読谷村史より(農業・イモ)

読谷村誌より(農業・甘藷)
第一節
農業
はじめに
読谷山村の耕地面積は、対象一四年の「沖縄県小作ニ関スル調査」では、千八百六十一町歩弱(十八・
四六平方キロメートル)で、農家戸数二,八一二個、農家一戸平均経営面積は六・六反(六五四七平方メ
ートル)となっていた。土地はあまり肥よくではないが、基幹作物の甘藷の生産量が多く、黒糖の品質も
よく、甘藷・大豆ほか雑穀の産地でもあった。
戦後の『一九六二年村統計書』によれば、総面積三千二百七十町歩(三二・四三平方キロメートル)の
約六〇パーセント、千九百四十六町歩(一九・三平方キロメートル)が耕地で、農家戸数二千九百七十九
戸の農家率九五・四パーセントの純農村である。農家一戸平均経営面積は六・七反歩(六六四六平方キロ
メートル)で、戦前とさほど差はないが、甘藷単作農業から、現在では若者たちの間で花き園芸並びに蔬
菜栽培も盛んにおこなわれるようになっている。
家畜は農業経営上欠くことのできないものなので、戦前はほとんどの農家の屋敷内に畜舎があり、牛・
豚・山羊・鶏などを飼っていた。これは売買したりなどして利益を得る経済上の目的もあるが、食生活上
の栄養源、さらに自給肥料生産の目的で、ほとんどの農家が何らかの家畜を飼っていた。牛・馬などの大
きな家畜は中流以上の農家が飼育していた。
馬は日ごろ農耕用として、精糖期には甘藷運搬、並びに精糖場で圧搾機を回転させる動力として、また
黒糖運搬などになくてはならない存在であったが、頭数はいたって少数であった。馬のいない農家はそれ
を貸借して使った。
牛は肉用牛として肥育したが、厩肥を得る目的でもあった。飼料の草は製糖期には甘藷の派で半分以上
間に合うが、普段は草刈に手間がかかって仕事に支障をきたすため、稼動者の多い農家が飼育していた。
喜名・伊良皆・比謝・大灣などの青草地が多いところでは草刈も容易であったが、波平や高志保など青草
地の少ないところは喜名の東側の山間地帯、または多幸山辺りへ出かけて一日がかりで成牛一等分の草を
刈るのであった。
牛馬飼育の無理な農家では山羊を三頭以上飼育して、厩肥を間に合わせていた。山羊の肥料はチッ素(N)
燐酸(P)仮里(K)の「三要素」の含有率が豊富で、フィーザークェー(山羊糞の肥料)と言われて非常に重
要な肥料であった。飼料は毎日掘る甘藷のカズラで半分以上間に合うことができたので非常に便利であっ
た。特にユイマールー(奉仕的共同作業)をした時などに、山羊料理(さしみ・煮つけ・味噌和え・お汁)
を御馳走して栄養をつけるのをフィーザーグスイ(山羊薬)といって、農村では最高のもてなしであった。
豚は食生活上最も重要な蛋白源で、90パーセント以上の農家が飼育していた。飼料は甘藷や残滓がしゅ
たいで、ほとんど金のかからないようにして飼っていた。戦前までは人の排泄物を与える習慣があったが、
戦後はない。それから豚舎に続けてシーリ(肥溜め)を作り、そこに豚の糞尿を溜めておいて農作物の芽
だし肥料として使用した。
鶏は特に小農が数羽放し飼いにしていたが、稲の借り入れ、大豆その他の雑穀の収穫時期には鶏法度(放
し飼い禁止)のフリ̶(字布令)がでた。その明示された期間内に字役員が不意打ちに巡回し、見つかっ
たものは鶏を没収されても文句は言えなかった。鶏の卵は五個以上溜まったらマチヤ(雑貨店)に売り、
その代金で素麺や醤油などの必需品を買った。それが平均的な農家の暮らしであった。
馬の売買はごく稀であったが、牛と豚の売買はよくあった。直ちにカワイー(素牛・素豚)を買い入れ、
