動から察するに、この部屋に突然現れた男性は
アリサの父親なのだろう。それなら突然ここに現れたのにも合点が
行くし、むしろそれが当然の結果なのだろう。しかし、彼女は父親
がここに現れることを予想していなかったようだ。アリサは父親を
恐怖している。身体中を震え上がらせて、すぐにでもこの場から逃
げ出してしまいそうだ。
そんな状況を見て不意に思い出した。無駄に広いこの屋敷。アリ
サが一人で住むその屋敷はまるで、本家から隔離されてしまったよ
うな雰囲気をかもし出している。
︱︱︱もしかすると、アリサの父親は⋮⋮⋮
そんなことを考える矢先、“お父様”は晃に視線を向ける。
﹁君は。﹂
案の定、晃のことを問いかける。
﹁あ、清水晃です。﹂
﹁名前などどうでもいい。なぜ君はここにいる。﹂
“お父様”からはとてつもない圧力を感じる。直接口には出して
はいないが、﹃帰れ﹄といわれているようで怖かった。アリサはこ
んなのと小さなころから向かい合っていたのかと思うと身体中が震
74
え上がる。今の彼女の反応というのは正しいのかもしれない。
﹁えっと、アリサ⋮さんに、ピアノを⋮⋮教えてもらってます。﹂
ありのままを伝える。震えて声を出せないアリサの代わりに。そ
もそも質問されているのは晃だ。それをアリサが代弁すると“お父
様”は激怒してしまいそうだ。
アリサが逃げそうなように、晃も逃げたかった。しかし、それは
アリサを見捨てることを意味する。
﹁アリサにピアノを⋮⋮⋮そうか。﹂
何を納得したのか、それ以上のことを聞いてこなかった。
そうすると、“お父様”は晃など存在しないかのように無視し始
め、アリサに視線を向け始めた。
﹁今日は前に話していたものをつれてきた。﹂
それを聞き、アリサの顔は今まで以上の絶望感を感じさせられる。
︱︱︱つれてきた・・・?
第三者の晃には関係のない話なのかもしれない。しかし、部外者
として扱われるのは気持ちのいいものではない。ここに立ち会って
いる以上、話の内容を理解しておきたいと晃は少し思う。しかし、
それを理解したらアリサの秘密を知ったも同然で、もう元には戻れ
ないかのようで、すごく怖かった。
﹁⋮⋮﹂
アリサも口を開いて何かを言おうとしているが、恐怖のあまり言
葉が出ない。開いた口がまた閉じた。
﹁あの⋮﹂
そのアリサに代わって晃が口を開く。
﹁なんだね。﹂
“お父様”は晃をにらむ。
﹁つれてきたって⋮・・・何をですか﹂
﹁君には関係のない話だ。﹂
75
そう言われたら反論ができない。
確かに晃には関係のない話だ。これ以上質問をすると逆上されそ
うで怖かった。とにかく“お父様”は怖かった。
震えながら、アリサは口を再び開き、今度は言葉を発することに
成功した。
﹁彼は⋮⋮関係なく⋮⋮ありません⋮⋮﹂
勇気を振り絞った言葉。そんな意思をこの言葉から感じさせられ
た。
関係なくない。それはつまりどういうことなのだろうか。晃は疑
問に思った。そもそも何が起こっているのかすら把握していない。
﹁そうか、じゃあ君がそうなのか。﹂
なんとなくだが、少しだけ圧力が薄くなった気がした。それでも
圧力が重いことには代わりがない。
﹁じゃあ教えてやろう。ここにつれて来たというのは⋮⋮﹂
食堂の入り口のほうにまた一人、男が現れた。二十台前半の高身
長の男性。金色の髪に灰色の瞳。整った顔をしていて、つい最近ま
で学生でしたといった顔をしている。
﹁アリサの許婚だ。﹂
76
?︵後書き︶
書いてる自分は寒さのあまり身体中を震わせていました。
77
?
﹁お久しぶりです。アリサさん﹂
そう言いながら高身長の男はアリサに歩み寄る。震えてその場か
ら動けないでいるアリサはされるがまま。高身長の男に近寄られ、
頭をなでられる。しかし、アリサはそれで安堵するどころか、むし
ろ拒みたいが立場的に拒めないでいるというような顔をしている。
誰にも助けを求めることができずに一人、この状況を乗り切ろうと
しているのだ。
﹁そう硬くならないで。﹂
高身長の男はさらに頭を撫でるが、アリサは一向に抵抗しようと
はしない。何よりそれを怖がっている。
このままのアリサを見守っているのは酷だと思った晃は、高身長
の男を宥めようとする。
﹁あ、あの⋮﹂
﹁私⋮⋮﹂
晃が行動に出るのと同時に、アリサも口を開く。
﹁ん?﹂
高身長の男は優しそうな顔でアリサを見る。
﹁あの⋮⋮﹂
しかし、アリサはここで躊躇ってしまう。そんなアリサはつい、
晃の顔に視線を向けてしまう。
晃にはなぜか、アリサの思考が手に取るようにわかる⋮気がする。
︱︱︱巻き込みたくはないけど、助けて欲しいってか⋮⋮
呆れることもできないこの雰囲気で、正直嬉しかった。
ここには完璧超人のアリサ・フレッカーは存在しない。ここに存
在するのは、異様な威圧を放つアリサ父。そしてアリサに対してス
キンシップ⋮この場ではセクハラと言っても過言ではないことをす
る高身長の男性。そして晃と、晃に助けを求めようとするが躊躇う
78
弱気な少女。アリサ・フレッカーだ。
﹁あの、すみません。﹂
正直何をすればいいのかわからなかった。しかし、ここで重要な
のはこの状況で最善の一手を見極めることではない。この雰囲気を
変える何かが必要なのだ。それはつまり︱︱︱
﹁アリサさんの話、聞いてあげてください。﹂
︱︱︱アリサがこの雰囲気をぶち破るきっかけが必要なのだ。
その言葉を聴いたアリサは今まで閉じきっていた希望の光を掘り
起こされたような瞳で晃を見る。
今、彼女は萎縮してしまい、何をするにしてもされるがまま。セ
クハラだろうがなんだろうがヤラレ放題だ。それを打開するのに必
要なのは、アリサが常に恐怖を抱いている父や、許嫁の声ではない、
それ以外の声。尚且つ、アリサがもっとも信頼しているであろう人
物の声。メールアドレスを交換したことにとても嬉しそうにする相
手。他の人には言えない冗談を言える相手。ピアノの連弾を持ち掛
けようとする相手。それが、晃の声、後押しなのだ。
﹁君には関係のない︱︱﹂
そうアリサ父が言うのを晃が遮る。
﹁オレは関係なくないって、アリサが言ったコトですよ。﹂
確信をつく晃。これで晃はこの場の部外者ではなくなった。
正直に言えば、この話に晃がどう関係しているのかは想像がつか
ないが、アリサがそう言った時点でもう後戻りはできない。それな
ら晃は前に進むしかないのではと思ったのだ。
﹁アリサ。言いたいことがあるならちゃんと言え。言わないと、何
もわかんないだろ。父さんも、そこの金髪男も。﹂
﹁金髪男って⋮﹂
言葉の一部に突っ込みを入れる高身長の男。その突っ込みを無視
して晃は続ける。
﹁もちろんオレだって、今お前が考えてることなんてわかんない。
もしかしたらオレはせっかく婚約者と一緒なんだからって空気を読
79
んだ気になって帰ってしまうかもしれない。﹂
アリサは口にはしないが、それをいやだというように身体をふる
わせる。
﹁それがいやなら、自分の言いたいことを言わないとダメだ。﹂
﹁その通りだ。アリサ。﹂
今まで晃の主張を聞くだけだったアリサ父も不意に、晃の言葉に
対する同意を示し始めた。今まで感じていた威圧のようなものはな
んだったんだろうかと一瞬晃は思ってしまった。
﹁言いたいことがあるなら言いなさい。﹂
︱︱︱思ったより娘想いなのかな。
今のアリサ父の態度から見て取れるのがこの印象だ。最初は威圧
すら感じたが、それはアリサが感じていた恐怖が流れ出てきたもの
があるのかもしれない。もしかするとアリサのは過剰反応なのかも
しれないと思った。しかし、その過剰反応が起こるきっかけという
のは必ず存在する。大げさではあったとしても、アリサは父親に対
して恐怖感を抱いているのは間違いではないのだ。もし機会があれ
ばアリサ父とも話しをしてみたいなと、思うのだった。
そんな思考をめぐらせる中、アリサは勇気を振り絞ろうとする。
しかし恐怖がまだ勝っているのか、言葉を口にすることができない。
このアリサを見て、晃は思った。
︱︱︱もしかしてこれは前のオレと似ているのでは⋮⋮もしかして、
これはオレが前にこいつにされたことと同じようなものなのでは⋮
⋮⋮︱︱︱
もしそうなら、晃がとれる行動は絞られる。
﹁アリサ。﹂
父親の次に響く晃の声。
﹁お前がこれ以上何も言わないのなら、オレは帰るよ。﹂
﹁えっ。﹂
この場で一番大きな声を出すアリサ。伏せていた顔が勢いよく正
面に向けられ、晃の顔を直視する。
80
﹁だってそうだろ。お前が関係なくないとはいってもさ、オレにと
っては全くの無関係。他人なんだぞ。オレはたまたまここに居合わ
せた第三者。だったらここで帰るのが当然だろ。だから︱︱︱﹂
﹁オレはお前が何も言わないなら自分の家に帰る。﹂
アリサにとっては酷な言葉だっただろう。しかし、これを言わな
いとアリサは覚悟を決められず、言われるがままに婚約を確定され、
そしてアリサの意思とは無関係に結婚させられてしまうだろう。だ
から晃はアリサの意思を聞きたかった。どんな手を使ってでもアリ
サの隠すそれを引き込むことが重要なのだ。
そんな晃の予想をはずしてしまったのか、アリサは顔を再び伏せ、
言う。
﹁⋮⋮わかった。ごめんね。巻き込んで。﹂
ここまでしても覚悟が決められないのかと、晃はあきれた。もう
アリサが何を言おうとこの父親はそれを受け止める気でいるんじゃ
ないか。それなのに、アリサはそれに気づかず、独りよがりな考え
で全てを受け入れようとしている。今までアリサを見てきて、器の
大きいのだなと思っていた節があったが、実はそれは勘違いだった。
アリサは器が大きいのではなく、小さい器で見栄を張っているのだ。
これほど醜いものはないと晃は思う。
この状況で、晃がここに残るとアリサに鎌を掛けた意味がなくな
る。しかし、本当に帰ってしまうと後味の悪い終わり方になってし
まう。もし帰ってしまえばあの時と同様、晃とアリサの仲には何も
なかったことにされてしまいそうだ。あの時はそれがいやだと思っ
たが、今の晃は違う。いやだとは思うが、このままアリサとだらだ
らと同じ関係を続けていても意味があるようには思えない。
どちらかの選択肢に迫られた晃。このまま残ってまた同じ問答を
81
繰り返す選択肢。そして、本当に帰ってアリサとの仲をリセットす
る選択肢。それもいいだろう。一度リセットしてみて、もう一度構
築すればいい。それが今のように良い関係を保てなくなったとして
も、これまでだったとあきらめるしかない。アリサの覚悟の足りな
さ。そして、晃の力の不足さ。これが相成ってこの状況を生み出し
てしまったのだ。
︱︱︱ていうかオレには何か覚悟があるのだろうか。
なんの?
この自問自答に、晃は答えることができなかった。
◆
自問自答を繰り返す晃に、アリサ父は帰宅を命じる。しかし、こ
れは見捨てるという意味ではないと晃は思う。まだ何かがある。そ
んな気がしてならないため、晃は素直に帰宅する選択肢をとった。
月光が照らす夜道。ここは外灯が少ない。公園の中はそれなりに
外灯が多く、それなりに場の配置を視認できた。しかし、公園を出
てしまえば建物が少なく、畑や田んぼが広がる緑の町。そんなとこ
ろに外灯がところどころに配置されているわけがない。何度か躓き
ながらもやっとバス停にたどり着いた。しかし、バスの時刻表を見
て驚愕する。
﹁もうバスないじゃん⋮⋮﹂
完全に田舎町だ。同じ県内の市内なのに、電車もバスも通りが悪
い。歩いて30分とはいえ、こんな時間だ。迷ってしまっても無理
はないだろう。
82
交通機関を利用することができなくなったのは仕方のないことだ。
せめて学校まで行けばなれた道にたどり着ける上に、外灯も多くな
ってくる。
﹁仕方ないなぁ。﹂
スマホのライト機能を使って夜道を照らしながら歩き出す。
﹁⋮⋮今日はアリサと二人きりでピアノの練習をするはずだったん
だよなぁ。﹂
少し惜しいことをした気がする。
もしあのままアリサ父が来なかったらカレーを食べ終わって、お
茶を飲んで、もう一度ピアノをやって、風呂に入って、寝て、朝に
なって、一緒に朝食を食べて、登校して。色々想像してしまう。
それがあの出来事だ。まるで、ピアノを辞めよう辞めようといっ
ておきながら、ピアノを前にしてしまうと恐怖してしまって、震え
上がってしまって、何もできなくなる。あの時の晃と同じだ。アリ
サも同じなんだ。父の前では恐怖して、震え上がって、何もできな
くなる。あえて違う点といえば、晃はあの時前に進んだ。しかし、
アリサは後退したのだ。つまり、あの時晃がピアノを辞めてしまっ
て、晃自身が自分とアリサの間には何もなかったことにしたのと同
じように、アリサがアリサ自身でアリサと自分の間の関係を消して
しまった。
﹁惜しいことしたかな⋮⋮﹂
もしあの時点で晃が粘っていたらどうなっていただろうか。多分、
中途半端な結末になっていただろう。今のこの状態が中途半端じゃ
ないか問われればそうじゃないとは言い切れないのだが、その選択
肢をとっていたときよりはましになっているような気がしなくもな
い。
しかし、これで何もなくなってしまったのは曲がりようのない事
実だ。
惜しいことをしたというのも感じるのだが、それよりも感じるの
は悔しさだ。
83
﹁⋮⋮後味悪いな﹂
そう独り言をしているとたどり着いた学校の校門。ここまでくれ
ばスマホのライトに頼らずに帰れる。そもそもここは外灯が多くあ
って、夜道でも迷わずに歩いていける。
﹁明日、どうしようかな。﹂
いきなり登校早々アリサに話しかけるかどうか。晃は迷っていた。
独り言をたびたびしながらたどり着いた自宅。晃の家は小さなア
パートで、少し歩くだけで下の階に足音が響くほど薄い壁と天井で
できている。何度かゴキブリや蜘蛛も出てきている。晃はそんなア
パートの二階、真ん中の部屋を借りて生活している。実際には母が
家賃を払って、生活費を稼いでとやってもらっているわけで。しか
し、事情があり、この家には母はいない。
いつも持っているかばんから鍵を取り出し、家の扉を開こうとす
る。
﹁あっ⋮⋮⋮﹂
晃の顔は青くなった。
﹁鍵を入れたかばん、アリサの家に忘れた⋮⋮⋮⋮﹂
◆
結局どうすることもできず、自宅の前で待機していた。今の時季
が夏というのが幸いした。そこまで寒く感じることはなく、身をち
ぢ込ませれば夜を過ごすことができた。誰にも頼ることはできず、
アリサの家に戻るわけにもいかない。しかも、財布も鍵を入れたか
ばんに入れたままだったため、漫画喫茶などで一夜を過ごすことも
84
できない。母に連絡してどうにかしてもらう手もあったが、それは
したくなかった。これ以上母に迷惑を掛けたくない。その一心で、
晃は意地でその場を過ごした。自宅の前で野宿をするのは怪しまれ
る上に、他の住人に通報もされかねない。どこにいても通報されそ
うなものだが、それでもこの場で夜を過ごすのは得策ではない。
アパートの玄関の前には少し高めの仕切りがある。もし経てば胸
から上は道路から丸見えになるが、かがめば隠れることができる。
仮にここで長時間居座っていても他からは通報されることはないだ
ろう。
﹁へっくしょいっ﹂
さすがに寒い。夏とはいえ、夜は日の光が届かないため、昼の熱
気が残ってはいるものの、それでもこの湿った空気が身体を冷やし
ていた。
﹁このままじゃ風邪引くかな。﹂
鼻から鼻水が出てきそうになったため、ティッシュで鼻を拭こう
とするも、そのティッシュさえもかばんに入れたままアリサの家に
放置してある。
﹁⋮⋮不幸だなぁ⋮﹂
鍵も財布もティッシュもアリサの家に忘れてしまった自分の不注
意さにも呆れることしかできない。
どこに行くこともできず、玄関の前で座り込む。学校かばんを椅
子代わりにし、今夜を切り抜ける方法を考える。誰も助けてくれな
い。もしかしたらアリサが晃を追いかけて何かをしてくれるかもし
れないが、その可能性はほとんどないだろう。
鼻水が出てくるのを抑えきれず、一度すするが、申し訳程度の抑
え方しかできていない。
﹁花粉、まだ飛んでんのかね。﹂
ここで改めて、晃は花粉は人類最大の敵だと認識する。
何もすることがない。この状況が晃の血を沸騰させる。
85
夜で、家に入ることもできずに晃は身体を震えさせた。身震いと
いうやつだ。
︱︱︱ピアノがやりたい。
スタジオで一室借りるにしても、晃は財布をアリサの家に忘れて
しまっている。仮に財布があったとして、今は23時だ。こんな時
間まで営業しているスタジオなど存在しないだろう。
︱︱︱ていうかもう23時なのか⋮⋮
呆けていると時間が経つのが早くも遅くも感じてしまう。
もう23時なのか。されどまだ23時なのか。
矛盾しているが、そんなことを思考してしまった。
ピアノをしたいという衝動は他のことを思考することでは抑えら
れず、思わずその場にピアノがあると想定して指を動かす練習をし
始めた。いわゆるエアピアノだ。
しかし、寒かった。身体を震えさせ、再び鼻水の気配を感じさせ
る。
不意に、仕切りの向こう側から車の通る音が聞こえる。この仕切
りの向こう側の道は一方通行で、あまり自動車の通行量は少ない。
通るとすればここらへんに住む人間が帰宅するために通っていると
考えるのが妥当だが、この時間にその帰宅をする人間は珍しいよう
な気がする。その車は、晃のいるアパートの前で止まり、エンジン
が切られる。扉が開かれ、独り言のような男性の声が晃の耳に届い
た。
﹁ここか⋮⋮﹂
︱︱︱なんだ?
無意味なのだろうが、多少の警戒をする。別に晃の家に用事があ
るわけではないのだろうが、それでも身構えてしまう。
男性の足音はどんどん近づいてくる。
アパートの敷地の中に入ってきて、どんどんこちら側に侵入して
くる。仕切りという視界をさえぎるものがなくなったとき、晃は見
つかってしまう。
86
﹁あれ、君⋮⋮何をしているのだね。﹂
そこにいた男性の姿には晃も見覚えがあった。しかし、かなり意
外な人物であるのには代わりがない。
﹁あなたは⋮⋮﹂
アリサ・フレッカーの父がそこにいた。
87
?︵後書き︶
晃﹁そんなに何も言わないんだったら僕、知らない!!帰る!!バ
カ!!﹂
←
アリサ﹁あぁそう。さようなら。﹂
←
晃﹁ちょろくない⋮⋮だど⋮⋮﹂
88
?
アリサ父に連れられて車に乗車し、ある場所に移動する。その場
所がどこかはわからないが、アリサ父曰く、﹃君を寒空の下で放っ
ておくわけにはいかん﹄とのことだ。
家の前で野宿する覚悟を決めた晃の目の前に突如現れたアリサの
父。なぜ晃の家を特定したのか、さらにいえば、なぜ晃の家を訪ね
たのか。晃には想像がつかない。
車を運転しながらアリサ父は言う。
﹁まず自己紹介をしよう。﹂
さっきは名前などどうでもいいとか言っておきながらこの言動。
なんとなく、彼は上の立場で何かを纏める職に付いているのだろう
と察してしまう。
﹁私の名前はロデリック・フレッカー。アリサや君の通う学校の理
事長を務めている。﹂
﹁理事長!?﹂
驚きを隠せず、つい畏まる晃。それを見たアリサ父、ロデリック
は言う。
﹁そう固くならなくてもいい。清水くんと言ったかな。さきほどは
失礼した。﹂
案外あっさり謝罪をもらってしまったことに再び驚きを感じた。
アリサの家に来た時のロデリックは堅物をそのまま表したような人
物で、まるで付け入る隙がなかったように見えた。しかし、話して
みると意外と柔らかい人だった。
︱︱︱あれ?
