かなであん No.265

ざいごう
浄土真宗本願寺派 慈雲山龍溪寺 奏庵
2015.4.20 発行
kanadean
No. 265
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ことが、出家の動機だとありま
すべての人類共存の道が仏智とと
ブッダの遺言 す。虫を小鳥が食べ、その小鳥
を猛禽が食べる、そのような自
もにが開けていくことを願わずに
今世界は、大国が誘導する過
然界の定めである植物連鎖、弱
思うようにならない「老、病、
当な競争に翻弄され、紛争は絶
肉強食。他の生命によってしか
死」は、外からやってくるもので
えることを知りません。後進国
生きられない人間。思うように
はありません。生まれ出た瞬間
と言われてきた国々も経済成長
ならない「老、病、死」という
から私たちの内部にあって、少し
する中、格差は益々広がり、人々
人生の基本的な 苦 に問題提起
づつ増えてくるものなのです。老
は不信感を募らせています。そ
を抱いて、自分の進む方向を見
いと闘うのは、あさはかな思い
んな世界で今注目されているの
の表れといえ、病気と闘うこと
出されたのです。 も、死と闘うことも同じです。こ
* * * が、「自分の心を変えていく」
ことが真の解決であると説くブッ
おれません。 文明がいくら進歩しようとも、
ダの教えです。 必ず老いて死ぬことに変わりは
れは「治療」や「努力」をやめ
* * *
ありません。それなのに「なぜ
「闘う」という思いが「驕り」
4月はブッダと成られたお釈
生まれ、そして生きるのか」、
であるということです。すべてを
迦様誕生の月「花まつり」です。
「私という存在は、いったいこ
受け入れ、「仲良く」しなけれ
釈迦族の王子として生まれ、何
の世にとってどういう意味があ
ば「苦」は決してなくならないの
不自由なく王位継承も約束され
るのか」と嘆き愚痴る私たちで
です。 ていた王子が、その地位や妻子
す。ブッダはそんな私たちに先
《「もう師はおられない」と
を捨て、出家して修行者となり、
立って、「人間にとって、生き
考えてはならない。私の説いた法
る意味とは何か」を、追求して
ということはご存知でしょう。 悟りに至り、同じ教えに生きる
と定めた律こそが、私亡き後の師
ブッダは実在のお方ですが、
弟子たちに説いて、その仲間(サ
れました。正しい教えは滅ぶこ
生まれてすぐ七歩歩まれ「天上
ンガ)によって仏法は遺され、
とはないのです。 天下唯我独尊……天にも地にも
国々を超え、多くの高僧たちか
《過去を追うな。未来を願う
われに勝るほとけなし」と誕生
宣言をされたとの伝説も伝えら
な。過去はすでに捨てられた。
ら聖徳太子に伝えられました。 そして未来はまだやって来ない。
ブッダとは、「目覚めた人」
れ、釈迦出家の動機は「四門出
であり、偉大な思想家でした。
だから現在のことがらを、それ
遊」という有名な逸話で語られ
このブッダの問題意識が、特に
があるところにおいて観察し、
ています。仏教聖典には、幼い
行き詰まりを感じさせている世
揺らぐことなく、動ずることな
頃から人一倍感受性の強かった
界観の中で、混迷する21世紀
く、よく見きわめて実践せよ。
王子が他の道に反れず王位を継
を生きる私たちに大切なことを
ただ今日なすべきことを熱心にな
承してくれるようにと、王があ
教えてくれているのです。世界
せ。誰があすの死のあることを知
らゆる楽しみを与えるという親
中の人々が仏教こそが解決(真
らん》。いま現在をしっかりと
心のはからいが、王子の心を益々
の安らぎ)への道であると気づ
大事に生きよというブッダのご
満たされないものにしたという
き、求める中に、地球上の
遺言です。 合掌
悟りに至られブッダになられた
ろということではありません。
