神宮文庫蔵『〔老子経抄〕』 : 解題篇

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神宮文庫蔵『〔老子経抄〕』 : 解題篇
山城, 喜憲(Yamashiro, Yoshiharu)
慶應義塾大学附属研究所斯道文庫
斯道文庫論集 (Bulletin of the Shidô Bunko Institute). No.33 (1998. ) ,p.207- 270
Departmental Bulletin Paper
http://koara.lib.keio.ac.jp/xoonips/modules/xoonips/detail.php?koara_id=AN00106199-00000033
-0207
料
紹
め
汲古書院
昭和四八影印)に﹁老子膚斎口義護題
解題篇
2豆ぬ
士b-
仁コ
憲
当時既に、幾ばくかの年月を、伝本調査に費やしていたのであ
諸本の悉皆調査を果たせたのは、昭和六十二年のことである。
題築或いは版心題に従うべきであるが、或いはこの書の転写本
題﹂と題してある。此の内題も書名とするには適当ではなく、
撰﹁老子経抄﹄三巻では、各巻の巻頭書名を﹁老子膚斎口義援
雲撰﹃老子経諺解大成﹂(題簸) 一
O巻の巻一巻首にも﹁老子
るが、同じ書名の写本には接したことが無く、不審に思いつつ、
﹁老子膚斎口義設題﹂とは﹁老子膚斎口義﹂の林希逸自序の題
膚斎口義護題﹂とあって(巻二以下は﹁老子膚斎口義﹂)、この
かとも予想された。その外、延賓八年(一六八O) 刊の山本洞
また、承鷹元年(一六五二)昆山館道可慮士刊の︹林羅山︺
ることを思えば、その可能性も考えられないことではなかった。
序の全文を巻首或いは眉上に移写した伝本が、複数現存してい
りえないであろう。室町末頃の河上公注古紗本の中には、其の
名として通るとすれば、その林希逸自序を抽出した本でしかあ
城
未知の珍書を閲覧出来ることに密かな期待を抱いていた。
こと著録されている。(侶顕であった、同文庫所蔵﹃老子﹄
刊、東京
神宮司鷹 大正
神 宮 文 庫 蔵 ﹃︹老子経抄︺﹄
じ
名であって、書名としてはいかにも不自然である。此れが、書
-207-
山
介
は
本資料は、﹃神宮文庫園書目録﹄(伊勢
資
寓
書のことかとも考えられた。
一、本篇では、本論集第三十二輯に翻印紹介した神宮文庫所蔵
﹃園書穂目録﹄には、同書名﹁老子膚斎口義援題﹂ の項目が
立てられている。しかしそこには、天理図書館所蔵文化一四年
の﹃︹老子経抄︺﹄について、書誌上の所見を提示し、同書繕
一、書誌上の所見とは、書誌事項の概要並びに、本書の成立年
写本一冊の一点が挙げてあるだけである。当時、未調査であっ
ている。しかし、その本は、後の調査で、今触れた山本洞雲撰
代及び、書写年代に就いての推論である。この考察の過程に
読の参考に資した。
﹃老子経諺解大成﹄の、首一巻のみの転写本であることが確認
おいて老子注釈史上における本書の資料的性格が明らかにな
一、同書本文を引用するに当たっては、 (8オ8) 等の符を使
ればとの浅慮による。
録﹄には著録されていない。漢籍と看倣されたためであろうか。
用する。翻印篇の欄脚に示した了数表裏、及、びその面内での
一、寿記の括弧付き数字は、後に付す﹁注﹂の通し番号である。
行次数を表す。
ととともに、邦人撰述の老子注釈書として、内容的にも今日に
一覧﹂を掲げる。書名索引としても利用出来るはずである。
一、末に、引用典籍等の文辞を輯成して﹁参照図書・引用文辞
符号は、該所蔵機関の函架番号である。
一、指摘参考した各所所蔵図書の冊数下の括弧内の数字或いは
標記は、﹃老子膚斎口義﹄の次第に従う。
一、﹃老子道徳経﹄経文注文の引用にともなう、分章、章題の
た本篇で再録補述する通りである。天下無双の稀観書であるこ
調査の結果は、翻印篇の凡例において概略述べた如くで、ま
神宮文庫所蔵のこの本は、どういう事情からか、﹃園書穂目
された。
た岡本を、同じ内容の書物ではないかと推測した様な記憶も残つ
例
おいてなお、追認識を迫られるだけの、学術的水準に達した著
述であると認められる。書写年代は江戸時代前期と推定され、
近世初頭当時の学術、漢学史上の空隙を埋め、﹃老子﹄受容史
に於ける不明の領域を聞くに足る、貴重な文献として注目され
る。恐らくは、学界未周知の資料であろう。此処に翻印の上、
若干の郁見を問うて、斯界の参考に供する所以である。
-208-
凡
室
田
要
処々、擦り消し、重ね書き、墨線、見消ち等で誤写、識字を
訂正した加墨が見られるが徹底したものではなく、なお多くの
誤字、脱文、街文が残留する(翻印編補訂一・二参照)。
分章の次第は、八十一分章の老子通行テキストに従って、三十
前半の道経部分は、各章頭に一行を設け、章次数を標記する。
林崎文庫旧蔵
七章に分かつ。章数標記の様式は統一されておらず、第八章か
から三十七章迄は﹁第﹂字は無く、次数のみを記してある。後
ら二十六章までは、三乃至六字を下げて﹁第幾﹂と、二十七章
序抜目録等前付け後付け並びに無し。
﹁こからと改め、各章冒頭箇所の眉上に﹁才幾﹂と標記し、
半の徳経部分は、本文には章毎の区切りを設けず、順次数を
希逸﹂と題して直
﹁す十九﹂に及んでいる。二十、二十一にはこの標記を欠く
(二十二以下は本文欠失)。
本書の記述法は、概ね、中世以来の所謂カナ抄の体式を襲つ
ている。先ず、﹃老子﹄経文の字句を標出し、 その下に続けて
十五行、或いは十一行、行字数不等三十字内外。柱題署無く、
行、毎条頭には﹁O﹂或いは﹁ム﹂の護符を冠することが多い
は﹁││﹂﹁、││﹂符で省略されることが多い。各条毎に改
講述注釈文を書写する。標出字句は始めの両三字を記し、あと
丁付けも無い。寄合書で筆写者によって、書写体式に相違をみ
が
、
首の発題の後半、首七章(第七章末二行を除く)及び第五十
O ム符の有無の別、両符を区別した意図は判然としない。
る。ゾ式、ナリ式の混請したカナ抄。引用等の漢文には返点送
無辺無界、字面高さ、約二四・九糎、毎半葉十四行、或いは
に表してはない。標記の如く改めるべきであろう。
﹁老子膚斎口義殻題﹂を以て書名とするが、本書の内容を適切
不明。所蔵者目録は、外題或いは巻頭第一行の題署に従って
ちに本文に入り、総題を欠く。末尾部分逸失の為尾題の有無は
﹁老子膚斎口義設題/(低八格)膚斎林
巻頭第一行に、二格程を低し、本文よりやや大きめの文字で
補書題築﹁老子膚斎口義援題﹂。天地少しく裁断さる。
茶色空押し唐草紋渋引き表紙(二七・五×二 0 ・四糎)、後
分巻(有欠)闘名者講
(老子経抄) 不
︹江戸前期︺写寄合書
和大一冊(二門一二七七号)
神宮文庫蔵
略
り仮名が付され、ごく希に朱の合点が認められる。
-209-
誌
八章(本書の章次数で言えば、後半部の﹁二十二) の半ば以
しての抄文は、 (8オ8)
は、ほぽ全てが老子経文に限られており、林注字句を特に掲出
﹁観覧l │﹂、(叩オロ)以下の
下を欠く(詳細は後述)。
講述抄者名、筆録者名ともに、未詳。新資料の出現を庶い後
考を侯ちたい。
書写年代は、江戸前期と推定した。伝存状態、書写の様態か
らみて、此の推定がまず穏当かと考える。
首に﹁林崎/文庫﹂(朱長方)、﹁林崎文庫﹂(朱長方、双郭)
﹁注ニ両ノ何調ニハ雨意アリト云ハ云々﹂、 (Hオ日)
﹁猶夷
一
猶也﹂、の三条を指摘できるに止まる。しかし、 (8オ8) の
条は、林注の﹁観覧玄冥﹂句を省略掲出したと考えるよりは、
﹁観﹂は﹁玄﹂の誤写であって、元来は経文の﹁玄覧﹂二字を
標出しであったと見なした方が、前後の文脈は通りがいい。又
無二の孤本として注目され、本文講述内容の学術上における意
本書は、他に伝本の所在を聞かず、此の神宮文庫所蔵の本は
は(凶オ6)の﹁葬ミ蕩々ト云ハ葬ハ杜預日草生ニ慶野一葬々然
﹁猶令﹂の脱落と見なした方がより自然な感がする。本抄文中に
解することも可能であろう。さらに、(凶オ日)の条は掲出経文
(叩オロ)の一条も、前条抄文を敷街する為の林注の援用と理
義評価に就いては、今後の課題として充分なる研討が求められ
タリ蕩々ハ法度慶壊ノ良蕩々ハ贋平ノ良也命吾民蕩々無ニ能名一
の両印記が捺さる。
ょ
、
っ
。
及び、本抄が拠用した底本が膚斎口義本であることは、明白で
釈であり、本文中において林注を援用する抄文が殆ど過半にも
倣し難い。首四丁は﹁老子膚斎口義護題﹂即ち林希逸自序の注
口義にまで及んで、林氏注説の敷街解釈を意図したものとは看
本書は、専ら老子経文を対象とした注釈書であって、林希逸
適切と考える。
﹃老子膚斎口義抄﹄とはせずに、﹃︹老子経抄︺﹄と標記するのが
採択した註稗の一法と理解される。従って、本書の書名は、
ことにあって、林注への再三にわたる言及はそのために著者が
ら、本書に底通する意図はあくまで﹁老子道徳経﹂を読み解く
引証典故を補述する抄文が多いことも事実である。しかしなが
云々詩一一蕩々上帝ト云々﹂の如く林注字句を敷桁細説し、或いは
ある。しかし、発題部分を除けば、施注の対象とする掲出字句
-210-
σ
コ
の
欠失部分の詳細
上記両所の欠失部分の詳細は以下の通りである。
①設題の後半から第七章まで
部分に分けられる。
①第一丁 j第四丁(老子膚斎口義援題抄残存部分)
毎半葉十四行
本抄者の一一百う第二段の末、即ち発題の
第十五章は章首の章次数の一行のみ、第十一丁表第七行に
毎半葉十五行
②第五丁i第十一丁(第七章抄末二行 j第十五章章次数)
原文で言えば、﹁今惇本多有異同或因一字而蓋失其一章之意
﹁第十五﹂と書写され、第八行以下裏面に掛けて余白を残す。
*老子膚斎口義援題
者識虞愈難実﹂までと、第三段(﹁大抵老子之書其言皆借物
但し、本文上の欠落は無く、次葉に連続する。
毎半葉十四行
⑤第二十六丁i第三十三丁(第二十九章抄後半 j第三十七章抄)
以下七行余の余白を残す。
﹁天地二に連続する。第二十五丁裏第二行で書写中断され
第十九丁第一行は、第二十二章抄の末一行で、前丁末の
毎半葉十四行
④第十九丁 j第二十五丁(第二十二章抄末行i第二十九章抄前
文中途にて書写は中断され、以下余白を残す。
第十八丁裏第七行の最終行は﹁天地この三文字のみ。抄
中途)
③第十二丁 j第十八丁(第十五章抄本文第一行 j第二十二章抄
達筆行草体で崩し字が多い。
以明道﹂以下)の初めの二条三一行を存して、次行以下を欠く。
此の章の林注末句である﹁但説得来又高
*道可道章第一より谷神不死章第六まで全欠。
*天長地久章第七
此の章の﹁禍今福所侍福分禍所伏執
似一層﹂への抄、即ち本章抄の末二行のみを存す。
②第五十八章後半以下
*其政悶悶章第五十八
知其極其無正邪正復矯奇善復矯妖﹂の抄までを存し、その後
を欠く。
*治人事天章第五十九から信言不美章第八十一まで全欠。
書写分担状況の詳細
本写本は、寄合書であり、筆跡から、少なくとも次の六つの
半
毎半葉十一行
第二十六丁は第二十九章抄の中途から始まる。条項は改ま
るが抄文内容上、前丁末一条との断絶は無い。
子﹄延いては漢籍漢文漢学への理解の不足、素養の不充分さを
漏出しているようにも思われる。
成立年代の推定
現状では、本書の成立の事情はもとより、講述者、筆録者を
⑥第三十四丁以下最終了第五十四丁(本書後半徳経残存部分)
毎半葉十四行
他はない。但、本注釈の内容的特徴から、成立の年代を推論す
推測する手掛かりは皆無に等しく、別資料の出現と後考を侠つ
られる。
ることは、可能であろうと考える。しかし、これは、あくまで
一筆にて書写。筆跡は①に近く恐らくは同人の筆かと認め
以上の様に、少なくとも五者の分担書写による寄合書きであ
可能性として言及するのであって、論点を超絶した偶発的要因、
或いは論拠とするになじまない雑多な要因が介在していたとす
﹁老子膚斎口義﹂の受容
﹁此注ハ││﹂﹁││ト注ニモ云ど﹁注ニ││ト云也﹂﹁llト
-212ー
⑦あ②の様に、末に余白を残しながら、文脈の上からは、
次の分掌部分に連続しているという書写情況から推測すれば、
ながら、可能な限りにおいて、必要と思われる手続きは踏んで
れば、脆くも崩壊する髄の推測にすぎないとも言える。しかし
式を統一しないまま、取り敢えず転写したものであろう。底本
おかなければならないであろう。
る。更に、敢えて、想像を逗しくするならば、上記のように欠
本注釈の内容面における特徴は、既述のように、﹃老子膚斎
誤字、桁文、脱文が異常に多い点から、底本の筆跡の判読が
注セリ﹂﹁││ハ 1 1 ト注 yアル﹂等と言う場合、これらの
口義﹄に依拠立脚した注釈が甚だ多い点にある。本抄において
甚だ困難であったろうと想像させられる一方で、書写者の﹃老
中途放棄に起因するかとも憶測される。
失部分が存在する理由としては、分担書写者の不履行、或いは
する作業の初期段階としての情況を示しているように考えられ
は恐らくは未整定の筆録稿本で、本写本の様態も、本書を整定
底本を枚数を基準にしてそれぞれに分配し、各自が行次数等書
る
従って、視点を逆に据えれば、本邦における老子受容史上、膚
証でもあり、本書成立当時の岡本の流布状況を示してもいる。
提としていると理解される。これは膚斎口義本の普及を示す徴
概ね林氏口義の叙述に沿って講述を進めており、林注依用を前
oまた本著者は、
字版刊行以前の渡来本である可能性が大きい。
宮博物院蔵楊氏観海堂旧蔵の朝鮮旧刊が一等は、︹慶長︺刊古活
文庫蔵の紅葉山文庫本明寓暦五年ご五七七)序刊析、台北故
来本であろむ。更に、其の敬義堂刊本の覆刻である同じく内閣
四)年敬義堂刊本は林羅山旧蔵書で、近世初頭に舶載された伝
以来の伝来本と認められる。また内閣文庫蔵明寓暦二(一五七
﹁注﹂はまず殆ど林希逸の注説を意味してば石
斎口義が弘通した時代の内に、本書成立の時期を想定出来る可
﹃老子膚斎口義﹄の本邦における受容と流通の経緯について
存し、慶長から元和年間にかけて、古活字版四種五版が刊行さ
圧倒して普及していった。︹室町末近世初︺書写の伝写本が伝
同書は、近世初から江戸時代前期にかけて、河上公章句本を
は﹁箱一献天理図書館蔵﹃老子道徳経河上公解︹抄︺﹂翻印並
れ、寛永四年(一六一八)には、京都の安田安昌が︹元和︺刊
能性を苧んでいる。
m頁m頁m
古活字版の覆刻整版訓点本を刊行、同版は翌々寛永六年には再
に解題(下)﹂(﹃斯道文庫論集﹄第三十一輯、
頁)に於いて概略言及したところである。室町期以降、旧来の
度覆刻重刊されている。更に、正保四年(一六四七)に林羅山
になる。その実相は、現存する複数の古写本﹃老子道徳経﹂
の膚斎口義の移写書入れと、その伝写の様態から概ね推知され
るところであ針。此の事実は、当時、同書の唐本、或いは韓本
が舶載され、可成な程度に普及していた実状を示している。当
初渡来したであろう宋元阪また明初同前期頃の刊本の伝存本を
確認するのは困難な現状にあるが、台北故宮博物院蔵楊氏観海
堂旧蔵の︹明前期︺刊本は、室町期の加点書入れがあり、中世
にはじまる膚斎口義の注釈、或いは膚斎口義に基づいた老子注
更に、江戸時代前期にかけて撰述された、林羅山の﹃諺解﹂
頃と推定されるが、即非如一の校点本が刊行されてい足。
の上村次郎右衛門から重刊された。此の首書本の他にも、寛文
を増補して明暦三年(一六五七)、延賓二年(一六七四)と京
豊興堂中野小左衛門がその覆刻本を出し、岡本はその後も首書
の首書点本が京の林甚右衛門から刊行され、翌五年には早くも
河上公章句に対する新注として、林氏注が講諦伝習されるよう
^-
流行を物語るものであろ%。
釈書が少なからず伝存していることも、当代における、同書の
認められ)、江戸時代初期には舶載されて和刻本刊行以前より普
たに相違あるまい。明寓暦十六年(一五八八)序刊本が原刻と
が漸く収束に向かう事実も明らかとなる。古活字版に始まり再
る。その調査結果から更に、江戸時代前期を下ると同書の盛行
られる。(注9) は、その結果を結論的に目録化したものであ
義本が急速に普及していった事実は、伝本調査を通して裏付け
数は群を抜いて多く、他の老子諸本を遥かに凌駕して流通した
衛等から宇佐美潜水の考訂本が出話。此の明和刊本の、現存本
校点本が刊行さ料、明和七年(一七七O) には、江戸松本善兵
保十七年(一七三二)に江戸虚橘堂野田太兵衛から岡田阜谷の
