“王の支配”実際に起こり始める - えりにか・織田 昭・聖書講解ノート

“王の支配”実際に起こり始める
マルコによる福音 4
“王の支配”実際に起こり始める
1:16-20
イエスが 15 節で宣言された「神の国」―生ける神が王として人を支配な
さるという力強い出来事が、地上で本当に起こり始めたというのが主題の趣
旨です。福音書の著者マルコは、イエスの福音宣言に続いてすぐ、最初の挿
話でそれを印象づけます。これは「神の王権支配」―生ける神があなたの
王として治める出来事―の起こり方です。それは実際、具体的に、どのよ
うにして起こるのか? マルコによると、それは、まず王であられるイエスが
あなたをお呼びになりあなたがそのお呼びに応えてイエスに従う時に起こる、
というのです。
16.イエスは、ガリラヤ湖のほとりを歩いておられたとき、シモンとシモン
の兄弟アンデレが湖で網を打っているのを御覧になった。彼らは漁師だった。
17.イエスは、「わたしについて来なさい。人間をとる漁師にしよう」と言わ
れた。 18.二人はすぐに網を捨てて従った。 19.また、少し進んで、ゼベダ
イの子ヤコブとその兄弟ヨハネが、舟の中で網の手入れをしているのを御覧
になると、 20.すぐに彼らをお呼びになった。この二人も父ゼベダイを雇い
人たちと一緒に舟に残して、イエスの後について行った。
劇作家でも小説家でも同じだと思いますが、最初の場面を書く時にはその
文章やセリフがその作品の印象を決めてしまうだけではなく、そのドラマの
テーマがぐっと前面に出てくる場合が多いですから、たとい 10 行の文でも、
1 行のセリフでも、作者はおろそかにしないで、よほど効果を考えて書くと
思います。
マルコは既に、イエスがどなたであるか……イエスが持って来られた「神
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の福音」は何か……「神が王として支配なさる」と預言者が言ったことが、
今やイエスによってどう実現されるか……というテーマを、最初の 1 頁に打
ち出したのですが、いよいよこの頁から、その神の子イエスと現実の人間と
の触れ合いのドラマが始まります。「ドラマ」と言いますのは、架空の芝居
という意味ではなくて、古代のギリシャ人が使った本来の、「行為」という
意味です。これは正に、現実の肉の人間の世界に繰り広げられる、神御自身
の“聖なる行為”にほかならないからです。
一昔前には、マルコの福音書は、イエスに関するナマの事実を殆ど無編集
で並べた、素朴な資料集のように考えられがちでした。しかし、どうやらそ
れは見当違いで、この短い福音書は、最も煮詰められた形でイエスの事実を、
福音の中心に向かって一つひとつ、無駄なく積み上げて編集した優れたドラ
マだと、人々は気づき始めました。
オペラなら、印象的な主題を織り込んだ序曲が終わって、第 1 幕第 1 場の
幕が上がったところです。ギリシャ劇なら、前口上の使者が悲劇のテーマを
朗誦して舞台の袖に隠れたあと、主役が“コロス”の前に初めて姿を現す場
面と言いましょうか。“コロス”
は(私なら“ホロス”と読みますが)
主人公と言葉を交わし合う一番近い存在であると同時に、観客や読者の分身
でもあるような人たちです。マルコは、読者の第一印象を左右するような、
この最初の場面のやり取りの中に、私たちにいくつかの不可解な疑問を投げ
かけるようなスタイルで、4 人の弟子たちとイエスの出会いを描きます。
1.いきなりのお召し―全くイエスを知らない初めての 4 人に。
ルカの福音書ですと、この場面の前に一度シモンが出てきます。シモンの
妻の母親の熱病をイエスがお癒しになるくだり(4:38-39)です。それに、
ナザレとカファルナウムの会堂でイエスがお教えになる場面もあって、弟子
たちとの予備的な触れ合いも暗示します。ヨハネの福音書ですと、イエスが
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ヨルダンの水に浸かって“霊”が天から降ったあと、「その翌日」(1:35f)
に早速、シモンとアンデレがイエスの宿を訪ねる場面があります。でも、マ
ルコはまるで、この時が初対面であるかのように、弟子たちの側にもイエス
についての予備知識も何もなかったかのように、イエスと漁師たちを会わせ
るのです。
これは決して、福音書同士が矛盾するのではありません。語りたい重点が
違うための表現の違いだと思います。もちろん、4 人の漁師たちは立派な大
人ですから、イエスに従う理由はそれぞれがしっかり持って、はっきりした
自覚の下にお供したはずです。単に強烈なカリスマを持った人物の暗示に乗
って軽率について行ったのではありません。しかし、マルコという著者はヨ
ハネなどとは違って、そういう出会いの背景とか、弟子たちが既に浸者ヨハ
ネから得ていた予備知識とかは全部無視して、「イエスはガリラヤ湖のほと
りを歩いておられたとき、シモンとシモンの兄弟アンデレ……を御覧になっ
た。…… イエスは、『わたしについて来なさい……』と言われた。二人はす
ぐに……従った」と、出会いの事実だけを書くのです。
マルコが、他の事情や細目すべてを省略して、前面に押し出すのはイエス
の言葉の持つ重みです。もっと厳密に言えば、それだけの絶対的服従を命じ
る権威を帯びた人がここに来られた、ということです。天の父の聖なる意志
は全部、この方の中にある。生ける神を王と仰いで服するということは、神
の子であるこの方に服することにほかならない。これは、ヨハネ福音書が諄々
と言葉で語るところですが、マルコ福音書はそれを、張り詰めた緊張感を持
つ“ドラマ”の形で、最小限のト書きとたった一言のセリフで描くのです。
2.イエスのお呼びの重点─“Come. Follow Me!”