である》と言い遺して涅槃に入ら
《仏教の智慧》
編 集 後 記
奏庵法座 幸福はいくら分け与えても 長引く閉塞感からか、日本は今また新
たな宗教ブームになっているようだ。
宗教に関わる者としてありがたくもあ
るが、そのほとんどは物足らず、真に
仏教(宗教)を理解する、伝えるとい
う意味ではかえって邪魔になりかねな
いものが多い。■最近ゴールデンタイ
ムに、 お寺のぶっちゃけ話 みたいな
番組がある。立場上観ておかなければ
…と思うが、嫌悪感が先にたって観た
くない。バラエテイ番組なのだから真
面目に仏法を説いてくれとは望まない
が、あれで宗教がよく解ったなどとい
うコメントを聞くとうんざりする。■
墓や葬式のあり方、供物の供え方、お
布施や香典の渡し方などが分かったか
らといって、仏教の入り口にも達して
はいない。かえって日本人の「宗教音
はもとのとおりであるよう
最近ではめったに見かけら
痴」を助長させるばかりだ。そんな番
に、幸福はいくら分け与え
れなくなりましたが、4月8
組の思惑を分かった上で出演するには、
日にはお寺の山門に花御堂が
ても、減るということがな
専門を説く以上に技量と腹のくくり方
置かれ、道行く人々がお花を
が必要なのに、発言は自分たちのして
い。 いることの正当化と守りばかりで情け
供えて誕生仏に甘茶をかけ、甘
道を修める者は、その一
ない。実に「つまらん」■お布施やま
茶をいただいていく風景があり
歩一歩を慎まなければなら
じないで病気や難問が解決されるとい
ました。甘茶は、子供には決し
ない。志がどんなに高くて
うのは迷信だとわかっていると言うそ
て美味しいものではありません
も、それ一歩一歩到達され
の同じ人間が、形でしか宗教心を見れ
でしたが、仏教行事の中で花
ないというのが現実だ。日本人の宗教
なければならない。道は、
まつりは、子供にとって春爛漫
心は、信仰という内面より、目に見え
その日その日の生活の中に
の気候とともに嬉しかった記
る風潮にばかり影響されやすいのだ。
あることを忘れてはならな
憶の一つです。気候もそろそろ
■先日も天皇皇后が、パラオ島で花を
い。… 慰霊碑の側に向けて献花されていた。
落ち着いて初夏へと移ってきて
(仏教聖典) いつも見せるお姿だが、それを見るた
います。
びに献花やお布施が仏様の方に向けら
どうぞお参り下さい。 れるようになったのはいつの頃からだ
ろうかと思う。■作法は、そのものを
行う意味の表れから生まれたもの。供
物を向こうにむけるというのは一見美
幸福というものは面白い
しいが、そこに見え隠れする生身の人
もので、分かち合えば分か
間の価値観、恩着せがましささえ感じ
ち合うほど、喜びや幸せは
る。亡き人に接する時くらいは俗世界
二倍にも三倍にもなります。
のはからいを離れたいもの、先ずそれ
が、たしなむべき作法だと思う。その
逆に不幸はその反対で、分
行いがあってはじめて、仏となられた
かち合えば分かち合うほど、
人々と偲ぶ者の双方を安らかにしてく
花まつり … せまい心を捨てて、広
く他に施すことは、まこと
日 時
によいことである。それと
4月26日(日)
ともに、志を守り、道を敬
午前11時より うことは、さらによいこと
である。人は利己的な心を
「真宗宗歌」 捨てて、他を助ける努力を
法 話
すべきである。他人が施す
住職 のを見れば、その人はさら
ご文章拝読
に別の人を幸せにし、幸福
「恩徳讃」
はそこから生まれる。
∼*∼
一つの松明から何千人の人
おとき が火を取っても、その松明
その苦しみや悲しみは半分
にもなるし、どんどん小さ
くなっていくものなのです。
れるはたらきとなるのだ。ウイリアム
王子が、東北の被災地への献花で花束
をさらりと供えられた所作には自然な
美しさがあった。 Norimaru