最 優 秀 賞 (中央大会奨励賞) 父から学んだこと 本庄市立本庄南中学校 二年 笹 山 武 真 僕の父は左足がありません。今から二十年近く前に、大きな交通事故に巻き込まれて、膝上から足を 切断するという選択を、 余儀なくされました。学生時代からありとあらゆる数のスポーツをしてきた父は、 陸上をやるために北海道から親元を離れて関東の大学に進学しました。長距離選手だったので、毎日練 習に明け暮れていました。そんな中での事故でした。 足を切断してからの父の生活は一変したそうです。今まで当たり前にできたことができなくなったの です。走ったり、自転車を思いっきりこいだり、階段を駆け上がったりすることが困難になりました。 もちろん周りの人たちの視線や態度も変化します。家族や友人、先生などは腫れ物に触るような態度を するようになったそうです。以前は「頑張れ」とかけてくれていた言葉も、 「大丈夫?」に変わったそう です。 この話を聞いた時、僕は「大丈夫?」という言葉は一見優しいようで、相手を傷つけてしまう言葉な のではないかと思いました。 「大丈夫?」は、言い換えれば「危なっかしいけどできるの?」と聞いているように感じたからです。 もちろん父は「大丈夫。 」と答えたそうですが、ここから少しの間、障がい者への偏見に苦しめられたそ うです。 事故前の生活に戻りつつあったころ、義足をつけないで専用の杖を使って歩いていると、小さな子ど もが興味をもって見てきました。そして一緒にいる親が「足がないからかわいそうね。 」や「あまりジロ ジロ見るんじゃない」と子どもに声をかけたそうです。父は子どもの視線よりも、大人のこの発言が心 に刺さったと話します。 僕たち健常者は、障がい者を「特別」としてとらえてしまいがちです。健常者と比較をし、同じでは ないとわかると「かわいそう」と悲観的にとらえます。 父は足を切断してからも、スポーツをすることをあきらめませんでした。元々の運動神経の良さを生 かして、陸上を再開しました。走るために改良された義足を作り、父は事故後「もう一度走りたい。 」と いう思いを実現しました。障がいを持つと、誰でも行動の制限があるだろうと思うでしょう。しかし父 は閉じこもるどころか、外に出て思いっきり風を感じて走ることができます。そんな父を尊敬します。 また、冬は幼少期から得意としているスキーをしに行きます。父は毎年障がい者を対象にした大会に参 加します。片足で器用にバランスを取り、 転ぶことなくコースを滑り降ります。僕はその障がい者のスキー サークルに参加したことがあります。腕を切断した人、足が不自由な人、中には腕も足も障がいを抱え ている人もいます。でも、誰ひとり「大変だ」と言って暗い顔をする人はいません。 僕も父について行って時々サークルに参加します。そんな時、 「お父さんのお世話をして、あの子も大 変ね。 」と小さい声で言われたことがありました。しかし、 本当に障がい者は大変でかわいそうなのでしょ うか?偏見を持ち、健常者と障がい者の線引きをしている人々のほうがかわいそうに感じます。見た目 に障がい者だとはっきりわかるような人は、飲食店に入店を断られることがあると聞きます。なぜ障が い者が肩身の狭い思いをしなければならないのでしょうか? 『五体不満足』の著者、乙武洋匡さんが本にこう記していました。 「障害は不便です。だけど不幸ではありません」と。 この言葉にドキッとさせられました。 「かわいそう」 「大変そう」それはあくまでもその人たちが作り 上げているイメージです。すべての障がい者が不幸ではないのです。 今僕たちができることは、そんな偏見を持たず、障がい者、健常者という垣根を取り払い、偏見のな いこれからを目指していくことだと考えています。 父はこの夏、 「アンプティサッカー」というスポーツを始めました。全国的にはさほど知られていない 障がい者のサッカーです。競技人口が増えれば、パラリンピックの正式種目も夢ではないと思います。 激しくぶつかり合いながらサッカーをする父が、僕には誇らしく思えます。障がいがあってもなくても、 前向きに生活ができる明るい世の中になるためには、僕たち一人ひとりの考え方や、行動次第なのだと 思います。そのためにも、 「大丈夫?」と先回りをして心配するのではなく、必要とされた時、恥じる事 無く手助けできる自分でいたいと思います。
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