次に考えられる要因としては、王弼注本の流行であろう。享
及流通していた形跡が窺え針。
三にわたった同書の刊行は延賓二年蹴刊本を最後に重刊される
感がある。この様な事情のもとで、江戸時代中期以後に輩出し
このように、近世初頭以後、河上公章句本に代わって膚斎口
ことはなく、明治に至るまで蔵板印行者を転じて重印重修が繰
広く諸家の注釈を参照し消化して自説を敷桁主張する体式へと
た﹃老子﹄注釈書は、もはや庸斎口義に拘泥するものではなく、
一つには、明から
り返されたに過ぎないのである。
虜斎口義が衰微に向かった要因としては、
開に漸次に浸透流布していったことが考えられる。殊に承鷹一一
たのは江戸時代前期までに限られるのであって、従って膚斎口
知上の諸伝本流通の実情を鑑みるに、膚斎口義本が隆盛であっ
変化していったように観ぜられるのである。
年(一六五三)に京の小嶋市郎右衛門が明焦紘撰﹃老子翼﹂六
義を言わば骨格とした本注釈の成立時期は、大枠、近世初から
舶載された新しい注釈諸本が、旧注に飽き足りない儒者たちの
巻を刊行しだ事の影響は少なくなかったように思われる。同書
江戸時代前期の聞に想定して、まず大過無いものと考えられる。
次の問題として、此の近世初から江戸前期という時代の枠の
成立時期下限の推定
は古来の六十四家の注説を菅草し、焦紘の自注及び自著﹁焦氏
筆乗﹄より関係条項を移載し、巻五・六には附録として諸家の
伝記評論を輯め、巻末に考異を添えて諸本との同異を示してあ
る。﹃老子﹄の理解解釈の為には、至便な書物として歓迎され
成立より先行すると推断するのは早計であろう。該書に引かれ
暦一九年八一五九一﹀序刊)からの引用が見える。しかしなが
先ず、下限について考えてみたい。本書と近接した年代に成
た両書は、当代以後において一般に通行していたとは必ずしも
中で、更に上限及び下限を設定する事が可能か否か、詮索して
立したと思われる同類の注釈書と、その内容の新旧を比較する
言えず、本書著者はたまたま接する機会を得なかったと推測す
ら、此の両書の引用が無いという理由で、直ちに本書が該書の
事によって、その先後関係を推論出来るはずで、本書より内容
ることも可能である。
みる必要があろう。
的に斬新であり後出と認められる著作の成立年代が判明する場
m参照)をみれば、醇惹(﹁大寧醇氏集時﹂﹁醇君采臼﹂﹁醇臼﹂
また、林羅山の諸注即ち﹁首書﹂及び﹁諺解﹂﹁抄﹂(注9-
一つの観点を、
等と標記)、朱之得(﹁通艶﹂)、陸西島、焦故(﹁焦氏﹂﹁筆乗﹂
合、それが下限の目安となる。今ここで内容の詳細について検
引証とされた﹁老子﹂の注釈書類に置いてみたい。その検証の
﹁老子翼云﹂﹁焦弱侯老子評艇﹂)、林兆恩(﹁林子日﹂、注η参照)、
討する余力はないが、新旧を鑑別するために、
結果は、撰述の先後を判断するための、儲かな根拠となるもの
李艶(﹁李卓吾老子評﹂)等明人諸家注説、或いは﹃諸子品飾﹄
の引用が認められ、特に焦抜撰﹃老子翼﹂を引証とする注説が
と考える。
本書が引用する老子注釈書は、膚斎口義の他には河上公章句
また、人見卜幽撰﹃老子膚斎口義抄﹄(寛永十年八一六三三﹀
頻出している。
の所説を引証とするに過ぎない。明人による﹃老子﹂本文内容
自蹴)には、焦抜(﹁老荘翼﹂)、湯賓弔ア(﹁歴子品料﹂)、陳諮典
に限られ、別に﹃性理大全﹄巻五七に見えている宋朱烹等諸家
を対象とした注説は、全く見られない。この事を確認した上で、
(﹁陳孟常二一経精慨﹂)、陳纏儒(﹁老荘時﹂)等の明人注説の引用
既述のように、明版﹃老子翼﹄は江戸初期には舶載され(注
ている。
が見え、同書においても﹃老子翼﹄を引証とする叙述が多見し
撰述年代が近接している注釈書類との比較を試みておく。
寛永四年(一六二七)書写天理図書館蔵﹃老子道徳経河上公
解︹桝︺﹂には、明林兆恩撰﹃林子道徳経樟断﹂(高暦一六年
八一五八八﹀自序)及び、明間鶴洲編﹃新刊道書全長﹂(明寓
③第二十八章の口義﹁天地之間官於物者之長也﹂を本書は
﹁天地ノ間物ニ官タル者ノ頂上ノ長者也﹂ (Mウ日)と訓むが、
ロ・日参照)、以後通行したテキストであり、承慮二年(一六
五三)には翻刻刊行されている(注目参照)。羅山、卜幽が共
羅山は﹁官タル者﹂を﹁ツカサドル者﹂と訓んでいる。寛永刊
④第三十三章口義﹁有力角力於外者也﹂の﹁角﹂について本
に緯々参照した同書を、未だ全く引用していない故をもって、
方で﹁老子翼﹄が翻刊された承鷹二年以後一の成立であるとする
書は﹁注ニ角ノ字ヲフル、ト讃セタ角ハ鯛也﹂(初オ3) と注す
本は本書に同じ。
合理性は極めて乏しいと言えよう。この年を逆上る蓋然性は大
るが、羅山点は﹁アラソフ﹂と訓ませている。寛永刊本は﹁力
直ちに本書が両者に先行すると即断するには危倶が残るが、
きいと考えられる。
参照)であろう。本注釈において羅山の首書を参照したと思わ
正保四年(一六四七)に刊行された林羅山の首書加点本(注9
﹁クホキトキハ則チ盈チ倣トキハ則チ新ナリ﹂と訓む。寛永刊
窪レハ則盈倣レハ則新也﹂(位ウ9) と訓じてあるが、羅山は
⑤第四十五章口義﹁前章日窪則盈徹則新﹂を本書は﹁前章ニ
ラ有リトハ力ヲ外ニフル、者ナリ﹂と訓み本注と符合する。
れる形跡は見当たらない。また、庸斎口義の訓法において羅山
本は﹁クホカナレハ則チ盈ツ倣レハ則チ新ナリ﹂と訓ませ此れ
更に、本書成立時期の下限を考える上で、注目されるのは、
点と相違している箇所が確認され、本書は寧ろ、寛永四年(
も本書と符合している。
以上、僅少な事例ではあるが、羅山首書を参照した形跡が無
六一人)刊本の訓点と符合している。次の例が指摘できる。
①第二十二章の口義﹁能在而後能直﹂を本書は﹁能柾ニメ而
い事と合わせ考えれば、本著者は此の正保四年刊本の有無につ
相応に流布したはずであり、其の影響を未だ被っていない本注
後二能直也﹂(時オ6) と訓じているが、羅山点は﹁柾ニプ﹂を
②同じく﹁能窪而後能盈能弊而後能新也﹂を本書は﹁能窪ナ
釈の成立は、此の刊年即ち、正保四年(一六四七)より以前に
いて不知であったと見なすのが合理的であろう。岡本は刊行後
レパ能ク盈能弊ニメ能新也﹂(時オ日)と訓むが、羅山は﹁弊ニ
想定することが妥当と言え、この年を以て本書撰述年代の下限
﹁在ケテ﹂と訓む。寛永刊本は本書に同じ。
y﹂を﹁ヤフレテ﹂と訓む。寛永刊本は本書に同じ。
。
円
と看倣しておきたい。
成立時期上限の推定
に入らず生平の委細は詳らかにし得ないが、自著への序蹴題識
によって、幾分かの情報は得る事が可能であ封。その序践の伝
えるところに拠れば、編著は四部にわたって多数が知られ、又
﹃千頃堂書目﹄﹃四庫全書総目﹂に著録された著作も少なくな吋。
本書には、﹁版雲集﹂の引用が一条、他に﹁陳士元云﹂と標
次の問題として、成立時期の上限をどの年代で区切ることが
の引用漢籍に着目してみたい。参照図書・引用文辞については
記する引用が三条見えている。以上の内、﹁版雲集云﹂ (2ウロ)
その内の主立ったものが﹃蹄雲別集﹄﹃蹄雲外集﹄ として編刊
後に附載するので参照されたい。其の中で最も遅れて新しく渡
の一条及び﹁陳士元云﹂ (2ウ1)、﹁又云﹂ (2ウ2) の二条は、
できるのか考索しておく必要があろう。この問題についても注
来した漢籍であって、其の渡来の時期が江戸時代初期或いは前
現行本﹃論語類考﹄巻七人物考第二﹁老彰﹂の項目に見え、行
されて現存している。
期に下ると認められるならば、其の引用漢籍が、自ずと本書成
文中、文辞の省略があり、字句に脱落若しくは小異もみられる
釈内容に即して仔細に比較研討すべきであるが、此処でも本注
立時期の上限を推定する指針となるであろう。その意味で﹁販
が、それは本書伝写の過程で生じた異同もしくは誤写の範囲と
﹁陳士元云﹂の標記が用いられたのであろう。
類考﹄は、﹃蹄雲別集﹂所収の一書であることから、
﹁版雲集﹂
見倣され、以上の三条は同書からの引用と確認されが)。﹃論語
雲集﹂及び﹁小補韻曾﹂の書名標記が注目される。
揖雲集
﹃帰雲集﹄は明陳士元撰。士元は、字は心叔。養吾、九霞道
帝王ヲ万乗ノ主ト云ソ千乗万乗ノ儀ソ如二論語類老一玉、
款カ・:
徳一一年(一五一六)生、高暦二五年(一五九七)没、嘉靖
の﹁論語類老﹂は恐らくは誤写と看倣される。上記﹁阪雲集﹂
また、(幻オ 2) の次の一条、
三年(一五四四)の進士。官は灘州知州に止まり、官途には不
﹁陳士元云﹂の引用が﹃論語類考﹄の文辞である事から類推す
人、環中迂史、江漢潜夫等と号し、湖北徳安府麿城の人。明正
遇で、帰国して専ら著述教授に従ったようである。専伝は管見
の判読が困難であったことの暴れであって、﹁類﹂ のままで正
﹁款カ﹂との存疑の書入れは、﹁老﹂字と同様、底本の書写字体
集揃いの完本が儲蔵されているようで、﹃北京図書館古籍善本
集﹂﹃帰雲外集﹄が僅かながら伝存している。北京図書館に両
此の文集とは別に、主要著書を自ら輯めて刊行した﹃帰雲別
現存伝本は確認出来ない。
しいと認められる。更に、﹁千乗万乗﹂の﹁万﹂は ﹁百﹂字の
書目﹄子部叢書類に﹁帰雲別集七四巻帰雲外集六七巻 明陳土
れば)﹁老﹂は﹁考﹂に作るべきである。又、﹁類﹂字右穿の
識であって、﹃論語類考﹂巻四国則考﹁千乗百乗﹂項目の内容
明高暦十一、十七年自刻本四十冊﹂が著録されてい封。
元撰
につい.て考索しておく必要がある。﹃園史経籍志﹄巻五集類別
ここで、﹁鯖雲集﹂乃至は﹃論語類考﹄の伝本及び其の伝来
指すのではなく、﹃腸雲別集﹄﹃鯖雲外集﹄の簡称或いは総称と
要があろう。本書に引用標記される﹁販雲集﹂は上記の文集を
来した事実を確認した上で、その時期について検証しておく必
そこで、此の別集七四巻外集六七巻の原刻明版が我が国へ渡
集に﹁陳士元蹄雲三集七十四巻斗、﹃千頃堂書目﹄巻二三別集類
事態になりかねないのである。
代は、論理上大幅な下方修正を念頭に、再考を余儀なくされる
されれば、同書所収の﹃論語類考﹂を引用する本書の成立の年
る。従って、それ以前の明版﹃蹄雲別集﹂の渡来の事実が否定
の記録から、天保九年(一八三八)が新渡の年とほぼ確認出来
一部が舶載された事が明らかであ話。さらに、﹃購来書籍目総﹄
の記録に拠れば、天保一一年(一八四O) に五部、同一二年に
(一八一三二)に呉銃梅によって重附され、その本は﹃書籍元帳﹄
考えられるからである。実は、﹁鯖雲別集﹄は清道光二ニ年
ょうで、諸所の蔵書目録に当たり検索博捜に努めてみたが未だ
集で同一書と看倣してよいと思われるが、未刊のまま逸伝した
四巻﹂﹁蹄雲集七十五巻﹂﹁婦雲前集後集積集﹂は士元自撰の家
十種﹂(注初参照)と見える。以上指摘される ﹁蹄雲三集七十
﹁而杜門著書、擁護所謹、所著有蹄雲前集後集積集別集外集敷
銀梓未寛﹂と、更に﹁刻岳紀序﹂(寓暦二 O年 羅 紳 撰 ) に も
暦二。年陳士元識)に﹁隠居有蹄雲前集後集積集、皆酬謄之作、
士元蹄雲集七十五巻﹂と著録する。また、﹁蹄雲別集引﹂
に﹁陳士元蹄雲三集七十四巻﹂、﹃明史塞文志﹄集類別集に﹁陳
の一条に就いては、未だその出処を確認できない。
を意味するものと理解される。尚、 (3オ6) の ﹁陳士元云﹂
高
二十五は
明版﹃蹄雲別集﹂七四巻の日本に於ける伝来本は、その所在
られる。従って、楓山文庫本﹃古俗字略﹄七巻附補一巻は明版
﹁諸史夷語音義﹄四巻(﹁帰雲外集﹄巻六十六十三)にも認め
﹁古俗字略﹄七巻附補一巻を収めるのであるが、内閣文庫に同
ろう。しかしながら、この﹃古俗字略﹂明刊本は内閣文庫蔵本
﹃蹄雲別集﹄七四巻の零本であること殆ど疑う余地はないであ
1
書の︹明︺刊本五冊(経五0 ・四)が楓山文庫本として儲蔵さ
の他には管見に入らず、その渡来の年代、或いは楓山文庫入蔵
を未だ確認することが出来ない。ただ、同書巻十九
れてい針。岡本は四周単辺(一九・=ヌ二一・四糎)、有界、
此の版式は、次に述べる︹明︺刊﹃蹄雲外集﹂と酷似している。
毎半葉七行、版心白口無魚尾﹁字略巻幾
測を排除できるだけの論拠もまた見当たらない。
雲別集﹂が、江戸時代初期頃には渡来していたであろうとの推
の経緯に就いても、未だ明らかではない。但、同書或いは﹃蹄
(丁付)﹂の版式で、
また、巻頭題署体式は現状では﹁古俗字略巻之幾/(低一 O格)
この箇所に﹁蹄雲外集幾﹂と刻してある。また、上記清道光一
空格の様に繕つである。︹明︺刊﹃帰雲外集﹂収載の各書は、
に切り取り、裏から紙質のよく似た紙片を当てて、実に巧妙に
隔てた所より約六乃至七格分の料紙を僅かに界線のみを残す様
たものと考えられる。後に触れる陽明文庫蔵の近衛家照手沢本
き所蔵者を得て儒門諸家の間に於いて相応に周知利用されてい
従って江戸中期頃には、市中書臨時の間に流通し、或いは然るべ
は、享保八年(一七二三)に一部二套が舶載された記録が残針。
向井富編﹃商舶載来書目﹂(写本五冊
﹃帰雲外集﹄六七巻は、﹃唐本類書務﹂巻下に著録され、また
三年呉銃梅校刊﹃蹄雲別集﹂も、同様の体式を襲っており、此
等の伝本は、その恰好の事例であろう。しかし、享保八年は、
麿城陳士元輯﹂とあるが、毎巻首行の書名巻数下ほほ一字分を
の勢紙された部分には本来﹁蹄雲別集十九(1二十五)﹂ の六
勿論、同書新渡の年を意味してはいない。
陽明文庫本は、印行当時の分冊の次第を留める二 O冊の完本
架蔵されている。
同書の明刊本が内閣文庫、名古屋市蓬左文庫及び陽明文庫に
国立国会図書館蔵)に
乃至七字が刻しであった事は確実である。恐らくは叢書零本で
あることを嫌つての所為であろう。尚、同様の工作が、後述の
内閣文庫蔵毛利高標旧蔵の﹃帰雲外集﹄巻三十六│四十一所収
﹃象教皮編﹂六巻および、慶応義塾図書館蔵田中葦一郎旧蔵の
のであるかもしれない。従って、江戸時代初期の流布状況知何
ある可能性が大きく、或いは﹃商舶載来書目﹂所載の本そのも
ら事保にかけての間に、長崎を経由して購得収蔵された図書で
かで、家照公蒐集漢籍の内の一部とみられる。従って、元禄か
七八一六六七﹀ l元文一八一七三六﹀)筆の端麗な外題が鮮や
である。雅致のある唐紙を用いた改装表紙に、近衛家鼎(寛文
初から現状の存巻を保っていたのではなく、各書はそれぞれに、
﹃蹄雲外集﹂所収本とは別版であることを考えると、本秩は当
り、又、次に述べる、原装を留めていると思われる蓬左文庫蔵
と、特に、﹃象教皮編﹂の六冊は、版式、料紙が他の書と異な
高標の蔵書印が捺してある書とそうでない書が混在しているこ
定出来る可能性はなお存していることを指摘しておきたい。尚、
たものと考えたい。即ち、岡本渡来の年代を江戸前期以前に想
少なくとも二つ或いは三つに離れた状態で流通していて、それ
を問う本旨の対象からは除外されてよい伝来本である。
内閣文庫所蔵本は毛利高標(賓暦五八一七五五﹀ l享和元
実が明らかになってい説。しかし、本映は、高標自らが長崎経
ある。高標が、当時、長崎の唐商より大量の漢籍を購求した事
蔵するに至った経緯を推定できる徴証は得られないのが遺憾で
印記或いは所持識語等は認められず、渡来の時期と、高標が収
書重之印﹂の印記が捺されている。それ以外には逓蔵者を記す
び﹃荒史﹄六巻二冊の巻首には﹁佐伯侯毛利/高標字培松/蔵
旧蔵時以来であることが判る。所収の﹃象教皮編﹄六巻六冊及
を鉄く。此の欠巻は、﹃紅粟粛蔵書目録﹄等の記載から、高標
見存していた事実が判明する。岡本は、元題築、目録題築を存
買本﹂と記してある。従って同書は寛永一 O年前後には日本に
左文庫漢籍分類目録﹄には、此の著録等に拠って﹁寛永十三年
唐本﹂(﹁唐本﹂二字は付筆)が録され、現行の﹃名古屋市蓬
五十三部子年被召上﹂漢籍の内の一部として﹁版雲外集 十冊
は、義直蒐集典籍を年次毎に著録してあるが、同目には﹁己上
蒐集本である。蓬左文庫蔵︹寛永︺写﹁御書籍之目艇﹄の後半
一O冊で、徳川義直(慶長五八一六O O﹀l慶安三八一六五O﹀)
蓬左文庫所蔵本は存首四十三巻、後半の﹃荒史﹄以下を欠く
を後に、恐らくは高標が寄せ合わせたものと推測される。
由で取得したのではなく、既に早く舶載され市中に流通してい
し、分冊の次第は、原形を保っていると見られ、現存一 O冊は、
八一八O 一﹀)旧蔵の有欠二ハ冊、全六十七巻の内、三十四巻
たものを購得したか、若しくは、然るべき所蔵者から譲り受け
n
u
﹃御書籍之目録﹄著録の冊数と符合し、蒐集当初から現状と同
