落語『王子の狐』という話をご存

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ゴ る :ヨE子 鷹司ll蜃 讃
ど¨0に こオ
さ″し
あ の藩 譲 ﹃
王 子 の魏 ﹄も
も知れないから食 べてはいけないよ﹂
持 ってきたも のを 見 せると ﹁
馬糞 か
2 子狐 は、帰 ってきた親 狐 に男 が
ヽ
方なく狐の好物を あげて帰 ってしま
狐 が不在 で子狐 しかいないため、仕
り、翌 日お詫びに行 ったところ、親
きく発展す るのである。
後 、王子の繁栄を背景 に、一
扇屋 は大
1年 の頃 であるとされ ている。以
政1
が掛茶屋 から料理屋となるのが、寛
となるのである。そして、王子扇 屋
葉 など江 戸 っ子 の遊 山行楽 の場 所
王 子 は飛 鳥 山 の桜 、滝 の川 の紅
一
扇屋 へ馴染 みとなつて三 の午
国十は海老蔵 、粂三は役が三2扇
︵
文 政︶
赤螺 が海老屋 へ雑魚 のと ヽまじ
食 べた 賢
と諭す とい つも のだ。フ
﹂
の話 の中 で
国十と粂 三王子 でもてたも の
︵
文 政︶
一
扇屋も地がみの加護 で繁昌 し
けた狐が寝込 んでしまうと、男 は店
2 そして、その女 に化
飲ませてしまゝ
を近くの料理屋 に誘 い、沢山 の酒を
煮売商 人﹄の看板を かけ、掛茶 屋を
代弥左衛 門が、農 業 の傍 らに﹃
農間
安 元年 二代 目将 軍家光 の時代 に初
王子扇 屋 ︵
は、慶
当主 早 船武 彦 ︶
武江年表 七、寛政年間記事 の條 。
的なものに次のようなものがある。
安藤広重の浮世絵 の題材になった
り、随筆 や川柳 に登 場し、その代 表
ている扇屋 であるが、最近明 らかに
とにかく多 く の文献 で紹 介 され
知だろうか?
︵
文政︶
ある日、狐が女 に化 けるところを
男 が女 を 誘 った料 理屋 が王子扇 屋
落語 ﹃
王子 の狐﹄とい つ話をご存
2 男は
通 りがかりの男が見 てしまヽ
の人 に﹁
後 で女 が勘 定 を 払 うから﹂
始 める。江 戸時 代 の王 子 稲荷 の繁
﹁
寛 政 十 一年 春 より 王子村 料 理
︵
文政︶
と言 って出 ていってしまうのである。
忙 は目を見張るものがあり、沿道に
多 く の文 献 で 取 り 上 げ ら れ る
であ る。
家 に帰 った男 は、狐を欺 したので祟
は数多 くの茶 屋があった。
金曾木 ︵
太田蜀山の随筆 、文化 六年
屋海老屋扇 や見世 ひらきあり﹂
六年 の八月 二 扇屋 に宿 泊 を し、活
上げ た伊能忠 敬 の測量 日記 で文化
なったものに日本全国 の地図を作り
︵
文政︶
千垢離 のもめ扇 屋 でしづめ折 り
かせたも の
地紙 は土地 の神 に扇 の地紙を 利
り があ るのではないかと心 配 にな
の序 あり︶
動をしていたことが記述 されている。
屋は兄が、海老屋は弟が経営をして
いた。一
扇屋の方が武 士を中心とする
ここで扇 屋 、海 老屋 とあるが、一
扇
﹁
王子 の茶屋 は菜 めし田楽 のみに
て、青 魚 に三葉 芹 の平 皿 にも り た
るのみなりしに、今 は海老 や扇 やな
どいふ料 理茶屋出来 て、其餘 の茶屋
高 級 店 で、海 老 屋 は 一般 の人 を 対
象とする大衆店であった。海老屋は、
も其 風を學 ぶ事 となりぬ﹂
川柳江戸名物 に
明治に入り、閉店することになる。
そんな扇 屋 の名 物料 理が玉 子焼
きである。そして、今日でも幻の玉子
されば 玉 予焼 き
門 回の海老 は王子 のかざり也
︵
文政︶
午 の日の奢 は海老 で鯛を つり
︵
文化︶
嫁菜 をば値 切 り海老屋 でくらつ
ている ︵
文化︶
撫‡
嵐嵐
議慇
::蔵 轟
:姦 :轟 :議 ::饉
撫
轟
姦:嵐
::姦
│││││││││││
:│││││││││││││││││││││││:││:││:│:::│:│:│::│::│:│::││:│::│:│::│:│:│:│││:│:│:│:│:│:│::│::│││:│:│││││││││::1111:│││││:│││││││││:│││││││││││:│││││││││││‐
何知 らぬふりをして、女 に化 けた狐
早船武利さん
15代 目王子扇屋
早船武彦さん
14代 目王子扇屋当主
東京都北区】
【
'わ
IMコ ンサルタント代表 平 松 陽 一
王 子扇 屋
住所 :〒 1140021東 京都北区岸町 1丁 目1-7
舌:03-3907-2567
電言
