裁くなかれ

裁くなかれ
阿比留正弘
柴田先生との出会いは、私の人生に於いて決定的な出来事であった。もし先生との出会い
がなかったら、私の人生は現在とは全く異なったものになっていたであろう。
先生との出会いは昭和 49 年で、私が青山学院大学経営学部の1年生の時始まった。当時
私は青学の学生であることに劣等感を抱いており、真面目に講義を受ける気がしなかった。
そのためほとんどの講義には出席せず、進級のための最低単位も確保できるかどうかが危
ぶまれる状態にあった。
「落ちこぼれ学生」の例にもれず、学年末試験の直前の講義だけは
出席して試験範囲だけでも聞いておこうという軽い気持ちで私は初めて「経済学」の講義に
顔を出した。このとき初めて柴田先生「見た」のである。先生が「地球破壊と経済学」をテ
キストに使い「経済の病」を「自分自身の病」であるかのように憂い、熱っぽく処方箋をも
とめて訴えられる姿を目前にした私は、自分が大学に求めてきたものに出会った気がして
大きな衝撃を受けたのである。私はこのときほど自分の怠惰を悔いた日はなかった。1 年間
もなぜこんな素晴らしい講義を聞きのがしたのかと。そして同時に青学に入学したことを
何よりもうれしく思ったのである。学年末試験でこのまま単位を頂いては損だと思い答案
に「もう一度受講したいので、不可にして下さい」と書き 2 年生のとき再履修させてもらっ
た。
2 年生の秋、ゼミ募集があり、当然柴田ゼミを希望した。応募する前周囲の友人に 1 年次
の成績が合否判定の基準になるらしいことを聞き、成績不良の私はショックを受けたが、幸
いにも柴田ゼミは希望者を全員合格させてくれるとあって命拾いすることが出来た。先生
はよく「裁くなかれ!」という新島襄の言葉を口にされたが、成績によって裁かれなかった
ことをこのときほど嬉しく感じたことはなかった。柴田ゼミは、希望すれば入れるとはいう
ものの試験がまったくないというわけではなかった。春ゼミという 4 年生主導のゼミがあ
り、ここで約 3 週間にわたり、午前 9 時から午後 4 時頃迄経済学の基礎研究とシステムダ
イナミックス(SD)研究グループに分かれ、予習、発表を繰り返す地獄の「通過儀礼」を
終えなければならないからである。これにより希望者は半分に減り、適正規模のゼミが出来
上がるのである。これは私が 16 期生として入った柴田ゼミの伝統として受け継がれてきた
ものであるが、このとき私は「己を裁くのは己自身である」ことを知った。
柴田先生の魅力に導かれて、経済学研究に一生を捧げようと決意するには、それほど時間
はかからなかった。しかし、決意してから私の進路に対する悩みが始まったのである。
「経
済の運動法則を正確に把握する」ことが経済学の目的であるが、この目的にとって「既存の
経済学は役に立たない」と言われたからである。役に立たないならば、大学院に進学する意
味はないと考えた私は、現実経済の嵐の中に身を置き、そこから経済の運動法則を探ること
が最良の道だと考えるようになっていた。経済の動きに最も敏感な業界は証券会社だと考
え某証券会社に入社した。就職活動の際、野村證券の重役面接の席で「君は学者になった方
がよい」といって入社を断られたが、私の本音を見透かされていたようで正直驚いた。柴田
先生は私の証券会社入社に関してはかなり心配して下さり、私の考えの乱暴なことをたし
なめて下さったが、一度思い込んだ私は聞く耳を持たなかった。経済学研究という目的をも
って証券会社に入った私は、火事を研究するのに火中に飛び込んだ様なもので、入社後すぐ
進路変更を余儀なくされた。
このような経緯で大学院に戻った私は、太田先生の指導を受け、全く異なった世界に出会
うことになった。ここで私の意識は、既存の経済学は「役に立たない」という意識と「役に
立つ」という意識に内部分裂し、混乱状態に陥ってしまった。やがてこれを判断できるほど
経済学を知っていない自分に気づき、まずは判断を停止し、既存の経済学を思いきり勉強す
ることにした。
このように私の青春時代の感激、喜び、悩み、苦しみはすべて柴田先生を中心に起こった
のである。どんな決断を私が下しても断定的に「だめだ」と決めつけることなく私の判断に
任せて下さった。太陽のような包容力で信頼して下さった。異なる意見、反対意見をことの
ほか喜んで下さった。大学の教師となり、学生を指導する立場に立ったいま、改めて先生の
偉大さに敬服してしまう。研究面で、あれほど経済学を愛し、教育面で、あれほど学生の心
を動かすことが出来るだろうか。
先生に会って直接話を聞くことは、もう不可能になってしまった。しかし私の心の中ではい
つも柴田先生は生きておられる。私の人生の目標の中核にドーンと腰を据えておられる。
(福岡大学経済学部専任講師)