湖水地方の自然保護におけるワーズワスの先駆者

湖水地方の自然保護におけるワーズワスの先駆者
小 田 友 弥
(山形大学 名誉教授)
山形大学紀要(人文科学)第18巻第2号別刷
平成 27 年(2015)2月
湖水地方の自然保護におけるワーズワスの先駆者
湖水地方の自然保護におけるワーズワスの先駆者
小 田 友 弥
(山形大学 名誉教授)
はじめに
自然詩人ウィリアム・ワーズワス (William Wordsworth, 1770-1850) と自然の関わりは、近
年の英文学研究の主要なテーマの一つであった。1980年代のワーズワス研究を席巻したのは
マガン (Jerome McGann)、レビンソン (Marjorie Levinson)、リウ (Alan Liu) などの新歴史主
義であった。彼らは「ティンターン修道院」などのワーズワスの偉大な作品を、彼がフラン
ス革命に共鳴していた1790年代前半の考えを起点にし、同時代の政治・経済情勢と併置しな
がら解釈する。そしてこれらの作品で自然が前面に出て革命意識が希薄になる点などから、
ワーズワスの自然を、革命の大義を捨てた自己を隠蔽する手段と捉えた。こうしてワーズワ
スの自然は無も同然に扱われたのであった。
ジョナサン・ベイト (Jonathan Bate) は『ロマン派のエコロジー』(1991) において、ワーズ
ワスの詩をエコロジカルに読むことにより、新歴史主義の解釈を覆そうとした。彼はワーズ
ワスの自然に対する意識がビクトリア朝においてラスキン (John Ruskin, 1819-1900) などによ
り受け継がれ、ナショナル・トラストの支柱となった点を重視する。そしてワーズワスの自
然こそが、産業革命を経たイギリスの資本主義社会を生きるのに必要なものであったと主張
した。『ロマン派のエコロジー』はワーズワスの自然の解釈に多様化をもたらし、イギリス・
ロマン派研究にエコクリティシズムの流れを作るのに多大の貢献をした。しかしながら近年
出版されたヘス (Scott Hess) の書から窺われるように、ベイトによるワーズワスの自然解釈
にも疑問点が多く、今後の研究を待つ部分が少なくない。
本稿はワーズワスと自然の関わりを究明することを目指すものではなく、この問題を巡る
論争の暗黙の前提となっている点について再検討するものである。1895年に発足したナショ
ナル・トラストは、実質的にイギリスで最初の自然保護組織であった。この団体の成立には、
湖水地方でなされてきた自然保護活動の影響が強く見られる。そして、湖水地方の自然保護
にはウィリアム・ワーズワスの考えが深く関わっていた。こうした経緯から、湖水地方の自
然保護はワーズワスを起点にしている、といった見方が広く流布している。例えばジョン・
ゲイズ (John Gaze) は、ナショナル・トラストの歴史を扱った著書において、ワーズワスを
トラストの「守護聖人」と呼び、トラストの起源を詩人が誕生した1770年に設定している (Gaze
9)。しかしゲイズの書には18世紀の湖水地方でどのような保護活動がなされ、ワーズワスが
それにどのように関与したかの記述がないので、説得力がない。本論はこうした現状にかん
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がみ、18世紀から19世紀に出版された旅行記・旅行案内等の湖水地方関連図書を精査し、湖
水地方の自然保護活動においてワーズワスが果たした実際の役割を把握することを目的とし
ている。
Ⅰ
1770年に生を受けて以来、80年の生涯の大部分を湖水地方で過ごしたワーズワスは、この地
方の自然破壊を目撃し、詩や散文、書簡においてその実態に言及している。そうしたものの
中で、最も彼の関心を惹いた問題は1) 外来者による景観の改変、2) 樹木の伐採と植林、3) 鉄
道の導入であったと思われる。これらのうち、1) と2) についての彼の考えが最も明確で包括
的、かつ系統的に述べられているのは『湖水地方案内』(Guide to the Lakes, 1835) で、3) に
ついては『ケンダル―ウィンダミア間鉄道に関する二通の書簡』(Kendal and Windermere
Railways: Two Letters, 1844) である。そしてスティーブン・ギル (Stephen Gill) が言っている
ように、これらの出版物は、後代の湖水地方の保護思想家の論点等に詩作品以上に大きな影
響を与えているので (Gill 247)、この章ではこれらの出版物から、ワーズワスの湖水地方の自
然保護に関する発言の概要をまとめておく。
1804年 ま で ス キ ド ー 山 麓 で 暮 ら し て い た ジ ョ ゼ フ・ ウ ィ ル キ ン ソ ン 師 (Rev. Joseph
Wilkinson, 1764-1831) は自分が描いた湖水地方の風景を版画にして『選り抜きの光景』とい
う書名で出版することを思い立ち、ワーズワスに説明文の執筆を依頼した。『選り抜きの光
景』(1810) でワーズワスが担当した部分は『湖水地方案内』の初版となるもので、以後1820
年に第2版、1822年に第3版、1823年に第4版が出た。そして最終版となる第5版は1835年
に出版されている。以下では、第5版の筆者による翻訳(法政大学出版局、2010)をテキス
トとして、適宜他の版の内容にも触れながら、『湖水地方案内』における1) と2) の扱いにつ
いて論じていく。『湖水地方案内』からの引用などの後に付記する数字は、この翻訳のペー
ジ数である。
『湖水地方案内』の中心となっているのは3部構成の「湖水地方の景色について」である。
第一部でワーズワスは、この地方が自然により与えられた地形的特色、第二部では住民の営
みにより、自然景観がどのように変容してきたかについて述べている。湖水地方では1770年
頃を境に、これまでとは異質の変化が見られるようになった。それが「変化とその悪影響を
