Kyo YASLTDA *

東南 ア ジア研 究
36巻 4号
1
999年 3月
1
889年 パ リ万 国博 覧 会 にお け る ジ ャワの舞踊 と音 楽 につ いて
安
田
香*
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前 世紀 末 は, ヨーロ ッパ の異 国- の思 いが沸騰 した時期 で あ る。 音楽 につ いて も例 外 で はな
い。た とえば作 曲家 ドビュ ッシーが ,先達 ヴ ァ- グナ -の呪縛 か ら自 らを解 き放 つ果 敢 な決意
を した背 景 に は, ガム ラ ン音楽 をは じめ と しての異 国の音 楽 との出会いが あ った と言 われ る
。
彼 は, 1889年 パ リ万博 で ガム ラ ン音 楽 の生演 奏 に触 れ, その虜 にな ったので あ る
。
人 々が 公務
あ るい は業務 以外 で 自国 を出 る こ とは まず なか った時 代 で あ る。万博 は,西 洋 の作 曲家 た ちに
とって,直接 に異 国の音 楽 を体験 で きる貴重 な場 であ った。1
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東南アジア研究 36巻 4号
本研 究 は,1
889年パ リ万博 で演奏 された音楽 のなかか ら, ジ ャワの ガム ラ ン音楽が いか なる
ものであ ったか を探 るこ とを目的 とす る。 筆者 は,かつ て,開催 国 フラ ンスで 当時発刊 された
音楽 レポ ー トの類 を調べ,報告 した ことが あ る。2) しか し,民 族音楽学 が まだ充実 した研 究分
野 にな って はいなか った当時の レポ ー トか らは, ガム ラ ンを特 定す ることはで きなか った。 そ
こで,調査対象 を当時 ジ ャワで刊 行 されて いた新 聞 な どに広 げ, ジ ャワの どの地域 の どんなガ
ム ラ ン音楽が演奏 されたのか を調べ るこ とと した。その際,舞踊 につ いて も考慮 に入れた。ジ ャ
ワにおいて は,舞踊 は決 まった音楽 を伴 うものであ り,舞踊 の特定が音楽 の特 定 につ なが る と
考 え られたか らであ る
。
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年パ リ万博 とオランダの参加
1
9世紀半 ばか ら西欧で盛 んに行 われ るよ うにな った万国博 覧会 は,1
889年パ リ万博 において
一つ の頂点 を迎 える こと とな った (
図 1) 高 々 と奪 え立 ち,電 気 の威力 を示 したエ ッフェル
。
塔 が その象徴 であ る。エ ッフェル塔 は,ただ見 られ るだ けの対象 で はなか った。観光客 たちは,
高 い料 金 を払 えばエ レヴェ一 夕-で塔 に登 るこ とがで きたのであ る。 観覧者 に生 の 「
体験 」 を
して もらお うとい う方針 は, あ らゆ る展示 に共通 であ った。 それに よって高 い収益 をあげ るこ
とが主催者 たちの 目論 見であ り,実際,様 々の体験 が で きるこの万博 の人気 は上 々であ った 。
なかで も, ア ンヴ ァリ ッ ド広場 の植民地 コーナー (
図 2) は,現地 か らや って きた原住民集
団が実際 に起居 し, その生 活ぶ りを見せ る, とい う展示 で人 々の注 目を集 めた。家族単位 を中
心 にか な りの人数で派遣 されて きたの はセ ネガル人, コ ンゴ人,ニ ュー ・カ レ ドニ ア人, ジ ャ
ワ人 であ った [
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0] 。 こ こで注 目 した いの は,万博 主 催 国 の フ ラ ンスだ
けで はな く, オ ランダが この コーナ ーの展示 に積極 的 に参加 した こ とであ る。 以 下で見 る よう
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sは人気 のスポ ッ トの一つ であ った。
に, ジ ャワ村 kampo
1
889年万博 は,主催 国 フ ランスが フラ ンス革命 1
00年 記念 を強 く打 ち出 したため に,列 強諸
国 をは じめ多 くの国々が公式参加 を見送 った。 それで も結 果的 に空前 の規模 で繰 り広 げ られ る
こ ととな ったの は, フラ ンス側 の熱心 な呼 びか けに答 えて,私 的 に参加す る団体 が列 国か ら続
出 したか らである [
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45-1
46
] 。 オランダも今 回は私的参加であ り [
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],
1)強調されるべ きは,これらの音楽が,現地からやってきた人たちによって演奏 されたことである。
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]の目次から,少な くとも以下の音楽 と音楽を伴 う芸能が公演
されたことが分かる。安南の音楽付 き劇,ジャワのガムラン付 き舞踊等, 日本の古謡,はや り歌等,
中国の行進曲,タヒチの宗教歌,アルジェリアのヌヴァ,剣の舞等,ペルシャの歌,エジプ トのベ リー
ダンス等,モロッコのルバブ,チュニジアのバグパイプ,ルーマニアのダンス,スペインの ミュゼ ッ
ト。
2) 安 田 [
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]
3)新聞の発刊 日を示す。以下同。
506
安 田 :1
889年 パ リ万 国博 覧会 にお け る ジ ャワの舞 踊 と音 楽 につ いて
図 1 会場 烏 巨
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当て られ た。右 下 の Vi
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nが即 ち ジ ャワ村 で あ る。
出所 :[
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07
乗南 アジア研究
3
6巻 4号
経 済 人 を中心 に 『
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889年 万博 にお けるオ ラ ンダの利益 を守 る会』な る ものが結成 され たのであ っ
た [
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9] 。 4)
Ⅰ
Ⅰ ヨーロッパ人を魅了 したジャワの舞踊 と音楽
ジ ャワ村 で は,pe
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ppoとよばれ る ヴェ ラ ンダ状 の舞 台小屋 で,連 日,舞 踊 と音 楽 が披 露
され た。 ジ ャワ村 の人気 はこの公演 に よる ところが大 きか った。 フラ ンスで 出版 された多 くの
万博 レポ ー トの類 は,例外 な く好意 的 に公演 を取 り上 げてい る。 なかで も, 4人 の踊 り子が繰
り広 げ る ダ ンス とそれ に伴 うガム ラ ン音 楽 は賞 賛 の的で あ った。 「
遠 くで ひび く鐘 の よ うな透
きとお った音 と,悲 しげ な甘 さが漠 と したせ つ な さを表 す気怠 い音調 が,我 々 を甘美 にな ご ま
せ る。 我 々の胸 を満 たす メラ ンコ リー, もや もや と した苦 しみの入 り交 じった喜 びが,得 も言
われぬ もの に思 われ る。 ど う して我 々 はそ れ を定義 せ ね ば な らないのか ?夢 を分析 で きよ う
か ?・
-- (
中略)- - 4人の娘 た ちは,立 ち上 が り, ゆ っ くりと踊 ってい る。 独特 の気 品あ る表
情 で高 め られた厳 か さが彼女 たちの顔 には漂 い,上体 は, ほ とん ど動 かず, 堅苦 しくはない品
位 を備 えて姿勢 をただ してい る。 手 は独特 の気 品 と美 しきを もっていて,繊細 な しなやか さで
動 く。 --・(
中略)--その リズ ミカルな動 きの,純潔 な詩情 漂 うダ ンスの効果 は,我 々 を包 む
音楽 の魅 力 を完成せ しめ る。 ・
=・
-(
中略)---高価 な衣裳 をま とった踊 り子 た ちが また現 れた。
あた りは静 ま りか える。 ヨー ロ ッパ 中の人種 が集 まってい るが,パ リ人が最 も多 い。 いた る と
