フーコー的権力論を語りたくなる状況に関する、 非フ

フーコー的権力論を語りたくな
る状況に関する、
非フーコー的権力モデル
-続・ナッシュ(ハーサニ)交渉解援用による、
権力と意味の一モデル-
桜井芳生(鹿児島大学)
03年9月20日数理社会学会発表
[email protected]
http://member.nifty.ne.jp/ysakurai/
無限繰り返しゲーム化による、状況
の「交渉ゲーム」化
• 前回本学会の発表で、発表者は、ナッシュ交渉解
(ナッシュ均衡でなくて)を援用した権力モデルの
構想を発表させていただいた。
• 発表時にいただいたコメントに、同様なナッシュ交
渉解の援用はすでにハーサニによってなされている
というものがあった。(A先生の)コメントに深く
感謝します!!。
• しかし、この方向はその後ハーサニ自身その他に
よってはあまり展開されていないようである。発表
者は、このアプローチにいくらかの発展性をみいだ
す。
• 今回は、フーコー権力論を再考するツールとしても
このアプローチがつかえるのではないか、と提示し
てみる。
• まず、前回の議論を復習しよう。
プレイヤーB先手 服従 不服従(反抗)
プレイヤーA後手
鞭を打つ(制裁)
4,-3
1,-2
鞭を打たない
5, 3
3, 5
はたして、プレイヤーAは、プレイヤーBを「服
従」させることができるだろうか。
上記のような権力状況にみえる場合も、厳密に
一回交番では、権力者の脅しは効かない。
• 繰り返しにしても有限回では、また脅
しは効かない。
• 無限繰り返しにすれば、脅しが効きう
る。
• が、また一方で、反抗の可能性も生じ
てしまう(フォーク定理)。
• そのような状況でも、ほとんどの場合、
プレイヤーBは、服従してしまい、
• いわば、プレイヤーBは、みずからの選
択でもっても服従者の地位を選択して
いるといいうる。
• このようなプレイヤーBの自我を慰撫す
る機制のひとつとして、
• 「Aが権力者だ」という「意味」が、い
わばAとBとの「共犯」によって共有さ
れる蓋然性が生じるのではないだろう
か。
無限繰り返しゲーム化による、状況
の「交渉ゲーム」化
• しかし、蓋然的とはいえ、「どれほ
ど」、Bは服従するのがもっともありそ
うだろうか。
• ナッシュの「交渉解」の議論を援用し
て、この問いに答えることができる。
• この状況は、服従・非服従の比率をど
れほどにするか、という(暗黙の)交渉
ゲームとして解釈することが可能とな
る。
• 非一意的なナッシュ均衡のうちで、どれが実現す
るのかについて、通常の非協力ゲームの枠組み
では、なかなか分析することができない。
•
• しかし、ナッシュ交渉解のロジックをわれわれは
援用することができる。
• ナッシュ交渉解自体、かならず当事者はそこに
交渉をおちつける必然性を含意しない。が、双方
の力関係のもとで、交渉がどこにおちつきそうで
あるか、を、ある程度のありそうさ・説得力で、示
してくれるだろう。
•
•
•
(周知のように、いわゆる(ナッシュ交渉解
を非協力ゲームによって基礎づける)「ナッ
シュプログラム」の一つとして、
Rubinstein1982によって、提案応答ゲーム
において、将来の利得に対する割引因子
が1に近づいていけば、
サブゲームパーフェクト均衡は、ナッシュ交
渉解にちかづいていくことが、明らかにされ
ている)。( Rubinstein, Ariel 1982 “Perfect Equilibrium in a
Bargaining Model”, Econometrica 50 (1982), 97-110. )
• ナッシュ交渉解のロジックを援用する前提として、上
記のように、はじめの状況が「無限繰り返し」になった
ばあい、そのゲームが一種の「交渉ゲーム」として解
釈しうるものになったことを確認しよう。
• すなわち、「n割みのがしてくれ、そうしたら、m割服従
してやろう。」「m‘割服従せよ、そうしたら、n’割みの
がしてやろう」という
• (いわば暗黙の)交渉ゲームとして解釈するわけであ
る。交渉が成立しなかったら、両者ともに、「ずっと反