王子の名物として知られているケーキのような形をした王子扇屋の「釜焼き玉子」
。 音無川沿いの遊歩道にある店舗『王子扇屋』
も 、玉 子 焼 きを 1回 くらいはしてい
るのではないだ ろ う か。取 り 立 てて
難 しい技 術 ではないはず だ が、そ の
誰 もができる料 理 で差 を つけること
2 たかが
が、本 当 のプロなのであろヽ
玉 子 焼 き、され ど 玉 子焼 きであ る。
子 である。一
扇屋 のある王 子 は、日 光
焼 きと言 われるのが一
扇屋 の釜焼 き玉
と な っている。ま た、塩 な ど も 直 接
込 んだも のであり、門外 不 出 のも の
特 に、一
扇屋 の出 汁 は、何 年 も 使 い
ている。
お茶 のお点 前 の菓 子 として用 いられ
音 無 川 の扇屋 の釜 焼 き 玉 子 焼 きを
事 実 、著 者 の知 る範 囲 でも 王 子
:│││││││││:││:│││::││││││││││:│││││││:││││││:│││││:││:│::│:││::│││││::│:│::│::::│:111::││::│:111:│:│::│││::││:│
│:●
王 子 の釜 焼 き の起 源 は明 確 では
ないが、現 当 主 によ ると海 外 での調
理技 術 が活 かされ ているのではない
2 釜 焼 きは焼 くというより
かと言 ゝ
は、蒸 す という 方 が正 しいかも しれ
ない。海 外 から 日 本 に来 る 人 達 は、
料 理 人 を 同 伴 さ せていた。フ
﹂
のメン
バーが扇 屋 に立 ち 寄 った時 に、焼 き
方 の技 術 を 教 え 、それ を 工 夫 した
も のが今 日 に伝 えられ ているのでは
街 道 が通 っている。江 戸 時 代 参 勤 交
ふり かけ るとい つことはせず に、独
ないかという ことであ る。
代 では、中 山道 を 通 るのであるが、大
自 の手 法 で塩 水 として使 っている。
現 社 長 は若 い時 に、 一時 の気 の迷
になる。
3年の生まれであ
現当主は、昭和1
り、5歳の時に一
扇屋に入っている。そ
2
8年に1
4代目を継ぐこと
して、昭和3
関 鸞 り な つけ 燎
料 亭 と し ての 艤量 は
名 行 列 がかち 合 ってしま う時 は、 一
ところを 拝 見 したが、ア
﹂
こまでやって
は数 多 く 見 てきたが、ご 子息 の焼 く
この時 に、玉 子焼 き、特 に釜 焼 き
玉子焼 きは、﹁
3回引 いて焼く、7
この値 段 とい つのは大 変 に割安 感 が
玉 子 焼 きには、関 西 系 と 関 東 系
返 して蒸 す﹂と言 われている。 読
は当 主 が自 ら 作 り、大 名 に提 供 し
があ ると言 わ れ ているが、関 東 系 は
者も何も料 理はしないと言いながら
あ った。
出 汁 を 使 う ところ に特 徴 があ る。
ていたという ことだ。
に一
扇屋 を 利 用 していたのである。
著 者 も これ まで玉 子 焼 きについて
広重画の浮世絵
「王子装東ゑの木 大晦日の狐火」
方 の大 名 が日光 街 道 を 使 い、その時
江戸時代の ミシュランのレストラン・ガイド。
警
鷲群警
撃警撃警琴警撃撃撃警
警
諄諄撃撃撃驚
警 撃警警警撃撃撃琴警警琴警撃警
一
扇屋 の看 板 を 残 そ う とい つ現 当 主
息 子 、早 船 武 利 が社 内 で修 行 中 で
5代 目 であ るが、現 当 主 の
さて、・
けている。ただ、一
扇屋 を 引 き継 ぐ に
の思 いがあ ったことは事 実 であ る。
ことによ り、お客 様 の本 当 の声 や励
は、玉 子 が焼 け るだけでは困 るので
0年 の玉 子 焼 きキャリ
ある。す でに1
ましが聞 け るよ う になってきた。以
あ る。経 営 全般 ・
家 族 の見 る目 が必
こフ
﹂
までを ふり返 り、現 当 主 は言
前 の扇屋 は、古 いのれ んの上 にあ ぐ
要 になるという ことであ る。そ のた
アが あ り、しっかり した腕 を 身 につ
らを かいて、本 当 のお客 様 の声 を 聞
自 分 の家 族を守 るとい つこ
めには、﹁
2 直 接 お客 様 に玉 子 焼 きを 渡 す
ゝ
いていたかと いう のは疑 間 であ ると
とな のです がね ⋮﹂と、現 社 長 は笑
っていた。
言2
一
事 実 、著 者 が一
扇屋 の店 頭 で聞 いて
化 を しな いのです か、も っと 種 類 を
著 者 は思 いきって、ど う して機 械
