浅草より持参の差控伺の下書 尚/\只今早々服紗小袖麻上下着用可被出候 世話役中にも只今自宅 追啓只今修理殿より申来候間手回し致し早々御越可有候 尤服紗小袖 相越居侯間罷出候様存候 御礼等の儀は其節申談候様可致候 私儀 西国筋測量御用に付 昨丑年二月出立仕罷越候処 於御用先弟子 十七日 候 以上 麻上下着用 只今被出候様可被成候 尤御礼回りの儀は 其節御談可申 以上 伊能勘解由 伊能勘解由 殿 無程佐藤修理殿御逢にて被仰渡候 渡旨 御同人被仰渡候 依之申渡 伊能勘解由 其方差控の儀 牧野備前守殿へ相伺候処 不及差控 以後入念候様可申 伊能勘解田 殿へ御越被成候様に申に付 猿楽町佐藤殿宅へ罷越候所 世話役も待居候 候は世話役野々山小右衛門殿にも最早佐藤殿へ罷出相待候間 直に佐藤 請け書飛脚へ渡し 則使へ同道にて須田へ罷越候所 玄関にて用人被申 須田久米治郎殿 猶以只今早々服紗小袖麻上下着用可罷出候様是又奉畏候 以上 十二月十七日 速刻参上御請可申上候 以上 御手紙拝見仕候 然ば只今早々修理殿御宅へ罷出候様被仰下奉畏候 須田久米次郎 並小者共不埒の儀御座候に付今日暇差遣候様被仰渡候 全申付方行届兼 候故の儀と別て奉恐入候 依之私儀差控の程奉伺侯 十二月十五日 右の通りに二通相認め五ツ頃帰家 岡村半平出役 郡蔵並官平へ猶又 申渡し暇遣す 一七日 朝より清天 四ツ後高橋善助来る 此朝坂部貞兵衛差控伺 沙汰なしに付雨中帰宅 五ツニ分頃に帰着 り須田久米治郎へ罷越 暮六ツ半頃迄居候得共差控伺の御 頃松井町火災あり 熊井町にも小火あり 八ツニ三分頃よ 一二月一六日 朝雪 早朝に郡蔵 官平出立 午前迄降る夫より雨 四ツ 同 の儀差控に不及よし被仰渡候よし 暮れ六ツ過組頭須田よ り使簡到来 以手紙申入候 然ば被申渡候御用の儀有之候間、只今草々修理殿宅へ 可被罷出候 尤相組世話役差添候の様申達候間、只今早々可被罷出候 若、病気差 合等候はば名代可被差出候 十二月十七日 寅十二月十七日 78 伊能忠敬銅像建立報告書 保存版 江戸の伊能忠敬 夫より立帰 御礼申上げ 野々山小右衛門と同道にて須田門前迄 夫よ り相別れ須田へ御礼申上げ、 玄関にて書状相認 下人長助を浅草高橋氏へ 遣し 伊兵衛相連れ深川へ五ツ半頃に帰宅 門弟を破門し、自身の慎み伺いを出し、それには及ばぬと、許されて一件落着である。 有之候由 一、長州萩にて島々へ渡船の船用意手間取り間に合不申候儀有之候を憤 り 煙草箱投出し候義も有之由 一、 防州辺にて屏風に張付有之候品を無理に所望いたし、 其外書画等所々 にて懇恩(カ)致候義も有之由 右の趣相聞不埒の至に候 依之 勘解由方永の暇申付之 一二月一八日 朝より晴天 飯後浅草高橋氏へ罷越し中食致し 八ツ頃浅 がまずいといって文句をつけたとか、買い物をして満足に料金を払わなかったとか、理 とがあったのは事実である。高橋御用日記にも関連する記録がある。差し出された料理 落ち着く先は予想されていたと思われるがやれやれである。 草より浜町秋山松之丞殿へ寒気見舞に立寄る 八ツ半頃帰 解しにくいことである。しかし徳山毛利家の記録でも、出発後、袴がなくなったと郡蔵 平山郡蔵への申し渡し状である。控えのため、日記に書き残している。このようなこ 宅 高橋善助来る 金弐両弐分婚礼祝儀を相渡す 事件の収拾に努力した高橋景保と奥祐筆組頭・秋山松之丞への挨拶である。忠敬はこう 蔵からの申し入れで描いて、忠敬に差出し控も残した、と記事があるところから見ると、 の不満がこういう形になってしまったものと思われる。