その利鞘は家計の足しにしていた。比謝川のほとりにウシマチがあったので素牛を求めるのに便利であっ
た。
戦争で村内の家畜はほぼ全滅したが、中頭郡内で生き残った家畜は、具志川村(現・具志川市)真栄原
の幸崎原に集められ、米軍管理の下で飼育されていた。それが昭和二二年(一九四七年)頃、中頭郡市町
村に配分され、読谷山村は豚数頭と馬1頭の配当を受けた。村では波平に豚舎を作って村直営で飼育し、
馬は喜名の宇栄原宗善(明治31年生)に委託飼育させ村の使役にしていた。戦争で各地に散らばってい
た村民が、郷里へほぼ移動完了した昭和二三年(一九四八)四月には、豚を各部落に配当し、馬は飼育者
に払い下げた。その後、本土やハワイ移民などから牛・馬・山羊が慰問として贈られてきたり、村農協の
斡旋によって奄美大島や久米島などから移入したり、個人個人の取り引きなどによって年を追って増えて
きたのである。
特に昭和五三年度都市計画法に基づいて「生活環境をよくするため屋敷内での養蓄はしないようにしよう」
ということで、畜産農家が激減し、農協や畜産を専業とする農家が多数頭飼育したが、総対的には頭数が
減っている。
農家における現金収入は砂糖代金(分蜜糖工場へ搬入する甘藷代も含む)がその60パーセント以上を
占め、あとは家畜の収入、甘藷雑穀の売上、農閑期のパナマ帽の編み賃、県外・海外へ出稼ぎや移民に行
った家族からの送金などによって生計を立てていた。農家の経済はほとんど砂糖依存だった。
黒糖一丁が七・八円であったのが、大正七年(一九一八)第一次世界大戦終結後、急激に上昇し、大正九
年(一九二〇)一月頃には、ついに一丁六〇円(一日だけであったと伝え聞いているが事実の程はわから
ない)となり、いわゆる物価高騰と言われた時代があった。商人は買いだめしようとしたし、農家は逆に
売り惜しみをした。しかし、直ちに物価が平常に戻り倒産する商人が多かったということである。黒糖の
高騰に便乗して諸物価がつりあがり、農家も一般的に損をしたということである。
大正年代から昭和初期における農業労務賃及び関係諸物価は大体次のようになった。
農業労務賃(一日) 男三五銭
五〇銭
女二五銭
三五銭
黒糖代 一丁
八円
十円
文蜜糖原料 千斤
五円
六円
甘藷 一斤
二銭
米 一升
三〇銭(県外米)
鶏卵 一個
二・五銭
豆腐 一丁
五銭
素麺 一斤
十銭
豚肉 一斤
三五銭
肉豚 一斤
二十銭(生体)
子豚 一頭
二円
三円(生体十五斤位)
山羊 一頭
八円
十二円(肉用生体)
泡盛 一合
五銭
三銭
五〇銭
煙草 (きざみ五匁) なでしこ三・五銭、はぎ五銭、あやめ八銭、さつき十銭
帽子編み手数料 一個
三〇銭
七十銭
当時の農家では相互扶助的な模合が盛んであった。大金を必要とする場合は十人
二十人くらいで組織
して年一回五〇〇貫(十円)・一〇〇〇貫(二十円)・一五〇〇貫(三十円)と大きな模合があったが、こ
れまた砂糖代を当てにしてのものであった。株主(模合参加人数)が十人なら十年、二十人だったら二十
年かかるので、その長い年月の間には不測の事態も起こるなどして決して穏やかではなかった。そのほか
月模合や、女だけの帽子編みの勘定(手数料)模合など盛んであった。食事は一日三食、甘藷とたまに素
麺や豆腐が入る味噌汁、砕米のジューシーメー(雑炊)、フィランメー(麦飯)、粟飯、ンムカシジューシ
ー(甘藷から澱粉を取った粕の雑炊)などがあった。来客の場合はチャワキ(茶請)として自家製の黒砂
糖や漬物などをだし、ごく親しい来客にはソーメンイリチャー(素麺炒め)、甘藷の澱粉を炒めたンムクジ
