埼玉 RB の初動と全体の動き 報告者 佐藤孝 活動日 2004/11/13,14,15

埼玉 RB の初動と全体の動き
2004 年 10 月 23 日 17 時 56 分。新潟県中越地方を中心とした
最大震度 7 の地震が発生。続いてそれに匹敵する大きさの余震が
連続して発生。夏に被害をもたらせた複数の過去最大級の台風通
過で緩んだ地盤を直撃した。死者 46 名(2005/3/18 現在)。避難生
活者は最大で 10 万人を越える甚大な被害をもたらした。
関東各地の RB の有志はネット会議を連日夜遅くまで開催し、連
携を計る。新潟 RB は翌日から長岡市、十日町を拠点に活動を開
始。25 日には小千谷市にも拠点を構え、被害状況などの情報収
集、緊急物資搬送などを行った。
関東側の RB からは、千葉 RB2 名が 25 日に月夜野-十日町小千谷市のルート調査を行い、被害状況報告 を行った。それを受
け埼玉 RB1 名と東京 RB4 名が 30 日未明に小千谷市入りし、現
地で茨城 RB6 名、千葉 RB2 名と合流した。
小千谷市災害ボランティアセンター(以降、災害VC)は NEWS な
どで知った全国のライダーが多数集まり、新潟 RB、NPO 法人救
難バイクなどの団体も協力しながらバイク隊を構成していった。
余震はなかなか納まらず避難指示が長期に渡り発令。そのため
建物内での活動は禁止。限られた条件の中、一般ボランティアも
バイクも供給過多の日も多かった。
10 月 31 日。道路崩壊のため通行止めだった R17 号が川口町
まで復旧したとの知らせを受信。すぐさま川口までの調査隊を派遣。
開通を確認し、川口町災害 V C 設立支援のため移動した。
川口町では山間と言うこともあり普段は静かな地域であろう山間
の多い地域。それが今回の震災で一変。峠道などの崩落道路が
多く、一時は孤立した地区も多く発生。
震度 3 を越えるやむことの 無い余震に怯える日々。常に頭の上
を飛び回る山古志村からの避難のヘリや報道のヘリの騒音。報道
陣、不自由な避難所生活から、疲労は日に日に溜まっていった。
追い討ちをかけるように悪徳ボランティアや泥棒被害も報道され、
ボランティアへの不信感が先行した。そのため、川口町災害 V C で
は、住民の方々へのできる限り最大限の配慮を心がけることとなっ
た。
バイク隊では自主的な車検まで行い、音の大きなバイクや威圧
的な服装のライダーなどは、バイクでの活動を制限された。
川口町災害 VC での埼玉 RB の活動は主に災害 V C 運営、及
び運営サポート(バイク車検、駐車場整理、資機材の調達、通行止
め箇所の調査など)、一般ボランティアとしてゴミの分別、運搬、片
付け(避難解除以降)などを行った。
また埼玉 RB へは、「支援ベースキャンプ」設立のための協力要
請が入った。遠方から来たボランティアが活動に集中できるよう宿
泊スペースの提供、作業物資 の提供などを行うためのものだと言
う。埼玉 RB では一部隊を編成し、その運営物資の運搬や周辺の
状況調査などを行った。
細かい活動については各者報告をご覧ください。
報告者
活動日
活動場所
佐藤孝
2004/11/13,14,15
新潟県長岡市、川口町
13 日∼15 日まで阿部さん、谷内さん、竹内さんの力を借りてバ
イク隊として活動してきました。たまたま実家が長岡で震災が起き
た直後に長岡入りをし、10 日間実家の修繕や山古志村避難所の
ボランティアを行ってきました。(これも、たまたま住んでいる松伏町
と山古志の交流があったため)生まれて始めてのボランティアでい
ろいろ感じるものがあったのですが、今回バイク隊として感じたこと
を書きたいと思います。独り言だと思ってください。
※ボランティア・・どこか偽善でも興味はある人に喜ばれるとうれ
しい バイク隊・・かっこいい 自分の技術が役立つかも? 道なき
道を行く など、いろんな妄想をしながら活動を始めたのですがす
べて外れていました。
受付を済ませバイク隊の受付前で待っていると1 時間もしないう
ちに自分は役に立たないかも?このまま活動班の出発を見送るだ
けなのかな?そう思っていたら、初出動!ガムテープ5 個を避難所
に届ける仕事、2 台で・・・ ますますこんなんでいいのか?しかも
車も通れる道!お昼からVCで発行している情報紙の配達。これも
安全な道。新聞配達?これも役に立っているのか?それも8ヵ所く
らいしか 行かないし、「明日はバイクを降りて活動班で力仕事 にし
よう。」
そんな時、小さい避難所の50M先におばあちゃんが立っていて、
付き添いのおじいちゃんが「すまんが、水を持ってきてくれ 」と自分
たちに言うので、「わかりました!今行きます。」少しは役立つか
も??
