西洋中世学会第 7 回大会 自由論題報告・報告要旨 (6 月 13 日(土)14

西洋中世学会第 7 回大会
自由論題報告・報告要旨
(6 月 13 日(土)14:00~18:00、8 号館地下 1 階・8B11 教室)
第1報告(14:00~14:45)
13 世紀後半の『狐物語』模倣作に見られる托鉢修道会批判
高名 康文(成城大学)
司会:池上 俊一(東京大学)
13 世紀中頃から後半にかけて成立した、リュトブフ作『逆しまのルナール』(Rutebeuf, Renart
le bestourné, 1261 頃)、『ルナールの戴冠』(Le Couronnement de Renart, 1263-1270 頃)と、
ジャクマール・ジェレ作『新編狐物語』(Jacquemart Gielee, Renart le Nouvel, 1288 頃)には、
12 世紀後半より 13 世紀の前半までに成立した『狐物語』と共通する動物たちが登場する。しか
し、文学史上の位置づけでは、『狐物語』とはまた別に、エピゴーネンによって書かれた性質の
異なる作品群であると扱われている。
性質の違いが顕著に表れるのは、諷刺の対象である。『狐物語』においては、当時の宮廷の法
的、宗教的な慣習や、聖職者の放縦についての諷刺がみられるが、諷刺の対象となる人物・団体
はかならずしも特定されないし、また、特定される場合も、ごくごく簡単な言及にとどまる。
一方、エピゴーネン扱いされる作者たちによる 13 世紀後半の物語群には明確な風刺の対象があ
る。そのうちの一つがドミニコ会とフランシスコ会であり、今回取り上げる三つの作品すべてで
とりあげられている。ルナールの輩の跋扈を嘆いたリュトブフの作品をモデルに、『戴冠』と『新
版』は両会の修道士たちに王公の宮廷に取り入る術を教えるルナールやルナールの息子たちを描
き出し、その結果、両修道院は「ルナールのやり口」を意味するルナルディー (renardie)に満
たされる。
『戴冠』と『新版』における批判のニュアンスの違いにも触れながら、これらの作品において、
同時代の『薔薇物語』に通底するアレゴリーを媒介とした現世風刺が展開される様を紹介できる
よう、発表の準備を進めていきたい。文学以外を専門とする方々からアドバイスがいただければ
と願っている。
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第2報告(14:45~15:30)
musica humana はなぜ声楽であると考えられなければならなかったのか?
関沢 和泉(東日本国際大学)
司会:山内 志朗(慶應義塾大学)
大学成立後、学芸学部の諸学問でそれぞれ何を学ぶかを初学者に案内する入門書として発達し
た「諸学問案内」のうち 1245 年頃にパリ大学で成立したとされる『Philosophica disciplina』は、
ボエティウスの言う musica humana とは「気管に至る気息の運動により引き起こされた音響の
比例関係、人間の音声の比例関係を考察する」分野であり、別様の解釈は彼の意図に反すると主
張し、それは musica instrumentalis についての諸巻しか残らなかったがゆえに生じた誤解であ
るとしている。誤解等々のくだりは含まれないものの、このように musica humana を理解する
方向性は 900 年前後に書かれたと考えられる、musica naturalis と musica artificialis の区分の
導入で知られるプリュムのレギノの書簡において既に、また 11 世紀初頭のユトレヒトのアダルボ
ルドゥス等でも確認される。しかし言うまでもなくボエティウスの『音楽教程』第一巻第二章に
見られる音楽の musica mundana, musica humana, musica instrumentalis への三区分におい
て語られている musica humana は今日このような意味で解されておらず、また中世の他のテキ
ストにおいても「人間における各部の調和」といった意味でこの三区分を受け取っているものも
少ないわけではない。だが単なる誤解というには無視できない一連のテキストが musica
humana を今日ボエティウスの意図として一般に理解されているのとは別の意味で使用してい
る。このような説が長く生き残ったことの意味を、musicus / cantor の繰り返される対比、ボエ
ティウスによる音楽の生得説、動物は音楽を享受するかという問いの間で、文法学と対比しなが
ら考察する。
第3報告(15:30~16:15)
14 世紀アヴィニョン司教区における「記念祷会計」ius anniversariorum
の成立とその意義――Saint-Paul-de-Mausole 参事会教会の場合――
印出 忠夫(聖心女子大学)
司会:大黒 俊二(大阪市立大学)
アヴィニョン教皇期の教会は、しばしば近代国家の先駆とも言うべき合理的行財政システムを
整備したと評されるが、聖職者による聖務の励行という中世高期以来の改革課題にも継続して取
り組んでいる。なかでも中世末期に増加した、信徒による死後の魂の安息を願っての「永遠の」
perpetualiter ミサ執行の依頼には、積極的に応えようとしていた。
その意味で 14 世紀前半、アヴィニョン司教区内に位置する Saint-Paul-de-Mausole 律修参事
会教会において、教皇ヨハネス 22 世の思想的影響を受けていたと思われる2名の参事会長 Isnard
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de Mauvoisin(1333-43)、Simon de Dragon(1343-46)が行った会計管理システムの改革は興味深
い。