チャンプルーで接待していた。米やご馳走がたらふく食べられるのは盆や正月くらいのものであった。学
校生徒の弁当も甘藷三つくらいを手拭、またはシープ(芭蕉糸で作った小さい編み袋)にいれて持ってい
って、おかずなしで昼食としていた。
作業着はクルヂナーとよばれる竹筒の膝までの短衣で、もちろん裸足である。戦後はアメリカ軍のHT
P
(軍服)から次第に洋服に変わったのである。
農耕地は東シナ海に面した緩い傾斜地帯に大半が集中しているので、日照時間が長く作物の生育には好条
件であるが冬は西北からの強い季節風が吹き、夏季の台風の時は波しぶきが吹きあげ、農作物の被害はき
わめて大きい。時に秋の台風の時には甘藷と野菜は全滅に近く、甘藷の茎も腐れ、新しく植え付ける苗も
なく他村に頼らねばならない状況だった。甘藷も折損倒伏し、葉は潮風にもまれて半枯れ状態で収量が減
り、歩留りも悪く、他村より被害の程度は大きかった。
農作物には病害虫が付きまとうが、読谷山村は全域がマージ地質で乾燥地であるため、土中の害虫も生
息しやすくその被害も甚大であった。害虫は捕まえて踏み潰すなどの方法で駆除した。明治四四年三月八
日付
「琉球新報」には、石油乳剤を被害作物にかふりける使用法が記載されている。昭和十五年十月一九日付
「朝日新聞」にはスルル虫を砒酸鉛、砒酸石灰で薬物駆除するよう督令がなされ、全学童総動員して捕獲
駆除を行ったと報じているが、読谷山村内で農薬がいつ普及したか定かではない。また自家製の農薬とし
てデリス根からとれる液と石鹸水を混合した物を使用した。しかし、使用するのは毒物の扱いになれたご
く少数の人であったし、水田の使用は禁止されていた。このように農薬の普及、使用率は低かったといえ
る。
農作物は同一畑に同一作物を連作すると土壌中の一定の肥料要素が欠乏し、作物の発育が悪くなり、病害
虫の発生も多くなるので、数種の作物を交互に栽培することが必要である。ところが換金作物は甘藷が中
心であるので、読谷山種時代(明治二一年から昭和初期まで)は第一回甘藷を植え付けたら株出しをして、
三・四年は同一作物を栽培していた。昭和六年に大茎種が普及してからは、それも幾分緩和され輪作され
るようになった。輪作は耕地面積の多少によって大きく異なるので一様ではないが、その体系は甘藷中心
でおよそ次のとおりであった。
◎ 甘藷→大豆→甘藷→甘藷
◎ 甘藷→甘藷→豆類・雑穀→緑肥→甘藷
(二)芋類
1.甘藷
沖縄に甘藷が伝来したのは尚寧王の時代、万歴三三年(千六百五)である。北谷間切野国(現・嘉手納
町)の野国総官(進貢船事務長)が明国(現・中国)から甘藷苗を鉢植えにして持ち帰り、自分の部落や
周辺部落で栽培して人々に与え、食料として非常に喜ばれた。これを聞いた小祿間切儀間村(現・那覇市
垣花地域)の地頭・儀間真常はは、さっそく総官から苗をもらい、自分の試験地で研究栽培した。その結
果、沖縄の気候に適している上に五、六ヶ月で収穫でき、さらに味も良好だったので住民の食料に最適だ
と考え、村々を回って指導奨励した。野国総官が明国から甘藷苗を持ち帰って十五年後には全琉球に広ま
り、住民の食料並びに家畜の飼料として重宝されるようになった。
甘藷伝来以前は台風や長期早魃のために食料不足で多くの餓死者が出て、五〇〇有余年前の第一尚氏末
期の人口は七万人にすぎなかったが、甘藷の普及で食料が増産した尚敬王の時代には二十万人になり、昭
和十二年(一九三七)には六十万人になった。救荒作物として琉球住民の生命を守り、こうして急速に人
口が増加したのは甘藷のおかげであった。それから野国総官は「ンムウシュー(甘藷御主)」と呼ばれて住
