アジアの歴史第11回 毛沢東・ニクソン・田中角栄: 人民中国の苦悩と国際社会への復帰 戦後初期の日中関係 1950.2.中ソ友好同盟相互援助協約調印、日本 の軍事的復活に対する中ソの相互防衛関係確 立 1950.6.朝鮮戦争勃発 1951.9.サンフランシスコ講和条約および日米安 全保障条約、日本の対外的選択 1951.12.ダレス国務長官要請下の「吉田書簡」 1952.4.日本と台湾:「日華平和条約」を調印、日 本は台湾を選択 「政経分離」VS「政経不可分」 「政経分離」か、「政経不可分」か 「民間先行、以民促官」「積み上げ方式」への中国 側方針の転換 物々交換に基づいた第一次、第二次、第三次、第 四次日中民間貿易協定の締結 L・T貿易(廖承志と高碕達之助) 「水を飲むときには、井戸を掘る人を忘れない」、日 中民間外交の先駆者たち 積極的な民間と消極的な政府 1949.5.-6.中日貿易促進会・中日貿易促進議員連 盟・中日貿易会という「中日三団体」が発足 1949.10.日中友好協会が設立 1955.7.松山バレー団訪中(中国バレー劇「白毛 女」を公演) 1956.5.京劇名優梅蘭芳訪日 鳩山(一郎)内閣の「二つの中国」政策 岸(信介)内閣と長崎国旗事件 佐藤(栄作)内閣と国連でのアメリカ追随 米ソ両大国の対立と アメリカ対中国政策の変化 米・ソ二大超大国の軍備競争 戦略核兵器におけるアメリカの圧倒的な 優位の崩れ 東西両陣営内部の亀裂と対立 泥沼状態のベトナム戦争 中国はもはやアメリカの敵ではない? アメリカ、中国へシグナルを送る 1970年初頭、米中大使級会談がワルシャワ で再開 1970年10月、「中共」の代わり、「中華人民共 和国」という呼称は使用される 1971年4月、アメリカ側のサーブで「ピンポン 外交」が開始 毛沢東の反応と中国「大外交」の始動 1970年10月1日、毛沢東は天安門上に アメリカ人記者スノー氏を接見、ニクソ ンの中国訪問を歓迎すると表明。 1971年4月、アメリカ卓球チームの中国 訪問を歓迎。睡眠薬を飲んだ後の決定 も有効! ニクソン・ショック 1971年7月、大統領補佐官キッシンジャーは パキスタン経由で北京を秘密訪問。翌年の ニクソン訪中を発表 佐藤内閣はアメリカの「頭越し外交」に大 ショック、経済界・政界が中国へ一斉傾斜 同年9月、第二六回国連総会では中国招請・ 台湾追放のアルバニア案が可決され、中国 は国連と安保理へ復権 佐藤内閣は急きょ、中国政府へ流し目を送っ たが、無視され 田中角栄の登場と田中内閣の決断 1972年7月、田中角栄が自民党総裁となり、 第一次田中内閣を組閣 「日中問題は外交問題であるよりも国内問 題だ」「日中関係を解決せずして、日本の安 定なんかあるわけがない」 新内閣の三大政策目標:①日中国交の正 常化、②日本列島改造計画、③自主外交の 実行 田中訪中と日中国交の回復 1972年9月25日ー30日、田中角栄首相・大 平正芳外相・二階堂進官房長官ら中国訪 問 四回にわたる日中会談 日中共同声明と「不正常な状態」の終結 中国の国際社会への復帰と 日中関係の新時代 1974年、「日中貿易協定」などが締結 1978年、鄧小平副首相訪日、「日中友好平和条約」調印 1979年、大平(正芳)首相訪中 1980年、華国鋒首相訪日 1982年、鈴木(善幸)首相訪中 1983年、胡耀邦総書記訪日 1984年、中曽根首相訪中 1985年、彭真全人代委員長訪日 1988年、竹下首相訪中 1989年、李鵬首相訪日 1989年、日本政府は中国へ50億円無償援助を提供 1991年、海部(俊樹)首相訪中 1992年、江沢民総書記訪日、天皇・皇后訪中 2008年,胡錦涛国家主席訪日 期末テストについて 実施日時:2007年7月20日(火)2時限目授業 期間中(教室未定) 制限時間:1時間(一人分ずつ空けて座る) 設問パターン:問一、事件名・人物名・歴史事象 などの簡単なまとめ、5問、各100字以内、各10 点。 問二、小論文、指定された2問から1つを選ん で300-500字の小論文をまとめる。 持ち込み可のもの:配布プリント、自筆ノート(コ ピー不可)、サポートHPの資料、筆記用具
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