日本語の「わたしについて来なさい」で表し切れないので、
“Come,follow
Me!”と英語を借りました。原文はもっと素朴で、「デフテ・オピーソム」
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《
》です。
(単
)は“come”ではなく、「こ
こへ」という意味の間投詞で、命じた人のそばへすぐ来るように促す言葉で
は文字どおり、“after me”です。まあ、英語に
す。後の二語
訳せば、“Come, follow me.”(N.I.V.)でしょうか。今のは、マルコが使
ったギリシャ語の表現で、私たち読者はその辺で理解しておいて良いのだと
思うのですが、そこを、もう一つ我が儘というか、贅沢かも知れませんが、
当日イエスのお口からは、ヘブライ語でシモンに何と言われたのだろうかと、
想像もしてみます。
私の手元に、ヘブライ語に訳し戻したマルコ福音書が 2 種類あります。口
語訳と文語訳とでも申しましょうか。文語訳の方は、できるだけ旧約聖書の
文体に近づけてあるものですが、両方とも、“Walk after me.”に当たる言
い方で、yr;x]a;
Wkl.
と訳しています。「私の後をついて歩け」ですか。ヘブラ
イ語のオリジナルとしては、この「レクー・アハライ」しか考えられないと
いうことだと思います。これは私には、とても面白いと思えました。と言い
ますのは(こんな語学のことはどうでも宜しいのですけれど)ここのイエス
のお言葉の微妙な意味合いについて、よく次のような説明を注解書で読むか
らです。
イエスの御命令は、ついて来る人の“英雄的行為”みたいなものを問題に
していない、というのです。「立派にイエスに従いおおせて面目を施す」と
か、「さすが、イエスの弟子だ」とかいう、従って行く人の側の功績は重視
しないで、むしろ、進んで行かれるイエス御自身に重点を置いて、イエスの
行為が中心にあるような命じ方であるだと言います。
(例 Lamar Williamson)
どこまでも、イエス御自身が先に立って、父の聖なる意志の通りにお進み
になります。ヘブライ書の言い方で言うなら、
「我らの先導者」
(2:
10,12:2)です。そのイエスが、“Walk after me.”とおっしゃるのだとす
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れば……、私たちに期待されているのは何でしょうか。イエスの生き方、イ
エスの愛し方、イエスが人に言葉をおかけけになる時の温かい話し方、イエ
スの思いやりと人を庇う庇い方……、それを「一歩遅れて」と言えるほど恰
好良いものではなくて、十歩も二十歩も後からでしょうが、それでも精一杯、
“walking after Him”するのです。「わたしの後を歩け」(レクー・アハラ
イ)の趣旨がそこにあったのなら……私にも、あなたにも、真似できるので
はありませんか!