じ有欠本であったと考えられる。
その外に、﹃蹄雲外集﹄所収の各書が、単行、単印或いは零
その外、江戸初期にまで遡る伝来本である確証は得られない
が、管見に入るものに慶麿義塾図書館蔵の﹃諸史夷語音艶﹂、
内閣文庫蔵莱霞堂旧蔵の﹃荒密、故長沢規矩也博士蔵の
この様に、確認できる伝本の数は決して多いとは言えないが、
言慨﹄等がある。
内閣文庫には楓山文庫旧蔵の﹃象教皮編﹄六巻三冊の︹明︺
伝来の聞に逸失隠滅した本が有ったであろうことを考慮に入れ
本として伝来している事例がある。
刊紙一が存し、此の本は﹃御文庫目鋭﹄著録本に該当するものと
れば、江戸時代初期において、﹃蹄雲外集﹂或いは其の所収各
以上の模述を以て類推するならば、﹃蹄雲外集﹄と同様に、
考えられる。同目は紅葉山文庫の蔵書を、書名の以日波別に部
に著録した目録であると言われる。部によっては寛永一六年の
﹃蹄雲別集﹄についても、当時或いはそれよりも少しく早くに
書は、それなりに弘通していたものと想定すべきであろう。
項の前に纏められた図書もあり、その分は、同年以前の収蔵書
舶載されたとする推定には、充分に蓋然性が認められると、認
分けし、それぞれを寛永一六年から享保七年までの収蔵年ごと
と看倣されている。その﹁之﹂部の寛永一六年収蔵書より前の
識しておいて障り無いものと思われる。
﹃論語類考﹂二 O巻は、論語の名物典故を考誼した著述で、
所に﹁象教皮編﹂の書名が見える。これは即ち、内閣文庫に現
蔵する﹃象教皮編﹄六巻三冊と考えられ、従って岡本は寛永以
は未だ目賭し得ないのであるが、﹃湖海棲叢書﹂所収本(注目
﹃帰雲別集﹂巻三十四 l五十三に収められる。其の原刻明刊本
また、蓬左文庫にも同じく﹃象教皮編﹄六巻三冊の︹明︺刊
参照)等に拠れば嘉靖三九年(一五六O) の自序を冠し、その
来の伝来本である事殆ど疑いない。
本が架蔵さが)、岡本は﹃御書籍之目録﹂著録本であって、上記
一年(一五八
三)即ち天正一一年よりさらに、二十年以上を遡るのであるが、
に当たり、﹃蹄雲別集﹄初版刊行年である寓暦
歳の撰成にかかると看倣され針。明嘉靖三九年は我が永禄三年
三冊﹂と録された本に相当し、即ち寛
の﹃蹄雲外集﹄と同じく﹁己上五十三部子年被召上﹂漢籍の内
の一部として、﹁皮編
永二二年買本、徳川義直蒐集本である。
但
う。﹃帰雲別集﹄或いは単行単印若しくは叢書零本としての
我が国への渡来は、其の刊行以後のことと見るのが穏当であろ
る妥当性は、許容される範囲の内にあると考えている。
のではなかろうか。寛永年間前半期を本書成立時期の上限とす
しての渡来は、当時に在ってはなお遅きに過ぎるとも言えない
次に検証しておかねばならない問題は、﹁小補韻曾﹂ の引用
小補韻曾
﹃論語類考﹂明刊本が、伝来本として現存するのかしないのか、
今後の博捜の成果を期待するところである。
此れまで述べてきたことに拠って、即ち﹃腸雲別集﹄所収の
﹃古俗字略﹄明版の伝来本が確認される事、また﹃蹄雲外集﹄
雲別集﹄若しくは﹃論語類考﹄が江戸時代初期には舶載鷲来さ
巻の簡称であろうことは容易に察知されるところである。より
﹁小補韻曾﹂とは、明方日升撰の﹃古今韻曾奉要小補﹂三 O
に就いてである。
れ見存したことは、推測の域を出て殆ど確かな事実と考えられ
一般的には﹁韻曾小補﹂の称呼が通用されてきたようで、﹁四
明版について寛永以来の伝存本が確認された事によって、﹃錆
る。翻って、本書が江戸初期の撰述であると認められるのであ
庫提要﹄も﹁韻曾小補﹂と題して経部小事類存目二に著録して
いる。同書は﹃古今韻曾奉要﹄の内容をそのまま踏襲し、各声
れば、そこに引用されているという事実は、その傍証として動
かしがたい徴ともなり、また、当時に於ける同書の流通と利用
高層三四年(一六O六)序刊本が初版であろう。日本では正保
韻内の標字の配列に改変を加え音義注釈を増補した韻書で、明
ただ、知上の事実を以てしでも、この時の渡来が同書の初伝
五年(一六四八)に、その明版に拠って京村上平集寺から覆刻
の実態が片々ながらも明らかとなることでもある。
とする証左とはなり得ない。更に、﹃蹄雲別集﹄初版刊行年で
刊行されてい説。
覧﹂に示したように、標記がないところで明らかに同書を参照
(担オ9)(却 オ3) であるが、後掲の﹁参照図書・引用文辞一
本書には、﹁小補韻曾﹂の引用標記が二カ所に見えている。
ある高暦一一年即ち天正一一年以後、文禄、慶長、元和の聞に
撰述された注釈抄物類また諸書への書入れの精査を挨ち、同書
利用の有無が確認されなければならないであろう。
しかしながら、高暦一一年の自刻本初版刊行後五十年足らず
-222-
或いは引用したと認められる箇所が二十数カ所に渡って指摘で
対校によって判断することは、本書に誤写桁脱が多いこともあっ
既述のように、本書の成立は、林羅山の訓点注釈が通行する
て、必ずしも有効な手段とは言い難い。従って、これまでの推
事例を念頭に置けば、﹃古今韻曾邸中要小補﹄が﹃古今韻曾奉要﹄
前、即ち正保四年(一六四七)の羅山点首書本﹃老子膚斎口義﹂
きる。また、﹁韻曾﹂と標記されている引用文句で ﹃古今韻曾
の音義注釈を殆どそのままの形で継承収載している為に、引用
刊行以前に想定することが妥当であると推定した。正保五年に
論過程を踏まえ、矛盾撞着が回避可能な更なる推論に期待する
文句が﹃古今韻曾皐要﹄の文句と同文の場合に、直接には両書
は岡本の覆刻本が刊行されていることでもあり、 同年刊行の
奉要﹂には見えず、﹃古今韻曾血中要小補﹄の増補された注文を
の何れに拠ったものなのか、判断することは事実上難しい。寧
﹁小補韻曾﹂和刻本を利用したとするならば、論理上矛盾が生
他は無いであろう。
ろ後掲の文辞一覧に示した﹁韻曾﹂の引用文は、上記二例に限
じる。従って同書を参照するに当たっては、明版が利用された
含む場合が、例えば(ロオ叩)(ロウ 1) の よ う に あ る 。 此 の
らず、実は﹁小補韻曾﹂からの引用である可能性が濃厚である。
と考えざるを得ない。覆刻は、当然の事として当代の需要に応
を裏付け、本著者が岡本を利用しうる流通事情は具わっていた
だとすれば、本書の音義字義注釈に於ける﹃古今韻曾皐要小補﹄
本著者が同書を参照するに当たって、明版を使用したのか、
と看倣すことができよう。更に、和刻本の訓点と本書引用文の
じて行われたはずで、そのことは覆刻以前の同書明刊本の流布
正保五年刊の和刻本に拠ったのか、まず確認しておかなければ
訓みとを比較してみると、
の利用度は甚だ大きいものと言えよう。
ならない。そのためには、両版の相違を明らかにした上で、本
明刊本が利用されたことの傍証となろうかと思量される。
の覆刻であることから、本来的には、誤刻を除けば本文に異同
的に結論が得られるはずである。しかしながら、和刻本は明版
に冠する﹁韻曾小補引﹂(寓暦丙午上元日雲杜周士顕書於建陽
時期の上限をより限定する事が可能になる。同書の初版は、首
﹃古今韻曾皐要小補﹄が引用されていることで、本書の成立
一致しない場合が少なくない事も、
書引用の文辞が何れの版を反映したものであるかを示せば、端
は無いわけで、同書全体から見ればごく一部である引用文句の
元和初年頃となり、本書の成立時期の上限をひとまず此の年代
同版が舶載されるまでに十年を要したとすれば、初渡の時期は
倣される。高暦三四年は我が邦の慶長一一年に当たる。今仮に
から、此の序の紀年を以て明寓暦三四年三六O六)序刊と看
之日渉園)の﹁為梓於建陽行之以侯博皐好古者孜駕﹂との結句
/之章﹂(朱方)の印が捺された紅葉山文庫旧蔵本で、﹃御文庫
太原/王氏振記﹂(朱長方)の唐人の印記を存し、﹁秘閤/図書
の一部を削去するなどの加修が看られる後印本である。
﹁韻曾小補再毅﹂等末の紀年を削除、また巻一首二丁の版心題
書題築に﹁韻曾小補一 (l一一存軌)﹂と墨書。﹁韻曾小補毅﹂
は原装の、茶色表紙(二七・四×一六・五糎)、黄色地の後補
﹁環漢
に設定することが許されるであろう。
二部﹂の内の一部と
目録﹄の﹁以﹂部寛永十六己卯年著録の﹁韻曾小補﹂若しくは
寛永十九壬午年に著録された﹁韻曾小補
装にかかるものと認められる。﹁御/本﹂(朱方)の印記を有す
い。しかし、蓬左文庫蔵本、宮内庁書陵部蔵本の知き、江戸初
或いは近時における舶載本が混在していることは言うまでもな
-224-
明版﹃古今韻曾皐要小補﹄の初渡の年代を推定するための有
効な資料は見当たらないが、現存する諸伝本(注的参照)に就
考えられる。
を有し、伝来の古さを感じさせる。
(六六六)は未修本で、﹁親/章﹂(朱方)の古味を帯びた印記
また、無窮会図書館平沼文庫蔵河合繋山旧蔵の大本二 O冊
いて、伝来の経緯をどこまで遡って辿ることが可能か検証して
おきたい。
蓬左文庫所蔵本は大本一二冊(一一八・八)、後補茶褐色空
押し唐草文艶出し表紙(一ヱハ・六×一六・九糎)、各冊﹁韻曾
る徳川義直蒐集本で、﹃御書籍之目録﹄に﹁以上廿五部寅年買
期以来の伝来本が確認されることによって、同書が憧に当時即
その外の現存伝本の内には、江戸時代中後期以後の伝来本、
本﹂として著録された﹁小補韻曾二帖西(張紙)有酬柳
ち寛永初年頃には既に舶載され、弘通していたとの推定が裏付
(ー十一一)﹂と打ち付けに墨書され、江戸中期頃の改
(張紙)十二冊﹂であることは疑いない。従って寛永三年(一
以上、支離として散漫な賛言を繰り返してきたが、要するに、
けられる。
宮内庁書陵部所蔵本は大本二O冊(四O 一 ・ 六 二 、 恐 ら く
六二六)以来の尾張徳川家襲蔵本である。
補
び﹃古今韻曾皐要小補﹂を引証としていること等を合わせ勘案
が認められないこと、明版﹃論語類考﹂或いは﹃蹄雲別集﹄及
書の引用が殆ど無いこと、林羅山の校点首書本を利用した形跡
河上公章句本をもしばしば参照していること、明人の老子注釈
て伝写されたものと想定せざるを得ない。
的空間的に近接した場からは、相当に希離隔絶した状況におい
る。口述者即ち本書の著者、或いは受講筆録者を取り巻く時代
周辺にあるものが直接伝写に関与したものとは考え難いのであ
て文脈に破綻を来しており、 口述者筆録者或いは受講者等側近
至った経緯は明らかにできないのが実状である。であるが、現
の委細を伝える記録資料も甚だ乏しく、この本が収蔵されるに
しかし、同文庫の古い時代の目録は現存せず、また、文庫運営
林崎文庫への入蔵の時期が一応書写年代下限の目安となる。
して、本書の撰述の時期は、江戸初寛永初年頃と推定しておき
たい。遅くとも、林羅山の抄物、首書本が流布する以前であり、
江戸前期には下らないと言えるであろう。
書写年代の推定
推定書写年代に矛盾撞着の存するものでは無い事の傍証とした
存する目録・資料を検討し、その結果判明する諸事実を以て、
合的経験的に判断して、江戸前期頃の書写にかかると推定した。
本写本の現在情況即ち、装訂、料紙、書写の様態等に鑑み総
この本が書写されたのは、本書成立の時期からは、年代的にも
林崎文庫の濫暢は、鎌倉末の荒木田経延が私的に経営した岡
累が存在したものなのかどうか。あくまで憶測の域を出るもの
に渡ったものなのか、伝写者と本書作成者との聞に何らかの繋
本であったであろう。それがどの様な情況に在って伝写者の手
本写本の藍本は、恐らくは著者の未定の稿本或いは口述筆録
二年(一七八二)には都講蓬莱雅楽尚賢等の尽力のもと、文庫
同文庫は元禄三年(一六九O) に林崎の地に移築された。天明
造立された内宮文庫が現在の林崎文庫の淵源と看倣されている。
を受けて山田奉行阿部駿河守勝重が聞達を致し、同四年丸山に
いと考えられる。下って貞享三年(一六八六)内宮嗣官等の意
田文庫とされているが、機構、蔵書の面で直接の継承関係は無
ではないが、本写本には、誤写、桁文脱文が多く、再三にわたっ
がら、それを裏付ける論理的、物証的な根拠には甚だ乏しい。
空間的にもある程度の隔たりが感ぜられるのである。しかしな
、"。
じめ諸国の人士に書籍奉納の芳志を募り、その功が実って、文
の拡充整備と共に蔵書の充実が図られ、江戸、大坂、京都をは
録されている。
目録の巻中に、本書が﹁同︹老子︺膚斎口義護題
再建の為の準備作業の一環であった可能性も考えられる。此の
一冊﹂と著
庫の規模は飛躍的に拡大した。天明四年京都勤思堂村井古巌敬
神宮文庫蔵高延元年(一八六O) 写本三舶には、各冊の扉に、
文庫蔵書目録﹂と題される同群類の目録三巻本がある。この内、
ば、大別して二種類が伝存している。その一つとして、﹁林崎
江戸時代に編纂された林崎文庫の目録には、奉納書目を除け
後に編纂された分類目録で、処々に﹁箱入﹂﹁別箱入﹂等との
文政初年編纂の目録より後に、恐らくは、文政四年文庫再建以
膚斎口義護題
を附載しである。その﹁銭網戸棚入分﹂の内に、本書が﹁老子
入分﹂﹁巻軸之類﹂﹁筆道之部﹂﹁文政三年不入書目﹂﹁悌書之類﹂
林崎文庫の目録には他に、﹃林崎文庫書籍目鋳﹂がある。﹁神
﹁文政二己卯年仕立/御役所江差出拍﹂との朱の識語があるこ
注記もあって、配架出納の便も合わせ考慮された目録のようで
義が善本を含む大量の典籍を奉納した事実は周知されている。
とから文政初年に編纂された目録であることが判る。また、同
ある。此の目録から、文庫内の配架状況の一端が知られるので
書伊勢之部﹂から﹁雑書﹂に及ぶ分類目録で、末に﹁鍛網戸棚
文庫蔵﹃村井敬義奉納書目﹄︹江戸後期︺写本三艇の中冊見返
あるが、本書はその﹁鍛網戸棚入分﹂として分類されており、
更に文政四年(一八ここには、文庫の再建造立が行われ泊。
しに﹁此冊中朱ノ棒曳ハ文政元/年書目改之節ノ印也/但し朱
一般の図書とは別に、重要図書扱いになっていたらしいと憶測
正親町御寝筆
一一こ等の著録がみられる。
十三﹂﹁孝
こ以下、名家真
﹁御本丸御奉
こと著録されている。此の目録は、上記
ヲ曳ザルモノハ/本書目録ニ見ヘヌ分也﹂との朱書が存する。
されるのである。因に、﹁織網戸棚入分﹂には、
一巻﹂﹁和漢朗詠集
こ﹁周易 古写
筆、古写、古版本が含まれ、漢籍には﹁古寓尚書
古版
又、第一種の目録である﹃林崎文庫蔵書目録﹄の内、内閣文
-226-
写
此の朱書は、文政元年に林崎文庫の蔵書改めが行われ、村井古
巌奉納各書に就いて存逸の点検確認がなされた事実を示すもの
と理解される。此の﹁林崎文庫蔵書目録﹄は、 その文政元年
二八一人)時の書目改め作業にともなって編纂された目録と
看倣され、更に、此の蔵書改めと目録編纂は、文政四年の文庫
納
寄
経
庫蔵(内務省本)︹江戸後期︺写本半三冊(一二九・九一二)
は、各書冊数記載の左穿に﹁村井古巌敬義﹂﹁書生中﹂﹁守屋徳
大夫昌綱﹂等の奉納者名を付記してある。同目録著録図書の大
部分に此の奉納者名付記が見えるが、本書にはその記載が無い。
くとも江戸中期には収蔵されていたと思われ、或いは前期貞享
以来の伝来本の可能性も考えられる。従って、本写本の書写年
代を︹江戸前期︺と推定したことに就いて、それを否定排斥す
るに足る論拠となり得る事実は、此の限りにおいては無いもの
と判断される。
り
こと、またその字句が必ずしも忠実に移写されたものではなく
使用したのかは、掲出本文の字句が省略されていて甚だ少ない
述の通りである。しかし、数多い膚斎口義諸本のうちどの版を
とが出来なかった。本書の藍本が膚斎口義本であることは、既
第一に、拠用された﹃老子﹂本文テキストを明らかにするこ
したことの責を塞いでおきたい。
いる。ここで、幾分かの関繋する都見を提示して、懸案を回避
きた。しかし、まだ闇明し尽くせなかった問題が多く残されて
文庫の目録を頼りに不十分ながら些か知り得たところを述べて
足掛かりに若干の検証を試み、また、書写年代について、林崎
について、引用標記された﹁蹄雲集﹂﹁小補韻曾﹂ の両書名を
本篇に於いて、先ず書誌事項の概要を記し、次いで撰述年代
わ
此の奉納者名の記入が何時なされたのか、文政二年仕立の目録
に既にあったものなのか、或いはやや遅れて加筆されたものな
のか明らかではない。いずれにせよ此の記入は然るべき証文ま
たは奥書等の記録に従つてなされたはずである。天明四年の京
都勤思堂奉納図書の殆どに﹁村井古巌敬義﹂の注記がある事を
以てすれば、蓬莱尚賢等の蔵書充実計画が遂行された天明期以
後の奉納図書であれば奉納者名が記されていてしかるべきであ