抗」「ずっと打つ」のトリガー選択肢をもっている。
• とすると、この状況は、服
従・不服従の比率をどれ
ほどにするか、という交
渉ゲームとなり、交渉フ
ロンティアは、プレイヤー
Aの平均利得を横軸に、
プレイヤーBの平均利得
を縦軸にとると、毎回服
従(打たない)(全回服従、
0回みのがし)による(5,
3)と、毎回反抗(全回み
のがし、0回服従)(打た
ない)の(3,5)をむすぶ
線分となる。
• ナッシュ交渉解にとっての基準点は、双方
がトリガーをとった場合の、(1,-2)である。
よって、ナッシュ交渉解は、基準点を原点
とみなした場合の、プレイヤーAの利得とプ
レイヤーBの利得の積が、最大になる場合
である。
•
•
•
•
いま後論の都合のために、交渉フ
ロンティアの線分を、直線に延長し
てかんがえよう(直線αとする)。
もし仮想的に、交渉フロンティアが、
いまの条件のもとでの「(5,3)から
(3,5)を結ぶ範囲」に限定されてお
らず直線α全体であったとすると、
ナッシュ交渉積は、基準点(1,-2)
から、右上45度にひいた直線と、直
線αとの交点において、
すなわち、点(5,3)よりももっと下
方の部分で、最大になるだろう。
(なぜなら、もし交渉フロンティアが
線分でなくて、直線なら、ナッシュ交
渉積は、基準点を一つの頂点に、
直線上の点をその対偶の頂点とす
る長方形の面積となる。よって、そ
れが最大になるのは、その長方形
が正方形であるとき、すなわち、対
角線が45度線となるとき、だから)。
• しかし、いま交渉フロン
ティアの下限は、(5,3)
である。よって、この条
件のもとでのナッシュ交
渉積最大は、(5,3)の
点となる。これは、プレ
イヤーBの方が「弱み」
があり、それゆえ、ほと
んどつねに、プレイヤー
Bが服従してしまうとい
う直観・現実にぴったり
対応している。
• 両者のプレイヤーの、利得値が変
化したら、どうなるだろうか。
• 一番簡明には、プレイヤーBの「打た
れることへの嫌さ」加減をかえてみれ
ばよい。すなわち、当初の利得行列の
「打たれた」場合のプレイヤーBの利
得を上方に変化させてみればよい。
• 利得行列のおける、プレイヤーBの
「打たれる、反抗」への利得「-2」が、
上方へと変化すると、上記の議論にお
ける「基準点(1,-2)」のy座標が上方
へとシフトする。
• それにおうじて、上記の「45度線」も、
上方へと平行移動する。
• こうして、45度線が(5,3)の上を通過するよ
うになったとしよう。
• その場合、ナッシュ交渉積最大となるのは、
その45度線と、線分「点(5,3)から点(3,
5)」との「交点」である。
• 交渉点が、「(5,3)から(3,5)」の内部にあ
るということは、上記の交渉ゲームにもどし
てかんがえると、「つねに服従するわけで
もなければ、つねに反抗するわけでもな
い」状況である。
• 45度線をさらに上方へとシフトさせてみよう。
• 通過点が、点(3,5)を上方へと越えると、先
ほどのロジックとまったく同様に、交渉点は(3,
5)となり(点(3,5)に、はりついてしまい)、これ
は、「毎回反抗」を含意する。
• (復習終わり)。
フーコー的権力論を語りたくなる状
況に関する、非フーコー的モデル ?
• 今日、「権力論」というと、フーコーの権力
論の影響を無視することはできないだろう。
• 本稿のようなアプローチを展開してみると、
このような視点は、昨今のフーコー権力論
「ブーム」を、
• そのブームをになっている当事者たちの視点
とはことなった視点で、
• 説明・見通す一助になりうる、と感じるよう
になった。
フーコー権力論の「人気」?
• フーコー権力論の記述モード以前には、ほと
んど把捉されていなかったような、
• (それでも権力と呼びたくなるような)現象
をファンたちは直観し、
• フーコー権力論が、それを記述できるほとん
どはじめての用語体系として見えたがゆえに、
• ファンたちは、「フーコーの中にこそ何か決
定的な真実があるのだという強烈な思いこ
み」(盛山2000)にとらわれてしまったので
はなかろうか。
「独占」の終焉?