この前も同じようなことを思った気がして晃は違和感を感じる。
︱︱︱あっ、
思い返すと、すぐにその理由が判明した。
︱︱︱アリサに対しても同じようなことを思ったんだっけ⋮
89
アリサも、教室では作り笑顔を絶やさない完璧超人を絵に描いた
人物だった。付け入る隙がなく、入学当初はアリサと接点を持つな
どありえないと思っていたほどだ。しかし、最近話すようになると、
彼女は他では見せない顔を晃に向けるようになった。付け入る隙が
できたのだ。
同じ雰囲気をこのロデリックから感じる。最初に対面したときは
堅物でそんじょそこらの剛力では動かすことすら出来そうにないく
らいの威圧を感じたものだ。付け入る隙などない。しかし、今この
場で話すロデリック・フレッカーという男は、その威圧を微塵も感
じさせない雰囲気を醸し出している。
︱︱︱やっぱり親子なんじゃないか
晃はそう納得せざるを得ない。
﹁いえ、オレもなんか、付け入ったことをしたみたいで。すみませ
ん。﹂
あの場では晃の立場は赤の他人、無関係な人間なのだ。その無関
係な人間が口出しをしていいような内容の話に無理矢理付け入った
晃。
﹁いや、あれで助かったくらいだ。むしろ私は君に礼を言わなけれ
ばならない。﹂
晃はロデリックの言っていることが理解できない。それを察して
か、ロデリックは続けていう。
﹁初めて、アリサの本心みたいなものを見た気がするんだ。﹂
不意に思い出すアリサのあの回答。
﹃どうかしらね。﹄
答えたくない質問には必ずそう回答してくる。まるで本心をさら
け出したくないみたいに答える。
﹁でも。オレだってアリサ⋮さんの本心は聞いてません。オレが帰
ったあとに聞いたんですか?﹂
﹁いや、聞いてないよ。﹂
フレッカーは物思いに耽りながら言う。
90
﹁あの子があんなに取り乱したのは初めてなんだ。小さい頃からあ
まり泣くことがなくてな。家の環境がそうさせたのだが、随分小さ
な頃から社交的な性格になってしまった。常に笑顔を絶やさない女
の子になった。一見、いいことに見えて自分を殺してまで笑顔を作
るんだ。どんなに悲しいことがあっても、顔を顰めたり、泣いたり
することはない。﹂
思い当たる節がありすぎる。心の開けそうな友人に対しても見せ
るあの完璧超人なアリサの顔は育った環境から作り上げられたもの
なのだ。その顔を崩すことを彼女は知らない。何があっても表では
笑い、裏で泣く。アリサはそんな性格をしているのだ。
﹁私に叱られたときにも素直に謝るだけで、それ以上の感情を見せ
たことはない。恐れられたり、反論されたりしたことはないんだ。﹂
その言葉に、晃は違和感を持ち始めた。
アリサはあの時、ロデリックに対して恐怖感を抱いていた。その
影響で晃もロデリックに対して恐怖感や威圧を感じてしまったのだ。
しかしロデリック曰く、アリサが父に恐怖したことがないのだとい
う。
﹁アリサさんはロデリックさんに対して恐怖したことがないんです
か?﹂
﹁それはアリサ自身に聞かないとわからないことだとは思うがね。﹂
父であったとしても、アリサの心を完璧に読むことはできない。
だから、その質問の正解を回答することができないのだ。
﹁でも一ついえるのは、親子仲が悪いとはいえないんだ。私とアリ
サは。一緒に外食したりするときや買い物に行ったりもする。その
ときは私なりの見解だが、あの子も気兼ねがなかったと思うんだ。﹂
社交的とはいえ、少しだけでも感情は顔に出てしまうものだ。不
安を感じているなら少しでも表情ににじみ出てくるものだし、楽し
いと感じているのならそれもにじみ出てくる。論理的ではないが、
これは直接見た人間、さらに言えば付き合いが長い人間が見たなら
それを察することができるだろう。そんな父親が言うのだ。それな
91
りに信用ができるだろう。
もしそうなら、あの時にアリサが父親に対して恐怖を抱いていた
のには違和感を感じる。もし男を連れているのだということに対し
て罪悪を感じていることも考えられるが、それは﹃友達だ﹄と紹介
すればよかっただろう。そうしなかったのに理由があるのかはわか
らないが、やはりあのアリサの反応はロデリックからして見ても異
常だったのだろう。
﹁私はこう見るよ。アリサが恐怖したのは私ではない何かだ。﹂
﹁何か・・・?﹂
何かとは心理的なものなのだろうか。と思う晃だが、それを言語
化すると何になるのだろうか。やはり罪悪からなのではないか。も
しそうならアリサは父親に恐怖感を抱いたといえるのではないだろ
うか。
ジョウジ
あの場にいた人物は晃と、ロデリック。そして、金髪の長身男だ。
﹁もちろん、貞治くんのことでもない。﹂
﹁貞治くん?﹂
﹁君が﹃金髪男﹄と呼んでた高身長の男だ。﹂
﹁あぁ、﹂
アリサの許婚とされていた男のことだ。
﹁なら、何に⋮﹂
やはり晃には何も思い当たる節がなかった。そもそも、晃はアリ
サとの付き合いは短い。そんな晃がアリサの考えを全て言い当てる
ことなど不可能な話だ。
﹁わからないかね。﹂
なぜかロデリックは鎌を掛けているような顔をする。運転中だか
ら顔を正面から見ることはできないが、たぶんからかわれているよ
うにも思える。
﹁すみません。わからないです。﹂
﹁朴念仁。﹂
﹁はい?﹂
92
◆
その場には二人の男女がいた。先ほどまでは晃、ロデリック、貞
治がその場にいた。別室にいたから来ていたたことは知らなかった
が、貞治の父親もいたらしい。しかし、今は貞治と自分だけが残さ
れている。食べかけの食事を片付けながら彼女、アリサは憂鬱にな
りながら作業を続ける。
﹁二人きりだね。アリサ。﹂
片付けているアリサを眺めるようにその場に残る貞治。
正直に言うと、アリサは貞治が嫌いだ。立場が上の人間の前では
好青年を演じているが、下の人間、具体的には自分に対してはそう
ではない。自分が一番嫌いな人間のタイプだった。晃に対して﹃人
間関係に優劣をつけるのはおかしな話だ﹄と言ったのも、この貞治
の存在が大きく関係している。しかし、それを口にするわけにはい
かない。父親の得意先の息子ということもあり、粗相を犯せば父が
がけの上に立たされるだろう。せめて、この人間とは口を利きたく
なかった。
﹁無視かい。アリサ。﹂
しつこく言葉を投げつける貞治。この場から逃げたいと思うアリ
サ。
本当なら、アリサは晃と二人きりで食事を終えてピアノの練習に
付き合うつもりでいた。しかし、予定外のことが起こってしまい、
今は貞治と二人きりの状況になっていた。
︱︱︱あのとき私が本心を言っていれば⋮
ずっと後悔している。これで自分が立ち上げた晃との接点も崩壊
93
してしまった。
貞治は座っていた椅子から立ち上がり、アリサに近寄ってきた。
肩に手をふれ、顔を覗き込んできた。
気持ち悪い。この行動で受けたアリサの印象がこれだった。しか
し、彼がアリサに何かを強要したことはない。セクハラも肩や頭に
手を触れるだけで、それ以外のところに触ることはない人間だ。そ
こは信用してもいいとアリサは思っている。しかし、その貞治に触
られるということ事態が気持ち悪かった。
頭の中で“あの男”に置き換えてしまえば振り切れることかもし
れないが、“あの男”はそもそもこんなことはしない。
﹁嫌かい?アリサ。﹂
執拗に言葉を投げかける貞治。本当にこれをやめてほしいとアリ
サは思うが、それを言うわけにはいかない。
﹁“あの男”なのかな。アリサ﹂
アリサは図星を突かれてしまったように身体をふるわせた。これ
を見た貞治はアリサの全てを見破ったようで、にやけた。この顔は
父親にそっくりだとアリサは思う。
﹁やっぱり。そうならそうと言えばよかったのに。お義父さんに﹂
︱︱︱あなたがあの人のことをお義父さんなんて呼ばないで。
心の中でそう反論する。しかし、それを口にする勇気がアリサに
はない。
﹁なんていったかな。“あの男”。清水⋮⋮あきなだったかな。女
の子みたいな名前だよね。﹂
﹁清水⋮⋮晃くんです⋮⋮﹂
“あの男”の名前をわざと間違える貞治。それを許さないと言っ
たようにアリサは口を開く。これを見て貞治は確信をつく。
﹁そうそう。晃くん。晃くんだったね。﹂
貞治は笑う。高笑いといってもいいほどに笑う。何をそんなに笑
うのかとアリサは不審に思った。
﹁晃くんってさ、情けないよね。ホント。﹂
94
︱︱︱え?
﹁お義父さんに怖がって、震えて。本当、あの時点で笑いそうだっ
たよ。おかしいよね。テレビにでも出て笑いを取るつもりなのかな。
﹂
聞いているとかなり不快になってきた。このまま口を塞いで殴っ
てしまいたい。しかし、そうするわけにはいかない。そうアリサが
行動に出るのを我慢している。
﹁あいつもアリサのこと、好きらしいけどさ、そうならアリサをこ
の場から連れ出せばよかったのに。情けないよね。あの男は。﹂
﹁あの人のことを悪く言わないでください!﹂
ついに我慢の限界が来てしまった。今までに出したことのない声
で叫んだアリサ。顔を顰めて、貞治をにらむ。初めて叫んだアリサ
は、息を切らしている。
怒号を浴びた貞治は竦むどころか、喜んでいるようにも見える。
先ほどまで満面の笑みで広がっていた顔は、それ以上にほほをまた
吊り上げた。
﹁やっぱり、そうなんだね。アリサ。﹂
身体をふるわせながらアリサは怒りを隠せずにいる。気持ち悪い。
この印象は貞治に対して深く根付いた。
そんなアリサを気にすることなく、アリサの肩から手を離す。笑
いをこらえながらも椅子に再び座り始め、アリサを眺める。
作業を中断し、アリサはもう我慢することをやめて、貞治の視線
に対抗するように睨み返す。アリサの身体は震え上がっていた。し
かし、これは恐怖からではなく、怒りからだ。それを面白がるよう
に見つめる。
﹁君、晃くんとやらのこと、好きなんだろ。﹂
◆
95
ロデリックにつれられてたどり着いた場所は大きなビル。外から
上を眺めると、ここ周辺の建物を照らすように電気で光っていた。
そもそもここはビル郡が出来上がっている都会で、アリサの家とは
対象の位置にある。扉は自動ドアでできてあり、入れば1階全てに
区切りがなく、柱やインテリアが多く立てられている。ホテルのロ
ビーのように広い。
﹁ようこそ、我が家へ。﹂
﹁我が家って、え、何号室なんですか。﹂
﹁このビル全体だよ。﹂
驚愕した。どこの漫画の世界だよと突っ込みを入れたい。
晃は周りを見渡す。ここがロデリックの家だという驚愕を受けて
いるのだ。
﹁ていうことは、アリサの家でもあるんですか?﹂
﹁いや、違う。アリサの家は君がいたあの屋敷だ。﹂
晃はそういわれて、あの屋敷を思い出す。
﹁そういえば、アリサ、本家は別にあると言ってました。ここのこ
とですか?﹂
﹁違うよ。﹂
それも否定された。晃の家にも複雑な事情というものは存在する
が、それと比較するのも馬鹿らしいほどここの複雑さは難解だ。
﹁本家なんで元々存在しないんだ。恐らく、あの子のいう本家とは
親が住んでいる家のことを言っているんだろう。﹂
﹁じゃあ、なんでアリサはあの家に住んでいるんでしょうか。それ
に、﹂
﹁とりあえずだ。﹂
質問攻めにする晃を宥めるロデリック。そうすることで晃はアリ
サに対して同じことをしていたことに気づく。
96
﹁今日は私の家に泊まっていきなさい。﹂
97
?
ロデリックに案内された部屋はゴージャスとは呼べるかもしれな
いが、どこか質素だった。まるで作り物のように綺麗なのだが、ま
るで人の部屋ではないような雰囲気を醸し出している。温もりを感
じないというかなんというか。この違和感を察したロデリック曰く、
ここは建てられて、インテリアを設置した後、一度も人が出入りし
ていないのだとか。よく見ればあらゆるところに埃が溜まっている。
何の為にこんな部屋を作ったのかと聞くと、晃みたいな人を泊める
ためだという回答が帰ってきた。
最低限、ベッドや小さなテーブルがあり、正直不要なのではと思
えるくらいのシャワールームまである。これはもうホテルとして営
業してもいいのではと晃は思う。
﹁じゃあ、今日はここで泊まってくれ。また来るからな。﹂
そう言ってロデリックは部屋を後にする。
この広さにも慣れ始めた。感覚が狂ったのか、この広さこそ普通
なのだとと思ってしまうのだが、実際は自分の住むアパートの一室
よりかなり広い。人が三人くらい暮らせるスペースを、晃が一人、
この部屋を使うのだ。
︱︱︱そういえば、アリサはここよりも何十倍も広い屋敷に一人な
んだよなぁ⋮
よく精神が正常でいれるものだと関心するが、それが正常なのか
と判断できるほど晃はアリサを知っているわけではない。
考えることがありすぎて、晃は一番重要な疑問にたどり着いてし
まう。
︱︱︱なんでオレがこんなに考えてるんだ。
アリサの家庭がどうのこうのという疑問など忘れて、晃は瞬間に
98
この疑問に執着するようになった。考えてみれば、晃がアリサに対
してここまで執着する理由がない。そもそも晃はお人好しではない。
人に同情することはあっても、それを自分が何とかしようと思うこ
とがないのだ。そこから晃はアリサに対する同情で行動しているわ
けではないことは明らかだ。ならばなぜここまで晃は考えているの
だろうか。何よりもこちらの疑問に意識が向くようになってしまっ
た。
﹁入るよ。﹂
不意に扉を軽く叩く音が部屋中に響き、扉が開く。そこには瓶を
持ったロデリックがいて、もう片方の手にはワイングラスが2つ握
られている。
﹁少し話をしないかね。清水くん。﹂
そう言ってロデリックは瓶を掲げる。外国語で描かれたラベルが
貼られていて、なんて書かれているのかなど晃にはわからなかった
が、一つわかるのはこれにはアルコールを含む飲み物が入っている
ということだ。
﹁オレ、一応未成年なんですけど⋮﹂
そう断るとロデリックは言う。
﹁家では少しくらい飲むだろう。将来のために少しずつ慣れていく
といいと親に言われないかい。﹂
確かに母がたまに家に帰ってきて、酒をたしなむときに時々小さ
なコップに分けてもらうことがある。ロデリックの言うとおり、母
に﹃お酒には慣れておいたほうがいい﹄と言われている。ただし、
外の居酒屋などでは絶対に飲まない。あくまで自宅の中でだけで、
母の監視のもとの許容範囲のみだ。最近ではビールを一缶飲めるよ
うにはなってきている。
﹁アリサも時々私と飲む。もちろん、私が監視のもとでだが、な。﹂
そう言いながら二つのワイングラスそれぞれワインを注ぎ始める
ロデリック。入れ終わると一方のワインを晃に手渡した。
﹁日本ではこういうとき、乾杯と言ってグラスをくっつけるのだっ
99
たな。﹂
﹁まぁ、そうですね。﹂
母と外食に行ったときには必ず乾杯をする。たとえ中身がソフト
ドリンクだったとしても、だ。
﹁では、乾杯。﹂
﹁乾杯。﹂
チン。とワイングラスを軽く接触させ、晃は一口ワインを口に含
む。少し甘みを感じ、葡萄の風味が漂う。ワインを飲んだことがな
い晃だったが、これがぶどう酒だという確信が取れた。
﹁私は日本酒のほうが好きなんだがな。時々飲みたくなるんだ。こ
ういうワインが。﹂
晃にはわからない領域だった。世の中には様々な会社からビール
が出ているが、これを全部飲んだところで違いなどわかるはずもな
い。それと同じように、どのお酒がどういう味をしているのかなど
全くわからない。これがぶどう酒だと思ったのも、葡萄の風味がし
たからであって、これを飲んだことがあったわけではない。
日本酒は甘いをされているが、このワインも十分に甘いではない
か。正直晃はそう思えて仕方がない。
﹁ところで、だ。晃くん。話をしようではないか。﹂
不意にそう持ちかけるロデリック。
﹁なんの話をするんですか。﹂
﹁アリサについて、だ。﹂
変なところで句読点をつけるのはロデリックの癖なのかもしれな
い。外国人の日本語には少しだけ違和感を感じることがある。時々
だが、晃も外国人と日本語で話すことがある。そのときに外国人が
おかしい日本語を使うと、晃は脳内でどの言葉をその人が選出した
のかという判断を行う。今回もその一環なのだなと晃は思う。
﹁まぁ、昔話だな。﹂
ロデリックは眼を伏せていう。その姿はアリサのその姿にそっく
りだと思った。
100
﹁アリサはな、物心がついた頃からピアノを触っていた。最初は小
さなピアノのおもちゃで。どんどん成長するたびに色々な曲の演奏
に挑戦するようになって、あっさりと引けてしまったんだ。5歳の
時点でエリーゼのためにという曲を弾けるようになっていたんだ。﹂
それはすごいな。晃は驚愕と関心を同時に行う。
“エリーゼのために”とは、晃が思うに最も日本で知られている
ピアノ演奏曲だと思われる。ベートーヴェンが作曲したもので、晃
もピアノをやめたころには十八番曲として弾いていた。ピアノをや
める直前までそれを毎日のように弾いていた。しかし、それを晃が
弾けるようになったのは中学校になる13歳のころだ。それをアリ
サは5歳で弾けるようになっていたという。天才といわざるを得な
い。
﹁そのころはペダルに足が届かないってよく泣きつかれたな。椅子
が高くてはペダルに足が届かず、逆に低いと鍵盤に手が届かない。
それほどアリサは身長が低くてな、むしろその年ならこれが当然だ
ったのだろう。だからアリサはその頃、立って演奏していた。その
姿を見たときは私も妻も笑わされた。﹂
﹁妻って、アリサの母なんですか?﹂
﹁そうだ。夫の私が言うのもなんだが、とても美人でな。アリサの
ピアノの講師でもあったんだ。﹂
アリサの講師を行える母は恐らく、ピアノのプロといっていいほ
どの腕を持っていたのであろう。
その話を聞いたとき、不意に晃は考える。
︱︱︱オレがピアノを教わったのはだれだっけ。
思い出せなかった。母はピアノをやらないし、父もやらなかった。
ただし、母も父も音楽に関する何かをやっていたという事実が存在
する。母曰く、晃は子供の頃、内気な性格でテレビばかり見る子だ
ったという。絵を描いたりするのが一番好きで、あまり外で遊ぶよ
うな子ではなかったとのことだ。そこから導き出される答えは、お
もちゃのピアノがたまたまそこにあって、たまたまそれで遊んでい
101
たらいつの間にかピアノを好きになっていて、それを見た母が幼稚
園のピアノ教室に通わせて見るようになって、それてピアノをどん
どん弾くようになった。ということだろうか。
﹁しかし、しばらくするとアリサには弾けない曲はなくなっていき、
曲を聴いただけで全ての音符を把握して弾くようになった。全てが
うまくいってしまったから、アリサはピアノを弾くとき、つまらな
そうな顔をしていた。最初は遊びだったピアノが、ただの暇つぶし
になってしまった。﹂
﹁じゃあ、ピアノを辞めたりしなかったんですか。つまらないなら
続けないでしょう。﹂
﹁いや、それでもアリサはピアノが好きなのだ。つまらなくてもピ
アノの感触は好きみたいだしな。恐らく、アリサがそのころつまら
なそうにしていたのはピアノ自体ではなく、曲なのではないのかと
私は思うがね。﹂
ロデリックはワイングラスに入ったワインを飲み干し、再び瓶か
らグラスにワインが注がれる。それを見て、自分の手元にもワイン
があったのだということを思い出した晃は、再びワインを口に含ん
で飲み込んだ。
﹁それで、私はアリサにはもっと上の階段を上ってほしいと思って
な、ピアノの発表会に参加して、周りの人に評価してもらおうとし
たんだ。﹂
そうなるのは必然なのだろうと晃は思った。天才ピアニストとい
うのは発表会に参加させることで開花させる。晃は天才じゃなかっ
たから発表会に参加するのは遊びの一環だったのだが、アリサにと
っての発表会は違うだろう。恐らく、小さな頃から将来を確約され
るほど重要な舞台だったのではないかと思った。
﹁しかし、やはりアリサはつまらなそうだった。人前で弾くことに
緊張はあったかもしれないが、それでもあっさりと弾けてしまうん
だ。弾き終っても快感など感じなかっただろう。アリサが演奏を終
え、舞台裏に下がってきたときの顔を私は忘れられない。﹂
102
今のアリサからは想像できない姿だ。
以前にアリサのピアノ演奏を聞かせてもらったとき、ものすごく
集中して演奏していたし、弾き終わったときのあの顔を晃は忘れら
れない。とても楽しんで弾いていたに違いないのだ。
﹁その後、次の子の順番になってな、男の子だったんだが、その演
奏はめちゃくちゃなものだった。・・・いや、言い方が悪かったな。
子供をそのまま表現したような演奏だった。しかし、その曲は聴い
たことがない曲で、後でその子の講師に確認すると、その曲はその
男の子のオリジナル曲だったんだという。私は驚いたね。荒削りで
はあったが、アリサと同い年くらいの子供がそれだけの曲を創り上
げたんだ。アリサとは違う種類の才能を感じたね。私は。﹂
何か聞いたような話だ。いや、誰かに聞いたのではなく、何か引
っかかるのだ。
﹁アリサはそれに食いつくように見ていた。下手な演奏だったのに、
アリサのその眼は輝いているんだ。それを見た私は、その講師の人
にその男の子と連弾をさせてみないかと提案したんだ。その講師は
快く承諾してくれて、次の年にその男の子と連弾することになった。
﹂
﹁そういえばアリサ、連弾はしたことあるって言ってたな⋮⋮﹂
晃はつぶやく。それはロデリックにも聞こえていたようで、その
言葉に便乗するように続ける。
﹁あぁ。それからアリサは週に二回ほどその子のピアノ教室で一緒
に連弾の練習をするようになった。そのときのアリサは本当に楽し
そうだった。発表会の時も、とても楽しそうに演奏するんだ。その
男の子がそれほど上手い演奏をしていたわけではないのに。言い方
はまた悪くなるが、その男の子に足を引っ張られていても楽しそう
だったんだ。﹂
同じような話をアリサから聞いた。連弾を始めてしたとき、とて
も楽しかったのだという。それがきっかけで連弾にこだわるように
なって、晃に連弾の勧誘を始めたのだ。
103
﹁ちなみにその写真があるのだが、見るかい?﹂
﹁え、でもアリサに黙って見るのは⋮⋮﹂
少し遠慮がちに答えるが、一方で見てみたいという興味もあった。
それを察したのか、ロデリックは﹃待ってろ﹄といいながら部屋を
退出する。
ロデリックが戻るまで再びワインを口にする。まだ酔いは着てい
ない。そもそも両親共にお酒には強い。お酒の強さは遺伝すると言
われていて、その影響か、晃もお酒には強いほうに分類される。た
だし、度が高いお酒を飲むとなるとどうなるかわからない。そもそ
も度が高いお酒など飲ませてくれるわけもないわけだが。
しばらく待つと、ロデリックがアルバムを持って戻ってきた。
﹁待たせたね。﹂
そうしてテーブルにアルバムを広げ始め、次々とページをめくっ
ていく。幼少のころのアリサが多く写っていて、どの写真にも気品
というものを感じる。一般的に撮られる﹃子供のころの裸の写真﹄
は一切入っていない。乳幼児のころの写真にもしっかりと服が着用
されている。晃がそのアルバムを見るのに躊躇ったのはそう言った
写真がある可能性があったからである。目的のページにたどり着い
たとき、ロデリックはページめくりを中断し、晃に向ける。
そこにある写真は、アリサが発表会でピアノを演奏する風景が写
っていた。連弾をやっているらしく、アリサの顔はとても楽しそう
に笑っていた。その風景は四方八方から二人の顔が撮られている。
﹁嘘⋮⋮だろ⋮⋮﹂
それをみた晃は驚愕する。
アリサが弾いているピアノの前に広げられた楽譜を見ると、そこ
には﹃子犬がはしって、でんぐりでんぐり﹄という曲名が書かれて
いた。アリサの部屋で見た楽譜と同じものだ。
晃が驚愕したのはその楽譜にではなく、アリサと一緒に演奏して
いる男の子の写真だ。
104
﹁これ⋮⋮⋮オレだ⋮⋮﹂
105
?
