日本をつくった北浜 ~維新前後~

日本をつくった北浜
~維新前後~
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日本をつくった北浜
~維新前後~
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1835年1月10日(天保5年12月12日)大坂堂島
浜(大阪市福島区)にあった豊前国中津藩(大分
県中津市)の蔵屋敷で下級藩士福澤百助・於順
の次男として生まれる。
1836年、1歳6ヶ月のとき父の死去により帰藩し中津
(大分県)で過ごす。
14、5歳になってから勉学を始めすぐに実力をつける。
1854年(安政元年)、19歳で長崎へ遊学して蘭学を学
ぶ。
1855年(安政2年)大坂へ出る。兄から江戸へは行
くなと引き止められ、大坂の中津藩蔵屋敷に居候しな
がら、緒方洪庵の適塾で学ぶこととなった。
1856年兄が死に、家督を継ぐも大阪遊学を諦めきれ
ず、父の蔵書や家具で借金を完済して 再び大阪で適
塾の食客(住み込み学生)として学ぶ 。
1857年(安政4年)には適塾の塾頭。
北浜3丁目
翌年江戸築地鉄砲洲で蘭学塾「一小家塾」を開く。
出典:「ウィキペディア (Wikipedia): フリー百科事典」 より抜粋
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福沢諭吉:脱亜入歐、複式簿記、保険制度、慶應
大鳥圭介:坪井塾頭、蝦夷共和国
工部大学校長・官営工場総括、
セメント、ガラス、造船、紡績、石油開発
3代目学習院長
橋本左内:藩医、開国思想、安政の大獄(26歳)
適々斎塾
「日本一の蘭学の地」
緒方洪庵
大村益次郎:医師・西洋学者・「その才知、鬼の如し」(青木周弼)
兵学者(事実上の陸軍の創始者 )
適塾頭→長州村医→宇和島藩上士格
→長州藩上士・幕府撃退→京にて朝臣・
戊辰戦争勝利→木戸孝允(桂小五郎)、
大久保利通と並び新政府の幹部となる。
司馬遼太郎花神の主人公。京で刺客に
遭い大阪の病院で没す。
長与専斎、佐野常民、高松凌雲 ・・・
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木戸孝允 (桂小五郎)
1833-1877
大久保利通
1830-1878
木戸の
入閣
裁判所(大審院)
板垣との入閣
板垣退助
の開設
1837-1919
大阪会議
明治8年(1875年)
2月11日
議会(元老院)の招集
漸次立憲体制の樹立
伊藤博文
井上 馨
1841-1909
1836-1915
維新の推進
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「大阪会議」
明治8年1月22日:木戸・板垣会談(井上・小室・古沢同席):民選議院開設につい
て。
大久保“木戸を復帰させ、自らの権力集中批判を和らげよう”“板垣までは不要”
木戸“板垣との連合で大久保の専権を抑制”
板垣“木戸をして議会政治導入を大久保に約束させる”
“木戸を通じて大久保に漸次立憲体制を政府方針とさせる”
大久保“議会制(立憲政治)導入は時期尚早と考えていたが、
木戸の説得に押され、
また板垣を在野で放置して過激派と結びつかれるよりも良いと態度軟化”
板垣“立憲政体樹立・三権分立・二院制議会確立など認められ協力的に”
1月29日:木戸・大久保会談:木戸の政府復帰が決定。
2月11日:木戸が大久保と板垣を招待する(井上・伊藤が同席)という形式で、
北浜の料亭「加賀伊(かがい)」での三者会議が行われた。「大阪会議」
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船中八策
一策 天下ノ政権ヲ朝廷ニ奉還セシメ、政令宜シク朝廷ヨリ出ヅベキ事
二策 上下議政局ヲ設ケ、議員ヲ置キテ万機ヲ参賛セシメ、万機
宜シク公議ニ決スベキ事
三策 有材ノ公卿諸侯及天下ノ人材ヲ顧問ニ備ヘ、官爵ヲ賜ヒ、
宜シク従来有名無実ノ、官ヲ除クベキ事
四策 外国ノ交際広ク公議ヲ採リ、新ニ至当ノ規約ヲ立ツベキ事
五策 古来ノ律令ヲ折衷シ、新ニ無窮ノ大典ヲ撰定スベキ事
六策 海軍宜シク拡張スベキ事
七策 御親兵ヲ置キ、帝都ヲ守護セシムベキ事
八策 金銀物貨宜シク外国ト平均ノ法ヲ設クベキ事
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五箇条の御誓文
一 広ク会議ヲ興シ万機公論ニ決スヘシ
一 上下心ヲ一ニシテ盛ニ経綸ヲ行フヘシ
一 官武一途庶民ニ至ル迄各其志ヲ遂ケ人心ヲシテ倦マサラシメ
ン事ヲ要ス
一 旧来ノ陋習ヲ破リ天地ノ公道ニ基クヘシ
一 智識ヲ世界ニ求メ大ニ皇基ヲ振起スヘシ
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「立憲政体の詔書」
「漸次立憲政体樹立の詔勅」「元老大審二院を置くの詔」
朕、即位の初首として群臣を会し、五事を以て神明に誓ひ、国是を定め、
万民保全の道を求む。幸に祖宗の霊と群臣の力とに頼り、以て今日の小
康を得たり。顧に中興日浅く、内治の事当に振作更張すべき者少しとせ
ず。朕、今誓文の意を拡充し、茲に元老院を設け以て立法の源を広め、
大審院を置き以て審判の権を鞏くし、又地方官を召集し以て民情を通し公
益を図り、漸次に国家立憲の政体を立て、汝衆庶と倶に其慶に頼んと欲
す。汝衆庶或は旧に泥み故に慣るること莫く、又或は進むに軽く為すに急
なること莫く、其れ能朕が旨を体して翼賛する所あれ。
明治八年四月十四日
意味「私は即位の初めに群臣を集めて五箇条の誓文を神々に誓い、国是を
定め万民保全の道を求めた。幸いに先祖の霊と群臣の力とによって今日の落
ち着きを得た。かえりみるに、再建の日は浅く、内政の事業には振興したり引
締めたりすべき点が少なくない。私は今、五箇条の誓文の主意を拡充し、ここ
に元老院を設けて立法の源泉を広め、大審院を置いて審判権を確立し、また
地方官を召集して民情を通じ公益を図り、漸次に国家立憲の政体を立て、皆
とともに喜びを分かちたい。皆も、守旧することもなく、また急進することもな
く、よくよく私の主旨に従って補佐しなさい。 」
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