第9回講義メモ

2015/05/09
15 年度「比較経済史」第9回講義 Resume
イギリスを中心とした資本主義世界体制の成立-‘パックスブルタニカ’の時代
「パックス・ブルタニカ」の成立ーイギリス資本主義を中軸とした世界資本主義の再編
本日の講義のテーマは、世界に先駆け逸早く産業革命を終了し資本主義を確立したイギリスが、19 世
紀の世界経済において「世界の工場」として君臨(パックスブルタニカ)し、自由貿易の名目の下に再編
された国際分業体制(いわゆる「自由貿易帝国主義」)の問題を取り上げる。
[1848 年は近代と現代の分水嶺といわるれる。思想面は兎も角、経済面からいうと、1846 年の穀物法廃止
と 1849 年の航海条令廃止によって、イギリスが文字通り「自由貿易」に乗り出し、それとともに世界経済
がイギリス資本主義に包摂されて行く過程であった。この時期イギリスは最も繁栄し、1851 ~ 73 年の間
を「ビクトリア繁栄期」と呼んでいる。]
イギリスは世界に先駆けて自生的な産業革命を展開し、 1840 年代にはその圧倒的な工業力を背景に、自
由貿易にのりだす。この時期(1830 ~ 1870 年代)のイギリスは世界の工業生産の 30 ~ 50%、世界貿易の約
25%を占めており、まさに「世界の工場」として圧倒的優位にあった。⇒添付資料で確認!
輸出商品は綿織物など繊維製品が中心であったが、1830 年代以降は鉄鋼生産も飛躍的に伸び、1860 年
には銑鉄生産で、世界の 40 ~ 50%を占め、工業ばかりでなく、世界の金融業者、運輸業者として比類な
く繁栄を続けた。
他方でこの時代を象徴するのは、ドイツ最先進工業地帯ライン・ウエストファーレン両州を領有するプ
ロイセンがオーストリアを破り、ドイツの統一を達成(1871 年)したことである。これによって、近代ヨ
ーロッパの枠組みが出来上がり、それを契機に世界がこぞって自由貿易へ移行するとともに本格的な植民
地争奪戦に入ることになる。
また、「パックス・ブルタニカ」の成立に伴うイギリス資本主義を中心とした世界資本主義の再編は、その
後各国の資本主義がイギリスをキャッチ・アップして先進国の仲間入りをするか、それに遅れを取りイギ
リス並びに先進資本主義国の国民経済に従属させられ、低開発国となるかの、分水嶺でもあった。「世界
システム論」・「従属理論」は低開発発生の契機を 15 世紀に始まる世界的規模での資本主義システムへの移
行の過程で発生したとし、「マルクス経済学」は 19 世紀末から始まる植民地支配(レーニンのいう「帝国主
義」)にその淵源があるとする。
[「比較経済史」(大塚史学)は、「世界システム論」・「従属理論」や「帝国主義論」とは異なった後進国資
本主義論を持つが、どちらかというと「自由貿易帝国主義論」に近い。]
1、「自由貿易帝国主義論」とは?
帝国主義とはレーニンによって定義されているごとく、19 世紀末の独占資本主義段階を規定する、資本
輸出と植民地支配を一般にいうのであるが、重商主義段階の帝国主義を「重商主義帝国」という場合もあ
る。
2、イギリスの自由貿易を支えた思想と制度
1832 年第1次選挙法改正よって議会の支配層が地主からブルジョアへ移行/38 年労働者のチャーチスト運
動⇒これとブルジョアが提携し反穀物同盟形成
(1)穀物法論争、工業ブルジョア主導の「世界の工場」確立
1815 年の穀物法改正と T,R,マルサスと D,リカードの論争(用語解説参照)→穀物法は 1846 年廃止され
る!マルサス経済学の敗退
(2)リカードの「比較生産費説」(用語解説参照)とそれに対抗する後進国の経済学
イギリス古典派経済学による「国際分業」論の勧め
*先進国イギリス古典派経済学(自由貿易)批判としての後進国ドイツの歴史派経済学・アメリカ体制学派
の経済学の形成
① F,リスト『政治経済学の国民的体系』(1841 年)/コスモポリタンな古典派経済理論を批判し人間の経
済生活が持つ歴史性・国民性を主張し、(工業を念頭に置いた)生産力論・保護主義論を唱えた。② H.C.