てね ⋮﹂という 声 を 聞 く ことができ
増 やせば扇 屋 さん程 の﹃
のれ ん﹄があ
いると、お客 様 から ﹁
熱 いのに頑 張 っ
3歳 の現 当 主 はど う感 じている
た。7
から昭和 にかけて軍 人 。
役 人 や王 子
す ると、現 当 主 が ﹁
それ はしま せ
るな らば 、更 に業 績 向 上 は 可 能 な
いも あ ったが、一
扇屋 が古 いも ので自
製 紙 の幹 部 といった人達 に支 えられ
てきたが、現体 制 を 無 理 して維 持 し
のだ ろう か。
然 に継 ご う とい つ気 になったそうで
てきた。ところが、太 平 洋 戦 争 によ
んよ 、大 体 機 械 で焼 く よ うになって
あ るためにど う しても 接 待 ・
交際費
魔 鑢 が 磯 畿 であ る こと 濾
また、よく聞く言葉 に﹁
最近 あの
店 はお客 さんの声を聞 かなくなった
ね ⋮﹂とい つも のがある。お客 様 の
R それをしなくな
舗 であるのだろゝ
ひらまつ よういち 玉川大学 工学 部 経営
工学 科 卒業 後 、経 営 コンサを ηジ グ 活動
︵
会社経営 研究 所 ︶を経 て、lMコンサルタ
ント代 表 とな る。現在 、経営 コンサルタン
トとして、指導 業務 、教育 、講演 を行 って
いる。ヨ ンサルテイ ング 活 動 の傍 ら、企 業
に入 り管 理職 を 兼 務 。主 な書 書 Fcの老
、﹃
必ず 売 れる
舗 に学 べ宍 フォレスト出版 ︶
営 業 了ンにな れるL 営 業 幹 部 のための指
導力倍 増講座 穴以上すばる舎 ︶
など多 数 。
2 冒▼
がれ ていく ことであろ ヽ
5代 目 にフ
代 目 から 1
﹂の心 が 引 き 継
4
者 の心 の中 に残 るも のであ った。1
れ は著
﹂
何 気 ない会 話 であるが、ア
のではないかと話 した。
あ る。そして、調 理 部 門 に入 る。父
よ う としたことから、そ の﹃
のれ ん﹄
は王 子 の扇屋 ではないです から﹂と
玉 子焼 き、釜焼 きは従 業 員 から教
で飲 食 を す る人達 が中 心 となってし
著 者 は、今 ま で多 く の老 舗 を 見
は 明 治 生 ま れ であ り、自 ら 仕 入 れ
を 落 とさぎ るを 得 なくなってしま う
していて、現 当 主 が小 さい時 から河
ら 現 在 地 へ移 転 した。
高 度 成 長 期 は、現 扇 屋 ビルの中 で
わる。扇 屋 は、古 くから働 いている従
まい、売 上 の波 が大 き過ぎるために、
料 理屋 を 営 んでいたが、高 級 割 烹 で
0歳 くらいの人がいて、
業 員 が多 く 、8
業績 が安 定 しない。
部 門 を 開 鎖 し、玉 子 焼 き作 り と 販
った老舗 は、ただ古 いだけで老舗 で
声を聞 き続 けているから、老舗 は老
売 に徹 す る こと にな る。そ こには、
0年 程 前 に料 飲
で迷 った末 、1
﹂
そフ
さて、一
届屋 の経 営 であ るが、江 戸
︲
LIν
はあり得 ないのである。
I
守 り続 けてきた玉 子焼 きを中 心 に、
︱ ,
時 代 は武 士 ・
町 人 に支 えられ、明 治
え、無 縁 仏 となっている人 も いる。
事 実 、一
扇屋 で亡 く な り、 一生 を 終
家 族 同 然 の扱 いを していたそ うだ 。
そ うであ る。
ご く 自 然 に調 理 には馴 染 んでいった
﹂
岸 に連 れ て行 ってくれ た。フ
のため、
り、一
扇屋 が焼 失 してしま 2 そして、
,
戦 後 は以前 の店 舗 があ ったところか
料理屋・扇屋の庭園風景。当時の面影を感じさせる。
一
言っていた。
明治初年に撮影された王子の料理屋・扇屋。
という ところが多 い。
料理屋・扇屋の夕涼み風景を表した浮世絵 。
︱
::::
1譲 :議 :姦 :殿
磯
菫
::=:││::::::1よ
││││││││││:11:│::::│:││::::::│::11111::::│:::│:::111:│::::::::::111::::│:│::::│:│:│:││::││:│::│:│::│:│::││:│:│:││:│:│::│::││││││:│::│:│││:11.:.:│││:││││││││││:│││││││││:│││::││:││:│││││││││││││:││││││││││││:││:││││:│:││││││││││││││││││││││││││:│:││││││││
:
1警