国際的日本人を育てたい! 天正遣欧少年使節 大友宗麟(義鎮)、大村純忠、有馬晴信ら九州のキリシタン大名達が国際的日本人を育てたいとの願いもあり派遣。 中浦ジュリアン(14歳副使)長崎の大村領西海町中浦出身。1580年有馬セミナリョに入学。1591年天草でイエズス 会に入会し「天草学林(天草コレジオ)」で学んだ。1608年司祭。宣教師として各地を伝道していたが、小倉で捕らえられ 長崎で殉教。64歳。 原マルチノ(12歳副使)大村領波佐見出身。1580年有馬セミナリョに入学。1591年天草でイエズス会入会。長崎を 中心に管区長秘書として活躍、1608年司祭となり、‘14年マカオへ追放、’29年没す。62歳。 千々石ミゲル(13歳正使)千々石出身。大村純忠の甥。後に棄教消息を絶つ。多良見町で始めて彼らの存在を今に伝える墓 が見つかる。 伊藤マンショ(14歳正使)日向出身。1580年有馬セミナリョに入学。大友義鎮の妹の夫の妹の子。1591年ジュリア ンらとイエズス会に入会し「天草学林」で学んだ。1608年司祭。九州各地で布教に従事、1612年10月13日長崎にお いて43歳で没す。 天正遣欧少年使節とは、 日本で最初の遣欧使節。イタリア人宣教師ヴァリニヤーノ(イエズス会巡察師)のすすめにより計画、ローマ教皇グレゴリオ13世に 謁見した四人の少年たちのことである。 天正 10 年(1582)2 月 20 日長崎港を出航し、その間、2年をかけ苦難万里の果て、スペイン国王、ローマ教皇に拝見し使命を 果たすと共に、接した人々にその勇気・賢明・礼節を感銘させ、また日本の存在を強く印象づけた。天正 18年(1590)帰国。この 間 8 年5カ月。日本文化に影響を及ぼす印刷術、西洋音楽その他数々の文化を身につけ帰国した。その後、彼らは急変した日本で逆境に ありながら信念を貫いた。 キリシタン弾圧の嵐が吹き荒れる寛永 10 年(1633)10 月 18 日(天草・島原の乱の4年前)長崎の西坂において穴吊りの刑を受 けることになったジュリアンは、刑の直前「私はローマに行った中浦神父です」と誇らしげに絶叫したという。老齢になって身体の衰え たジュリアン64歳であったが、その信仰は不死鳥のように気魄がこめられていた。 天草学林は7年間 宣教師を養成するキリスト教の大学校は、天正 19 年(1591)長崎の加津佐から天草が安全ということで移動。これが「天草学林」 。 5人の豪族は皆キリシタンとなり、小西行長もキリシタン大名であり、天草はキリスト教が華と開くことに。しかし、慶長3年(15 98)天草もキリシタン弾圧が進み学林は長崎へ移動。ここで活版印刷技術は一時途絶 える ことに。 また1592年印刷された「天草本・平家物語」 (ポルトガル文字ローマ字式で印刷)は、今も平家物語の解読用に用いる人がいると聞 く。
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