ろう。本書にその記名が無いと言う事は、当時にあって、既に、
本書の来歴は定かでは無かったことを暗示しているように思わ
九れる。逆に、此の記載の無い書籍は寧ろ林崎文庫内での伝来の
古さを示唆するもので、或いは貞享四年の文庫創建以来の所蔵
書である可能性を平んでいるのではないかと思量されるのであ
る
。
以上、林崎文庫の旧目録を検討してきた結果として、林崎文
お
ー
庫入蔵の時期に関して言えば、天明期以後とは考えられず、遅
」
が実状である。注519に掲出した諸本の内から特定すること
の調査結果を踏まえて指摘し、烏服するほかに手だては無いの
伝存したことの確実な﹃老子膚斎口義﹄のテキストを現存伝本
成立時期の推定年代当時、即ち江戸時代初期に於いて、本邦に
拠テキストを特定することは殆ど不可能である。従って、本抄
誤写も目につくことから、本文字句の異同校勘に拠っては、依
課題であろう。
勘を経た上で、他の事例と合わせてあらためて審査されるべき
れる。更に、現存する古紗本各本間の同異に就き、精績なる校
あるが、古活字版及びその異植字版共に明らかに口偏が認めら
︹室町︺写本、斯道文庫蔵︹南北朝︺写本等の古写本も同様で
蔵(南葵文庫旧蔵)︹室町末近世初︺写本、大東急記念文庫蔵
検討がなされていない。引用の全文は﹁参照図書・引用文辞一
第二点として、参照引用された河上公章句本本文、同注文の
語助用テノミト点セリ讃ム時儀其ノマ、通スル也﹂と、また、
の残影が認められる。(おオ6、⑬)に﹁河上公注ニハ己ヲハ
言及した箇所が有り、室町以来の点本に拠って伝承された旧学
また、河上公注説に従った訓法、河上公注本の伝統的訓法に
覧﹂に一括集成した通りである。この引用に当たって拠用され
(Uウ3、@)に﹁河上公ニ出ル寸生入ルすニ死ト本経ニ点セリ﹂
-228-
は、不可能であろう。
た河上公章句本テキストを明確にせねばならないのであるが、
此処に示された二つの事例から、河上公注本について言えば、
とみえる講述の知きは其の好例であろう。
近世初当時に在って、河上公章句本の和刻刊本としては古活字
江戸時代初期において、必ずしも古活字版のみが流布通行して
此れも藍本同様に俄に特定することは難しいのが現実である。
版の他には無く、通行本としては先ず岡本が念頭に昇るであろ
いた訳ではなく、なお、写本が行われていたものと認識すべき
解題に於いて示した都見を補足する意味で、特記しておきたい。
である。先に、天理図書館蔵﹃老子道徳経河上公解︹抄︺﹂
う。しかし、必ずしも此の古活字版に拠ったとは言えない節が
﹁場ノ字勾曾ニハ口
ヘンナシ(略)河上公注本ニモ口偏ハナシ今ノ本口偏ハ誤リカ﹂
また、河上公注に対する批判的な見解が指摘される。此れは、
ある。 一例を挙げれば、(おウ5、⑬)
とあるところを検証してみれば、陽明文庫蔵︹室町末︺写本、
嘗て無かった注釈態度であって注目に値する。従来の河上公注
の
瀧川君山・武内義雄旧蔵︹室町末︺写本、東京大学総合図書館
の
或いは著者自身の﹃老子﹄理解の限界が窺われ、注釈史に於け
対処の仕方と変わるところが無い。この点で、当代に於ける、
述は一切なく、全面的に信を置く態度は、従来の河上公注への
公注を旧注として否とするものであって、林注への批判的な講
一方で、此の雨注の対比は、林希逸注を是として採択し、河上
注釈史上の一齢として、更に精察を必要とする問題点である。
老子河上公章句の項の⑥⑦⑫⑬等がその例として挙げられよう。
判じた点、明らかに、新しい変化が見て取れる。後掲﹁一覧﹂
の論述伝授に終始した段階から、新注を受容し対比の上優劣を
レ之観レ之可明﹂(必オ8) の一条によって知られる。追究の手
死存亡皆此ノ一二本ツク也予ガ中庸講スル時此説アラ/¥抄若得
わずかに、撰述書として他に﹃中庸抄﹄があることが﹁人ノ生
題が残る。遺憾ながら、抄者については杏として明らかでない。
最後になるが、大きな懸案として、撰述者が誰であるかの問
注釈書として、あらためて顕彰されなければならないであろう。
資料である。林希逸注を積極的に導入した最も早い時期の老子
頃に講述され、膚斎口義享受の様相を、より具体的に示す文献
は、その羅山加点とほぼ同じ頃、或いは其の普及にやや先立つ
て指摘した通りである。それはそれとして、本抄は、時代的に
がかりとなる注目すべき口述として特に指摘しておきたい。
る時代的な制約が表れていると言えるのではないか。
第三点として、﹃老子膚斎口義﹄享受史上に於ける位置づけ
義政﹂に、﹁惟出始讃荘子希逸口義、爾来比比皆然、難然未及
てきた嫌いがある。羅山の元和四年(一六一八)識の﹁老子口
書資料であると言わねばならない。此の紹介を期に、斯界に周
当代の現存資料を補足し得る点からも、本書は極めて重要な図
窺う上で、また﹃老子﹄注釈史上、ことのほか欠如している、
如上の諸事を慮れば、我が国における﹃老子﹄受容の推移を
老子希逸口義、至於今人皆依河上公、余嘗見道書全書、載老子
知せられることを望むと共に、諸方面からの一層の考究を可能
が充分でなかった。従来、林羅山の口義加点の業績が誇張され
敷家注(略)希逸視諸家最為優、今余随見随勲、而附倭訓子安﹂
当該資料の複写及び翻印を認可して下さり、調査閲覧に際し
にするために、複製影印本の刊行を秘かに願うものである。
本が普及したことに拠るのであろうが、膚斎口義の享受の歴史
ては多大のご高配便宜を賜った神宮文庫長、また文庫員の皆様
(﹃羅山林先生文集﹄巻五十四、訓点は省略)と見え、その加点
が、此の羅山の加点に始まるものではないことは、前稿におい
調査のため国立国会図書館、東洋文庫、宮内庁書陵部、内閣文
へは厚く感謝申し上げる。本篇作成に当たっては、関連資料の
ノ書ノ本儀旨ニアラズト云也(八、
リ牽引〆ツヨキ馬ノ口ヲ横サマニ引ヨフナ儀理ナリ老子此
②注ニ牽強ト云ハ水ノ上善カ七ツアルト見タル儀理ハコヤワ
⑤垢モ塵モサツト梯ヒノクレバ清浄潔白ナルカ潔白メカセヌ
(
十
、 7 ウ3)
④此ノ文至テ奇怪ナル故ニ注ニモ如一謎語一ト云ゾ
(
十
、 7オ8)
③暁ハ精也集也ト注セリ此載営規ノ三字ハ老子深意ナリト云
5ウロ)
庫、東京大学総合図書館、同東洋文化研究所、京都大学附属図
書館、同文学部閲覧室、同人文科学研究所、筑波大学附属図書
館、九州大学文学部、岡山大学附属図書館、大東文化大学図書
館、天理大学附属天理図書館、龍谷大学図書館、大阪府立中之
島図書館、京都府立総合資料館、宮城県図書館、名古屋市蓬左
文庫、静嘉堂文庫、尊経閤文庫、無窮会図書館、陽明文庫、武
(十一、 9ウ1)
也 其 ノ 慮 ヲ 注 ニ モ 不 垢 不 浄 ト 云 ゾ ( 十 、 8オ日)
ヤ茶碗杯作ル慮ノ l也
(十二、 9ウ8)
田科学振興財団杏雨書屋、抜本龍門文庫へ閲覧申請願い上げた。
⑦注ニ此五夏ヲ挙テ大暑也
(十三、 9ウ日)
⑥注ニ陶l ヱヌチノハニツチヲ子ヤシテスルハ陶ト云テツホ
⑧注ニ若ハ而也ト云呈シカモ驚也
閲覧に際し担当各位の御高配を恭けなくした。末筆ながら深謝
⑨注ニ両ノ何謂ニハ雨意アリト云ハ初ノ何謂ハ寵辱不足言何
いたすと共に厚く御礼申し上げる。
条下の括弧内に、本書に標記された章次数、丁数・表裏・
ゾ謂ン寵辱ト也次〆何謂ハ大患ヲ貴プナリ何ゾ此身ニ随テ
本書において引用援用された林希逸注は以下の通り。各
行数を記す。膚斎口義原文に相当する辞句には傍点を付す。
大患ヲ貴寸ヲ何ゾ調ントナリ林氏逸カ注ノ字面知此欺
(十五、ロオ3)
⑩此注ハ玄ト妙トヲ一ニメ通スルヲパ二ニカケタソ
(十三、叩オロ)
誤字脱文街文は、翻印編の補訂するところに従う。異体字
は通行字体に改める。
(
八
、 5 ウl)
①此ヲ誤テ水ノ上善カ七ツ有テ見立ツルハ悪キ儀理也ト注ニ
モ云ゾ
-230-
、
f
1
注
(十五、 ロオ 7)
@柾ニハ則直ナル事可レ有サレバ注ニモ能柾一一 y而後一一能直也
⑪注ニハ遅回ノ意也ト云ゾ進マヌ克也
(十五、 ロオ叩)
@倣ハフルキト前ノ段ニ注セリ(二十二、日オ叩)
ニ有レ飴儀也
@注ニ鈴食費行皆長物也ト云ハ長物トハ
@注一一易ヲ引
(二十四、 加オ叩)
(二十四、 初オ7)
(二十二、 日ウ5)
(二十二、同ウ 1)
(二十二、 日オ日)
(二十二、 四オ6)
⑫猶ハ夷猶ト注メアル
(十五、 ロウ6)
オ日)
HH
トスル也
⑬凝定ト注スルキットメ居ル事也
⑧サレパ注ニハ能窪ナレパ能ク盈能弊ニ y能新也皆是不レ足后
(十七、
(十七、 日オ 6)
⑬注ニ引商人ト云ミ作レ誓尚書ノ湯誓篇ニアル事カ
⑬猶夷猶也トイヘリ猶ハ安然ノ意也ト注ス
⑬ 属 ノ 字 注 周 礼 属 民 讃 法 之 属 ト ハ 周 礼(十
二九、
回 目 ウ 5)
日オ 4)
⑫注ニ云如ク禅家ニ不合点ノ者カ諮ク然大悟ナト、云テ因果ヲ
援無スルハ大悪邪見也(二十、
1)
(二十四、
ス
@注ニ荘子耕揖之篇アリ初ウ
也君主-:z:::
⑬孔ハ盛也ト注スルホトニ盛徳ヲ孔徳トシタソ
注
@荘子此類尤モ多ト云ソ荘子ニハ此例不レ一故不レ抄鼓舞ノ文
川/レ
(二十一、 口オ6)
ギ
(二十五、 幻オ8)
ト云ハ様々ニ面白云カヘタル処ヲ云ソ注反ト云ヲ自反スル
ト取ハ非也ト云ソ
ス可
⑬徳ノ字如レ注ノ可レ見大学ノ抄ノ儀ト同シ
E育
4・
@不離トハ離麗也注ニシタソ(二十六、幻ウ叩)
.....I~
(二十一、 口オ 7)
~ノ
@身ヲ重トスレハ則知レ道知則知自然々々則無レ静無レ重況ヤ
差4 謂z
⑫注ニ云孟子二日動││トハ孟子尽心之篇ニ有ルソ日
キ人
久
・
}
予
無~ i
所:
(二十一、 口オ 9)
大石
J=
(二十八、 担オ9)
(二十七、 おオ 9)
(二十六、 nオ9)
軽ト操ト有ランヤト云ソ注ノ如ク書ス別義無之也
‘'・-
@悦惚窓冥ノ中ニ象アリ物有リ精アリト云ハ前ノ七章ノ注ニ云
(二十一、 口ウ7)
I
有
1
王
有・
^
'
寸
失;慢・
•
注蓮
ー
(二十一、 口ウ4)
⑫閲ハ注-一歴閲ト云ソ
(二十一、 口ウ8)
長-三
下.在-
/
、
、
.
ヘル真空賓有ト云ト同事ナリト云ソ
@衆甫ハ衆美ト注ス
@ @
⑮③
不・注
m
v
@ 復 於 無 極 ト ハ 無 極 無 物 也 ト 注 ス ト ( 二 十 八 、 Mオ
ニモ・
⑬死而不亡者毒ト云ハ此ノ一句ハ注自謹自悟可也トイヘリ
(三十三、初オ日)
(三十三、初ウ1)
⑮注職覆トlトハ覆天載ハ地也恥晶化一眠,聖入札聞也サレハ聖
意ナリト云ソ
@注-一論吾里仁ノ篇ノ孔子日朝聞道タ死可実ト云句ヲ引テ此ノ
倒的ウ日)
人 ハ 一 立 介 同 馬 肺 野 町 頂 上 ノ 長 者 也 ( 手 八 、 Mウ叩)
@注ニ荘子官天地云、(二十八、
@注ニ衣被ハ蒙頼也ト云ソ
(三十四、出ウ3)
@ 今 此 注 ニ ハ 天 下 ヲ 得 ル 寸 ヲ 云 也 ( 二 十 九 、 おオロ)
@執ヲ河上公ハ守ル也ト注ス此注ニ取ノ義也
(三十六、犯ウ日)
(三十五、おウ2)
@道之出レ言トハ道ヲ言ニ説キ顕スト云オ也注ニメ可見耳
(三十五、出ウ日)
@甚者泰ノ三字ハ過嘗ノ名ト注セリ過分ナル義也
(二十九、 おオ叩)
(二十九、おウ3)
@微ハ猶レ晦也ト注スルソ
(一、担オ日)
-232~
⑫其外注可文無別儀也
⑬注易言果││トハ易象博日山下出ル泉アルハ
(三十、幻オ日)
カシテ外ニ顕ハセハ道ノ用則失也園ノ宝ヲ人ニ見セテ盗人
@道用タル寸我ニ在リ若道ヲ外ニ顕 y物ニ勝ントテ腎ヲイカラ
(三十一、 おウ2)
ヲ得ルト同事也ト云ソ前章アル善者果市己不可以取レ強之
⑭一注孟子日不噌卜│トハ梁ノ恵王ノ章二アリ
(三十一、おウ6)
@自余注ノ文無別義在レ文可見
@以テト云ハ注ニ有レ心也ト云
(三十七、おウ日)
@亦特不欲ト云不字勿知ク見ルヘキト注三五ハ用レ功処也ト
テ
意ト同ト云ソ在レ注明白也(三十六、おオ日)
mオ日)
⑬一生二々生三ト注ニ云ハ元始ノ一気ヨリ陰陽之二気生ス二
(三十二、
(三十三、初オ3)
(二、おオ1)
@非乎而曽史是トス巳云云荘子ノ丸法ト今ノ文トヵ一様成ト注
@此注-一裂猶周易-一言致也易係辞臼
ソ
気天地人ノ三才ヲ生 y万物尽キス無レ窮出来也
@注ニ角ノ字ヲフル、ト讃セタ角ハ鰯也
⑬注ニ謂ニ之克一也トイヘリ克レ己覆礼ト云同意也
(三十三、 初オ4)
A
ノ指南三五ソ
石ハ一定シテ有テ在ト云義一一輪タリト可レ見也
@反ハ復也静也ト注
@注一一易ヲ引易ノ説卦日
⑬人之所悪││トワ注ニ是モ聡ヲ云タトシタソ (
五
、
ωオ日)
松
山
ウ9)
@注云如水ノ柔石カ堅一一勝ッ水能石ヲ穿撃ル
(
ム
ハ
、 引オロ)
(
ム
ハ
、 日
目
オ 9)
⑮前ノ章二曲ナレパ則全也柾ナレバ則直也同意ト注ニモ云ゾ
(
八
、 位ウ9)
⑬前章ニ窪レハ則盈倣レハ則新也同意ト注ニモ云ゾ
(
七
、 位ウ4)
⑫此三句万歳ノ亀鑑也寓古受用ス斥不尽イヘリ有注可見
⑮無縫締ト注ニ云ワ
(
五
、 ω ウ4)
⑪注-一如レ云月盈レハ必鉄リ是益メ損スル道也又扶レハ必盈是
幻ウ7)
幻ウ8)
@夷ハ注一一平也大道也ト云ソ
@注一一以レ笑ヲ吾道ノ高上ナル寸ヲ見トハ云ソ
(
四
、 却オ1)
(
四
、 おウロ)
(
四
、 おオは)
@肢体ノ我身ヲ身ノセサル義カ注ニ腹肢体ト云此義ナルヘキ
@絶学無憂前ニモ云義也注ニスルソ
@注一一易日不疾│││是ハ繋辞ノ語也
@其排不幹意ヲ注ニ然モ不容言也ト云
(
十
、 叫オ 7)
(
八
、 必オ1)
(
八
、 位ウ日)
⑬類ハ同キ也ト注ス
(
四
、 却ウ6)
(十一、
@注ニ購│││ハ膿ハ即照ノ字俗作臆致也壊也
ハ使レ人也
セシムル
MH
オ臼)
@注一一智与故トヲ去ルト云ワ知ハ巧ミカサル寸ノ起ル処也故
(十一、 叫オロ)
MH
オ日)
@注ニ易一一日│││トハ易繋辞臼
(
四
、 却ウ日)
(十一、
⑬貸ハ注一一与ル也トスルゾ
(
四
、 羽ウ日)
ヤフリ
⑪注ニ後章ト云ハ終ノ八十一章目ノ寸也
(
五
、 却ウ H)
おオ7)
則損メ益ス利也
おウ叩)
訂オ 4)
@天地ノ沙汰ヲシタトワ不レ可レ心得也注ニモ委クアリ
幻オ6)
也石ハ球々落々トメ終其ノ名其鉢不レ可レ易車ハ有テ無義也
@今ノ此注ノ意ハ車ハトケハ車ト云名無クナリテ篤レ虚名玉
キ故一一見レ賎ト注セリ此注ノ義トハ不可也
⑪河上八ムニワ球々ワ輪少落々聡レ多玉ハ少キ故一一見レ貴石ハ多
@一本一一誉ノ字ノ誤知レ注可見
(
(
(
⑫一ハ太極也一一ハ天地三ハ三才也ト注ス
カ
-233-
一
一
、一
、
一
(
一
、
一
(
一
一
一
一
一
、一
、一
、
一
(
一
一
、
一
(
@注ニ三代 1
(十一、 制 ウ3)
此ノ三代ワ嘉舜爵ノ三代ナルヘシ
@注-一学ヲスレハ下ニ大恵云読
(十一、 日制オl)
@五ロ亦善之得善ト云ハチト見ニクキ文ナレ托注ノ知ク見レハ
(十二、 日制ウ7)
@今ノ注ニハ十三ト云ハ先十二ト一ト云義也(十一二、 Uウ8)
@是則十二ニメ始終スル義ヲ以今ノ注引用スル也
{十三、 Uウ日)
(十三、 必ウ2)
(十三、羽オ1)
⑮一ト云ハ何物ヲト云ヘハ一ト云ハ幾也ト注スルゾ
⑩注ニ長生久視ハ々ハ礼記ノ注ニ猶納也
⑩在ニ鄭重ト云ハ子ンコロニ重々ノ能ク念ヲ入テ云ハレタト云
(十三、 必ウ2)
(十五、日オ6)
(十五、 印 オ 比 )
⑩介然ハタチマチト云義也童心ノ下孟子山際問介然用之而成
(十五、日ウ7)
(十三、 訂ウ5)
路字ハ同シトイヘ托其ノ所ニ依リ義ニ随テ可用也今ノ注ノ
-234-
義ソ
是ハ注者例ヲヒク老子ヲ詮スル也
化、失
トハ論語里仁ノ篇ノ文也
l
ト士
(十三、 Uウ7)
故ニ常ト云ソ注ニ在リ可レ易見
カ前
⑩注-一某寺
ノ
、
:
z
:
:
;
.
(十二、 必オ2)
スタ
ヘソ
(十三、 的オ1)
例誉
(十二、 必オ叩)
3)
MW
ウ
ソ用
トハ憲間ノ篇ノ文也
(十二、
レン
9
ソ
一
ー
万て
(+二、 幻オ2)
穴妙
(十四、 州制ウ叩)
7花
@注-一子日不億il
@注ニ不ニ自安一之意ト云其義推之傑ハ安也
@故此無棄二人意注ニモ云ゾ
ラス在注可見
⑩免ハ日也ト注ス
タマ
⑩常ハ不レ変也不レ易也其ノ光ノ用ヲ蔵伏〆サスカ其光常ナリ
ソリ
呆
ト 4
4
云ウ
(十三、 門出オ叩)
主化
⑩済ハ益也ト注ニモスルゾ
徳公
ト
@此注生死之機有寂妙処ト云ハ寂ハ前ノ章ニアル山川ハ寂スル
ノ義也機ト云ハ
表テ下
玄
@注ニ出者超然トメ而脱離之也ト云ハ超然トメ脱離スルトワ
道ヲ五
大
恵 (
韓ハ十
(十三、 Uォ日)
ヲ
一
ー
4
カ
克主
ト
古布
τb
:
z
:
;
.