そうしておばあちゃんと話し込んでいると、おばあちゃんは目が
不自由で50M先の避難所から自宅まで水が運べないことがわか
り、さらに聞いてみると、怖くて2階に上がれず肌着も薄手のが1枚
しかないとのこと。
すぐ無線で他のバイク隊の人に肌着を運んでもらい、おばあちゃ
んに喜んでもらえました。その待っている間、おばあちゃんは自分
の手を放そうとはしませんでした。自分はおばあちゃんのおかげで、
救われた気がしました。喜んでもらえてよかった。
2日目も同じようなことがあり、1人のおばさんが喜んでくれた。
また救われた気がした。
そうして2日間で感じたこと、災害復旧は生きている、子供の成
長みたいに始めは水、食料だけでいいし、バイクじゃなきゃ活動で
きないことも沢山あったことだと思う、次は小学生みたいに少しわ
がままになってきていろんな物がほしくなり、今の被災地は思春期
の子供みたいにそれぞれの事情で人に言えない、言わない事がた
くさんあると思う、だから今まで以上にコミュニケーションが必要に
思えます。そこにバイク隊のニーズが出てくるのかも?
ゆっくり顔を見せながら、話し掛けながら走ればもっと役に立つ
的を得た活動ができるんじゃないかと思えました。「情報誌を配る」
は、コミュニケーションを取りやすくするツールだと思えば8ヵ所の
避難所だって回りきれるかどうか ・・・
次も日程を調整してヘルメットを持って、手袋はめて、コミュニケ
ーションを取りに行くつもりです。長々と偉そうに書いてすいません、
ただまだいろんな事を考えます。
もし、おばあちゃんが「怖いからまだ一緒に居てくれ 」って言った
ら自分はどうしてたか・・・・
報告者
活動日
活動場所
安部幹人
2004/10/30,31 11/6,7,20,21,22
新潟県小千谷市、川口町
地震発生以降、至る所通行止め。どこで活動しようかと言う以前
に「現地まで行けないかもしれない」というのが最初の課題だった。
10 月 25 日の千葉 RB から関東方面から小千谷市までのルート
確保の情報があり、30 日には関東方面からRB が集まる情報から
埼玉 RB としては先発隊となる私も小千谷入りを決めた。
水害の時には被害地域 を離れれば普段の生活があることから
食料などは現地調達が可能であったが、今回の震災被害では一
度現地入りすると外に出ることが困難であることが 予想され、全て
自己完結の装備が必要。より周到な準備が必要だった。
震災発生直後から新潟 RB が活動を開始。長岡市を拠点に被
害状況調査、緊急物資搬送などを行っていた。それから見ても今
回の活動はバイクが不可欠である。バイクで現地入りしたい。しか
しバイクに積める量も制限がある。ガソリン補給を考え携行缶を準
備。しかしバイクに積めなく諦めた。
バイクはロードバイクのため無給油で300km 以上は走行可能。
阪神大震災でもガソリンスタンド被害は少なかったという記録から
現地付近で満タンにすることにした。
キャンプ用品一式、食料(かさ張らないよう、レトルト、アルファー
米を準備)、飲料水、救急用品、…。
活動に必要な無線機なども装備し、全く補充無しで 2 日間活動
できる準備を整えた。
時間と共に変化する現地の状況。関東の他県 RB と連日、夜遅
くまでネット会議。各 RB の動きなどを情報交換し、週末の作戦を
練った。
◇小千谷市(10 月 30,31 日)
前日より千葉 RB、茨城 RB がすでに現地入りしていた。東京
RB と共に現地入りした私は彼らと合流。話を聞くと、小千谷市災
害 V C は新潟 RB ら努力によりすでにシステム化。十分に機能して
いるという。
余震が続いていることから建物の立ち入りは禁止。人数が必要
