武智丸(たけちまる) 2隻は船尾を接するように設置されており,同 - 呉市

船 名
第一武智丸,第二武智丸
所在地 安浦漁港(呉市安浦町三津口地先)
武智丸(たけちまる)
2隻は船尾を接するように設置されており,同地に立って
いる看板によると,国道側(画面左手前)が第一武智丸,
沖側(画面右奥)が第二武智丸です。
太平洋戦争開戦により,船舶の鋼材不足に苦しんだ日本で
は,昭和 17 年末頃からコンクリート船建造が計画されまし
た。舞鶴工廠が中心となって実験と研究をし,新設の武智造
船所(兵庫県曽根町「現:兵庫県高砂市」に武智氏の名前を
取って「武智造船所曽根工場」
)が建設され,コンクリート
製被曳航油槽船5隻,武智丸級コンクリート製輸送船3隻が
建造されました。
武智造船所で最初に建造されたのは,コンクリート製被曳
航油槽船というものでした。
これは改E型船(880 総トン)とほぼ同じ大きさの無人無
かん
えいこう
動力のバージで,タンカーや護衛艦に曳航(えいこう)され
て南方から内地へ原油を輸送する目的を持っています。要す
るに,同時期に被曳航油槽船をコンクリートで造ったもので
す。5隻建造されたうちの1隻が,呉市音戸町の漁港に防波
堤として残されています。
ご
え
い
音戸漁港(呉市音戸町坪井地先)
武智丸級コンクリート輸送船は,戦争中に第三武智丸が失
われ,第四武智丸は艤装中に終戦を迎え,終戦直後に荒天に
より沈没,戦後解体されました。第一と第二の武智丸は終戦
まで健在で,第二武智丸は終戦後のごく短い期間に大阪商船
に貸与されたようです。
現在,第一武智丸と第二武智丸の2隻は呉市安浦町で防波
堤となって残されています。(上記写真)