地域文化の潮流 特集:ダンスをベースとした地域活性化 公立文化施設の役割の 1 つに、地域の活性化がある。これは芸術文化を通しての地域振興ということである。 公的な立場としての役割ということだけではなく、民間の芸術文化活動にも、地域に根を下ろし、 地域と共存共栄している例も少なくない。 ここではダンス分野、それも舞踏とクラシックバレエの 2 つのケースを紹介する。 その考え方、方法は、公立文化施設の活動にも参考になると思われる。 山梨県白州町・夏・ダンス 國吉和子 Kuniyoshi Kazuko 早稲田大学非常勤講師 「半農半芸を志して始めた農業ですが本質は全農 学びながら農作業を始めてから今日まで、田中泯と 全芸とよんでも良いくらいに切り離せない片割れ同士 そのグループは舞踊作品の公演のほかに、 さまざまな が農と芸であるとますます思い込んでいます」 (田中 活動を行ってきた。なかでも白州を中心として毎年開 みん 催されるフェスティバルの運営は、田中泯と彼を支え 泯「農事通信」1988 年より) ほくと 舞踊家の田中泯が山梨県北巨摩郡 (現・北杜市) 白 る人々が総力を結集した事業となった。 州町に移り住んでから、 今年でちょうど20 年目だ。当初 最初のフェスティバルが企画されたのは、 農場が開設 は八王子の稽古場と東京中野の自主運営アートスペー されてから3 年後の1988 年。以来「アートキャンプ─白 ス プランBでの公演も行いながら、 その合間に海外公 州・夏・フェスティバル」 と称して、 毎年夏の3∼4 日間開 演もこなすという目まぐるしい日々であった。 その最中の 催された。当時は、 「ふるさと創生」が行政側から提唱さ 1985 年、 白州町に身体気象農場を開設、 踊りと農業を れ、 各県、 町の自治体などにより地方文化の活性化が積 両立させるべく頑張っていた頃に記されたものが冒頭の 極的に取り組まれていた時期でもあったが、 白州のプロ 言葉だ。 「芸」 には芸術というよりもむしろ芸能に近い意味 ジェクトはこうした行政サイドのキャンペーンより以前から を感じるが、 田中泯の表現は踊りだ。 しかし、 「踊りと農業」 、 独自に構想されていた。主旨書には「東京から2 時間の というより 「からだと農業」 と言い換えたほうが分かりやす 現役農村〈白州〉の魅力と活力を、 世界的文脈から感じ いだろう。踊りの資本である 「からだ」のルーツをたどる田 取ること。転換期を迎えた日本、 世界の構造変化のなか 中泯独自の方法は、 農業との出会いから始まった。米作 で、 私たちはいかに自然、 環境との共生をはたせるか。自 り、 養鶏、 野菜・果物栽培など有機栽培による農作業を 然の資源、 人間の資源、 あるいは都市人農村人、 どちらか 中心とした生活の中で、 からだと対話しながら表現そのも 一方のためのものでなく、 双方の深い記憶を呼びさまし、 のを捉えなおしてゆく姿勢は、 都会の近代的な劇場に慣 歴史と未来をつなぐ架け橋としての場を起こす」 と記され らされてしまったダンサーのからだを原点にひきもどした。 ている。日本のどこにでもありそうな白州という町を、 地域 からだに対するこうした意識の変化は、 その後の田中泯 活性化の 「普遍的モデル」 とできるかが課題となった。 そ の活動を全く独自なものへと変えてゆくことになった。 して、 民間主導型のアートイベントとして、 内実ともに自由 まいじゅく 1985 年に彼のグループ「舞塾」のメンバーに加え で柔軟な実験精神を推奨するとともに、 一過性の自己満 て、友人の美術家たちと白州町に農場を開き、一から 足的な祭りに終わることなく、 時間をかけて丹念にコミュ 26 芸術情報アートエクスプレス No.21 スダマニによるバリ舞踊ワークショップ 森の舞台にて 田中泯ソロ・ダンス 身体気象農場前にて ニケーションをとりながら表現者と定住者、 お互いが新鮮 国内外の芸能資料の調査、 収集を開始する。 