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数学教育史
11L093 松村 光祐
明治前期までの歴史
律令制の中大学寮では九章算術を学ぶ→丸暗記、試験は空所補充
室町・戦国時代に中国よりそろばんを輸入。商業が盛ん→そろばん普及
江戸時代初期 毛利重能『割算書』・吉田光由『塵劫記』を発表。
塵劫記は絵入りの問題集で問題と答えは書いているが、解説はない。
内容はネズミ算、油わけ算、継子立てなど。
そこで寺子屋に通う。学年という概念がなく、わからないところは先輩(すでに学ん
だ人)か先生の聞く。正に自主学習・個人教育。授業・成績がないことによって落ちこ
ぼれも生まれない。自らの発見を重要視しそれを利用して問題を解く。先生から教え
られるよりも忘れにくい。これが体得的学習の利点である。
1853年、ペリー来航。航海術を学習するために和算ではなく洋算を学習する。
1857年、福田理軒が洋算入門書『西算速知』・柳河春三『洋算用法』を発表。
1872年(明治5年)、学制が布かれ和算廃止、洋算専用が決定。→強制的に実施
現場では大混乱。和算廃止に伴いそろばんも禁止。筆算が中心となる。
1873年、視覚に訴える効果があるとし筆算と珠算の併用を認める
1874年、珠算のみの授業も承認する。
直観主義的・開発主義的な算術教育
文部省は学制の発布に先立ち師範学校を設け、スコットを招いて近代的教育指導の
中心を作る。→教員育成を行うとともに小学教則を制定し、新しい小学校教科書の編
集も行う。
ペスタロッチ思想に基づく直観主義的・開発主義的な算術教育を導入。
明治6年『小学算術書』が発行される。→立派な教科書を使いこなせない。
学級一斉授業を模倣することの全力が注がれ、暗記を主とする注入教授。
→先進的な教育思想は、姿を消す。
明治13年、小学校教育を後退させる傾向があったが改正教育令を出し、防止する。
明治初期の洋化主義を批判し復古思想が盛んになる。→和算書風教科書の出版
明治10年代、上級学校に進ませようとする風潮が強まる。
明治11年、中学の数800校近く→学校の質の低下→48校にする→受験戦争に発展
明治13年、尾関正求『数学三千題』という受験用問題集が出版
数学的内容の理解より答えさえ合えばよいという求答主義となる。
明治10年代は丸暗記方式の反省からペスタロッチの考えが見直される
黒表紙、緑表紙
明治20年寺尾寿は、求答主義を批判し“理論数学”を提唱。一世を風靡する。仏より帰国。
明治10年菊池大麓が“我が国最初の数学専門家”として英国より帰国。
→数学教育の指導者 「初等幾何学教科書」とその解説書「幾何学講義」を出版
→これまで論理的伝統のなかった日本人に対し“論理性の重要性”を教えた。
しかし、一方で欧米諸国では古いユークリッド的な論証的数学の脱皮を試みる。
独より帰国した藤沢利喜太郎は、求答主義・理論数学を批判。また、直観主義も反対。
クロネッカー直伝の“数え主義”を持ち込む。→融合主義を排除する。
菊池の庇護のもと国定教科書の「黒表紙」教科書を編纂。30年間使われる。
→数学的訓練を強制するもので、多くの数学嫌いを作る。
欧米、この数学教育を反対し1901年(明34)イギリスのペリーは「数学の教育」を熱弁。
要旨:①ユークリッドからの脱却②実験幾何を重んじる③実用的方向を高唱する④立体
幾何を重んじる⑤実用的な測定を重んじる⑥方眼紙の使用⑦微積分の思想の習得⑧試
験のための数学から脱却
理論より直観を重んじ、実用性のある数学教育を目指す。→近代化運動の幕開け
1935年、この影響により「緑表紙」教科書という「小学算術」を発行。編纂者、塩野直道
要旨:①数理思想を養う②教則では計算技術の習得・数量知識の伝授、凡例では数理
的訓練③数理的な考え方を陶冶する④自発的な活動を助長する
水色表紙、検定教科書
1941年昭16.第1.2学年用「カズノホン」を発行。全学年対象は18年に完成→水色表紙
これは緑表紙同様、ペリー運動の精神によって作成。
数理思想の開発(児童中心)→知識技能や数理的処理の習熟(基礎的連星)が中心。
中学教科書は検定制度→昭和17年、中等教科書会社となり、文科省が指導する。
新教科書は、事実を考察し、数学的な観念・処理法が自然に出てくるように工夫される。
→説明がほとんどなく、「読んでもわからない教科書」となる。
目標は生徒が、自ら考え、実験し、計算し、図表に書き込む。極端な自己開発である。
成功するには、教師の力が問われ、考察させるための資料もなかった。
1945年、敗戦とともに授業再開。不適当な部分を削除された黒塗り教科書を使用。