ころ に小 さな徒党 を くんだ愛好家 た ちが いて, その大喜 びの顔つ きは,見 ていて面 白い。 なん
と !厳 しい批 評家連 もいて,自分 たちの席 に半 ば倒 れかか ってい る。彼 らは快惚 と した表情 で,
その眼鏡 は,普段 は鋭 い光 を発射 してい るの に,今 は柔 らか い光線 に包 まれてい る。 蛇 の ご と
き無 意識 な魔 力 が彼 らを魅 了 して い るの だ」 [
Monod 1
890:1
36-1
37
]
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「
リで い ささかで も
芸術 的セ ンスのあ る者 は全員 , ゆ っ くりと した リズムに乗 った彼女 たちの踊 りと, しなやかで
珍 しい動 きと,儀式 の伝統 に則 ったポ ーズが一体 とな った調和 を見 に行 き,凝視す るのだ った」
。「西 洋芸術 の影響 が まった く行使 されて い ない極東 の 国で和声 が作 られ
[
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889:31
]
演奏 されてい るや りかた を知 ってみ る と, ジ ャワの音楽 は格 別 の限 りない興 味 を喚起 す るので
あ る」 [
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4]o 音楽 に応 じて しなやか に変化 す る踊 りは驚 嘆 を呼 んだ。 「
彼 女 た ち は穂 の
4)筆者は,オランダ公文書館で当時の公文書 [
その他の資料参照]を調査 したが,1
8
8
9年パ リ万博に
ついての文書は一切発見されなかった (
1
8
9
3
年シカゴ博については,い くつかの文書が残っていた)
。
オランダ領東インド政府の公式報告書 [
その他の資料参照]にもパ リ万博について触れたものはない。
また,Ob
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1
8
8
9
年パ リ万博 オランダ部門』 と題 したパ ンフレットのなかで,以下のように
述べている。「この短い記録は,政府の一切の援助無 しに特筆すべ き結果をおさめたオランダ部門の
主導者たちをたたえるために書かれた。展示会をなすのに, もはや政府の介入が要請される必要が
ないことは明 らかである プライベー トの力は-- (
中略)--・
今後ます ます有効になってい くだろ
う」 [
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。
] 。
508
安 田 :1
8
8
9
年 パリ万国博覧会におけるジャワの舞踊 と音楽について
ように波打 つ,バ ラの よ うにたわむ,鳩 の よ うにぴ くぴ く動 く術 を,あ るい はお ごそか に偶像
・(
中略)・
・
・
・
・
・
ゴ ングの一
や亡霊 の行列 を作 る術 を,空想 の波 に沿 って滑 る術 を心得 てい る0 --・
打 ちが彼女 たち を仮 死状 態 か ら目覚 め させ ,彼女 たちはア ッチ ェ レラ ン ドの うちに うま く生 き
返 る」 [
Gode
t1
926:56]。
4人の踊 り子 に よる もの とは別の, 男女 の カ ップルに よって踊 られ る演 目も好 まれていた。
「この恋 人 どう しの カ ップル よ り感動 的 な ものが あろ うか !彼 らの表現 は, もっぱ らむだのな
い動作 ,す なわ ち丁重 な懇願 や強い憤慨 の身振 りに よってい る」 [
Mono
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890:1
37]。激 しい
パ ッセ ージのあ と訪 れ る,音楽 のゆ っ くりと した終結部 , なか んず く予期せ ぬ終結音 は強 い印
。「我 々は言 う, 『まだ終 わ っていない』-
象 を与 えた ようであ る
しか し, この世 界で何 が終
わ る とい うのだろ う。 すべ て は また始 まるので はないのか ?---(
中略ト ・
・
-我 々は物事 の不変
性 と向かい合 ってい るこ とを再発 見 しない だろ うか ?-
おそ ら くジ ャワの終結部 の哲学 はこ
の ような もので あろ う」 [
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889:45
] 。
また,太鼓 と大小 さまざまなア ンクル ンに よる合奏 も人々の注 目を浴 びてい る。それ は,公
演 の開始 を知 らせ るため に,村 を行進 しなが ら演奏 され たのであ った。「進 むにつれ て速 度 は
速 ま り,音 たちは急 ぐ1
・
・
-・
・
(
中略 )---最後 には一斉 に鳴 り,一種 の トレモ ロの ような もの を作
る。 ---(
中略)・
--豊 かで満 ち足 りた, まった く現 代的 な和声 であ る。 ---(
中略)--・
ジ ャワ
の人た ちの芸術 的感覚 の証拠 が ここにあ る」 [
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d.:35
]o
公演 が 人 々に与 えた印 象 は よほ ど強 か った ら しく, 年 月 を経 て もなお語 られた。 「1
889年 の
万博 で,町全体 はジ ャワの踊 り子 たちにす っか り魅了 されて しまった。パ リ中の芸術 家 たちは
この スペ クタクルを見逃 しは しなか った。 人々はほ とん ど毎 日の よ うにジ ャワ村 を訪 れ, たが
い に同意 の笑みで もって会釈 しあい, -- (
中略 )--いつ まで も続 く捉 え どころの ない音楽 に
耳 を傾 け,神秘 的で魅惑 的でつ い には催眠術 の業 さなが らにわれわれ を気怠 くす る踊 りに うっ
と りと見 とれたので あ った。--・(
中略)-・
- 人々は,愛 の後悔 が引 き起 こす若干 の メラ ンコ リー
とともにその姿 を再考 してい るのであ る。 それ は,消 え去 らぬ香 りを放 ち,記憶 の袋 に保 たれ
て い る陶然 とさせ る花,輝 か しい夏 のあい だ もた ったひ とつ持 ち こたえた こわれやす い一枚 の
花 び らであ る。 『ジ ャワの踊 り子 た ちは 1
9
00年 の万博 に も来 るの だ ろ うか ?』 人 々は熱心 に問
う」 [
Gaut
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.1
900:56]。作 曲家 ドビュ ッシー も友 人へ の手 紙 に記 して い る。 「君 はジ ャワ
音楽 の こ とを覚 えて いるかい ?意味 の どんな影 で も,言葉で は言 い表せ ない ような影 で さえ表
現す る ことがで きて,我 々の トニ ックや ドミナ ン トは亡霊 で はないか, と思 わせ るあの ジ ャワ
の音 楽 の こ とを ?」 [
Le
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980:7
0] 。
訪 れ る人たち をこの よ うに魅惑 したの は, どの ような舞踊 , どの ような音楽 だ ったのであろ
うか ?
509
東南 アジア研究
36巻 4号
Ⅰ
Ⅰ
Ⅰ ジャワ村で舞踊 ,音楽 を披露 したのはどんな人たちだったのか
Ⅰ
Ⅰ
ト1 4人の踊 り子 とカ ップルの踊 り手
4人の踊 り子が ソロ (
ス ラカル タ) のマ ンクヌガラ王宮 か ら派遣 された ことは,すべ ての文
献で共通 している。余 りに も人気 の高か った 4人 は,それぞれの名前 まで人々に知 られていた。
その名前 は,表 1の ように,表記が若干 ことなる ものの, ワキエム,サ リエ ム, ソエ キア, タ
ミナ-であ り,年齢 は12- 16歳であ った。
,
,
,「
V世 に属す る」,とい う 3種 の記述がみ られる
王 に属す る」 「
王子 に属す る」
踊 り子 は 「
。
この混乱 は, 1889年が王不在 の時期 に当た り,王子である V世が実質上 は王 の役 目を担 ってい
た こ とと関わ ってい る (
その近辺 の王 の生存 年 と王位継承年 は,マ ンクヌゴロⅣ世 :1811-
,「王」,「王子」,
896,1894,Ⅵ世 :1857- 1928,1
896である5))。即 ち
1
881, ?,V世 :1855- 1
「
Ⅴ世」 とい う 3種 の記述 は,同一人物 に対 してなされているのである。
しか し,彼女 たちの身分 ははっき りしない。「ス リンピ sari
mpiであ る」 [
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],
Godet1926.
