鎌倉33観音全4コース第2回目予定 - 新四国相馬霊場八十八ヶ所を巡る会

鎌倉観音巡り、化粧坂と大仏切通し
JR 横須賀線北鎌倉駅下車、
第三十二番 松岡山東慶寺、御本尊:釈迦如来、臨済宗円覚寺派、拝観料は百円。
創建 : 弘安八年(1285)、開基 : 北条貞時、開山 : 覚山志道尼
札所ご本尊は聖観世音菩薩は松ヶ岡宝蔵に安置されている、ご真言:おん あろりきゃ そわか
像高 134.5cm 寄木造りの立像で、彩色玉眼入り。表面を彩色した土紋の装飾が施されている。
ご詠歌:たのもしやちかひのみちはときはにて そのしるしある松のおかやま
松ヶ岡宝蔵は入館料三百円で開館時間は 9:30~15:30、月曜日休館。
一般に創建は弘安八年とある。弘安七年に北条時宗が没し
た翌年で、開基はその子貞時である。
開山は時宗夫人の覚山志道尼である。覚山尼は幕臣安達義
景の娘であり、時宗の死に臨んで剃髪して尼になり、東慶寺
を開山し亡夫の供養につとめたということらしい。
また、もと源頼朝の伯母であった美濃局が創建した真言宗の
寺を覚山尼が臨済宗に改め開山したという話もあるという。
東慶寺は、歴代名門出身の尼僧が住持となり、北条氏の庇
護を受け格式高い男子禁制の尼寺として栄えた。
鎌倉幕府滅亡後、後醍醐天皇の皇女である用堂尼が第五世の
住持となり、紫衣を賜わり、「松ケ岡御所」と呼ばれるよう
になった。
東慶寺は「駆込寺」・「縁切寺」と俗称され、多くの女性を救済してきたことでも有名である。
当時の離婚は、夫は三下り半で離縁することができたが、妻の方からは縁を切ることができなかった。
開山の覚山尼は、夫に苦しめられ離婚を望む妻には、この寺に逃れ三年間修行すれば離婚が成立するという手
段を作り「縁切寺法の勅許」を得たのである。
当時は、東慶寺の境域に駆け込めば離婚が認められたようで、もし追手に捕らえられそうになったら、下駄や
櫛など身に付けたものを寺域に投げ込めば入山を認められたとされた。離婚だけではなく解釈が拡大され、嫁入
り前に、結婚を望まない女が駆け込むこともあったという。
江戸中期には、離婚手続きが整備され、双方の言い分を聞き、調査をする松ケ岡御所役所が東慶寺内に設置さ
れた。ここで裁決が下されれば離婚が法的に保障されるまでになった。
群馬県太田市の満徳寺も縁切寺であって、江戸時代からの古い寺は全国にも二ヶ寺だけでした。
我孫子柴崎の豪商川村家の駈け込み騒動は、相馬霊場巡る会で紹介しているが、ここ松が岡が背景にある。
第三十一番 金宝山浄智寺、御本尊:三世仏、臨済宗円覚寺派、拝観料:二百円
創建 : 弘安六年(1283)、開基 : 北条宗政及び師時、開山 : 大休正念
札所本尊:聖観世音菩薩、ご真言:おん あろりきゃ そわか
ご詠歌:けふよりぞ こがねのやまに入りにけり きよきさとりの ちえをとりつつ
本尊三世仏:仏殿には、本尊の三世仏が祀られている。
左から阿弥陀・釈迦・弥勒の各如来で、過去・現在・未
来をあらわし、三世の苦すべてを救済してくれる仏様だそ
うだ。取手市米之井の龍禅寺三世堂の三仏と同じです。
15 世紀半ば頃に再興された木造の坐像で、衣の裾を台座
にたらした鎌倉地方に多い様式である。
いずれも神奈川県重要文化財に指定されている。
聖観世音菩薩:仏殿の左後ろの角にお堂のような部屋があ
る。この中に札所本尊の聖観世音菩薩が安置されている。
扁額は読めません。
木造の観世音菩薩像で、南北朝時代の作といわれている。
惣門:小さな浄智寺の惣門が見え、その前後は石段になっている。惣門は高麗門になっており、2 本の本柱の上
に切妻の屋根をのせ、本柱の後ろに控柱を立てて、両柱間に小さな切妻屋根を付けた形状の門である。
惣門の手前には小さな石の反橋があり、橋の下は小さな池となっている。池に面して、鎌倉十井の一つ「甘露
ノ井」がある。周りは石を組み合わせ、蓋がされている。