防ぐための趣味の規則」と題された第三部で扱われている。ワーズワスによれば、この時期
にイングランドでは装飾的庭園造営と自然景観愛好熱が起こり、人々は抜群の景観を求めて
津々浦々まで旅行するようになった。湖水地方は風光明媚な地として評判を呼び、全国から
旅行者を惹きつけることになった (75)。こうして訪れた旅行者には、この地方の美しさに魅
惑され定住するものも出てきた。そこから1) の問題が生じるようになった。
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こうした定住者が邸宅を建て敷地を整備して景観改造をする際、彼らが依拠した原則は、
昔ながらの住民のものとは異なっていた。彼らは湖水地方の景色が広く称賛を集めているの
で、この地の建築物は「良きにつけ悪しきにつけ人々の注目と論評を呼んでしかるべきだ」(79)
と考え、自然さを抑圧する衒いの道を進んだのである。そうした悪しき例の代表はウィンダ
ミア湖とダーウェント湖に見られる。ワーズワスによる告発を理解しやすくするために、二
つの湖での景観改造の概要を説明しておきたい。
ウィンダミアで問題となるのは、この湖最大の島ベル・アイルにおけるトマス・イング
リッシュ (Thomas English, 生没年不明 ) による改造であった。彼は1774年から、6,000ポンド
もかけて、フランス式庭園を造営したり、この場にそぐわない邸宅を構え塀で囲うなどの、
この島の大掛かりな景観改造に着手した。ジョン・プロー (John Plaw, c.1745-1820) がデザイ
ンした円形の建物は、ヘンリー・ホァ (Henry Hoare, 1705-85) によるスタウアヘッド庭園の
建築を模したものであったが、この建築自体がクロード・ロラン (Claude Lorrain, 1600-82)
の有名な絵画「アイネーイスのいるデロスの海岸風景」の建物の模倣であり、ピクチャレス
ク趣味、南欧趣味を漂わせるものであった。イングリッシュはこのように、大規模にベル・
アイルの改造を続けたがやがて資金繰りに行きづまり、1781年にこの島をワーキントンの名
家の跡取り娘イザベラ・カーウィン (Isabella Curwen) に1,640ポンドで売り渡すことになっ
た。彼女と結婚し、カーライル選出の国会議員となるジョン・クリスチャン・カーウィン
(John Christian Curwen, 1756-1828) は、イングリッシュの改造に適宜変更を加え、島を本来
の姿に戻そうとしたのであった。 その結果か、1801年に湖水地方を旅行したウォーナー
(Richard Warner, 1763-1857) が、 こ の 島 の 価 値 を20,000ポ ン ド と 評 価 す る ま で に な っ た
(Warner 2: 114-15)。
『湖水地方案内』でワーズワスは、ベル・アイルの変化について多くは語っていない。だ
が島の岸辺を人工の土手で囲ったことに対して「その結果、微細な美に彩られ無限なまでに
多様であった光景は破壊され、人工的外観が全体を覆い尽くした」(77) と批判し、岸辺を再
び自然なものに戻すことを強く願っている。彼のこの願望は1810年の初版から見られるもの
である。なお、
『ケンダル―ウィンダミア間鉄道に関する二通の書簡』においてワーズワスは、
ベル・アイルでの邸宅や庭園を囲む塀の建設を、趣味の未熟さの例としてあげている (13134)。本論は『二通の書簡』のテキストとしてオックスフォード大学出版局から発刊されて
いる『ワーズワス散文集』の第3巻に収録されたものを使用している。引用や言及などの末
尾の数字は、このテキストに付けられている行数である。
ダーウェント湖で改造を行った代表的人物はニューアーク・オン・タインの銀行家ジョゼ
フ・ポックリントン (Joseph Pocklington, 1736-1817) であった。彼は1778年にダーウェント湖
の牧師島 (Vicar’s Island, ダーウェント島とも言う。後にポックリントン島と呼ぶようになる )
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を購入すると島の木々を切り倒し、邸宅を始めとして教会等の種々の建物を建てた。また、
島を要塞化したり模造環状列石を作ったりした (Housman 268に彼が施した改造が記述され
ている )。さらに湖の東岸にも土地を求め、バロウの滝近くにカスケード・ハウスを建てた
りして、周囲の景観にかなりの変化をもたらした。彼は1781年から実施されたダーウェント
湖のレガッタの中心となって活躍し、ケジックの観光地化にも尽力した。しかし1797年には
牧師島をウィリアム・ピーチー (William Peachy) に売り渡し、次第に湖水地方を離れていく
ことになった。ピーチーはポックリントンが島に施した奇抜な建築物等を取り除こうと努め
た。
『湖水地方案内』でワーズワスは、ポックリントンによる牧師島の改造を、以下のような
点に触れながら強く批判している。昔からの建物や樹木を一掃してしまった。高台に四面む
き出しの住宅を建てた。住宅から離れたところにモミの木を隊列を組んだ軍隊さながらに植
樹した。環状列石、教会堂、桟橋、要塞など必然性のないものを築いた (76-7)。ポックリン
トンのこうした改造を取り除いたピーチーの試みに、ワーズワスは賛意を示している (77)。
以上のようなベル・アイルと牧師島の改造に対するワーズワスの批判は、1820年に出版さ
れた『湖水地方案内』の第2版から見られる。
次に2) について述べていきたい。ワーズワスは『湖水地方案内』の「湖水地方の景色につ
いて」の第二部で、この地方に進出した人間が森林を開拓し農地や居住地にしたので、森林
が減少し続けたと推測している (66)。そして、湖水地方では木材加工品や製鉄用の燃料にす
るために、16年周期に雑木林を伐採することが彼の時代にも行われていたので、この地方で