有名な御手洗測量之図も平山郡 から手紙がきて、藩が弁償した話などが出てくるから、ありうることだったろう。隊内 いう応対は行き届いていた。高橋善助は、このあと天文方渋川家に婿に入っている。その あるいは、ここにいうような強い要請の一部だったかもしれない。 小坂寛平 伊能勘解由弟子 祝儀か。 十五日 浅草御役所にて被申渡候書付 伊能勘解由弟子 右西国筋測量御用に付 昨今両年勘解由召連候処いかつが間敷義有之 其外食事等 彼是六ケ敷申聞 所の者及迷惑候義も有之 且所々にて買物 平山郡蔵 右西国筋測量御用に付 昨今両年勘解由召連候処左の通の儀有之由 の代料差遣候得共 価より下直に相払候趣相聞不埒の至に候 依之 勘解 由方永の暇申付之 尾形顕次郎 稲生 秀蔵 一、総て賄方料理不好もの差出候砌は 彼是申立候儀も有之候由 既に長 州阿武郡奈古村泊の節 最初差出候料理不相食候に付、 又候仕直し差出 候得共 彼是六ケ敷申候に付 外弟子共差留候由 一、所々にて買物いたし候砌 代料差遣候得共 価より下直に相払候事共 79 門倉 隼太 右西国筋測量御用に付 勘解由召連候処 御用先総て不取締の勤方の由 不調法の至りに候 依之急度相慎可罷居候 同じ内弟子の小坂、稲生、尾形、門倉に対する処分である。郡蔵に対するものと比べ ると、かなり寛大である。引き続き、忠敬と副隊長の坂部に対する指示が出てくる。 たちが慎みを解かれる。 厳寒弥御安全目出度奉存候 然ば別紙差上候 早々麻上下着用御差出 作左衛門 可被成候 尤貴君御出には不及候 書外貴面草々申述候 十二月十九日 東河先生 稲生秀蔵 用事 伊能勘解由 高橋作左衛門 以上 門倉隼太 尾形顕治郎 右の者申渡儀有之候間 追付自分御役所へ可被差出候 同 二三日 晴天 下河辺来る 帰る 夜七ツ頃中島町火事あり 此夜浅草婚礼あり 同 二一日 晴天 八ツ半頃より秀蔵 顕二 隼太浅草へ行きて夜に入りて 三左衛門へ立寄 浅草高橋氏へ行く 大沢右京太夫下屋敷に当時居近藤十蔵殿へ立寄 他行 会田 晴天 朝飯後より山鹿八郎右衛門へ罷越 夫より中ノ郷原庭 一二月二〇日 三人罷出候所相慎の儀御免被仰渡候 伊能勘解由殿 十二月十九日 坂部貞兵衛 右西国筋為測量御用相越候処 下部の者共何も於御用先 所により料理 方麁末の儀有之候節は いかつに罵之 膳具等相損し其外買物等押て下直 に買取候儀も有之候由相聞不埒の至に候 依之 銘々永の暇可被申付候 右の趣摂津守殿被仰渡候に付申渡之 若年寄・堀田摂津守からの指示である。この命令にもとづいて、忠敬は前記のように弟 子たちに申し渡して破門した。重い処分だった。しかし、この手順を、事前に忠敬は桑原、 高橋から聞いていた公算が大きい。 一二月一九日 朝より晴天 飯後 桑原隆朝 夫より堀田摂津守殿 津田山 城侯へ寒申見舞に罷越 紺屋町三丁目お玉ケ池大久保竜太 郎へ立寄 九ツ半に帰宅 坂部貞兵衛来る 下河辺政五郎 来る 八ツ半頃浅草より御使 桑原隆朝、堀田摂津守、領主の津田侯に寒中見舞いと称して挨拶に出る。つづいて尾形 80 伊能忠敬銅像建立報告書 保存版 江戸の伊能忠敬 近藤重蔵は通称で名は守重という。御先手与力近藤守智の次男。寛政一○年蝦夷松前御 用取締出役となり、クナシリ・エトロフを探検した。忠敬と交流があり、このあともしば しば登場する。 