アリサは仮面をかぶっている。見栄を張って他人に良い印象を与
えるためではない。単に、自分の本心を隠す性格なだけだ。これは
自分が受けた境遇が生み出したもの。時々アリサは思う。こんな性
格になったのはいつからだったかな。小さい頃は一般的には静かで
おとなしいほうだったとしても、もっと感情を出していた気がする。
自分がピアノを弾いているときにペダルに足がとどかなくて泣いた
記憶もある。それが原因で立って演奏していたら親に笑われて、そ
れで恥ずかしかったことも覚えてる。多分それは顔に出していただ
ろう。しかし、ある日突然自分の感情に壁を作るようになった。コ
ンクリートで塗り固められたその壁を破るのは容易ではない。そん
なアリサの壁を簡単に射抜くことができた少年が一人存在する。清
水晃。彼になら、そのコンクリートで作られた壁を崩せるのだ。親
に対しても、許婚に対しても、友人に対してもコンクリートを作っ
ているのに、晃に対してだけは違う顔を見せる。見栄を張ってると
いってもいいだろう。
なんでそんなことをするようになったのか。自分でも覚えていな
い。
小さい頃。ピアノ演奏で、さらに言えば曲に対して面白くないと
実感してしまったアリサは、父親にある会場に連れて行かれた。市
民会館だった。そこで多くの人がピアノ発表会を行っていて、自分
の知らないうちに応募させられていたのだという。
参加者は舞台裏に集合することになっていたため、保護者として
付いてきていた父親は喫茶店に行って時間になるまで待っているの
だという。舞台裏に集合した参加者は、簡単なリハーサルを行った。
舞台上にあるピアノを順番の通りにそれぞれ演奏する。年齢の低い
ほうから高いほうという順番にプログラムを組まれ、同い年の場合
は誕生日が早い順番になっている。アリサは比較的早いほうに演奏
106
することになった。演奏した後、それを聴いていた大人たちが驚愕
しているのを覚えている。そんな中で自分の演奏を聴いても全く動
揺していない少年がいた。アリサと同い年くらいの子供で、少しだ
け関心した。自分と同等の演奏ができるのかと思った。しかし、彼
の演奏は粗末なものだった。年相応といえばそうなのかもしれない。
舞台裏にいるのは、発表会の主催者や、参加者の指導者などが集
まっている。指導者のいないアリサは一人で自動販売機で購入した
缶ジュースを飲みながら時間をつぶしていた。そこでたまたま聞い
た、その少年と話を指導者が話していた内容を聞いたとき、少し驚
愕した。その演奏は少年が作ったオリジナルの曲なのだとか。
曲に対して面白いと思えなくなったアリサには思いつかなかった
発想だった。既存してある曲を演奏するのがつまらないなら、自分
で作ればいいじゃないか。そう思った。
リハーサルのときはあまりよく聞いていなかったため、アリサは
自分の発表が終わると同時に少年の演奏を食いつくように見ていた。
自分もそれができるようになるために。
しばらくすると、アリサは実際にその少年と接触する機会が生じ
た。父親のロデリックがその少年と一緒に連弾をすることを提案し
てきたのだ。もっと間近でその子を見ていたいと思っていたのであ
りがたい提案だった。断る理由がない。即決だった。
少年の名前を知ったのはそれからしばらくした後だった。とはい
え、知れたのは姓だけで、下の名前を知ることがなかった。週に二
度、彼の通うピアノ教室で連弾の練習が始まる。次の年の発表会ま
で彼とピアノの練習ができる。なかなか息を合わせることができず
に苦労したが、それが曲を作る目標を見つけたとき以上に楽しかっ
た。完璧に演奏することより、誰かと一緒に演奏する楽しみのほう
に集中しだしたのだ。一人でなら完璧でできるピアノ演奏も、二人
になるとその難しさは無限に広がり、そしてまた演奏の味も変わっ
てくる。
アリサは発表会が終わり、しばらくするとその少年の通うピアノ
107
教室に顔を出すことになった。しかし、その少年はピアノ教室をや
めていたのだった。そのときからずっと疑問に思っていた。
﹁清水⋮⋮なに君なのかな⋮⋮﹂
◆
﹁これ⋮オレだ⋮﹂
晃は驚愕する。昔に連弾をしたことがある晃だったが、そのこと
をあまり覚えていない。連弾をしたことがあるという事実だけを覚
えていたのだが、これがそれを証明する。晃と昔連弾したときの相
棒がアリサだったのだ。
その事実を知ってからだんだん思い出してきた気がする。確か、
その相棒はピアノがかなり上手だった気がする。はじめに演奏を聞
いたのが発表会の舞台で、あの時は自分の演奏のことで思考が精一
杯だった。まさかその次の年に彼女と連弾することになるなどとは
思っていなかった。
﹁なんだ。君は覚えていないのかね。﹂
ロデリックはぶどう酒を飲み込む。
﹁アリサはずっと、君との演奏を夢見ているようなこと言っていた
のだがね。﹂
なぜか晃に対して失望するようなことを言うロデリック。
しばらくどちらも口を開かなくなった。ただ用意されたワインを
飲むだけの空間。
最初に口を開くのは晃だった。
﹁あの、ずっと気になってることがあるんですけど⋮⋮﹂
急に話題を変えないとこの空気を変えることをしないとこの場に
いるのが苦になってしまう。
108
﹁なんだね。﹂
ワイングラスをテーブルにおいて晃の話を聞くことに身構えるロ
デリック。その姿からなぜか警戒心のようなものを感じてしまう。
﹁アリサは、なんであの屋敷に一人で住んでるんですか。ロデリッ
クさんと一緒に暮らしてるとか、使用人みたいな人がいるとかなら
まだしも、アリサさんがたった一人で。一人で住むのには広すぎる
でしょ。あの屋敷は。﹂
その質問に対する回答はすぐには返ってこなかった。
ワインを口にすることなく、その回答を考えている。
﹁君はどう思うかね。﹂
急に真剣になるロデリック。その顔を見ると、不意にあの顔を思
い出す。アリサの家でカレーを食べているときに見せたあの顔だ。
隠していることを話すと言ってくれたときだ。結局、その言葉の続
きを聞くことはなかったが、その内容は真剣なものだったのではな
いかと思う。
﹁失礼なことを言うかもしれないですが⋮いいですか?﹂
﹁構わない。﹂
前置きをしておいたから続きを発言す。
﹁アリサが家族から隔離されているようなイメージを持ちました。
人間味を感じない世界で一人で日常を過ごしているイメージが流れ
出してくるんです。一人でご飯を食べて、一人でピアノの演奏をす
る。そんな感じの日常を想像してしまって、正直心苦しかったです。
﹂
﹁うむ、正直な感想でよかったぞ。﹂
何かに関心したのか、ロデリックは顔を縦に振って、二回手を叩
いた。
﹁隔離されているというのは確かに事実かもしれないな。﹂
﹁え⋮﹂
﹁ただし、隔離されたのはアリサではなく、私自身なのだがな。﹂
ロデリックは物思いに耽りながら言う。何も言えずに晃はロデリ
109
ックが続きを言葉にするのを待った。
﹁君、今なにか足りない気がしないかね。私達一家に。﹂
そう言われてどう答えるか考えるが、思い至らない。そもそも足
りないものというのはしっかりと明確化されすぎていて、それが答
えであるとは考えにくかった。
とりあえず明確化されすぎている答えを口にする。
﹁えっと⋮家族と一緒に暮らすという一般的に言う当たり前の日常
⋮とかですかね。﹂
そう考えると、自分の家族にも何かが欠落しているようにも見え
るから嫌だ。
﹁確かにそうだが、それ以上にあるだろう。何かが。﹂
晃の思った通り、これはロデリックが考えている“欠落”とはま
た別のものだった。それ以外に、晃にはわからなかった。それを見
たロデリックは言う。
﹁君とアリサの常識は少し似ているのかもな。普通ならそれが異常
なことなのだが、君やアリサにとっては当たり前のそれだ。﹂
何を言っているのかがわからなかった。
しかし、ロデリックが次に言う言葉によってそれは納得せざるを
得ない状況になっていく。
﹁母親の存在だよ。﹂
﹁あっ⋮﹂
正確に言えば、晃に母親がいないのは家の中限定だ。会おうと思
えば会えるし、電車には乗らないと会えないが、それほど遠い距離
でもない。アリサにとっての父親と同じようなものかもしれない。
﹁アリサの母親、つまり私の妻は昔、アリサが小学5年生くらいに
病で亡くなってしまっているのだ。﹂
そのとき、無性に感情が高ぶるのを感じた。
﹁全てが変わってしまったんだ。私は心理的に病んでしまって、危
うくアリサに手を出すところだった。あれは思い出したくない。恐
らくアリサもそれがトラウマになっているのだろう。本当に悪いこ
110
とをしたと思ってる。見るかい?妻の写真を。﹂
晃は小さく頷く。すると、ロデリックはアルバムのページをめく
って晃に見せた。
﹁これが私の妻、アリシア・ロデリックだ。﹂
その写真を見たとき、一瞬疑ってしまった。写真の状態から見て、
かなり古い物だろう。おそらく十年は前の写真だ。見たところ、十
代後半と言ったところだが、その姿は今のアリサにかなり似ていた。
一瞬アリサなのではと思った程だ。
少しだけ全貌が見えた気がする。アリサはアリシアというロデリ
ックの妻に似ていた。最愛の妻を亡くしたロデリックは病んでしま
い、たまたまそこにいたアリシアに似たアリサを妻と勘違いをして
しまい、手を出そうとしてしまった。そのことにアリサはトラウマ
を感じていて、恐怖の的になっているのではないかと思った。しか
し、そうするとロデリックの言葉に矛盾が出来てしまう。二人きり
で買い物などに行ったときは特に恐怖など感じられなかったとロデ
リックは言う。それは恐らくアリサに対して手を出そうとしてしま
う一件の後だったのだろう。それをトラウマに思っているなら、ア
リサは少なくとも気兼ねなくショッピングを楽しむなんて出来ない
のではないだろうか。
﹁私はまたあの事件が再発するのが怖くなった。またあの顔を見る
と手を出してしまうのではないかと怖くなって、私はこのビルを買
って、ここに暮らすようになったんだ。﹂
ロデリックはワインに注がれている酒を飲み干し、再び瓶から注
ぎ始めた。どんだけ飲むんだよと思いながらその光景を見る晃。晃
も釣られてグラスに注がれたワインを飲み干す。すると、黙ってロ
デリックはグラスにワインを注ぎ始めた。まだ飲めるだろう。と眼
で言っているようだった。
﹁じゃあ、アリサの婚約者っていうのは⋮?﹂
今までの話で一切出てこなかったキーワード。あの貞治というも
のがアリサとあの関係を持ってしまっているのに理由があるような
111
気がしてならない。
﹁あぁ、それはだな。私の独断なんだ。﹂
晃の時間が止まった気がした。
それだけ聞くと、アリサは自分の意思に関係なく婚約させられ、
そして将来が決定された人生を送らなければいけないような気がし
た。そのアリサの人生にどうしてそんなことができようか。どんな
時点でそれが決定してしまったのか。アリサに自我があったときか、
それともまだ生まれたばかりに決まってしまったのか。どちらにせ
よ、気持ちのいい話ではない。大人の世界ではよくある話かもしれ
ない。大人になればどの人が好きかどうかよりも、経済が安定する
かどうかで結婚を決めることが多いだろう。この話はそれの一貫な
のかもしれない。でも、晃とアリサはまだ子供なのだ。好きな人と
恋人になって、好きな人と結婚したいと思うのは当然の話だ。しか
し、あの反応からしてアリサはあの婚約者をよく思ってるわけでは
なさそうだ。
﹁アリサは母親を亡くして傷心していた。だから何か代わりになる
何かがあればその傷は癒えるのではと思ってな。それが何かと考え
たらそれは恋人だったんだ。だから知り合いの息子である貞治くん
を宛てがったんだが、それがなかなか上手くいかなくてね。﹂
つまりアリサは父親の勝手な思い込みが原因で許嫁ができてしま
い、自分の感情を殺すきっかけとなってしまった。アリサは母親が
亡くなったことであんな性格になったのではない。そのあとの父親
の行いが全てを物語っていた。
全てに納得が行ってしまった。あの一人で暮らす無駄に広い屋敷。
父親や貞治に対するあの恐怖感。友人たちに対する厚い壁は父親が
許嫁を宛てがったことで本音が言えないような生活を強いられてき
たからではないだろうか。そして、晃にだけ見せるあの素直な感情。
それにも納得が行った。
全てがわかると、それは怒りに変わった。テーブルを乗り上げて
ロデリックに掴みかかりたかった。しかし、そのロデリックの顔を
112
見ると、全てが自分の責任であることがわかっているようで、手を
出すことができなかった。
無性に腹立たしかった。そんなことを知らずに晃はあの場にアリ
サを置いてきてしまったのだ。情けない。自分の力のなさに苛立ち
を隠せなかった。
﹁貞治という人は、どんな人なんですか⋮﹂
少なくともアリサの気に入る人物ではないことは明らかだ。
﹁貞治くんは社会慣れしている。恐らくアリサと同じように、幼少
のころから大人の世界で生きてきたのだろう。目上の人に対する人
当たりはかなり評価できる。しかし、目下のものに対する人当たり
は別だ。それを目撃したとき、底の知れない腹黒さを感じた。本当
にあれが貞治くんなのかと疑ったものだよ。﹂
目下のもの。つまり、アリサのことだろう。大人や年上に対して
はいい顔をして、年下の前ではいじめっ子になるという典型的な子
供のタイプだ。アリサは幼少のころからそれを直接受けてきたのだ
ろう。
晃は瞬間、勢いをつけて立ち上がった。テーブルに置かれたワイ
ングラスが揺れて落ちそうになるが、そんなことに気を向けていら
れなかった。
﹁アリサを⋮その腹黒と二人きりでいるんですよね⋮あの屋敷に﹂
﹁⋮そうだな。﹂
﹁なんで⋮そんな男と二人きりにしたんですか!﹂
晃は抑えきれずに怒鳴りちらしてしまった。理性より先に感情が
働いてしまったのだ。
﹁そんなことをわかっていながらそのままにして帰るなんて、アリ
サを見殺しにしたのと同じじゃないですか!﹂
こういう場面でその言葉を使うのは不謹慎だっただろう。しかし、
それを言わざるを得ないほど、晃の感情は高ぶっていた。
それを受けたロデリックは、この状況を素直に受け止めて言う。
﹁大丈夫。性格は腹黒いかもしれないが、性根は悪い人ではない。﹂
113
その言葉には何かの確信を感じた。
﹁アリサの背中を押してくれるかもしれない。﹂
114
?︵前書き︶
お久しぶりです。
なかなか投稿する時間がなくてかなり間が空いてしまいましたが、
まだ続きます。
待ってくれてる人は少ないとは思いますが、精一杯書いた自己満足
小説です。
今回の話はむちゃくちゃぶっ飛んでます。
もう連弾とかいうタイトルからかけ離れてるだろうという突っ込み
をしてくれることを待っています︵チラッ
115
?