はラウザー城やライダル・パークなど極一部にしか森林と呼ぶにふさわしい樹木帯は存在し
ない状態であった。これは彼にとって不本意なことで改善の提案もしているが (96)、ある程
度やむを得ないものと認識していたとも思われる。彼が容認できない森林破壊は植林に関す
る二つのことであった。一つは外来者がこの地本来のものでない樹木等を持ち込むことであ
る (89-90)。それにより、外来種とこの地方に自生する植物とのあいだに顕著な差異が生じて
いた。他はカラマツやモミを経済的、あるいは好みから大量に植林することである。ワーズ
ワスが特に嫌ったのはカラマツの植林で、「旅行者への提案と情報」の章で、ウィンダミア
湖の「渡船場近くの眺望点にある別邸からの眺めは、カラマツの植林により大いに損なわれ
た」(5) と言っている。そして「湖水地方の景色について」の第三部ではかなりのページを
割いてカラマツ批判を展開している (88-94)。彼の「もしカラマツと灌木や森林の別の木々を
溶け合わせようとしても、度量が狭いこの木は水平に広がる枝で、まるで大鎌を振るうよう
にして他の木々を切り倒したり、自分と歩調を合わせてひょろひょろと伸びるように迫る」
という描写は、この木が自生植物と溶け合わない点を指摘したものである。
なお、『湖水地方案内』でワーズワスは、風景を損なう植林として二つの事例に言及して
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いる。一つは聖ハーバート島のものである。ここでは自然林を伐採して植林したアカマツが、
風の力をものともしないような密集した方陣を敷いていると苦情を言っている (76)。二つ目
はアルズウォーター湖尻に位置するダンマリットの丘でのモミの直線的な植林で、これは自
然林にはない奇妙な光景を呈していた (79)。
ワーズワスが湖水地方の自然への脅威としてあげる三つ目のものは、鉄道の導入である。
イギリスではリバプール―マンチェスター間鉄道建設を皮切りとして第一次鉄道建設ブーム
が起こり、主要都市間が鉄道で結ばれた。1840年代には幹線に接続する支線の建設が盛んに
行われた(湯沢、小池他10)。湖水地方では1844年に、ランカスターからカーライルを経て
グラスゴーに伸びる幹線に、ケンダル経由でロウ・ウッドを終点とする支線を接続させる計
画が公になった。その後この計画は縮小され、終点がウィンダミアとなったが、ワーズワス
はこの計画に強く反対し、この年の10月にその気持ちを表明したソネット「ケンダルとウィ
ンダミアを結ぶ鉄道計画に寄せて」を『モーニング・ポスト』紙に発表した。そして反対の
理由などを詳しく綴った書簡を12月11日と12月20日の『モーニング・ポスト』に掲載した。
これらの文書はかなりの反響を呼んだので、それに配慮した修正も加えながら、全体を一つ
にまとめて『ケンダル―ウィンダミア間鉄道に関する二通の書簡』というパンフレットとし
て、翌年の2月に刊行している。
私は『二通の書簡』においてワーズワスが主張する鉄道反対の理由は、次の4点に集約で
きると思う。
①湖水地方の自然を享受するには心の準備が必要である。
ケンダル―ウィンダミア間鉄道の計画者たちは、労働者などの貧しい人々を容易にこの地方
の自然美に接することができるようにすることを、鉄道敷設の目的に掲げている (73-6)。そ
して計画への反対者を、貧困者の権利を奪うものとして攻撃する。それに対してワーズワス
はまず、湖水地方へのアクセス方法は、現在でも十分整備されていることを指摘する (81-2)。
次に、湖水地方が持つような自然美は誰もが簡単に享受できるものではないこと、享受する
には、この地方を訪れるに先立ち精神的素養を育んでおく必要であることを、17世紀後半以
降の自然美への趣味の勃興を歴史的に辿ることで証明しようとする (89-200)。イングリッシュ
やポックリントンの改造は、この趣味の本質を理解しない悪しき例として扱われている
(127-40)。従って、湖水地方を多くの人々が訪れる手段をこうじても、彼らが見方の訓練を
受けていなければ、無意味なのである。
②湖水地方を湖水地方たらしめているのは自然美と都会からの隔絶感である。
ワーズワスは、鉄道の役割を軽視しているわけではなく、主要都市間の鉄道敷設などに反対
するものではないと言う (578-79)。それは多くの乗客と多量の物資を運ぶからである。だが
湖水地方では製造業も人口もわずかなうえ有望な鉱山もないので、鉄道敷設の恩恵が乏しい
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(61-9)。また自然美と都会の喧騒からの隔絶感は湖水地方の最も大切なものだが (70-71)、そ
れが鉄道により失われてしまう。さらに隔絶感を必要としない人々の鉄道利用を促進するた
めに、湖水地方の歓楽地化が図られる (279-90) ので、この地方本来の姿が損なわれる。
③鉄道により住民は大切なものを失う。
先述のように、ワーズワスは鉄道建設計画に反対の気持ちを綴ったソネットを、1844年10月
に発表している。そこで彼は、似非功利主義に惑わされず湖水地方に隠棲する夢を実現した
人や昔ながらの住民は、鉄道開通によりこれまでの生活を捨てなければならないのか、と嘆
いている。『二通の書簡』457行以下でワーズワスは、このソネットでうたった論点に立ち返っ
ている。この地方では自作農の昔ながらの土地に、別荘が混在している。こうした所有地は
小規模で隣接しているので、たとえ鉄道が所有地内を通らなくても大いに迷惑を被ることに
なる (467-72)。そして別荘に暮らすジェントリー階級は、この地の貧困層を物心両面で援助
してきた。もし彼らが鉄道のために湖水地方を離れることを余儀なくされれば、代わりにやっ
てくるのは金儲け以外には関心がない輩で、彼らは自宅と湖水地方を往復するのみで、慈善
に配慮などしない (474-90)。これは地域の貧しい住民にとって大きな痛手となるであろう。