民から尊敬されるようになった。その道徳をたたえ、同年十一月十日、県知事を会長とする各種団体は那
覇市奥武山公園内に世持神社を建立し、具志頭親方蔡温、儀間真常と共に沖縄産業の三大恩人として祀り、
毎年十月十日農業団体の主宰で世持神社感謝祭が行われている。読谷山村では、次に挙げる字が字行事と
して野国総官の偉業に感謝し偲ぶ日を設けている。喜名では三月の清明の日に、上池・古堅は十月の初庚
の日に、長浜は三月十六日にそれぞれ字内に仕立ててある野国総官招魂の碑に甘藷などの供物を供えてそ
の偉業に感謝している。さらに高志保、瀬名波、大灣は三月の清明に、渡慶次は四月二日に、甘藷などを
供して北谷村(現・嘉手名町)にある野国総官の墓に向かって遥拝している。楚辺では浜辺で遥拝してい
たという伝承があるが、現在ではやっていない。いずれも字行事として古くからやっているが、特に高志
保では「一三四番地の西前宇座小にンムウシューに関係する人(現在でいう農業改良普及員)が甘藷をも
ってきて農家に配布した」という言い伝えがあって、戦前までは当家でご馳走を準備して隣の空き地でウ
ムウシュー祭りを盛大に行っていたということである。
万暦三八年(一六一〇)頃、甘藷は薩摩(現・鹿児島県)と長崎県に伝わり、当地では琉球甘藷といっ
ていた。擁正十二年(一七三四)青木昆陽は徳川幕府の命によって薩摩から甘藷苗を取り寄せ関東地方に
普及させた。野国総官が中国から甘藷苗を持ち帰ってから一六九年目にあたる乾隆三十九年(一七七四)
頃には日本全国に広まり「さつまいも」と呼ばれるようになったということである。
こうして甘藷が当時の琉球から全国に広まったのであるが、三四〇年も経過した昭和二十年(一九四五)
まで、沖縄住民の主食糧、並びに家畜飼料としても極めて重要な作物で、耕地面積の四、五十パーセント
をしめていた。しかし、戦後は食生活が急変し、間食程度に食されるようになったものの、家畜飼料とし
て欠かせないものであった。
なお、甘藷は主食にするほかンムクジ(澱粉)も作った。これはンムクジシリー(大根卸しの大きいも
の)
で甘藷をすりおろして水洗いし、布で漉して、沈殿物を乾燥させて貯蔵する方法で、病害虫被害甘藷は使
用しないこと、甘藷の熟度適期のもので、おいしい甘藷を使うのが好ましい。歩留まりは最高二四パーセ
ントで普通十七・八パーセントであった。澱粉の利用はンムクジアンダーギー(テンプラ)や、水でこね
たンムクジを豚油で煮るンムクジプットゥルーがあり、客の接待用によく使われた。また着物の糊付けに
使われた。
澱粉製造後のンムカシ(芋粕)を、鳥の卵大に握って乾燥させ非常用にした。食べるときは臼でひい粉に
してンムカシメー(米飯代用)にしたり、煮芋とまぜて水でこねて黒糖を入れ、またはそのままでンムカ
シナントゥー(直径三寸ぐらいの平たい形にして、月桃の葉にのせて甘藷を蒸すときそのうえにおいて蒸
す)を作り、薄く切って油で揚げて食べていたが、そんなにおいしいものではなかった。
万暦三十三年(一六〇五)に中国から移植した甘藷の品種がどんなものであったか定かではないが、それ
が原種になって自然にまたは人為的に改良され、読谷山村で栽培されるようになった。主な品種は「暗川
(赤・白)
」「佐久川」「佐久川十三号」「名護ウランダー」「泊黒」「長浜」「真栄里(赤・黒)」「那覇屋」「台
湾」「松川」「花ウティー」「沖縄一号」「比謝川一号」「八重山赤粉」「又吉」さらに「沖縄百号」から「百
五号」まであった。熟度によって早生種・中生種・晩生種があり、早生種は植付け三ヶ月くらいで収穫で
