企業家論 ⑦ IT企業家と日本の伝説的企業家(本田宗一郎と松下幸之助) 樋口徹 1 アメリカのIT企業家のまとめ 2000年代にジェフ・ベゾスがITをベースに流通を変革 インターネット上のビジネス;Netscape(ブラウ ザー)、Yahoo(ポータルサイト) 、google (検索)、 Facebook(SNS) 1990年代にマイケル・デルがPCの流通を変革 1990年代にビル・ゲイツがOSと事務用ソフトの 業界標準を設定 1980年代にスティーブ・ジョブスがGUIを組み込ん だPCの市場化に成功 シリコンバレー【土台】 (HP社:1939年設立:IT産業の集積の始まり) (インテル社:1968年設立半導体のリーディング企業) (ゼロックス社:1970年アロパルト研究所:ダイナブック発案) 2 IT関係の企業家 偉業 達成できた 理由(方法) 個人的な 個人的な好 好み みの理由 スティーブ・ ジョブズ ビル・ゲイツ マイケル・ デル マーク・ザッ カーバーグ ジェフ・ベゾ ス 3 理想的な企業家とは? 成功する人? 新たなものを市場に投入する人? 無謀なチャレンジをする人? 堅実に(リスクを考慮に入れて)チャレンジをする人? 世の中を変える人? カリスマ的な魅力のある人? ニーズを的確に見極める人? 自分の信念を貫く人? 株主や債権者を大切にする人? チームワークに優れている人? 消費者を大切にする人? 地域住民や地球環境を大切にする人? その他 4 松下幸之助(経営の神様) 1905年10歳で丁稚 1965年70歳(経営の神様) • 松下幸之助歴史館 http://panasonic.co.jp/history/museum/index.html • M矢 5 松下幸之助(「経営の神様」)の年表 西暦 事項 1894 11月27日和歌山県にて誕生 1904 大阪市内の八幡筋宮田火鉢店に丁稚奉公(小学校中退) 1905 五代自転車商会に丁稚奉公 1910 桜セメントの臨時運搬工/大阪電燈(関西電力)に内線見習工として入社 1911 内線見習工から工事担当者に昇格(最年少) 1915 井植むめ(戦後に弟が独立し、三洋電機創業)と結婚 1917 大阪電燈(株)を退社し、独立 1918 松下電気器具製作所を個人創業(アタッチメント・プラグや二灯用差込みプ ラグがヒット;当時は、家庭に電燈用プラグ一個が主流であったので、他の電気器 具を使え、さらに同時に複数の家電製品を利用できるようにした ) 1920 M矢の商標作成(松下のMと破魔矢を組み合わせ、どんな障害も突破) 1922 砲弾型電池式自転車ランプを考案・発売(大ヒット) 1923 代理店制度開始/関東大震災 1925 「ナショナル」ブランドを立ち上げる(平成元年度から「パナソニック」に変更) 1929 「松下電器製作所」に改称/世界恐慌 6 松下幸之助の年表(続き) 7 西暦 事項 1930 ラジオを発売 ※1931年にはラジオ関係の特許を買い取り、無償公開 1932 「水道哲学」を提唱 ※生産者の使命;生活物資を水道水のごとく無尽蔵にする事 1933 事業部制導入 1934 店員養成所を開校 1935 株式会社化し、「松下電器産業株式会社」に改組 /事業部を分社化(後の「富士通」や「TDK」設立) 1936 工員養成所を開校 1943 「松下造船」と「松下飛行機」を設立(終戦後、公職追放になる一因) 1949 物品税の「滞納王」として報道される 1950 事業部制復活 1957 「ナショナル・ショップ制度」発足 1962 『タイム』誌に松下幸之助特集掲載 1973 78歳の時に相談役に退く 1980 松下政経塾一期生入塾 1989 94歳で死去(1月に昭和天皇崩御) 松下幸之助はどうして経営の神様なのか? 