まず参事会が領主権(=上級所有権 directum dominium; droit éminent)を保有している土地
のアンフィテオーズ emphytéose 契約者たちから集中的に「契約確認文書」reconnaissance を提
出させることを通じ、参事会が有する領有地 directe とそのサンス収入額全体のデータベースを作
成した。その上でさらに、信徒から毎年の命日のミサ執行(=記念祷 anniversariorum)を依頼
する目的で遺贈されたサンス収入に関しては、対象となる土地の上級所有権を確保することによ
って、一般の領有地と同様に、その一部分として効率的に管理できるシステムを確立しようとし
た。ただしもたらされた収入は、
「記念祷会計」という独立した収入項目に組み入れ、他と区別す
ることも忘れてはいない。
彼らは、中世末期プロヴァンス地方に特有の経済環境に適合した、合理的とも映る会計管理の
方式を選択することこそが、贈与された富の忘失や目減りを防ぎ、信徒から託された「永遠の」
典礼上の責務の遂行を可能にすると考えていたと思われる。
第4報告(16:30~17:15)
『寓意オウィディウス』の伝承過程における古代異教作品の受容
村山 いくみ(東京大学大学院)
司会:横山 安由美(フェリス女学院大学)
1320 年前後に成立したとされる『寓意オウィディウス』Ovide moralisé は、古代ローマの詩人
オウィディウスによるギリシア・ローマ神話集成『変身物語』全 15 巻をフランス語韻文に翻訳し、
そこにキリスト教的寓意解釈を主とする様々な釈義を付け加えた作品である。本作品は異教の
神々の物語をどのように扱ったのだろうか。本発表では異教作家の受容をめぐる主要な議論を取
り上げたのち、写本間における記述の差とそれらの特徴を指摘しつつ、作品伝承の視点からこの
問題を明らかにしたい。
文字の背後には隠された意味があるとし、それを解き明かす方法として古代から用いられてき
た寓意は、中世を通じて聖書解釈上の 4 つ意味、すなわち歴史的意味、道徳的意味、神秘的意味
に並ぶひとつとして定着した。
『寓意オウィディウス』でも異教物語は原則としてキリスト教的真
実を解き明かそうとするこうした方法によって案内されたが、実際全ての写本が寓意的意味を伴
っているわけではない。
リヨン市立図書館所蔵 747 番写本および 15 世紀の写本を含む Z グループの写本にはキリス
ト教的寓意の削除あるいは改変、さらにその意図を裏付ける文言が認められ、また目次に記され
た作品タイトル等からも分かる通り、脱キリスト教的教養の志向が示されている。他方、一部の
散文版写本の冒頭へ新たに挿入された序文 「セザール師の書簡」には偉大な異教詩人ならびに異
教物語の健全な読みを指南した大バシレイオス、またヒエロニムスといったキリスト教教父らの
例示とともに詩という技術の賞賛が記される。
『寓意オウィディウス』は、キリスト教的教養から
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の脱却と古典回帰への指向、あるいは逆に、異教物語の受容をキリスト教徒の立場から改めて正
当化しようとする、寛容でありながらも保守的な姿勢、これらの態度が混在していた中で常に再
編され伝承されていったのであり、このことは同時に中世からルネンサンスへの連続性をより一
層強調するものであるといえるだろう。
第5報告(17:15~18:00)
トマス・アクィナスの純潔 virginitas 概念
山口 隆介(聖泉大学)
司会:松根 伸治(南山大学)
本報告は、13 世紀の神学者にして哲学者であるトマス・アクィナスの『神学大全』Summa
Theologiae における純潔概念を論じ、中世の純潔概念の一面に光を当てることを試みる。
トマスが『神学大全』で論じているのは肉体の純潔であるが、その際トマスは、純潔が肉体に
存するのは間違いないものの、その本質は純潔を保とうとする精神に存すると説く。そして、こ
の肉体の純潔は観想的生活のためのものであると位置づけている。すなわち、肉体的な欲望によ
って精神が神から逸らされない状態を作るという意味で、純潔は正当なものであると言える。
しかしながら、一方でトマスは、一度性行為を経験したという事実は神でさえも取り消すこと
はできないが、肢体の無傷な状態 integritas membri を、神が奇蹟によって回復することはあり
得ると述べている。すなわち、肢体に「傷のある」状態、および、
「傷のない」状態という概念が
トマスにあり、上述のような、精神中心の純潔観をはみ出す面があることを伺わせる。おとめ virgo
であった聖母にはキリストの出生後も肉体的な変化が生じなかったと主張していることも、その
例の 1 つと言えるだろう。
肉体を巡る言説は、哲学だけでなく歴史、芸術、文学などに広く存在するものであり、本報告
に際しては、13 世紀スコラ哲学における肉体を巡る言説と、文化におけるそれとの関連について
解釈の可能性を探る質疑応答も試みたい。virginitas、integritas、corrumpere などの語あるいは
概 念 が 、 そ し て ま た 、 virginitas hoc importat, quod persona cui inest immunis sit a
concupiscentiae adustione, quae esse videtur in consummatione maximae delectationis
corporalis, qualis est venereorum delectatio という文言が、当時の文化においてどのような意味
で語られ、理解され、どのような連想を呼んでいたのか、分野の枠を超えた共有ができれば幸い
である。
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