な片付けボランティア活動はまだ開始していない。新潟 RB の活動
を聞きつけた全国のライダーが集結しているため、ボランティアが
過剰気味にあると言う。
まずは一般ボランティアとして私もバイクボランティアに参加した。
この日のニーズに対しての私の活動は2件。
1 回目の相棒は鹿児島から駆けつけたというフリーター。2 回目
は 1 週間前に免許を取ったばかりと言うアウトライダー。いやはや
なんと表現すべきか。
内容は要求者のところまで市販の薬や食料などを運搬し、他に
困っていないか調査表にしたがって聞き取りしてくるというもの。
要求者の住所が「○○小学校周辺の避難所」っと、非常にアバ
ウトなため要求者を探すのに苦労した。
聞き取りついでに避難者の人と話をした。震度 5 を超える余震が
続いているため倒壊の危険が無い建物であっても、建物内で生活
するのが怖く、寒空の中、車の中かブルーシートで作った仮設テン
ト、または玄関のコンクリートの上で就寝しているという。
食料の配給は一家庭におにぎり1個とダンボールいっぱいの甘
ったるい菓子パンのみ。お腹はとても空いているが、毎日これだか
ら食べる気がしないと言う。
小学校などの大きな避難所ではいろんな団体が炊き出しにやっ
てくる。避難所にいる人はそれにあやかれる。しかし、自宅待機し
ている人たちにその情報が来る頃にはすでに終了している後。だ
からと言って、入所希望すると人がいっぱいだと拒否されるため、
まともな食事にありつけないと言う。
後日談では場所によっては鮮度の短い食料が集まりすぎ、腐っ
て廃棄したところもあると言う。
震災後設置された仮設トイレも、近所の人も使うために2日で満
杯。行政の汲み取りが来ないために困っていると訴えていた。
不満、要望は詳細に書きとめ、ボランティアセンターへ市民から
のニーズとして報告した。
翌日、通行禁止になっていた R17 号が通行可能となり、小千谷
市から川口町まで通行が可能になったという。
川口町は災害 V C がまだ正式には立ち上げていないと言う。す
ぐさま災害 VC の要請により調査隊を組織。道路状況、被害の状
況の調査を行い、千葉RB、埼玉 RB は拠点を小千谷に移した。
◇川口町災害 VC(11 月 6,7,20,21,22 日)
比較的平地の多い小千谷市に比べ、川口町は山が多く、各地区
へ通じる道路は崩壊し、一時は孤立した地域がいたるところにあり、
最初の震源地でもあるためか被害は甚大だった。
VC 設置前に悪徳ボランティアが出現したため、元々外の力を借
りず自分たちだけでやってきた地元の人たちにボランティアは受け
入れられない。夜も休むことのできない強い余震、常に鳴り響くヘ
リコプターの音、取材に災害を見にきただけの不届き者たちに地元
の人たちはピリピリしていた。そのため川口町 V C もボランティア に
多くの規則を作り、対応していた。
私は最初の週は後発隊のため川口町の被害状況調査と現地宿
泊地確保などの基盤作りを行った。次の週には RB から離れ、一
般ボランティアとして登録し、活動を行った。
活動内容はゴミ一時置き場の管理。水害の時にはゴミの分別が
なされていないのが眼に映ったが、その経験が生きてるのだろうか 。
ゴミの分別日がそれぞれに決められ、周知徹底されていた。
次の日には「SOS、オムツ、ミルク」と道路に書き、救援を待った
和南津地区。すでに道路は舗装されていた。午前中はこの日出さ
れる棚などの粗大ゴミの運搬を手伝った。手伝い終わって V C へ
戻る途中、声をかけられたが「ボランティア に何を頼んで良いか分
からない」と言われ、私も少々戸惑った。「とりあえず中見せてくださ
い。」と、家の中を見せてもらうと、他の家ではほとんど片づけが終
