優秀賞 一碗から伝える思い 村田 美生子

優秀賞
一碗から伝える思い
福岡大学附属大濠高等学校一年(福岡県)
のがお茶のお稽古。つたないながら、私は自分なりにそう解釈して
いる。
同時に、お点前の手順であったり、様々な作法であったりといっ
た先人たちの考えだした表現が、非常に創意と工夫に満ちたもので
あることも改めて感じる。ひとつひとつの所作に意味があり、それ
ぞれがお客様を思う小さな心配りを表現したものである。例えば帛
紗捌き。お茶を始めるにあたり最初に習う基本的な所作だが、ただ
なのは当然のことだが、それをわざわざもう一度お客様の前で清め、
村田 美生子
お茶を学ぶ。いったい私たちは、何に惹かれて学んでいるのだろ
うか。何を求めて、学んでいるのだろうか。
れば、帛紗捌きはお客様にはっきり見えるようにしなければ意味が
赤い布をたたむという動作ではない。清浄なものとされている帛紗
人によってその感じるところは様々だろう。かく言う私も、いま
だ模索の中で少しずつお茶の魅力に近づきつつあるところだ。
わってくるだろう。
ということを第一義に考えてみると、日本の伝統文化としてすっか
こして暖かく、暑い日であれば露地に水を撒いて涼やかに。「表現」
減を変えてみたり、花を飾ってみたり。寒い日であれば炉に炭をお
お客様にくつろいでいただきたいのか、それとも新鮮な気持ちで
リフレッシュしていただきたいのか。それに合わせて、例えば湯加
を追求することに、私たちは魅力を感じているのではないだろうか。
てくる。私個人の見解ではあるが、お茶を学ぶなかでこの「表現」
しかし私も、茶道を学び始めた当初は先生の動きを形式的にまね
するだけで、そのなかに込められた思いなどには全く思いいたらな
さらにふくらませることができるのだ。
の、表現としての細やかさ、緻密さに改めて感嘆し、自らの創意を
を学ぶ面白さは格段に増す。長い年月をかけて形作られてきた作法
ような思いを表現したものか。自分はどのような気持ちで臨めばよ
私は今、お稽古の際にこのようなひとつひとつの所作の意味を理
解しながらお点前するよう努めている。この動きは誰に対するどの
ないというのも分かるし、清める前と後でお道具の扱いも自然と変
お道具が清らかであることを確認してもらうのだ。その意味を考え
でお点前に使う道具を清めるための所作である。お棗や茶杓が清潔
そもそもお茶会とは、お客様にただ一服のお茶を差し上げるため
の場。主旨はいたってシンプルである。しかしその一服からどのよ
り定着しているこの「茶道」というものが可能性にあふれた実にア
かった。中学一年生のときに茶道部に入部したのだが、当時はお稽
うな思いを感じとってほしいのかによって、表現の仕方は俄然変わっ
グレッシブな文化だということに気付く。昔からの型を形式的に繰
古の際にいただけるお茶菓子が楽しみで部活に通っていたくらいだ。
いのか。当たり前のことだがこれらを知る、また考えることでお茶
り返すだけではなく、そこから学び、さらに自分の表現を追求する
しかしある日のこと。普段ご指導いただいている先生のお宅での初
点、茶道においては享受する側のお客様も表現者の一人として芸術
り表現者の自己満足に終わってしまう可能性があるわけだが、その
活での発表の場は、主に文化祭等でのお茶会であるからだ。文化祭
釜に呼ばれた。そこで先生のお点前を拝見したのだが、そのときに
それまで手順を間違えないということばかり考えていた私だが、
手順や作法といった「型」にこだわらず、その根底にお客様に対す
で来場されるお客様は、抹茶を飲むのさえ初めてという方も多い。
に主体的に参加できるのである。その意味で茶道は表現としての完
る「おもてなし」の思いがあることが大事なのだとそのとき初めて
そのため私は、そのなかでいかにより双方向的なコミュニケーショ
先生がひとつ、手順を間違えてしまったのだ。ところが先生は微笑
気付かされた。言ってみればごく単純なことではあるが、これは私
ンをとるかを心がけている。どうすればお茶をおいしく、楽しく飲
成度をより追求した文化であると言えるだろう。
にとって非常に大きなことで、お茶に対する姿勢が一八〇度変わっ
んでいただけるか。その気持ちを念頭において、例えば親しみやす
んであわてることなく道具の位置をお直しになった。その様子が、
たと言っても過言ではない。お茶会はもはや手順を間違えないよう
い言葉遣いで話してみたり、茶道についての簡単な説明をはさんで
非常に優雅で美しく、普段と変わらない誠意にあふれていたのだ。
にと緊張する場ではなくなり、お客様といかにコミュニケーション
みたり。状況にあわせて自分なりにアレンジし、表現を工夫できる
しかし私の場合、お茶会の際におもてなしするお客様は作法を習っ
たことのない初心者の方が多いのである。なぜか。それは学校の部
を図るかと工夫を凝らす場となった。普段のお稽古でさえも、習う
はお客様をおもてなしする、という同じ思いである。このように繊
のがまた茶道の魅力なのではないだろうか。
「茶の湯とはただ湯をわかし茶を点ててのむばかりなることと知る
べし」茶の湯の祖、千利休の有名な言葉である。ただ湯を沸かし飲
細で美しい文化をもつこの国に生まれたことを、私は心から誇りに
ひとつひとつの所作の向こうに先人たちの思いや感情を汲み取るこ
むこと。しかしそれだけの行為のなかに様々な思いを表現すること
思う。そして同時に、その真髄にもっと近づくために、今後もより
とで新鮮な発見に満ちたものとなった。
ができるのが茶道である。そのことが、この文化が芸術にまで高め
お稽古に励んで行きたいと思っている。
古くからの伝統を受け継ぎながらも、限りない創造の可能性を持
つお茶の世界。しかしどんなに時代を経ても、その根底に流れるの
られた所以でもあるのだろう。
もうひとつ面白いのが、お茶のお稽古ではお客としての振る舞い
方をも学ぶということである。思いを表現する側と、享受する側。
双方のきめ細やかな応答があってはじめて、ひとつの空気のなかで
の「表現」が完成するのだろう。他の芸術ではなかなかこうはいか
ない。音楽にしろ絵画にしろ、その多くは一方向的なものだ。つま