B: 二風谷区域 びらとり 平取町文化的景観解説シート アイヌの伝統を伝える山野と集落の景観 ポンカンカンチャシ跡とその周辺 45 所在地:平取町字二風谷(にぶたに) 関連シート:8、38、47 遺跡と伝承の密集地 カンカン川の河口域及びその さ る 国道237号 カンカン待避所 ポンカンカンチャシ跡 周辺は、沙流川の中でも有数の遺 跡密集地帯です。 右岸側にはポンカンカンチャシ 跡、シラッチセチャシ跡、イルエ カシ遺跡、右岸にはカンカン2遺 ←沙流川 跡があります。また、アイヌ伝承 地として、イルエカシの伝承地 (イルエカシ遺跡と同じ場所と推 定)、オプ シヌプリ(カンカン河口 から見て沙流川対岸にある半円状 にかけた山)も所在します。 カンカンは「腸」の意味で、幾 写真1 看々橋からポンカンカンチャシ跡を望む(南側から撮影)。国道237号カンカン待 避所周辺はイルエカシ遺跡として発掘調査が行われている 重にも屈曲して流れている川に対 ポンカンカンチャシ跡 時期(17世紀前~後半位に相当)位 するアイヌ語地名です。こうした 沙流川の下流側へ向かって伸 に用いられていたことが推定され 特徴をもつ河畔には、アイヌの有 びる丘先式のチャシ跡で、現況で ます。 用植物のトゥレ プ(オオウバユリ) 4本の壕を地表から確認すること ほど近い場所にシラッチセチャ やプクサキナ(ニリンソウ)などが ができます。依存状態が良く未発 シ跡も所在していますが、両チャ 繁茂しやすい環境が形成されま 掘のチャシ跡であるため、主体部 シ跡とも考古学的調査が行われて す。奥深い沢は様々な食材や生活 の形はチャシが用いられていた当 いないため相関関係は不明です。 素材の採取を可能にし、交通の要 時とあまり変わっていないと考え 衝にもなります。 られます。 この場所がいかに利便性の高 今のところ、チャシに伴う伝承 イルエカシ遺跡、 カンカン2遺跡の発掘調査 いところであったかを、多くの情 は確認されていませんが、イルエ カンカン2遺跡からは、擦文 報から知ることができます。 カシ遺跡で発見された建物跡と同 時代(10世紀中葉から11世紀代)の さつもん オプシヌプリ 自動車道 竪穴住居、周溝を掘って内部に盛 遺跡 土した隅丸方形の構造物(周溝盛 しゅうこうもり ど い こう 土遺構:約8×5.7m)などが見つ 沙流川 かっています。 ポンカンカンチャシ跡 周溝盛土遺構の盛土上からは、 たんぞうはくへん 多量の鍛造剥片と炭化材(この場 はがね カンカン2遺跡 ←至本町 方面 国道237号 所で鋼が加熱され、鉄器が造形さ 看々橋 さ は り カ ンカ ン マカウシ 至振内町方面→ れていたと推定)のほか、佐波理 イルエカシ遺跡 シ ラ ッチ セ チ ャ シ 跡 鋺、大刀(全長60.9cm)と いった わん たち 多くの金属製品が発見されてい ます。その他、遺構外から青森 ごしょ が わら 県五所川原産とみられる須恵器 二風谷ファミリーランド 図 カンカン河口域は沙流川有数の遺跡とアイヌ伝承の密集地である。2カ所のチャシ跡 の存在は、地域にとって当地が重要な防衛、交易拠点であったことを示している が出土しています。 じょう こ とう 大刀は上古刀と呼ばれる反りの 経も10~20cmとやや細身である をかけた人とモノの交流の中で ない直刀で、平安中期以前の伝製 ことが分かりました。また、上座 暮らしや信仰観が変容していく 品とみられます。この大刀の類例 の窓の外側とみられる場所からは ことが分かります。 としては、古墳から発掘されるも シカ頭骨の集中もみつかっていま チャシの存在は、カンカン河 のと、奈良時代の正倉院御物の刀 す。チセの多様性を考古学的調査 口が重要な防衛拠点、交易の要 剣類があります。佐波理は銅にス から裏付ける一事例となりまし 衝であったことを示しており、 ズ、鉛を加えた合金のことで、朝 た。 