④鉄道は良き人間社会にとって大切なものを蹂躙する。
鉄道の計画者は、貧困者の生活に潤いを与えるために計画を推進するようなことを言うが、
実際は功利主義の名のもとに金儲けの下心を隠蔽しているだけである。ワーズワスはこの似
非功利主義が、人間にとって聖なるものである「自然の神殿」(506) をいかに破壊している
かをアルプスのシンプロン峠やウェールズの開発を例に説明する。そして人為 (art) が自然
を征服するところでは利便性は向上しても、失われるものの大きさを嘆かずにはいられなく
なることを示す。『二通の書簡』の根幹は、このような似非功利主義から「道徳心と気高い
知的喜び」(494-95) を守ることにあったのだ。
Ⅱ
第Ⅰ章で述べたように、イギリスでは18世紀後半からピクチャレスク趣味が流行し、産業革
命等の恩恵で金と余暇を手にした人々がこの趣味に叶う景観を求めて各地を旅行した。湖水
地方はワイ河畔やスコットランド高地地方などとともにそうした場所として人気を博し、多
くの旅行者を惹きつけることになった。彼らのなかには敷地を求めて湖水地方に定住するも
のがあった。新天地での彼らの営みには、旅行記・旅行案内などの著者たちの関心を惹くも
のが幾つかあった。代表的なのがイングリッシュとポックリントンの試みである。この章で
は、彼らが景観に施した改造が、旅行書でどのように論評されているかを見ていきたい。
最初にベル・アイルについてであるが、1772年に湖水地方を旅行したウィリアム・ギルピ
ン (William Gilpin, 1724-1804) は『湖水地方のピクチャレスク美の観察記』(1786) で、この島
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ついて「ここほど人生の喧騒や妨害を免れていて隠棲を快いものにしてくれる多様な環境に
恵まれているところはない」(Observations on Cumberland and Westmoreland 1:135) と隠棲
願 望 を 漏 ら し つ つ こ の 島 を 称 え て い る。 ま た、 同じく1772年に訪れたトマス・ペナント
(Thomas Pennant, 1726-98) は、この島の美しさが保たれているのは島の所有者が次々と変わ
るからだという特異な見方を披瀝している (Pennant 34. 所有者の変化については Nicolson
and Burn 1: 185参照 )。ところが1774年にイングリッシュが島を購入し大改造に乗り出した
ことにより、状況は一変したのであった。
彼の改造に最初に言及したのは、1774年に湖水地方を旅行したウィリアム・ハッチンソン
(William Hutchinson, 1732-1801) であった。イングリッシュによる整然としたモミの植林、整
形式庭園や円形の住居の建設を目撃した彼は、美しい自然景観内に建物や庭を造る際には、
想像力と判断力を最大限に発揮しなければならないと述べ、この改造が自然と調和していな
いことを指摘している (Hutchinson 187-88)。またトマス・ウェスト (Thomas West, c.1720-79)
も初版が1778年に出た『湖水地方旅行案内』において、木を切り、周囲となじまない整形式
庭園を造ったことを批判している (West 59-60)。ギルピンは1786年に湖水地方の観察記を出
版する際にイングリッシュの改造について耳にし、イングリッシュは「やらないで欲しいと
願うあらゆることを実行した」(Observations on Cumberland and Westmoreland 1:139n) と酷
評している。その後もイングリッシュの改造には批判が続出した。そのために比較的詳しい
旅行書では、これらの批判を寄せ集めて出版することがかなり行われている (Green 1: 20945; Fielding 41-51)。だが、ベル・アイルの所有権を得たカーウィンは、島に自然さを戻そう
としたと評価されたので、彼への批判的言辞は殆ど見られない。そのうえに、島の現在の姿
に接したら、ギルピンも満足するだろう、といった賛辞さえ出現した (Horne 11; Robinson
267-68)。
前章で述べたように、ポックリントンが牧師島の改造を始めたのは、イングリッシュのベ
ル・アイル改造より数年後であった。しかも彼は長期間湖水地方に有力者として留まったの
で、彼への批判が表面化するまでには時間がかかった。ギルピンは1776年のスコットランド
高地地方旅行を、1789年に『スコットランド高地地方のピクチャレスク美の観察記』にまと
めた。その際に、ダーウェント湖が情けないほどの悪趣味に汚されていると聞いた、という
文言を挿入している (Observations on the High-Lands of Scotland 2:172)。これはポックリン
トンの改造を念頭に置いたものである。そして、こうした悪趣味が次第に湖の周囲に広がれ
ば、イギリスで最も壮大な光景が破壊されかねない、と危惧している。名高いゴシック小説
家のラドクリフ (Ann Radcliffe, 1764-1823) は1794年に湖水地方を旅行した。翌年出版した旅
行記で、ポックリントン島は「その上に十二夜ケーキの飾りのように上乗せされた建築物に
より台無しにされている」(Radcliffe 450) と批判している。
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ポックリントンは、牧師島からダーウェント湖岸へと改造を広げていった。そのために彼
への言及は次第に、こうした彼の試み全体に及ぶものとなっていった。1799年に出版された
旅行記でサラ・オースト (Sarah Aust, 1744-1811) は、牧師島の建物やカスケード・ハウスの
ようなポックリントンの改造が、なめくじのねばねばのようにケジックの谷を汚しているの
