1 第5章 近代建築史 近代建築3巨匠 その1:F・L・ライト - 衣袋研究室

第5章 近代建築史
近代建築3巨匠 その1:F・L・ライト
・1869年7月8日(1867年生という説もある)
2人の関係は最後までほとんど完全な共同であった。
ウイスコンシン州に牧師の子として誕生。
この交通館はサリバンが弟子のフランク・ロイド・ラ
・母親は幼いライトに心酔するフレーベル教育(ドイツ
イトに授ける事の出来た豊かな建築言語と、作品に注
人教育家フリートリイッヒ・フレーベルは、子供は事
いだエネルギーと情熱の証拠であった。
物・色・肌理・原因・結果などを経験する創造的な遊 ・1893年、ウインスロー邸、イリノイ州:ウインス
具で教育しなければならない、というのが根本理論。
ロー邸はきわめて単純な、
対称形の2階建ての建物で、
その結果、大部分は単純な幾何学的な積み木で、子供
4周に軒が深く出た寄せ棟であった。1階は古典的な
たちが色々な違ったやり方で組み合わせることが出来
建物の柱脚に似せた取り扱い。正面の主出入り口は幅
るようになっていた)をほどこす。伯父の農場で毎年
広い低い階段を上り、広いテラスを通って玄関に達す
夏を過ごした。そこで親しく大地に結びついた生活を
る。1階と2階との表現をかえ、大きな屋根でこの作
知り、自然がすばらしい教師であり、理論的な学問で
品をまとめた。この作品は2つの点で優れている。第
うまく説明出来ない多くの質問に答えてくれるもので
1は水平的な構成の手法と、第2にスケールの取り扱
ある事を理解した。ウイスコンシン大学で土木の勉強
いかた(プロポーション)である。
*1893年、ウインスロー邸
をするかたわら、
地元の建築会社で2年間仕事をした。
・18歳でシカゴに行く。1887年アドラー・アンド・
サリバン事務所で働く。ルイス・H・サリバン(シカ
ゴ派の中心人物:自然の中に存在する形はより深い意
味を持っている事、植物の形の中に内的な意味がある
事を感じていた。彼が装飾の基礎として用いたこの植
物の内的な意味は、非常に違った種類の構造体や建築
を生み出すものであった。
さらに彼は最後まで、今日で
はごく当たり前な矩形の鉄骨造ニ興味を持っていた。)
はちょうどその頃彼らしい特徴を示しはじめていた。
・1888年以降、アドラー・アンド・サリバン事務所
にくる住宅の設計は、実際には、ほとんどライト一人
が責任を持つようになった。
1891年に竣工した
「チ
ャーレン邸」はフランク・ロイド・ライト独自の天才
が表れた作品であった。ヨーロッパの先駆者的な建築
家が20年ないし30年後にはじめて獲得した「近代
性」を持っていた。つまり、チャーレン邸は凹凸のない
幾何学的な形の3階建ての、きちんとした煉瓦積の建
物で、完全な古典的なシンメトリーの手法で構成され
ていた。窓は組積造の壁を切り取ったただの矩形で、
屋根は薄い陸屋根で軒の出が深かった。構成は厳密に
古典的手法に従い、基壇があり、頭を切った組積造の
柱体があって、その上に屋根の床版がのっていた。室
内は立面から感じ取れるように単純なものであり、近
代建築の先駆者、オーストリアのアドルフ・ロースな
どが20年後のやったものに匹敵するほど簡素なもの
であった。
・アドラー・アンド・サリバン事務所でした計画案でも
っとも重要なものは1893年シカゴで行われ、コロ
ライトにとって水平線が、この時期にもっとも重要な
ンブス世界博覧会の「交通館」であった。この建物を
建築の基本線になった。それは彼が日本の伝統的な住
特徴づけている水平線は、正面入り口の大きなリチャ
宅に支配的な水平線から強い印象を受けただけではな
ードソン式のアーチには幾分そぐわない屋根の平らな
く、むしろ、自然と建築との間にある親近感に気づき
面であった。この正面ではサリバンがやった部分とラ
始め、水平と建築が自然に対立するものではなく自然
イトがやった部分とを区別する事は出来る。
と調和するものであることを暗示するのだと感じ始め
しかし、この組み合わせは素晴らしいものであった。
たからである。
しかし互いの影響の度合いを推測する事はできない。
1
それでも、この 2 階建ての住宅を水平的に見せるのは
容易なことではなかった。ある意味ではまだ「ヨーロ
ッパ風」の住宅、つまり居住密度の高い大陸が要求す
る窮屈な規律を反映しているからであった。
☆大きな屋根、深い軒の出、スケール、プロ
ポーション及び 1 階と 2 階のテクスチャー