ソ
ニ玄
有
・
注
ノ
、
一
-
也・カ
⑩
M
情欲ノ離ル、寸カ
徒・ル
@由此観レ之今注ニ出ルハ者超然トメ脱離之ト云ハ情欲ヲ離ス
類・義
ノ此
章ノ
霊
別
主季ン
@
心ハ固クカタマリタル義ニ用タソ
(十六、回ウ日)
(十七、 日ウ日)
⑩一郷一一贋レハ一郷ノ長者尊者トナルソ長ハ上声ト注ニスル
ヲサト讃時上声也
⑩此トハ道也一ノ道ヲ以テ一天下ヲ皆知此然リ一人モ一家
︹林経徳荘子後序︺
(発題、 1オ9)
(十一、 9オロ)
(十一、 9オ2)
②車ハ三十ノクサピヲ以テ一輪ヲ成ス輯ハ以テ為-一直指一也
ト注シタル也︹林注に見えず︺
③堤ハ和レ土也ト注ス︹林注に見えず︺
(十七、臼オ3)
②は、﹃古今韻会邸中要﹂﹁輯﹂字注に引く周種考工記及び
徳の﹁荘子後序﹂(宋景定元年撰)の終末の文であり、
①は宋林希逸撰﹃荘子膚斎口義﹂に寄せられた宋林経
(十八、臼オ日)
モ一国一天下モシカラズト云夏ナキ也如レ注無別義不抄
⑩注-一命原ト云ハ陰勢ノ夏也
下の伝本が見存する。
東洋文庫蔵(和田維四郎旧蔵)︹室町︺写本
杏雨書屋蔵(内藤湖南旧蔵)︹室町中期︺写本
慶応義塾図書館蔵大永五(一五二五)年写本 存巻上道
存巻下
一冊
膚斎口義が移写書き入れされた老子道徳経古写本には以
拠るか。③は未詳。
詩注に﹁為直指﹂或いは﹁直指﹂の句が見える。此れに
Y
王
(十八、回ウ比)
(十九、
知前可見無別義云云注如文
⑪注一一道ハ不可容言ト云ハ無説ノ処也
(十九、日オ9)
日
ォ 3)
⑩注素フン乱也商書有保而不素云云
⑪注-一桔棒汲レ水器也ハ子ツルヘト云モノ是也
日ウ6)
(二十、日オ 1)
⑪是聖人無為民化シ無夏天下治マル夏云ソ別義ナシ在文可
見如、ン注煩不抄
⑩察トハ煩砕也ト注スル呈ニ如何ニモワツラハシソ
(二十一、比オ 5)
次の三条に言うところの﹁注﹂は例外で、老子膚斎口義
滝川君山武内義雄旧蔵︹室町末︺写本
一冊
東京大学総合図書館蔵(南葵文庫旧蔵)︹室町末近世初︺
写本
冊
冊
冊
徳
経
高
歪
十
①以口義名トスル者謂其不為文雑但俗而直述之也ト注セリ
には該当する文辞は見えない。
2
3
省
注
筑波大学図書館蔵天文一一一
(一五五二)年写本
慶応義塾図書館蔵(戸川演男旧蔵)天正六(一五七八)
年足利学校南春写本
大東文化大学図書館高島文庫蔵(小島賓素・森立之旧蔵)
天正六(一五七八)年足利学校真瑞写本(経籍訪古志
著録本)
現在所在が判明している元刊本は次の台北園立中央研究
院歴史語言研究所蔵(銭曾旧蔵)の一本に過ぎない。
老子慮粛口義
二巻宋林希逸撰
︹元︺刊(︹建安︺) 日行幻字 注低一格大字
大二冊
﹃群碧棲善本書録﹄﹃間中園訪書志﹄著録本。民国五四年
(一九六五)台北喜文印書館刊の影印本(﹃無求備粛老子集
成初編﹂所収)がある。
尚、﹃五十寓巻楼蔵書目録初編﹄巻十四及び﹃五十寓巻
楼草書政文﹄に、明李廷相・清孫承津旧蔵の元刊本が著録
されるが、現所在は不祥。
二巻宋林希逸撰
︹明前期︺刊白日目行路字 注低一格大字
本室町期加点書入本
特大二冊
未見。﹃胴中国訪書志﹄著録の次の一本である。
老子膚斎口義
内閣文庫蔵函梨番号会二一・一九五)の次の一本。
二巻宋林希逸撰明張四維校
明高暦二(一五七四)序刊(敬義堂)三子
口義零本大冊
内閣文庫蔵﹃三子口義﹄ 一六冊函架番号(子二三五
老子膚斎口義
6
二巻宋林希逸撰明何汝成重校
明寓暦五(一五七七)序刊覆明高暦二年
序敬義堂刊本三子口義所収大二冊
O) の内の首二冊。
老子膚斎口義
未見。﹃街中国訪書志﹂著録の次の一本。
老子膚斎口義
二巻宋林希逸撰
朝 鮮 旧 刊 日 行 幻 字 黒 口 本 注小字双行
大一冊
﹃経籍訪古志﹄巻五著録の容安書院蔵朝鮮国刊本は此の
本と同版らL いと言われるが、現所在は明らかでない。
この間の同書の刊行伝写並びに重修重印の経緯を目録に
存巻下(欠江海潟百谷玉章第三十六以下)
宋林希逸撰闘名者点
︹室町末近世初︺写
龍門文庫蔵一冊
して示せば次の知くである。
老子膚斎口義
二巻宋林希逸撰
︹慶長︺刊古活字第一種本 9行口字
国会図書館蔵一冊(元和四年林羅山識語)
-236-
注
7
8
冊
冊
冊
注
注
9
4
5
注
I
司
Y
王
注
二巻宋林希逸撰林羅山点
︹江戸初︺写 9行 問 字 林 羅 山 自 筆 識 語
大東文化大学図書館蔵一冊(高島文庫)
二巻宋林希逸撰︹林羅山︺点
︹江戸初︺写林羅山手校本日行幻字
内閣文庫蔵一冊
巳当 J
夜
長
刊
尽〕
林
甚豊
右興
衛堂
門〔
刊中
(内題﹁老子属膏口義﹂)
︹慶長︺刊古活字第二(イ)種本 8行問字
斯道文庫蔵二冊(野間三竹、浜野智三郎旧蔵)
宮城県図書館蔵二冊(伊達文庫)
龍谷大学図書館蔵二冊(寓字霊文庫)
仁和寺蔵二冊
尊経閤文庫蔵二冊(墨訓点朱引等書入)
四二三
年京
二巻宋林希逸撰林羅山点並首書
正保四(一六四七)刊(京林甚右衛門)
門
一
室
)白子
老子膚斉口義
覆
;
¥
:
'
.
三
(題築﹁閥品老子経﹂)
︹修︺(京林甚右衛門)
左五「
衛(噌
賓永六(一七O九)修(大坂
市兵衛)
賓文堂大野木
(題簸﹁監老子経﹂)
後印(大坂賓文堂大野木市兵衛)
須原屋茂兵衛)
後印(江戸
(題築﹁開問老子経﹂)二巻 林羅山点 徳倉昌
堅首書
延賓二(一六七四)蹴刊(京上村次郎右衛
門)翻明暦三年刊本増補首書本
(題簸﹁時春闘老子経﹂)二巻 林羅山点 ︹徳倉
昌堅︺首書
明暦三(一六五七)刊(京 上村次郎右衛門)
本野正題
小保築
︹慶長︺刊古活字第二(ロ)種本 8行問字
斯道文庫蔵一冊(文政十一年識語)
成葺堂文庫蔵合一冊(島田翰旧蔵)
(内題﹁句解道徳経﹂)
︹慶長元和︺刊古活字第三種本 7行口字
東洋文庫蔵二冊(和田維四郎旧蔵)
杏雨書屋蔵二冊(内藤湖南旧蔵)
弘文荘蔵一冊(未見)
古活字第四種本 9行印字
慶応義塾図書館蔵二冊(星文庫)
!
司
又
︹元和︺刊
安田安昌)
中野小左衛門)
覆寛永四年安田安昌
I
司
又
I
司
I
司
又
日行幻字
京都府立総合資料館蔵一冊
干J
I
I
司
又
︹江戸前期︺写
閥名者点
九
寛永四(一六二七)刊(京
︹元和︺刊古活字版
/、
高治三(一六六O)修(︹京︺
刊寛
本永
覆
i
司
I
司
I
司
I
司
I
司
I
司
又
I
司
後印(大阪
河内屋卯助等)
︹明治︺印(京 文求堂田中治兵衛)
田中治兵衛)
︹明治︺修(京
稗即非加一校
(﹁鵠林註老子道徳経﹂)
明治印(東京松山堂藤井利八)
老子膚粛口義︹主鳩︺限林希逸撰
近世初から江戸時代前期にかけて成立した膚斎口義に依
︹林羅山︺撰
拠せる老子註釈書として、以下の諸書諸版が伝存する。
(題築﹁制老子経諺解﹂)三巻
︹貞享二(一六八五)︺刊
JbMF時原)ト幽撰
老子膚斎口義抄工
和泉屋八左衛門等)
延宝九(一六八一)修(︹京︺
衛門等)
一O巻 山 本 稿 雲 撰
老子経諺解大成 延
宝八(一六八O) 刊
逓修(︹京︺
大和屋善兵衛・文牽屋次郎兵
和泉屋八左
後印(︹京︺
衛)
老子膚粛口義(抄︺
不分巻閥名者撰
元禄三(一六九O) 写(稗築天)
九州大学文学部蔵四冊
王元貞
和刻本﹃老子翼﹂は次の一版及び其の重修後印本が知ら
明焦抜撰
嶋
市
郎
右
れる。
老子翼
原
寛延二(一七四九)修(京 梅村三郎兵衛)
刊巻
老子諺解
(改題﹁老子抄解﹂)
逓修(北村堂)
静嘉堂文庫蔵二冊
又
空
三
点
ヒ
-238-
又
老-Y
子
荘六企翼
翼五ろ註
(改題﹁老子浅説﹂)三巻林羅山撰
貞享二(一六八五)刊修(京富久嶋甚右衛
二巻︹林羅山︺注
︹江戸前期︺写
田原仁左衛門)
士ヒ
)
二
企
芸
1
0
老子経抄
二(題
)道「
刊春老
()子
昆撰膚
山斎
館口
道義
可護
慮題
寛文九(一六六九)印(京
五〕内
衛承校外
門応題
又
(林版
ー羅J
L
、
六山、
又
逓
修
又
承巻題
応築
注
1
1
又
又
又
又
Y
王
又
又
老
子
又
後印(京
勝村治右衛門)
わが国に伝存する﹃老子翼﹂明版は、管見の限りでは次
の三版がある。
岡本は明和七年に初版が刊行された後、明治まで修印が
繰り返された。
︹後印︺(江戸
修(序文改修)
(題築﹁王注老子道徳経﹂)二巻貌王弼注
老子道徳虞経 唐陸徳明音義宇︹佐美潜水︺(恵)考訂
明和七(一七七O) 刊 ( 江 戸 松 本 善 兵 衛
須原屋平助・須原屋茂兵衛)
︹後印︺(江戸 千鍾堂須原屋茂兵衛・花説堂
須原屋平助)
松山堂藤井利八)
須原屋平助・須原屋茂兵衛)
︹逓修︺(江戸 千鍾堂須原屋茂兵衛・花説堂
須原屋平助)
老子道徳経河上公解(抄︺
並解題﹂(﹃斯道文庫論集﹂二十九 l三十一輯)を参照され
﹁結転天理図書館蔵﹁老子道徳経河上公解︹抄︺﹄翻印
存道経閥名者注
寛永四(一六二七)写
大二冊天理図書館蔵
先に、本論集において紹介した、次の書である。
明治印(東京
又
三巻明焦紘撰王元貞校
明高層一六(一五八八)序刊
修(梅竪石渠閤)
老子翼
︹明末︺刊
覆明寓暦一六序刊本
覆明寓暦一六序刊本
︹明末︺刊(長庚館)
内閣文庫に林羅山旧蔵本三冊、又、名古屋市蓬左文庫に
寛永六年買本﹃荘子翼﹂共六冊が伝存する。その外、伝来
の経緯は明らではないが、伝存本は多い。
本邦における王弼注本の初版である。
老子道徳経
二巻附古今本孜正・道徳経附録各一巻︹貌︺
王弼注岡田阜谷(東賛)校点(標注・孜
正)明孫鎮撰(附録)岡田阜谷撰
事保一七(一七三二)刊(江戸慮橘堂野田
太兵衛)
(題築﹁老子王弼註﹂)
安永三(一七七四)逓修(江戸須原屋茂兵
衛・松本善兵衛・須原屋平左衛門)訓鈷削除
又
・
,
、
‘
。
手J ν
-239-
1
5
Y
王
又
1
2 又
又
1
4
又
注
1
6 又
1
王
I
司
1
3
I
司
Y
王
1
王
又
j
欝
﹁転眠天理図書館蔵﹃老子道徳経河上公解︹抄︺﹄翻印並
八王
序等
)興
林子全集亨
(楓山文庫旧蔵)
二巻明醇惹撰
明崇禎六(一六三三)序刊
大四冊東京大学東洋文化研究所蔵
朝鮮刊 木活字乙亥字体訓練都監字本
特大一冊天理図書館蔵(今西龍旧蔵)
特大一冊慶麿義塾図書館蔵
二巻老子考異一巻明醇惹撰
老子集解 明
嘉靖序刊大二冊内閣文庫蔵
明醇惹撰の老子注釈、以下の伝本が管見に入る。
刊校
解題(下)﹂(﹃斯道文庫論集﹄一二十一輯)注5参照。
林子道徳経穂署
同右解題注6参照。
一思
新刊道書全集 (外題)明間鶴洲編
明寓暦一九(一五九二序刊
五撰
人
五明
)朱
大序得
二刊之
冊(撰
大慶浩
ニ醸然朱
冊義斎庶
内塾)之
閤図校
文書
庫館
入る。
大一冊内閣文庫蔵(三子通義所収、毛利高標旧蔵)
大二冊京都大学附属図書館蔵(︹三子通義︺所収)
︹明︺刊覆明嘉靖四四年序浩然斎刊本 ︹三子通
義︺所収
大二冊京都大学文学部蔵(十硯山房旧蔵)
大二冊岡山大学附属図書館蔵(池田文庫)
老子道徳経玄覧
一巻附老子聖紀圃説一巻明焦抜輯王
道徳虞経註解評苑元貞校誰之子補李︹廷機︺(九我)評
︹明︺刊(天台館)
大一冊東京大学総合図書館蔵(島田筆郁・南葵文庫旧蔵)
注釈書のことであろう。
の他、数種が伝存している。﹁焦弱侯老子評苑﹂とは次の
注ロ・日参照、焦紘編著と題する老子注釈は﹃老子翼﹄
本﹂と著録される本に該当するものと思われる。
MH
、また加頁参照)波部延賓七己未年に﹁方壷外史
﹃方壷外史﹄ 一
O冊は楓山文庫旧蔵、﹃御文庫目録﹄(注
二巻明陸西星撰
︹明高暦︺刊(未該堂) 方壷外史第二巻坤
字集所収
大二冊内閣文庫蔵
陸氏の老子注釈に﹃玄覧﹄二巻があり、次の伝本が管見に
﹁陸西星﹂の標記は、﹃老子諺解﹄巻上第五+章に見える。
I
司
李賢の老子注としては、次の伝本が存する。
-240ー
収一明
六林
(兆
五巻
十
所暦
四例
四題
Y
王
函寓巻
荘子・列子と合刻され﹃三子通義﹄として通行、また、
明序
嘉・
2
1
字明六
靖凡
老子のみの単印本としても行われたようである。以下の伝
子
i
重
義
注
2
2
注
2
3
I
司
老
本が知られる。
蔵蔵
注
1
7
注
1
8
注
1
9
I
司
注
2
0
老子解︹陀鳩︺酬李品特卓吾叢書︺所収
合大一冊(心経提綱・観音問と合冊)国立国会図書館蔵
大一冊之内(心経提網・観音問と合冊)尊経閣文庫蔵
﹃諸子品節﹂五O巻は明陳深編。次の伝本が管見に入る。
﹃御文庫目録﹂之部寛永一六年己卯年前に著録され、楓山
文庫収蔵本があったはずであるが、現所在不詳。次の両本
L
庁
固
い
F
は旧蔵者印記からは楓山文庫本とは認められない。
号一口二、 E口
新銀百大家評註歴子品粋︹一世相一ハ時(矧耕一理ノ輯
大一一一冊東京大学東洋文化研究所蔵
巻一に﹁老子道徳経一巻﹂を収める(巻二│六は﹁荘子南
華経)。しかし、同本は徐則伺旧蔵書で日本に於ける伝来
本ではない。江戸時代初期に舶載されたであろう同書が、
伝存するのか否か、未だ管見に入らない。渡来漢籍で逸失
したもの或は所在不明のものは少なくない。
﹁陳孟常二経精解﹂とは、次の書を指すものと思われる。
焦抜
ここでこ経と言うのは、﹃老子道徳経﹂﹃荘子南華真経﹄の
ことである。
明陳慾典撰
明蔦暦四五 (工ハ一七)︹修︺(王憧初)