ただ、イエスが最終的にお着きになる地点は、十字架の地ゴルゴタです。
そこではもはや、“to walk after Him”はできない代わりに、十字架の上か
ら「受けよ」と言われる恵みを、私たちは受けることができます。「私の後
を歩け」は結局、そこまで来て見よということです。
3.「人間をとる漁師にする」というイエスのお言葉の趣旨は……。
もちろん、これは漁師であったシモンとアンデレ、ヤコブとヨハネへのお
言葉です。もし 4 人が農夫であったとすれば、また違った比喩を(?)お使
いになったとも考えられます。日本でも米国でも、子供の聖書学校などでは、
「人をイエスの所に導いて来る使命」という角度から、人のお役に立つ最大
の務めは、人をイエスのもとに連れて行ってあげることです、と説明されま
すが……。どうしてそれが「漁師」でなければならないのか……。ある注解
書は、
「網で魚をとることを知らない子供たちが、ここをイメージ化する時、
大きなカギ針が人間の口や頭を刺し貫くのを想像するかも知れない」と書い
ていますが、英訳聖書の中でも、TEV などは、そんなイメージを与えかねな
いでしょう。
また、カギ針でなく網で捕えられても、水から揚げられた魚は死ぬべき運
命にあるから、救いとは結び付きにくいと指摘する人もいます。この心配は
ルカ福音書の著者もしたのかも知れません。と言うのは、ルカはこの「人間
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をとる漁師」(:17)という所は別の言葉で言い換えて、「生きたまま人間
を捕えて来るのだ」―
と表現しています。その方が、ギリシ
ャ人の読者には拒絶反応を起こさなかったのでしょうか。いずれにせよ、魚
を網で捕えて来るという譬が、やがてシモンやヨハネがする仕事とどんな意
味でつながるのか……これは、日曜学校で教える歌ほど簡単ではありません。
漁と漁師について、旧約聖書のイメージという角度から、分かりやすい説
明をしているのは、William Lane という学者ですが、私は 20 年ほど前にこ
の人のマルコ注解を読んで、一つのヒントを得たことを感謝しています。昨
年 4 月に聖書学院のチャペルで、「漁師の連想」という題で発表もいたしま
したが、今朝は深入りしません。Lane によると、旧約聖書の預言書に現れ
る「漁」と「漁師」のイメージは、人を神のもとへ導いて救うというもので
は、おおよそなくて、「人を漁る」という絵は、神の裁きと全地に望む破滅
の絵になっています。エレミヤ書、エゼキエル書、ハバクク書を注意ぶかく
読んだ人なら、イエスはどうしてシモンとアンデレに、
「人を漁る者にする」
などと言われたのか、分からなくなるくらいです。その預言の一つ……。
「見よ、わたしは多くの漁師を遣わして、彼らを漁らせる、と主は言われ
る。……わたしの目は、彼らのすべての道に注がれている。……わたしは彼
らの罪と悪を二倍にして報いる。」(エレミヤ 16:16,18)
簡潔に、結論だけ申しましょう。イエスが来られたことは、天の父の最終
的な審判の一部でもありました。イエスという王が持って来られた“神の福
音”は人の生き死にを左右するのです。そして、そのイエスの後を歩いた弟
子たちは、イエスからの連鎖反応としてその、人を生かしもすれば殺しもす
る、最も重い厳しい任務を帯びることになります。使徒パウロが、「死から
死に至らせる香り」と、畏れをこめて語った言葉をここで思い出してくださ
い(2コリ 2:15,16)。昨年の「漁師の連想」というスピーチの結びの一部
で、私は次のような趣旨のことを話していますが、この感想は今も変わりま
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せん。
人はだれも、自ら選んで「人間を漁る漁師」になれるものではありません。
「私は、人間をとる漁師になるぞ。私の網で人の魂を捕えて、神様のところ
へ連れて行ってあげるのだ」など勇ましい言葉は、恐ろしくて、口が裂けて
も言えないのです。本当は、人はそういう肉の意志に反して「漁師」にされ
てしまうのだと思います。
人の永遠の生き死にまで決めてしまうその「漁師」の仕事を、気がついて
みたら、イエスの後を歩いた結果、イエスにつられて自分のような者がして
いた……! という、神聖な畏れに満ちた経験を、シモンもアンデレも、ヤコ
ブもヨハネもやがて、味わうことになります。これは牧師や伝道者に限らな
いことで、本気でイエスの後から歩いた人に起こる“不可避的結果”のよう
なものです。
4.無謀?と見える決断―父と事業と過去のすべてを捨てて。
イエスの“王権支配”が現実に始まるドラマの第 1 幕第 1 場をマルコは、
不可解な疑問を投げかけるような書き方で書いたと申しました。読む人に霊
的ショックを感じさせるよう書き方です。まず、いきなり、強引とも見える
お召し―「私の後をついて歩け」―「あなたを漁師に変えて人間の漁を
させる」―そして、四つ目の驚きは、この人たちの即座の決断と行動の激