が分離等々を可能にしている。
・今世紀はじめの10年間に、ライトは彼の生涯で最も
偉大な住宅を建てた。そのうちの一つ、ロビー邸は1
909年竣工したのである。この時期の住宅は今日、
ライトの「草原住宅」(プレイリーハウス)と呼ばれ、
有名となった。その理由は、これらの住宅のどれも大
地を抱きしめるような水平線の強調である。草原住宅
はこれみな空間であり、運動であり、力学であり、そ
してアメリカである。つまり、空間、どこへでも動き
うる自由、限りなく広がる辺境なのである。ライトが
草原住宅を建てたのは、もはや役に立つ「箱」をつくっ
たのではなく、大きくて、広々とひろがり、交差した
り、
低い翼屋根でおおわれた空間をつくったのである。
草原住宅にはハーフ・ティンバー(※木造住宅建築の
一様式で、柱、梁、斜材などをそのまま外部に現し、
その間の壁体を石材、土壁あるいは煉瓦で充填したも
の。イギリスで1450~1650年頃さかんに行わ
れた様式であるが、ドイツやフランスのもその例は見
られる)のチュードル様式の影響を受け、柱、梁にス
テインを塗り、壁を漆喰塗りで仕上げた。この黒と白
でまとめた外観は日本建築とハーフ・ティンバーの両
方の伝統を連想させるものであった。
*1909年、ロビー邸
の建築家が発展させた近代建築(ミースのバルセロナ・
パビリオンや1939年代のライトによるユーソニン住
宅を指す)の予言的な位置を占めているものである。こ
の単純な、しかも力強い1枚のスケッチによって、近代
建築の新しい決定的な方向が与えられた。ボートクラブ
で流動する空間の規制的な要素となっているのは陸屋根
と長い側壁である。どちらも空間の運動を水平な平面内
で外に向かって方向づけている。数年後には、ライトの
空間の扱いかたも深みを増し、色々な方向に流動するよ
うになった。
*1902年、ヤハラ・ボートクラブ
・1906年に建てられた「ユニティー教会」はライト
の生涯の作品の中でも最も重要なものの1つであり、
最高傑作の1つである。この建築の持つ真の重要性は、
平面計画の組織そのものとそれが意味するもの、空間
の組織、そして直線的で幾何学的な室内衣装の質の3
点である。ユニティー教会の平面計画(基本的な2つ
のブロックを細い他の空間で連結する手法。2つの基
本的に対立する機能を分離する手法)は、住宅からそ
の他の建築までの成功した平面計画の類型的な原形で
ある。明解に特徴づけられた複核プランあるいは「H」
形プランの確証を見出すのである。 この平面計画は
近代建築の1手法である「機能主義」、つまり、多目
的の機能を持った建築の組織を満足させる解決方法で
ある。
*1906年、ユニティー教会
・
この時代(今世紀はじめの10年間)のライトにとって
極めて重要な第2の住宅以外の建築は計画案で終わって
しまった。1902年の、ウイスコンシン州マジソンに
建設されるはずであった、「ヤハラ・ボートクラブ」が
代表的なものであった。これは、疑いもなく、ライトが
紙に描いた中では一番単純で幾何学的デザインであった。
全体のまとめ方がフレーベルのおもちゃに負うところが
大きいことは明らかである。ライトが建築にこのように
単純でしかも妥協の余地のない声明をもたらしたことは
なかった。この計画案は次の10年間にライトやその他
2
・ライトがオーク・パークに自邸の第1期分を建てた1
あった。第1は、1936年ペンシルバニア州にライ
889年から、最も美しい草原住宅、「クンレイ邸」
トの代表的作品の一つ「カウフマン邸」(落水荘)。
「ロビー邸」の竣工した1909年までの20年に間
滝の上に片持梁(キャンティレバー)でせり出した住
に140ほどの住宅その他の建築をし、50に近い計
宅である。
*1936年、カウフマン邸(落水荘)
画案も行っている。タリアセン・イースト(詩人の名
前であり、具体的には「輝くがけの上端」を意味する)
は深い意味で東洋、日本的な伝統の影響が見られた。
直線的、シンボリックな建築へのアプローチをもつ古
典的かつヨーロッパのものに対し、門をくぐり、生け
垣に沿い、曲がりくねり、さらに階段を上り下りし、
大小の庭を巡り、はじめて建物の隅が木々の間に隠れ
見え、そして最後の角を曲がりきったところで建物全
体が見えるといった日本の手法である。
・1915年にライトとミリアム・ノエル(女流彫刻家)
は日本に来た。そして、日本には隅々まで文明があり、
版画、着物、音楽や詩から建築にいたるまで、どれ一