わっているのに、この家は災害直後のように棚は倒れ、ガラスが散
乱し、歩く場も無かった。余震が怖く、建物に入れなかったと言う。
VC に数人応援を頼み、歩く場所の確保と、ゴミの分別を行った。
町のゴミの基準に従って分別。前の日のゴミ一時保管所の活動を
行っていたため分別内容に迷うことなく
、意外なところで役に立った
なと一人で感心していた。
午後に入って、家の人に TV を見るよう促される。噂の TV で川
口町の様子が移っていた。先週行った田麦山地区の映像が流れ
る。地区の 90%が全半壊とアナウンス。そうだよな~。ひどかったも
んな~。と思っていると、「SOS、オムツ、ミルク」の映像。「この家か
ら 20m のとこよ」家の人が教えてくれた。続いてインタビューに変
わった。あれ?見たこと有るぞ!と思った瞬間、家の人が、「お父さ
ん出たよ!」ありゃりゃ!この家のお父さんジャン。話を聞くとこの
地区は一時は完全に孤立。最初は1家庭おにぎり1個しかなく、だ
からと言って建物にも入れずとても辛かったと笑いながら話してく
れた。まだ最初の地震から1ヶ月しかたっていない。建物もとても住
める状態ではない。しかしこれだけ笑顔で当時の様子を語ってくれ
る家族に私は心から「頑張ってください」と伝えた。
川口町は豪雪地域。冬の間に被害が増える可能性もある。また、
田畑、池などが壊れ、今年の田植えが見送られるという報道もあり
ます。復興までは長い年月がかかると思いますが、私も引き続き
支援して行きたいと考えています。
報告者
活動日
活動場所
大澤サユリ
2004/11/20,21,22
新潟県川口町
震災から早くも1 ヶ月過ぎようとしていた、11 月 20 日早朝「龍紅
(りく)2 歳のお誕生日おめでとう」と、寝ている息子二人にキスをし
て、家を出た。
新潟に知人も居て気にはなる。幸い被害は少なかったと言うが
大変な事になった、と言っていた。私も子供が生まれてからは ボラ
ンティアどころではなかったが、今は二人の子供も少し手を離れ、
主人の休みも重なり、「面倒見てあげるから手伝いに行ってきな
よ!」の後押しで新潟県川口町に入る、休日という事もあり、朝か
らボランティアセンターには人が溢れていた。まだまだ復興が遅れ
ているようで、見渡す限りの家や、道路、犬小屋までが倒壊破損し
ていた。報道で知るよりも、自分が現地に居ると、色んな思いがこ
み上げて胸が痛くなる。
3 日間に渡り、粗大ゴミの収集場の管理、瓦礫の片付け、畑の
お手伝い、飲料水の運搬川口町周辺から小千谷町までの被害状
況収集などをした。その間、他のボランティアさんと共に活動し、お
手伝い先の方の災害直後の話を聞く事が出来、自分ながらに少し
はお役に立てたのか?なんて思いながら上尾に戻る。
家に戻ると家族が笑顔でお出迎え、息子が飛びつく・・・「ママ、
なんだか汚い??」そうだ!3 日間お風呂に入ってなかった。
後日、川口町の関さんから絵本が届いた、私がイチジク畑のお
手伝いをしたお宅だった 家は酒屋を営んでおり、余震に怯えなが
ら割れた酒瓶などを片付け、母屋自体も物が散乱し大変で畑仕事
所ではなかったと言う、震災直後は行政の対応が遅く、家が倒壊し
た近隣住民のため、収穫前の畑をつぶしテントを張るために提供し
たらしく、とても勇気の要る事だったと思う。そんな体験を、まだ傷も
いえないうちに涙ながらに話をして下さり。私はゆっくりと話を聞くこ
としか出来なかった。
「何年か先、野山もきっともと道理に・・・それ以上な町にしますか
ら、今度は遊びに来て下さいねぇ」と言っていた。地元の人は力強
かった。きっと戻ると私も信じてる。子供に読んであげて下さいと。
川口町の事を描いている「野遊びずかん」という絵本と丁寧なお礼