きるが腐れやすく、晩生種は収穫まで六ヶ月を要するが腐れにくくて、畑に長くおける特徴がある。早生
種に「又吉」「比謝川一号」、中生種に「沖縄一号」晩生種に「暗川」などがあった。家畜の多い農家では
収量の多い「台湾」「又吉」などを栽培して飼料に当てた。
「暗川」は明治初期に楚辺で自然実生から育成されたと伝えられているが、澱粉含有率が高く、味はごく
良好で専ら食用に供せられ、戦前は「楚辺暗川」と称されて有名だった。大正七年(一九一八)頃の作付
面積は「真栄里」
「佐久川」
「長浜」についで第四位であった。
「佐久川」は明治二七年(一八九四)頃、字比謝の佐久川清助(一八五〇
一九一一。童名鍋)が「泊
黒」「暗川」「名護ウランダー」の三品種を混植栽培した畑から、自然結実した種子を育成して淘汰選抜し
たものであるが、これを固定するまでに実に八年を要したということである。佐久川清助の姓をとって「佐
久川いも」と名づけられた。
大正十年(一九二一)には沖縄県農業試験場において、同種から「佐久川十三号」ができて沖縄県の奨
励品種として永年栽培された。その功績により、佐久川清助は昭和四二年(一九六七)農林大臣賞を預か
った。地元の比謝では翌四三年に、同字四二番地に「佐久川いも発祥の地」という碑建てて同氏の偉業を
偲んでいる。
「沖縄百号」は昭和四年(一九二九)県農業試験場技師の松永高元(一八九二
一九六五)が三年がか
りで改良した品種で収量・味ともに優秀な甘藷で、当時は沖縄県の奨励品種の中でも一級品であった。
沖縄県の奨励品種は食用として、「ナカムラサキ」「サキヤマベニ」「アジマサリ」「沖縄百号」の四種で
家畜用飼料は「ナツマサリ」「オキユタカ」である。
現在、読谷村では「宮農三六号」や「八重山赤粉」「ビセ」などが栽培されているが、「読谷山紅いも」
と言われている「宮農三六号」は終戦直後、宮古農業試験場で育成され昭和二五年(一九五〇)より普及
栽培されたものである。栽培法には平植法と畦立法の二種がある。平植は甘藷伝来以来、儀間真常の研究
によって三百有余年行われている方法だが、昭和八年(一九三三)より、沖糖社農務課長・宮城鉄夫が畝
立法を研究して普及奨励した。畝立をすることによって土地の表面積が拡大され、日光の透射・空気の流
通・排水が良好となった。その結果、土壌が膨軟になって、甘藷は太りやすく、形がよくなり澱粉の多い
貯蔵に耐えうるおいしい甘藷が平植(県平均一坪六斤
七斤)の二、三倍多く収穫できた。甘藷の作付面
積を半分にしてその分、換金作物の甘藷作を増やすことができるという理論である。さらに、平植は手入
れのたびに前面に足を踏み入れなければならないが、畦立植は溝から簡単に手入れができ、収穫する労力
を軽減できる、という二重の利点があった。
ところが、農家は「畦立植は畦立て作業に労力がかかりすぎる」とか「排水良好なため少々の雨では植
付けができない」、さらに早魃・台風・土壌害虫・野鼠の被害が多い、肥料が流れる。植付け本数が少ない
などの理由で平植えを改めようとしなかった。そこで各字の役員・青年会・婦人会などのおもなる人たち
を沖糖社牧原農事訓練所で一週間ほど実習させるとともに、各字に百坪から百五十坪ほどの指導圃を設け
させ、その農家に奨励金をだし、沖糖社の職員が出張指導まで行ったが、農家はなかなか応じなかった。
特に読谷山のような乾燥地ではなおさらであった。
ところが、昭和十三年(一九三八)頃から国策として甘藷から無水アルコールを製造するということにな
ったので県は澱粉含有量の多い甘藷作り、つまり畦立植の普及育成に一層力を入れるようになった。甘藷