で、湖のニンフはニオベのように石になりかねないと言っている (Aust 21-22)。ウォーナー
(Richard Warner, 1763-1857) はダーウェント湖の欠点として湖の全体が簡単に見渡せること
と、湖の周囲や島に下劣な建物があることをあげている。所有地の用い方は地主の自由だが、
彼が建てたものによって公有財産とも言えるすばらしい自然の光景が害される時には法的規
制も必要である。こう述べてからウォーナーは、ポックリントンによる建築物は罰金を科す
に値すると断罪している (Warner 2: 98-99)。
牧師島を引き継いだピーチーは、ポックリントンの改造を取り除こうとし、彼の試みは好
意的に受け止められた。それを示す例を一つあげておきたい。サウジー (Robert Southey,
1774-1843) が1807年に発刊した『イングランドからの手紙』は、スペイン人エスパニオーラ
の書簡という形式をとった旅行記である。第42信でエスパニオーラは、牧師島の変化につい
て次のように伝えている。数年前までこの島は要塞や砲台、似非教会、環状列石のまがい物
で汚され、わずかのモミ以外に樹木がなかった。現在の所有者はよき趣味を発揮しながらこ
うした異物を取り除き、教会を物置に変え全島に植樹したりしている (Southey 2: 212-13)。
このようにイングリッシュとポックリントンの改造は周囲の自然と調和しないものとして
18世紀から多くの書で批判されていた。しかしわずかだが彼らの改造を擁護する論もあった。
クラーク (James Clarke, 生没年不明 ) は、イングリッシュへの批判はピクチャレスクの原理
に基づいているが、その原理自体が正論ではないと主張し彼を弁護している (Clarke 139)。
またウェストの『湖水地方旅行案内』を編集したコッキン (William Cockin, 1736-1801) は、
イングリッシュの建築物は利便性に対する彼の考えを示すものなのに、それを趣味の表現と
して解釈するのは筋違いである。また、仮に趣味の表れだとしても、多様な自然に形の整っ
た人工物を配置することは美を引き立てるものだと言っている (West 60-61n)。クラークは
ポックリントンに関しても、島が美しく引き立つようにしていると評価している (Clarke
84)。オトレー (Jonathan Otley, 1766-1856) は、ポックリントンの改造は顰蹙をかっているが、
彼の試みはダーウェント湖を有名にしたいという動機から発したものだと、他とは異なる角
度から弁護している (Otley 89-90)。
Ⅲ
この章では湖水地方での森林の伐採と植林が、人々にどのようにとらえられていたかを概略
していきたい。湖水地方で、人間による自然の変容に人々の関心を最初に向けたのは、ダー
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湖水地方の自然保護におけるワーズワスの先駆者
ウェント湖周辺の森林の伐採であったと思われる。湖水地方の名門ダーウェント伯爵家は、
1715年のスチュワート王家再興を目的とした武装蜂起に加担したために断絶した。没収され
たその所領はロンドンのグリニッジ・ホスピタルに与えられた。ホスピタルは換金目的で領
地の木々を1749年から大量に伐採したのであった。
恐らく、この森林破壊に最初に言及したのは、ローズウォーターの副牧師 T. クーパー
(Cooper) が1752年に書き1775年に公刊した『ケジックとその周辺の眺望詩』であろう。この
詩はスキドー山やバッセンスウエイト湖などから歌い始められ、55-71行で、ダーウェント
湖北岸のクロウ・パークの伐採へと話が及んでいる。
That ancient wood, where beasts did safely rest,
And where the Crow long time had built her nest;
Now falls a destin’d prey to savage hands,
Being doom’d, alas! to visit distant lands. (63-66)
(大意:獣たちが安心して休み、長らくカラスが巣をかけてきたあの太古の森は、遠き異国
を訪ねるべく運命づけられ、残忍な力の餌食となって倒れることが余儀なくされているの
だ。)
グリニッジ・ホスピタルは、これまで動物たちの住処となっていたクロウ・パークのオーク
を、海外進出を図る輩に売ると、彼らは巨木を伐採し貿易船の部材とするのだ。この詩は、
イギリスの海外進出が盛んになった時期に書かれている。そのために世間では外洋に出る船
舶の建造はもてはやされていた。だがクーパーはそうした風潮に同調することもなく、伐採
された木を “a destin’d prey to savage hands” と悼んでいる点が注目される。
湖水地方出身の牧師ジョン・ドルトン (John Dalton, 1709-63) は、1755年に発表された『二
人の令嬢に宛てた叙景詩』の序文の最後で、読者がこの詩を読むか、あるいはケジックの湖
(即ちダーウェント湖)の評判を耳にし、期待で胸を膨らましてこの湖を訪れたら失望する
だろう、と警告している。それというのも、この湖周辺、特にクロウ・パークに存在した「人
手によって乱されたり損なわれたりしたことが全くない、神々しいまでにのどかな森林」(vii)
は、もはや見られないからである。彼は、このように森林が伐採されたために、ニンフたち
が嘆き悲しんでいる、と言って序文を終えている。
ドルトンの忠告もクーパーの詩と同じ伐採の結果に言及したもので、この自然喪失が人々
に与えた強い衝撃を物語っている。そのためにこの森林伐採にはその後幾人かの旅行記作者
が批判的に言及することになる。一例を1739年に湖水地方で生まれた科学者アダム・ウォー
カー (Adam Walker, 1739-1821)) の『1791年夏のロンドンから湖水地方への旅』(1792) からあ
