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経営学総論第26回講義 2008/07/10
経営学総論 第4のテーマ;企業経営者論
これまでの、① ビデオ学習 ② 企業論③ 組織論 を踏まえて、
松下幸之助および本田宗一郎が経営者として成功した理由を考える
① 社会の動向から何を読み取ったか(see)
② どのような経営理念を創造したか
③ planおよびdoの過程で、どのような革新性を
構想し、実現したか
④ 従業員の高い貢献意欲をどのようにして
作り出したか
⑤ 企業内外において、どのようにコミュニケーション
を活発にしたか
1. see;社会の動向から何を読み取ったか
①経営環境としての社会の動向
・消費者のニーズ ・技術の動向
・銀行や投資家の動向 ・原材料調達企業の動向
・販売店の動向 ・競争企業の動向
・競争既存商品の動向、労働市場の動き など
②社内の動向
・売り上げやコスト、利益の動向
・従業員の貢献意欲など、「ヒト」の状況
・社内のコミュニケーションの実態
・技術や知識の蓄積
③ 松下幸之助の場合
◉ 父が米相場で失敗。満9 歳で、大阪に丁稚奉公に出る。
自転車店で勤めに励む。
◉ 明治43 年、開通したばかりの大阪の市電が「電気で走る」
のを見て電気事業の将来を予感した幸之助は、長年慣れ親し
み、高い評価もしてくれていた奉公先をあえて飛び出し、「大
阪電燈」の内線係見習工になる。
◉ 恒例の経営方針発表会を迎えた昭和26年正月、幸之助は
事業の回復ぶりに深い感慨を覚えていた。しかし、その心はさ
らに前を、広く世界を見つめていた。これまでの経営をいった
ん白紙にして世界的視野で事業を再構築したい。幸之助はそ
の必要を痛感していた。壇上で幸之助は今日の回復に甘んじ
る事なく「松下電器は、今日から再び開業する」という心構えで
経営に当たることを宣言。初のアメリカ視察を発表した。旅行
も英語も不得手な社長のこの発表に社員たちは一様に驚いた。
このとき、幸之助は56歳。
◉昭和27年10月、幸之助はオランダにいた。アメリカ視察を敢行
してから2年足らず。すでに三度目の海外旅行であった。すぐに
世界中に電化の時代が来る、そのとき世界を相手にするには、
飛躍的な技術の向上と合理化が不可欠だ----。
◉幸之助が選んだ"先生" はオランダのフィリップス社。しかし、松下
にとって、これは大きな賭けでもあった。提携の条件として、自社の
資本金よりも多い資本金を持つ子会社を設立することになったから
である。本当にこれでいいのか----。調印を目前にして幸之助は最
後の自問自答をくり返していた。ペンを持つ手が震えた。幸之助は、
迷いが晴れない自分を、しかり続けた。
「ええい、ここまで来て迷うやつがあるか」
◉迷いに迷った幸之助の決断の是非は、数年後に明らかになる。
この提携で誕生した「松下電子工業株式会社」は、しばらくしてあら
ゆる松下商品の品質を支える電子管や半導体を生み出していっ
た。
④ 本田宗一郎の場合
◉ 1948年、「本田技研工業株式会社」創設。本田宗一郎、同社
取締役社長に就任。
1950年、東京進出。東京駅近くの京橋に営業所開設。同時に
北区上十条の東京工場が稼働開始。
1951年、本社を浜松から東京に移転。
1952年、本田宗一郎、視察と工業機械購入のために初渡米・
欧。4億5000万円相当の108台の工業機械を購入。
◉ 1955年、本田技研工業、2輪者生産台数日本一達成。
1956年、専務と視察のためドイツへ。
1958年、スーパーカブC100発売。以後、現在まで世界的なロ
ングセラーを記録。
1959年、マン島TTレースに初出場。優秀な成績を残す。
⑤ 現代社会をどうとらえるか-工業の発展と環境問題の例-
1800機械の1900
1950
発明
1800年~
産業革命 1910年~
米国における 自動車
大量生産 電気製品
大量消費 化学製品
1950年~
大量生産
大量消費の
拡大
2000
中国や
インドなど
1990年~
大量生産
大量消費の
一層の拡大
巨大になった人間の力による
自然の利用・破壊
人口
10億人
人口
25億人
人口
2007年
資源をめぐる争い
67億人
貧困者の一層の
生活困窮
自然
森林や湿原 の開発
熱帯雨林などの減少
石炭石油の利用、枯渇へ
CO2など温暖化ガスの蓄積
大量ごみの廃棄