しさです。無謀! と言う人もいましょう。少なくとも、常軌を逸している…
…と、常識人なら評するでしょう。
最初にお声をかけられたシモンとアンデレは、「すぐに網を捨てて」従い
ます(:18)。網は彼らの生計と社会とのつながりと、過去のすべてを含ん
だでしょう。二人は、ひょっとして、だれか後始末をあてにできるような、
他の弟か妹か親類がいたか……と、尤もらしい説明を探す人もいるでしょう。
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あるいは、そんな配慮はこの人たちの見た霊の緊急性とは無縁で、彼らはそ
の瞬間、すべてを捨てて従うべき神の国の王に捕えられて、自分の命と未来
の全部を賭けたのか。
後からお呼びを受けたヤコブとヨハネに至っては、言語道断と見る人もい
ましょう。彼らは、ガリラヤ湖の漁港に住む住民から、永遠に「悪霊憑きの
親不孝者」という烙印を押されはしなかったでしょうか。二人は舟を捨てて
イエスの後を追う時に、まだ舟の中で雇い人たちの作業を指図している実の
父を残したまま、「イエスの後を歩く」という一事以外何も見なかったので
す。
四人の行動は、説明のつけようがありません。無理に理由や説明を作れば、
できないことはないでしょう。でも、万人を納得させる筋の通った説明は、
どう考えても出てこないのです。もちろん彼らの行動は、安易に「父を見捨
てる」ことの言い訳にはなりません。そんな適用をするには、この場面は余
りに厳粛で、畏れを感じさせるからです。
この疑問は恐らく、このまま、解けないままでマルコ伝の中に、永遠に留
まるのでしょう。ただ、この疑問と不可解な結末は、少なくとも一つのこと
だけ読者に強烈に印象づけて、尤もらしい説明以上の効果を生み出している
のです。それは、人がイエスと本当の出会いを経験する時、そして、イエス
のお口から「私の後をついて歩け」と命じられる時、もしそこに「わが仰ぐ
べき王」としてのイエスの意味を垣間見たとしたら、イエスが私に何を与え、
どうしようとなさるのかを霊の目でその片鱗でも見たとしたら、それまで自
分にとって最高の価値を持っていたもの、こよなく大事で命より貴いと思わ
れたもの以上のものが見え始めるという事実です。それは、天の父があなた
の中に見ておられる清い命の貴さです。そして、それを生かしてくださる「神
の国」の王が目の前におられるのを見ることの衝撃です。
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すぐに「網を捨てた」という捨て方、「父も雇い人も舟の中に残してイエ
スの後に従った」という、決別の仕方には、人により段階もあれば次元の違
いもあります。しかし、イエスの血で贖われることの発見は、それ以外のす
べての貴重なものの影を薄れさせるという経験は、イエスが語られた譬えの
中では、「畑に隠されていた宝を掘り当てた人」の話、「高価な真珠を一つ
見つけた商人」の話にもこめられているものです。それが、ここでは譬話の
ような言葉でではなく、生きた人間のドラマで描かれているのだと思います。
《 結 び 》
金曜日の夕刻、古くからの友人が訪ねてきてくれました。枚方市内に住む
人で、今は日本基督教団の教会のメンバーとして、子供たちを教えたり、修
養会で青年たちを指導たりして、立派な証しをしている方です。教団では正
教師や補教師の資格を大事にしますから、正式には、彼は牧師でも伝道師で
もないのですけれど、私たちの自由な考え方で言えば、牧師以上の牧師だと
思います。来週はその教会の主任牧師が休暇で旅行されるので、彼は説教を
依頼されたとのことで、テモテ書の参考資料のことで私を訪ねて来られまし
た。
話しながら二人で嬉しかったことは、イエスのお呼びを受けてからこの何
十年かの間、「イエスの後を歩く」生き方を止めないで、続けさせていただ
いたことは、本当に“良かった!”という実感でした。彼もそろそろ還暦に
近く、私どもは同年代の誼もあり、私どもがバプテスマを受けた日が同じ 4
月 25 日という、不思議な御縁もあります。
その友人が帰りがけに、「最後にこれは織田さんの『さん論』や『先生と
呼ばれる?』への小さな反対論になるかも知れませんが」と断って、自分に
とって嬉しかった経験を話してくれました。別に反対論ではなくて、相手の
方がこの友人に感謝を表すのに「先生」と呼んだことへの感動なのですけれ
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ど、これには私の方が恐縮して、「私の偏ったヘンコな主張で人に迷惑をか
けたり、気を使わせたりして、申し訳ありません。でも、私の考えもそっと
して大目に見てくださいね」と、言い訳にこれ努めました。昔は、「若造の
織田が教会の習慣を無視した極端なことを言う」とお叱りを受けて済んだも
のですが、年をとると年令相応に人にプレッシャーを感じさせたり、気を使
わせたりもいたします。「先生」という呼称を大事にされる方も尊重してい