学校のクラス一人は必ず、人をまとめたり、人気を集中させてる
ような中心的な人物が存在する。その人は委員会に積極的に参加す
るものや、人と接することに慣れているものが多い。人間関係の中
和になったり、友達の中間地点になることで新たな出会いというも
のを醸し出す存在でもあることが多い。その存在が途端にいなくな
るとそのクラスは気まずい空気が流れる。その人を通じて話してい
た友人とは途端に話さなくなることもある。
昼休みの今、清水晃が目の当たりにしているのはその光景だ。
いつもどおりの教室。いくつもの友人グループで構成されるその
クラスに一点、澱んだ空気を醸し出すものがある。いつもあの女子
が絡んでいる女子グループだ。あの女子が絡む女子はいつも明るく、
かわいい女の子が集まるグループとしてクラスの注目を集める節が
ある。しかし、その影は薄くなりつつある。
原因はあの女子、アリサ・フレッカーがいないことだ。
かわいい女の子のグループとはいえ、そのかわいさはアリサに敵
うわけではない。彼女いわく﹃人間関係に優劣をつけるのはおかし
な話だ﹄というが、実際それは存在しているものだと改めて照は思
う。
あの出来事から一晩が経った。ロデリック・フレッカーと会談し
たあと、晃はベッドに潜り込み就寝した。その後、ロデリックの送
迎で学校に到着。若干注目を浴びた晃は眉間に皺を寄せかけていた
が、それでもこの時間まで耐え忍んだ。
相変わらず晃は一人での昼食。クラスには少し話す友人というも
のはいるが、それでも晃はあえて一人での食事に没頭する。
﹁清水君・・・﹂
そんな彼に突如話しかける女子の声。いつもアリサのグループで
仲良く過ごす女子の一人だ。
116
﹁えっと、ごめん、誰だっけ﹂
イワイ
ナオ
﹁え・・・、一応一緒のクラスなんだけど・・・・・・、岩井直緒
っていうんだけど・・・﹂
﹁あぁ、そっか。確かそんなのもいたなぁ。﹂
晃は改めて自分が人の名前を覚えるのが苦手なのだと実感する。
﹁で、岩井さんが何か用。﹂
﹁うん。﹂
言いながら直緒は晃の手をとり、無理やりいつもアリサのいるグ
ループの元に連れていく。その光景を興味本位で注目するクラスメ
イト。その視線が晃には痛痒かった。
﹁えっと・・・なんで俺は拉致られたの。﹂
アリサのいるグループをアリサグループと名づけ、そのグループ
は晃を席に座らせると、一手に視線を集めた。妙に真剣な顔をして
いるように見える。
﹁単刀直入に聞くけど、昨日、アリサと何があったの。﹂
真剣な顔というより、何か怒ってるような顔をしている。
﹁何がって・・・えっと、﹂
質問の答えとしてはアリサの家に行ってピアノの練習に付き合っ
てもらって、そのうえ泊りがけで練習することになったんだけどそ
の場にアリサ父と貞治というアリサの許嫁が現れ、なんやかんやや
やこしいことが起こって、その気まずいなかで晃は帰宅してしまい、
その後アリサ父の家に泊まって会談をしたのだというのだが、それ
を晃の判断だけで行っていいものではない。言うまでもないが、こ
れはアリサのプライバシーの関わる。気軽に行ってそれを侵害する
わけにはいかないだろう。
晃は素直に言う。
﹁答えることができない。﹂
ここで晃が﹃なんで俺に聞くの。﹄と聞いていればややこしくは
ならないだろう。クラスの人気者で、尚且つ男子にモテる完璧超人
が、クラスの隅っこで独りでなんやかんやすることしかできない冴
117
えない男子と恋愛関係に持ち込むようなことはないだろうという思
考が生まれる可能性がある。しかし、そんな言い方をしてしまうと
更なる誤解が生まれてしまう。
﹁答えることができないって何。﹂
あからさまな怒りの感情を乗せる女子。周りに人が集まってきた。
男子も女子もこの話に興味があるのだろう。さすがアリサ。素直に
晃はそう思った。
﹁できないからできない。それ以外は言えない。﹂
その言葉が女子の怒りを感じてしまう。
﹁あんたが何かしたんじゃないの。﹂
﹁最近アリサが君に話しかけてくれて優位に立ってるつもりでいる
のも知ってるんだよ。﹂
晃も思わず眉間に皺をよせる。
﹁は?なにそれ。﹂
言葉も喧嘩腰になってしまう。
﹁それであんた調子に乗ってるんでしょ。アリサに強引に何かをし
て傷つけて、それで学校に来ないんじゃないの。﹂
﹁あんたら何が言いたいの。﹂
﹁だってさ、こんなこと初めてじゃん。アリサが学校に連絡なしに
学校を休むなんて。学校サボるような子じゃないよ。アリサは﹂
それは晃も同意するが、
﹁だから、何が言いたいの。あんたら。﹂
﹁そこまでしらばっくれるんだ。アリサに手を出したんでしょ。あ
んた。﹂
﹁はぁ?﹂
﹁そうじゃなきゃアリサが休んだりするわけないじゃない。仮に君
が何もしていないとして、理事長に送ってもらってたよね。何かあ
ったんだよね。言ってもらわないと私たちも誤解が溶けないんだけ
ど。﹂
﹁そもそもそれ誤解じゃないんじゃね。﹂
118
﹁あのさ、完結に言ってくんない。何が言いたいの。﹂
﹁あんたがアリサを強姦したんじゃないかって聞いてんだよ。﹂
ここまで聞いていくと、このアリサグループはアリサが学校を休
んでいるのは晃がアリサに乱暴をしたのが原因だと思い込んでいる
のだろう。このクラス全員の顔を横目で覗いてみると、明らかに晃
に敵対心を抱いている。彼らもアリサグループと同じ考えを持って
いるのかもしれない。
アリサが学校を休むのはピアノのコンサートがある日や、病気に
侵されたときなどだが、そのときは必ず学校に連絡が入り、教員が
クラスにそれを通達することで事情を把握する。今回はそれがなか
った。アリサは学校を無断で欠席しているのだ。
確かに思い返してみると、晃は調子に乗っていたのかもしれない。
アリサに話しかけてもらって、仲が良くなって、弁当を作ってもら
って、彼女のピアノを間近で聴けて、そんな彼女にピアノを教えて
もらって、彼女の家に招待してもらってと今までの晃ならありえな
い光景を連続して見ていたのだから無理はない。しかし、それを女
子の勝手な妄想で汚されているのは気に入らない。不快な思いを巡
らせる晃。
﹁そんなのあんたらの勝手な妄想だろ。﹂
﹁なら昨日何があったのか言ってよ。それで私たちが納得するなら
ここで謝罪するからさ。要望するなら土下座でもしてあげる。﹂
﹁直緒ちゃん真面目∼﹂
昨日あったことを素直に話してしまえば本当に彼女らは謝罪して
くれるだろう。そもそも彼女らは真面目な部類だ。言葉遣いが乱暴
なものはいるが、いざという時はしっかりとした一面を見せる。学
校を無断で休んだり、変な噂がたったりなどはしていない。しかし、
晃はそれを言うわけにはいかない。
﹁申し訳ないけど、本当に言えない。﹂
彼女のプライバシーに関わることだから。そう言いかけ、晃はや
めた。この発言もアリサのプライバシーに関わってしまうと思った
119
からだ。
﹁なんで。﹂
﹁その理由も言えない。言ったら言ったことに近くなるから。﹂
その瞬間、一人の男子生徒が晃の胸ぐらを掴んできた。
﹁調子に乗ってんじゃねぇぞ。清水。﹂
晃は怖かったが、勇気を出していう。
﹁乗ってるかもしれない。けど、お前たちに言われる筋合いはない。
﹂
晃は正論を言っているのではない。感情をむき出しにしているの
だ。危うく手を出して暴力沙汰にしてしまいそうな気持ちになって
しまう。しかし、それをしたあとにアリサの顔が見れなくなってし
まうのが晃は今以上に怖い。すると、男子生徒のほうが晃に殴りか
かった。晃はアリサグループの集まるテーブルに打ちのめされ、机
や椅子が乱れてしまう。
女子が悲鳴をあげる。それでも男子生徒は晃の胸ぐらを再びつか
み、言う。
﹁てめぇが何をしたのかっつってんだよ。言えつってんだよ﹂
再び晃の頬を殴り、地面に頭を打ち付ける。口からは血が出てき
ていて気持ちがわるい。
そもそも晃は暴力沙汰が苦手だ。極力不良とは付き合わないよう
にしていたし、暴力沙汰を見つけても見て見ぬ振りをしていた。な
るべく関わらないようにしていた。そんな自分が暴力沙汰の中心人
物になるとは思ってもみなかった。痛い。このまま昨日のことを吐
いてしまおうかと思った。でも言えなかった。言いたくなかった。
この時、晃は理解した。晃は昨日のアリサの顔を独占したいのだ。
誰にも見せたくない。自分だけに見せるアリサのあの感情を自分の
ものにしたいのだ。
何度も殴られる。顔の形が変わるのではないかというほどに。
さすがのアリサグループもこの光景に畏怖の念を感じで後ずさる。
彼女らも話をしていて暴力沙汰になるとは思っていなかったのだろ
120
う。少し話をして事情を聞いたら謝罪するつもりでいたのだ。しか
し、ここまで話さないものだから男子生徒も感情的になってしまっ
たのだろう。
晃はパンチの嵐から絶対に守らなければいけないものがある。そ
れは︱︱︱︱︱︱︱︱
廊下からはこの光景を傍観するものが多くいて、まるで何かの会
場に集まったファンのように人が密集している。その人だかりを横
切るように通り抜ける女子生徒が一人。彼女の顔を見て密集する生
徒たちはレットカーペットを敷くかのように道を開いていく。何か
威圧を感じているのかもしれない。彼女はその威圧を放ちながら人
ごみの道に導かれるように集団の中心位置にある教室にたどり着く。
彼女がその光景を見たとき、顔を真っ青にした。何かを言うが、
体中が恐怖で震えて仕方がない。自分の相棒がそこでタコ殴りにさ
れているのだ。
﹁晃・・・くん・・・﹂
彼女にとっては勇気を出して絞り出した大きな声だっただろう。
実際にはその声は小さく、誰の耳にも届いていない。
﹁晃くん!!﹂
この光景を傍観するものたちを力いっぱいに払いながら彼女は晃
に向かっていく。
その声に一瞬にして視線を集めるアリサグループを含むクラスメ
イト。晃を殴りかかる男子生徒も彼女に視線を集める。
その話題の中心人物であるアリサ・フレッカーがそこにいたのだ。
アリサは男子生徒から無理やり晃を引き剥がし、気を失いかけて
121
いる晃を抱き寄せる。
﹁晃くん・・・っ、大丈夫・・・!?﹂
﹁アリ・・・、サ・・・・・・﹂
気を意地で保つ晃が必死に声を出した。
﹁なんで・・・こんなことを・・・・・・﹂
アリサは涙を流していた。晃の顔を首元まで寄せて強く抱きしめ
る。
﹁アリサ・・・、清水君に何かされたんじゃないかって・・・大丈
夫なの・・・?﹂
直緒が言いながらアリサによっていく。肩に手を乗せ、アリサを
なだめようとする。
﹁大丈夫じゃないわよ!﹂
それは逆効果だった。
今まで見せたことのない感情の乱れに周りの人間は驚愕していた。
あの完璧超人なアリサ・フレッカーが一人の男子生徒のために涙
を流して感情をむき出しにしている。こんな光景を誰が予測してい
ただろうか。
﹁なんでこんなことをしたのかって聞いてるんでしょ。ねぇ。橘君。
なんで晃くんを殴ってたの。﹂
視線を晃を殴っていた男子に向けたアリサ。その目は憤怒の感情
に支配されていた。
﹁え、だってお前、清水に強姦されたって・・・﹂
晃の頭の下に自分のカバンを置いて枕がわりに置いたアリサは橘
の前に立ち上がった。瞬間、橘の頬を平手でシバイた。
﹁そんなことされてないわよ!﹂
アリサは力なく座り込んでしまい、晃の顔を覗き込む。
﹁晃くん・・・晃・・・くん・・・﹂
この顔を見るたびにアリサは悲しくなってしまう。あの冗談を言
って笑っていた彼の顔はアリサは好きだ。しかし、今殴られて血を
流して、声もやっと出せるくらいに苦しんでる顔を見るのは苦痛で
122
しかなかった。次々と涙を流していき、嗚咽も出してしまう。
﹁アリ・・・サ・・・・﹂
力を振り絞って晃は腕を伸ばし、アリサの頬を伝う涙を拭き取っ
た。
﹁ごめん・・・・・・なさい・・・﹂
泣きながら頭を下げて、晃の胸にアリサは額を重ねる。
﹁ごめんなさい・・・ごめんなさい・・・﹂
その声は次第に嗚咽に支配されていく。
﹁なんで・・・謝るの・・・﹂
何に謝られているのか、晃には検討がつかない。
﹁だって・・・私・・・・・・昨日・・・・・・っ﹂
嗚咽で声が出せなくなっていく。それでもアリサは声を搾り取る。
﹁何を・・・謝ってるのかわかんないけど・・・謝らなくて・・・
いいよ・・・﹂
言いながら晃はアリサの頭を撫でる。
もう彼らには周りの人物から注目されていることは忘れられてい
る。
アリサは涙と嗚咽を止めることができず、泣きじゃくっていく。
晃の制服がアリサの涙で濡れていった。
﹁アリサ、君が・・・どうしたいのか・・・だよ・・・﹂
少しだけ声を出すことに安定を持てるようになった。
﹁私・・・、私・・・﹂
嗚咽を抑えて、アリサは顔をあげる。晃の顔に面と向かって言う。
﹁君のことが好きです。ずっと好きでした。﹂
︱︱︱あの頃から
実際には言っていないが、晃にはそう聞こえた。
123
連弾を持ちかけたのも、彼女が晃のことをわかっていたからだ。
昔彼女と連弾して、晃は楽しかった。しかし、アリサにはそれ以上
に違う感情も芽生え始めていたのだ。それが恋心。しばらく晃との
接点もなくなっていた彼女は、ずっと夢の中で昔の彼を思い浮かべ
るだけだった。高校に進学すると彼がそこにいた気がした。清水⋮
何くんがそこに。しかし、彼の中からピアノというものを感じるこ
とができなかった。もしかしたら清水何くんと似ているだけかもと
思った。10年以上経つのだ。顔が微妙に似ていてもどんどん顔や
声が変わっていって、彼はたまたまその清水何くんと似ている何か
かもしれないと思って無理やり納得させた。しかし、音楽室で彼の
演奏を覗いたときに確信した。
︱︱︱あの時の彼だ。
だから、アリサは晃にあの話を持ちかけて、その後晃がピアノを
やめると言ったときに本気でショックだった。ずっと続けて欲しい
から、無理やり彼との接点と作って、家にも招待して、クッキーや
お弁当も作って、とにかく彼のそばにいたかった。アリサグループ
よりも優先することだった。アリサにとっては初めてのことだ。人
間関係に優劣をつけるのは。こんなに誰よりも優先したいと思った
ことはない。
﹁アリサ。﹂
そう言いながら晃はアリサの体を抱き寄せた。心臓の膨張が早く
なっていくアリサ。思わず本音を言ってしまったから動揺と緊張が
高まっているのだろう。
晃は続ける。
﹁俺、やるよ。ピアノ。﹂
告白の返事ではなかったと少しだけ愕然とした。晃はそんなアリ
124
サの気持ちを見ずに続ける。
﹁君と連弾がしたいから、続ける。だからさ、﹂
晃は抱き寄せていたアリサの体を突き放し、面と向かって言った。
﹁それまで付き合っていてもらえるかな。﹂
それが交際してくれという意味なのか、ただ単純にそばにいてく
れという意味なのか。アリサにはわからなかった。それでもアリサ
は嬉しかった。体から何か盛り上がるものがあった。
アリサは再び涙する。
先ほどの涙とは違う。
晃の顔を見て悲しむ涙ではない。
晃の言葉に喜ぶ涙だ。
︱︱︱︱︱ 晃はパンチの嵐から絶対に守らなければいけないもの
がある。それはピアノを弾くために、アリサと連弾するために必要
な指であった︱︱︱︱︱
125
?
﹁あなたってさ、相当バカだよね。﹂
不意に彼女がそう言う。
あの告白の後、教員の駆けつけによってその暴力事件は鎮静され
た。
顔中腫れだらけにした晃は保健室で治療を受ける。幸い、骨折は
していなく、歯も折れていない。完治するのにも数週間は掛かるが、
後遺症が残るものではなさそうとのことだ。とはいえそれは医師の
言葉ではないため、信憑性に欠ける。
学校の保険医に治療を受けているところに彼女が言った。
ある意味当事者であるアリサは晃に付き添っているのだ。その付
き添いで彼女は晃の手を掴んで離さなかった。それは今も続いてい
る。
﹁バカってなんだよ。﹂
﹁バカはバカよ。﹂
ムッとなった晃は言い返すが、同じ問答の繰り返しになる気がし
たため、アリサの言葉をまつ。
﹁だってさ、殴られる前に話しちゃえばよかったじゃん。
あなたは私に連れられて私の家に連れて行ってもらって、そこで
お父さんと私の許嫁に鉢合わせになっちゃって、そこで色々トラブ
ルがあったって言っちゃえばよかったのに。
なんで言わなかったの。﹂
アリサはあっさりしていた。
自分のプライバシーに関することを保険医の前であっさりと口に
する。正直彼女はこのことを秘密にしておいて欲しいのではないか
と思っていた晃は拍子抜けだった。
﹁お前は知られてもいいのかよ。そういうの。﹂
﹁そりゃ嫌よ。私だってこの学校に好きな人がいるわけだし。﹂
126
アリサは言って耳まで赤くする。先ほどまで晃のことを見ていた
瞳は逸らされ、直視することができなくなった。
﹁でも、それを秘密にすることで晃くんが殴られるのなら、そんな
の晒されたほうがマシよ。﹂
晃の手を握るアリサの手はその力を強める。それに晃は痛覚を感
じざるを得ないが、それは口にしない。
﹁晃くん。ダメよ。今度からは、そんなことあっさり言いなさい。
多分あなたのことだから、私のことを気遣ってくれたんだろうけ
ど、そんなのいらないから。
それより私は晃くんのことが心配なだけだから。﹂
晃は考える。
あの時はとっさの判断であの日の出来事を守秘していた。それは
アリサのプライバシーを侵害しないためでもあっただろう。その上、
彼にはプライバシーを守秘していた理由が他にある。それは口に出
すべきだろうか。・・・・・・出すべきだ。
﹁それもあったけどさ、﹂
晃が言うとアリサは逸らしていた目を晃に向ける。
﹁でも、オレは独占したかったんだと思う。
オレだけに見せてくれるアリサのあの顔とか、言葉とか、そうい
った何かが。
オレだけのものにしたかったんだと思うよ。
まぁ、それも今全部晒されたわけだけども。﹂
気まずい空気が流れる。晃は少し頬を赤くする程度だが、アリサ
はそれが顔全体に広がっている。その反応は思春期の人間としては
正しい。考えてみれば、クラスメイトの見ている中でアリサは晃に
告白をしたのだ。公開処刑という言葉を晃は思い浮かべる。
晃の顔にガーゼをある程度貼り付けた保険医は不意に立ち上がり、
そのまま扉に手をかけた。
﹁私は職員室に行ってるけど、変なことをしちゃダメよ。君たち。﹂
そう言ってにやけながら保険医はその場を立ち去る。
127
アリサはこの場に保険医の存在を忘れていた。忘れていてあの雰
囲気を作ってしまった。再びアリサは赤くなる。このまま勢いで体
中が赤くなってしまいそうだ。
そんな彼女を見た晃は素直に思う。
︱︱︱彼女もこんな顔をするんだな。
いつも澄ました顔しか見せなかった彼女が、今度は晃にしか見せ
ないあの崩れた笑顔を見せるようになった。いわゆる普通の女子高
生の姿だ。完璧超人の女神のような存在だったのが、晃の前では女
子高生の姿になるのだ。すごく光栄で嬉しかった。
二人きりになったアリサは不意に真面目な顔になる。
﹁あのさ、晃くん。ちゃんとしておきたいんだけどさ、﹂
真面目な話をするのだろう。それを察してか、晃も少し顔を強ば
せる。
﹁私、あなたのことが好き。もう言っちゃったからわかってくれる
よね。
あなたは?結局あの付き合ってくれっていうのはどういう意味?
ただ単純に一緒にいて欲しいってこと?それともこ⋮、恋人にな
ってくれって、ことなのかな?
ちょっとそこをはっきりさせてほしい。﹂
その言葉にはアリサの希望があった。アリサは晃と恋人になりた
いのだ。
それを知った上で晃は考える。
あの時に言った﹃付き合って欲しい﹄と言ったのは正直ピアノに
関することだ。しかし、彼女と恋人になれるのなら晃はそれ以上の
幸福はない。だから交際のきっかけになる﹃付き合う﹄ということ
にするのかと考えた。しかし、それは違う気がするのだ。硬い考え
方だとは思うが、晃はその時になんのつもりで言ったのかというも
128
のを重要視している。言うなら言霊だ。晃がもし好きな人に告白す
るのならそういったことを大切にしていきたい。だから、今回の件
で恋人になるべきではない。と晃は思っている。
﹁⋮正直、オレは連弾をするのに付き合って欲しいって言ったつも
りだ。﹂
アリサはそれを聞いて顔を濁らせた。失望したのだろう。このま
ま晃と恋人になって、色々なところでデートをして、そして男女で
営む何かというものを想像していたのだ。しかし、晃はそのつもり
ではない。その現実を突き詰められたのだ。
﹁⋮⋮⋮そっか。﹂
彼女は考えたあと、再び言う。
﹁じゃあ、さっきの続き。﹂
座り直した。スカートを直して足を揃え、髪を手グシで簡単に直
して膝に両手を重ねる。
﹁私と、付き合ってください。﹂
深々と頭を下げた。
緊張しているのだろう。こうして真面目な顔を作ってお見合いの
ように真面目な形で言わないと、自分の言いたいことが言えなくな
るのだろう。だから、あえてこういう緊張した空気を作ったのだ。
晃は下を向きながら迷っていた。
アリサと付き合って生活するのもいいだろう。晃もアリサのこと
が好きだ。しかし、仮に交際を始めたとして、それで何が変わるの
だろうか。晃は女性と交際する経験がない。だから何が起こるのか
わからない。軽く考えればいいのだ。そういう声もあるだろう。し
かし、晃にはそれができない。この出来事は突き詰めれば人生に関
わる何かになる。いい思い出にもなれば最悪のトラウマにもなりう
る。だから晃は考える。初めての出来事だからわからないというこ
とも理由にある。しかし、何がしたい。という問いかけにならすぐ
に応えられる。
︱︱︱アリサ・フレッカーと付き合いたい。
129
それには覚悟が必要だ。許嫁を退け、周りからの注目を気にせず、
そして彼女に嫌な思いをさせない。それをする覚悟が晃にはあるの
だろうか。正直その時になってみないとわからないという答えしか
返らない。
晃はアリサの顔を見る。眉間に少しだけ皺を寄せて、汗をかいて
いる。緊張しているのだ。それ以上に、彼女には覚悟がある。何が
起ころうとも晃を見捨てたりしないだろう。そんな彼女を見ている
と、晃は自分の小ささが憎く感じる。
いいじゃないか。これで。
付き合いたいなら付き合う。好きなら好き。子供の考え方で、こ
れは大人の世界では通用しないのだろう。しかし、今はそれでいい
んだ。
晃はアリサが好きだ。それでいい。今、それ以上に必要なものは
ない。
なら、晃が言う答えは一つだ。
﹁あのさ、﹂
アリサの告白から何分かかっただろうか。そんなにかかってない
かもしれない。意外と十分はかかってるかもしれない。それでも晃
は続ける。
﹁オレも、アリサのことが好きだ。だから、恋人になってくれるの
なら、オレは嬉しい。﹂
少しだけ間を空け、アリサはこの言葉の意味を理解する。つまり、
これでアリサと晃は恋人同士になったのだということになるのだ。
アリサは晃の胸に頭を押し付けた。背中に手を回して、体も押し付
ける。女性として、彼女の体は魅力的だ。晃も体を固くするが、次
第に腕を伸ばしていく。アリサの背中を包むように手を回して、体
を完全に密着させる。満足気な顔を見せるのではと思い、アリサの
顔を覗き込むが、物足りなそうな顔を見せる。一瞬驚いだが、思い
返した。その表現は正しくないのだ。物足りないのではなく、何か
130
を求めているのだ。晃にはその何かがわからなかった。その答えを
導く暇をアリサは与えなかった。
次第に顔を晃の顔に接近させる。そのまま止まることなく、晃の
頭とアリサの頭の距離は縮んでいく。その姿はスローモーションに
も見えた。
そして、アリサは自分の唇と晃の唇に重ねた。歯が少しだけ当た
ったが、構わずに舌を突き出す。アリサの甘い香りと、柔らかい唇
と、甘い舌。顔に直接かかるアリサの荒い鼻息。しかも体に押し付
けられる胸。彼女の心臓が直接晃の体に伝わっていく。彼女は興奮
している。晃の興奮を誘うには十分すぎる要素が詰まっている。
このまま勢いでアリサを押し倒してしまいそうだ。しかし、晃は
ぎりぎりの理性でそれを押しとどめる。無理やりアリサの体を引き
離して晃は言う。
﹁この続きは違うところでやろう。
オレの家でも、君の家でも。﹂
﹁⋮⋮ごめん。我慢できなかった。﹂
﹁いいよ。オレも嬉しかった。﹂
晃は遠ざかったアリサの唇に再び自分の唇で軽く触れる。
﹁オレたち、恋人なんだな。﹂
﹁うん。﹂
131
?︵後書き︶
ちなみに自分は女性経験がありません。
え?この物語は自分の妄想だろって?
そんなわけないじゃん!!
⋮⋮⋮そうだよ。
132
??︵前書き︶
ちなみに言うとこの話は実話を元に色々改造と妄想で構成された自
己満足小説です。
133
??