温暖化と気候変動
日照り、砂漠化、豪雨など
•国際化(ヒト・モノ・カネ・情報の移動)
•高度情報化(Web1.0から2.0へ)
•格差と貧困
•日本における少子高齢化
資源・エネルギー
穀物などの価格高騰
2. 経営理念の創造
① 経営理念とは
経営理念とは、経営者が企業の運営にあたって、企業
の共通目的を明確化し、その目的を実現するために、
その組織が共有すべき価値観(ものの考え方、哲学)を
を明文化(文章化)したもの
「理念なき行動は凶器であり、行動なき理念は無価値
である」(本田宗一郎)
② 松下幸之助の場合
水道哲学
◉ 「そうや! 生産につぐ生産で貧を無くす営みこそ、われわれ
の尊き使命やったんや!ああ、わしはそんなことも知らんかった
んや」 われらこそは、自己にとらわれた経営、単なる商道として
の経営の殻を破らねばならない使命を自覚すべきだったのだ---。いつしか夜も更けていた。漆黒の闇のなかで、初めて自ら
の事業の真の使命に目覚めた幸之助は、ひとり、震えるような
感激を覚えていた。
◉ そう考えた幸之助が大阪の中央電気倶楽部に全店員168名を
招集したのは昭和7年5月5日のことである。幸之助は、宗教団体
の見学で、その繁栄ぶりに感嘆し、宗教の使命の聖なるを痛感し
たこと、ひるがえって自分たち生産人の使命について深く考えたこ
とを順を追って話した。そして、水道の水のごとく、すべての物質
を無尽蔵たらしめようではないかと訴えた。創業者は、使命達成
のための、250年にも及ぶ壮大な事業計画を語りながら、限りな
い喜びを感じていた。ついに事業の究極の目的を確信した。
③ 本田宗一郎の場合
◉ わが社は世界的視野に立ち、顧客の要請に応えて、性能の
優れた、廉価な製品を生産する。わが社の発展を期することは、
ひとり従業員と株主の幸福に寄與するに止まらない。良い商品
を供給することによって顧客に喜ばれ、関係諸会社興隆に資し、
さらに日本工業の技術水準を高め、もって社会に貢献すること
こそ、わが社存立の目的である。
◉ 理念の具体化;CVCCエンジンの開発は社会正義だ。
・環境問題が深刻に。自動車の排気ガス、大気汚染。
・1970 年 大気浄化法(低公害車開発を義務づけ)は、 自動車
メーカーにとって新しく、大きな問題。低公害車の開発競争のなか
で、多くのメーカーは触媒による方法を模索。しかし本田はエンジ
ンそのものを改良。
・宗一郎;「社会正義として必要」。
3.planおよびdoの過程で、どのような革新性を構想し、
実現したか
① 松下幸之助の場合
◉ 小さな工夫。二股プラグの開発、自転車用ランプ(砲弾型ラ
ンプ)の開発
◉ 革新性。テレビの大幅コスト削減。1953 年;29 万円→1958
年66,500 円。「コストの1割削減は難しい。半分にすることを考
えたらどうや」 ⇒ プリント基板とパネルなどの標準化で実現。
従来の製造方法からの、発想の転換が革新性をもたらす。
② 本田宗一郎の場合
◉ 世界一という大きな目標設定。それを実現しようとする熱意
と努力。そこからエンジンの革新性を実現。
◉エンジン開発;当時毎分5 千回の回転を1万回に引き上げる。
「燃える」研究により、2.5万回を実現。CVCCエンジンを開発。
4.従業員の高い貢献意欲をどのようにして作り出したか
① 松下幸之助の場合
◉ 2029年末世界大恐慌勃発。販売不振に陥ったが、一人の従業員
も解雇しなかった。
◉ 従業員のために、社内運動会を開催する。
⇒ 会社との一体感を醸成し、労使の対立を緩和する。
経営家族主義の実践。
◉ 衆知を集める=全員参加による経営方法。
⇒ 新製品開発や作業の工夫などにおいて、従業員の意向を
くみ上げ、仕事への自発性を高める。働く人間としての誇りを与える。
◉ 自分の考え方や経営状況を、朝礼や会議の場で周知する。
② 本田宗一郎の場合
◉ マン島レース参加への宣言。
「本田技研の全力を結集して栄冠を勝ち取ろう、本田技研の将
来は一にかかって諸君の双肩にある。---TTレースに出場、
優勝するために、精魂を傾けて創意工夫に努力することを諸君
とともに誓う。1954 年3 月」
⇒ 従業員の意欲を鼓舞する。
◉ CVCCエンジンの開発では、その社会的意味(社会正義、
社会貢献)を明瞭にして、従業員の意欲を鼓舞する。
◉ 研究の現場では、社長と従業員の間に区別を持ち込まない。
「権力をもってしても、真理は曲げられない。」