六冊京都大学文学部蔵
明寓暦二三(一五九五)刊(熊雲漬)
大一 O冊蓬左文庫蔵(徳川義直蒐集本)
大八冊筑波大学附属図書館蔵
玉堂校惇如一岡陳先生二経精鮮全編臥巻
J
王
陳 繕 儒 の 老 子 注 釈 は 、 明 和 七 ご 七 七O) 年京小幡宗左
恐らくはその底本となったであろう、次の如き明版を指す。
-241-
者子コ口信
五O巻 明 陳 深 編
明寓暦一九二五九二序刊
大一 O冊内閣文庫蔵(仙石政固旧蔵)
︹明末︺刊
覆明寓暦九年序刊本
大一五冊宮内庁書陵部蔵
同書の巻一に老子を収め、首に﹁河上公道徳経八十一章﹂
と題してある。其の本行内双行注文は、明陳纏儒注と同内
容である。注お参照。
旦口小
﹂
ノ
ノ
/
績編﹄(民国五九八一九七O﹀年台北喜文印書館刊) '
Jt
衛門刊の﹃老子嬬﹂が知られているが、﹁老荘簡﹂とは、
﹃歴子品梓﹂は宰見。次の一本が知られる。
印収入さる。他に伝写本の存するを聞かない。
注目参照。無求備驚巌霊峰氏所蔵、﹃無求備粛老子集成
注
2
7
1
王
2
5
2
6
2
8
又
2
4
I
司
Y
王
I
玉
一巻錦眉公陳先生評選荘子南華
新刻眉公陳先生評註老子億円 経
儒四巻明陳繕儒評張鼎・
張梼校
︹明末︺刊(師倹堂粛氏)大五冊斯道文庫蔵
尚、内閣文庫蔵の︹明末︺粛鳴盛刊﹃五子億円﹄所収の老
子一巻は此の本の覆刻と認められる。
陳士元の伝記資料として以下の序践類が参考になる。
荒史自序(嘉靖壬子︹一三年八一五五二﹀︺仲冬朔日藤城
陳士元識)
論語類考序(嘉靖三十九庚申冬十月朔目標城陳士元心叔再
謹識)
限疾恒談序(嘉靖乙丑︹四四年八一五六五﹀︺長至日)
讃荒史序(嘉靖乙丑冬十月望日暢蘇張弦書)
姓鰭序(嘉靖丙寅︹四五年八一五六五﹀︺秋九月既望鷹城
陳士元識)
虞爵貢楚絶書序(隆慶庚午︹四年八一五七O﹀︺莫春朔日
江漢潜夫識)
江漢叢談序(隆慶六年八一五七三﹀秋八月中秋後二日鷹城
陳士元心叔甫書)
刻荒史序(高暦二年八一五七四﹀歳在甲戊夏六月既望汝陽
趨賢書)
世暦序(高暦十年八一五八二﹀壬午環中迂史陳士元識)
銭完鯖雲別集歳目(寓暦歳発未︹二年八一五八三﹀︺中
冬日長至丁亥江漢潜夫陳士元識)
蹄雲別集引(高暦歳美未中冬日長至丁亥江漢潜+大陳士元識)
楚故署序(寓暦十二年八一五八四﹀甲申上元日藤城七十翁
陳士元識)
象教皮編序(高暦甲申仲秋上弦日環中迂受陳士元書)
楚故暑序(高暦十有三年八一五八五﹀仲冬湖贋布政司右参
議漂水武尚耕書於荊西之匪鮮堂)
象教皮編序(高暦歳在著羅因敦︹一六年八一五八八﹀︺畢
事月長景日宛陵汝賢甫徐元太書於西南重鎮之師善軒)
諸史夷語音義序(高暦丁亥︹一七年八一五八七﹀︺藤城七
十四歳迂受陳士元書)
鯖雲外集題辞(高暦十七年八一五八九﹀己丑仲春期日麿城
環中迂受陳士元書)
諸史夷語音義後序(高暦己丑︹一七年八一五人九﹀︺仲冬
月西糊祝以圃撰)
諸史夷語音義叙(寓暦十有八年八一・五九OV仲春既望永新
-242-
注
2
9
青海居士甘雨諜)
刻岳紀序(寓暦壬辰歳︹二O年八一五九二﹀孟冬吉旦知麿
城牒事南海羅紳頓首拝撰)
易象鈎解四巻、論語類考二 O巻、孟子雑記四巻、名疑四巻
を収入、五経異文一一巻、古俗字略七巻、荒史六巻、夢林
冗解三四巻(明何棟如重輯)、姓匪四巻、姓鰭一 O巻を存
尚、﹃四庫全書総目提要﹄巻二八経部易類易象鈎解四巻
才、宜入史舘校天禄石渠之秘、乃以才忌弗庸於時退、而著
書)に﹁陳君少輿予同事於郷、登甲辰進士、人成音其良史
目として著録する。その外、﹁讃荒史序﹂(嘉靖四四年張弦
の解題中に簡潔な仕歴が記され、また、石田幹之助﹁諸史
作頗富、殆十数種、其他作母論、而史皐則有新宋史一百六
岳紀序(磨城九震道人八十翁陳士元書)
東洋文庫
夷語音義に就いて﹂(﹁東亜文化史叢考﹄八東京
十巻・新元史四十巻・史書論纂五十巻・歴代世紀八巻、設
可惇世﹂とあって、新宋史一六O巻、新元史四O巻、史書
論纂五O巻、歴代世紀八巻の史部書の著作が知られる。ま
暦庚寅修)、巌紀六巻、姓匪四巻、姓縄一 O巻、名疑四巻、
(嘉靖戊申修)、楚故略二 O巻、楚絶書二巻、徳安府志(寓
韻苑考遺四巻、歴代世歴四巻、荒史六巻、澱州志一一巻
二巻、但言解二巻、諸史商語音義四巻、古俗字略七巻、
集積集の家集があることを自ら述べている。更に、﹁刻岳
とあって、缶鳴集、金陵集、金蓋集、海漬集、蹄雲前集後
論纂及宋元新史、則巻帳繁多、力綿不能銭梓、姑棄置陸中﹂
隠居有蹄雲前集後集積集、皆酬麿之作、銀梓未完、其史書
鳴集、遊南羅有金陵集、次都邸有金蔓集、守標有海演集、
-243-
昭和四八﹀)の冒頭に、主として高暦一八年の甘雨叙に
従った考述がある。
陳士元の編著書として﹃千頃堂書目﹄は、易象鈎解四巻、
日氏農書音稗一巻、江漢叢談二巻、夢占逸旨八巻、象教皮
紀序﹂(蔦暦二 O年羅紳撰)にも﹁由是蹄而杜門著書、捕
た、﹁蹄雲別集引﹂(高暦一一年陳士元識)に﹁余少也有缶
編六巻、隠疾恒談一五巻、蹄雲三集七五巻を著録し(千頃
塵鳳起・潜景鄭校
尚、﹃北京国書館古籍善本書目﹄史部伝
護所謹、所著有蹄雲前集後集績集別集外集敷十種、慶大悉
清黄虞稜撰
上海古籍出版社﹀に拠る)、﹃四庫全書総目﹄は、
堂書目一一一一一巻
刊八上海
備﹂と見える。
一九九O
易象葉解四巻、論語類考二O巻、孟子雑記四巻、五経異文
1
王
30
六冊
明陳士元撰
明寓暦
九行二十一字白口四周単
記類じ﹁皇明漸士登科考十巻首一巻
2
三十一 年自刻天啓補刻本
辺﹂との著録があるが、士元の没年は高暦二五年とされ
﹁寓暦三十一年自刻﹂とは不審であるが、陳氏家刻の意で
あろうか。
(2ウ3) ﹁鑑﹂、四庫本・陳氏校本・呉氏校本並作﹁鑑﹂
(2ウ4) ﹁七歳﹂の問、四庫本・陳氏校本・呉氏校本並有
﹁百﹂字
﹁称潜﹂の問、四庫本有﹁世本云彰祖姓鐘省鰹在商
書七百年王符氏﹂六四字、陳氏校本、 四庫本亦問、
嘉邸中舜彰祖而任之崖霊恩氏云彰祖嘉臣仕殿世其人甫
震守戴吏在周潟柱下史年八百歳又宰我問五帝徳篇云
る文辞と、現行本﹁論語類考﹄との校異を示しておく。尚、
但無﹁甫﹂字、呉氏校本与四庫本向、但﹁恩﹂誤作
(五
玉三
坪 )
呉十
校)
氏堂
明陳士元
賓
呉善
校本・呉氏校本並作﹁王弼氏云老是老珊彰是彰祖﹂
(2ウ日)﹁胃也﹂の﹁也﹂、四庫本・陳氏校本・呉氏校本並
作﹁世﹂
(2ウH) ﹁昭珊﹂、四庫本・陳氏校本・呉氏校本並作﹁胎瑚﹂
(3オ1) ﹁而生﹂の﹁而﹂、呉氏校本作﹁脇﹂
(3オ2) ﹁之玄﹂の問、陳氏校本有﹁日﹂字
﹁禄潟﹂の問、四庫本・陳氏校本・呉氏校本並有
﹁是﹂字
-244一
本書に引用された﹁販雲集云﹂﹁陳士元云﹂ の標記のあ
本論に指摘したように、対象となるのは同書巻七人物考第
﹁云老﹂の問、四庫本有﹁融帝師子﹂四字、陳氏校
﹁
思
﹂
それぞれ、四庫本、陳氏校本、呉氏校本の略称を使用する。
三十
本・呉氏校本並問、但﹁子﹂作﹁於﹂
(2ウロ)﹁思世﹂、四庫本・陳氏校本・呉氏校本並作﹁恩成﹂
二O巻 明 陳 士 元 撰
民国七五(一九八六)刊(台北
館)影印文淵間四庫全書所収
)四
刊│
二O巻 明 陳 士 元 撰 清 陳 春 校
清嘉慶二四(一八一九)刊(湖海棲)湖海棲
叢書所収陳氏校本
一校別
(2ウ2) ﹁老是老珊彰是彰祖是王弼氏義也﹂、四庫本・陳氏
八集
論語類考
台湾商務印書
四庫本
二老彰の文句である。対校に用いるテキストは次の三本で、
本
3
1
騎清撰二
雲道 O
別光清巻
集ー呉(
所三銃蹄
収(梅雲
Y
王
l
司
I
司
(3オ3) ﹁珊々﹂、四庫本・陳氏校本・呉氏校本並作﹁僧借﹂
﹁与億円四庫本・陳氏校本・呉氏校本並作﹁与職﹂
(3オ4) ﹁子桓﹂の問、四庫本・陳氏校本・呉氏校本並有
本並作﹁西﹂
﹁而歴流沙﹂の﹁而﹂、四庫本・陳氏校本・呉氏校
作﹁孔没十九年﹂
(3オ5) ﹁没後乎十九年﹂、四庫本・陳氏校本・呉氏校本並
﹁史﹂、四庫本・陳氏校本・呉氏校本並作﹁吏﹂
﹁吏﹂、四庫本・陳氏校本・呉氏校本並作﹁史﹂
﹁以三十六法治心理性究忠霊﹂
"
'
=
田
.
十
明陳士元撰明寓暦十一年
十七年自刻本四十冊
﹃北京図書館古籍善本書目﹄子部叢書類の著録は以下の
姓匪四巻
姓鰭十巻
名疑四巻
古俗字略七巻
夢占逸旨八巻
論語類考二十巻
孟子雑記四巻
易象鈎解四巻
易象葉解二巻
五経異文十一巻
隈疾恒談十五巻
蹄雲別集七十四巻外集六十七巻
如し。
3
2
叢部﹄(東京
尚、﹁中
上海古籍出版社・中華書
館及び祁牒園書館(有欠)にも架蔵されている。
一九九O) に拠れば、北京国書館の外、北京大事国書
園古籍善本書目
三年(一五九五)以後と見なければならない。
三年に当たる。外集の刊行が完結したのは、この年高暦二
道人八十翁陳士元書﹂と題してあり、士元八十歳は高暦
が撰し、さらに自序である﹁岳紀序﹂の末には﹁麿城九霞
年甘雨の撰序であり、また﹁刻岳紀序﹂は寓暦二 O年羅紳
序刊とされるのであるが、﹁諸史夷語音義叙﹂は寓暦一八
題日外集﹂とあって、此の題辞の紀年によって寓暦一七年
は﹁前録蹄雲別集十種凡七十四巻、今復鰻十種凡六十七巻、
七年八一五八九﹀己丑仲春朔日藤城環中迂受陳士元書)に
つのは、外集の首に冠してある﹁蹄雲外集題辞﹂(寓暦十
但、同日が著録する刊年については疑問が存する。と言
岳諸但江世荒贋象楚
紀史言漢暦史再教故
六夷解叢四六貢皮審
巻語二談巻巻楚編二
音巻二
絶六十
義巻
書巻巻
四 二
巻 巻
庖
注
までの持渡書と推定されている。この書の知之部に﹁陳蹄
﹃鯖雲別集﹄通行本の次の清版である。
雲別集九集十套﹂が子歳即ち天保一一年の持渡として、ま
丑(天保二一年)二番船の持渡として記載されている。
た幾之部に﹁掃雲別集四套﹂が成(天保九年)三番船及び
七四巻(姓匪四巻姓鱒十巻名疑四巻古俗字略七巻
夢占逸旨八巻論語類考二十巻孟子雑記四巻易象鈎
錆雲別集 解四巻易象蒙解二巻五経異文十一巻)明陳士元
撰清呉銃梅校
清道光二二(一八三三)刊(呉玉坪賓善堂)
O五部各十套﹂を記録し、同年九月作成の﹃丑弐番船同三
番船書籍元帳﹄は、子一番船の持渡書として﹁鯖雲別集
五年ほどしての舶載という事になる。尚、﹃書籍元帳﹄
三番船持渡書を初渡分と看倣してよいと思われる。刊行後
押してあることから、再渡本と見られ、此の目録記載の成
﹃書籍元帳﹄の記載分には、何れも書籍買請人の墨印が
番船同四番船書籍元賑﹄は丑弐番船持渡書に﹁蹄雲別集
﹃購来書籍目録﹄共に記載書名右肩の銀高は共通して﹁四
天保二一丑歳作成の﹃子一番船同弐番船同三番船附丑壱
O 一部八套﹂を記している(両﹃書籍元帳﹄は長崎県立長
拾目﹂であり、これらの中に明版が混在している可能性は、
内閣文庫函架番号(経五0 ・四)の次の明版である。
まず無いものと思われる。
崎図書館蔵可大場惰丘一路川唐船持渡書の研究﹄(吹田市
関西大撃東西撃術研究所昭和四二)所載翻印に拠る。
関名者編
大一冊内閣文庫蔵
大場惰博士が唐船持渡書の第二次資料として挙げられた
伊呂波分(外題)
︹江戸末︺写
次の写本である。
購来書籍目録
昭和四三)に翻刻が、また同氏前掲書
大場惰﹁内閣文庫の購来書籍目録﹂(﹁関西大学東西学術
研究所紀要﹄
O五頁以下に同書の解説がある。それに従えば、この目録
に記載されている諸書は、天保六年乙未より弘化元年甲辰
四巻(蹄雲外集六十 l六十三)明陳士元(環
諸史夷語音義中迂受)撰
︹明︺刊
大四冊慶慮義塾図書館蔵(田中文庫、単印、巻
首大題削去妄改)
大二冊陽明文庫蔵
管見に入る。
﹃諸史夷語音義﹄の伝本も希少で、刊本では次の三点が
古俗字略︹批議⋮補除措別耕輔壮一付編大五冊内閣文庫蔵
注
3
6
注
3
7
-246-
注
33
注
34
1
玉
3
5
知
少
"
'
'
'
'
人得料味
・冊冊
蹄雲外集一/(班十)九震道人輯﹂と題し、各書、
概ね同様の体式に従う。但、第二行の著編者名の題署は、
行二十字、注小字双行。版心白口魚尾無し、﹁恒談(以下
四周単辺(一九・二一×二了五糎)、有界、毎半葉九行
である。尾題は概ね各書名下に﹁巻之幾終(終)﹂と。
三巻山田三郎兵衛(向柴堂主人)編
唐本類書考 寛
延四(一七五二刊(京編者等)
巻之
長至日)の所収第一書の序目がある。巻一首は﹁随疾恒談
す。次に﹁提疾恒談巻目﹂及び﹁隈疾恒談序﹂(嘉靖乙丑
春朔日磨城環中迂受陳士元書)及び﹁蹄雲外集目録﹂を冠
首に﹁蹄雲外集題辞﹂(高暦十七年︿一五八九﹀己丑伸
冊冊
大二冊内閣文庫蔵(存首二巻、毛利高標旧蔵)
昭和三三年)著録。また、上記
慶謄義塾図書館蔵本は︹阿部隆乙﹁韓織融和漢書善本
解題﹂(慶麿義塾図書館
(注却)、石田幹之助論文参照。ただ、共に同書を単行書と
看倣して述べられている。実は、﹃蹄雲外集﹂ の単印若し
くは零本であること、内閣文庫蔵本及び陽明文庫本と同版
である故を以て明らかである。
冊冊冊冊
姓名或いは別号(環中迂史)を使用し書によってまちまち
"
'
'
'
' 而慮)
・・冊
冊冊
撰
意般)水{、到
清一時来天月
-冊・
_
.
.
.
.
.
"
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.
.
.
.
.
.
.
.
.
.
.