ケアリー『過去・現在・未来』(1848)/国民経済を足場とした生産力論を展開/19 世紀末ロシア「ビッテ体
制」、日本も 20 世紀の初頭ドイツの歴史派経済学やアメリカ体制学派の思想を導入した。
(3)イギリスの自由貿易への移行
① 1833 年特許状法によってイギリス東インド会社の活動停止/② 1840 年代以後関税率の引き下げ/③ 1844
年のピール条令と「金本位制」ルールの確立→「国際金本位制」への移行/④ 46 年穀物法廃止⑤ 49 年航
海条例廃止⇒こうした自由貿易への移行は 60 年グラッドストーン蔵相の下での関税財政改革で完成する
⑥フランスとの間で 1860 年‘コブデン=シュバリエ条約’を締結しヨーロッパを中心に世界は自由貿易
の方向へ!
3、19 世紀のイギリス経済
1)、貿易構成
[輸出]1830 年:食料(11.0%)、原料( 5.8%)、工業製品(84.0%)
1870 年:食料( 5.3%)、原料(10.7%)、工業製品(83.8%)
[輸入]1830 年:食料(28.5%)、原料(63.8%)、工業製品( 7.7%)
1870 年:食料(33.1%)、原料(50.0%)、工業製品(14.6%)
(経常収支の赤字は資本収支補填していた→次項「資本輸出」参照)
[主要輸出品]綿製品、羊毛製品、鉄・鋼、機械、石炭
[主要輸入品]原綿、羊毛、穀物、コーヒー、砂糖、茶
{原綿の輸入先は、1820 年代はヨーロッパ及び合衆国から 60%以上輸入していたが、40 年代からはイン
ドなど低開発諸国からの輸入が増加する}
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2)、資本輸出
1830 年の海外投資残高は 1.1 億ポンドであったが、1860 年には 3.8 億ポンドに達した。この時期の投資先
は主としてヨーロッパ、アメリカ、中・南米とインドであり、政府公債と鉄道が主力であった。
3)、シティ(ロンドンのロンパート街)による世界金融の支配とイギリス船による世界貿易の支配
1844 年ピール銀行条例による国際金本位制の中核
4、ジェントルマン資本主義
北部産業利害に対する南部金融サーヴィス利害の一貫した優位という観点からイギリスの近代を説明しよ
うとする「ジェントルマン資本主義」論の中核を為す概念
4,イギリスを中心とした「国際分業体制」→世界的な自由貿易への移行
1860 年自由貿易のリーダーであったイギリスとそれまで保護主義のリーダーであったフランスが「コ
ブデン=シュバリエ条約」を締結し、1861 年にはベルギー、1863 年にはプロイセンと同様な条約を締結
し、これらに加えてスイス、イタリア、スエデーンも参加し、世界は大きく自由貿易の方向へ歩み始めた。
しかし、その一方でアメリカ(1970 年代)、ドイツ(1897 年)、フランス(1882 年)などは保護主義に転じ、
世界的な規模での自由貿易時代は短期間で終焉する。アメリカ・ドイツは鉄鋼業を中心に高率保護関税政
策を取り独占資本主義への移行が始まるが、このような中で唯一自由貿易にこだわり続けたイギリスは、
次第にこれらの国々の工業力に追い上げられ、独占資本主義(巨大企業の時代)に乗り遅れることになる。
5,「イギリス体制」(アメリカの経済学者 H,C,ケアリーの命名)下での各国経済:国際分業体制と補完的
衛星経済地域の形成
「イギリス体制」下で各国は2つの方向に向って進んだ。
1)「イギリス体制」に対抗しながら、自国の産業資本を育成し、自前の国民経済を形成していった国々ーフ
ランス、アメリカ、ドイツ、ベルギー、スイス、ロシア、それに日本などの「後発」資本主義諸国
(1)、アメリカ合衆国
「大西洋経済」Atlantic Economy からの脱却→産業革命
「ハミルトン体制」から 1820 年代の「アメリカ体制」(上院議員 H.クレイの議会演説による命名)
南北戦争により奴隷制廃止→北部資本主義の勝利
(2)、ドイツ( プロシア)
1807 ~ 15 年の「シュタイン・ハイデルベルグの改革」により農奴制(グーツヘルシャフト)は解放され“ユ
ンカー制”へ移行する。続く 1830 年代の「関税同盟の成立」(1834 年)により一応‘統一的“近代国家
”(オーストリアは除く)の経済的枠組み’が出来、この後本格的の産業革命が展開する。これによりイギリス経
済からの自立が可能になった。1871 年プロシア主導のもとで「ドイツ帝国」成立!