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げておきたい。書簡形式で書かれたこの旅行記では、第16,17、18信がケジックとその周辺
の紹介にあてられている。ウォーカーは1749年、彼が10歳の時に森林の伐採が行われる以前
のケジックも訪れていた。その際はクロウ・パークも領主島 (Lord’s Island) もオークの大木
で覆われていて、その光景から彼は深い感銘を受けたのだった。ところがそれから40年後に
訪れると、木々が伐採され、クロウ・パークは耕作地になっているのだ (88-9)。このダーウェ
ント湖周辺の大変化は彼を深く悲しませたのであった。
このグリニッジ・ホスピタルによるダーウェント湖周辺の森林伐採は、恐らく湖水地方で
の最初の明確な自然破壊であった。ただ、グリニッジ・ホスピタルが土地の相当部分を所有
していたことには良い面もあったことは忘れてはならない。ピクチャレスクの流行に伴い、
ダーウェントを訪れた多くの旅行者のなかには、魅力的な景色に惹かれて定住を望むものも
あった。だがグリニッジ・ホスピタルは所有地を手放そうとはしなかったので、移住希望者
は容易に土地を購入できなかったのである。
先にも触れたが、湖水地方では16年周期で樹木を伐採することが行われていた。これは建
築や造船用の用材となる大木が育たないという問題を発生させていた。ランダフの主教ワト
ソン (Richard Watson, 1737-1816) は、1794年にプリングル (Andrew Pringle, 生没年不明 ) が
上梓した『ウェストモーランド州の農業事情について』に序文を寄せている。そこで彼は、
一部の健康な樹木を選んで長期間育てる方法を、現在の全体伐採に対する経済的優位性を数
字で示しながら紹介している (Pringle 11-15)。
次に植林を取り上げたい。イギリスでは18世紀後半に産業革命とともに農業革命も進行し、
森林経営も次第に経済性優先に傾いていった。そのため、荒蕪地への植林や経済的樹木の選
定が土地所有者の関心を惹くことになった。ワトソンは『ウェストモーランド州の農業事情
について』の序文でこの点についても発言し、カラマツ植林の有利性を数字をあげて説いて
いる (Pringle 8-11)。こうして湖水地方でもカラマツ、モミ、アカマツなどの針葉樹の植林が
実施されるようになったが、それに対する不満も案内書などに散見される。例えばグリーン
は、聖ハーバート島の植林が密集しすぎて大きな塊のようなので、景色として釣り合いが取
れないと苦言を呈している (Green 2: 53)。彼はまた、ポックリントン島でのピーチーのカラ
マツの植林を目障りと評している (Green 2: 64)。
Ⅳ
ここではケンダル―ウィンダミア間の鉄道敷設に関する議論を紹介したい。『二通の書簡』
は鉄道敷設計画が明らかになってから時をおかずに発表されたので、ワーズワスに先立つ意
見陳述は存在しない。しかし彼の意見に対する反応は多かった。初期のものの一つに商務省
のものがある。19世紀には新しい鉄道の建設は国会の審議事項であったので (Bagwell 169-
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湖水地方の自然保護におけるワーズワスの先駆者
98)、ワーズワスは『二通の書簡』により審議に影響を与えたいと思っていた。しかし事態
は彼が願ったようには進まなかった。商務省はこの鉄道計画に関する国会への報告で、桂冠
詩人であったワーズワスに一定の配慮を示しながらも、沿線の住民のプライバシー以上に、
都市労働者が健全に休日を過ごす場へのアクセスを持つことが重要だと勧告し、この件に関
わる法案は国会を通過した (Wordsworth Prose 3: 334)。
ジャーナリズムの反応は、概してワーズワスに批判的であった。一例をスコットランドの
詩人でジャーナリストであったマッケイ (Charles Mackey, 1814-1889) の『湖水地方の風景と
詩』(1846) からあげておきたい。マッケイは『二通の書簡』に対する論評で、ワーズワスは「現
代における文明の普及者(鉄道)に偏狭で排他的であるうえに、自分が上流人あるかのよう
な見解を示している」(Mackey 13) と皮肉っている。また「セント・ビーズ岬沖合の蒸気船
で着想を得た詩篇」(“Stanzas Suggested in a Steamboat off Saint Bees’ Heads”) での蒸気船に
対する詩人の姿勢は、鉄道に対するものと同じだとして、「彼は現代を犠牲にして過去を称
賛し、現代精神とその機械仕掛けの侍女である蒸気機関を正しく評価していない」(Mackey
155) と批判している。産業革命の成果を謳歌し資本主義の自由放任原則を信奉するイギリス
社会にあっては、『二通の書簡』の主張が受容されないのも当然であったかもしれない。そ
うした民間の空気を反映するように、湖水地方ではその後もペンリス-ケジック間などに鉄
道が敷設されたのである(敷設された鉄道の位置と時期については Millward and Robinson
243参照)。
だが1876年に潮目の変化が訪れた。この年に鉄道をウィンダミアからアンブルサイドやグ
ラ ス ミ ア に 延 長 す る 計 画 が 明 ら か に な り、 ア ン ブ ル サ イ ド 在 住 の サ マ ー ベ ル (Robert
Somervell, 生没年不明 ) が反対に立ち上がった。そして1877年に『湖水地方における鉄道延
長への抗議書』を出版した。78ページからなるこの小冊子はラスキン (John Ruskin, 18191900) による序文や定期刊行物の記事の転載などを含んでいたが、中心となるのはサマーベ
ルによる「問題の本質」であった。
「問題の本質」はワーズワスのソネット「ケンダルとウィンダミアを結ぶ鉄道計画に寄せ