'56]
, 「ラ ンゲ ン ドリア Langendri
aであ る」Uav
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「ブ ドヨ Bedoyoであ る」 [
8/19;MN 資料 1929],「タンダ ッ Tandakである」 [
Lombar
d 1992:122;Monod 1890:138]
,
と様 々に記 されている。 前三者 は,本来, ス リンピ, ブ ド∃, ランゲ ン ドリア とい う,いずれ
も位高 い踊 りをい う語であ り,それ らを踊 る踊 り手 とい う意味で も使 われ る。これ らの踊 りは,
王宮 の一族 しか踊 ることがで きない。一方, タンダ ッの語 は,王宮 には属 さないが,踊 りと歌
を担 当す るかな り位 の高い女 の子の総称 であ る。筆者 は,現在 のマ ンクヌガラ王宮 の芸術監督
Ronos
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pt
o氏 か ら, ワキエ ム,サ リエ ム, ソユ キア, タ ミナ- といった呼称 か らはマ ンクヌ
ガラ王宮 の踊 り手 とは考 え られ ない, との言 を得 ている。6) 結論 と しては, 4人の踊 り子 は,
マ ンクヌガラ王宮 か ら派遣 されたのは確 かだが,
王宮 の踊 り手であ るか どうかは不確 かである,
とい うことになる。
表 1 文献 に見 る少女 たちの呼称
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6以下)
Ta
mi
na
1
99
6年 9月)。
5)マ ンクヌガラ王宮資料館 司書 の教示 による (
6)筆者 1
996年 9月の調査 による。
51
0
Lo
c
o
mo
t
i
e
f
1
0
/1
0
Wa
ki
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m
Sar
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m
Soa
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Ta
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J
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de
9
/9
Wa
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Souki
j
a
Ta
mi
na
h
BN 8
/3
Waki
e
m
Sa
r
i
e
m
Souki
a
Ta
mi
na
h
安 田 :1
88
9年 パ リ万 国博 覧会 にお け るジ ャワの舞 踊 と音 楽 につ いて
もう一種類 の踊 り,即 ち男女 の カ ップルに よる民衆 的 な舞踊 は どんな人が担 当 したの だろ う
か。 「
舞 踊 団 は 5人 の女性 と 1人の男性 か ら成 って いて,男性 は控 えめで, ボ ンゲ ン bongge
n
と一緒 にのみ踊 る。 この民衆 的舞姫 は, 多少 な りとも遊 女 で,つつ ま しく, 人 々が声 をか け,
支払 う と ころ, あ ち らこち ら村 か ら村 へ と赴 く」 [
Lombar
d1
992:122] 。 「ジ ャワの踊 り子 た
ち は,非常 にはっ き りと異 な る 2つ の社 会 的階層 に属 して い る。 タ ンダ ッ t
a
nda
k とロ ンゲ ン
r
ongge
ngであ る」[
Ra
oul1
889:11
]とい った記 述 か ら,この男女 は身分が低 い こ とが分 か るが,
出身地 につ いて正確 に記 した もの はない。
Ⅰ
Ⅰ
ト2 ガム ラ ン奏者 ,ア ンクル ン奏者
踊 りの伴奏 を務 め, あ るい はア ンサ ンブル を披 露 した ガム ラ ンはい ったい誰が演奏 したの だ
ろ うか 。 「12人の音 楽 家が演壇 の両端 に坐 り--・
・
」[
Monod 1
890:1
36] とい った記述 は見 られ
る ものの,彼 らの 出身地 につ いての 明確 な情 事鋸まない。Res
i
nk氏 は, 「
踊 り子 がマ ンクヌガラ
王宮 か ら行 ったのだか ら, ガム ラ ン も奏 者 も当然 同 じ王宮 か ら行 って い るはず だ」 と言 い ,
7
)
マ ンクヌゴ ロⅤ世 の息子 にその証言 を得 てい る と記 して もい る [
Res
i
nk 1
969:267]。
一方 ,公演 の開始 を案 内す る 目的で ジ ャワ村 を練 り歩 いた ア ンクル ン ・ア ンサ ンブルの行進
は, スケ ッチ (
図 3) に見 る ところ,明 らか に西 ジ ャワの ア ンクル ンを使用 してい るが,奏者
の 出身地 につ いて記 した もの は見 当 らない。
図 3 公演 開始 を触 れて まわ るア ンクル ン ・ア ンサ ンブ ル行進
出所 :[
Le
s
ur
e1
9
7
5
]
7)筆者 1
9
95
年 8月の調 査 に よる。
511
東南 アジア研 究
3
6
巻 4号
Ⅰ
Ⅰ
ト3 ジ ャワ村 の住 人
前節 で見 た よ うに,音楽 を担 当 した人 々の出身地 につ いて は,確 実 な情 報 が無 い ため, ジ ャ
ワ村 の住 人 につ いて網羅 的 に記述 した資料 か ら推 察す る。
一体 ,何 人 の人 た ちが や って きたのだ ろ うか 。「
43人 の ジ ャワ人が 4月 9日に到着 した。男 32,
女 9,子 供 2であ る」[
BN 5/1
8]。「
5
4人 の ジ ャワ人 はす で に発 った」[
BN ll
/29
]。「
5
4人 の ジ ャ
」[
Lo
c
o
mo
t
i
e
fl
l
/23
]。「
5
4人 の ジ ャ
ワ人 は イ タ リアの Genuaまで汽車 で行 き,船 で ジ ャワに-- ・
ワ人が 明 日1
1時 の急行 列車 で帰 国 の途 に着 く」 [
Lo
c
o
mo
t
i
e
fll
/26]。 また,不鮮 明 なが ら, ジ ャ
ワ村 の人 々の集 合写真 を載せ た レポ ー トが あ り [
dePar
vi
l
l
e1
890:1
34], そ こで は少 な くと も
52人 の ジ ャ ワ人 が 確 認 され る。 また, 全 部 で 60人 とい う記 述 も多 い [
Monod 1
89
0:1
33;
Devr
i
e
s1
977:3
3;Lombard 1
992:1
1
6] (
Devr
i
e
s,Lombar
dで は男 4
0名,女 20名 と記 されて い
βⅣ 7
/11], 全体 は59ない し60人
る)。家族 の病 気等 の理 由で会期 途 中で 5名 が帰 国 して お り [
と考 え て よいだ ろ う。 1名 の誤 差 は,赤 ん坊
(
「素朴 な叙 唱 が聞 こえ て くる
。
それ は気怠 い甘
890:1
31
]
さを刻 む子 守歌 だ。 か わい いお ち ぴ さん をそ れで寝 か しつ けて い るの だ」 [
Monod 1
とい った レポ ー トか ら,赤子 もい た こ とが分 か る) を員数 にいれ るか ど うか に よる とも考 え ら
れ る。
これ らの人 々の 出身地 につ いて は,帰 国直前 の Lo
c
o
mo
t
i
e
fの レポ ー トに詳 しい 。「
5
4人 の ジ ャ
ワ人が明 日 (
筆者 注 :記事発信 の 日付 か ら1
0月23日で あ る こ とが分 か る) イ タ リアか ら乗船 ,
バ タフ イアで は, バ タフ イア地 方 委員 会 の Gr
oe
ne
ve
l
dt氏 が 出迎 え る。 バ タフ イアか ら, プ レ
ア ンゲ ルの ジ ャ ワ人 は鉄 道 でバ ン ドゥン- ゆ き,バ ラ ン ・ク ダで下 車, Mundt氏 の茶 プ ラ ン
テ ー シ ョンで あ るパ ラ カ ンサ ラ ックへ , 別 の者 はチバ ダグ に行 き, そ の 近 くの Ker
khove
n氏
の茶 プ ラ ンテ ー シ ョンで あ る シナ ガルへ帰 る。 王侯領 の者 は沿岸船 で スマ ラ ンに, そ こか ら鉄
道 で ソ ロ とジ ョクジ ャカル タに行 く。 また, バ ンテ ンに行 くス ンダ人 は,Pe
t
i
t
j
ean氏 が 連 れ
n氏 か ら聞 い た」 [
Lo
c
o
mo
t
i
e
fll
/26]O こ の 文 中 出 て くる
て 帰 る。 こ れ らの 情 報 は, Cowa
Gr
o
ene
vel
dt
,Cowanの二 人 の名 は,Ⅰで見 た 『
1
889年 万博 にお ける オラ ンダの利益 を守 る会』
の名 簿 に見 られ る (
前 者 はバ タフ イア小 委 貞 会 委 貞 ,後 者 は同秘 書 官 [
obr
e
en 1
889:1
7])。
この こ とか ら,記事 は信 悪性 の高 い もの だ と考 えて よいだ ろ う。また,次 の よ うな記事 もあ る。
「ジ ャワ人が 4月 9日に到着 した。彼 らは様 々 な地域 か ら来 た。それぞ れマ レー語,ジ ャワ語,
βⅣ 5
/1
8
]。 「
村 に は, い さ さか異 な る 3つ
ス ンダ語 を話 し, お互 い は理 解 し合 って い ない」 [
の人種 が い る-
マ レー人, ジ ャワ人, ス ンダ人」 [
Monod 1
890:1
33
]. また,現 地 か らや っ
て きた人 た ち は, しば ら くの休憩 のの ち,運 んで きた家 をセ ッ トア ップす る作 業 に取 りかか っ
NPH 5
/2
4;BN 7
/ll;Lombard 1
992.