三年の月日が流れて、今まで続いていた生活も終止符を打たれる。
彼とは比較的仲がよかったかもしれない。学校では必ずグループ
になって色々話をした。彼も自分がピアノを弾いていて、それをや
めたきっかけとか、様々な事情を知っている。話すようになったき
っかけを自分は覚えていない。ただ、クラス替えで同じクラスにな
ったら自然と話すようになった。とだけ言っておこう。それがどん
な話題だったのかは一切覚えてない。
卒業式の日、その友人らと一緒にファミレスで食事をする。中学
生の彼にはお金がない。親からもらった少しのお金で安いものを注
文する。簡単なオムレツだった。大人のいないときにファミレスに
来るのが初めてだった自分はすごく緊張していた。これでお金が本
当に足りるのかといった不安があったが、実際に会計してみると余
裕があったりして、その緊張が取り越し苦労だったことを覚えてい
る。
その日、友人と分かれて帰路に入る。
︱︱︱もう卒業なんだな。
不思議と涙は出ない。そこまで思い入れがなかったのだ。ピアノ
がなくなってからは流れるような日常を過ごした自分は、友人と一
緒に過ごした時間が一番貴重なものだった。その友人と顔を合わせ
る日常がなくなったのだ。虚無感が自分を襲う。
高校生となった今、自分は彼と一緒に過ごした日常をあまり覚え
ていない。ただ仲が良かった。という印象しか残っていない。
その彼の名前は︱︱︱︱︱
134
◆
音楽室。金曜日に申請すれば借りることが出来る。普段は吹奏楽
部が占領しているその場所はその日だけは沈黙が占領する空間にな
る。それを利用して彼らはピアノの練習をしているのだ。ピアノの
練習するのは清水晃。彼はアリサ・フレッカーの恋人である。
この事実は校内で出回る学校新聞に大々的に取り上げられた。新
聞部の取材によって撮影された先日起こった暴力事件の後、晃に告
白するアリサの姿が写真に収められている。それにより、晃とアリ
サの関係は学校中の噂になりつつある。以前、アリサと話すように
なってから変な注目を集めていた晃だったが、今回はそれとは比べ
物にならないくらいの注目を集めた。
あれから4日経つ。
アリサと恋人になってからというもの、注目が集まる以外の進展
がない。ロデリックに何かを言われるもない。実はあれ以来キスも
していない。ただ一緒にピアノの練習をする以外の何かは起こらな
い。晃は思う。あの出来事は何かの間違いで、夢で、それでなけれ
ば一時の気の迷いというものなのではという疑いがかかる。
練習も一段落がつき、少しの休憩を設けられた。途端、隣に座る
アリサは晃の肩に頭を預けて自分の肩を重ねた。この行為こそ、自
分たちは恋人になったのだという確信を持たせるものである。
﹁晃くん。﹂
﹁ん、﹂
名前を呼ばれて晃は気のない返事をする。
﹁あのさ、今日さ、﹂
アリサの顔を覗くと、少しだけ緊張が晃に伝わる気がする。
﹁私の家に泊まらない?﹂
晃の顔を見上げるアリサ。これが上目遣いかと晃は思った。これ
は断ることができそうにない。というよりも断る理由がないのだ。
135
自分の家は相変わらず母の帰宅がない家庭で、帰宅しても晃は一
人の夜を過ごす。いつもと違うことといえば、アリサとケータイで
メールのやり取りをするようになったことだ。他愛もない内容だっ
た。﹃今何をしてる﹄とか、﹃今私○○動物園っていう番組見てる
んだけど、すごく動物が可愛いよ﹄とか、そういったものが送られ
てくる。晃にとってメールとは情報交換のやり取りという認識で、
今もそれは変わらない。集合時間になって﹃今どこにいる﹄﹃もう
すぐそっちに着くと思う﹄といった内容しかメールをやったことが
ない。そのため、アリサとのメールのやりとりは少し新鮮だ。
話がこじれたが、晃はアリサの誘いを断る理由がない。
もしアリサの家に宿泊するとなると何か準備が必要だろう。何が
必要かと言われて思わず晃は﹃下の準備﹄と答えそうになるが、た
だ単純にピアノの練習の延長線上という認識になってしまうかもし
れないと考え直していこうと思う。
﹁いいのか?﹂
﹁もちろん﹂
アリサも断る理由がないのだろう。即座に笑顔を作ってみせた。
瞬間、晃の首に手を回し、頭を晃の肩に乗せた。
付き合い始めてからキスは1度しかしなかったが、こうしたスキ
ンシップは多くなった。常に体を密着させて胸まで押し付けてくる
のだから理性を保つのもかなり大変だ。
晃は時々、アリサにはヤンデレの素質があるように思えてくる。
﹁じゃあ、準備しに家に一旦戻るから、またどこかで集合しよう。﹂
﹁どこがいいかしら。﹂
﹁学校とか、その周辺でいいだろ。﹂
﹁じゃあ学校ね。﹂
というやりとりが有り、晃は着替えなどの準備をしに一旦家に帰
るのであった。
前回は唐突に宿泊を決定したため、なんの準備もせずにその場を
やり過ごそうとしていたが、今回は違う。事前に宿泊を決定してい
136
たのなら話は別だ。着替えや歯ブラシなどの必需品の準備をする必
要があるのだ。
◆
本当なら晃は自分の家にアリサを連れて行って、そのまま準備を
して過ごせばよかっただろう。しかし、それをしなかった。それに
は理由がある。一つはアリサ・フレッカーという人物が女性である
こと。そして、晃が考えるに準備をする中で最も重要になるであろ
うものは卑猥なものになるからであるからだ。
普段からアリサからのスキンシップは激しいものを感じている。
流石に下半身まで行くことはないが、上半身でよく肩や胸部をさす
ってくるのだ。その上それなりに膨らんだ胸を晃に押し付けるので
ある。それもクラスメイトが見ているその中で。一度恥じらいはな
いのかと聞いてみると、アリサは﹃あなたは私のっていうアピール
よ。﹄という答えが返ってきた。それは逆のことも意味しているだ
ろう。要するに﹃アリサは晃のものである﹄と言って回っているよ
うなものだ。
アリサはモテる。それは言うまでもない。晃と交際をしていても、
何かをダシに男から言い寄られることは日常茶飯事なのだとアリサ
はいう。それは少し鬱陶しく思っているものでもあり、それでもあ
の完璧超人の笑顔で返さなければいけないという呪縛を自ら掲げて
いるため、言い寄られた後は疲れ気味な顔で晃の前に現れる。最近
では顔を見ただけで男に言い寄られたということを晃は察すること
ができる。そしてそれを癒してあげるのも晃の努めなのだ。
話は逸れたが、要するにアリサのスキンシップは普段から過激な
ものなのだ。もし二人きりの夜というシチュエーションで、そこに
ベッドがあれば男女の営みになってしまう可能性がある。その状況
137
で間違いが起こってはいけない。彼らはまだ高校生だ。覚悟はあっ
ても責任は持てない。正直その営みも高校生のうちにやってしまう
のは気が引けるというのが晃の正直な気持ちなのだが、それをアリ
サは受け入れそうにない。⋮⋮いや、受け入れるのではあるのだろ
うが、少し不本意な展開で顔を濁らせるかもしれない。
正直そういう状況にならなければいいと思う。その反面、そんな
状況になってみたいという気持ちが奥底に隠れているのも事実。そ
の状況になったら晃は断ることができないだろう。だから準備する
のだ。
財布にコンビニで買った輪っか状のゴムを忍ばせ、学校に向かっ
て歩き出す。アリサは待っているだろうか。恐らく音楽室でまだピ
アノを弾いているかもしれない。携帯で晃が学校に向かっているこ
とを伝えておき、急ぎ足で向かっていく。
学校に到着するのにそう時間は掛からなかった。校門で待ってい
るアリサの姿を確認すると、晃は走ってアリサの元にいく。
﹁お待たせ。アリサ。﹂
﹁あ、うん。大丈夫だよ⋮﹂
思ったより薄い反応で少し驚きを感じた。いつもの調子なら、晃
の顔を見た途端に抱きつくなりしてくるだろうとは思っていたし、
それを少し期待していた晃だったが、少しだけ気の抜けた顔をして
しまうのは仕方のないことなのだろう。
しかしこの反応は予想外だった。彼女の顔を見てみると、もう一
つの人影が見えた。
﹁こんにちは。清水くん。﹂
岩井直緒がそこにいた。
状況がなんとなくわかってきた。恐らく、晃のことを待つアリサ
に無神経に話しかけてきたのだろう。それまでは胸を躍らせていた
のを邪魔されていてこの反応なのだ。何が目的なのかは何となくわ
かる。この前の過剰な絡み方をした彼女だ。また晃がアリサに何か
脅しでもかけているものだと思っているのだろう。
138
あの事件からアリサは岩井直緒に対して敵意を持っている。もち
ろんそれをあからさまにするわけではない。今までどおりに接する
ように意識していることも伺えるが、どうもアリサは岩井を避け気
味になっている。
﹁えっと・・・こんにちは・・・﹂
空気の読まない岩井の行動に少し呆れながら言う。
﹁大丈夫よ。すぐにいなくなるから。ちょっと言いたいことがある
だけ。﹂
そう言いながら直緒は一歩前に出て片膝を地面につけた。
﹁は!?﹂
晃はその行動に驚きを隠せないでいる。
その動揺に構わず、直緒は両膝と手を地面についた。ゆっくりと
頭を下げ、地面と接触させる。
﹁ごめんなさい。﹂
﹁はい!?﹂
いきなりのことで晃は動揺を隠せない。アリサも驚いた顔を見せ
ている。
﹁あの時のこと、私たちの勘違いだってわかって、謝ろうとしたん
だけど機会がなくてね。だから邪魔になるかと思ったけど、私の気
がすまないから。アリサさんに対しても。﹂
﹁いや、そんなことまですることないって!顔を上げて!﹂
﹁そんなわけにはいかない。私のせいで清水くんはみんなに誤解さ
れたうえ、橘くんに殴られてしまって⋮本当に申し訳ないと思って
いる。﹂
﹁わかったから!わかったからやめろってば!それ!﹂
必死に土下座を止めようとする晃だったが、直緒はそれをやめよ
うとはしない。
晃は思い出していた。
あの時の会話の中、直緒は﹃私たちが納得するならここで謝罪す
るからさ。要望するなら土下座でもしてあげる。﹄と言っていた。
139
別に晃がそれを要望したわけではない。恐らく彼女の自己満足だろ
う。彼女にとって誠意を見せることはこういうことなのだろうと晃
は思う。しかし、それを晃が上から見ているのは気持ちがいいもの
ではない。
﹁やめなさいって言ってるでしょ。直緒。﹂
横槍を入れるのはアリサだ。その表情は誰から見てもわかる。こ
れは怒っている。
そう言われた直緒は顔を上げてアリサの顔を覗き込んだ。
﹁そういうの、迷惑するのわかる。私たちはあなたに土下座してほ
しいなんて言ってないよね。あなたの自己満足に付き合う気、ない
から。﹂
ここにはいつも見せる完璧超人のアリサはいない。ただの感情を
むき出しにするアリサがそこにいるのだ。
﹁行きましょ。晃くん。﹂
アリサは晃の手を引っ張り、無理やり前進させる。そこで跪く直
緒を放置していこうとするアリサ。晃のなかに少しの迷いが存在す
るが、アリサはそれを気にしない。
あからさまに怒っている。こんなことは初めてかもしれない。晃
だって、アリサのその顔を見るのは初めてだ。
⋮⋮⋮いや、二度目だ。一度目は晃が暴力事件にあっていたあの日
に見せたあれだった。
140
??︵後書き︶
アリサ﹁そういうの、迷惑するのわかる。私たちはあなたに小説書
いてほしいなんて言ってないよね。あなたの自己満足に付き合う気、
ないから。﹂
晃﹁やめたげてよぉ!﹂
141
??
アリサの家で泊りがけでピアノの練習をしている。学校の音楽室
でもアリサの指導のもとで練習をやっていたが、そのときとはテン
ションが違う。音楽室では素で楽しんでいたように見えた。しかし、
今は違う。楽しそうにしようと顔に笑顔を貼り付けているが、そこ
に暖かさを感じない。いつも他の人に見せる完璧超人のアリサが今
そこにいるのだ。和気あいあいとした練習風景を想像していた晃だ
ったが、現実は違った。緊迫に包まれているのだ。
そのきっかけとなったのはあの一瞬なのだろう。アリサグループ
の一人、岩井直緒が現れて、アリサはそれに対してあからさまな怒
りを見せていた。本当に怒っているのだろう。
今のアリサはどうだろうか。
怒っているのではない。だからといって、心から楽しんでるよう
にも見えない。
﹁晃くんって、鍵盤を全然みないよね。﹂
﹁うん?﹂
﹁もしかして昔の先生に鍵盤を見ないようにとか言われてない?﹂
﹁覚えてないなぁ⋮でも見ないのはクセになってるかも。﹂
﹁時々、チラっとだけでも見といたほうがいいよ。楽譜も見ながら
だけどね。﹂
それでもこうしたアドバイスを晃に与えてくれる。アリサにとっ
て、ピアノを弾くことは息をすることと同じなのだろう。感情に流
されていても、ピアノを弾く手元だけは狂わない。アドバイスの的
も外さない。この光景を見て晃は改めてアリサが天才であることを
実感するのであった。
いつもアリサは晃にくっついている。しかし、ピアノの練習をし
ているときだけはそれをしない。本気で晃と連弾をすることを考え
ているのだろう。もしくは、ピアノに対してだけは常に真剣で取り
142
組んでいるのだろうか。晃と連弾するという行為を除いても彼女は
晃の練習の妨げになるようなことはしないのだろう。そもそも彼女
がどこで本気を出して、どこで気を抜くのかということを晃は知ら
ない。ここは推測だが、アリサは常に本気を出している。しかし、
晃の前では少しだけ気を抜いているのではないかと思うのだ。
時々隣で見本としてピアノを弾くこともあるが、その際に指が触
れるとアリサは少しだけ微笑む。その反応は音楽室のときの練習よ
り薄い。先ほどは触れる度ににやけてるように見えたのだが、それ
は気のせいではないだろう。
練習も一段落がつき、アリサは﹃夕飯を作る﹄と言って席を外し
た。晃も手伝うよう名乗り出たが、アリサがそれを断った。その代
わり、アリサは晃に楽譜を渡した。連弾用の楽譜だ。それに目を通
しておくようにと念を押されて晃はその部屋に残された。言われた
とおりに晃は目を通しておく。
楽譜を見るときに重要なことは音符の高低ではない。リピートの
場所や、転調の有無などを見るのだ。というのはアリサの受け売り
なのだが、それを聞いていないと楽譜の全体を見ずにピアノに手を
出していただろう。その場合、リピートの記号があったとき、どこ
に飛ぶのかと演奏中に取り乱してしまう。転調があったとき、それ
に合わせて手の位置も変えないといけないため、それを事前に知っ
ていないと対応ができない。
晃が見た限りだと、この曲はあまり音符の高低は激しくない。リ
ピートも2回であり、転調はこの楽譜には存在しない。初心者向き
の連弾曲と言っていいだろう。しかし、この楽譜にはタイトルがな
い。食事のときに聞けば分かるのだろうが、もしかしたらアリサの
オリジナルかもしれない。
︱︱︱そういえばアリサはオリジナルの曲で発表会に出席した自分
に憧れていたんだっけ。
143
楽譜から視線を外して、晃は部屋を見る。
以前より紙の量が多く散乱している。アリサの性格上、部屋の整
理などはきっちりとやっているだろう。それを後回しにするほど晃
との連弾はアリサにとって重要なのだろうか。そう考えると少し微
笑ましくなる。同時に少し心配だ。自分の存在がアリサの生活習慣
を乱しているのだろうかと考えてしまう。
ふと目に入った楽譜に手を伸ばした。﹃子犬がはしって、でんぐ
りでんぐり﹄というタイトルの連弾曲の楽譜だ。晃とアリサが初め
て連弾をした曲だ。懐かしくなって楽譜に目を通している。譜面台
に楽譜を置いて、晃は当時引いていたパートの演奏を始めた。あま
りメロディーは覚えていないが、こうして弾いていると思い出して
くるだろう。もしかするとそのときの生活を思い出せるかもしれな
い。そんな期待を持って弾いてみる。
頭の隅であの曲のメロディーが想像できるようになってきた。思
い出してきているのだ。隣に謎の美少女がいて、彼女は別のパート
を弾いているのだ。それが絡み合って、晃はそれを快感に覚えてい
た。
流石にそのときの会話までは思い出せなかったが、自分の名前を
名乗っていなかったということは思い出した。恐らく彼女は晃のこ
とを﹃清水くん﹄であるとしか覚えていなかった。そして自分の名
前が﹃清水晃﹄という名前であることが分かってからは彼女は最初
から﹃晃くん﹄と呼ぶようになっていった。さすがの彼女も、親し
くない相手に対して下の名前で呼ぶようなことはしないだろう。実
際、晃を殴っていた男に対して﹃橘くん﹄と呼んでいた。晃の名前
を知ったことでアリサは嬉しかったのだろう。子供が欲しいものを
買ってもらってはしゃぐのと同じようにアリサははしゃいでいたの
だ。
ピアノを家で少しだけ練習して、時間になったらピアノの教室に
通う。そこで見知らぬ少女を紹介された。先生から﹃連弾しないか﹄
144
という提案を受けて、当時の自分は連弾の意味を知らなかったため、
とりあえず了承したのだ。それからは週に二回、謎の少女と一緒に
練習をした。自分のパートを弾けるようになったのはそれほど時間
はかからなかった。しかし、それを少女と合わせるとなると少し時
間がかかった。たぶん彼女には相当負担をかけただろう。それでも
少女は少し楽しそうだった。それに釣られて晃も楽しくなった。今
までピアノの練習といえば先生に言われたことを従順に従っていた
だけだったが、この時だけは違った。隣の少女にアドバイスを受け
ながら自分なりに考えて練習したのだ。自分で考えて練習したのは
これが初めてだ。
発表会が終わり、後日、晃は教室に通わなくなった。⋮⋮いや、
通えなくなったのだ。当時の晃は幼くて理解できなかったが、今考
えると当然の流れだ。晃の家はそれほど裕福な家ではない。昔は一
軒家でそれなりに広い家に住んでいた。しかし、経済状況が悪化す
るに連れて無駄なものを排除していった。それの一歩目がピアノ教
室だったのだ。父と母が離婚したのもその時期だ。そのあと安いア
パートに移住。それに伴って晃はピアノをやめることとなる。しば
らくは母と一緒に暮らしていた晃だったが、中学を卒業するころに
はまた母は違うところにまた安いアパートを借り、一人で暮らすよ
うになった。それが現在も続いている。
今の今までその謎の少女がアリサ・フレッカーであるということ
を知らなかった。
﹁晃くん。﹂
それから﹃子犬がはしって、でんぐりでんぐり﹄を何度も弾いて
いたときにアリサが現れた。同時に晃の演奏も止まった。
﹁それを弾いていたんだ。﹂
アリサは懐かしそうに楽譜をとって見る。
﹁まぁね。連弾の感覚を思い出したいと思ってな。﹂
﹁そっか。﹂
先ほどまでの気まずい顔が嘘のような表情を見せた。それに思わ
145
ず晃は見とれてしまったいた。
﹁ご飯、できたよ。﹂
アリサはそう言いながら晃の頬に口づけをするのだった。
◆
入学初日、アリサ・フレッカーという少女はすれ違う生徒に挨拶
をしていた。環境が作り出した社交性を駆使して上級生に対しても
躊躇なく挨拶をすることでそれぞれの生徒の顔を知ることができた。
名前も覚え、誰に話しかけられても鉄の仮面で対応できるようにな
ってきていた。
同じクラスに﹃清水何くん﹄に似た男がいるのを目撃した。彼女
はその人には挨拶できなかった。話しかけてしまうとどうしてもあ
の日々の出来事が頭に浮かんでしまって、鉄の仮面が意地できなく
なってしまうと思ったからだ。
それから何度か彼を見かけては、その姿をじっと見つめていた。
誰にもバレないように細心の注意を払いながら。
﹁誰を見ているの。﹂
しかし、それがバレてしまった。心臓が破裂しそうなほど緊張し
た彼女を見るのはその声の主が初めてだっただろう。
その主は岩井直緒だった。
﹁いや、あの⋮﹂
アリサは珍しく言葉を詰まらせてしまった。その姿は直緒にとっ
ては新鮮だっただろう。
﹁フレッカーさんでもそんな顔するんだね。﹂
直緒にとってはそれは面白いものだった。からかうでもなく、た
146
だ単純にそばにいて、それを見たかった。直緒はアリサの視線の先
を見てみる。そこにいたのは一人の少年だった。名前は直緒も知ら
ない。
﹁あの人?﹂
聞いてみると、アリサは今まで以上に固まってしまった。
アリサにとって、それは恋ではなく、確認のようなものだ。彼が
自分の思い浮かべる﹃清水何くん﹄なのではないかという考えがあ
ったのだ。直緒の質問でアリサは確信する。
︱︱︱彼は違う。
﹁違いますよ。少しほうけていただけです。﹂
﹁そっか。﹂
直緒はそれ以来、アリサに対して親しみを持って声を掛けるよう
になっていった。アリサもそれに釣られて直緒にどんどん心を開い
ていった。それは清水何くん以来だった。
147
??