て」の引用から二つの書簡の内容説明へと移っている。第2書簡の説明でサマーベルはその
491行目から627行目を連続して引用している。この部分は、鉄道計画者は功利主義の名目で
金儲けを企む下心を隠蔽しているという主張に関わっており、本論で私が『二通の書簡』の
④として要約したところである。このような論述から、サマーベルが④をとりわけ重視して
いることが窺えよう。
引用に続く部分でサマーベルは『二通の書簡』から30年経たことを考慮しつつ、この問題
を二つの視点から見ていく。ワーズワスは知的レベルが低い労働者などがやってきても、湖
水地方を十分に楽しめないという理由で大衆化を促進する鉄道建設に反対した。1876年1月
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山形大学紀要(人文科学)第18巻第2号
17日の『デイリー・ニューズ』には、山野に出かける人は、そのすばらしさを味わえるから
行くのだ、という趣旨の、ワーズワスを否定する記事が載った。サマーベルはこれに反論し、
自然を享受できる労働者階級は相変わらず少数だと言う (Somervell 22)。だが、そうだとし
ても労働者たちを咎めることはできない。問題は彼らをそのような境遇に置く社会にあるの
だ。従って彼らの自然に対する「賢明な受容性」を養うには、鉄道によってたまに日常を離
れた自然美を味わう機会を与えることより、普段の環境改善を図ってやることのほうが大切
であると説いている (Somervell 22-23)。
もう一つの視点も『デイリー・ニューズ』の同じ記事の内容と関わっている。そこには、
仮に計画中の鉄道の沿線に鉱山資源がある場合、野生生物に害を与えるとか詩人の詩作を妨
害するといった理由で鉄道に反対すべきではない。それは感傷的な気持ちを守るために、個
人、そして国家の物質的繁栄を犠牲にすることになるからである。そのような場合には経済
原則に従うべきなのは、疑問の余地のないことである、と述べられていた。それに対してサ
マーベルは美しい自然は、人々を喜ばせ導くために神が創造されたもので、物質的繁栄より
大切なものだと反論し、鉱山故に湖水地方を変化させるべきではないと主張する (Somervell
25-26)。そしてサマーベルは、人間の幸せは金銭のみに支配されるものではないので、湖水
地方を物質的繁栄のみを尊重する風潮の枠外に置くべきだと言って、論を締めくくっている
(Somervell 31)。
このように『湖水地方における鉄道延長への抗議書』においてサマーベルは、ワーズワス
の『二通の書簡』をベースに鉄道反対論を展開している。彼が最も重視しているのは「自然
の神殿」である湖水地方を、物質的繁栄しか考慮しない似非功利主義の申し子である鉄道か
ら守り、「道徳心と気高い知的喜び」のもとになる自然美と隔絶感を保ち続けることであっ
た。彼の守護者としての役割はその後、ケジックのクロスウェイト教会の牧師であるローン
ズリー (Hardwicke Rawnsley, 1851-1920) に引き継がれた。
1883年に「湖水地方を守る会」を設立し「湖水地方の番犬」と呼ばれたローンズリーは、
湖水地方に鉄道を敷設する計画に次々と反対している。一例が1883年のケジックからバタミ
アへの鉄道計画への対応である。この鉄道はホニスターで生産されるスレートをダーウェン
ト湖西側のニュウランズを通りケジックに運ぶものであった。これに対してローンズリーは
『スタンダード』紙に書簡を送り抗議している。そこで彼は、スレート採石業者の儲けのた
めに静けさと休息を求めて湖水地方にやってくる人々が犠牲になってもよいのか、と問いか
けている。そして「公衆のための行楽と保養の地が企業精神と誤って呼ばれている強欲によ
り年々狭められ侵食されている」と嘆き、真の公共精神が生まれ、国家が大衆の健康にも配
慮する時がくることを願っている (Murphy 82)。ここには明らかに『二通の書簡』と『湖水
地方における鉄道延長への抗議書』の精神が流れている。そしてローンズリーは1895年のナ
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湖水地方の自然保護におけるワーズワスの先駆者
ショナル・トラストの設立とその後の運営に関与しているが、その際にワーズワス等から学
んだ自然への配慮を新しい団体に吹き込んだのである。
結び
これまで1) 外来者による景観の改変、2) 樹木の伐採と植林、3) 鉄道の導入という自然破壊に
通ずる活動に関する、ワーズワスと湖水地方旅行書などに見られる見解をあげてきた。それ
らの比較検討から次のことが結論として導かれる。
湖水地方で自然の破壊として最初に意識されたのは、グリニッジ・ホスピタルによるダー
ウェント湖周辺の森林伐採であった。これはワーズワスが生まれる20年ほど前のことであっ
たせいか、彼からの言及はない。しかしその他の1) と2) に属するかなりの事柄については発
言している。その内容も、例えばポックリントン島に関するものの比較から窺えるように、
本論の第Ⅱ、Ⅲ章で紹介したものと類似している。そして殆どの場合、第Ⅱ、Ⅲ章で紹介し
たもののほうが彼の発言に先立つものなので、景観改変や植林についての彼の発言は、当時
の批判的論調を踏まえたものであったと言える。従って、これらの分野でワーズワスが自然
保護の先頭に立っていたとは到底言えない。明らかに先駆者がいたのである。
湖水地方への鉄道の導入は1840年代にようやく計画されたことで、1) や2) と異なり3) に関
する主張は蓄積されていなかった。そのために『二通の書簡』はこの分野での最初の重要な
文書となったのだが、その真価が理解されるには、イギリスの環境や労働者の問題がより深
刻になる1870年代まで待たねばならなかった。そして、1877年にサマーベルが『二通の書簡』
に依拠しながら『湖水地方における鉄道延長への抗議書』を発刊して以来、『二通の書簡』
