ダッハウ強制収容所 (Dachau concentration camp) 公式サイト http://www.kz-gedenkstaette-dachau.de 1.はじめに 南ドイツ・ミュンヘンの北西16キロほどのところにある小都市ダッハウに存在した強制収容所で、 ナチスの強制収容所の中では最も古い、そして使用期間最長(12 年)であり、後に創設された多くの 強制収容所のモデルとなりました。 1933 年 3 月 20 日に当時バイエルン州警察長官であったハインリヒ・ヒムラーがこの収容所の設置を 発表し、22 日から運営が開始されアメリカ軍によって解放される 1945 年 4 月 29 日まで使用されて います。最初はナチスに反対する政治家、共産・社会主義者、宗教家等が中心に収容されていました が、1938 年の水晶の夜*後はユダヤ人の収容も始まり、戦時中にはそれが本格化、他には同性愛者、 戦争捕虜、多くはソ連軍捕虜等も収容されました。 ダッハウ収容所について(4分)http://goo.gl/bAJj1C 2.収容所の歴史 最初の建物は、第一次大戦中は火薬工場であった建物の跡地を利用したもので約 5 千人を収容できる 規模でした。1937 年春以降、大規模な 32 のバラックを持つ収容所群に再建築が始まり(囚人がこの 重労働に従事)、周囲に 3 万人の就労する 30 の下位施設が建築されました。その他南ドイツとオー ストリア各地も含めると何と合計 140 の下位施設、労働キャンプが続々と建設されていきます。 1933-45 年の間に推定 200,000 人が全ヨーロッパから送り込まれ、極度に劣悪な条件下で収容され ました。1945 年 4 月 29 日にアメリカ軍により解放されるまで、ここで命を奪われた人(餓死、過労 死、病死、殺人を含む)は 41,500 人と推定されています。(数字はダッハウ収容所のオフィシャル サイトに基づく) そのうち三分の一がユダヤ人でした。 *水晶の夜(Kristallnacht)とは、1938 年 11 月 9 日夜から 10 日未明にかけてドイツの各地で発生した反ユダヤ主義暴動で、ユ ダヤ人の居住する住宅地域、シナゴーグなどが次々と襲撃、放火。ナチス政権による「官製暴動」の疑惑も指摘されています。 この事件によりドイツにおけるユダヤ人の立場は大幅に悪化し、後に起こるホロコーストへの転換点の一つとなりました。 1933 年 6 月に所長に就任したアイケ SS 上級大佐は強制収容所の建物群や厳しい管理システムを定め、 初期の頃からユダヤ人に対する扱いは苛烈を極めました。また鞭打ちの刑、段階別の禁固刑、減食刑、 死刑などの非人間的は厳しい罰則がアイケにより定められました。(政治的扇動やデマ、脱走、看守 への暴行などは即刻死刑。)また、各ブロック(250 人)ごとに SS 軍曹の指導者を設置し、ブロッ ク指導者の上に SS 曹長の連絡指導者を置き管理に当たらせる、また収容所警備の「親衛隊髑髏部隊」 (SS-TV) を編成。このような規則・罰則、管理体系がやがて第三帝国下の全収容所のモデルとなって いきます。親衛隊(SS)の訓練所としての役割も果たしました。 収容所の航空映像 http://goo.gl/MsWNG0 3.労働は自由への道 (Arbeit Macht vrei) アウシュヴィッツで有名なこの言葉は、ダッハウの入り口の門にも掲げられていました。事実はもち ろん反対で、収容所の環境は劣悪を極め、最悪の衛生状態とわずかな食料で囚人は日々過酷な強制労 働を強いられていました。偽装のガス室が使用された事実は確認されておらず、ダッハウは「絶滅収 容所」ではなく労働収容所であったにもかかわらず、過酷な労働と非人間的な生存条件の中で多数の 人が死に至るまで強制労働に従事しました。 強制労働の種類は、収容所の維持、隣接しているハーブ園での仕事、その他各種の軍事目的での工場 労働等や道路建設、土木工事等様々。戦争が進むにつれダッハウの労働力が大変重要になり、労働も 過酷を極めていきます。 飢えとチフス-極度に劣悪な状況に置かれた囚人 戦争終結が近くなるにつれ収容所の状況はさらに悪化していきます。連合軍がドイツに迫ると、前線 近くの多くの強制収容所から囚人がドイツ内地の収容所に続々と移送され到着。食事や水が殆どある いは全くない状況での長時間の移送の後は、囚人は消耗して衰弱死か半死半生となる者も珍しくあり ませんでした。6 千人収容規定のメインキャンプには何と 3 万人以上が押し込まれていた、この過重 収容と貧弱な衛生状態、極度に乏しい食料、そして囚人の衰弱を原因とするチフスの蔓延が深刻な問 題となり、1944 年には収容所内でチフスが大流行し数千人が命を落としました。 ビクトール・フランクル医師もとうにその限界を超えた状況をその有名な著書「夜と霧」で描写して います。(5章発疹チフスの中へ、6章運命と死の戯れの二章に詳しい) 4. 人体実験 ダッハウでは囚人を被験者として主に軍事目的で、以下の非人間的人体実験が行われました。 「超高度実験」ドイツ空軍のための実験であり、空軍軍医ジクムント・ラッシャー博士によって行わ れた。高度の低気圧下での人間の持続と限界を調査するために、囚人は低圧室に閉じ込められ、高度 20000m に匹敵する低気圧にさらされる実験です。 こうした人体実験のデータは、皮肉にも戦後の医 学の発展のために利用されました。被験者の囚人は殆どが死亡し、生き残った者も重大な後遺症を残 しました。 