今回の夕飯は前回と比べてシンプルな料理が多い。和食だ。白い
ご飯に煮込んだ白身魚、大根や豆腐など、具材があまり入り浸ない
シンプルな味噌汁。ほうれん草のお浸し。そしてメインは豚の生姜
焼きだ。豚肉が皿に3枚乗せられ、その下にキャベツの千切りが飾
られたシンプルな作りだ。
アリサは晃の隣に自分の分の料理を並べて座っている。
﹁アリサ、和食作れるのか。﹂
﹁うん。私、基本は洋食がメインなんだけど、たまに和食って恋し
くならない?﹂
それは分かる気がする。晃も昼にパンばかり買っていたが、時々
さが
おにぎりが恋しくなることがある。朝にツナマヨのおにぎりなどを
買ってパンの後に食すこともある。この感覚は恐らく日本人の性な
のだろうか。⋮いや、それだとアリサが例外的になってしまう。感
情を落ち着けたいときに和食を望むこともあるだろう。今のアリサ
がそうなのではないかと一瞬考えたが、それは杞憂だろう。
アリサは手を合わせる。それに合わせて晃は料理全体を確認しな
がら手を合わせる。すると違和感を感じる。自分の箸がないのだ。
﹁アリサ。オレの箸は?﹂
﹁ないわよ。﹂
さも当然のような回答に晃は意味が分からずに固まってしまう。
﹁いただきます。﹂
そんな晃の気も知らずにアリサはそういうので、晃も釣られて﹁
いただきます﹂と言ってしまう。
アリサは瞬間、晃の前に並べられた料理を箸でつかみ、晃の口元
に運んだ。
﹁あーん﹂
148
︱︱︱なるほど、こういうことか。
食事を最初から最後までアリサは晃に与えるつもりなのだろうか。
最初から晃の分の箸を用意されていないということはそういうこと
を考えていたのだろう。とりあえず晃はそれに甘んじる。
こういうやり取りは学校でも行われた。クラスメイトの視線に耐
えながらやっていたのであまり感覚は覚えていない。二人きりでこ
れをやるのは今回が初めてだ。
アリサの顔はにやけてた。胸の中で何かが温まるのを感じた。晃
は情に流されてアリサを抱きしめてしまいそうになる。しかし、今
は食事中だ。アリサは晃に甘い。だから大抵のことは許してしまう
だろう。その一方で、アリサは真面目だ。恐らく作法に対しては厳
格なものを持っている可能性がある。箸の持ち方も綺麗だし、晃に
与える食事もしっかりと三角食べをさせていた。正直に言えばこの
行為は作法を破っていることになるのではとも思うが、これも一興
だろう。やはり、アリサは作法に対しては厳格ではないのかもしれ
ない。しかし、最低限、例えるなら食事中に携帯をいじったり、口
の中に食べ物を含みながら会話をしたり、迷い箸をしたりなど、一
般常識で知られている作法はきっちりと守るだろう。
それでなくともせっかく作ってもらった食事だ。最後まで食べき
らないとアリサに申し訳なさを感じてしまう。
﹁晃くん。﹂
しばらく食事を与えてもらっていた晃だったが、不意にアリサが
その手を止めた。
﹁私にも⋮ね、﹂
言いながらアリサは箸を晃に差し出した。恐らくこれをずっと繰
り返そうとしているのだろう。
︱︱︱やはりアリサはアリサか⋮⋮⋮
149
アリサはあの出来事以来、仮面の顔しか見せてなかったが、晃に
甘えることでそれがはがされ始めているのだろう。
そう思いながら、晃は箸でご飯をつかみ、アリサの口に運んだ。
とても嬉しそうな顔をするので、晃も釣られて嬉しくなる。
それを繰り返し、普段の倍の時間をかけて食事を終わらせた。︵
さすがに味噌汁は自分の手にお椀を載せて直接口につけて飲み込ん
でいたが︶同時にアリサは晃に抱きついた。アリサも同じようなこ
とを考えていたのだろう。食事中に席を立つのを躊躇ったのだろう。
お茶を注ぐために立ち上がったりはしたが、晃に抱きついたりはし
なかった。
しかし、晃はその行動に違和感を感じた。
いつものアリサだったらここでいきなり抱きついたりはしなかっ
ただろう。いや、ただの気まぐれでそれをしたのかもしれない。だ
が、アリサがそういうことをするのはやるべきことをやってから実
行するのが常になっている。傍若無人に見えるアリサでも、一応は
常識人でもあるということだ。
さて、ここで感じた違和感とは、アリサはやるべきことをやらな
いで晃に抱きついていることだ。要するに食器などの片付けを終わ
らせていないのだ。先程も記述したが、アリサは常識人だ。晃がピ
アノの練習に没頭していることはわかっているだろう。それを理解
して、アリサは片付けながら晃にピアノの練習に向かわせると思っ
ていた。そもそも箸を一膳しか用意せず、お互いに与え合って食事
するというのにも違和感を感じる。さすがにそれはやりすぎなので
はないかと晃は思ったのだ。
﹃むしろあなたとのほうが猫かぶってるかもね﹄
不意に思い出したアリサのあの言葉。随分昔のように感じるが、
実際はつい最近の出来事だ。
﹁もしかして、アリサ。﹂
﹁ん?﹂
アリサは晃の首筋に唇を当てて優しく吸い始めた。痕でも付ける
150
つもりなのだろうか。
少し間があく。その間、アリサが晃の首筋を吸い付く音だけが響
いていた。
﹁猫かぶってる?﹂
それを言った瞬間、アリサは晃の首筋に吸い付くのをやめた。そ
して突然、涙を流した。
﹁アリサ?﹂
何も言わない。何も言わないで嗚咽だけがアリサの口から発せら
れる。
﹁どうした。﹂
やさしく問いかけてみる。
背中に左手を回し、右手でアリサの頭を撫でている。アリサから
は見えていないだろうが、晃なりに優しい顔をしているつもりだ。
﹁私⋮⋮﹂
アリサは晃の体に巻き付いている腕の力を強めた。晃の服を強く
つかみ、涙をこらえようとするも次々とこぼれていく。
﹁友達と⋮⋮喧嘩した⋮⋮﹂
いい切ったアリサは嗚咽だけを漏らして黙っていた。
晃は理解した。やはり、あの出来事がアリサを動揺させていたの
だ。さすがに喧嘩したというほど激しいものではなかった。一方的
にアリサが直緒に怒りの感情をぶつけていただけだ。アリサにとっ
てはそれが喧嘩だと思っているのだろう。
﹁そんなことはないぞ。﹂
言うが、それは慰めになっていない。晃はアリサを知らない。そ
れは恋人になったとしても同じだ。アリサは頭がいいから、晃の様
子を見ただけで大体のことは掴めるかもしれない。しかし、晃はそ
151
れができない。アリサの顔色を見てすべてを理解する能力を持ち合
わせていない。アリサが何かを言ってくれないと何もわからないと
いうのが今の晃だ。だからアリサが何に対して落ち込んでいるのか、
正直わからなかった。
ここは晃の推測だが、晃の思った以上に、アリサと直緒の仲はよ
かったのかもしれない。親友と言ってもいいだろう。そうでなかっ
たら暴力事件のきっかけとなったあの尋問に直緒が参加することは
なかった。彼女は真面目だ。真面目で、悪いことをしたら土下座を
することを躊躇わない。直緒もその尋問が暴力事件になってしまう
とは思っていなかっただろう。それに動揺して動けずにいたところ
にアリサが登場。アリサからしてみると、その暴力を起こした首謀
者は直緒に見えたのかもしれない。
アリサにとって、人間関係に優劣をつけたのは初めてだった。あ
れだけ﹃人間関係に優劣をつけるのはおかしい﹄と言っていたアリ
サが晃を優先することが初めてで、周りの人とどう接していいのか
忘れていた。
晃のピアノを聞いて、アリサは無意識に晃との出来事を優先して
いたのだ。そして無意識に直緒らアリサグループの交流を疎かにし
た。それに不満を爆発させた筆頭の直緒が晃に突っかかる。それを
見たアリサは選択を余儀なくされる。友人か、想い人か。それは簡
単に選択された。アリサは晃を選んだのだ。
夕方に待ち伏せしていた直緒と遭遇したとき、アリサは友人に掛
ける言葉を忘れてしまっていた。晃を優先していたためだ。言葉を
交わすことなく、アリサは立ち尽くしているところに晃が現れた。
そしてあの反応だ。恐らく親友である直緒を優先して晃に会ったこ
とを喜ぶと、また同じことが起こるのではと思ったのだろう。
晃に対して土下座をした直緒。アリサはその光景を見て複雑だっ
ただろう。想い人に土下座する親友の姿。それを快感に思えるわけ
がない。例え、彼女に嫌悪感を抱いていたとしてもだ。
土下座を止めようとしたアリサは思わず喧嘩腰であんな言い方を
152
してしまった。
そして、それを心配させまいと、そしてその不快感から逃れるだ
めに晃に甘えていたのだ。猫の仮面を被って。
ここまでの推察をまとめると、アリサにとって、喧嘩とはあの出
来事だけではない。晃のピアノを聞いた時から始まった優劣関係の
ことを行っているのだろう。
あくまでこれは推察だ。間違っているかもしれない。だからこれ
から掛ける言葉は間違ってるかもしれない。しかし、その言葉を掛
けないわけにもいかない。なぜなら、晃はアリサの彼氏なのだから
︱︱︱︱
﹁明日、友達をここに呼ぼう。﹂
明らかにアリサは動揺している。体が一瞬震えた。
﹁ゆっくり話せば、前みたいに話せるようになるさ。﹂
晃はアリサの体を突き放す。軽かった。強く抱きしめられていた
のに、アリサはあっさりとその力を緩めたのだ。涙で顔を赤く腫ら
したアリサは、晃の顔を見ていた。そこで初めて晃の優しい顔を見
ることができたのだ。
﹁だって、君と岩井さんってさ︱︱︱︱﹂
︱︱︱︱友達なんだろう。
153
??︵前書き︶
微エロ描写ありです。
エロ描写が苦手なオレがエロに挑戦した結果がこれだよ!
154
??
アリサは落ち着いていくと、耳に囁くようにに礼を言って食器の
片付けに取り掛かった。それはあっという間だった。料理や掃除の
手際だけ見てもわかる。彼女はハイスペックだ。基本的に彼女は器
用に物事を解決する。しかし、それが人付き合いになると途端に不
器用になってしまう。
その後、晃は大きめの風呂に入浴をして、体の汚れを落としたあ
と、アリサと一緒に晃のピアノ練習にをした。晃の目には彼女は上
の空に見える。隣に座って晃の演奏を見てはいたが、何もアドバイ
スすることがない。演奏を途中でやめても彼女は何も言わずに、天
井を見つめている。まさしく心ここにあらずといったところだ。
﹁アリサ。﹂
呼びかけてみるが反応はない。
肩に手をかけると少しだけ反応する。
﹁あっ、ごめん。何かな﹂
﹁疲れたのならもう寝る?﹂
﹁え、でも練習は⋮?﹂
言いながらアリサは時計を見る。短い指針は午後八時を示してい
る。
﹁なんか心ここにあらずって感じだよ。﹂
﹁ごめん。﹂
しおらしくなった。晃はその姿に一瞬見とれてしまう。
﹁そろそろ休もうよ。ね。﹂
しばらくアリサは迷っていた。まだ練習していたいけれど、自分
が上の空であることは自覚している。そのような状態で練習に付き
合おうとすると逆に迷惑になるかもしれない。実際はそこまで迷惑
ではないのだが、アリサは晃にアドバイスをする立場になければい
けないのだ。その責任を今は放棄している。晃がそこまで考えてい
155
るわけではないが、アリサとしてみればそういうことなのだ。
黙って首を縦に振るアリサ。
すぐに席を外し、そのまま部屋から姿を消した。晃はなにをすれ
ばいいか分からず、そのまま呆然としているだけだった。
◆
少しだけピアノをいじっていた。
何かを弾いていたわけではない。適当な場所に指を載せて音を出
していただけだ。
︱︱︱そういえばオレって、何が弾けたんだっけ。
そう思いながら。
突然、携帯に着信が入った。アリサからメールだ。
﹁直接いいに来ればいいのに⋮﹂
言いながら晃は携帯のメールを確認する。
﹃隣の部屋に来て。﹄
とだけ書かれている。
彼女にしては珍しく、短い文章にまとめられている。
意味がわからず、晃は防音部屋を後にする。
隣と言われ、晃は左右に視線を送る。どちらも隣でどちらの部屋
なのかという指定がメールにはないのだ。適当に晃は右隣の部屋の
扉をノックして開けてみる。何もない。すぐに扉を閉めて、晃は左
隣の部屋の扉をノックした。
﹁⋮⋮どうぞ﹂
中から声が聞こえたので、晃は扉を開けた。
そこにあったのは大きなベッドと、小さな机に二つの椅子。とて
もシンプルな作りの部屋で、それ以外は何もおいていなかった。そ
こは寝るためだけに存在している部屋なのだろう。
156
しかし、晃が視線を向けているのはそこではない。そこにいるア
リサという女の子の姿だ。
薄い布で作られた部屋着に包まれるアリサ。胸や腰などの体のラ
インがそのまま浮き出るほど軽いもので、目を凝らしてみると、胸
の先端に突起物があるのが確認できた。すぐに赤面した晃は途端に
目をそらした。
﹁な⋮なんて格好をしてんだよ⋮﹂
動揺が隠しきれないでいる。とういうよりも隠しても無駄だとい
うことを晃は知っている。彼女は見透かす。晃が動揺しているのも、
晃が向けている視線が胸であるということも、晃がアリサのことを
卑猥な目で見ているということも。すべてわかっているだろう。む
しろそうなるように仕込んだのかもしれない。
できる限り体を視線に入れないようにしてアリサの顔を見てみる。
頬が少し桃色に染まっている。微かに震えているようにも見える。
﹁あの⋮私⋮⋮﹂
言葉を選んでいるのか、それともただ動揺しているのか。途切れ
ながら言葉を口にする。
﹁晃くんと一緒に⋮寝たいなって⋮思って⋮⋮﹂
手を後ろに回してもじもじしているのが見える。
晃は状況を理解した。アリサは晃を誘っているのだ。男としてア
リサを押し倒して男女の営みを促そうとしているのだ。晃は来る前
からそういう自体を想定していた。もしかすると晃がそれを想定し
て色々準備をすることを想定して行動をしているのかもしれない。
それは夕飯後のピアノ練習の時の上の空から続いているのだろう。
しかし、晃はそれに対して責任を持てない。ここで決断したのは
はっきりと断ることだった。
﹁ダメだ。そうしたらアリサを襲ってしまう。﹂
﹁いいよ。﹂
アリサは晃の目を見てはっきりと返答した。彼女の目には覚悟が
できていることを物語っている。しかし、覚悟ができていても、や
157
はり晃には責任は持てない。
﹁オレたち、まだ高校生だぞ。﹂
﹁私の友達もこれをやってるって言ってた。高校生でもやってるっ
て。﹂
﹁オレたちはまだ子供だ。﹂
﹁それでも﹂
﹁ダメだ。﹂
﹁なんで。﹂
アリサは晃に体を押し付けるように抱きついた。
風呂上りで薄着の晃の体に、まだ薄着で無防備な体が押し付けら
れる。制服やネクタイなどで邪魔されずに、ほとんど直接胸を体に
押し付けられていて、興奮が抑えきれない。胸の柔らかさが今まで
とは比べ物にならないのだ。
それでも晃はそれを理性で押しとどめる。
﹁オレはこの行為に責任が持てない。だから⋮﹂
﹁責任なら私が持つ。﹂
目を血走らせながらいうアリサを見て、晃はこれを自暴自棄だと
思った。今それをやったら後悔するだけなのではと思った。そんな
晃のことを考えず、アリサは無理やり晃の唇に自分の唇を重ねた。
鼻でする呼吸はかなり激しくなっている。舌を絡ませ、初めてやっ
たキスよりもより激しいキスをするのだ。
彼女は興奮している。まるで、保健室の続きだと言わんばかりに。
晃はその時言った、﹃この続きは違うところでやろう。オレの家で
も、君の家でも。﹄という言葉を思い出した。彼女にとって、それ
が今なのではないかと思い始めた。
アリサは一旦晃の唇から離れ、息継ぎをしたあとで再び唇を重ね
た。いや、唇というより舌を重ねたと言っていいだろう。唇から小
さな舌を突き出して、無理やり晃の唇の中の舌に接触を図ったのだ。
こんなに興奮するアリサを直接見て、感じて、それに釣られて晃
も興奮を隠しきれなくなってくる。
158
体を震わせながら晃はアリサを強く抱きしめた。体全体を強く密
着させた。晃も理性を手放そうとしているのだろう。アリサは唇を
離し、晃を見た。その顔は少しにやけている。
﹁やる?﹂
晃は最後の理性を駆使した。
﹁⋮⋮⋮待ってろ。﹂
言いながら晃は部屋を後にして、ピアノの練習部屋に置いてある
荷物から財布を抜き取ってアリサの待つ寝室に戻った。その間にア
リサはズボンを脱いでいて、下着が顕になっていた。
﹁財布?﹂
﹁間違いが起こっちゃいけないからな。﹂
財布の中から輪っか状のゴムを取り出した。アリサは再びにやけ
た。
﹁準備万端ね。﹂
◆
目が覚めると、目の前に美少女の寝顔が写った。というかアリサ
だった。
晃とアリサは、昨晩一線を超えたのだ。心身共に繋がることで、
彼らはやっと恋人を実感するのだ。
もしかしたら高校生のような子供が早すぎるというものや、付き
合い初めて一ヶ月もしないのにという批判はあるだろう。彼らにと
ってはそんなものどうでもよい。⋮⋮というわけではない。
159
晃は少しだけ後悔していた。
彼が想像していたアリサとの男女交際とは、清らかな付き合いで
ショッピングや趣味などを共用し、身体の関係を持つのはもっと時
間をかけてロマンチックなところでというものがあった。しかし、
それはこの一晩で崩れてしまったのだ。
昨晩のことを思い出す。
何度もしつこいくらいに関した接吻。唇が腫れるのではと思うほ
ど激しかったもので、互いに唾液を交換しあっていた。
初めて触る女性の身体。親以外で見るのも初めてかもしれない。
とても柔らかく、特に女性特有の部分に触れたときの感触が忘れら
れない。
昨日の性交はどちらが優位に立っていたというものはない。晃が
アリサを先導することもないし、アリサが晃を先導していたわけで
もない。互いが互いに教え合って支えあっていたのだ。あえて言う
なら、繋がっているときのアリサは晃に甘えていた。痛くて痛くて
仕方がなくて、自分の下手さが申し訳なく感じていた晃に、アリサ
は甘えていた。ずっと晃の名前を呼んでいた。
いい忘れていたが、晃もアリサも共に全裸だ。事を済ましたあと、
二人とも気を失うように眠りについた。互いを抱き枕にしながら。
その気になれば再び女性特有の部分に触ることができる。
アリサは眠っている。
布団の中を少しだけ広げると、アリサの胸にはとても丸くて形の
いい山が2つ見えている。全裸なので大事なところも丸見えだ。そ
の下にはもっと大事な女性の象徴が眠っているのだ。
﹁わぉ⋮﹂
小声で関心する。
昨晩は暗くてよく見えなかったが、彼女の裸体はとても綺麗なも
ので、朝日に照らされるその姿はまるで女神のようだ。
その姿を見て晃の理性は飛んでしま⋮⋮うわけではないが、少し
の好奇心が自分の手を動かした。人差し指をその柔らかい山に突き
160
立てた。少し力を加えるだけでその分だけ沈んでいく。中指と薬指、
小指も立てて触れてみる。アリサの息が少しだけ荒い気がする。気
のせいだろう。ただ晃の耳が敏感なだけだ。悪いことをして緊張し
ている子供のようだ。
﹁遠慮しなくていいのに。﹂
不意に敏感な耳にアリサの声が響いて体がびくついた。
彼女の目はすでに開いていた。
﹁もっかいやる?﹂
アリサは晃の頭を撫でた。
結局晃が返答する前にアリサは馬乗りになって晃を襲った。
◆
事を済ませた晃とアリサは朝食を食べ、再びピアノ練習を行った。
昨日までの甘えていた彼女の姿はここにはいない。厳格な指導者
というわけではないが、晃がどういう練習をするかという計画と、
それを効率的に行う実行力を発揮しようとしているのだ。しかし、
晃の頭には初めての情事を思い浮かべてしまう。
初めて見て触る女体。とても魅力的で、やはり晃しか知らない彼
女の顔。クラスメイトの前で見せたあの表情よりも価値のあるもの
だ。
﹁晃くん。あのさ、﹂
﹁うん?﹂
声をかけられた晃はアリサの顔を見る。そして初めてわかった。
彼女も練習に集中しているわけではない。何かまた別のことを考え
てるようだ。
161
﹁どうした?﹂
しばらくためらっているアリサの頭を撫でる。
﹁あのさ、直緒を呼んでも⋮いいかな﹂
162
??︵後書き︶
R18と微エロの違いがよくわからないのでかなり困りましたw
163
??