学習指導要領、算数数学編が発行され、数学思想は消え、科学的生活態度に変わる。
中学教科書は短時間で編集され、数学的内容の不統一感が目立つ。
生活単元に学習テーマが取り上げられているが仕方ない感が強い。
→指導要領の内容が高く指導するのは困難→全小中学で数学教育史上初の全員落第。
1949年、教育基本法の制定により、検定教科書が作られる。
「小学のさんすう」は、緑表紙時代と大きな変更があるとは感じない。
「中学生の数学」は、単元が“住宅”“よい食事”などであった。
→欠点:数学としては何一つ系統だって身に付けることができない。
生活単元学習、現代化
この検定教科書の教育思想は米のプラグマティストで哲学者デューイによるものである。
1951年、指導要領の改訂。基本的な考えは変更なし。生活単元学習が強調される。
算数・数学科の授業時数は、戦前の2/3にも満たさず、史上最低なものとなる。
同年、講和条約が締結され、米の支配下から解放される。
戦前に比べ2学年以上の学力(計算力)低下が発表。(原因:計算練習を軽視する生活単元
学習。) これを受けて、高校は1955年、小中は1958年に指導案が改訂された。
・米に強要されていた生活単元学習から系統学習に完全移行する。
・内容も緑表紙以上に引きあげられ授業時間数も戦前以上の時間数になる。
1950年、欧州より数学教育の現代化が開始。しかし各国が必要性を感じ研究や実験が推
進され始めたの1957年のスプートニック・ショック以降である。
この運動が発生する社会的・文化的必然性が多くあった。その要因は、①公理的扱いが数
学思想と成立し、集合概念だけが設計される。また、どんな学問でも論理的に厳密なもので
あれば、記号的表現が可能で、数学的処理が可能。②科学技術の発達③数学教育の必要
性の検討④教授論や教育方法の発達。ブルーナー(発見学習)、ディーンズ
日本では1964年現代化ブーム。1968年小学校の改訂の告示。1971年実施。
前回の内容は難しかったので、今回の改定は精選し児童の負担を減らす方針であった。
また目玉教材として集合、関数、確立がなどを新しく導入した。
ゆとり教育、脱ゆとり
1973年、「数学嫌い」や「落ちこぼれ」がクローズアップされる。半数以上がわからない子。
“集合が分からない教師が数学嫌いの生徒を作っている”ともいえる。
「落ちこぼれ」に対し「落ちこぼし」という新語が誕生。小平邦彦、広中平祐が現代化を批判。
1980年、学習指導要領の改訂が行われ、現代化教材の集合や論理、関数や確立は表から
消え、系統学習時代を内容をより削除。 →30年間のゆとり教育の幕開け!
第二期1992年に個性化指導要領、第三期2002年厳選指導要領へと実施される。
第三期では完全週5日制が実施され、内容も大幅に削減され、生活単元学習に近くなる。
ゆとり教育の変更は学科独自のことではなく、社会状態の変化に伴うものであった。
高い教育力を上げ高校進学率は98%大学進学率も5割以上となった。
年功序列、終身雇用の制度が日本の学歴社会の構図があり、子供の学習の目的があった。
しかし、バブル崩壊により社会構図は崩れ、学歴社会は崩壊する。
1999年『分数のできない大学生』を皮切りに“学力低下論争”が繰り広げられる。
・国家、社会から見てゆとり教育を肯定する:将来役に立たない内容を教える必要がない。
・生徒、児童から見て肯定する:ゆとり教育の中で体験型、参加型の教育にすべき。
・国家、社会から見て否定する:将来国際競争力に負けてしまうという危機感からの議論
・生徒、児童から見て否定する:学習意欲をそぎ学力低下させる最大の原因。
これらの議論の結果2008年脱ゆとりの学習指導要領を告示。2011年実施。
減り続けていた授業数は昭和52年レベルとなるが内容の目標は30年前とあまり変わらない。
まとめ
寺子屋時代は個別学習時代であるから児童中
心とする。
明治前期はペスタロッチの開発主義教育。
明治中期は求答主義・論理算術で混乱期。
黒表紙は、教科書中心で数学嫌いを発生。
緑表紙、水色表紙は、近代化の数学教育。
生活単元学習は児童中心で学力低下。
系統学習は生活単元を批判し、緑表紙に復帰。
現代化は新しい数学を取り入れ、内容が広く多
くなる。落ちこぼれの発生。
ゆとり・個性化・厳選は教科内容より子供中心
の教育を目指し、週休2日制。
→学力低下が叫ばれ、脱ゆとりの現行の指導
要領となる。
児童中心から、教科中心へ、それへの反動で右
に移り、学力低下が叫ばれ左へと、同じことを繰
り返していることが分かる。
教科中心(難)
児童中心(易)
寺子屋
明治前期
明治中期
黒表紙
緑・水色表紙
生活単元
系統学習
現代化
ゆとり・個性化
厳選
落ちこぼれ
学力低下