'11
6
]が ,「
現 地 での生 活 を見せ る」とい う 目的 で ジ ャ
た[
ワ村 に並 べ られ, 人 々が会期 中起 居 した家 々 (
図 4) は, 「プ レア ンゲ ル の, ソロの, バ ンテ
ンの,パ ダ ンや テ ル ナ テの家 」 [
Lo
c
o
mo
t
i
e
flO/10]で あ った との記 述 が あ るO こ こに見 られ る
51
2
安 田 :1
889年 パ リ万 国博 覧 会 にお け る ジ ャワの舞 踊 と音 楽 につ いて
図 4 会場 に建 て られ た家
出所 :[
Mo
nod1
89
0]
地域 も, 上 記 に一 致 して い る。 また, ス ラカ ル タに帰 った 人 々 につ い て の次 の よ うな記事 もあ
る 。「ス ラ カ ル タ便 り :昨 日の 朝 ,パ リ万 博 で 人 々 を魅 了 した 人 た ちが スマ ラ ンか ら列 車 で帰 っ
て きた。・
-- (
中略 )-- ・
彼 らは大 変 満 足 して い た。女 性 は ソロ ・ス タイルの服 を着 ,男性 はエ ッ
フ ェル塔 の 金 メ ダル を して い た。 荷 物 の行 列 が ,彼 らが裕 福 にな って帰 って きた こ とを示 して
い た。 一 行 はす ぐに He
er
.K.の と こ ろ- 行 き, H.Z.Pr
aboePr
angwe
donoに召 還 され た 」 [
NV
1
2/4]
。
以 上 の資 料 か ら,59な い し60名 の 人 々が様 々 な地 方 か ら派 遣 され た こ とは確 か で あ るが , 人
数 の 内訳 につ い て記 した もの は少 な い。 マ ンク ヌガ ラ王宮 に残 され た記 録 に は, 以 下 の よ うに
記 され て い る 。「1889年 に,マ ン ク ヌゴ ロ Ⅴ世 は,知 事 を通 して 色 々 な物 をパ リの博 覧 会 に送 っ
た。 -・
-(
中略 )---これ らの 品 々 は, 男性 1人,女性 2人, 踊 り手 と と もに ス ラ カ ル タの オ ラ
ンダ知 事 邸 か ら出発 した。 そ して バ タフ イア に着 い て か ら, ジ ョクジ ャの女 性 (
バ テ ィ ック職
人), 男性 (ク 7
)ス職 人), テ ンガ ー ル人, そ して バ ン ドゥ ン, バ タフ イアの 人 1
6人, さ らにバ
51
3
東 南 ア ジ ア研 究
36巻 4号
ン ドゥンの音楽家 と合流 した」 [
MN資料 1
9
29
] 。 これ に,「
5
0人 は西部 に住 む種族 ス ンダ人で,
1
0人 は中部 ジ ャワ人 (8人 はス ラカル タ王 国か ら, 2人 はジ ョクジ ャカル タのサ ル タ ン王 国か
ら)
」とい う記録 [
Devr
i
es 1
9
77:33
],「
踊 り子 につ いてい った父親 は何 の仕事 もす る必要 な く,
NPH 1
2
/1
0
] とい った記 事 を考 え合 わせ る と, I
I
I
2で み
娘 の報 酬 でぶ らぶ ら と過 ごせ た」 [
た Resi
nk氏 の言 とは逆 に, ス ラ カル タか らの男性 に音楽 家 が含 まれて いた可 能性,即 ちガム
ラ ン奏者が踊 り子 とともにマ ンクヌガラ王宮 か ら赴 いた可能性 は低 い。
結局,音楽 を担 当 したの は,西 ジ ャワの人で はなか ったか と推察 され る。
Ⅰ
Ⅴ ガムラン ・セ ッ トはどこから果 たか
現 在 ,パ リの博物 館, Museedel
'
Hommeの音 楽 サ ロ ンには古 い ガム ラ ン ・セ ッ トが展 示 さ
れてお り,パ ンフ レ ッ トには,1
9
85年 の復活演奏風 景 の写真 (
写真 1) とともに,次 の ような
887年 にフ ラ ンスに贈 られた物 で,パ リ高
解説 が付 されて い る。 「この ガム ラ ン ・セ ッ トは,1
等音 楽 院博物館 か らの預 か りものであ る。 これ はたぶ ん万博 で披 露 され, おそ ら くクロー ド ・
ドビュ ッシーが ジ ャワ音 楽 に惹 き付 け られ る機会 を与 えたのであ る」 [
Dour
non 1
99
3:1
5
] 。 確
か に, この写真 のボナ ンを乗せ る台 は, 当時 の レポ ー ト [
Monod 1
8
9
0:1
35;dePar
vi
l
l
e1
8
9
0:
1
33
] に収 録 され て い るス ケ ッチ (
図 5) と似 通 ってい な くもな い
。8)
しか し,次 の 2つ の記
。「万博 のための ガム
事 に拠 る と,万博 で演奏 され たの は別 の ガム ラ ンで あ る よ うに思 わ れ る
写莱 l Mu
s
e
edel
'
Ho
mmeのガムラン ・セ ット
出所 :[
Dour
non1
9
9
3
]
8)スケッチでは,写真に見られる台両端の斜めに付けられた板がない。
51
4
安 田 :1
8
8
9年パ リ万国博覧会におけるジャワの舞踊 と音楽 について
図 5 ポナ ンを弾 く音楽家
写真 2 スメダン博物館のガムラン ・セ ット
出所 :[
Mo
n
od1
8
9
0
]
注 :1
9
9
6年 9月 筆 者 撮 影 一
、
ラ ンは, パ ラ カ ンサ ラ ッ クの 茶 製 造 主 Mundt氏 か ら借 りて い る 。 この 見事 な ガ ム ラ ンは,
Mundt氏 が 生 地 ハ ンブ ル グ に贈 っ た もの で , す っか り整 調 され, 改 め て パ リ万 博 の た め に貸
B.