昨晩の夕食後、晃くんに頭を撫でてもらって、言葉をもらって私
は決意ができた。晃くんに抱いてもらったことで私に勇気を分けて
くれた。朝、再び晃を襲ったことで私に安心ができた。私が一人だ
けで考えていたなら、自分は直緒を許さなかっただろう。大好きな
晃くんを傷つけて、そしてその間に空気を読まずに邪魔をした。私
はずっと怒っていた。昨日の練習のときだって、ずっと直緒に気を
取られていたのを愛想笑いで誤魔化していた。晃くんにはそれがバ
レバレだった。さすがは私の大好きな人。一目で私の思考を読み取
ってしまった。
私は晃くんの考えていることがわからない。彼からしてみるとそ
れが私にすべて読み取っているのではないかと思っていたのかもし
れないが、そうではない。人付き合いで培ってきた人心掌握で晃く
んの考えを予測しているという錯覚を起こしたのだ。私は晃くんが
私を好きになってくれるように行動した。言うならそれは計算によ
って行われるアピールだ。私という乙女は晃くんという王子様に媚
びへつらっていたのだ。
いつも日常的に色々な人に笑顔の仮面を被って接していて、本心
をさらけ出さないようにしていた。
ピアノの賞を取ったことで私は大人の世界でピアノを演奏してい
た。父は昔はとても厳しい人だった。大人に気に入られるような接
し方を学ばせ、実践する機会を多く用意した。それがほぼ毎日であ
ると言っていいだろう。わざわざ取引先のところに私を連れて行く
ほどにだ。常に仮面の笑顔を作ることで、それが素の顔になり、そ
れが本心となった。母が亡くなった。男手一つで私を育てる必要が
ある。将来が確約できるように許嫁の話を作ってくれた。食事や身
の回りのことなどを一人でできるようにと習い事も多くなった。そ
の影響で家事がプロレベルにまで達したのだ。私にはどんどんスキ
164
ルが身に付く中で、あの人には何もなかった。手元に莫大なお金。
色々と経営していた父には何もなかった。そんな父は私が大きくな
ると、私と母の姿を被せてしまったのだ。愛する人が隣にいない状
況は彼にとっては相当なストレスだった。そのストレスを爆発させ
たように父は私を襲った。私は父に初めての性交を奪われるのが嫌
だった。大人の世界で培ってきた仮面を剥ぎ取って本気で拒んだ。
なぜなら、私にはずっと憧れていた人がいたから。
父は私に強姦未遂をしたあと、家を出た。ホテルを一つ買い取り、
そこを住居とした。私と離れたかったのだろう。また同じ過ちを繰
り返してしまわないように。
私は一人になった。小さい頃からのくせで、私は仮面の笑顔を貼
り付けるクセがあり、父が経営する学校に通う同級生にも同じよう
に接してきた。
高校生になり、私は同じクラスに晃くんを見かけた。しかし、最
初は晃くんが憧れの人だとは思わなかった。あの時の彼からはピア
ノの気配を感じなかったため、彼は他人だと確信していた。
その時に私は直緒と仲がよくなった。彼女はなぜだか私が恋する
乙女に見えたのだろう。それも間違いではない。私はあの時の彼に
幻想を抱いていたのだ。恋ばなをするときに私は小さなころに恋を
したという話をしてしまったことがある。直緒はその話にかなりの
興味を示していた。
次第に私も直緒を話すのが楽しくなっていき、親友とまでは言わ
ないが、それなりに仲が良くなった。私も彼女と一緒にいるときは
安心できたのは覚えている。
彼が音楽室ピアノを弾いているのを目撃したとき、憧れの人と同
じようなクセがあるのを感じた。やはり彼はあの時の彼だと確信し
た。それ以来、彼にだけはいつも他の人には見せないような顔を見
せるようになった。本心である仮面を剥ぎ取って、仮面をかぶりす
ぎて蒸せて赤くなった彼にだけは感情をさらけ出そうと、その素顔
165
を彼に見せた。仮面を剥ぎ取ることで本心ではなくなるのなら、こ
の行為は猫を被っているといってもいいだろう。必死にいい女だと
思ってもらえるように尻尾を振っているのだ。その姿を恐らく直緒
は見ていたのだろう。どんな風に写ったのだろうか。好きな男の子
に対して気に入られようと必死にぶりっ子しているのだ。普通の女
子ならその姿は滑稽で醜いと思われがちだ。
私は私が恥ずかしい。晃くんが好きなあまり、他の人との関係性
を忘れてしまった。直緒に会うのが怖い。
今まで大人の世界で生きてきて、色々な人と接して人心掌握を覚
えたというのに、晃くんと会っただけですべてを忘れてしまった。
けれど、晃くんに決意と、勇気と覚悟をもらった。もう、私は怖
くない。
今日、私は直緒との決着を付ける。
それが絶縁であったとしても⋮⋮⋮
◆
﹁集まってもらって、ありがとう。﹂
アリサは深々と頭を下げる。
この部屋にはアリサの友人が3人集まっている。真面目で黒髪を
なかね
ゆい
束ねたポニーテールの岩井直緒。髪は明るい茶色に染められ、少し
むらせ
まみ
荒い口調が特徴の中根唯。大人しい性格でまっすぐに伸ばした黒発
の村瀬真美の三人だ。このグループは真面目な人が多いが、全員共
通するのが感受性が豊かであるということだ。アリサに対して興味
を持ったから集まった集団であるといっても過言ではない。
完璧超人であるアリサが時々見せる乙女な部分に好奇心を駆られ
166
て集まったのだ。特に直緒と唯はその恋話に興味津々である。一方
で、真美は友達付き合いが少なく、アリサが話しかけてくれたから
人間関係が安定してきた少女だ。彼女はアリサに好きな人がいると
いうことは知っていたが、深追いするつもりはなかった。ただ真美
はアリサという人間性に興味を持ち、あわよくば自分もそのような
人間にと思っているのだ。
あの暴力事件のきっかけとなった尋問を主に行っていたのは直緒
と唯。真美は近くでそれを見つめていて、どちらに対しても口を出
すことはなかった。できなかった。あの時は恐怖していたのだ。
﹁いいよ。頭を下げなくて。私たち、別にアリサに怒ってるわけじ
ゃねぇし。﹂
言いながら唯は頭で手を組み、背もたれに体重を掛ける。その口
調はかなり気楽なもので、アリサからしてみればそれは意外だった。
それよりも彼女はこうして深々と頭を下げるアリサを滑稽に思って
るようにすら見える。
﹁あたしはアリサがこうして恋する乙女であると目の前で見れただ
けで充分だよ。ね、直緒。﹂
唯は直緒に視線を向ける。
アリサから見て、唯はかなり空気の読むことができる少女だと思
う。自分の感情を日常的にむき出しにしてストレスを発散する女の
子で、でもいざという時は相談に乗ったり、何かを静止したり、言
動を抑えたりといった行動を取れる。アリサはこういう性格こそ女
の子から人気をとる秘訣なのではと思っていたりする。
要するに唯は今、空気を読んでいるのだ。
アリサが憧れていた“あの人”と再会できて喜んでいて、告白し
たらそれが受諾され、そして念願の“あの人”と恋人になれて、今
や校内一のラブラブカップルでいられている。それほど嬉しいこと
はない。唯はそんな幸福なアリサの邪魔をしないようにしているの
だろう。高見の見物というべきだろうか。
話を振られた直緒は唯とは真逆の人間だ。
167
真面目だが空気を読むのが苦手で、真面目すぎて友人を失う経験
をいくつも持っている。悪いことをすれば必ず謝らなければ気がす
まず、要望されれば土下座をするのだって躊躇わない。それが女友
達ですら引かせるほどの真面目さて、さらに人の話を聞こうとしな
い硬さで通っている。尋問の時だって、晃の言い分を聞こうとはし
ても、晃の事情を考慮しようとしなかった。彼を風評と疑惑ですべ
てを判断したのだ。もしかしたら晃がアリサを強姦したのかもしれ
ない。そうだ。確実にそうだ。という思考に走ったのだ。他人の意
見を聞いて自分の意見を曲げることは滅多にない。自分の意見が最
終的に間違ってから意見を変えるのだ。だから彼女は後の祭りであ
ることが多いのだ。
直緒と唯は幼馴染で、小さい頃からの付き合いだ。空気を読むの
が唯だとするなら、自分勝手にすべてを判断するのが直緒だ。極端
な話だが、二人は対象の位置にいる。だからこそ直緒の隣には唯と
いう存在が必要なのだ。互いにそれを理解し合っているから、対照
的な性格でも付き合っていけるのだ。
﹁でも・・・﹂
直緒の考えは唯とは違った。
もしかしたらアリサは晃に騙されているのではないか。という考
えが今ここにあるのだ。恋愛に溺れるアリサを見て、とても不安に
思ったのだ。こんな状態なら晃にAV女優になるように言われたと
き、アリサはあっさりとなってしまうだろう。アリサにとってのす
べては晃にあるといっても過言てはない。だからこそアリサは騙さ
れないように直緒が守ってあげないといけない⋮⋮と彼女は思って
いるのだ。
もちろんその思考は口にはしない。そうしたらアリサと絶縁にな
るのは目に見えている。
﹁あの⋮⋮﹂
そんな中で唯一、話に混ざれていない少女が一人。真美だ。
彼女は小さく手を挙げ、恐る恐る話に混ざろうとしているのだ。
168
﹁どうしたの?真美ちん。﹂
唯はまた空気を読んだ。直緒が不埒な考えをしていることを察し
た彼女は、起点を聞かせて真美に話を振ったのだ。
﹁結局のところ、私たちの間に何が起こってるんでしょうか⋮⋮﹂
真美にはこの状況が何一つ理解できなかった。
仲の良いグループだったアリサと直緒、唯、真美。その中の一人
であるアリサが一人の男性に夢中になった。その影響で、グループ
との関係が疎かになってしまった。それだけだ。それだけだったは
ずだ。それで直緒が暴走した。空気の読まない直緒が、晃に確証の
ない疑いをかけたのだ。唯も少しだけ晃に疑いを持っていたのは事
実だ。しかし、それはすべて唯の妄想から生まれたものだ。空気の
読まない直緒が尋問すると、なんでもそれが確定であるという前提
で話を初めてしまうため、晃に対する尋問の最初は唯がしている。
結局最終的には直緒が暴走したのだが。
﹃あんたは○○したんだから謝れ﹄という決めつけをするのが直
緒であるなら、﹃あんた何かしたんじゃない?﹄といったような問
いかけから始まるのが唯だ。
つまり、真美の疑問であるところの﹃何が起こったのか﹄という
問に答えを出すなら“暴走した”というのが妥当なところだろう。
それを理解しているから唯はこの件を引き伸ばしにしたくなかっ
た。人間関係を崩壊するもので最も愚かな行為は“暴走”だ。暴走
ですべてを台無しにすることほど馬鹿らしい結末はない。と唯は思
っている。
そして暴走は今も続いている。主に直緒の中で。
唯はそんな直緒を睨みつける。
﹁いい加減にしなよ。直緒。﹂
﹁え?﹂
直緒は目を丸くする。
﹁この件は私も変な疑いをして悪かったと思うけどさ、直緒のは少
しやりすぎ。﹂
169
次第に直緒の眉間に皺が寄っていく。
﹁直緒は正義感が強いけどさ、ここまで行くとただのはた迷惑だよ。
﹂
直緒は拳を強く握った。
﹁あんたは自分の正義をただアリサと清水に押し付けてるだけ。ち
っともアリサを見ようとはしていない。﹂
直緒が勢いよく立ち上がると、座っていた椅子が後ろに倒れてし
まった。唯を睨みつける。そして、唯も直緒を睨みつける。
辛抱がならなかったのか、テーブルに拳で強く打ち付ける直緒。
﹁でも、アリサが騙されていたらどうするんだよ! だって、アリ
サがこんなに一人の人間に夢中なんでなかったじゃないか! もし
アリサに何かあったら唯は責任取れるのか!?﹂
﹁バカじゃないの。そんな責任、あたしたちが取る必要ないじゃん。
﹂
﹁あるんだよ! だって私たち友達でしょ!?﹂
﹁じゃああんたの友情って責任の押し付け合いなんだ。﹂
それを唯が口にした途端、直緒が口を閉ざした。
﹁そういえばあんたが他の友達と仲違いしたのって、その友達に責
任を知らしめて、謝らせることを強要して喧嘩になってることが多
かったよね。あれって責任の押し付けじゃないの。﹂
直緒はこの言葉に反論できなかった。
﹁こんな言い方あたししたくないけどさ、友情の形っていろんなも
のがあるけど、あんたがしてるのは友情じゃないと思うよ。ただの
取引相手じゃん。だれも得することのない。ただの自己満足だよ。﹂
﹁そんなわけない!友達相手に取引なんてっ﹂
﹁じゃあいいじゃん。アリサの好きにさせてあげなよ。﹂
﹁それでアリサがひどい目にあったら⋮﹂
﹁そのときは私らが慰めればいいよ。今はアリサの恋を応援しよう
よ。もう成就してるけど。﹂
﹁でも私は清水って人が信用できない!﹂
170
なぜそこまで晃を毛嫌いするのかわからないが、一つ言えるのは
直緒がアリサの気持ちを考えていないということだ。どういうわけ
か、直緒は晃を悪人に仕立てあげたいようだ。というより悪人にし
ている。
直緒はそこまで男嫌いというわけではない。少なくとも、いきな
りその人に対して疑惑を持つことはないだろう。それでも彼女は晃
が信用できなかった。その理由は唯にもわからなかった。
どうしようもない。ここまで直緒が意固地になると手のつけよう
もない。唯は彼女に呆れて声も出せなくなった。アリサと晃が付き
合っていてほしくないというのは単純に直緒のわがままだ。それ以
上の何者でもない。たたの醜い不条理だ。
﹁直緒。﹂
直緒の暴走を静止したのはアリサだった。
注目の的がアリサに集中した。
﹁違うから。﹂
真面目な顔でアリサは言う。
﹁晃くんはそんな人じゃないから。﹂
﹁なんでそこまで言い切れんの。﹂
﹁私の大好きな人だから。﹂
アリサはそう言うと、頬を桃色に染めて微笑んだ。
﹁でも、直緒が私のことを心配してくれてるのはわかったわ。あり
がとう。これからも仲良くしてくれる?﹂
﹁うん。もちろんだよ。﹂
アリサは直緒の手を取って固く握った。
﹁わ⋮っ、私も⋮⋮っ!﹂
それを見た真美は慌てて手を差し出す。アリサも、その手を握っ
た。
﹁え、これなんか痒くない⋮?﹂
さすがにこの展開は下手な少年漫画のように思えて仕方がない唯。
結局のところ、まだ何も解決していないのだ。直緒が暴走して、そ
171
れをアリサが無理やり鎮静したのだ。それだけだ。結局のところ直
緒が暴走した理由というものは判明していない。それが判明するま
でこれが繰り返さないとも限らない。それでもアリサは無理やりこ
れを解決に持ち込もうとしたのだ。
︱︱︱そもそも何も起こっていないよ。
アリサはそう言いたかったのだ。そう願いたかった。だからこの
件に無理やり終止符を打ったのだ。
唯は少しだけ迷った。正直に言えばこの結末には納得が行ってな
い。馬鹿な直緒がすべてを乱したのだというのにといった感情が渦
巻く。その一方で、アリサはそのままでいいと言った。もしこれ以
上この話を引き伸ばしたらもっとややこしいことになるだろう。空
気の読める唯は、無理やりその話を打ち切った。
三人の視線が唯に集まる。視線が痛い。
﹁⋮⋮仕方ないなぁ⋮﹂
・・・・
言いながら唯も手を合わせた。
この件はこれで、無理矢理解決したのだった。
◆
晃は今、一人でピアノ練習を行っている。別の部屋でアリサは直
緒と話をしている。晃がその場にいると邪魔にしかならないのはわ
かっていた。だからこうして一人でピアノをいじっているのだ。
今晃が弾くのは﹃マイバラード﹄。中学一年生のときにあった合
唱コンクールでの課題曲だ。晃が伴奏をして、最優秀賞を取った。
ピアノの教室に通わず、先生などがいなかった時代だ。一人で楽譜
を解析し、練習し、最後まで成し遂げた。それは自身に繋がり、そ
れが最優秀だったのだ。色々な曲を弾いているが、この曲に一番思
172
い入れを感じている。
﹁考えすぎなんだよなぁ⋮あいつ。﹂
晃はふと呟いた。
晃もアリサもまだ子供だ。成功することもあれば失敗もするだろ
う。挫折だってする。それでも自分たちは反省し、次に活かすチャ
ンスが多く存在する。アリサにとって、失敗とは日常茶飯事ではな
い。常に計算で動いて、それが全て成功してきたのだ。だからこそ、
今回のような失敗に過剰になってしまう。あんなもの、晃からして
見ればただの意地の張り合いだ。感情をむき出しにしあっていただ
けだ。喧嘩と言えるものでもない。
今回の件で、晃は一つの確信を得た。
アリサは子供だ。
必死に背伸びをすることで大人に見えるようにする。それがその
とおりに見えるだろう。彼女は頭がいい。だからこそ計算外のこと
が起こると誰かと寄り添っていないと不安で仕方がない。だから昨
日から異常なほどまで甘えてきたのだ。
アリサも晃と同じようなことを考えていただろう。清らかな男女
交際で、同じ趣味を共有し、そしてロマンチックな雰囲気で身体の
関係を持つ。といった時間をかけた関係というものを望んでいたの
ではと思う。しかし、その理想を破ってアリサは晃と無理やり身体
の関係を持った。そこまで彼女は追い込まれたのだ。
﹁晃くん⋮⋮﹂
不意に扉が開き、ピアノ演奏が中断される。そこには不安そうな
顔をするアリサの姿があった。
﹁来て﹂
アリサは半ば無理やり晃の手を引っ張り、その場を立ち去らせる。
いくつかの部屋を素通りした後、アリサはある部屋に晃を連行する。
少し広めの応接室といったところだろうか。そこまで堅苦しい室内
ではなく、一般的に使われる洋室のリビングといったイメージをし
てくれればいいだろうか。足の高いテーブルに、そのサイズに合わ
173
せた椅子が四つ。四人で団欒することをイメージされる。小さな流
しがあり、軽く手を洗ったりお茶を入れたりといったことはその部
屋で賄える。電子ポットが置いてあり、それが使われた形跡がある。
そのテーブルに直緒が座っていた。直緒だけではない。直緒と同
じアリサグループにいた2人もそこにいる。アリサと仲の良かった
女の子だ。
﹁えっと⋮⋮﹂
晃は状況が掴めそうで掴めていない。
要するに話が進まないのだろう。アリサが何かを言おうとしても
なにを言えばいいのかがわからない。誤ってもいいが、自分から謝
る理由がわからないとか、そういうことをアリサは考えているのだ
ろう。実際、アリサは悪いことをしてはいない。強いて言うなら友
達たちにそっぽ向いていた。態度が急変したのだ。それが気に入ら
なかったのだろうか。それはアリサが悪いのではないと晃は思う。
﹁あのね、なんかなんとかなったんだけどね、そしたら彼氏を紹介
してって話になって⋮⋮﹂
﹁え?﹂
何かの言い争いに巻き込まれるかと思っていたが、そうではなか
ったみたいだ。
すでに問題は解決していたのだ。どういった話をしていたのかは
知らないが、アリサはアリサでもう何を話せばいいのかわかってい
たのだろう。この光景をみて、改めて思う。アリサは天才だ。結局
は自分ですべてを解決させてしまった。さすがはクラスの中心的な
人物だ。人と仲良くするのも、仲直りするのもあっという間だ。
見てみると、この場にいる女子全員が笑っているように見える。
もう終わったのだ。
﹁ごめんね、晃くん。練習に集中したいでしょうに。﹂
アリサは少しだけ申し訳なさそうにしている。晃はその姿が可愛
らしく見えた。
﹁いいよ。恋人なんでしょ。オレたち。﹂
174
友人たちの前でアリサの頭を撫でると、アリサは顔を赤くしてい
た。
しかし、直緒だけが笑っていなかった。
175
??