創建は弘安六年(1283)で、開基は北条宗政及び師時とされている。
宗政は時頼の子で、時宗の弟である。師時は宗政の子で第十代執権でした。
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宗政は弘安四年(1281)
、29 歳で世を去りました。宗政夫人は、親族の援助を受け、夫宗政、子の師時を開基
とし浄智寺を開創したと伝えられる。
開山に南州宏海を迎えようとしたが、宏海が大任であると辞退し、宏海の師である宋憎の大休正念(佛源禅師)
を迎えた。創建当初は、山門、惣門、方丈、書院、法堂、僧堂、鐘楼などが整う大伽藍をもつ寺でした。
永享の乱(1438)以降、浄智寺も他の寺院同様、衰退の途をたどり、江戸後期には、惣門、仏殿、方丈、鐘楼と
塔頭八院を有していたが、かなり荒廃していたようである。明治初期の廃仏毀釈によって、浄智寺も大きな影響
を受け、更には関東大震災で壊滅状態に陥りました。
現在では、惣門、鐘楼門、仏殿、方丈、客殿などの小規模な伽藍となっています。
亀ヶ谷坂切通し
「亀もひっくり返るほどの急坂であったから」というのが一般
的に伝えられている名の由来。
亀ヶ谷坂は、扇ヶ谷の岩船地蔵堂から山ノ内の長壽寺を結ぶ古
道。鎌倉七口の一つです。
仮粧坂とともに武蔵方面に通じる重要な出入口。現在でも扇ヶ
谷と山ノ内を結ぶ往環路として利用されています。
かつては、鉱泉が湧き出ていて建長寺の僧の保養所(延寿堂)
があったそうです。
川端康成の『千羽鶴』は香風園(この辺りにあった温泉旅館)で
書かれたといわている。
第二十五番 泉谷山(せんごくさん) 浄光明寺(じょうこうみょうじ)、御本尊:阿弥陀三尊、真言宗泉涌寺派
創建 : 建長三年(1251)、開基 : 北条長時、開山 : 真阿上人、阿弥陀堂木土日好天時のみ
札所本尊:千手観世音菩薩、ご真言:おん ばざら たらま きりく
ご詠歌:ありがたや いづみがやつの きよみづに こころのあかを あらふもろ人
頼朝が発願し、文覚上人の開山といわれ当初は浄土宗の寺でし
た。その後の建長三年(1251)六代執権北条長時が中興し、真阿上
人を開山とした。浄光明寺の寺域が泉ガ谷の山に囲まれていると
ころから、泉谷山の山号が付けられたのではないか。
不動堂脇の奥の石段をのぼると、本堂である阿弥陀堂がある。
阿弥陀堂は茅葺きの堂々とした建物で、現在は無いが二階堂の
永福寺に頼朝が中尊寺を模して建立したものをここに移したと
いわれている。
阿弥陀堂の隣にある収蔵庫には、本尊の阿弥陀如来像と脇侍の
観音菩薩像・勢至菩像、の三尊像が安置されている。
三像とも国重文に指定されており、檜の寄木造の鎌倉末期のもので鎌倉時代の仏像の特徴である目は玉眼。
また、阿弥陀如来像の法衣には土紋装飾されているが、これも鎌倉時代の代表作であるといえるそうだ。
阿弥陀三尊像は収蔵庫で雨天でなければ、木、土日に拝観料二百円で解説付きで見る事ができる。
阿弥陀堂裏の段の付いた狭い路を登っていくと、裏山の中腹に出る。
網引地蔵:裏山のやぐらに、網引地蔵
が祀られている。85cm の坐像で正和
二年(1313)の銘がある。
網引の名は、由比ヶ浜で漁をしてい
た漁師の網にかかったのでそう呼ばれ
ているらしい。
冷泉為相(藤原定家の孫)の墓
鎌倉時代中期から後期にかけての公
卿、歌人。冷泉家の祖。
為相は度々鎌倉へ下って歌壇を指導
し、
「藤ヶ谷式目」を作るなどして鎌倉
連歌の発展に貢献した。
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第二十六番 扇谷山海蔵寺(せんこくさん かいぞうじ)、
御本尊:阿弥陀如来、臨済宗建長寺派。十六ノ井は百円。
再建 : 応永元年(1394)、開基 : 上杉憲定、開山 : 源翁禅師
札所本尊:十一面観世音菩薩、ご真言:おん まか きゃろにきゃ そわか