同 二五日 大曇小雪あり 組頭より回状 牧野備前守殿被成御渡候御書付写左の通 一橋殿八男松平久之助死去に付 公方様 大納言様 今日より定式半減の御忌服被為 請候事 一、鳴物は今日より明後二十四日迄停止 普請は不苦事 右の通可被相触候 以廻状申達候 然ば牧野備前守殿被成御渡候御書付写 一通相廻し申候 須田久米治郎 間可被得其意候 廻状早々刻限を以順達留りより可被相戻候 以上 十二月二十三日 同 二六日 朝雨午前迄 午後浅草へ行く 御扶持米代金十七ケ月分持 参 一二月二八日 天気好 大工町へ寒気見舞に行き直に帰る 午前弥三郎来 る 外より注文測器内金五両渡す 外に金弐朱象限儀金具直 し代を渡す 此夜雪 大工町は桑原隆朝のこと。彼の住居は藩邸の外の大工町にあった。弥三郎は大野弥三郎、 忠敬は、他から頼まれていた測量器具の製作を依頼し内金を渡している。 同 二九日 曇天又雪 暫時降る 午後より天気 天満屋八右衛門より年暮 に密柑四五十来る 桂板代を渡遣す 佐原より白木屋掛取幸 便に書状並に大鯉 鳧(かも・けり)届く 文化四年丁卯 曇天 米屋新兵衛 天満屋八右衛門来る 晴天 坂部氏年頭に来る 白砂糖一曲持参 深更小雨 二日 正月 朔日 同 晴天風 午後浅草へ年始 夫より吉田 山路並下役衆へ年始 此日四ツ一分深川亀久町家主平治郎店本間半右衛門より相届き 仲町川 岸へ相送候所 山ノ手へ引越候由に付 本所三ツ目松倉町山川安三郎へ相届 三日 終て浜町秋山松之丞へ同じ 七ツ後に帰宅 晴天風 朝飯後より桑原隆朝夫より林大学頭殿 佐藤捨蔵夫 より堀田摂津守殿 夫より須田久米治郎 佐藤修理殿 津田 山城守殿 大久保竜太郎へ相回り九ツ半頃に帰宅 佐藤捨蔵(一七七二―一八五九) 捨蔵は通称で、名は坦、号を一斎という。昌平黌の 四日 同 同 此日八ツ過神保庄蔵来る 幕臣であるから関係のある情報が廻ってくる。廻状を下僕に持たせてやるのだが、住所 がわからなくて探し廻っている。 神保庄蔵は忠敬の父・神保貞恒の孫忠則の幼名である。貞恒には三人の子があり、長男 貞詮が家督を継ぎ、長女フサは南中村の平山泰光に嫁ぎ、二男の忠敬が佐原に入婿した。 兄貞詮の二男の正作は忠敬の第六次測量に従った。 81 五日 晴天 朝飯後小石川御箪笥町 則ち大塚入口前にて小日向三軒 儒者。後に学頭となる。忠敬と親しく忠敬の墓碑銘を書いた。 同 目後也 岡村半平へ年首 当家にて中食 夫より牛込山伏町柳 沢の前通り 焼餅坂野々山小右衛門へ相回り七ツ前に帰宅 留 主に今井官治 富田才兵衛来る 六日 晴 朝飯後地渋川主水 夫より赤羽小沢権右衛門へ年首 七日 雨天 浅草御用初めに行く 午後雨止み七ツ頃帰宅 同 同 九日 朝より晴 午後高橋氏来る 此夜坂田幸太郎来る 八ツ後に帰宅午後曇る(年首は年始に同じ) 同 同 一〇日 朝より晴 午後より曇る 此日七ツ後門谷清治引越す 同 一一日 朝より晴 午後飛脚佐兵衛来る 粟生村飯高氏よりホウボウ 四ツ、大鰯七十、一篭来る 高橋善助来る 間氏来る 同 一二日 朝より晴 六ツ後坂部氏来る 同 一三日 朝より晴天 下河辺来る 同 一四日 曇る 高橋善助弁当持参 同 一五日 晴天 鳥取被下金 門倉持来る 天文方下役が、忠敬宅に足しげく通っているのは、忠敬の天文観測所を利用するためと 思われる。鳥取の下され金とは、鳥取を測量した際にいただいた金子を預けておいて、江 戸帰着後伺ってから受け取ったもの。国産品など品物の贈り物は現場で受け取ったが、金 子は帰着後伺ってから受納した。 82
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