「木陰の物語/過去・現在」団 士郎[PDF]

社会人入学の大学生と関わる
機会が増えた。中には私より
も年長者も居たりする
実家に幼児を預けて、通信制
のスクーリングに通ってきて
いる女性は、離婚したばかり
だそうだ
いろんな理由で一度社会に出
てから、再び大学に来る人が
増えている
ところが彼の場合、そういう
話ではなかった
十五年前のある夜
長雨が続き、その夜も
土砂降りだったそうである
彼の
住んでいた
社宅の裏山が
崩れた
I C U( 集 中 治 療 室 )で 毎 晩 亡
くなってゆく救急患者を見な
がら、命って何だと思って大
学に入り直したと語る看護婦
さんもいた
四人の
家族は
夕飯を
終えた
ところだった
台所で
妻と長女が
食後の
片付けを
していた
そんな中の一人、
私より少し年輩の人の
話を聞いた
定年退職まで
勤めて後、
好きな歴史の
勉強をするために
入学したという
きちんと会社で
勤めあげ、
家族のために
果たすべき責任を
全うした後に、
好きな学問に
取り組む
中高年男性の生き方の一つの
モデルだと思った
彼は茶の間に移って
ナイター中継を
見ていた
妹はテレビの前で
父に話しかけていた
その時、崩れ落ちた土砂が
家屋を押しつぶした
直撃された
台所は
完全に
埋まって
しまった
つぶされた家の中から
這い出した父親は、
必死で
側に埋まっていた
妹を助け出した
しかし、突然失ったものの
大きさは埋めようがなかった
それからの十二年間、
彼は残された父親としての
責任感で生きた
その娘が結婚し、初孫が生まれ、
自分は定年退職を考える
歳になった
しかし完全に土砂に飲み込ま
れた台所はどうにもならな
かった
明かりは何もない
真っ暗な
どしゃ降りの中で、
彼は必死に
妻と長女を探して
土砂を掘った
周囲も
似たような
状況で、
助けが
来たのは
ずっと
後からだった
自分のためにもう一度勉強が
してみたい、そう思ったので
大学に通うことにしたという
教室にいると、
年輩の普通のおじさんである
しかし、その記憶の中には、
他人には想像つかない物語が
秘められている
「やっと人に
話せるように
なったので…」
と彼はレポートに書いた
結局、妻と長女は
助からなかった
あっという
間に十五年の
家族の暮らしが
奪われてしまった
社宅だったので、
その後の住まいや
仕事の心配は
なかった
それを読みながら、ほんとう
に人は様々な歴史を抱えて生
きているものだと思った
人に語れるように
なるまでに、
どんな苦しい時間が
重ねられたのかを
知ることはできない
しかし今、
彼が生きて
語っていることから
私が受けとめるのは、
いくばくかの
他者への
期待や希望である
それが
少しでも
伝われば、
不安と孤独に一人で苦しまないで
済む人が、どこかにあるかも
しれない、そう思ってこれを描いた。