ご詠歌:ふだらくの ちかひもひろき うめがやつ いろかおもなし のりのすがたぞ
海蔵寺には「十六ノ井」と呼ばれる不思議な井戸がある。
境内の志納箱に拝観料百円を納め、薬師堂横の狭い小路を通り、境内の外へ出て、
民家がある山道を進むと右側の山肌に大きなやぐらが現れる。
その中に四つずつ四列に並んだ十六の穴が掘られいる。
穴の直径は約 70cm、深さ約 40~50cm あり、澄んだ清水をたたえている。
懐中電灯が備えてあるのでそれでよく見るとよい。
底脱ノ井(そこぬけのい)
この寺域は水に恵まれており、山門脇の墓地へ通ずる道の右際に、鎌倉十井の一
つである「底脱ノ井」がある。
金沢顕時の室で、のち尼となった無著禅尼がこの井で水を汲んだところ、桶の底
がぬけた。
尼は、「千代能が いただく桶の 底脱けて 水たまらねば 月もやどらじ」
と詠んだことから、
「底脱ノ井」と名づけられたと伝えられている。
横須賀線のガード先の緩やかなのぼり坂になった閑静な住宅地を進むと、つきあたりに緑に囲まれた海蔵寺の
山門が見えてくる。三方山に囲まれた静寂の中に建っている。四季折々の花が咲くことで女性の参拝客が多い。
特に紅葉の時期は、海蔵寺に向かう道沿いの民家から道路に延びたかえでによる紅のトンネルが印象的である。
初秋の萩の花の時期も、山門前の石段両側からは、萩が覆いかぶさり石段を隠すようだ。
海蔵寺は応永元年(1394)
、足利氏満の命により上杉氏定が開
基となって創建されたと伝えられる。
境内正面にある本堂は龍護殿と称し、銅板葺きで大きな向拝
が付けられ、海蔵寺と書かれた扁額が掲げられている。
堂内は禅宗寺院らしく質素で、広々とした畳敷きの間である。
大正 12 年(1923)の震災で崩壊したが、翌々年に再建された。
山門は応仁二年(1468)に建立されたもので、美しい佇まいを
まじかに感じる。参道は石畳になっており、その先に三段の石
段があり、一段高い位置に本堂・仏殿・鐘楼・庫裏が建ち並ぶ。
本堂の裏には自然を借景にした美しい庭園があり、その左手の
崖にはやぐらが見られる。
薬師堂:境内左側に建つ三間四面、瓦葺寄棟造りの仏殿は薬師堂である。安永五年(1776)
、浄智寺より移築した
ものといわれている。正面中央は、桟唐戸両開きで、その両側には花頭窓がつけられている。
薬師如来を中心に、脇侍に日光・月光菩薩を配したいわゆる薬師三尊像が安置されている。
化粧坂切通、(けわいざかきりとおし)
「化粧」を「ケショウ」と読むとそれは現在の意味の通りに「白粉で
お化粧」の意味であるが、古くは「ケワイ」とも読み、その場合は「身
だしなみを整える」と言う意味に使われる。
その意味からは「都市」=「ハレの場」に入る境で「身だしなみを整
える」と言う意味で「ケワイ(化粧)坂」
、つまりは「鎌倉中」への
境界である坂との意味と考えるのが自然であると言う説がある。
「中世都市鎌倉の実像と境界」より
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名の由来:
「平家の大将の首を化粧し首実験したから」
「この辺に遊女がいたから」
「険しい坂が変じた」
「坂の上
で商取引が盛んで、気和飛坂」「木が多いので、木生え坂」などの説があります。
鎌倉滅亡の2年前、元弘の乱(1331)の年に捕らえられた日野俊基がこの坂上で首を切られ、明治時代になって
日野俊基を祭る葛原岡(くずはら)神社が建てられている。また現在は日野俊基の墓が建てられている。
現在は鎌倉の内側(鎌倉中)への下り坂が「仮粧坂」として史跡に指定されているが、道の痕跡はいくつもあ
り、鎌倉時代にどのルートであったのかは必ずしも明らかではない。
源氏山 → 大仏ハイキングコース → 佐助稲荷神社
「極楽寺へ」の看板を見落とさない様に! → 極楽寺。
→
浅間神社上
→
大仏道、大仏切通し
→
大仏切通し