\
ー5/1
8] 。 「
Cor
esdeVr
i
es氏 は, オ ラ ン ダ領 東 イ ン ドに委 員 会結 成
し出 され る の で あ る」 [
2月 5 日出 か け, ジ ャワで非 常 な歓 待 を受 け た。現 地 で は, ジ ャワ銀
を要 請 す るた め に, 昨 年 1
行 頭 取 の Va
ndeBer
g氏 を長 と した小 委 員 会 が 出 来 た。 委 員 会 の 秘 書 官 coWan氏 は, Cor
es
deVr
i
es氏 とい っ し ょに プ レア ンガー地 方 に旅 した。 Mundt氏 か ら彼 が ち ょう どハ ンブ ル グに
向 けて手 放 した ばか りの ガ ム ラ ンを借 りるた め で あ る。確 か にパ リに一 つ の完 全 な ガム ラ ンが
あ るの だが , そ れ は音 楽 院 の楽 器 博 物 館 の所 有 で , 今 まで演 奏 され た こ とが な い ら しい の だ。
cor
esdeVr
i
es氏 は, プ レア ンガ -か ら さ らに王 侯 領 に赴 き, マ ン ク ヌガ ラ王宮 の 若 い君 主 に
Bl'5/25]。 また, 以 下 の レポ ー ト
会 って ,宮 廷 儀 式 や舞 踊 に使 う豪 華 な衣裳 な どを借 りた 」 [
か ら も, 2つ の ガ ム ラ ンが 同一 で あ る とは考 え難 い。 「ジ ャ ワの ガ ム ラ ンは孜 々 に知 られ て い
筆 者 注 :1
887年 の こ と), ガ ム ラ ンの完 全 な
な か った わ けで は ない。 オ ラ ン ダ政 府 は 2年 前 (
一揃 い を音 楽 院 の博 物 館 に送 った。しか し,音 楽 の ない ガ ム ラ ンな ん て何 に な った だ ろ う ?我 々
は, オ リジナ ルの形 や 目を見張 る色 に う っ と り見 とれ た り, い くつ か の個 別 の音 を聞 い た り,
た とえ ば教 会 堂 の大 鐘 に似 た満 ち足 りた よ く響 くい くつ か の音 を賞 賛 した りす る こ とはで きた
Ti
er
s
ot1
889:33] 。
が , いつ も重 要 な ものが 欠 けて い た 」 [
Mundt氏 か ら提 供 され , 1
889年 パ リ万 博 で演 奏 され た もの だ, と主 張 す る
。パ ラカ ンサ ラ ッ
『
889年
クの ガ ム ラ ン』 と題 した博 物 館 配 布 の リー フ レ ッ トに は以 下 の よ うに記 され て い る 。 「1
887年 に音 楽 院 に寄 贈 され た ガ ム ラ ン (
後に
万 博 で は, 2つ の ガ ム ラ ンが 使 わ れ た。 一 つ は 1
515
東 南 ア ジ ア研 究
3
6
巻 4号
Mus
e
edel
'
Homme-), も う一 つ はパ ラカ ン ・サ ラ ックか らや って きた もの (これが 当館 にあ
t
a
vMundt氏 に よ って , 万博
る) で あ り, これ は,茶 な どの産物 の販 売 促 進 を仕事 とす る Gus
の ため だ けで な く, ヨー ロ ッパ を 2年 間巡 回す るため に送 られ た もので あ った。 この ガム ラ ン
iOnengと呼 ばれ る もの で , お そ ら くは ス
は, ベ ロ ッグ, ス レ ン ドロ どち らに も対 応 す る Sar
vanderHucht1
9
8
9:2
]。 しか し, 一 見 して分 か る通 り, ス
メ ダ ンで作 られ た もので あ ろ う」 [
メ ダ ン博 物館 に展 示 され て い るガム ラ ン ・セ ッ トは,上記 ス ケ ッチ とは形状 も異 な る し, ボ ナ
ンの数 も多 い。
また, ジ ャ ワ村 に繁 く通 って綿 密 な音 楽 レポ ー トを ま とめ た音 楽 学 者 Ti
er
s
ot
9)の昔 組 織 に
関す る記述 か ら,使 用 され た ガム ラ ンは 1セ ッ トで,音 階 はス レ ン ドロ, そ れ も全音音 階 にか
9
9
3:4
2
]。 さ らに, Ti
er
s
otは, あ る楽 曲
な り近 い ス レ ン ドロで あ る, と考 え られ る [
安田 1
につ い て, 「この 曲 はルバ ブ 中心 に演 奏 され, ♭シ と ら ミが 出 て くるた め,典 型 的 な ジ ャワ音
楽 で は ない。他 の楽器 は ♭シ と ら ミを持 た ない た め,控 えめ に しか入 らない 」 [
Ti
er
s
ot1
8
8
9:
]と記 して い るが ,記載 され た楽譜 に よる と,この 曲 はベ ロ ッグに よる と思 われ る。即 ち,
4
243
西 洋 音 楽 の研 究 者 で あ る Ti
er
s
otは, ジ ャワ音 楽 の音 階 につ い て の知 識 もな く, 万博 公 演 で の
ガ ム ラ ン ・セ ッ トの持 つ 音 階 を典 型 と決 め て しまったの で は な い か 。10) 彼 が典 型 的音 階 は一
つ だ と思 い込 ん だ事 実 と, 「ベ ロ ッグ, ス レン ドロ どち らに も対 応 す る」 とい うス メ ダ ン博 物
館 の説 明 とは相 容 れ ない。
ス メ ダ ン博 物 館 につ いて は疑 問 が 多 い。博 物 館 全体 のパ ンフ レ ッ トと展 示 ガム ラ ンの前 の解
説 板 に は以 下 の よ うな 同 じ説 明文 が 載 せ られ て お り, 筆 者 自身, 館 長 Kar
t
adi
br
at
a氏 か ら熱
心 な説 明 を受 け た 11) が, そ れ は,前 述 の 同博 物 館 リー フ レ ッ ト 『
パ ラ カ ンサ ラ ックの ガ ム ラ
ン』の 内容 と矛 盾 す る。「パ ラカ ンサ ラ ックの ガム ラ ン SariOnengは, お よそ 1
8
2
5
年 ころ に作
8
8
3年 ア ムステ ル ダム, 1
8
8
9年 パ リ, 1
89
3年 シ カゴ。 そ し
られ, 次 の よ うに移 動 展 示 され た 。1
て, ス カブ ミに戻 って きた」 [
Kar
t
adi
brat
a1
9
8
9:3
5
] 。 そ して, ス メ ダ ン博 物 館 の説 明 に疑 問
を砲 か ざる を得 な い更 な る理 由が あ る。1
8
8
3年 の ガム ラ ンは現 在 , アムス テ ル ダムの民 族 音 楽
8
9
3年 の ガム ラ ンは シカ ゴの フ ィール ド ・ミュー ジアム に保 管 され て い るので あ る
博 物館 に,1
[
deVal
e1
9
7
7:6
66
9;1
9
7
8:39;deVal
eandPomer
ant
z1
9
7
7:2
2
2
3
]。
12)
9)Ti
e
r
s
o
tは,ガムランを採譜する困難に音 をあげそ うになったが思い直 し,特別に何度 も演奏 して も
らった り,公演中に楽団のなかに座 り込んだ りして,音響の様 々な結合を見ようとした。彼は,すっ
mboの名 も挙げている [
Ti
e
r
s
o
t1
8
8
9:
3
5
3
6
]。
か り親 しくなった演奏家,Ri
10) 音楽 院に贈 られた ガム ランもス レン ドロ音階の ものであった ことが当時の レポー トか ら分 かる
[
pi
l
l
a
ut1
8
8
7:2
4
4
2
4
5
]。 (
万博のガムランが音楽院の もの と別物であった と仮定 してだが)このこ
e
r
s
o
tの思い込みを助けたことは十分想像で きる
とが,Ti
l
l
)筆者1
9
9
6
年 9月の調査による
1
2
)1
8
8
3
年アムステルダム博 に使われたガムランは,長 くライデ ンの国立民族学博物館で保管 されて き
deVa
l
eの論文ではライデ ンにある, となっている), との
たが,近年 アムステルダムに移 された (
9
9
7
年 3月の調査による)。
説明を国立民族学博物館資料室で受けた (
筆者1
。
。
51
6
安 田 :1
88
9年 パ リ万 国博 覧 会 にお ける ジ ャワの舞 踊 と音 楽 につ いて
以 上 の考 察 か ら, 1889年 万博 で演 奏 され た ガ ム ラ ンは一 つ で, Mundt氏 が 『
万 博 にお け る
オ ラ ンダの利 益 を守 る会 』の頼 み に応 じて,生 地 ハ ンブ ル グに寄付 した ガム ラ ンを提 供 したの
で は な い か, との仮 説 が 成 り立 つ 。13) 委 員 会 と して は, 既 に ヨー ロ ッパ にあ る もの を借 りら
れれ ば好 都 合 だ ったので あ ろ う。