(3)イタリア
1840 年代:マッツィーニの共和主義運動挫折/ 1848 年:第 1 回独立戦争/ 49 年:ローマ共和国成立後 5
ヶ月で崩壊/59 年:第 2 回独立戦争/サルデニーア王国成立/1860:サルデニーア王国シチリアと南部イタ
リア併合/1861:イタリア王国成立(国民国家の成立と「上から」の工業化
*フランス、ベルギー、スイス、ロシア等は第 6 回講義の大陸の産業革命で取り上げたので省略
2)「イギリス体制」下でそれに益々従属し、原料・食料供給地域として固定化され、国民経済形成の道が
閉ざされた諸地域ー東南アジア、ラテン・アメリカ、アフリカなどの低開発諸国である。《用語解説「(国民
経済)植民地型=アフリカ型」を参照》
(1)ラテンアメリカの例としてブラジル
1820 年代イギリスのラテンアメリカヘの輸出は全体で 10%内外だったが、綿布輸出では 20 ~ 30%を締め、
最大の輸出地域であったが、中でもブラジルはもっとも大きな相手国であった。イギリスはブラジルに綿
布製品を輸出し、ブラジルからはコーヒー、砂糖、綿価などの原料・農産物を輸入し、自国の国民経済形
成の道を閉ざしていった。
[1532 年ポルトガルによる植民地建設、以後一時期ブラジルはスペイン・オランダ領となる。1822 年独立
宣言]
(2)アジアの例としてインド
1600 年イギリス東インド会社
当初インド産品(綿製品、絹織物、香料など)の輸入に限定
しかし産業革命後は綿製品の輸出が中心になり、イギリスの綿工業を破壊しつくし、工業化の道を閉ざす
とともに、原綿、小麦、ジュート、藍、茶、阿片などイギリスヘの供給地となり、国民経済形成の道を閉
ざした。
イギリスの支配下に置かれたインドは、国内に寄生地主(ザンミダーリ制)や前期的資本が支配する植民地
となった。
[1757 年プラッシーの戦い、1833 年インド総督府、1857 年ポセイの反乱、58 年ムガール帝国崩壊、58 年
英国のイギリス直接統治、77 年(英領)インド帝国成立、1950 年インド共和国成立]
(3)アフリカ全般(HP の「アフリカ型国民経済」参照)
*アジア・アフリカの多くの国々は未だに伝統的「共同体 Gemainde)」を基礎としている。先進資本主義
国(あるいは後進資本主義国)の主導の下に導入された資本・技術は、伝統的社会関係の下にある労働力
と結びついて産業経営か行われるが、それは自立的な国民経済の道を閉ざし、農業・工業のプランテーシ
ョン化を招いた。
例えば、マレーシアのゴム・プランテーションやエジプトの 1960 年代の工業化がそうである。
(6)その他ーアイルランド
1619 年アイルランドの一部征服、72 年完全征服⇒イギリスの貴族に一部の土地の領有を認めた。
最良の土地はイギリス人が所有し、やがて宗教の対立もあって独立運動が起こる。
1922 年のアイルランド革命によって独立⇒アイルランド自由国、1949 年アイルランド共和国
産業革命が始まった 1760 年代アイルランドはヨーロッパでイギリスに次いで工業も発達していた。
しかしその後アイルランドの工業はイギリスのすぐれた機械に対抗できず没落を余儀なくされ、農業も小
麦生産では対抗できなくなり家畜飼育を中心とした牧畜に向かう。
1840 年代のジャガイモ飢饉での死亡者と海外への移住が多かったのはイギリスによって国民経済を完全
に崩壊させられたからである。
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