大仏切通は、鎌倉から藤沢方面に通ずる切通。鎌倉七口の一つで、
当時の面影をよく残している。ここから源氏山を経て北鎌倉の浄
智寺までは、ハイキングコースとなっている。
『太平記』によると、元弘3年(1333)、鎌倉を攻める新田義貞は、
軍勢を巨福呂坂、仮粧坂、極楽寺坂切通の三手に分けて攻めた。
その際、義貞は洲崎を経る中央軍の指揮をとった。洲崎の戦い
は、大仏切通を目前にしての激戦だったと伝えられている。
大仏切通がいつ頃開かれたのかは定かではないが、朝夷奈切通
や巨福呂坂が開かれた仁治元年(1240)から建長2年(1250)頃で
はないかと考えられている。
第二十二番、霊鷲山(りょうじゅさん)感応院極楽律寺
御本尊:木造釈迦如来立像(国指定重要文化財、清涼寺式釈迦如来)
真言律宗西大寺派
札所本尊:如意輪観世音菩薩
ご真言:おん はだま しんたまに じばら うん
ご詠歌:みのりとく わしのみやまを まのあたり 弥陀のみくにに 入るこことして
開山の忍性は悩める貧しい人々を救済するために、施薬院・悲
田院・施益院・福田院を設け福祉事業に取り組み、「医王如来」
と崇められた。境内には、忍性が粥を施したとする「極楽寺ノ井」
や「千服茶臼」
、
「製薬鉢」が残されている。長谷寺と高徳院(鎌
倉大仏)の中間に設置した桑ヶ谷療養所では、多くの者の治療が
行われた。土木事業にも力を注ぎ、鎌倉七口の一つ「極楽寺切通」
も忍性が開いたとされる。
忍性の墓と北条重時の墓
背後の山の中腹にある五輪塔が忍性の墓。傍らには北条重時
(北条義時の三男)の墓と伝わる宝篋印塔もある。
◎木造釈迦如来坐像(※):全国でも珍しい転法輪の印を結ぶ像。建長4年(1252)、善慶によって彫られたものと
いわれている。転法輪殿に安置。
◎木造十大弟子立像十躯(※)
:本尊脇侍の十大弟子像は、胎内墨書によって文永5年(1268)に忍性を願主として
造立されたことが確認されている。
鎌倉様式の特色を表した群像で、十大弟子像の最後を飾る貴重な一群。転法輪殿に安置。
◎木造不動明王坐像(※):もとは島根県の勝蓮寺にあった像で、大正5年に極楽寺に移された。
平安時代の作。本堂(吉祥院)に安置。
◎木造文殊菩薩坐像(市文)
:鎌倉時代の像で、右手に剣、左手に経巻を持っている。
忍性は文殊菩薩を崇め各地で「文殊会」を行ったという。
「文殊会」とは、貧困孤独の人々を集め戒を与え食を供する法会のこと。
文殊菩薩は貧困の人に化してこの世に現れるといわれている。
◎その他:金銅密教法具、銅骨蔵器、金銅五輪塔、銅骨蔵器、褐釉小壺、黄釉小壺金銅密教法具、金銅骨臓器、
銅骨臓器(国重文)、木造忍性菩薩坐像(市文)など。
◎転法輪殿(収蔵庫):本尊「清涼寺式釈迦如来立像」の他、釈迦如来坐像、十大弟子像、釈迦如来坐像などが
納められ、季節によって拝観することができる。
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極楽寺切通し
『海道記』は、稲村路の様子を、「険しい岩が重なり横たわる狭
い間を伝わり進むと、岩に当たって打ち上げる波が花のように散
りかかる」と記している。
後に、その不便さを解消するため、極楽寺の開山忍性が切り開
いたとされる。現在の極楽寺切通は、その旧状を留めていないが、
かつては、成就院の山門前を寺とほぼ同じ高さで通っていたとい
う。
「極楽寺切通」は、鎌倉から七里ヶ浜、腰越、片瀬を抜けて東
海道へと通じ、京都への出発点となっていた。
虚空蔵堂の下にある「星ノ井」は、別名「星月ノ井」又は「星
月夜ノ井」と呼ばれ、鎌倉十井の一つ。
第二十一番、普明山 法立寺 成就院
御本尊:不動明王、大日如来像、真言宗大覚寺派
札所本尊:聖観世音菩薩、ご真言:おん あろりきゃ そわか
ご詠歌:なにごとも こころのままに 成就院 ほとけのちかひ たのもしきかな
成就院では、由比ヶ浜が見渡せる参道の両側に紫陽花が