こ の 仮 説 が 正 しい とす れ ば, ガ ム ラ ン は西 ジ ャ ワ の もの で あ る こ と に な るが , これ は
Ti
er
s
otの レポ ー トに記 され た楽 器 名 と も一 致 す る。 ル バ ブ, ガ ンバ ン, サ ロ ンーバ ロ ン, ボ
ナ ンー ア グ ン (
高 ,低 ),様 々 なサ イズの ゴ ング類 , 太 鼓 とい う編 成 [
Ti
er
s
ot1
889:32] は,
996:111-11
2]
今 も西 ジ ャワで行 われ て い る ス レン ドロの最 も小規模 の ガム ラ ン編 成 [
ハ レル 1
と全 く同 じで あ る。
Mundtが経 営 す る茶 プ ラ ンテ ー シ ョンで あ るパ ラ カ ンサ ラ ックは, 万博 に派 遣 され た 人 々
の 出 身地 の 一 つ で もあ る (
Ⅰ
Ⅰ
ト3参 照 )。 Mundtは, 1
885年 か ら1903年 まで ス カ ブ ミ農業 会 の
会長 を務 め た。彼 は, エ ネルギ ッシュな個性 と類 まれ な能力 で もって機械化 に よる茶 の大量 坐
産 を 成 功 させ , 副 会 長 で あ っ た 隣 村 シ ナ ガ ル (こ こ か ら も万 博 に 人 が 派 遣 さ れ た) の
Ker
khove
n とと もに,会 をジ ャワで一番 大 きな農業 会 に育 て上 げ た とい う [
deVa
l
e1
977:64] 。
1
893年 シ カ ゴ万 博 に 関 す る公 文 書 の な か に, ア メ リ カ か らの 表 彰 状 が あ り, 農 業 部 門 に
「
G.
C.
F.
W.Mundt(
Par
aKans
l
ak)
」 の 文 字 が 見 出 され る。14) 当時 , ジ ャワで 活 躍 した オ ラ ン
ダ人実 業 家 た ち は,万博 に無 くて は な らない存 在 で あ った ようで あ る。
Ⅴ 演 目について
すべ て の資 料 か ら確 実 に言 え る こ とは, 4人の踊 り子 が宮 廷 舞踊 ら しき もの を, 男女 の カ ッ
プ ルが民俗 舞 踊 を公演 した, とい うこ とで あ る。 そ れ と,舞 踊 公 演 の 開始 をアナ ウ ンスす るた
め に,村 を練 り歩 きつ つ ア ンクル ン合奏 行 進 が な され た こ と も判 って い る。
舞 踊 公演 の舞 踊 名 , 曲 名 を記 した文 献 は少 な い。Ti
er
s
otは, 舞 踊 の音 楽 を 3種類 採 譜 して
い るが , その 曲名 につ いて は, 2つ しか記 して い な い。 1つ は 4人の踊 り子 が豪 華 な衣裳 を着
Dahonn-Maa
s」 で あ り,最 初 か ら最 後 まで主 旋 律 をルバ ブが演奏
て ゆ っ く りと踊 る踊 りの 曲 「
Ti
er
s
ot1
889:42] 。 も う 1つ は, カ ップ ルが踊 る民俗 的 な もので, 「
Va
n卜Vani
」 と呼 ば
する [
れ る。 追 っか け合いが どん どん激 し くな り, 音 楽 も次 第 に昂揚 して い くもの だ, とい うこ とで
1
3)1
8
8
9年 万 博 の オ ラ ン ダ ・セ ク シ ョン (これ は ジ ャ ワ村 とは まった く異 な る シ ャ ン ・ド ・マ ル スに一
角 を占 め て い た) の植 民 地部 分 に出品 され た数 々の もの の なか に, ガム ラ ンが あ った け3番 目の 角
の半 円形 の台 の上 に,完 全 な ガム ラ ン, お よび有 名 な衣裳 をつ け た固 い木 製 の 人形 が 一体 見 られ る」
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1
1
])との こ となの で,この演 奏 されず に展 示 だ け され た ガム ラ ンが音 楽 院 の もの だ っ
た可 能性 はあ る。
1
4)筆 者 1
9
97年 3月の オ ラ ンダ公文 書 館 で の調 査 に よる [
そ の他 の資 料 参 照]。
517
東南 ア ジア研 究
3
6
巻 4号
ある l
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.45
]。この 2つ の 曲名 につ いて現在 のマ ンクヌガラ王宮 の芸術 監督 に訊 ねた ところ,
知 らない, との こ とであ った。15) また, Ti
er
s
otの採 譜 した もの を何 人 かの ガム ラ ン研 究者 に
見 て もらったが,現在演奏 されてい るガム ラ ン音楽 に符合す る ものは無 い よ うであ る。
他 に曲 目を記 して い るの は,J
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de [
9
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] で あ り, 「`
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gondj
angganJ
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engmogok'`
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kan'が演奏 された」と書 かれて いる。この うち,前 2曲は,今 も中部 ジ ャ
ワで よ く使 わ れてい る16) し, Kuns
tの著作 に もその名 が見 え るこ とか ら, ず っ と伝 え られた
Kuns
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97
3:20
8,
21
4,
21
7,
31
5,
337,
33
8
]。
ものであ るこ とは間違 いないだろ う [
4人の踊 りにつ いて は,踊 り子 が踊 ってい る ところ を描 いたスケ ッチが残 ってい る (
図 6)
が, このスケ ッチ は,踊 りの振 り, 4人の互 いの角度,ボナ ン奏者 のばちの上 げ方, な ど理解
に苦 しむ ところが あ る, と指摘 され る [
deVal
e1
97
7:7980
]。 また,高 岡氏 の指摘 に よれば,
マ ンクヌガラ王宮 の宮廷舞踊 で女子が半 ズボ ンの ような もの を身 につ けるこ とはない し,被 り
もの も一部 はマ ンクヌガラ王宮 の もので はない, との こ とであ る. しか し,動作 につ いて は画
家 の創意が加 え られた可能性 が あ るが,踊 り子 たちは実際, このいでたち を していたのであ る
(
写 真 3)。 写真 , スケ ッチか らは,結 局, 4人の踊 りが いか な る ものであ ったか は浮 か び上
er
s
ot
, Monod, Gode
tは,踊 りの所作 につ いてか な り詳 しい レポー トを記 し
が って こな い。Ti
てお り [
Ti
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ot1
889:31;Monod 1
890:1
371
39;Godet1
926:5
657
],そ こか らは典雅 な舞
踊 で あ る と想像 され る。 舞踊 家 で現 在 のマ ンク ヌガ ラ王宮 の芸術 監督 で あ る Ronosur
i
pi
t
o氏
は, スケ ッチ (
図 6) を見 て, 「ダマル ・ウ ラ ン (
ラ ンゲ ン ドリヨの一 つ) の可能性 もあ る。
4人 は,衣裳 は不 自然 な部分があ る ものの,左 か ら女,男,女,男 を演 じて い るように思 われ
図 6 4人の踊 り子
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9
2
]
出所 :[
1
5
)筆者 1
9
9
6
年 9月の調査による。
1
6
)飯島かはる氏の指摘による
。
51
8
安 田 :1
889年 パ リ万 国 博 覧 会 に お け る ジ ャ ワ の 舞 踊 と音 楽 に つ い て
写真 3 ジャワ村の踊 り子たち
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るか らで あ る」 との意 見 を述 べ た 。17)
マ ン ク ヌガ ラ王宮 資 料 館 に残 され た記録 に は, 興 味 深 い こ とが 記 され て い る。 「
公演が始 ま
