第238号Q2) 小田原史談 A)14年(平成26年)7月 金 子 清 近代の三茶人 ていないとのことです。 小田原を去来した茶人たち 利休・宗二 小田原の地には多-の茶人達 が足跡を残しています。豊臣秀吉 の小田原北条氏征伐には千利休 が随行して茶会などをして楽し 益田鈍翁 明治の晩年に小田原に来た茶 人の一人目が益田鈍翁です。三井 財閥の大番頭で、三井物産の初代 んでいたようです。又、利休は伊 豆韮山の竹で花入れなどを作っ 社長でもあります。 の板橋に拠点を移し掃雲台をつ り'茶三昧に暮らしていたのです が'後に海三分山七分のところが 健康に良いということで、小田原 品川の御殿山に碧雲台をつく ています。現在でも残っているの が「小田原」という銘の花入れで す。 利休の高弟'山上宗二は小田原 城に茶道指南のために何度か訪 れ'北条氏の家臣、板部岡江雪着 に山上宗二記を与えています。利 して茶三昧にふける。(淡交社刊﹃茶 道辞典﹄ より抜粋) 野崎幻庵 二人目は、鈍翁の部下でもあっ の十字町(今の両町)に居を構え' た野崎幻庵が大正七年に小田原 閑山房を造りました。 後にみみづ-幼稚園の近-に安 幻庵は小田原の茶道をされて いた人達とのつながりがありま した。当時茶道具を手にいれるこ とは簡単ではなかったでしょう。 幻庵は茶道具が無ければ茶は盛 んにならないと思ったのでしょ うか。安閑山房で自ら茶杓・茶 碗・茶人・花人などを作るのが楽 しみだったようです。又、掛物も 多数書かれています。焼物は大野 鈍阿のところで焼いていたよう です。後に鈍阿の指導で庭に窯を 造っています。又、茶室も設計し ており、板橋の松永記念館にある 菓雨庵は幻庵が造ったもので、そ れ以外に早川'塔の沢にも造って います。塔の沢の福住楼にある聴 泉享は今も残っています。 幻庵亡き後、幻庵と交流のあっ た人達で幻庵会をつ-り、持ち回 に五百回も訪れたということで 午(l八四七一∼一九三八)実業家。佐 ※益田鈍翁 弘化四年∼昭和十三 がれたりして殺されたといいま でもあった近藤外巻は鈍翁の茶 くりました。東京からは鈍翁の茶 会をもとめ、多-の人達が来てい ます。小田原の人としては主治医 渡奉行所役人の長男として佐渡相 りで幻庵に頂いた茶道具でお茶 す。 休が箱根湯本にいる時に、宗二は 利休を訪れるのですが、その時に 秀吉の意に逆らって耳や鼻をそ 川に生まれた。文久三年二八六三)、 会をしていたようです。 を営み'三井物産と合流'三井財 閥を大成するなど、明治・大正の 財界に重きをなして男爵を賜った。 晩年は小田原の別邸掃雲台に隠棲 ● 山に生れ'慶応義塾に学び、三井 午(1八五七∼一九四1)名は広太。岡 ※野崎幻庵 安政四年∼昭和十六 池田筑後守の渡欧に際し、父とと もに随行。維新後'横浜で貿易商 す。 昭和五十四年に箱根湯本の旅 館の主、松島計介さんが山上宗二 のお墓がないことを痛み'箱根湯 本の早雲寺の和尚に相談し、境内 に顕彰の碑を建てました。 会長に田山方南を迎え、山上宗 二顕彰会を発足させて、毎年命日 の近くの日に、顕彰会茶会を茶道 各流派のお家元によって二十年 程行っていたのですが'今は行っ ● 物産に入り'のち中外商業新聞社 長二二越百貨店社長になった。﹃茶 会漫録﹄﹃ら-がき﹄などの書物が した。(同前) ある。晩年は小田原十字町に隠棲 松永耳庵 そして戦後まもな-松永耳庵 が板橋に居を構えました。鈍翁は 自分の後継者として耳庵を定め、 昭和十年鈍翁が亡-なる三年前 に車一杯の茶道具を耳庵に送り ました。後にこの道具で茶会を開 耳庵は板橋の敷地内に今井宗 くはめになったとのことです。 及の茶室を移築し、出来上がった ころに梅の実が熟していたので、 黄梅庵という名をつけ'ここで茶
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