植えられています。北鎌倉の明月院と並ぶ紫陽花の名所で
す。最寄り駅の江ノ電極楽寺駅では、アジサイの季節限定
の入場券が販売されます。
植えられている紫陽花の株は、
「般若心経」の文字数と
同じ 262 株。紫陽花が植えられている参道の石段は、煩
悩の数と同じ 108 段ということです。
縁結び不動明王:成就院の本尊は「縁結び不動明王」
。
男女の縁のみならず仕事の縁や人間関係の縁にもご利
益があるそうです。本堂前に置かれている本尊御分身は、
今、鎌倉で人気のパワースポットになっています。
石段をのぼり切ると、山門である。成就院は真言宗の寺である。昔、弘法大師空海が成就院の裏山で護摩供養
をされたといわれている。
承久3年(1221)、三代執権の北条泰時は、この地が霊地であることを知り、堂宇を設け、開山を弘法大師とし、
成就院を創建した。
元弘3年(1333)
、新田義貞の極楽寺坂切通しでの戦いで堂宇は焼失してしまった。成就院は西ケ谷に移された
が、その後の元禄年間(1688~1703)に、祐尊がこの地に堂宇を再興し、現在に至っている。
参道を坂ノ下側に下った先に成就院所有の境外仏堂である「虚空蔵堂」がある。
極楽とんぼ
【チーズハンバーグステーキ】
¥1580 ライス付き。
黒毛和牛 200g で作った
”鎌倉ハンバーグ”¥1380 に
チーズをのせたもの。
メニューはシンプル(^o^)
八幡宮から岐れ路方面に行くとある
鎌倉ハンバーグ雪ノ茶屋は姉妹店
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北鎌倉駅から銭洗弁天
成就院前極楽寺坂下る先の信号機がある交差点角
力餅屋の権五郎力餅、
一つから買えます。持帰りのみ。
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佐助稲荷神社から大仏ハイキングコースに入ります。大仏切通しと一部重複する。
極楽寺と成就院前の通りが極楽寺切通しで、今回の鎌倉観音巡りは打止とします。
鎌倉観音巡り参加申込書
お名前
2015/04
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湘南しらすが旨い勘浜丸直営店
しらすや本店、営業時間 11~17 時 木曜日定休
住所 鎌倉市腰越2-10-26 (駐車場二軒隣5台利用可)下向き矢印の地点。
湘南腰越でしらす漁している勘浜丸直営店なの
で、その日朝獲れたしらす・地魚をつかい獲れた
て新鮮なものを、丼物で提供しています。(しらす
漁次第ですが生しらすが無いときがあります。禁
漁期間は1月1日~3月10日でその期間は生し
らすは御座いません)
tel&fax 0467-31-5333
極楽寺から江の島方面乗車4つ目「腰越」下車
100m
「秋元」
小町通りアイザ鎌倉 3F「秋本」昼食時以降混む。
鎌倉駅側から小町通りに入ってすぐの左側ビル内
しらす丼¥1260.0467-25-3705、15 時から 16 時は閉店。
稲村ケ崎食堂
〒248-0024 神奈川県鎌倉市稲村ケ崎 1-15-9
TEL:0467-22-9920
アクセス:江ノ島電鉄「稲村ケ崎駅」より海
に向かって徒歩 3 分
営業時間:稲村ヶ崎食堂 12:00 頃~15:00
LO、食堂&Bar 日没頃~22:00 LO
定休日:火・水曜(冬季変更あり)駐車場:専
用駐車場なし。
TVでよく紹介されているお店です。
大勢で行くようなお店ではありません。
海に面したテーブルで景色は抜群です。
稲村ケ崎はデートコース。
釜揚げしらす丼・本日のお刺身・小鉢・お漬
け物・汁物) ¥1480 はボリューム満点。
しらす屋は、
江の島へ渡れば沢山あります。
以上、しらすシリーズ。
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