室町文化と生活 - 退職教師の日本史授業

織田信長(1534~82)の統一事業
織田信長(1534~82)の統一過程
1555.4信長、清洲に移る
1560.5桶狭間の戦
→上洛途上1.今川義元を破る
1567.8美濃稲葉山城攻略、岐阜城と改名
→「天下布武」の印判を使用
天下を武力によって統一する意思を明らかにする
戦国大名で最初に「天下統一」の意思を持つ
1568.9足利義昭(13代将軍足利義輝の弟)を奉じて入京
→畿内を制圧=義昭(15代)を将軍に就任させ、
実権を掌握
義昭、信長の不和 →義昭、 浅井長政・朝倉義景・武田
信玄・石山本願寺と結ぶ
1570.62.姉川の戦→信長、浅井長政・朝倉義景連合軍
を近江姉川で破る
1570.9石山戦争の開始(対一向宗)→1580.閏3終了
(11年に及ぶ戦争を展開)
本願寺の顕如が諸国門徒に信長と戦うことを
呼びかける
1571.9比叡山延暦寺焼き討ち=旧仏教側の屈服
1573.7将軍の権力回復を目指す義昭を追放
=室町幕府滅亡
1574.8伊勢長島の一向一揆の平定、越前の一向一揆の
平定
1575.53.長篠合戦=家康協力、武田勝頼を破る
(武田騎馬軍団を崩す←鉄砲を大量に
組織的に初使用)
この瑠璃堂は、信長の比叡山焼き討ちを免れ
た唯一の堂宇です。
長篠合戦
1576.2 安土城築城、毛利氏との戦い開始
木津川沖海戦想像
図 鉄板で装甲した
織田軍水軍の大安
宅船が、
毛利水軍を木津川
沖で打ち破った。イ
ラスト 谷井建三
家臣には冷徹な態
度と違い、領民に
対しては寛大。鉄
砲戦術、鉄甲船、
人材登用、楽市楽
座令など、中世の
枠を超えた人物
1580.閏3→石山合戦の終了
=本願寺11世顕如、石山本願寺を退去
1582.3天目山の戦=武田勝頼を破る(武田氏の滅亡)
1582.64.本能寺の変=信長、明智光秀に京都本能寺で
暗殺、平定した国約28カ国
織田信長の最期
今の本能寺は本能寺の変以後に移転し
て来たもので、実際に本能寺の変が起き
た場所とは違います。
安土城炎上
土地政策
A.指出検地の実施=指出(土地台帳)の提出
←旧勢力の打倒(公家・寺社の経済地盤を奪う)
・指出検地は今川、北条、武田氏も実施
B.検地の拡大=近江(1568)、伊勢(1568)、山城(1574)、
大和(1575、1580)
天正枡 安土桃山時代 天正2(1574)年大黒天像 安土桃山~江戸時代
経済政策=商業政策を重視
1.5.楽市・楽座=美濃加納(1567)、近江安土山下町(1577)
中世の経済的利益は座・問丸間に
よって独占され既得権化してい
たが、戦国大名はこれを排除して絶
対的な領主権の確立を目指すととも
に、税の減免を通して新興商工業者
を育成し経済の活性化を図ったので
ある。天文18年(1549年)に近江国
の六角定頼が、居城である観音寺城
の城下町石寺に楽市令を布いたのが
初見。
琵琶湖などを中心とした流通によ
る商業発展を目指す。
2.関所の撤廃(1569)=支配地域で実施
人々の往来や物資の流通に不便です。だから、楽市楽座
と同じ視点で関所も廃止したのです。また、民間人が勝手
に税を取ることを禁止したとも
3.都市の直轄=都市からの徴税
(a) 堺=矢銭(軍資金)2万貫を賦課→直轄領とする
(b) 京都=自治組織を防犯、徴税機関とする
(c) 大津、草津=宿場機能を整備
4.撰銭令(1569)
精銭を1文とし、ころ、せんとく、やけ銭 は2枚で1文
えみょう、おほかけ、われ、すり は5枚で1文 うちひらめ、
なんきん は10枚で1文。
撰銭をした者を厳罰に処すことにしたが、効果が上がらないとみ
ると、さらにこれを悪貨と良貨の交換比率を定める方法に改めた。
(3) 宗教政策
宗教自体を否定したのではなく天下布武事業の一環として、
既存の宗教との政教分離や政治上の宗教の統一を考え
ていた可能性もある。
A.仏教の弾圧
当時の仏教勢力が世俗の権力と一体化して宗教としての
意義を忘れ、宗教そのものを逸脱している
(a) 6.一向一揆の弾圧→ 徹底的な弾圧
・伊勢長島の一向一揆(1574平定)・越前の一向一揆
(1575平定)
・石山合戦(戦争)(1570~80)=11年間に及ぶ戦争、本願
寺11世顕如の退去で決着→一向一揆の終焉
(b) 比叡山延暦寺の焼き討ち(1571)
以後、旧仏教側は屈服
比叡山焼き討ち
B.キリスト教の保護
(a) ルイス=フロイスに布教許可(1569)
(b) 安土に神学校(セミナリオ)の設立許可
(c) 京都に南蛮寺(教会堂)の設立許可
(4) 既存権威の利用
A.足利将軍家の利用=13代将軍の弟義昭を奉じ入京、
将軍職に(15代将軍)
B.朝廷の利用=右大臣兼右近衛大
将となる
C.天皇家の利用
=残存史料が不完全→信長と
朝廷の関係は全く違う解釈が可能
信長の御所建築
(a) 献金(1568)=金を出し、
口も出すという施策
(b) 御所の建築(1570)
(c) 正親町天皇の東宮(皇太子)
の誠仁親王の第5皇子を信
長の猶子とする。
織田信長と正親町天皇