冗
)風
冊-
冊
大二O 冊
(
丁
は版式が異なる。四周双辺土二・三×一四・三糎)、有
界、行字数は同じ。版心白口単黒魚尾﹁荒史
付)﹂、下象鼻にまれに刻工名、また字数がある。
﹁時雲外集題辞﹂に﹁前銭鯖雲別集十種凡七十四巻、今
巻
幾
-247-
岳諸僅江
紀史言漢
六夷解叢
巻語二談
音巻二
義巻
四
巻
﹃商舶載来書目﹂幾字競享保八葵卯年の条に﹁一時雲外
一部二套﹂とある。大場惰﹃は碍菅原加持渡書の研丞
刊明
二二一三四二陳
冊冊冊冊冊冊士
皮編等と書名略記)巻之幾(或いは巻幾)(丁付)﹂。麿馬
巻 〕
としては、陽明文庫の一本が管見に入るに過ぎない。同書
暦史再教故~集
四六貢皮署恒
巻巻楚編二談〔
絶 大 O一明六
書巻巻五高七
二
巻暦巻
貢楚絶書、世暦、岳紀の各書には句点が附きる。荒史だけ
世荒唐象楚限界
及び各伝本の概要は次の如くである。
﹃蹄雲外集﹂は明版一版が知られ、伝本は少なく、完本
所収翻印による。
集
信 吾b
注
3
8
1
玉
3
9
1
王
40
皇
帝
年によって寓暦一七年序刊とされるが、﹃諸史夷語音義﹄
復銀十種凡六十七巻、題日外集﹂とあって、此の題辞の紀
﹁時冊/ 外集四十二之四十三/
﹁来冊/ 外集三十六之三十七/
﹁風冊/ 外集三十一之三十五/
楚絶書巻一之二﹂
象教皮編巻一之一こ
楚故署巻十六之二十﹂
第二冊後表紙の裏紙に明版と思われる版本の反故(双辺有
﹃岳紀﹂の序蹴には、この年を下るものが有り、刊行が完
結したのは寓暦二三年以降と看倣される(注詑参照)。
大二O冊(近キ四四)
界九行)が使用されている。印記無し。﹁御書籍之目録﹂
著録、徳川義直寛永十三年蒐集本。
但、管見の及ぶところ、﹃象教皮編﹂六巻には別版が二
種存在し、何れも巻頭に﹃蹄雲外集三十六(│四十二﹄
︿陽明文庫蔵﹀
共に近衛家照手筆。改装本ではあるが、分冊の次第は原状
と打付けに墨書、右肩に該冊所収の書名及び巻数を書す、
表紙料紙は唐紙若しくは和唐紙を使用。﹁時雲外集月(│知)﹂
後補淡桜色銀砂子切箔散表紙(二七・三×一六・五糎)、
と大題がある。従って、﹁蹄雲外集﹂に別に両版以上が存
在する可能性も考えられ、本版が初版であるのか否かなお
疑問が残る。
八名古屋市蓬左文庫蔵﹀ 存首四十三巻(陵疾恒談十五
巻楚故署二十巻象教皮編六巻贋爵貢楚絶書二巻)
水色空押唐草丈表紙(二七・七×一六・九糎)、元表紙
﹁樹/印﹂(朱方)、﹁恒/天﹂(白方)の唐人の蔵印が存す。
﹁謬玩/之印﹂(朱方)、﹁長剣/歌=情/天外﹂(白方)、
を保ち、管見に入る限り圏内唯一の完本である。
ヵ。元題築残存(第一・二・四・八冊は逸失)し、﹁蹄雲
表紙改装の様態、外題・小口書きの筆跡から近衛家照(寛
大一 O冊(一五八・三七)
外集﹂と題さる。冊によって目録題簸も遺存し、次の如く
文七八一六六七﹀ l元文一八一七三六﹀)蒐集手沢本とみ
大一六冊(子幻4)
佐伯毛利家献納本
に題記され、此れは、巻頭の﹁蹄雲外集目録﹂の記載内容
︿内閣文庫蔵﹀ 存三十三巻
られる。
院疾恒談博臥之﹂
隠疾恒談惜一之﹂
とすべて一致している。
﹁月冊/ 外 集 一 之 七 /
﹁到冊/ 外 集 八 之 十 五 /
~248-
後補改装香色表紙(一工ハ・三×一六・七糎)、書題築
(ー十六)﹂。総裏打ち修補が施
現状では、楚故略二 O巻、世暦四巻、僅言解二巻、諸史
夷語音義巻三・四、岳紀六巻の三十四巻を欠いている。然
共十六冊
﹁時雲外集
陵疾恒談一五巻
三冊
は六の謁)内欠四種三十二巻
家に著録されているのであるが、そこには﹁九十七巻(九
荒史六巻
一冊
二冊
十八字、注小字双行。版心白口単黒魚尾﹁皮編巻幾
又、異本﹃紅粟粛蔵書目﹂八巻(内閣文庫蔵田安家旧蔵写
本四冊、静嘉文庫蔵写本四冊等)巻五子類叢書家及び﹃毛
十五冊﹂と、﹃佐伯蔵書目﹄(静嘉堂
利出雲守献上書目﹄(蓬左文庫蔵写本一冊)子部には﹁六
十七巻内欠三十二巻
十五本﹂
文庫蔵︹江戸末︺写本一冊︿宮嶋本﹀、内閣文庫蔵︹江戸
末︺写本一冊等)の子類第五十函に﹁帰雲外集
と、﹃佐伯文庫蔵書目録﹄(いろは別)二巻(静嘉堂文庫蔵
総目﹄(篠崎小竹奥書本、天理図書館蔵︹文政︺写本一冊、
十四本﹂と、﹃佐伯献書
り白棉紙である。尚、各巻首、書名下数格分の料紙を切除
内閣文庫蔵板倉節山旧蔵︹江戸末︺写本一冊等)子部に
写本二冊)には﹁帰雲外集
して大題を削去しである。此の﹃象教皮編﹄と﹃荒史﹄両
﹁蹄雲外集
た文化文政天保時の楓山文庫の目録である﹃重訂御書籍目
欠十五﹂とあり、 いずれも冊数欠巻数が現状
書の巻頭にのみ、﹁佐伯侯毛利/高標字培松/蔵書面之印﹂
り合わせ本である可能性が大きい。
とは符合せず、冊数が増加し、存巻数が減少している。ま
(丁付)﹂、下象鼻に刻工名がある。また、料紙も他と異な
十五冊﹂との記述があり、
六冊
江漢叢談二巻
二冊
贋爵貢楚絶書二巻
象教皮編六巻
録﹄七巻(内閣文庫蔵田安家旧蔵写本二冊)巻五子類叢書
るに、岡本は、毛利高標旧蔵書目録である﹃紅粟粛蔵書目
三冊
十一冊
第十二・十三冊
十四冊
諸史夷語音義存首二巻
周双辺(一九・三×一四・ O糎)、有界、毎半葉九行、行
第四│九冊象教皮編六巻六冊は、別明版を以て補配。四
冊
さる。改装にともなう冊次の変更及び存巻の次第は次の知
四
第十五・十六冊
冊
。
-249ー
九
第
第
第
十
第
(朱方)の印が捺されている。従って本軟は高標による取
鉄
し
粛等編
︹天保︺写、文化一一年に編集が始められ、編纂
録﹄(一三巻附存部一巻首目一巻附葉刻類目一七巻、林復
同一保利唐船持渡書の研究﹄及び同﹃江戸時代における中国
崎調進書目﹂には、﹃蹄雲外集﹂の書名は無い。大場惰﹃
昭和五九)参照。
二冊﹂と著録された次の古写本。
不分巻
︹寛永︺写
蓬左文庫蔵 大二冊(一四八・二二一)
江戸初写
御書籍之目録
書籍目録
﹃名古屋市蓬左文庫国書分類目録﹄に﹁︹元和・寛永︺御
同朋舎出版
文化受容の研究﹄(京都
十五冊﹂
途中で毛利家献納本が編入収録された)雑家雑編類に著録
されている。そこには﹁六十七巻内関三十四巻
と記され、同書附録の葉刻類自巻九には﹁十六冊﹂とあっ
て本来の所収子目を全録し、欠目欠巻の記述を欠く。同書
内で冊数に姐離がある事も不審であるが、献納本受け入れ
天(地ごと打ち付けに墨書。現状では扉となっ
後補標色布目表紙(二七・ O 笠 二 ・ 三 糎 ) 、 外 題 ﹁ 御
書籍目録
ている元表紙には﹁︹御︺書籍︹帳︺﹂﹁︹御︺書︹籍帳︺寅
年以来﹂と墨書さる。その右寿に紙婆が貼られ、江戸前期
頃と思われる筆で﹁寛永目録上(下)﹂と題署されている。
内題は﹁御書籍之目録﹂。無辺無界、字面高さ約一一一一・ O
糎、毎半葉六行、柱題署無し。第一冊前半は、駿河御譲本
が著録され、以降は年次を追って、買い上げ、召し上げ本
の書名、冊数が記され、処々張り紙が有り、﹁唐本﹂﹁嘉靖
板﹂﹁活板﹂﹁集解活字﹂﹁題評本﹂等のテキスト注記、ま
た朱の合点、円圏等の付婆が見られる。
岡本は、上記﹃蹄雲外集﹂所収の明版二種とは又別種の
-250-
整理の段階で一部紛失し、また改装されたと考えるべきか。
未考。後攻を挨ちたい。尚、幕末に編纂された﹃翫縦御書
改目録窮﹄及び立原杏所編﹃見聞書目﹄所収の﹁毛利侯長
注目指摘された資料である﹃︹天明二年︺寅拾番船持渡書
推論の対象としては相応しくないこととなる。但、同氏が
だとすれば、江戸初期の渡来本であることを予想した今の
その頃長崎に舶載されたのを購求した可能性も考えられる。
について、大場惰氏が明らかにされている。本書も或いは、
毛利高標が天明二年の唐船持渡書を大量に調達した事実
冊﹂と改められ、現状と合致している。
増補された目録であるが、その雑家雑編類の記述は﹁十六
籍目録﹄は、前日即ち﹃重訂御書籍目録﹄の体例を継承し
Y
王
注
42
注
43
4
1
楓山文庫本
明陳士元(環
大三冊(子一九六・二五)
六巻(蹄雲外集三十六ー四十二
中迂受)撰
︹明︺刊(金陵 葉近山)
明版である。
象教皮編
︿内閣文庫蔵﹀
上(中・下)﹂。封面に﹁原板象/教皮編﹂
後補浅葱色空押百つなぎ表紙(一ヱハ・九×一六・六糎)、
書題築﹁象教皮編
と題刻。首に、﹁象教皮編序﹂(高暦歳在著薙困敦︹一六年
八一五八八﹀︺畢草月長景日宛陵汝賢甫徐元太書於西南重
本版は、上記内閣文庫蔵﹃婦雲外集﹄所収本とも、又、
蓬左文庫・陽明文庫蔵同書所収本とも版を異にし、字様は
粗にしてやや劣る。別版﹃蹄雲外集﹂の零本であるのか、
抽刻単行本であるのか明らかでない。
静嘉堂文庫蔵(喜多村塊圏旧蔵)の次の写本に拠る。
(楓山文庫)(いろは別年代順)三巻
︹江戸後期︺写半三冊(七九・五二)
学東西学術研究所紀要﹂三
昭和四五年三月)参照。
﹃名古屋市蓬左文庫漢籍分類目録﹂子部樺家類著録、函
架番号(一一九・六)の一本である。この本は、内閣文庫
蔵﹃蹄雲外集﹂所収の本と同版。此れもまた、別版﹃蹄雲
ハU
外集﹄の零本であるのか、抽刻単行本であるのか明らかで
ふ'hd
為、、しa
﹃改訂内閣文庫漢籍分類目録﹂史部別史類著録の次の
本である。
六巻(賭雲外集四十四│四十九)明陳士元撰
︹明寓暦︺刊大一冊(二八六・六四)
﹁藁蔑堂/蔵書印﹂(朱長方) の印記の他﹁浅草文庫﹂
後補茶色表紙(一ヱハ・五×一六・二糎)。白棉紙本。
荒史
注
日
明
大場惰﹁東北大学狩野文庫架蔵の御文庫目録﹂(﹃関西大
御文庫目録
Y
玉
44
Y
王
45
鎮之師善軒)、﹁象教皮編目録﹂﹁象教皮編序﹂(高暦甲申
︹一二年八一五八四﹀︺仲秋上弦日環中迂受陳士元書、尾
時雲外集三十六/(低一 O格)環
に接して高暦二ニ年陳容淳謹識の序を附す)を冠す。本文
巻頭﹁象教皮編巻之一
中迂受輯﹂と題さる。尾題は﹁象教皮編巻之幾終﹂。四周
双辺(一九・六×二ニ・五糎)、有界、毎半葉九行、行十
六字、注小字双行。版心白口魚尾無し﹁皮編巻幾 (
丁
付
)
﹂
。
巻一末に﹁附録党語九諜﹂を附す。徐序の末に﹁金陵三山
街葉近山梓﹂と刊記がある。
﹁秘閣/図書/之章﹂(朱方)、﹁日本/政府/図書﹂
方)の両印が捺さる。
朱
汲古書院
昭和四
(朱長方)、﹁昌平坂/学問所﹂(墨長方)、﹁文化甲子﹂(朱
第一輯﹄(東京
無郭)、﹁日本/政府/図書﹂(朱方)の印記がある。
ノj
、
I
司
大二四冊無窮会図書館蔵織田覚斎旧蔵
正保五(一六四八)刊(京 村上平楽寺)
覆明蔦暦三四年序刊未修本
き三冊宮内庁書陵部蔵
大合一 O冊内閣文庫蔵
(題築﹁韻曾小補﹂)
︹正保五(一六四八)︺刊後印
大三一冊内閣文庫蔵楓山文庫旧蔵
大三一冊慶慮義塾図書館蔵
大三一冊宮内庁書陵部蔵
神宮文庫蔵の次の一本である。
拠った。
文庫沿草資料﹄(伊勢市
書名の右肩にやや小さめに縦書きされている。次に扉が有
同じ書名題署が透けて読み取れる。但、﹁内宮﹂の角書は
表紙或いは扉が今の表紙裏に張り付けられ、裏から現題と
書題簸﹁制林崎文庫蔵書目録査(武・三)﹂。各冊、元の
後補濃紺色空押亀甲花紋表紙(一二ニ・五×一ムハ・五糎)、
三巻
林 崎 文 庫 蔵 書 目 録 寓 延 一 ( 八 六O) 写 伝写天保一五年
伝写文政二年写本
半三冊(十一門一九五号)
昭和九刊、平成二印)に
以上の、林崎文庫の沿革については、神宮文庫編﹃神宮
又
﹃明清俗語辞書集成
九)に影印され、長沢博士の解題に﹁山本悌二郎氏の賓り
立てで入手﹂したとある。
論語類考序(嘉靖三十九年庚申冬十月朔日謄城陳士元心
叔甫謹識)に﹁見社童聾舎子弟、開喜輿談字義、越旬季復
訊之忘失、乃著此編、貯之右塾、凡二十巻、類十有八、目
宇
甫
編
者
四百九十有四云﹂とある。
﹃古今韻曾皐要小補﹂のテキストは明版一種、和刻本
修
大二 O冊宮内庁書陵部蔵楓山文庫旧蔵
大一一一冊無窮会図書館蔵加藤天淵旧蔵
大一九冊東京大学東洋文化研究所蔵
三O巻 首 目 一 巻 明 方 日 升 編 李 維 禎 校
明 高 暦 三 四 二 六O六 ) 序 刊 ( 建 陽 余
彰徳・余象斗)
大一二冊蓬左文庫蔵徳川義直旧蔵
大二 O冊無窮会図書館蔵三宅真軒旧蔵
大二O冊無窮会図書館蔵河合襲山旧蔵
大三O冊京都大学人文科学研究所蔵
種が知られ、諸伝本の所在と共に記述すれば次の知くであ
る
Y
玉
5
1
48
49
5
0
注
注
4
7
注
注
又
り、同様の書名題署がなされ、その右に﹁文政二己卯年仕
立/御役所江差出拍﹂(此の両行の下に﹁三冊之内﹂)との
朱書がみられる。毎冊同様である。無辺無界、字面高さ約
一五・八糎、毎半葉八行に書写。末に、次の書写奥書が存
する。
諒
一
﹂
﹁右林崎文庫書目三巻借蓬莱雅柴
尚雄課人書寓畢
天保十五年十月二十九日
﹁右松室大監忠成ヨリ借得而
寓延元庚申歳八月十八日寓置﹂
﹁神宮/文庫﹂(朱方)の印記がある。
収録書はごく大まかに分類して著録されているが類目の標
記は無い。第三冊の半ば当たりに漢籍が著録されている。
一行宛一部、書名、冊数を記す。冊数の右上に﹁活板﹂
﹁写﹂等の別を付記する場合もある。同類の目録に、神宮
文庫蔵︹江戸末︺写本半三冊(十一門二三二四号)、内閣
文庫蔵︹江戸後期︺写本大三冊(一二九・一 OO)、 内 閣
文庫(内務省本)︹江戸後期︺写本(奉納者名注記有り)半
三冊(一二九・九一二)等の伝本がある。
5
2
神宮文庫蔵の次の写本である。
(外題)一一一巻(有補写)
︹江戸後期︺写(寄合書)
横二ツ切中三冊(十一門一二七号)
(ー一一一)﹂と打付けに墨書。内題は無い。
同類の目録として、同文庫蔵の︹江戸後期︺写本(外題
いo
門川﹁寸H
r仁三ロ
﹁林崎/文庫﹂(朱長方)、﹁林崎文庫﹂(双郭、朱長方)の
本書目録ニ見ヘヌ分也﹂
但し朱ヲ曳ザルモノハ
年書目改之節ノ印也
﹁此冊中朱ノ棒曳ハ文政元
第二冊の見返しに次の識語が朱書されている。
類目を立てて分類されているが、未整備の様である。
の罫紙を用いて補写してある。神書より仏書に至り大小の
紙に書写さる。第三冊末尾の仏書類の後半は﹁神宮司鷹﹂
版心白口単白魚尾、下象鼻に﹁岩井田家蔵﹂とある印刷罫
ている。四周双辺(二了二×一六・ O糎)、有界十二行、
各冊見返しに、該冊収録の類目(大目)を書して目次とし
敬義/奉納書目一
香色刷毛目表紙(二ニ・五×一九・八糎)、外題﹁村井
村井敬義奉納書目
注
上(中)﹄
﹁林崎文庫村井古巌書目﹂)横二ツ切中本一冊(十一門二
一八号)がある。﹃器一一碍一村井古巌奉納書目録
(伊勢市 皇撃館大事神道研究所 平成六(七)、神道書目
叢刊六)参照。
不分巻
︹江戸末︺写
半五冊合二冊(十一門一九九号)
田久成献納本)の︹江戸末︺写本大二冊(一一一九・九七)、
度曾常善写本)半二冊(一 O二・八七)、内閣文庫蔵(町
その外、宮内庁書陵部蔵の︹江戸末︺写(伝写安政二年
分類目録である。﹁林崎文庫﹂(双郭、朱長方)の印記。
刊写の別、冊数を記し、神書伊勢之部より悌書之類に至る
半葉十行、或いは九行、或いは八行に書写。 一行に書名、
題署が認められる。無辺無界、字面高さ約一六・一糎、毎
第二冊見返し、或いは中扉に元の表紙が残り、同様の書名
れ、裏より﹁挫醐書籍目録全五冊こ等と読み取れる。
嗣乾﹂﹁林崎文庫目録坤﹂。見返しに元表紙が張り付けら
灰色表紙(二四・三×一六・八糎)、書題築﹁林崎文庫
耕輔書籍目録
神宮文庫蔵の次の一本等が知られる。
5
3
神宮文庫蔵の︹明治︺写本半二冊(十一門一九三三号)等
の伝写本が知られる。
-254-
注
参照図書・引用文辞一覧
一、本書に見える典籍名、それに準じる篇名、詩題、説者名
等を、本著者が参照依用した文献として網羅的に掲出する。
一、所掲の文辞は、引用文に限定せず、行文上、前後の関連
した文も合わせて抄録した場合がある。
一、書名等のみが表記され、其の引用文辞が無い場合にも、
一、掲出文辞の所出箇所は、(初オ 7) の 如 く 、 翻 印 篇 の 蘭
脚に記した底本の葉数・表裏、及び同表裏内での行次数で
不す。
一、掲出文辞に誤字脱文術文がある場合には、翻印篇の補訂
に従い、異体字は通行の字体に改める。
易・︹周易伝義︺
︹乾卦象伝︺(初オ7)
①易象日充龍有悔盈不レ可レ久
︹蒙卦象伝︺(幻ウ 1)
関連して叙述された文句が有れば、それも必要に応じて掲
息一矢
︹繋辞上伝︺(却ウ6)
オ4)
︹繋辞上伝︺(おオ2)
⑦易係辞日乾坤致寸ハ則無一以見レ易一易不可見則乾坤或レ幾乎
アランチカキ]
ω
(
⑥一生二々生四象四象生八卦︹繋辞上伝︺
明ルハ莫レ大二乎日月一
⑤易繋辞日是故一一法象莫レ大二乎天地一変通ハ莫大乎四時豚象著
︹繋辞上伝︺(叫オ8)
④故一一能天下ノ務ナレハ唯レ神也故一一不疾 y速也不行y至ル
︹離卦象伝︺(幻ウ叩)
③易ノ象ノ惇離麗也日月麗二乎天一百穀草木麗二乎土一
yキ ニ
②易象博日山下出ル泉アルハ蒙ナリ君子以テ呆レ行育レ徳
に補った。
一、掲出書名等の配列は、概ね四部分類の順に従った。
一、同一書からの引用文辞の配列は、該書における所出の順
次に拠る。
の下に、本著者が直接に準拠
HV
一、所謂又引きの場合、また引用文辞内での書名辞句等は、
所出の箇所のみを標記し、
した書名等を示す。
ニハ
出した。
一、書名等は、原則として本書の表記のままに掲出し、其の
表記が省略されたり、不完全である場合には、︹
_J
補ったところがある。表記されない篇名、末書名等も同様
、
⑧易係辞-一易之矯レ書贋大-一 y悉備ル有天道罵有人道罵有地道駕
兼一一三才一而雨レ之故-一六者非官三才ノ道也
①誌無然膨羨抗川欲之動也羨愛慕也人心有レ所-一畔援一有レ所散羨
則溺二於人欲之流一而不レ能-一以自済一
HV
韻曾︹上慶父)⑬
︹大雅 文王之什 皇突︺ (MウM)
文王之什 大明︺
オ2)
(剖オ7) ︹大雅
蕩之什 蕩
︺
︹繋辞下伝︺
ω
(
(日オ8) ︹大雅
甫田之什 甫田︺
HV
小補韻曾︹平虞夫︺②
韻曾︹入沃属︺@
HV
(9オ4) ︹冬官︺考工記+小補韻曾︹入屋輯︺@
(幻ウ日)︹秋官司冠︺注+小補韻曾︹入沃束︺@
(日ウ5) ︹地宮司徒︺
HV
小補韻曾︹上養蕩︺⑬
︹説卦伝︺(幻ウ8)
(おオロ)︹小雅
⑨易ノ説卦日艮ハ東北之卦也万物ノ成終スル処ニメ所レ成始ル也
故日成言乎艮-一
︹周易伝義︺
⑩本義云繋辞本調文王周公所作之辞一繋二子卦交之下即今ノ経文
︹繋辞上伝︺ (3ウ9)
此篇ハ乃孔子所レ述繋辞之博也以其ノ通論一経之大鉢凡例一故
元経ノ可レ附而自分上下一
(必オ2) ︹繋辞下伝︺+小補韻曾(上尾幾)⑪
(印オ6) ︹説卦伝︺+小補韻曾(去泰免)⑬
(2オロ)
櫨記
HV
韻曾︹入屋穀︺@
(
mウ叩)月令︹孟冬︺+韻曾︹上院鍵︺⑭
(必オ叩)月令︹季夏︺川マ韻曾︹去問糞︺⑬
(おウ4) ︹曲礼下︺
(おオ日)︹曲礼下︺+小補韻曾︹平虞夫︺②
老耽一云
尚書
︹商書湯誓︺(比オ6)
①札記ノ曾子問篇ニ曾子ヵ問事於孔子一毎孔子苔レ之皆謂吾間一-諸
徳若レ葱今朕必往
HV
韻曾︹去稿欄︺⑬
(臼オ9) 商書︹盤庚上︺リマ小補韻曾︹去問素︺⑫
(日オ7) ︹周書泰誓上︺
詩・︹朱票集億︺
-256ー
周
鵡
①化い誓尚書ノ湯誓篇ニアル事カ此ノ日彫クカ喪弔ハ及レ汝皆亡ン夏
昨
巳
(必ウ2) ︹坊記︺+小補韻曾︹去寵視︺⑭
左
(2ウ9)
②注一一子日ハ萄志
トハ論語里仁ノ篇ノ文也
(必オ2)
︹先進篇︺(引オ3)
(却ウ1)
③注-一論吾里仁ノ篇ノ孔子日朝間道タ死可突ト云句ヲ引テ此ノ
意ナリト云ソ
④論語ニ若由也不得其死然
(判オ叩)
⑤注-一子日不億トハ憲問ノ篇ノ文也子日不レ逆レ詐不レ億二
ルノナルカ
UV
小補韻曾︹上養蕩︺⑬
不信一抑亦先覚者是賢乎トアリ
(日オ8) ︹泰伯︺
陳士元云・眼雲集・論語類考
②又云老彰即荘子所謂彰祖上及有虞一下及五覇者也李ノ善氏云
(2ウ1)
(日ウ日)
彰祖名鑑嘉ノ臣封於彰城歴虞夏一至商年七百歳故以久書称潜
①陳士元云老是老聴彰是彰祖是王弼氏義也
①是知此大学ノ文法也可明寸ヤスシ
(口オ 7)
夫論云老彰書千飴歳此皆以一一老彰一為一人也ト云々(①に連続)
③陳士元云余聞道家一謂老子西方入流沙化胡成悌釈家争レ勝乃推
(2ウ2)
①人ノ生死存亡皆此ノ一二本ツク也予ガ中庸講スル時此説アラ
(2ウ1)
(川町オ
レ悌而上之謂老子以周定王三年九月十四日夜生敬王元年八十
/¥抄若得レ之観レ之可明
論語
①命吾述而不作││
年以明老子無化胡吏後世遂授此言一為レ賓無乃尽信レ書之過乎
年辛未二月十五日減渡自穆王辛未至定王三年丁巳歴三百四十
六歳与関令予喜西行而悌則周昭王甲寅四月八日生穆王五十二
8)
中庸︹抄︺
②徳ノ字如レ注ノ可レ見大学ノ抄ノ儀ト問、ン
大学・大学ノ抄
(日オ6) 杜預日日マ韻曾︹上養葬︺⑮
(臼ウロ)川 V韻曾︹平陽祥︺⑥
(印ウ1) 抄小補韻曾︹去審滑︺⑫
(3オ3)lv版雲集④
①借ハ左停-一謂太史傍
偉
③童心ノ下孟子山践問介然用之而成路︹尽心章句下︺(印ウ叩)
杢小
(
Iウ6)uO韻曾︹平車時︺⑩
UV
小補韻曾︹平虞賓︺④
UV
韻曾︹上紙児︺⑪
⑥
︹尽心章句下︺(げオ9)
⑨丞
小補韻曾︹去泰泰︺⑬
HV
(おオ1) 徐白川サ韻曾︹入屑裂︺@
爾雅・注疏
(おウ1) ︹釈天︺
(
mオ3) ︹釈詰︺
HH)+
小補韻曾︹去審済︺⑫
(必ウ8) ︹釈獣︺
(印オ
許〔
T
氏 麻
日
(3オ6)
④注-一云孟子ニ日動││トハ孟子尽心之篇ニ有ルソ日嘉舜ハ性ノマ
大主
全〕
レ民至ニ払時払難
④販雲集云皐陶之育思世之胃也矯理官以レ理 Am
逼警
、ナル者也湯武反レ之也動容周旋中レ礼盛徳之至
ふ内
7)HV
性理大全巻五七、魯膏許氏日⑨
6 9
伊盛一篤李凡一其五也孫名ハ乾字元呆矯周上御丸一昭珊且肱 y
妻
ニ
1
1 補
魯韻
喜曾
トヲムヤフリヲ
o
巻
洪氏一日嬰敷一感ニ飛星一娠十二年輔レ左而生レ借周宣王之四十二
(おウ
り宍
.