小学生のときの晃は気性の激しい子供だった。普段はおとなしく、
臆病な性格だった。しかし、怒りが頂点に達した瞬間だけ晃は暴力
的な性格になる。誰かの顔を殴ったりはしなかった。物を投げつけ
たり、足などを攻撃することで威嚇することが多かった。それはた
だの威嚇であり、それが喧嘩のきっかけになったりしていたのを覚
えている。それでも晃は人の顔を殴ったことはない。
そのきっかけとはその時によって違うが、主な理由としては自分
の努力をバカにしたときだ。その努力を否定されたときにそれは起
こってしまう。
最近では怒りが頂点に達したことはないが、中学二年のときまで
は3ヶ月に1度ほどその出来事が起こった。
それでトラブルになることもある。怒りに我を忘れてしまい、ボ
ールペンを地面に投げつけ、それが跳ね返ったときに偶然そこにい
た女子の腕に刺さってしまい、怪我をさせてしまった。そのときは
母がその女子生徒に謝罪の電話をして、晃も後日に謝罪した。あま
り話さない女子で、その謝罪は適当に流されたような気がする。自
分の努力を根拠もなく否定した男子生徒の足を怪我させたことだっ
てある。軽い打撲だ。前者については確かに晃が悪かったが、後者
に関しては今でも晃は自分が悪いとは認めていない。
当時はよくニュースで﹃むしゃくしゃしてやった﹄という動機の
殺人事件が多く、怒りを頂点に達すると我を忘れてしまう晃は﹃い
ずれ自分も人を殺してしまうんだろうか﹄という恐怖に駆られ、泣
いてしまったことを覚えている。
最近では人と接する機会が少し増えてきたために、色々な人がい
て、馬鹿なことをいう奴だっているんだと納得することで、怒りを
心の中で沈めるようになっている。できる限り顔には出さないよう
に努力はしているが、眉間に皺を寄せてしまうことでその感情がば
176
れることもあるだろう。
晃は今までの経験から、自分が怒ったりしないように努力してい
る。
頭に来る出来事があっても、﹃そうじゃないそうじゃない。違う
んだ違うんだ。落ち着け落ち着け。﹄と必死に自分の脳内で自分を
説得してその場を乗り切るのだ。それが起こるたびに晃はストレス
を溜めていく。それの発散場所を晃は知らない。強いて言うならそ
れを忘れることが最大の薬とも言えた。それはその場凌ぎにはなら
ず、怒りを感じる出来事が起こったらその場ではどうしようもない
ストレスが晃を襲う。
今のところ、晃が怒りを感じることは滅多にない。
◆
アリサと友人が仲直りしたことで、今度は晃に場違い感という重
圧が襲いかかる。アリサが晃のことを愛している状況を面白がる女
子が一人いて、色々リクエストしてくる。アリサに対して腕に抱き
ついてとか、晃に対してアリサの頭を撫でてとか、そういうリクエ
ストに応えたときの二人の反応を楽しんでいるのだ。それを愛想笑
いで見ている黒発の長髪の女子。大人しくて晃が来た時点では一言
も喋っていない。一言も喋っていないというのは岩井直緒も同じだ。
一人で楽しそうにする女子が一人。それを眺めて微笑む女子が一人。
そして、そんな状況で晃に警戒の意思を感じさせる女子が一人。色
々な感情が渦巻くその場所は晃が居づらい空間にしていっているの
だ。
逃げるようにピアノの練習をしに行こうとすると、それを目撃し
た女子の一人が晃を止めて再びアリサの隣に座らせるのだ。まるで
177
酔っ払いのおじさんのようなノリだ。
﹁そういえば自己紹介がまだだったよね。﹂
言いながら明るい茶髪の女子が立ち上がった。
﹁私は中根唯。ゆんちゃんって呼んでね。﹂
﹁嫌です。﹂
晃は即答した。
﹁えー、つまんなーい!﹂
唯は身を乗り出した。すぐに元の体制に戻って口を開く。
﹁そういえば機会を逃しまくってたんだけどさ、この前はごめんね。
清水⋮⋮晃くんだったよね。﹂
﹁いいよ、別に。アリサを心配してたんでしょ。﹂
﹁うわーっ、出来た彼氏だ。キモイ。﹂
いきなり罵倒を受けた晃は胸に突き刺さるものがあった。
今知り合った女子にいきなりキモイと言われた。別に唯に好意を
持って欲しいというわけではないが、いきなりそれを言われるのは
精神的に辛いものがある。
唯は本気で晃を引いていた。
﹁あ、ごめん。言いすぎた。﹂
さすがに唯も頭を下げる。
﹁清水晃くん、怪我大丈夫?﹂
﹁あぁ⋮⋮大丈夫⋮⋮。むしろ心の傷の方がえぐいことになってる
⋮⋮﹂
﹁だからごめんってば。本心じゃないから。出来た彼氏がいるアリ
サに嫉妬しただけだから。﹂
言いながら唯は晃の頭を強く叩いた。その度にバシバシと音を出
すが、そんな衝撃よりもやはりいきなり罵倒されたことにたいする
傷の方がでかい。唯は晃の頭を叩きながら立ち上がり、隣に立つと
徐々に背中に叩く場所を移動する。背中を叩かられることで身体全
体が叩かれる度に揺れる。
﹁や、やめ⋮っ﹂
178
﹁こりゃダメだ。アリサ。﹂
﹁なにかしら。﹂
晃がそれを静止しようとする前に背中を叩くのをやめた唯は、ア
リサに何かを耳打ちした。それを聞いたアリサは唯の顔を見て目を
丸くしていたが、すぐに頷いて立ち上がった。隣にいる晃の目の前
に立ち上がるアリサ。
﹁な⋮なに⋮?﹂
目の前にいるアリサから威圧のようなものを感じる。ただたんに
上から顔を覗かれて萎縮しているだけなのだ。
すると、アリサは晃の後頭部に手を回して自分の胸に抱き寄せた。
その光景を見た直緒を除く女子は﹁キャー﹂という歓声が鳴り響く。
瞬間に晃は気づいた。はめられたのだ。空気を読むことのできる女
子、唯の遠まわしな言動で振り回されたアリサと晃をうまく誘導し
たのだ。アリサはこのことに気づいていない。ただ目の前にいる晃
という存在に意識を集中させているのだ。恐らくアリサは先ほどの
耳打ちで唯からなんらかの助言を受けたのだろう。それが普通人前
ではしないようなことをしようとしているのだ。普段からアリサは
人前で晃に甘えているのはわかっていたが、それでも友人の前です
るこの行為はためらいをせざるをえない。
アリサは晃の頭を腕に回しながら少しだけ距離を離し、晃の顔面
と向き合う体制に取る。彼女の顔はかなり赤面していた。
﹁え、何する気⋮? アリサ﹂
晃の動揺を無視してアリサは行動に移す。この様子をみると、ア
リサは無理矢理唯から命令されたことを実行しているのではなく、
唯からの助言を間に受けて、真剣にそれを取り組もうとしているの
だ。
︱︱︱なにを言ったんだ。この女⋮っ
そう思いながら唯の方を睨みたかったが、それはアリサの顔に隠
れてしまっている。が、当の唯がどんな顔をしているのか容易に想
像できる。この光景を見てにやけているに違いない。
179
アリサと晃の距離はゆっくりと縮まっていく。その距離が短くな
るにつれて女子二人は﹁おぉぉ、﹂という歓声を大きくしていく。
そして、アリサは晃の唇に接吻した。同時に﹁おぉぉ、﹂の歓声
が﹁キャー﹂という歓声に変わった。数秒間、アリサは晃の唇を離
そうとしなかった。友人に見られていることを忘れているみたいに、
アリサは晃の唇に夢中になってるのだ。このままアリサに押し倒さ
れてしまいそうになる。
ここ数日でわかったことがある。アリサはキスが好きだ。いつい
かなる時でも露出している顔という部位から服を脱いだりする行為
が必要なく、気軽に露出されてる唇を重ねるだけで晃との接触が取
れる。その気軽さがアリサをキスにはまらせる要因なのだ。それに
舌を侵入させるだけでそれは深いつながりになるのだ。
アリサは晃の唇を解放した。
﹁晃くん⋮⋮﹂
︱︱︱こいつ周りに友達いること忘れてるだろ⋮
そう思ったがそれを言う前に唯が声を発する。
﹁ヒューヒュー、お熱いねぇ。バカップル﹂
その声でアリサは我に返り、自分が何をしたのか自覚することが
できた。
人前でディープキスしてしまったのだ。
完全に赤面させ、唇も完全に閉じられた。肩も固くしてしまい、
少し身体が震えてる。穴があったら入りたいという心情をそのまま
表したような顔だ。
﹁でも安心したよ。﹂
今までからかうような声で晃たちを翻弄していた唯だったが、不
意に真面目な顔をするので晃もアリサも萎縮してしまう。先ほどま
での穴が入りたい状態の顔はどこかに飛んでしまった。
﹁まだ少し疑ってたんだよね。もしかしてアリサが清水くんに脅か
されてるんじゃないかとか、騙されてるんじゃないかとか、そんな
不安があったんだ。﹂
180
﹁唯ちゃん。だから晃くんは⋮﹂
﹁アリサが言ったところで実際に見てみないと私個人では納得行っ
てなかったんだ。﹂
アリサは晃を擁護しようとしていたが、それを唯は遮断。
仲直りしたとき、アリサは直緒を萎縮させるほど晃の信用を口に
したのだ。それで唯は納得というか、晃に対してあからさまな疑い
を掛けることをやめようと思った。それでも完全に晃を信用したわ
けではないのだ。
直緒がアリサのことを心配するのと同様に、唯も同じようにアリ
サを心配していたのだ。直緒が厳格な父親で、頑固に子供の将来を
充てがうのなら、唯は子供の好きなように選択させてそれを心配そ
うな目で見守る母親のようなものだ。
﹁だから、こうやって本気で愛し合ってる二人の姿を間近でみて、
あぁ、本当にアリサは清水くんが好きなんだなっていう確信が得ら
れたんだ。﹂
唯はアリサの頭を撫で始めた。口は閉ざされ、突然現れた頭の感
触に驚きながらも、それに甘んじて受けている所を見ると、アリサ
は直緒と同様、唯に対しても絶対的な信頼が存在している。アリサ
は一度、唯に質問したことがある。﹃知り合って間もない私になん
でそこまで﹄という質問だ。アリサが質問をしたその内容に、唯は
こう答えた。﹃私たち知り合ってまだ半年も経ってないけどさ、友
達になった娘なら大切にしたいじゃん。﹄人に接することに慣れて
いるアリサは仮面の顔を作った。それを外すことは全くと言ってい
いほどなかった。そんな彼女と対象的で、人と接することに慣れて
いる上に、唯は仮面をかぶることがない。人と接することで培われ
る空気を読むスキル。アリサはそれを使って萎縮してしまい、一方
で唯はそれを行使して周りを和ませることができてしまう。そんな
彼女にアリサは憧れを感じていた。唯は自然と姉御肌を宿していて、
人をひきつける性格をしている。特に女子に人気を勝ち取っている。
アリサも彼女に対しての第一印象はかっこいいという感情だった。
181
晃はその光景をまるで娘を見守る父親のような気分で見ていた。
︱︱︱なんだ、オレ以外でもそんな顔できるじゃん。
そう思うと、安心と共に独占欲が侵害された気もする。
あの顔を知っているのは晃だけではなかったのだ。
﹁晃くん。﹂
﹁はい。﹂
真面目な顔をする唯に呼ばれ、つい真面目な返事をしてしまう晃。
﹁アリサのこと、よろしく頼むね。﹂
唯はアリサの頭を撫でるのを辞め、晃の方に手を差し出した。握
手の意だ。晃はそれに甘んじる。手を差し出し、唯の手に重ねた。
﹁精一杯やらせてもらいます。﹂
固く結ばれた握手。これで唯は晃を信用するだろう。もしくは友
人として接してくるかもしれない。それはいいだろう。もしかした
ら仲が良すぎて嫉妬するアリサの顔が見られるだろう。それも一興
だ。
﹁あの⋮⋮﹂
話が一通り終わるのを見計らって、一人の女性が遠慮がちに手を
あげる。黒発で長髪の少女だ。
﹁えっと、君は⋮﹂
その少女の名前を晃は知らない。問いかけてみると、その少女は
頬を赤面させて口を固まらせてしまった。
隣に座るアリサに目線でフォローを頼むと、アリサは﹃任せろ﹄
と言わんばかりに微笑んできた。
﹁彼女は村瀬真美ちゃん。話をするのが苦手な娘だから、やさしく
接してあげて。﹂
なるほど、そういうことか。晃は得心がいった。彼女は少し晃に
似ているのだろうかと思った程に。
そんな彼女が勇気を振り絞って何かを言おうとしているのだ。ア
リサは愛されている。この勇気が証明なのだ。
﹁それで何かな。村瀬さん。﹂
182
できる限り晃も微笑んでみる。どんな顔をしているのか晃自信は
わからないが、それを見て真美は少し安心したのだろう。硬い顔を
少し緩めて話を続けた。
﹁清水くん⋮⋮って、ピアノ⋮⋮するんだよね⋮⋮?﹂
﹁うん?﹂
﹁あ、私も気になってたんだ。アリサと話してるときにも少し聞こ
えてきてたし。﹂
真美の質問に便乗する唯。
﹁それにアリサさんと⋮⋮連弾するんでしょ⋮?﹂
﹁うん。するわよ。﹂
その質問に嬉しそうな顔をして答えるアリサ。彼女にとって晃と
連弾ができるというのはこの世で最も大きな名誉になるのだろう。
それほど重大なものだとは晃自信は思ってもいないのだが。
﹁私⋮⋮見てみたい。﹂
遠慮がちにそういう真美。
﹁あ、あたしも見たい!!﹂
それに唯は便乗する。
﹁⋮⋮⋮私も﹂
未だに警戒を解かないでいる直緒も便乗する。彼女は未だに晃を
睨みつけている。
そう言われて一番困っているのはアリサだ。
まだ晃はピアノを再会して間もない。今はまだリハビリの段階だ。
アリサにとって今の段階ですぐに連弾を始めても良いのだが、晃
がそれを許さなかった。せめて昔弾けてた曲を弾けるようになって
からだと断固として決意していたのだ。
﹁えっと⋮⋮ね、三人とも。私たちはまだ連弾⋮⋮できないの。ね。
晃くん。﹂
渋々そう答えるアリサ。
彼女はすぐにでも晃と連弾をしたいのだろう。でも、晃の意思を
尊重したい気持ちもあるので、どうしても晃に連弾することを強要
183
できない。しかし、晃の顔は平然としていた。
﹁いいんじゃないか。やってみても。﹂
案外あっさりとしていた。
﹁え!?いいの!?﹂
それに一番驚いていたのはアリサだ。その反応に、晃は縦に首を
振った。
﹁そういえばまだまともにやってないよな。連弾。昔のあの曲だっ
たらいいと思う。﹂
﹃子犬がはしって、でんぐりでんぐり﹄のことを言っているのだ。
アリサと晃を繋げる一本の曲。思い出の曲で、アリサが晃に惚れる
ことになったきっかけだ。
その言葉を聞いたアリサは胸がこみ上げる感覚を覚えた。単純に
嬉しいのだ。そんな思い出のある曲をやっと、10年の年月を超え
てやっと演奏できるのだ。憧れの彼と。
﹁いいの⋮⋮?晃くん⋮⋮﹂
すごく嬉しかった。涙まで流しそうになったが、そこは抑える。
この状況をうまく理解できないでいる三人はその光景をじっと見
つめていた。
﹁あぁ。オレも少しだけ感覚を取り戻してるしさ。やってみようよ。
ほとんどぶっつけだけど。﹂
言いながら晃は部屋を後にする。
﹁うん!﹂
一滴の涙を流したアリサは、その姿を追いかける。それに三人は
ついていき、たどり着いたのは様々な紙で散乱するピアノ部屋だっ
た。
184
??︵前書き︶
ちょっと更新が遅くなってきてます⋮
努力します。
185
??
この緊張感には晃は快感を覚える。
ピアノを演奏する直前の集中するこの瞬間。この感覚だけはピア
ノを弾く者以外には味わうこともできず、尚且つ共感もされない。
口で説明してもうまく表現ができないだろう。いつもの晃だったら
緊張に潰れてしまい、それをやめてしまうだろう。諦めてしまうだ
ろう。しかし、この緊張だけは違う。味が違う。
さらに隣にはアリサがいるのだ。一人で弾くのではない。連弾な
のだ。
久しぶりの連弾だ。初めてした連弾も彼女だった。当時のことを
晃は覚えていないが、それでも彼女と連弾したという事実は覚えて
いる。正確に言うなら思い出した⋮だ。
﹁何、この緊張感⋮⋮﹂
唯が口を挟むが、それに気に回すことはない。晃はアリサと息を
合わせることに集中する。
﹁ピアノ⋮⋮というか、音楽演奏を始めるときって演奏者はすごく
集中するって聞いたことがあります⋮﹂
異常に肩を固くする唯に真美はそんな唯に小声でそんなことを言
う。
アリサの顔を見ると、すでに心の準備が出来ているようだ。晃は
頷くと、アリサとほぼ同時に鍵盤に手を付ける。
演奏前も緊張するが、こうして鍵盤に手を付けたこの一瞬が一番
緊張感が高まる。普通ならここで﹃せーの﹄という掛け声があって
もいいだろう。彼らはそれをしなかった。同時に指に力を入れ、合
図なしに演奏を始めた。
︱︱︱そういえば昔もそんな感じだったなぁ⋮⋮
186
演奏を始めながらそんなことを思う。
それ以来だった。何も思わず、何も考えず。無心になって鍵盤の
指を走らせる。子供向けの連弾曲だが、なかなかに難しい。特にア
リサが担当するパートは八分音符や四分音符が立ち並ぶ。小さい頃
に弾いていたからか、それともアリサとの連弾が身体が覚えている
のか、晃は自然とその曲を弾くことができている。体が勝手に鍵盤
を走ってくれるのだ。
いつの間にか演奏は終盤に差し掛かる。
そうして横目でアリサの顔を覗いてみる。とても楽しそうだ。晃
も楽しくてつい顔がにやけてしまう。
演奏が終了すると、しばらく何も考えられなかった。
﹁︱︱︱︱思い出した。﹂
﹁ん?﹂
不意に晃が言葉を発するのでアリサは疑問符を立てずにはいられ
ない。
﹁オレ、これを弾く前にアリサとパート取り合ったことがあったよ
ね⋮﹂
﹁一方的にあなたがわがままいっただけじゃない。﹂
アリサは鼻で笑う。﹃あの時の君はかわいかったわ﹄という感じ
だろう。
﹁うん。そんでアリサが今やってるパートをやりたがって、練習し
てたよね。﹂
﹁私たぶんその練習もどかしく見てたと思うよ。なんでここできな
いの⋮!?って感じで。﹂
﹁そうそう。最初オレがわがまま言ってたとき、先生が渋々やらせ
てくれたんだよね。﹂
﹁当時のあなたには相当難しかったわよ。このパート。﹂
﹁今は?﹂
﹁んー、練習次第⋮?﹂
昔話を談笑する晃とアリサ。その様子をにやけてみているんだろ
187
うなと思った晃は唯を見てみると、目を丸くして固まっていた。な
ぜか正座している。真美や直緒も唖然としていた。
﹁どうだった?﹂
聞いたのはアリサだ。
そうすることで三人は我に返った。
﹁あ、いや、あの⋮﹂
唯にしては珍しく、言葉をつまらせていた。
﹁すごかった⋮﹂
これしか言えなかったのだろう。
直緒も、真美も、同じことを思っていたようで、黙って顔を縦に
振っていた。
正直に言うと、晃はこの演奏に納得はできてない。すこし足を引
っ張っていたように思う。その気持ちと彼女の反応は相対的と言え
るだろう。
﹁そんなにすごかったか⋮?だってオレ、﹂
﹁晃くん。﹂
晃はそのことを言葉にしようとすると、アリサに途中で区切られ
た。
﹁その先は言わなくていいわよ。﹂
﹁なんで?﹂
﹁理由は前に言ったでしょ。﹂
この場では言わないけど。というか言えないけど。
そう言う言葉を晃に耳打ちするアリサ。
正直、最初はこの言葉の意味がわからなかった。少し考えれば簡
単なことだ。
彼女たちは晃とアリサの演奏を聴いていたのではない。観ていた
のだ。彼女たちはライブに来た観客なのだ。以前、晃はアリサのそ
の言葉に﹃アイドルの口パクライブでも結構人が集まるもんな⋮﹄
と言っていたのを思い出した。要するに今、この状態がそれなのだ。
︱︱︱なるほど。こういうことか。
188
晃はちょっとした快感を覚える。優越感といってもいいだろう。
﹁晃くん。﹂
﹁ん?﹂
﹁わたしのパートもやってみる?﹂
﹁んー⋮⋮いいや。﹂
﹁そう?﹂
昔は早いテンポで弾くアリサのパートがかっこよかったからやっ
てみたかったという憧れがあった。しかし、今は違う。確かに速い
曲を弾くのは憧れるし、それを当然のようにやってのけるアリサは
本当にすごいと思う。晃もやってみたいと思う。しかし、この曲だ
けは違う。この曲の晃のパートは晃のであり、アリサのパートはア
リサのパートだ。思い出の曲をこれ以上いじりたくないと思う。だ
から晃はできると言われてもアリサのパートを練習することはない。
◆
﹁清水くん。﹂
三人を送り返すところで、直緒に呼びかけられる。
﹁なんでしょうか。岩井さん。﹂
﹁あのさ、今日の演奏、すごかったと思う。﹂
直緒は珍しく晃を賞賛していた。しかし、その目は敵意むき出し
にしているため、素直に喜ぶことができない。
﹁ありがとう。﹂
とりあえず礼を言っとく。
言うと、直緒は眉間に皺を寄せて晃を見た。
﹁でも、私はまだあなたを信用してないから。﹂
189
﹁なんでそこまでオレを毛嫌いするんだよ。別にどう思われようと
どうでもいいけどさ、﹂
﹁心当たりはないの?﹂
そう言われて思い返してみる。
直緒に嫌われるようなことはしていないはずだ。少なくとも晃の
記憶の中ではそのようなことはない。
﹁ごめん。ない。﹂
﹁⋮⋮⋮そっか。﹂
直緒は顔を下に向けて何かを考えていた。
﹁まぁ、結構経ってるしね。﹂
﹁何が。﹂
﹁なんでもない。﹂
直緒は数歩歩いて、再び晃と向かいあった。
﹁ごめん。清水くん。もうアリサと交際するのは反対しない。けど、
やっぱあなたのことは信用できないから。じゃね。﹂
わざわざそれをいいに来たのか。呆れながらその後ろ姿を眺めて
いる。
◆
あの三人組がいなくなってから、アリサは晃に対して落ち着いた
スキンシップをとっていた。
ピアノの練習をするでもなく、食事の準備をするでもなく、掃除
をするでもなく。ただソファーでくつろぐ晃の隣に腰をかけて頭を
預けている。それだけだ。会話もない。ただ、くっついていた。晃
はそんなアリサの肩に手を回して体温を直に感じていた。
190
﹁晃くん﹂
静かに名前を呼ばれる。返事するでもなく、その場の空気を肌で
感じていた。
﹁ありがとね。﹂
ほんのりと香るアリサの匂い。香水をしているわけでもない。シ
ャンプーの匂いがあるわけでもない。それでもいい香りだった。落
ち着く匂いで、そのまま眠ってしまいそうだ。そして彼女の声はま
るで子守唄のように甘い。
﹁私、晃くんのおかげで3人と仲直りできたよ。﹂
﹁オレのせいでもあるけどな。﹂
そもそもこんな事態になったのは晃という存在があったからだ。
もっと晃がうまく立ち回ることができたならこんな騒動にはならな
かっただろう。それを炎上させたのは晃だ。それで悲しい思いをし
たアリサ。そして、それが原因で亀裂を作ってしまったのは明らか
に晃だ。少なくとも、その件に対して晃は罪悪感すら感じる。それ
でも晃にはどうしようもない状況だったのには変わりがない。
﹁そんなことはないよ。﹂
アリサは晃の肩に顔を埋めて息を吸い始めた。晃の匂いを嗅いだ
いるのだ。正直やめてほしい。そこまで晃はいい匂いを発している
わけではない。香水をつけているわけでもない。しかし、晃もアリ
サに似たようなことをしているので人のことは言えない。
﹁晃くん。﹂
﹁ん?﹂
﹁大好き。﹂
﹁んん。﹂
アリサは軽く晃の唇に自分の唇を重ねた。舌を絡めたり、時間を
掛けて触れ合っているわけでもない。ただ接触させただけだ。
﹁ごはん、作るね。﹂
そう言ってアリサは部屋を後にした。
その時に見せた笑顔はとても可愛らしくで自由な顔だった。
191
﹁いつもの調子に戻ったんだな。﹂
これは余談だが、アリサは今夜も晃の身体を求めた。しかし、二
日連続は気後れしていたのか、晃が遠慮することでそれは起こるこ
とはなかった。
192
PDF小説ネット発足にあたって
http://ncode.syosetu.com/n6449bz/
連弾
2014年8月27日12時28分発行
ット発の縦書き小説を思う存分、堪能してください。
たんのう
公開できるようにしたのがこのPDF小説ネットです。インターネ
うとしています。そんな中、誰もが簡単にPDF形式の小説を作成、
など一部を除きインターネット関連=横書きという考えが定着しよ
行し、最近では横書きの書籍も誕生しており、既存書籍の電子出版
小説家になろうの子サイトとして誕生しました。ケータイ小説が流
ビ対応の縦書き小説をインターネット上で配布するという目的の基、
PDF小説ネット︵現、タテ書き小説ネット︶は2007年、ル
この小説の詳細については以下のURLをご覧ください。
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