が軍需品に変わったのであるが、それでも畦立植の普及は容易ではなかった。それはなにも読谷山村だけ
ではなかった。昭和十八年八月十七日付「朝日新聞」に次のような記事が掲載されている。
甘藷の平植えを一掃、全技術員が実施指導と督励
農業生産統制によつて定められた甘藷の耕種基準畦立植の不徹底な町村部落に対し県農会では徹底的指
導を行ふことになり、このほど中頭郡西原、中城、見里、北谷、読谷山、越来、具志川七ヶ村四十三部落
へ全技術員が繰り出して熱心な実施指導督励あたったが、更に、八月九日より三日間にわたって指導地域
の実情調査を行ひなほ残つている統制違反の
平植
に対してはいよいよ最後の断で厳重処罰することに
なった。
〈後略〉
生産統制令が何年に敷かれたか定かではないが、とにかく県と県農会が一体となって係官が市町村回り
して、その趣旨説明並びに栽培法について実施指導なりして躍起になっていたのであるが、この国策も敗
戦とともに自然消滅したのである。
(1)平植法
植付けの二週間くらい前に十アール当たり五百貫くらいの堆・厩肥をすきこみながら深耕し、細土し
ておく。
植付け時期はなるべく冬季は避けて、春から秋までがよい。最適期は四月から五月で、収量も多く畑
に長く置くことができる。
栽苗はなるべく植付けの前日に行う。苗床または収穫畑から無病健全で、その品種の特性を具備した
茎葉の先端を一尺くらい刈り取って日陰に置いておく。
植付けは適当な湿気のある時に、苗を南向きに斜め差しにして足で軽く踏み込んで行った。株間は約
一尺、一坪三六本を標準とした。
植付け後一週間くらいしてから根付をよくするため、濃度の薄い液肥をかける。芋つるが一尺くらい
に伸びた頃、追肥を施す。金肥がない時代は、手作りのンチャグェー(土肥)根元に入れ中耕し除草し
た。大正初期に金肥が出てからは、配合肥料三十
四キロを入れて中耕除草した。茎葉が徒長したら抑
制するため適宜、つる返しをする。
なお、平植えに類似した栽培法にフィンチャーというのがあった。これは大豆との混植で大豆の葉が
全体に黄色くなって落ちかかり、やがて収穫できる頃に、大豆の合間に甘藷苗を植え付ける方法である。
これは整地の手間がはぶけ、適期に植付けができるうえに、大豆の根粒菌(窒素肥料)を有効に使用できる
という利点がある。株間は一様ではないが坪当たり三十本くらいであった。施肥は大豆収穫後、前述の
平植えに準じて行った。
(2) 畦立植
畦幅三尺五寸のうち、二尺五寸幅に堆・厩肥五百貫くらいを敷き、ショベルであまり心土を掘り起こ
さないで、その堆・厩肥を覆いながらかまぼこ型に畦立てをする。
植付けは湿気のある時に、畦上に株間八寸くらいの千鳥型(たがいちがい)の二条植えにした。苗は
水平植えにし、坪当たり二十四本くらいとする。施肥などの管理は大体平植えに準じて行う。
収穫はその家に必要な分を毎日掘り取るのであるが、坪当たり収量六斤として一日三十斤を必要とし
たら、百五十坪の甘藷畑一面を収穫完了するまで三十日を要し、大半の甘藷は適期を失い過熟した。こ
のため収穫適期の甘藷をいっぺんに収穫し保存する一時収穫の方法が奨励されたが、その労力と甘藷の
貯蔵庫・カズラと畜産とのつながりなどと難しいことがあってなかなか実施されなかった。
(3)病害虫
病害は縮芽病・ベト病・炭素病・ウドンコ病・疫病などがあるが、たいした被害はでなかった。
害虫は次のとおりである。
1)アリモドキゾウムシ(方言名イリムシ)
体調五・六ミリ内外、甘藷の中をトンネル上に食害する。被害甘藷は独特の異臭があって食用にでき
