油脂産業における分析技術の発展~デジタル化 がもたらすものと

オレオサイエンス 第 15 巻第 4 号(2015)
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巻 頭 言
油脂産業における分析技術の発展~デジタル化
がもたらすものとアナログ的発想の大切さ~
公益社団法人日本油化学会
油脂産業技術部会長 永 井 利 治
油脂産業技術部会は,油脂産業に関わる広範囲な話題
と思った記憶がある。学生時代は,このような LC-MS
を取り扱う専門部会である。ここ数年は,1 つの大きな
が今ほど普及しておらず,私自身で動かしたことは全く
テーマを設定し,5~6 名の講師の先生にご講演いただ
なかった。HPLC もまた,ポンプ,カラム,インジェク
くセミナー(毎年 6 月頃)と,ランチョンシンポジウム
ター,検出器,インテグレーター(または,ペンレコー
( 年 会 ),1 つ の 演 題 に つ い て 深 く 掘 り 下 げ る ワ ー ク
ダー)等のコンポーネントを組み上げて使っていた。ク
ショップ
(毎年 11~12 月頃)
を実施している。最近のテー
ロマトグラフのシステムそのものはほとんど変わってい
マは,脂質関連のものをはじめ,その周辺分野まで幅広
ないが,現在までに大きく変わった点は,カラム等のク
く設定している。油脂の搾油・精製・加工のプロセス,
ロマト技術の進歩よりも,システムの自動化やそのデー
乳化技術,脂質の酸化とその防止法,酵素的に有用油脂
タ処理ではないかと感じている。
を生み出す技術,油脂を構成するトリアシルグリセロー
近年,デジタル化はどのような分野においても当たり
ル(TAG)の分析法について,また,油脂産業に関わ
前になってきている。アナログテレビ放送から地デジへ,
りの深いなどの食品素材(乳,小麦粉,卵)について等
LP レコードから CD へ,フィルムカメラからデジカメ
で多岐にわたる。(この中で卵については,2015 年度の
へ,私達の身の回りに存在する多くのものがデジタルへ
「油脂産業技術部会 & オレオライフサイエンス部会共催
と移行していった。余談だが,著者は子供の頃から写真
セミナー-食品産業における卵の利用-」として,6 月
が趣味であったため,フィルムカメラからデジタルカメ
18 日,東京海洋大学にて開催予定である。
)様々なテー
ラへの変遷を直に見ることができた。フィルムカメラで
マを扱う専門部会であるが,本稿では,12 月に行った
は,レンズを通過してきた光によりフィルムが感光して
ワークショップにおいて,著者らが発表した TAG 異性
像が記録される。デジタルカメラの場合は,レンズから
体分析を例に最近の分析機器の発展について感じている
の光をイメージセンサー(撮像素子,フィルムに相当す
ことを述べてみたいと思う。
る)で受け,それをアナログからデジタルへ変換し記録
私の学生時代の研究テーマは,脂質の分析に関連する
している。このイメージセンサーの性能は驚くほど進歩
ものであった。このため,学生時代から HPLC(高速液
し,既にデジカメの高感度性能や解像度はフィルム時代
体クロマトグラフ)に触れる機会は多かったと思う。当
を凌駕しているように思う。
時は微量な脂肪酸を如何にして定量できるようにするか
分析化学の世界においてもこれとよく似た側面があ
ということに取り組んでいたが,TAG 分析はほとんど
る。クロマトグラフィーにおいて,記録方式が従来のペ
やったことがなく,TAG 異性体分析法の開発に注力し
ンレコーダーやインテグレーターから PC に変わってき
てきたのはここ 7~8 年のことである。この分析に取り
たこともさることながら,仮に GC(ガスクロマトグラフ)
組み始めた頃,HPLC で TAG 異性体を直接分離すると
-FID(水素炎イオン化検出器)や HPLC-UV 検出器を
なると,銀イオン HPLC や一部の逆相 HPLC で TAG
アナログと例えるならば,GC-MS,LC-MS はデジタル
位置異性体を分離した報告があったが,逆相 HPLC で
と言えるのではないだろうか。もちろん,屈折率検出器,
TAG 位置異性体を分離した例はあまりなかった。TAG
UV 検出器等は現在でも欠かすことができないが,MS
分子種(3 つの脂肪酸の組合せ)分析については,逆相
は非常に微量な試料を分析できるばかりか,非常に多く
HPLC で行われるようになっていたが,既にかなり普及
の情報を取得することもでき,これはビッグデータの 1
していた LC(液体クロマトグラフ)
-MS(質量分析計)で,
つなのかもしれない。
そのスペクトルから個々の TAG の構成脂肪酸を知るこ
油脂の物性や栄養に大きく影響を及ぼすのはその組成
とができるということに大変驚き,非常に便利なものだ
と個々の TAG 分子中の脂肪酸の結合位置である。MS
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は TAG の構成脂肪酸を判別することができるため,一