フェスティ な発見につながるようなネットワークの実現に向けてスタ バルは、 活動開始から12年をもって一旦閉幕となる。 ートした。実行委員会 (事務局長:木幡和枝、 現・斎藤朋) 第三期(2001 年∼現在) : 「ダンス白州」 フェスティバ と推進会議 (推進会議代表:下河辺淳) が同時に発足 ル再開の要望に応えて、 ダンスと芸能、 工作を主体と し、 本拠地を白州町に据え、 定住者の人々との丹念な付 した夏のフェスティバルを名称も新たに再開。前年に き合いを通して、 生活に根ざした表現、 地元に根を張った は新たに農事組合法人「桃花村」 を設立、 同時に結成 活動が繰り広げられた。白州の地を媒介として、 アートの した舞踊団桃花村の公演も行う。自主参加を基本と 創造現場とそれを享受する関係に新たな側面を切り拓 し、 スタッフはすべてボランティア、 官民の助成金と支援 こうとする姿勢は、 20 年間一貫しているといえるだろう。以 会員からの協力、 ワークショップ、 観客の参加費等が必 下、 活動の軌跡を三期間にわけてたどってみよう。 要経費に当てられている。 第一期(1988 年∼ 1992 年) : 「白州・夏・フェスティ 創設以来、 フェスティバル期間中に踊り場として水田 バル」 を町内の巨麻神社を中心会場として開催、 美術 や河原、 栗林など自然の景観が利用されてきたが、 木 部会参加作家による野外造形作品が制作、展示され や竹、 土でつくられた手づくりの舞台や神社、 農場、 鶏 る。 この時期に制作された作品は 20 年経った現在も 舎などいたるところがステージとなった。今年は新たに 白州の山野にインスタレーションとなって息づいている。 盛土舞台に岩手県から江刺鹿踊が、 中山舞庭にインド 時間を過ごした作品はさまざまに表情を変え、 年々訪 の舞踊劇クーリヤッタムが登場、 手づくりの森の舞台に れる者たちを迎えている。 また、 フェスティバル開催中、 はバリ・ダンスとガムラン演奏が行われた。折からの愛 各所で行われるパフォーマンスに積極的に作品が利 知万博からの参加とはいえ、 迅速な連繋が成功し、 白 用され、 なかでも原口典之制作の美術作品である通称 州の会場は大盛況だった。 「水の舞台」は、 多くの舞踊家のからだを刺激している。 また、 こうしたフェスティバル開催とそれを支える団員、 第二期 (1993 年∼1999 年) : 「アートキャンプ白州」 と スタッフの地元での生活基盤である住居、 土地、 田畑は 改称し、 地元住民の理解と関心を得て、 レジデント型 (長 すべて地主である地域住民からの貸与だという。田植え 期滞在、 現地制作) の創造活動の拠点づくりを行いなが や稲刈りなど、 農作業に伴う年間の行事には地元住民と ら、 国際共同制作による舞踊作品発表が始まる。 また、 国 の生活レベルでの協力関係をとおして培ってきた信頼関 内ばかりでなく世界各国からも100∼200 名のボランティ 係があって可能なことだ。 スタート当初からフェスティバル アが参加、 毎年継続して参加する若者も増えて、 後進育 を軸に、 地元住民との協力関係を丹念に築いてきた舞 成にも貢献する。1995 年には舞踊資源研究所を白州町 踊家田中泯を中心とする舞踊資源研究所の20 年にわ 花水に設立(3 年後には敷島町・現甲斐市に新たに設 たる活動の軌跡は、 今後、 地域文化活性化と芸術の果 立した同研究所に合併、 同時に本村プロジェクトを開始) 、 たす役割を考えるうえで貴重なデータとなるだろう。 Art Express No.21 27
© Copyright 2024 ExpyDoc