つとして偽物はないとライトは思った。「どうして、
こんなに人間の作ったものが洗練されていて清らかな
のだろうか?」とライトは不思議に思った。「もし、
私の受けた教育の中から日本の版画を取り除いてしま
ったら、私はどんな方向に進んでいったか分からない。
版画の説明してくれる、つまらないものを除去すると
いう真理が、建築における私の心を打ったのだ…」と
ライトははじめて心から認めたのである。
・1922年、帝国ホテル。マヤ文明の装飾と日本的な
スケールや詳細との豊かな融合。そして、建物を多数
の部分にわけ、それらの間に「エクスパンション・ジ
ョイント」を設けて、各々の部分は必要に応じて互い
に独立した動きが出来、かつ建物全体が軟弱地盤の上
・第2は、1938年に竣工した、ウイスコンシン州に
に「浮かせる」といった解決策をはかった。彼が日本
ある「ジョンソン・ワックス事務棟」(円型規準尺格
を去った2年後(1923年)、関東大震災が東京を
子に基づいてすべて曲線的である。連窓と主事務室間
襲った。新聞は帝国ホテルは完全に壊れてしまったこ
の屋根はガラス・チューブで出来ている。支柱はコン
とを報じた。「ホテルハ貴下ノ天才ノ記念碑トシテタ
クリートで巨大なゴルフの球座の形をしている→マッ
チ壊ワレズ 家ナキモノ多数完全ナサービスヲウケ祝
シュルーム構法)である。
辞ヲノブ」(大倉男爵の署名)という、いまでは建築
*1938年、ジョンソン・ワックス事務棟
史の1ページにおさまっている有名な電報がライトの
もとに届けられた。
*1922年、帝国ホテル
・1930年代にライトが建てた4つの建築は、アメリ
カにおいて、後にも先にも例を見ない、美しいもので
3
・第3は、1938年から始まった、タリアセン・ウエ
ストの建築群(多数の床の高低さ、内庭、思いがけな
い展望等々、最も充実した空間構成を形成していた)。
アリゾナ州フェニックスに近い、パラダイス渓谷にあ
るライトの冬の本拠地であった。
・4番目は、建築の原形ともいうべき「ユーソニアン住
宅」。ライトが1930年代終わりに明らかにした住
居で、当時、変化のある建築がいくつか完成している。
*1938~1959年、ウエスト・タリアセン
・1950年に完成したジョンソン・ワックス・タワー
(研究塔)。樹木に似せて構築された建築で、中央の
幹から各階の床版が枝のように出ている。
*1950年、ジョンソン・ワックス・研究搭
・第2次大戦も終わりの頃、2つの計画案を発表した。
それは螺旋形の斜路が中心的な主題になっていた。V.
C.モーリスのサンフランシスコ店(別称:モーリス
商店)と、ソロモン・グッゲンハイム財団のニューヨ
ーク美術館(別称:グッゲンハイム美術館)がそれで、
2つとも戦後建てられた。モーリス商店では、斜路を
単純に道路面から中2階へ昇る手段として用いた。し
たがって、斜路それ自身が展示なのである。しかし、
グッゲンハイム美術館では、斜路を実際の展示空間と
して、絵は螺旋状の壁に掛けるものとした。この斜路
は、中央の丸い吹き抜けのまわりを5回転し、ひとま
わり毎に螺旋が広がってゆくので、この建築の形は、
ライト風独特に外側に傾いてゆくのである。大きな円
形の吹き抜けの採光は2個所、1つは真上の丸い天窓
と、もう1つは建築の外壁の上部について最上階まで
回ってゆく螺旋状のガラスの帯とからである。この形
を合理化するために、ライトは3つの点を明らかにし
た。第1に、最上階までエレベーターに昇り、ゆっく
りと降りることは、観客が「博物館疲れ」を感じさせ
ない。第2に、外側に傾斜した螺旋斜路の壁は画架に
似ているから垂直な壁に絵を掛けるよりも、もっと忠
実な絵の展示が出来る。第3に、アーキテクチュラル・
フォーラム誌が述べたように「絵に使われる額縁が直
線的なのは、絵そのものよりも額縁つくりに関係があ
る」のである。 *1959年、グッゲンハイム美術館
*
・1956年オクラホマ州に「プライス・タワー」とい
う、アパートと事務所を含む小さな摩天楼を建てた。
ライトは30年来あたためてきた構想をはじめて実現
した。
*1956年,プライス・タワー
*F・L・ライト1959年4月9日逝去
F.L.ライトの言説:「有機的建築 」とは?
・自然環境にあっての、
都市環境にあっての「有機的建築」
とは?
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