るカラムと,被写体の映像を光学的な情報としてイメー
度の分析で油脂中に含まれる多くの TAG 分子種の組成
ジ セ ン サ ー に 導 く レ ン ズ, 絞 る こ と に よ っ て
を推定することができるが,その結合位置を正確に知る
“Resolution”が良くなる点では共通であると思われる,
ことは難しい。酵素やキラル HPLC,GC 技術を組み合
「注入量」と「絞り」など,それぞれに対応する項目と
わせて,油脂全体の脂肪酸の分布(グリセロール骨格上
それらがパフォーマンスに及ぼす影響を考えると実に面
の sn-1,2,3 位の結合位置ごとの脂肪酸組成)を調べ
白い。カメラの「絞り」を絞り込んだ(光量を減らした)
る方法は,1960 年代から 1980 年代にかけて開発された。
場合(= HPLC の注入量を減らした場合),Resolution
これらの方法は油脂の特徴をつかむ上で非常に有用な
は良くなるが,その分だけ高感度(Sensitivity)が必要
データが得られるが,TAG を構成する脂肪酸の組合せ
となる。高感度化はイメージセンサーにおいても検出器
と結合位置を同時に知るためには TAG 異性体を分離・
においても進展は目覚ましいものがあるが,分離そのも
定量する必要がある。このためには,どうしてもクロマ
のはクロマト技術の発展が不可欠であり,そして,これ
ト分離の要素が欠かせない。
らの要素は決してデジタル技術ではカバーすることがで
最近の HPLC カラムや HPLC システムそのものの性
きない,アナログ的要素であるということを忘れてはな
能は大きく向上し,従来分離できなかったような物質も
らないだろう。如何に感度や解像度の優れたイメージセ
短時間で分離できるようになってきている。しかし,最
ンサーを積んだデジタルカメラであっても,レンズの選
終的に分離の可否を決定づけるのはカラムの選択と分離
択や露出設定を誤っては良い写真を撮ることは難しく,
条件に因るところが大きい。TAG において,n 個の異
単に分離能の高いカラムや高感度の検出が可能な
なる脂肪酸が存在する場合,TAG 分子種(3 つの脂肪
LC-MS のような分析装置であっても,カラムや分離条
3
2
酸の組合せ)の数は(n +3n +2n)
/6 個である。グリセ
件を誤れば適切な結果を得ることはできない。
デジタル化やデータ処理の自動化・高速化によっても
ロール骨格上の脂肪酸結合位置を考慮し,位置異性体,
鏡像異性体を区別するとその数は n 個となる。すなわ
たらされるメリットは非常に大きい。しかし,それゆえ
ち,脂肪酸の種類が 2 個,3 個と増える,TAG 分子種
にアナログ的な要素が最終的な結果に与える影響はこれ
は 4 種類,10 種類だが,異性体を区別した分子種の数
まで以上に重要であろう。若手社員や学生が,従来のよ
は 8 種類,27 種類と急増する。現在のところ,このよ
うなアナログ的要素が感じられるような分析システムに
うな異性体を含めた全ての TAG 分子種のクロマト分離
触れる機会は今後ますます減っていくだろう。分析機器
と定量はまだ達成されていないが,近年,著者らは,食
の発展と引き換えにこうした要素が失われていくのは時
用油脂中に含まれる特定の異なる 2 つの脂肪酸(パルミ
代の流れなのかもしれない。私自身,カメラにおいても
チン酸,オレイン酸など)からなる TAG 位置異性体,
クロマトグラフにおいても,このようなアナログからデ
鏡像異性体を直接分離することに成功している。
ジタルへの過渡期を学生時代から社会人になって間もな
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クロマトグラム上でピークの分離状態を表す
「分離度」
い時代に体感できたことはある意味幸運だったのかもし
という用語がある。一方,前述のデジタルカメラにおい
れない。そんな自分もいつの間にか油化学の専門部会を
ては「解像度」という用語があるが,英語ではどちらも
支える立場にいる。分析のみならず,様々な油脂に関連
“Resolution”という単語である。この Resolution の良
する技術について,現在では当たり前として受け止めら
し悪しは,HPLC のカラムや分離条件,カメラのレンズ
れているようなことを改めて取り上げ,その背景にある
の能力と撮影条件に依存する。このような例えが適切で
理由や見つめなおすような機会を作っていくことは今後
あるかどうかは別として,クロマトグラフィーとカメラ
ますます必要であろう。油脂産業技術部会からは今後も
には共通点が多いように感じている。感度
(Sensitivity),
このような場を油化学に関連する全ての人のために提供
S/N 比(Signal-to-noise ratio)は,どちらにも共通で用
していきたい。
いられる用語である。目的物質の分離に直接的に関与す
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(月島食品工業株式会社 研究所)