1930年代前半 (先見の明があり、実行) 10 歳 で 丁 稚 奉 公 24 歳 で 個 人 創 業 自転車ランプ大ヒット 大 量 生 産 体 制 ブ ラ ン ド 育 成 販 売 網 構 築 会社の利益と社会の発展 の調和を図る(会社綱領) 水道哲学(生産者の使命) 事業部制導入(組織管理) ※戦後は、技術力より、販売力の強みを活かした戦略で功を奏した。二番手戦 略を採用(トップはリスクが大きい)。松下でなく、「真似した」と皮肉られる。 8 本田宗一郎の年表 西暦 事項 1906 11月17日静岡県磐田郡(現在の浜松市)生まれ 1922 湯島の「アート商会」に丁稚奉公(掃除や子守)、自動車修理工の修行 1928 浜松に「アート商会浜松支店」を設立し、独立(暖簾分け) 1936 全日本自動車大会に出場(時速120キロの新記録樹立)/ピストンリング製 造の東海精機重工業設立(修理から製造業へ:不良品の山) 1937 浜松高等工業学校(静岡大学工学部)の聴講生となり、ピストンリングの製 造の品質を向上(1939年にトヨタと取り引き開始) 1945 トヨタに東海精機重工業を売渡『人間休業宣言』 ※補助エンジン付き自転車 1946 浜松に本田技術研究所を設立 1948 浜松に本田技研工業株式会社を設立 1949 「ドリームD型(バイク)」を開発に成功し、量産 1952 本社を東京に移転 1954 バイクレースの最高峰「マン島TT(ツーリスト・トロフィー)レース」(イギリス) への出場を宣言し、優勝を目指す ※先に目標を設定し、やる気を鼓舞 1958 「スーパーカブ」を発売 9 本田宗一郎の年表(続き) 西暦 事項 1959 マン島TTレースに出場/アメリカン・ホンダを設立 1961 ヨーロッパ・ホンダを設立/マン島TTレースで1位から5位を独占 1962 鈴鹿サーキット完成 1964 F1に参戦 1965 F1メキシコGPで初優勝 1967 軽自動車「ホンダN360」を発売し、大ヒット 1970 4人の専務による集団指導体制へ移行(世代交代) 1971 「CVCC」(低公害型エンジン)を発表 ※先に目標を設定し、やる気を鼓舞 1972 「CVCC」がアメリカのマスキー法に合格/「シビック」(小型乗用車)を発 売 ※排気ガス中の有害物質を10分の1以下に削減することを義務づけた法案 1973 本田技研工業の社長を退任(取締役最高顧問就任)「よく言ってくれた。何 66歳 なら今日にでも辞めていいぞ。」(空冷にこだわる本田と水冷にこだわる技術者) 1989 日本人初の「自動車殿堂」入り 1991 肝不全のため逝去(勲一等旭日大綬章を受章) 10 本田宗一郎のこだわり • 3つの喜び:「創る喜び」、「売る喜び」、「買う喜び」 • レース狂⇒最先端技術⇒技術者育成とブランド育成 • オリジナルにこだわる⇒独自路線⇒海外大手と提携しなかった ⇒日本の伝統の造形美(建築や仏像) • 失敗を恐れない⇒「やってみもせんで」と一喝⇒チャレンジ ⇒失敗の理由を学んだ時に成長(「なぜ」を繰り返す) ⇒成功は99%の失敗に支えられた1% • 「120%の製品を」⇐人間の作業にはミスがつき物だから ⇒拳骨やスパナ(期待の現れ) ⇒叱る側との知識、技術、経験の違いを気づかせる ⇒叱る理由は試行錯誤を通して人間としての成長を期待 ⇒ノミニケーションでフォロー 11 本田宗一郎 補助エンジン付き自転車 スーパーカブ シビック(初期) 12
© Copyright 2024 ExpyDoc