ますし、私自身も今さら変節もできませんので、お赦しを乞う次第です。
ところで、その友人がとても嬉しかったこと、神に感謝を献げたことと言
いますのは、彼が昔、教会学校で教えた子供……その頃は小学生か中学生だ
ったある婦人が、何十年ぶに日曜学校の先生(彼のことです)に会って、と
ても喜ばれたという話です。それも色々な苦労や不幸も経験されて、一歩間
違えば信仰も失ってキリストの交わりから去ったかも知れない所も通ったの
に、その婦人はまだ信仰を持って喜んで生きておられるのです。その方が、
「私にとって、一番勇気の源になってのは、私が行き詰まっていた時や、病
気の時や、教会学校から離れた時でも、いつも永易先生が私みたいな者を忘
れずに、訪ねてくださったり、励ましてくださったりしたことでした」と話
されたそうです。それが、信仰を捨てそうな瞬間に彼女をキリストにつなぎ
とめた。彼は多分、「『先生』と呼ばれることにも神聖な喜びがあります」
という意味で、その言葉を残して行かれたのでしょうが、私は彼が辞したあ
と、このマルコ伝のイエスのお言葉を思い起こしていました。
「私の後について歩け。私はあなたを漁師に変えて、人間の漁をさせよう。
」
先程、私は、「人は自ら選んで『人間をるとる漁師』になれるものではな
い」と申しました。「人は、肉の意志に反して、漁師にさせられてしまうの
だ」と。私たちがイエスの後を歩く生き方を続けた末に、ああ、こんな者が
「漁師」にされていた感動と感謝を、永易さんと同じように覚えるとしたら、
それは“王の支配”が実際に起こった証拠、また、イエスのお言葉が本当だ
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った証拠だと思います。福音の使者を「先生」と呼ぶべきか否かは、その人
その人の自由の範囲内です。
最後に一言、これはまず、あなたがイエスのお召しに応えて、王に服する
決断から始めねばならないことを真剣に考えてください。
(1993/08/01)
《研究者のための注》
1. イエスのお言葉の英訳は、次のように訳されます。“Come ye after me, and I will
make you to become fishers of men.”AV.“Come, follow me,…… and I will make you
fishers of men.”NIV.“Come with me, and I will make you fishers of
men.”NEB.“Come with me, and I will teach you to catch men.”TEV.
2. 「劇」の原語
(
)「行動する」の名詞形で、「行為」を意味します。このス
ピーチの中ではその第一義によりました。
3. 前置きで言及した「コロス」(ギリシャ人の発音では「ホロス」)はギリシャ劇の合
唱舞踊隊で、浄瑠璃の語りの役目と観客の代表の性格を持ちます。
4. ヘブライ語“口語訳”と仮に呼んだものは United Bible Societies,1976 年版の
tyrbh yrps ,“文語訳”と呼んだものは、Robert
hvdxh
L.Lindsey の訳書“A Hebrew
Translation of the Gospel of Mark”,1969,Jerusalem です。
5. 旧約聖書、特に預言書における漁と漁師のイメージについては、1992 年 4 月 16 日大
阪聖書学院での発表「漁師の連想」を参照してください。なおこの角度からの「漁師」
の理解は、次の書からヒントを得ました。William L.Lane;“The Gospel According
to Mark”,1974.pp.67-69.
6. ルカが四人の漁師とイエスの出会いに先行させている「シモンの姑」の挿話は、マタ
イではかなり後に(8:14,15)記録されていることから見て、マルコによるこの「最
初の出会い」との前後関係を断定する根拠にはなりにくいと思います。これに対し、
ヨハネの記録する浸者の弟子としてのシモンとアンデレの経験は、時間的に先行する
可能性は十分あるでしょう。
7. 文中で触れた「さん論」“Sanology”は 1969 年の「たねまき」誌に発表した小論で、
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福音を伝える人へのより自然な尊称は「~さん」ではなかろうかという、私の 40 年来
の“偏った”(?)意見をまとめたものです。もちろん、プロテスタントの教会が大
事にしてきた「~先生」にこめられた福音への畏れと、信仰の先達への敬意に無知な
訳ではなく、この伝統的尊称を大事になさる方たちの立場をも尊重します。ただ、私
自身は「先生」社会から距離をとって、その交わり(全国大会等)には、なるべく顔
を出さないように努めています。
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