文が入っていた、現地の方が今一番大変なのに、逆に気を使って
頂いて申し訳なく、そしてうれしくもあり泣きながら絵本を見ている
私に息子が
「サンタさんからママにプレゼント?善かったね、良いなぁ∼」
「そうだよ、皆にプレゼントだよ、読んで上げるね」
他にも一緒に作業したボランティアの方々からお手紙やメールを
頂き、今も交流が続いている。わずか 3 日しか居なかったのに、こ
んなにも人と人の繋がりが出来て、助け合い、触れ合う事は簡単
なのにとっても大切なんだと思う、私も助けられたボランティア活動
でした。
報告者
活動日
活動場所
早田正樹
2004/11/23
新潟県川口町
11月23日、川口町での日帰り活動を計画する。
この際、川口町資材ベース宛てストーブ、電気毛布等の輸送を
依頼される。前日夜に富士見市にて積み込んだ。ランクルの荷室、
目いっぱいとなる。大釜さんと2名乗車、午前4時川口町資材ベー
スへ出発する。
午前7時、資材ベースに納品を済ませた後、川口町 VC ヘ移動
する。VC で神奈川 RB、千葉 RB の方々と出会う。神奈川 RB 矢
代さんと3名で行動する。同町小高地区での屋根瓦除去作業 をさ
せていただくことになった。
作業依頼者方は度重なる余震により、自宅全壊の表示が貼られ
ていた。
その庭南、西、北3方向に落下した屋根瓦が山積している。一見、
これを当初 V C 指示の半日で片付けられるのかと不安になるがや
れるだけやってみようと思い直す。
自分達3名と高齢のご夫婦、計5名で庭一面 に散らばった瓦を
持参したバール、スコップ、カナヅチで細かく砕き土嚢袋に詰めて
いく。ある程度、袋がたまるとネコニ載せ、前面道路の亀裂部分に
撒く作業を繰り返す。程無く額に汗がにじむ 。11月というのに今日
はやけに気温が高く感じる。汗を拭うついでに腕時計に目を落とす。
「もう10時?」まだ南側1面さえ片付いていないのに・・・
「休憩しよう。」と旦那さんから誘っていただく。
被災から1ヶ月。まだまだ自宅、その近辺の片付けは残っている
中心づくしのお茶受けをごちそうになる。
ゴザを敷いた玄関先道路から見る風景は静かな静かな山間の
里の秋。震災さえ起こらなければ知らないままの山里。ここに来る
事ってあったのだろうかと考える。
旦那さん、奥さんともここ小高地区 の四季、旬のものさまざまな
話題を教えてくれる。 一瞬胸が詰まった。言葉にならない思いが
頭の中を駆け巡る。
お茶をごちそうになった後、再び作業を続ける。汗みどろ・・・
や
がて昼になった。
奥さんが焼き芋を作ってくれた。初め遠慮するもご厚意。ありが
たく頂いた。ホクホクの甘い焼き芋、ここ数年口にしていなかった。
3名とも昼食は持参していたが、自家製のお漬物と併せおいしく頂
いた。
活動は半日との VC 指示ではあったものの3名で相談の結果、
午後からも作業延長すれば瓦は完全に除去できるとの結論に達し
た。田麦山小学校内の本部に携帯電話 。作業延長を申し出る。
「気温上昇の為、充分な水分補給を。」と回答をもらえた。
午前中からの作業を継続する。依然、汗が噴き出してくるが、旦
那さんの押すネコは時として自分達のそれを上回る。 黙々と・・・
淡々と・・・
上から照りつけていた陽射しが西に傾きだす頃、瓦の下から覗く
地面が増えてくる。 疲れた体にカツが入る。
「もう少し。」
上空にヘリが旋回しだした。ローター音が耳障りだ。訊けば昨日
までもっと多くのヘリが飛んでいたという。報道の重要性を否定は
しないが、被災された立場になって考えると、被災地に騒音を撒き
散らした結果、被災地外へ提供される写真、映像にどれだけの価
値があるというのか。
夕方近く、屋根瓦除去作業を無事に終える。つかの間の安堵感。
