蒲島 郁夫 氏

自治体維新
首長インタビュー
熊本県知事
蒲島 郁夫
氏
かばしま いくお 1947年1月28日、熊本
県稲田村(現・山鹿市)生まれ。65年熊本県
立鹿本高校を卒業し、地元農協に就職。68年
農業研修生として渡米、71年ネブラスカ大農
学部入学。豚の精子の保存方法を研究、75年
ネブラスカ大大学院修士課程修了。79年ハー
バード大大学院博士課程修了。97年東京大学
法学部教授。2008年3月、
熊本県知事に当選。
61歳。著書に「政治参加」
(東京大学出版会)、
「逆境の中にこそ夢がある」
(講談社)など。
熊本県はかつて九州の中心だった。中央官庁の出先機関や軍が集積し、熊本市の真ん中にある熊本城
を核ににぎわいを見せていた。だが地盤沈下が進み、現在の九州は福岡県への一極集中が加速する。蒲
島郁夫知事は潮谷義子前知事の3選不出馬を受けて初当選、4月に就任した。農協職員から米ハーバー
ド大大学院に進み、東大教授を経てふるさとのトップになった異色の経歴を持つ「学者知事」は県政の
積年の課題である川辺川ダムや水俣病問題の解決に挑み、道州制の州都誘致で熊本の復権を目指す。
ダム、水俣病…熊本復権へまずは懸案解決
政治に生きる学者の経験
農協職員だった21歳の時に渡米。ネブラス
カ大農学部からハーバード大大学院博士課程
(政治経済学専攻)に進んだ。その後、筑波大
教授を経て東大教授になり、選挙分析でテレビ
に登場する有名人になった。研究室を飛び出し、
県政の現場で「政治学者知事」として約4カ月
が過ぎた。
るという点で役に立っている。
激高せず、冷静に県民の幸福量の拡大になるか
どうかを考える。政治参加と民主主義が学者とし
ての本来の研究テーマだ。多くの人の参加を歓迎
し、十分議論して結論が出た後はみんなで納得し
て実行する。知事になって県民から怒鳴られるこ
ともあるが、それも政治参加と考えている。
妻は政治家への転身について「出馬したらすぐ
に離婚だ」と反対していた。だが実際に熊本に来
て、ボランティアの人など利害関係もないのに私
学者として選挙や有権者の投票行動を専門に分
のためにがんばってくれている多くの人に接して
析してきたことが、3月の自分の知事選挙をする
「自分もやらねばならない」と考えが1日で変わっ
うえで参考になったと思う。知事に就任してから
た。妻は私の代わりの挨拶など選挙活動では難し
は学者としての経験は政治行動を客観的にみられ
い仕事をよくやってくれたと感謝している。しば
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らくすると、私より妻の方が歓迎される場面が多
時は公正なメンバーを短期間で選ぶのは難しいだ
くなった。ただ基本的に政治に深く関わることは
ろうと言われた。しかし、知り合いに声をかけ
喜んでいないようで、早く学者に戻ってほしいと
たら、学問的にも物理的にも多忙な人が一肌脱ご
思っているようだ。
うと集まってくれた。そして厳しいスケジュール
の中で熱心に議論をしてくれている。本当に頭が
かつての人脈、県政にフル活用
米国滞在や農業経験など知事として異色の経
歴は多彩な人的ネットワークにつながる。川辺
下がる。霞が関を訪れると、東大の教え子たちが
かつての先生として敬意を払ってくれる。東大や
ハーバ-ド大のネットワーク、人脈は自分個人の
ためではなく、県民のためにフルに使いたい。
川ダム建設を巡る有識者会議の人選では東大教
授やオランダ人の専門家を集めるなど人脈をフ
川辺川ダム問題、9月に決断
ル活用した。
農業研修生やネブラスカ大農学部の経験は政治
学者になるためには回り道をしたと考えたことも
あった。もっと早くから政治学を学べばよかった
かもしれない。だが知事になってこれまでの経験
が生きている。米国での厳しい農業体験をしたこ
とで、農家の苛酷な労働を十分理解し、尊敬の念
を常に抱いている。農家のおかれている状況や悲
鳴をあげるほどの大変さをわかったうえで、どう
にかしてあげたいと思っている。
川辺川ダムの有識者会議を設置すると発表した
DATA
熊本県
総 面 積 7404 km
人 口 182万人(2008年7月1日現在)
財 政 7232億円(一般会計、知事選で
骨格編成だった当初予算を肉付け
する6月補正後)
産 業 製 造 品 出 荷 額 は 2 兆8300億 円
(06年、前の年比8.1%増)ホンダ、
ソニー、富士フイルム、東京エレ
クトロン、NECエレクトロニクス
などが工場を立地している。
Memo 加藤清正が1607年に日本3大名城
の一つといわれる熊本城を建設した。昨年は熊
本市が築城400年祭りを催し、今年は本丸御殿
を復元して県内外から観光客が増えている。世
界的なカルデラで有名な阿蘇のほか、天草、人吉、