ないばかりか、家畜の飼料にも使えない。奄美大島、熱帯アジアにかけて生息する。この虫のために、
沖縄の甘藷は九州以北には移出禁止となっている。防除法には輪作を行うことである。
2)スルル虫
カンショナカジロシタバの幼虫で、九月から十月に発生が多く、甘藷の葉を暴食する。特に明治時代
は発生が多く、農民総出で捕殺した。
その他、夜盗虫・イモコガ・イモゾウムシ・イモサルハムシ(カームシ)などの害虫がいる。
(その他のイモ類)
2 馬鈴薯(ジャガイモ)
馬鈴薯は秋植えと春植えがあるが、春植えは疫病の発生が多いためあまり栽培されていない。短期間
に収穫できる食糧作物であり、極めて生産性の高い作物であるが、種芋は県外からの移入のため、高値
であるのでほとんどの農家は五キロくらいを栽培して自家用とした。
植付け時期は十、十一月頃。畦植幅二尺くらいで植溝を堀、十分腐熟した堆・厩肥を入れ、種芋は芽二
つくらいをつけて縦切りにし、株間は約一尺にして、切り口を下向きにして置き軽く覆土する。発芽後、
芽かきをして一株から一、二本を残し、追肥(窒素分の肥料+アール当たり三十キロ)を施し、それか
ら二十日くらいして2回目の追肥(リン酸分・カリ分の多い肥料)を施し、同時に倍土する。植付け後
百日くらいで収穫できる。収量は種芋の七・八倍くらいが普通であった。
3 ヤマンム(山芋)
インド東北部の原産で、沖縄では古くから栽培されていた。品種は、色合いから赤と白があり、形の
上から扇ヤマン(扇子のように広がった山芋)棒ヤマン(棒のような山芋)、クーガーヤマン(卵のよう
に丸い山芋)がある。クーガーヤマンは美味だが収量が少ない。収量が多いのは白山芋で、各々、十本
くらい栽培して自家用にしていた。植床は堆・厩肥をいれて盛り土し、三月頃種芋を伏せこみ、雑草を
防ぐため全面に敷き草をする。追肥を一回くらい施し、収穫は一月が最適期である。
4
チンヌク(里芋)
インド、中国南部の原産である。利用の面から小芋専用種(石川早生)、親子兼用種(沖縄在来種)、
親芋専用種(ハワイ種)に分けられる。植付け時期は九月から十二月で、石川早生は小芋を伏せこみ、
他の二種は芋の頭部を植え付ける。追肥は配合肥料を二回くらい施し、同時に土寄せする。収穫は石川
早生は植付け後百五十日くらい、他の二種は二百五十日くらいでできた。
5 田芋(水芋)
里芋の栽培品種の一つ。古くから栽培されている水田作物で沖縄の行事料理には欠かせないものであ
る。苗は芋の頭部を利用し、植付け時期は一、二月の上旬で、株間は一尺五寸くらいである。植付け後、
山羊の厩肥を入れ中耕除草し、収穫の一ヶ月くらい前に草木灰を入れるとおいしい芋ができる。翌年の
一月に収穫し、旧正月用にした。ごく少数の農家が栽培していた。
6 キーウム(キャッサバ)
ブラジル原産で、高さ二メートル以上になるトウダイグサ科の落葉低木である。葉は掌状で地下にダ
リアの根茎に似た芋を生じ、多量(約三十パーセント)の澱粉を含む。各農家で少しずつ栽培して自家
用に供していた。煮て食することもあったが、澱粉製造が目的であった。茎を一尺くらいに切って三月
に植え付け、翌年の一、二月頃収穫する。キーウムの澱粉をタピオカと呼んでいる。
7 クジウム(アロールート)
沖縄で古くから栽培されているクズウコン科の澱粉作物で、紡錘形で白色の地下茎を有し、多量(約
二十パーセント)の澱粉を有する宿根草である。二、三月頃小芋を植え付け、同年十二月に収穫するが、
少しずつ栽培して自家用に供していた。
抜粋資料:読谷村史 第四巻 資料編3
読谷の民俗 上
( 平 成
7年3月31日 発行)