しかし、この地区に住まう方々の今後を思うと安易な言葉にできな
い。
結びになるが
「頑張って。」
という言葉はあえて触れないでおきたい。
もう雪は解けてきている。時間をつくって近いうちに再度行 きた
いと思っている。
今回持参した装備で瓦礫除去作業時に役立つと思われるものを
個人的な見解で挙げてみた。
ü 靴底の厚いもの(安全靴、トレッキングシューズ等)は不安定な
足場上での
ü 長時間の作業でも滑りにくく疲れにくいので○。
ü ヘルメット(工事用であご紐付き)は軽量なものを。
ü ゴーグルと防塵用マスクは作業内容によっては必要な場合も。
ü スコップ、バール、カナヅチは瓦礫除去作業時、必携と思う。
ü 手袋は予備も含め、頑丈な皮手袋とゴム手袋を。
ü 着替えは時期を問わず荷物にならない程度で。
報告者
活動日
活動場所
神原幸雄
2004/11/7
新潟県川口町
11 月 7 日(日)の朝 4 時 20 分暗い中をバイクに寝袋等の大荷
物(総重量は 50 キロはあるかな)をくくりつけて自宅を出発。関越
道の上里SAで、バイク搭載の車と四駆のジープの仲間2 名と合流。
大荷物を車に載せてもらい身軽になったバイクで川口町へと向か
いました。
六日町を過ぎた頃から片側の一車線通行になり路面には亀裂
が出始め、災害地に向かっているという緊張感が高まる中越後川
口I
Cに到着。自衛隊の車がサービスエリアにあふれんばかりに止
まっている。川口町へ向かう道路は陥没して道路が半分無い。
自宅のテレビで見た状況を目の前にして、よっしゃー頑張ろうと
気合が入ってきた勢いで、川口町のボラセンで一般ボラの仕事を
待っていたが、ニーズが無いのか仕事待 ちのボランティアの人が
たくさんいる状況なので、先発のバイク隊と合流して 2 班に別れ付
近の道路状況並びにお店等の営業確認のため偵察にバイク走り
ました。
私は山古志村近くまで悪路に車輪を取られるのに気をつけなが
ら進んだがどのルートでも途中で道路は寸断されており山古志村
へは行かれない状況でした。
時間を見ると午後 1 時を回っており凄い空腹を感じよく考えると
早朝から食事もとらずにバイクで走り回っていたんです、先発隊が
設営してくれたベースキャンプに戻り昼食をいただき生き返り、水
道が復旧していないのでベースキャンプのトイレ用の水を近くの池
に水汲みに行ったりしているうちに夕方になり、夜はテントで寝袋
に毛布を掛けて下から突き上げるような余震が来る中で寝ました。
8 日(月)は近隣の住人からお風呂に入りたいというニーズがあ
り、長岡市で風呂桶を提供する事業者がいるというので、仲間と 2
人でトラックで長岡市の事業者に行き風呂桶を積み込みトラックに
乗り込んだ直後トラックガゆさゆさと揺れる。
外を見ると町全体が波打っているように感じ、震度 5 の余震にビ
ックリでした。
帰りの高速道路は閉鎖されたので国道 17 号に回ったが大渋滞
で 2 時間近くかかってやっとベースキャンプに帰ってこれました。午
後からは一般ボラで仕事に従事する予定でしたが、時間が無くなり
残念でした。
遅い昼食を取り本日現地入りする仲間を越後川口I
Cまで迎えに
行き、荷物を整理しバイクにくくりつけて午後 5 時過ぎに現地を後
にしました。
こんな感じで新潟に行ってきました。私の行動が被災者の方に
役に立ったのかわかりませんが、多少でも関わりを持てたことと自
分の勉強に成ったことに少しだけ満足した。私の始めての災害ボ
ランティアでした。
報告者
活動日
活動場所
印南俊明
2004/11/5
新潟県川口町
仕事関係のヤツらと打ち合わせを兼ねた飲み。3 時頃まで飲ん
で酔っぱらってげろ吐いて寝て起きてテレビをつけたら、目に飛び
込んできたニュース映像。