は湖水地方の自然保護を唱える際の中心文書となったのである。
このように、厳密に見ればワーズワスは湖水地方の自然保護意識の創始者ではない。しか
しながら1) と2) に属することは早くから問題として意識されたために、それらへの対応も早
かった。例えばベル・アイルではカーウィンによる修正が18世紀末から、牧師島ではピーチー
による修正が19世紀初頭から行われたので、時代が進むにつれ問題は解決されたものと目さ
れ、記憶から薄れていったのである。それに対して『二通の書簡』は、近代化に伴う新しい
問題として登場した3) への最初の反応であったし、鉄道を高速道路に読み替えれば、現代の
湖水地方が抱える問題にも通用する内容を含んでいる。以上より、ギルが言うように、鉄道
論議がワーズワスを「湖水地方の守護霊」(Gill 249) に仕立てたと考えることができよう。だ
が注意したいことは、1) と2) に関する18世紀後半から19世紀前半の発言は、現代では殆ど忘
れ去られているが、ワーズワスの時代には相当広範に流布していたので、彼がその影響を受
けた可能性が高いということである。従って、今後湖水地方の自然保護に関する研究を進め
るうえで、この除外された部分と彼の結びつきを考慮していくことが重要であろう。
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山形大学紀要(人文科学)第18巻第2号
本研究は、科学研究費補助金基盤研究 (C)(課題番号 :24520267)を受けて行われた。
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湖水地方の自然保護におけるワーズワスの先駆者
The Precursors of Wordsworth in the Nature-Preservation of the Lake District
Tomoya ODA
In his Romantic Ecology: Wordsworth and the Environmental Tradition (1991) Jonathan Bate
proposed an ecological reading of Wordsworh’s poetry, and his book much contributed to
introducing eco-criticism into the study of the romantic poets. One of the reasons that induced
him to start reading Wordsworth in this way was that the poet has been long regarded as an
originator of the nature-preservation movement in the Lake District. But was there no person
before Wordsworth who had concern about the deterioration of the environment? In this
paper, to answer this question, I examine how people reacted to the following three activities
practiced in the Lake District:
1) Constructing houses and other structures on Belle Isle and Vicar’s Island
2) Deforestation, and afforestation of plants which were not native to the district
3) Railway construction
This examination has revealed that many people criticized 1) and 2) as bad to nature before
Wordsworth. He follows their ideas in his treatment of these two problems in the Guide to
the Lakes (1835). But he originated the protest to railway construction by Kendal and
Windermere Railway: Two Letters (1844). Later, the people who opposed to the destruction of
nature came to see powerful support in these Two Letters . This success gave people a wrong
impression that nature-preservation movement started with Wordsworth.
In the study of Wordsworth scholars also have believed this as a fact, and they have paid
little attention to how he was influenced by others in 1) and 2). Therefore it is necessary to
take it into consideration that there were his precursors in 1) and 2), when we think about
how he influenced the nature-preservation of the Lakes.
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