山鹿など山と海の美しい自然に恵まれている。
高度成長期は水俣病問題にも直面したが、地理
的に九州の中心で豊富な水や土地も評価され、
半導体・自動車関連の大企業の進出が相次いだ。
官庁の出先機関が多いほか、自衛隊もあり、景
気が減速する中で官と自衛隊が雇用や消費を下
支えしている。
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川辺川ダムは国土交通省が熊本県相良村に建
設予定の多目的ダム。日本3大急流の一つであ
る球磨川流域の洪水防止や農業用水確保などを
目的に最大の支流である川辺川に計画された。
総事業費は3300億円。完成すれば九州最大級
のダムになる。だが清流保護を求める声もあり、
計画発表から42年たったが、建設は事実上止
まっている。ダム問題では潮谷前知事が全国で
初めての既存ダムの撤去を決めた球磨川下流の
荒瀬ダム(水力発電用で県企業局が運営する)
を蒲島知事が白紙撤回して話題になっている。
知事として決断をしなくてはならない。川辺川
ダムは計画発表から42年が経過した。水俣病問
題も公式認定の1950年代から続いている。決断
すれば、必ず誰かに痛みが生じ、失望もおこるだ
けにこれまで実行されなかった。だがもう判断し
てほしいとの県民の気持ちが強いように思える。
川辺川ダム問題は建設か否かを決断し、選挙で公
約した通りに9月の県議会で表明する。今は毎日、
どうしたら最善かを一生懸命に考えている。
荒瀬ダムは県が全事業をゼロベースから見直す
中で浮上してきた問題だ。これまで行政は過去に
決めたことを淡々と実行してきた。だが現在は財
政再建を急ぐ県にとって異常事態だ。撤去を決め
た時から前提条件が変わっている。水力発電は撤
去を決めた当時は将来性がないとされたが、現在
は自然エネルギーの1つとして注目されている。
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ダムの撤去費用は当初の60億円から72億円にな
えていく必要がある。トップセールスをするリー
る。この費用は企業局では負担できず、一般財源
ダーはもちろん、職員の一段の努力が重要にな
の投入が必要になる。水が引けば護岸が崩れる不
る。
安もあり、地元対策を増やすと費用は一段と膨ら
む。撤去に賛成の立場の人と反対の立場の人たち
が一定期間に真剣に議論し、よりベターな答えを
引き出したい。全員が賛成に回ったり、反対した
りすることはありえないため、最後はトップとし
てのリーダーの決断になる。
月給100万円カット、生活苦しい
県は1兆2000億円の負債を抱える。財政再
建は待ったなしだ。蒲島知事は自らの月給を
100万円カットの24万円として話題になった。
かい
企業誘致へ1000社訪問の公約
企業誘致では知事が1000社を訪問すること
を選挙公約に掲げた。九州では東国原英夫・宮
崎県知事がトップセールスで有名だが、蒲島知
事も自ら先頭を走る意気込みだ。
まず隗より始めよということで県議会に直接提
案し、月給を100万円カットした。住民税が現在
の給与に比べて高いうえ、電気・ガス代、住宅ロー
ン代などを支払うとほとんど残らない。妻に文句
を言われたことはないが、生活は苦しい。
貧乏には慣れているが、東大教授になって余裕
があっただけに落差は大きい。100万円カットを
トップセールスは時間を使えば可能だ。これま
発表した時は賛否両論あったが、現在では良かっ
でに100近い企業のトップと会った。通常のトッ
たと思っている。マスコミで取り上げられ、全国
プセールスは事務方が決めたほぼ確実な案件で最
に発信されて好意的な評価をもらった。県政が注
後に知事が乗り出すというスタイルだった。私は
目され、職員の節約意識も高まった。
最初の段階から知事が出ていくように指示してい
財政再建に王道はない。収入を増やすか、支出
る。知事が出てくることは相手方に重い意味を持
を抑えるかだ。収入面ではトップセールスで企業
つ。県の企業誘致の担当者が面談を申し込んだ場
誘致に全力を挙げているが、すぐに収入増加に
合、相手の企業からの出席者は課長や部長かもし
結びつくものではない。成果がはっきりと出る
れない。ところが、知事が出ていくと社長が出席
のは私の任期
し、丁寧に対応してくれる可能性がある。大日本
後になるだろ
スクリーン製造を益城町の工業団地に誘致し、8
う。節約面で
月19日に立地協定を結んだ。
は 私 が100万
初年度は250社の企業訪問を目指したい。九州
円カットした
では福岡や大分が企業誘致に積極的。他県でも成
ことで、知事
功案件が増えれば熊本に波及効果がある。関西や
と一緒に頑張
福岡でオーバーキャパシティー(容量以上の立
ろうという盛