転落して土砂に埋もれた車を救出するレスキューの様子。夜を
徹した作業だ。 もちろん彼等らはボランティア ではない。仕事だ。
危険手当を含む給料のうち。だがそれにしても、だ。 俺がぐだぐだ
酒飲みながらくだらない話しをしている間中も、ゲロ吐きながら歩い
て帰る時も、ヨダレたらして寝てる時も、彼等は不眠不休で土砂を
ほじくってた。 なんだかもう、ものすごく申し訳ない気持になって、
いや別に俺は誰に迷惑をかけたわけでもないんだけど、ほんとに
ごめんなさい。誰に?わかんないけど。
レスキュー隊の活躍で、2 才の男の子は奇跡的に助かったが、
お母さんは亡くなってた。女の子は、一時は望みがあるような 報道
だったが結局は、、、。 神様って野郎は、いったいどういう基準で
人の命を奪うんだろう。アタマイカレてるんじゃねーのか。 (もっと
も「俺は神様だ」などとホザいてる野郎がいたらそいつは間違いな
くイカレてるわけだが。)土砂に埋もれてくたばるべきは、酒喰らっ
てバカ話でバカ笑いしてるバカな俺だったんじゃないのか。
いやしかし、ホントにそんな事になったらそれでもレスキューはほ
じくるんだろう。申し訳ない。
被災地入りを考える。しかし行ったところで俺にできる事がある
のか。ヤジ馬にしかなりえないんじゃないか。それどころか足手纏
いになりはしないか。コンビニの募金箱に釣り銭投げ込んだほうが
よっぽどマシなんじゃないのか。
ボランティア=偽善
という図式を思い描いてしまうのか、否定的な意見を聞く事もあ
る。 自分のとこに余裕も無く、足元もおぼつかないのにヨソに対し
て何ができるものか、という人もいる。 だがそんな事は聞きたくな
い。 何もしない善と行動する偽善、どっちがどうなのよ? 社会福
祉より自分ちの充実が先なんだとしたら、誰がいつ充実するんだ、
どこで満足できるんだ、いつになったら外に目を向けられるんだ。
そんなものは同時進行でいいのだ。
・・・そんな事をホザきながらも二日酔いで目が回る。俺はマヌケ
で、無力だ。
◇2004 年 11 月 05 日
幸いに仕事が落ち着いたのでいてもたってもいられず新潟に行
ってきた。一日だけの日帰り。
まずは小千谷に入ったのだが、川口町のボランティアセンター立
ち上げが遅れたとかで、予定を変更して川口町。国道 17 号の川口
と言ったら、市と町の違いはあるがなんとなく他人事と思えない。
ニュースの映像なんかひどいところだけ編集してるんだし、まあ
それほどでもなかろうとタカをくくってたって出かけたワケだが。 行
ってみたらいたるところで建物も道路も崩壊していて驚く。 ジャスコ
はぶっ壊れてて、駐車場 に張ったテントで営業してた。 国道は崩
落して真新しい迂回路ができてる。崩落した土砂が崖下の線路を
埋めている。傾いて電線に寄り掛かかった民家がギシギシ音を
たててる。電線一本で辛うじて支えられてる。避難所の仮設トイレ
が糞尿で溢れている。自分の家に入れず、自分ちの庭でテント生
活をしている家族がある。
そんな状況の中で俺がやった事と言ったらあちこちの 避難所を
バイクで回ってボランティアセンター 発行の印刷物 を配ったり、要
望の聞き取りとか、ボラセンで使う資材の買い出しとか、そんな程
度だ。それでも避難所では被災住民の生の声を聞けたし、参加し
てるボランティアのやつらにもいろんなタイプがいるってのがわかっ
ていい勉強になった。大して役にたっちゃいないが、経験値があが
ったって事にしておこう。
帰りに小千谷駅周辺を見て来た。電気は復旧していて商店街の
アーケードには煌々と照明が灯っている。なのに営業してる店がな
い。なんとも不思議な光景だった。 こんな災害に遭わなければ本
当にいい町だったろうに。 一日も早い復興を祈りつつ帰路につく。