敬 ) はバ
る と毎 日交 代 で次 の よ うな踊 りを行 った。 1. ソロの踊 り< 4人の ガ ンピ ョン, 曲 (
ン ドゥン>
2. バ ン ドゥンの踊 り」 [
MN資 料 1
929
]。 ガ ンピ ョンとは, 宮 廷舞 踊 で は な く,
庶民 の女性 舞 踊 が洗練 され た もので あ る。 その 中部 ジ ャワの踊 りが,西 ジ ャワの音 楽 に合わせ
1
7)筆者 1
996年 9月の調査 に よる。
51
9
東南 アジア研 究
36巻 4号
て踊 られた とい うのだろ うか。
ⅤⅠ 万博で披露 されたジャワの舞踊 と音楽の実態
以上 の文献調査, な らびに専 門家,研究者 の指摘 か ら, 1
889年万国博 覧会 での ジ ャワ音楽 と
舞踊が いかなる ものであ ったかにつ いての仮説 を導 き出 したい。
まず,パ リっ子 たち をひときわ夢 中に させ た 4人の踊 り子 たちが,どんな踊 りを踊 ったのか,
s
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nkの言,
そ して, そ こで は どんな音楽が演奏 されたのか, につ いて考 える。 先 に引用 した Re
「
踊 り子がマ ンクヌガラ王宮 か ら行 ったのだか ら, ガムラ ンも奏者 も当然 同 じ王宮 か ら行 って
い るはず だ」 に代表 され るように,我 々は,王宮 か ら派遣 された踊 り子が, ダイジェス ト版 で
あ るにせ よ,普段 と同 じ音楽 で,普段 と同 じ踊 りを踊 った と考 えて いた。 「
独立 した王子 であ
るマ ンクヌゴロは, オラ ンダの委員 会の代 表,co
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s卿 の再度の懇願 に よって は じめ
て彼女 た ち をフ ラ ンスへ 送 るこ とを承諾 した」 [
Mo
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890:1
35
] に見 られ る ように,外 に
出す こ とに王 (
王子)が簡単 には応 じなか った こ と,彼女 たちが身 につ けていた衣裳が絢欄豪
華 であ った こ とが,我 々に,踊 り子 は王宮 に属す る,言 い換 えれば,王 の一族 であ る, と思 わ
せ たのであ る。 そ して, な らば, そ こで演奏 された音楽 は, その王宮 の音楽家 に よる,その王
宮 の ガム ランを使 った, その王宮 の音楽 に決 まってい る と疑 わなか ったのであ る。 なぜ な ら,
今 日で もそ うであ るように,王宮 の踊 り手が,王宮以外 の音楽 を伴奏 に して踊 ることは許 され
なか ったか らであ る。
しか し, Ⅰ
Ⅴ で見 た ように, ガム ラ ン ・セ ッ トは西 ジャワの ものが使 わ れた可 能性 が高 い。
また, Ⅰ
Ⅰ
ト3の考 察 か らは, ガムラ ンの演奏 家 は同 じく西 ジ ャワか ら派遣 されたので は, と推
論 された。 この ように,西 ジ ャワの楽器 の伴奏 でマ ンクヌガラ王宮 の踊 り子が宮廷舞踊 を踊 る
Ⅰ
ト1で挙 げた当時の記述 の一部 に もあ った よ
こ とを王 (
王子) が許 した だろ うか。 む しろ, Ⅰ
うに, 4人 の少女 は実 は王宮 の踊 り手 で はな く,「
一般 の なかで はやや 身分 の高 い踊 り子 であ
る」可能性 が高 い と考 え られ るので はないだろ うか。実際, あ る新 聞記事 には以下 の ような記
述 も見 出 され る。「ア ムステ ル ダムか らや って きた オー ガナ イザ ーが, 4人 を Pr
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naの踊 り子 で あ る こ とに した。 実 際 は ソロ にい る- ヨー ロ ッパ 人 の ラ ンゲ ン ドリアで
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/9] 。 王 (
王子) は, オ ラ ンダ側 の要請 に苦 肉の策 で答 えたので はないか。
あ る」L
王 (
王子)が,少女 たちが身 につ ける豪華 な衣裳 や王冠,装飾 品の類 を貸与 した こ とは,数多
18) こ
くの文献 に よって確 認 されてい る。 その なか には,非常 に貴重 な もの も含 まれてお り,
1
8) 「
高貴で寛大な精神でよく知 られたマ ンクヌゴロ王子は,すぼらしい衣裳 と,金製で非常に高価な
踊 り子用王冠型髪飾 りを用意 した。妬みをさけるため,各踊 り子たちは交替でこの王冠をつけるこ
とに決められていた。この名誉を手にした少女がいかに気を配るかを想像 していただきたい。彼女は,/
5
2
0
安 田 :1
889年パリ万国博覧会におけるジャワの舞踊 と音楽について
れ らの貸与 は,少女 た ちが王宮 の踊 り子 で あ る よ うに見せ るため にな され た可能性 もあ るが ,
王 一族 の少女 の派遣 を拒 む こ との代 償行 為 だ った と も考 え られ る。
上 の仮 説 , 「1889年 パ リ万博 で は,西 ジ ャワの演 奏 家が 西 ジ ャ ワの ガム ラ ンで演 奏 す る音 楽
に合 わせ て, 中部 ジ ャワ, ス ラカル タの踊 り手 が宮 廷 舞 踊 ら しき もの を踊 った」が事 実 だ とす
れ ば,今 日で さえ行 われ得 ない こ とが ,100年以 上前 に為 され た こ とにな る。奏 で られ た音 楽 が,
純粋 に西 ジ ャワの もので あ ったのか, あ るい は,踊 り手 の要 求 に合 わせ て折 衷 的 な もので あ っ
たのか は定 かで はない。 また,音 楽 が異 った こ とに よ り, 当然 ,踊 りが変 化 した こ と も考 え ら
れる (
先 に指 摘 した不 自然 な振 りも, 画 家 の創 意 で はな く,実 際 な され た可 能性 が あ る)。観
客 は, 眼前 で繰 り広 げ られて い る音 楽 と舞 踊 は,本 国 の もの その ままだ, と信 じて うっ と りと
見 とれ て い た に違 い ないが,実 際 は,状 況 に合 わせ て編 み直 され た もの だ ったので あ る。
Gr
eenhal
ghに よれ ば,た とえば,万博 に連 れて こ られ た セ ネ ガル人た ちの集落 は,それ ぞれ,
文化 伝 統 の異 な る部族 の 出身者 で構 成 されて お り,互 い に言 葉 が通 じない,とい った状 況 であ っ
たの に,単 一 の 「未 開 人」 と して,本 当 は 自分 た ち に馴 染 み の な い ふ る まい を観 客 の前 で演 じ
Gr
eenhal
gh 1988:90]が ,これ と全 く同 じこ とが ,ジ ャ
る こ とを強 い られ た,との こ とで あ る [
ワ村 の 公演 で も行 われ たの で あ る019) 考 えて み れ ば, Tj
ers
otの レポ ー トを始 め, 当時 の文 献
に, 公演 で歌 が うた われ た とい う記 述 が一切 見 られ ない こ と も奇 異 で あ った。 ジ ャワの舞 踊音
楽 の多 くは歌 を伴 って い る。 に もか か わ らず ,万博 で歌 が 聞 か れ なか ったの は,西 洋 の人 々 に
ジ ャワの歌 の発声 や節 回 しが 馴染 まないで あ ろ う, との判 断が な され たか らで はないか と想像
され る。
問題 の 4人の踊 り子 に よる公演 以 外 の,カ ップ ルに よる民俗舞 踊 ,ア ンクル ン合奏 は,西 ジ ャ
ワの派 遣 人数が 多い こ とか ら,西 ジ ャワの踊 り手 ,演 奏 家,楽 器 で為 され た と考 えて よい だ ろ
う (
民 俗舞 踊 につ いて は, す で に見 た よ うに, マ ンクヌガ ラ王宮 資料館 記 録 の 「バ ン ドゥンの
踊 り」とい う表現 もあ った)。しか し,本 国で と もに演 じて い た仲 間 同士 で な され たのか まで は,
明 らかで な い。 日常 は異 な った踊 り, 音楽 を経験 して い る者 た ちが集 合 し,話 し合 って実演 し
た と も考 え られ る。 こ こで もまた,万博 用 に編 集 され て い た可 能性 は否定 で きないだ ろ う。
\この秘宝 を小型 トランクに しまい込み,その上で夜 は寝 る。私は,それに触れたがっているような
Ra