地)になり、立地や人材の確保が限定されてくれ
り上がりが県
ば熊本が有利になる可能性もある。経済産業省
職員の中から
の08年度企業立地満足度調査で、熊本県は都道
出ている。各
府県別で3位に入った。上位で評価されたことは
種団体の要望
喜んでいるが、1位の大分県を追い抜くつもりで
でも、全員が
頑張りたい。熊本は長期的な視点を忘れずに、人
100万 円 カ ッ
材や交通・物流アクセス、用地など必要条件を整
トを知ってお
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昨年、築城400年を迎えた熊本城。今年は
本丸御殿を復元し観光客も増えた
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り、政治的な影響力がある。トータルでは40億円ぐ
らいの価値があったのではないか。
知事の交際費が思ったよりもかかるなど問題も
多い。知事公舎で各界の人と懇談し、1000円と
か3000円を参加費としてもらうなどカネを使わ
ない方法を模索している。
まずは政令市、それから州都めざす
熊本復権のカギを握るのが、道州制が導入さ
れた時の州都になるかならないかだ。九州各県
は経済の一極集中が進む福岡市が州都にふさわ
しいという声がある一方で、リスク分散から福岡
県久留米市や佐賀県鳥栖市などを推す声もある。
国のせいにするな、他県との比較も禁止
県職員のサービス意識やコスト意識が民間企
業に比べて希薄だと指摘する人がいる。知事と
して職員の意識改革ややる気を引き出すことも
重要になる。
九州知事会の合言葉は「九州はひとつ」だ。道
州制の州都については表立って議論になることは
ないが、各県ともひそかにどこがいいか考えてい
るだろう。熊本は地理的に九州の真ん中にある。
ニューヨークとワシントンに代表されるように、
経済と政治で都市を分けてリスク分散するケース
知事に就任して以来、すべての職員と直接対話
もある。
する機会を設けている。幹部とは既に終わり、係
熊本は食料と水が豊富だ。陸上自衛隊の西部方
長級や主事級、課長補佐級など対象を広げている
面隊があり、安全性も高い。化血研もあり、ワク
ところだ。私が県政の夢を語り、進むべき方向を
チンなど病気への対応も十分だ。地震もない。ま
語る。そこで繰り返しているのは、国のせいにす
ずは熊本市が政令指定都市になり、品格がある熊
るなということだ。国のせいにした時点で思考停
本づくりを成功させることが大切だ。県民が熊本
止になる。他県と比較するな、できないと思うな
に生まれて良かった、ずっと住み続けたいと心か
とも言っている。他県と比較した時点で思考停止
ら思うようになることが重要だ。そうすれば、熊
になる。知事の目や上役の気持ちを考えるので
本の有利な条件が生きてくる。
はなく、県民のためだけに働くように指導してい
夢に向かって一歩一歩進んでいくことだ。加藤
る。
清正はコンピューターも機械もない時代に、わず
ここに農林漁業の提案書がある。部のマニフェ
か7年で熊本城を建築した。築城だけでなく、治
ストの作成を求めたら、職員1人ひとりが何がで
水や農業振興など幅広く活躍した。400年前を思
きるかを考えて合計で612にのぼる提案を出して
いつつ、不可能なことはないと改めて思いたい。
きた。私は今、この膨大な提案書の1つひとつに
目を通している。カネがないなら知恵を出そうと
職員に呼びかけている。人間はやりがいや自己実
インタビュアーから▶▶
早起きして4時半から7時まで新聞各紙に目を通
す。7時にシャワーを浴び、7時半に朝食、8時半
現が大事だ。蒲島県政を自己実現のために利用し
に出勤するのが日課だ。企業へのトップセールスや
てほしいと職員に言っている。
東京での川辺川ダム有識者会議に出席するなど全国
私は知事が偉いとか権力者だとか上役だとか考
えたことはない。歴史的な一場面として蒲島県政
が運命的に誕生したのなら、その舞台を県民と県
を飛び回る。過密な日程を消化できるのは、米国で
の苛酷な農業体験で鍛えた体力があるからだ。ひ弱
さが目立つ人もいる官僚出身知事とは対極にあり、
エネルギッシュな中小企業の経営者のようだ。川辺
職員に演じ切ってほしいと思う。私はその場を設
川ダムや水俣病問題、財政再建、道州制への対応な
定しているところだ。部下をしかったことはない。
ど難問が山積みの県政で、県民の目線を忘れない
いつもにこにこしている。
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トップの決断と、決断に至った丁寧な説明を期待し
たい。
(熊本支局長 岩田 泰)
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