「冷却実験」冷たい海面に落ちたパイロットを救出できるかどうかを調べるための実験であり、冷た い水面に長時間つけるなどして囚人を凍死させた後、蘇生が可能かどうかという実験です。 「冷凍・低体温症実験」東部戦線において、ドイツ軍が寒冷地の気候に対する準備不足により苦戦し ていたため、ナチスの最高司令部が、その気候条件をシミュレーションするように命令を下しました。 ロシア人捕虜に対して多くの実験が行われ、1942 年の医学会議において、ラッシャー医師が「海と 冬から生じる医学的問題 (Medical Problems Arising from Sea and Winter)」の題名で、結果を公表。 約 100 名が、これらの実験により命を落としたと報告されています。 「マラリア実験」クラウス・シリング博士の指揮下で行われました。健康な収容者が蚊によってマラ リアに感染させられたあと、被験者には薬剤の相対的な効力テストのために様々な薬物が投与されま した。1000 人以上がこれらの実験に動員され、その半数以上が死亡しました。 「海水実験」:海水を飲用可能にするための方法の調査、ハンス・エッピンガー博士により行われま した。90 人のジプシーのグループが全く食事を与えられず海水のみを与えられました。被験者は重度 な傷を負い、またひどい脱水症状に陥ります。飲み水を得ようとモップがけされたばかりの床をなめ るところまで目撃されています。 5. 死の行進と解放 ダッハウ死の行進:降伏の直前の四月末 SS は焼く 7 千人の囚人をテーゲル湖にむけて 6 日間もかか る死の行進を強いました。その最中ナチス親衛隊は歩けなくなった人々を射殺し、 1000 人の 人々が飢えや寒さ、疲労で 命を失います。生き残った人たちは 5 月 2 日にアメリカ軍によって 解放されました。 解放:1945 年 4 月 29 日午後遅く、ダッハウ強制収容所はアメリカ軍に降伏します。収容所はとうと う解放されました。当時収容所内にはやつれ衰弱しきった 32,000 人の囚人がいたと報告されており、 また定員 250 人の収容棟 20 棟には 1,600 人もの囚人が詰め込まれていました。30 輌の列車に各々 100 体以上の遺体が詰め込まれているのも発見されています。またアメリカ軍は婦女子を含む地域市 民に収容所の中を見せ、施設の掃除を手伝わせました。彼らは収容所内の様子にショックを受け、ま た何が起こっているのか知らなかったと語ったと報告されています。 ダッハウの虐殺:降伏後、収容所守備部隊は米兵が行った即決裁判による銃殺刑のために恐慌に陥り ました。殺された正確な人数は不明です、ある資料によるとこの方法で処刑されたのは 35 人に過ぎ ず、残りの 515 人は恐らく逮捕されたり逃亡したと考えられている。(解放に直接かかわったスパー クス大佐の弁、ウィキペディアより引用) 解放時の映像(カラー)http://goo.gl/oC3qPq 4.解放後初の復活祭 解放の数日後は、ギリシャ正教会の復活大祭でした。カトリック司祭たちは通常の主日のミサを祝い ましたが、正教の司祭数名は SS のタオルから作った間に合わせの祭服を纏って復活大祭を祝います。 ギリシャ人やセルビア人、ロシア人数百人の信徒たちも集まって式がとり行われ、ラ-ルという名の 囚人は、この時の様子をこう述べています(ウィキペディアより引用)。 「東方正教会の歴史で 1945 年のダッハウのような復活大祭は恐らくなかっただろう。セルビア人の 輔祭と共にギリシャ人とセルビア人の司祭が、青色と鼠色の囚人服に間に合わせの祭服を纏ったのだ。 その時ギリシャ語からスラヴ語に変えて聖歌を歌い、再びギリシャ語に戻した。復活大祭のカノンな ど全ては記憶に基づいて歌った。「初めに光ありき」も同じだった。最後に聖ヨハネの説教も同じだ った。聖なる山(アトス山の別称)から来た若い司祭が、我々の前に立ち、死ぬまで忘れそうもない 熱狂が伝わる中で歌った。聖ヨハネ自身がこの司祭を通して我々にまた世界に語りかけたようだ。 」 5.解放後・そして現在 1948 年バイエルン州が難民の住居を建設し長年使用されました。その後かつて囚われていた人々が 中心となり、記念館の建設が進められ2棟の収容所も再建、1965 年記念館がオープンし収容所の歴 史が遍く見られるようになりました。跡地には囚人が信仰した宗教の礼拝堂が4つあり、また当時の 収容棟はコンクリートの土台で示されています。 写真と説明によるバーチャルツアー http://www.kz-gedenkstaette-dachau.de/virtual_tour.html 参考リンクおよび出典 ダッハウ強制収容所の公式サイト 英語有 http://www.kz-gedenkstaette-dachau.de/ アメリカホロコースト記念博物館(USHMM United States Holocaust Memorial Museum) (日本語サイト)http://goo.gl/GS8onT ダッハウ強制収容所(ウィキペデディア)http://goo.gl/0UaK3d ナチスドイツの人体実験 (ウィキペディア)http://goo.gl/bgAVjY 英語のサイト http://history1900s.about.com/od/1930s/a/Dachau.htm http://www.history.com/topics/world-war-ii/dachau 「夜と霧」V. フランクル (みすず書房)
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