• し かし、 本アプ ローチ が明示 化され たのち と
あっては、
• 「フーコー的権力論を語りたくなる事態」をま
えにしても、
• 「フーコー権力論的記述モード」のみが、
• それを記述しうる唯一の知的ツールであるとは
限らなくなる。
• すなわち、われわれは、本稿で提示した、
「ナッシュ=ハーサニ的交渉解的権力モデル」
をも使用しうるからである。
フーコーの定式をなぞってみよう
• 『性の歴史Ⅰ 知への意志』第四章
「2 方法」におけるフーコーの定式
をなぞってみよう。(盛山2000、を大
きく参考にさせていただきました。深
く感謝します)。
• ①「権力とは「無数の力関係」であり、
「絶えざる闘争と衝突によって、それ
らを変形し、強化し、逆転させる勝負
=ゲームである」(訳書:119)
• 重要なのは、後半の記述だろう。この
部分をフォローできるような既存の権
力論が(ほとんど)存在しないと直観
されたゆえに、
• このフーコー権力論の「かけがえのな
さ」として「何か決定的な真実がある
のだという強烈な思いこみ」をもった、
「ファン」が叢生したのではないか。
• しかし、じつは、後半の部分こそ、わ
れわれのモデルの得意とするところで
ある。
• 前述したように、われわれのモデルは、
• 「有限手番ゲーム」においては、遡及的帰納論
法から脅しが効かないはずであるから、
• じつは、無限手番ゲームが暗黙に前提されてい
たのではないかということに眼目があった。
• ゲームが無限出番として解釈しうれば、フォー
ク定理から、脅しの効きも導出しうるのであっ
た。
• が、まさしく、おなじフォーク定理から、均衡
の非一意性が帰結してしまうのであった。
• したがって、通常の非協力ゲーム論の視点か
らすると、
• このゲームは、結果が決定していないゲーム
である。
• すなわち、帰結は「絶えざる闘争」の結果と
して「変形」し得、かつ「逆転」しうるゲー
ムである。
• しかし、ある程度の蓋然性でもって、結果を
みとおすこともできるのではないか、と我々
は考えた。
• すなわち、ナッシュ交渉解のロジックを援用
することでによってである。
ナッシュプログラムとルービンシュタイン
• ナッシュ交渉解の帰結を通常の非協力ゲームの枠組
みから、導出するといういわゆる「ナッシュプログ
ラム」がかなり進展している。
• とくに、ルービンシュタインの仕事は画期的な意義
をもつ。
• すなわち、おなじゲームにたいして、無限繰り返し
相互提案ゲームをおこなうと、自然な条件のもとで、
• そのサブゲームパーフェクトナッシュ均衡は、ナッ
シュ交渉解と一致する(一意化する)、のである。
• というわけで、フォーク定理からする
と、均衡は非一意であるがゆえに「絶
えざる闘争のもと変化」する。
• が、ナッシュ交渉解のロジックからす
ると、帰結は一意に決まる。
• しかししかしまた、その両地点をつな
ぐ橋は、たとえばルービンシュタイン
の無限繰り返し相互提案ゲームであっ
たりする。
強引に社会科学的含意を読み
込めば 、、、、
• すなわち、強引に社会科学的含意を読み込めば、
• いわば「双方の当事者が、どこまでも、相互提案
ゲームをやる執念と覚悟」をもっているかぎり、
• 事態は、ナッシュ交渉解に落ちる。
• が、どちらかでも、それほどの覚悟と執念がないか
ぎりは、事態は、自動的に交渉解の地点のおちるわ
けではない(当然自分に不利な点に落ちる)。
• すなわち、ここにおいても「絶えざる闘争と衝突」
が要請されるのである。
二項的かつ総体的な対立はない。
• ②「権力の関係の原理には、一般的な母型と
して、支配する者と支配される者という二項
的かつ総体的な対立はない。その二項対立が
上から下へ、ますます局限された集団へと及
んで、ついに社会体の深部にまで至るといっ
た運動もないのである」(訳書:121-2)。
• 「これらの断層の効果は、局地的対決に働き
かけて、再配列し、列に整え、均質化し、系
の調整をし、収斂させる。大規模な支配とは、
これらのすべての対決の強度が、継続して支
える支配権の作用=結果なのである」(訳
書:122)。
• ここでは、いくつかのポイントがまと
めて言及されていると思われる。
• 第一は、権力関係の母型として、支配
者・非支配者という非対称的な(はじ
めから非対称的関係がきまっている)
二項関係があるわけではないというこ
とである。
• 本稿のモデルは、まさに、双方当事者
の利得値のあまり大きくない違いに
よって、「ほとんど常に被支配者」
「闘争領域」「ほとんど常に支配者」
という蓋然的結果を導出した。
• 第二は、権力・支配関係の「波及」「授権」関係はか
ならずしも「上から下へ」いくとはかぎらない、とい
うことであろう。
• 第一の点でのべた「結果的な支配被支配関係」をもた
らすいわば「客観的所与」には論理的にはいろいろあ
りうる。が、モデル的には「各プレイヤーの利得値の
シフト」がもっとも典型であった。この「利得値のシ
フト」の源泉については本モデルはオープンであった。
• 「上からの変化」に起因すると言いうる場合もあれば、
「下からの変化に起因する」と言いうる場合もある、
だろう。
• この点、本モデルは、「上からの支配」にも「下から
の支配?」にも、両方対応しうるツールである。