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889:1
2-1
3
素振 りを誰一人見せないよう,助言する」 [
1
9)吉見は,1
889年万博 に始 まった 『
原住民集落』 を 『
人間動物園』 と呼び,エ ッフェル塔 に代表 され
る文明の粋 を誇る展示 と相並ぶことにより,この 『
人間の展示』が,「
世紀末の社会進化論 と人種差
992:1
84-1
87
]O例えば,当万博での異国の音楽 を
別主義を直鼓に表明 した」 と述べている [
吉見 1
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usは,「
万博の奇妙な (
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)音楽」 というタイ トルを付 し
採譜 し編曲, ピアノ譜に した Be
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89
]。この bi
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eの語からは,明 らかに面白がった侮蔑が窺えるし,「ジャ
て出版 した [
ワのガムラン」 も 「
ペ ルシャの歌」 も 「日本の古謡」 もヨーロッパ音楽 とは異なった 「
未開」の音
楽 として扱 われたことが分かる。異国へのこうした認識か らすれば,ジャワのなかでの差異など何
ほどのもので もなかったのだろう(
、
]。
521
東南アジア研究 36巻 4号
お
わ
り
に
「は じめ に」 の ところで記 した よ うに, 本研 究 は,舞踊 の特 定 を含 む地域 の特 定 が ,1
889年
パ リ万博 で の ガム ラ ン音 楽 の特 定 につ なが るで あ ろ う, との想定 の もとに始 め られ た。音 楽 は
万博 用 に編 まれ た もので あ った, とい う結 論 が ,特 定 を困難 にす る こ とは否 め な い
。
しか し,
派遣 され た人 々の 出身地 が,単 一 で はない にせ よ限定 され て いた こ とが判 った こ とを手 が か り
に, 更 に実像 に迫 る こ とを今 後 の課 題 に した い。
い ま一つ考 えた いの は, た とえ,公 演 で繰 り広 げ られ た音 楽 が, 本 国 で の そ れ と姿 を変 えて
い た にせ よ,優 れ た鑑 賞者 , あ るい は優 れ た音 楽家 はエ ッセ ンス を感 知 す る こ とが で きたの だ
ろ うか, とい う問題 で あ る。 Ⅰ
Ⅰで 見 た い くつ か の証 言 は, 万博 で の ジ ャワの舞 踊 や音 楽 を,
珍 奇 な もの と してで な く,非常 に興 味 をそそ られ る もの と して捉 えた人 た ちが少 なか らず存在
した こ とを伝 え て い る
。
作 曲家 ドビュ ッシー は次 の よ うな発 言 も残 して い る。 「かつ て は, 呼
吸 す る こ と と同 じよ うに単 純 に音 楽 を覚 えた人 々が い た し, そ して文 明 とい う悪魔 の存 在 に も
拘 わ らず現 在 で も, そ うい う人 々が い るの だ。彼 らの コ ンセ ル ヴ ァ トワール は海 の永遠不朽 の
リズ ムで あ り, 葉 をわた る風 で あ り,彼 らが窓意 的 で な く注意 深 く耳傾 け る幾 万 の小 さな音 で
あ る。彼 らの伝 統 は,舞 踊 と一緒 にな った ご く古 い メ ロデ ィーて 人 々が恭 しい貢 献 を して きたの だ-
そ こで は世紀 に世紀 を重 ね
に しか ない。 に もか か わ らず , ジ ャワの音 楽 は, そ の
そ ば に よる と, パ レス トリーナ さえ児戯 に類 して見 え る よ うな対 位 法 を守 って い る。 そ して,
ヨー ロ ッパ 人 の偏 見 を持 たず に彼 らの 『
打 楽器 』の魅 力 に耳 を傾 け るな らば, われ われ の そ れ
が ど さ回 りの サ ー カ スの野 蛮 な騒 音 にす ぎな い の を認 めぬ わ け に ゆ か な い だ ろ う」 [
Debussy
1
91
3:48
]。 ドビュ ッシーは, ガ ム ラ ン音 楽 との 出会 い以 降,独 自の語 法 を開拓 して い った の
で あ る。 今 後 は, ジ ャワの音 楽 の何 が 当時 の ヨー ロ ッパ音 楽 に影 響 を与 え,何 が具体 的 に ヨー
ロ ッパ音 楽 に取 り込 まれ たか を ヨー ロ ッパ音 楽 の脈 絡 の なかで考 察 し, 更 に,異文化 の音 楽 同
士 の 出会 いが作 曲家個 人 の なかで どの よ うに新 しい音 楽 とな り, どの よ うに説得 力 あ る作 品 と
な って い ったのか を見 て い きた い。 それが この間題 の解 決 の手 が か りにな るだ ろ う と考 えて い
る。
謝
辞
本研究 を進めるにあた り,た くさんの方にお世話にな りました。 ここに記 して感謝申 し上げます。京都
大学の古川久雄先生,桃山学院大学の深見純生先生,名古屋工業大学の永測康之先生,愛知県立芸術大学
の井上 さつ き先生,国立民族博物館の福岡正大先生,福岡まどか氏,作曲家の Sl
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ukur氏には貴
重なア ドヴァイスをいただ きました。 また,オランダ KI
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hui
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n先生,インドネシ
ア在住で舞踊 とガムランの研究者である高岡結貴氏,飯島かほる氏には助言 をいただ くとともに,調査の
便宜 をはかっていただきました。 さらに,語学上の援助 を惜 しまず して くださいましたマルガリーテ ・黒
川 ・ヴェス トラさん,VanessaV.
D.Vi
nde
n さんにも御礼申し上げます。
5
2
2
安 田 :1
889年 バ リ万 国博 覧 会 にお ける ジ ャワの舞 踊 と音 楽 につ いて
参
考
文
献
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西 部 ジ ャワ - 1.
古典 音 楽 『
新 グロー ウ音 楽 大 事 典』 2巻,
芹 澤 薫 :皆 川 厚 - (
訳 上 111-11
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原 著 MaxHZ
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889年 パ リ万 国博 覧 会 にお け る ジ ャ ワの ガ ムラン
音楽」『
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995年関西 支部 例 会 記録 音楽学 4
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に掲載される)
吉 田光邦 . 1985a. 『
改訂 版 万 国博 覧 会- 技 術 文 明史的に』東京 :日本放送出版協会.
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東南 アジア研 究
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巻 4号
(
宿). 1985b. 『
図説万 国博 覧会史 1
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吉 見俊哉 . 1
992. 『
博 覧会 の政 治学- まな ざ しの近代』 東京 :中央公論社 .
889年 当時 ジ ャワで刊 行 されていた オラ ンダ語 に よる もの)
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889年 のパ リ万博 に関す る こと
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が,万博 に関わ った人か らの聞 き書 きを もとに記 され てい る。標題,筆者 不 明。 日付 :1
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