地域に伝わる天然痘のウパシクマ しょうそういんぎょぶつ (言い伝え)は、集落に大きな被害 鮮半島産の製品です。 擦文土器が主要な生活用具で カンカン河口域の調査成果 をもたらす大病であったことを あった約1,000年前に、人とモノ 考古学的調査からは、長い年月 今に教えてくれます。 の盛んな往来が沙流川流域で展開 されていました。五所川原産の須 恵器は、東北地方北部を介在した 物流があったことを示唆していま す。 写真3 カンカン2遺跡発見の大刀。須恵器(写真2)と同時期に当地(カンカン河口の左 岸段丘)へ持ち込まれたと推定。刀自体は上古刀(平安中期以前の刀)の伝世品である。須 恵器、大刀を含む平取町内の遺物は沙流川歴史館に収蔵してある 一方、イルエカシ遺跡からは近 世アイヌ文化期(17世紀前~後半 位に相当)の建物跡20軒、アイヌ 表 イルエカシの伝承 昔、二風谷村のカンカンという所に、少ないけれどコタン(村)があってアイヌが 墳墓1基のほか、フイゴの羽口 はぐち (金属に熱を加える作業が行われ た物的証拠)などが発見されてい ます。 住んでいました。 ある日のこと疱瘡が流行して、カンカンのアイヌたちも次から次と罹り、死ぬ者 は死んでしまって、今にも村が全滅してしまいそうになりました。その中にただひ とり、イルエカシというお爺さんだけが病気にも罹らずに、村中の者の面倒を見て 近世アイヌ文化期の建物跡は平 歩いていましたが、そのイルエカシもついに病気に罹ってしまいました。 地式で、多くのチセ(家)にみられ 今は全く助かる見込みがないと、自分のことを知ったイルエカシは、子供や孫 る前小屋構造も判然とせず、柱の を呼んで「エカシのほうを向かずにあちらを向いて聞きなさい」と言いながら、ゆっ くり話をはじめました。 「こうしてほうそうという病気で死んだ者は、普通の病気で死んだものとちがっ て、アイヌの先祖のところへ行くこともできず、病気をまきちらす神の仲間になっ て、国中を歩き廻るということです。この病気で死ぬのはエカシだけにして、後は 絶対病気にならないように私が守る。 だからもしも、どこかでほうそう病が流行ったという話が聞こえたときはイルエカ シサンミッポアネナ(イルエカシの血統は私たちだ)と言いなさい。それを聞いたら 病気をまきちらす神たちは避けて通るはずだ」 こういいながらイルエカシは死んだのです。そのせいでしょうか、その後はこの 二風谷村には疱瘡が流行らなくなったということです。 疱瘡という病気は、日本国土から持ち込まれた病気なので、アイヌ語では特に 写真2 カンカン2遺跡で発見された須 恵器(窯で焼いた陶質の土器)。産地は五 所川原窯群(青森県)で、年代は10世紀中 葉~11世紀代と推定される B : 二風谷区域 名前はなくて、ただ「パヨカカムイ(歩く神)」という呼び方をしていました (萱野 1975) オプシヌプリ視点場(イルエカシ遺跡) 442 830 513 (F:沙流川区域) 重要文化的景観選定区域 ウカエロシキ 視点場 「アイヌの伝統と近代開拓による沙流川流域の文化的景観」 ■文化的景観についてのお問い合わせ 平取町立二風谷アイヌ文化博物館 オプシヌプリ視点場 びらとり温泉 沙流川歴史館 72 二風谷アイヌ文化博物館 アイヌ文化情報センター 0m 萱野茂二風谷アイヌ資料館 Nibutani Ainu Culture Museum 1km N 旧マンロー邸 2007(平成19)年7月26日、重要文化的景観(国文化財)に選定 沙流川 イオルの森 (町有林) にぶたに湖 ウカエロシキ 額平川 237 国有林 オプシヌプリ むかわ町 2km 平取町 〒055-0101 北海道沙流郡平取町字二風谷55番地 電話:01457-2-2892 FAX:01457-2-2828 発行:2014年6月
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