• (「上から、下から」については、次の論点も参照せよ)
• 第三は、ミクロ的闘争と、大局的権力(支
配)との関係にかかわるものだろう
• 本モデルは、基本的にミクロ闘争を記述する
モデルである。
• が、一つの眼目として(というかナッシュや
ハーサニが言及しなかった論件として)闘争
の結果としての「意味」に着目していた。
• 必然性の相からすると、必ずしも「服従」し
なくてもいいにもかかわらず、服従している
自分の自我を慰撫し他者に潜在的言い訳する
ツールとして(も)「意味」が呼び込まれる
のではないか、とわれわれは考えたわけだ。
• その結果、この二者関係は、外部の第三者からみ
ると、いわば「物象化した」「安定化した」「モ
ジュール化した」「ブラックボックスとしてみな
しうるような」意味をになった固定的関係として
とらえられる蓋然性が生じるだろう。
• 第三者たちは、自らの社会的行為を演ずる際に、
この二者関係を、ある程度「ある意味と関係が安
定した、わたしにとって「前提」とできる」よう
な関係として、「与件」「前例」とすることがあ
りそうになる、だろう。
• こうして、我々が照準した、ミクロ的闘争ゲーム
に帰趨が、結果的に「大規模な支配」を結果する、
ということもありうるだろう。
「権力のある所には抵抗がある」
• ③「権力のある所には抵抗がある」
(訳書:123)。
• まさに、我々のモデルは、つねに、抵
抗の余地がありうる、ことをしめして
いた。
• この点は、すぐ次節でさらに論じる。
「十分な」性能? 、のみならず、、、
• このように少なくとも、上記三点をめぐっては、
本モデルは、
• フーコー的権力論が記述「したい」事態を記述
するに値する(十分な)性能を備えているよう
に感じられる。
• しかし、それだけではない。われわれのモデル
は、フーコー的権力論では、かならずしも十分
に記述できたとはいえなかったある点について
の記述性能「をも」もっているように感じられ
るのである。
• それは、まさに、この「抵抗」をめぐる論点で
ある。
「抵抗可能性の存在」と「抵抗成功
性の蓋然性による場合わけ」
• すなわち、われわれのモデルは、
• 抵抗の可能性がつねに存在する、ということ、
と、
• そうでありながらも、抵抗の可能性の蓋然性
の存否・大小が所与の場合におうじて変動す
るということ、
• この二点を、同時に一つのパースペクティブ
から導出する、ようにおもわれるのである。
ポストモダン冒険主義?
• 権力に抵抗は付き物というのはいいが、その
抵抗が状況の変化におうじてどれほどみこみ
のあるものであるかをのべるのが望ましいだ
ろう。
• フーコー的権力論にこの性能があるかはかな
り疑問ではないだろうか。
• ある理論にこの性能がない場合には、その理
論に導かれた解放?運動は、「抵抗の可能性
が存在する(無でない)以上、抵抗しよう」
• とでもいった極左冒険主義?のようなものに
なってしまいがちではないだろうか。
大きな敵がはっきりしない時
代?
• 『ポストモダンの条件』的にいえば、現代と
は、大きな敵がはっきりしない時代ともいえ
るかもしれない。
• このような時代であっても、直観的に感じ取
られるような疎外感・抑圧感のようなものが
完全になくなったわけではないだろう。
• このようなことを直観的にかんじとっている
ひとびとにとっては、そのような疎外感・抑
圧感を記述分析説明するような理論が需要さ
れるだろう(マーケットの存在)。
独占の終焉?
• このような需要者たち(マーケット)にとって、
• 数少ない供給者としてフーコー権力論は立ち現れ
たといえるかもしれない。
• しかし、上でみてきたように、フーコー的権力論
をかたりたくなってしまう状況にたいしても、
• フーコー的権力論以外の記述用具が少なくとも一
つ存在することが明らかになった。
• フーコー的権力論の「独占」は終わった。
スペックの比較、から、「路上・試
乗会」による比較へ。
• 本発表を聞かれた聴者の少なからずは、
直観的な奇妙感をお感じだろう。
• 権力をめぐる複数の理説の比較といいつ
つ、
• 権力(とでも呼びたくなるような何らかの社
会現象)の分析をまったくやってないでは
ないか!、と。
• そのとおり!、
• 本発表は、いわば、
• 「机上」におけるスペック(定格)の比較の
ようなもの(「このクルマは最速何キロでる
はずで、、、」)、に、すぎない。
• 早急に、「実路上での試乗会」(“権力”現
象のケーススタディ・実証分析など)を、こ
ころみたい。(一部進行中、乞うご期待)。
文献
Foucault, Michel, 1976 La volonte de savoir =渡辺, 守章 訳 1986
『知への意志 』新潮社
Harsanyi, John C.,1962”Measurement of Social Power ,Opportunity
Costs,and the Theory of Two-Person Bargaining Games”,Behavioral
Science 7:67-80
Rubinstein, Ariel,1982 “Perfect Equilibrium in a Bargaining Model”,
Econometrica 50 (1982), 97-110.
盛山和夫, 2000 『権力 』 東京大学出版会