r
.
A
-
年二月望日也傍之始生其母名之玄禄一矯ニ伯陽一甫生而陪首故
謂老子一耳七十而参漏故名レ耳而字瞬々与僧同左侍所謂太史
借是也邑於苦之頼紘一親即莱也故又口山一一老莱五一桓荘ノ也柱下
(2ウロ)
ウオ
(臼ウl) 川マ韻曾︹入陪睡︺@
-258-
3
5 1
8
文
吏簡霊世守蔵史孔子書学礼駕没後乎十九年而借入レ業而歴流
沙一八十齢土化胡成悌害四百有四十歳
(
nオ2)
⑤帝王ヲ万乗ノ主ト云ソ千乗万乗ノ儀ソ如一一論語吟志一ス
孟子
(1オ叩)
①孟子題辞ト云モ序ノ義也孟子-一辞トハ者所一一以題披孟子之書本
末指義文辞之表也ト云、
②込孟子日不晴││トハ梁ノ恵王ノ章ニアリ日孟子息ニ梁裏る一
此語レ人日望レ乙不レ似一一人君一払レ之而不見所畏罵卒然 y問日天
︹梁恵王章句︺(おウ2)
下悪乎定吾封臼定二子一一執能了之封日不暗殺人者能了之執
能与之封日天下莫レ不レ与也
説
(8オ4)10韻曾︹平庚嬰︺③
⑥漢志ニ妖華自レ外ホ謂一一乙祥一一友一玄左停ニ脱レ有一一大祥一玄一玄
ウロ)
︹平陽祥︺(臼ウ日)
⑦晋太康記云梁ハ者言金剛ノ気強梁因テ名之云云
︹平陽梁︺
ω
(
⑧釈名ニ人始テ生タル日レ嬰々胸前也投一一之嬰前一乳養故日レ嬰
ノ
、
2)UV
韻曾︹入葉伯︺@
)(天
(必ウ
︹平庚替︺ (7オ7)
︹平庚嬰︺ (8オ4)
⑨前書ニ営ハ宮捷ノ省ケルナリト一五ヘハ
︹平車聴︺ (1ウ6)
王也
(必ウ2 ) U小補韻曾︹去寅視︺⑬
⑩職他甘切説文耳漫也徐日耳一一無レ輪郭也
可也
︹上婁甫︺(口ウ 8)
︹上襲父︺(叫オ 7)
︹上院鍵︺(幻ウ叩)
︹上養葬︺(凶オ 6)
⑬礼記ノ月令ニ糞二田時一云寸アリ
⑫春注意ノ所主也又取注着意
︹去問糞︺(必オ叩)
︹去遇注︺(必ウ 8)
︹去送衆︺(口ウ 8)
︹平魚嘘︺(おオ6)
⑬樹ハ詞夜切蓋一一有レ屋也尚書一一蓋樹肢池正義一一云樹是ヲ蓋上之
︹去踊樹︺(日オ 7)
︹平虞檎︺(却オ叩)
屋駄前無壁今之腐是也
④泳ハ色町俳変汗也変也
⑮衆ハ多ノギ也(⑫に連続)
︹上紙児︺(必ウ 8)
⑪か雅ニ児ハ似牛注云一角青色又交州記ニ児有一角々長サ三尺
鈴リ形チ如馬鞭柄
尚称
可美
⑬葬ハ杜預日草生二贋野一葬々一然タリ
守子
(
川
崎
オ2)+小補韻曾︹上尾幾︺⑪
韻古田︹古今韻命日皐要︺
①大弓ヲ夷トスト勾曾ニアリ(出処未詳)
︹平支夷に見えず︺(犯ウ日)
②荘子子貢龍二漢除丈人一日有機於此日潅百陸一云
簡三五
︹平剛閥︺(包ウ9)
︹平微機︺(日ウ8)
ゐ尚甫
⑤関ハ以レ木県持ご門戸一也亦門杜也局也
③嘘ハ吹也一日出気急日吹緩日嘘又作照或作時荘子吹吹陶拘
⑬⑬⑫
月詩ニ韻
令ニ維書
惰師スニ
釈
名
贋
韻
増
勾
@礼記自称y日不私一注一一謙札一善
⑫鄭ハ重也鄭重ハ態敷也前曾注ニスルソ
︹入屋載︺ (9オ6)
︹入屋穀︺(おウ4)
︹去敬鄭︺(必ウ3)
︹入屋球︺(幻オ3)
⑫殻居輪之正取一而第一語之所レ庇マル
@珠々トハ前書ニ玉ノ良ト注セリ
(ロウ
1)HV
小補韻曾︹平尤猶︺⑧
(7
オ 7)HV
韻曾︹平庚替︺⑨
(ロウ U)
①達ノ字ノ意ハ勾書ニ不見今ノ板ニ達ハ遠ノ字誤リナルベシ
︹入沃属︺(日ウ5)
(口ウ
@周礼二日州ノ長属ニ其邦之島一而讃二邦ノ法一注属ハ猶合也緊也
︹入屑裂︺(おオ1)
(ロウ8)+韻曾︹上麗甫︺⑫︹去送衆︺⑬
7)HV
韻曾︹入屑閲︺@
@裂ハ徐臼裁勢之鈴也破也
︹入屑閲︺(口ウ7)
3)HV
韻曾︹入屋珠︺@
小補韻曾︹古今韻曾皐要小補︺
(幻オ
@前書ニ閲ハ経歴也トスルソ又容也
@擢ハクワクノ音爪持也樽也撲取也︹入薬捜︺(臼オ叩)
@落々ハ勾曾不相入ト注セリ歌合汁ガ偉按 hy難レ合舟アリ
︹入薬落︺(幻オ5)
①東倫為切弱也痩也音与累通ス累ハ倫追切ルイノ音也
也
テ
f
︹平支巌・累︺(おオ8)
駿
@嘘ハ伊昔切エキ也咽也か雅-一江東ニハ呼レ咽日 l又漢ノ昭帝崩
、
︹入陪嘘︺(臼ウ1)
服月
也偏
也
王フ昌邑王不レ問犬云瞳痛ムト云也喉也
②詩ノ甫田ノ注疏ニ夫ハ有停相ノ徳而可レ情伎謂之丈夫トアル礼
隼末
︹平虞賓︺(却オ3)
︹平灰駿︺(臼オ日)
︹平虞夫︺(おオロ)
記ニ天子有后有二夫人注疏夫ハ扶也言扶持於王者之
毒
テ
産
︹入錫糠︺ (8オ7)
ウ4)
(MM
疏害
@瀧ハ除也静也
祉制曾︹入絹翁︺
服回
也切
⑤蚊居肴切龍之属也無レ角田レ蚊ト也池魚体二三千六百一一一蚊来テ
産減
@鳴ノ字勾曾ニハ口ヘンナシ翁迄及切合也欽也動也衆也通作教
老子持欲敷市
︹入葉伯︺(必ウ2)
J
I
I
I
J
@慌ハ前曾ニ伯ト通枯ハ贋勾-一安也服也又静也
(ロオ叩)けり小補韻曾︹平尤猶︺⑨
ハサ音
先
ミ イー
-260-
勾
書
22
テテヤナヲニル
矯一一之長一能率レ魚飛置一一時句水中一蚊去
小補前曾肴前
︹平肴蚊︺
ω
(
オ2)
︹平麻震・窪︺(国オ8)
⑥窪ハ烏瓜切溝也又於佳切モアリ武ト窪ト通ス汗任通スルソ孟
子ニ智足テ以テ知聖人汗一
⑦亡小補勾曾亡ハ逃也失也又築レ酒無レ厭謂一一之亡一
︹平陽亡︺(泊オ9)
︹平尤猶︺(ロオ日)
⑧狐ノ性ハ多レ疑度河而聴二氷ノ声老子猶乎未渉川則是狐類也前
曾ノ注ニアリ
⑨前曾一一夷猶ハ不行克ト有楚辞君不行令夷猶スト
︹平尤猶︺(ロオ叩)
⑬准南子原道訓ニ不レ設二智ト故トヲト云ソ注ニ智故巧飾也ト云
︹去遇故︺(叫ウ 1)
テヲサリ
サラン
⑫済ハ(益也ト注ニモスルゾ)か雅一一益也トアリ疏一一引一一左博一童
ニ ハ マ サ ン1 ヲ
請済二師於王一︹去審済︺(閃オ比)
⑬泰ノ字ハか雅ニ西風ヲ日一一泰風一疏云孫炎ヵ日西風成レ物物豊泰
︹去泰免︺(印オ6)
︹去泰泰︺(おウ 1)
⑬免ハ易一一為レ口穴也通也
︹去問素︺(臼オ 9)
也ト云リ
⑫素フン乱也商書有僚而不素
︹去踊嘆︺(臼ウ 3)
@頃所嫁切サノ音也変也不頃云ハ不レ変又卒遇切アイノ音也気
逆也
⑫輯ハ以テ為ニ直指一也ト注シタル也
︹入屋輯︺ (9オ2)
⑩岡崎トハ高風也戻ル風声也潜岳賦清風臆戻︹平尤腿︺(日ウロ)
史記・︹集解︺・︹索隠︺・︹正義︺
@整セキノ音品行毒也
︹入陪整︺(臼オ叩)
︹入陪諦︺(幻ウ 1)
@諭ト誼ト通ス罰也責也禍諦ト熟語柳文ノ徴答ノ賦ニ見タリ
︹入沃束︺(幻ウ日)
@周礼ノ司約注約言語之約束ハ約音於妙切束詩注切
@ 考 工 記 ニ 輪 輯 三 十 以 テ 象 二 日 月 一 ︹ 入 屋 轄 ︺ (9オ4)
︹上加可堕︺(叫ウ4)
︹上尾幾︺(必オ1)
⑪幾ハ微也殆也危也易日幾者動之微増勾一一勝及也
⑫購ハ即壊ノ字俗作臆致也壊也
︹去寅視︺(必ウ2)
︹上養蕩︺(日オ 7)
⑬蕩々ハ法度廃壊ノ良蕩々ハ康平ノ良也命吾民蕩々無一除名一一戸
誌蕩々上帝ト云々
⑭視ハ礼記ノ注ニ猶納也又慶尚-一比也
センムル
⑬故ハ使レ人也楚語ニ又其故アリ注ニ猶レ意也
︹去遇故︺(叫オは)
①老子トハ史記列博一ニ在之
(1オ日)
︹老子伝︺ (1ウ7)
(1ウ1)
②史記往見周ノ定王三年九月十四日ノ夜生敬王元年ニテ八十六
歳ニ y関ノ令予喜ト西行クト云フ
③云楚苦牒曲仁里人也
④史記列惇云孔子適周特レ問一-礼於老子老子白色所レ言者其人与
③紀ハ綱紀也史記杯ニ在ル帝王本紀ナト云類ゾ
(詑ウ臼)
(日オ3)
︹集解引地理志︺ (1ウ7)
⑨史記ナトニモ約束ヲヨウシユト皆点セリ
︹集解︺
⑮苦鯨ハ属陳国(③に連続)
︹索隠︺
⑪漢高祖准陽国立テ陳苦ノ二勝陳ヲ准陽-一属ス
︹索隠引地理志︺ (1ウ7)
生暴
(同
②〕
1
3
J
レ骨皆巳朽失独其言在耳且君子得一一其時一則駕不レ得其時一則
ヵ、エテサルコハ夕、ンテカノアリテナルカステ、
蓬累而行吾開ク之良買深蔵若レ虚君子盛徳容呉若愚去下
青牛一而過也
(3ウ4)
⑫列仙停ニ老子西遊ノ関令予喜望見其有紫気一浮レ関而老子果乗
子若是而巳孔子去謂ニ弟子一日鳥吾知ニ其飛一魚吾知一文能瀞二
︹正義︺
通転、
︹老子伝︺ (2ウ9)
⑬神仙停-一外字ヲ珊ト云トアリ
(1ウ5)
⑫散関,括地志二云散関在岐州陳倉牒東南五十二里一抱朴子云老
-262-
五之騎気与中多欲態色与淫志上是皆無レ益ニ於子之島ホ一吾所以告
駄吾知ニ具志↓走怠可二以為レ駅スル航者可以為レ恥ル寸ヲ飛者可レ以
李玉 ①
樹ノ櫨
ア
ニ
及 連
左ノ神 続
服仙
割ヲ伝
⑬老子姓ハ李名耳字伯陽身之長八尺八寸黄色美眉長耳大目贋額
迫朱
為婚歪一一於龍一吾不レ能レ知其恭一風壁一一而上レ丸吾今日弘一一老も一
生正
母引
(2オ4)
李義
外
異
相
異
形
〆
其猶レ龍邪︹老子伝︺
⑤史記云思レ胤九之見ニ胤嘉一廼遊中島至レ関︹老子伝︺ (3オH)
年
︹正義引玄妙内篇と類同︺ (1ウ2)
f
リヲヲ
⑮老考子撃考斗教衆理一達成聖撃一乃撃ヰ生万物善化済無レ遺
⑥史記云関令予喜日子粍レ隠失弘為レ我著レ島於レ日正老子廼著レ書
其
厚
唇
︹老子伝︺ (3ウ6)
J
¥
︹正義引張君相云と類同 ) ( 1ウ3)
借即老子
リ
ナ或日非也世莫知其然否一云云
レ周合而離離而五百歳而後合々七十歳而覇王云者出云罵或日
上下篇一言道徳之意一五千絵言而去莫レ知其所レ終
量
1
悼オ
一
巴~
口
方
十
⑦史記自孔子死後百二十九年而史乱周太史借見秦献公日始秦与
母
練
歯
2
ニテニニカ
︹正義引と類同︺ (3ウ1)
子西遊遇一一関ノ令手喜一於散関一為レ喜着一一道徳経一巻一謂之老子
ト云(⑤に連続)
漢書
一アニ
︹章賢伝︺ (6オ日)
①漢ノ章賢カ子ニ黄金満レ範ヲクラヌヨリハ一経ヲ教ニハ不レ如
卜一五ゾ
(臼ウ日)漢志+韻曾(平陽祥)⑥
︹後漢書︺歌合汁偉
(幻オ5)HV韻曾︹入薬落︺@
楚語
オ H) 川中小補韻曾︹去遇故︺⑮
(MH
晋太康記
(的ウロ)+韻曾︹平陽梁︺⑦
列仙偉
(3ウ4)+︹史記索隠︺⑫
神仙傭
(1ウ5)+︹史記正義︺⑬
括地志
(3ウ1)UV︹史記正義︺⑫
交州記
川 韻曾︹上紙児︺⑪
(必ウ8) V
孔子家語︹孔聖家語図︺
①孔子家語ニ器散ノ園説有リ魯ノ桓公ノ廟ニ於イタヲシルゾ孔
子云此ノ器虚ニ y水 ナ ケ レ バ 敬 中 ナ レ バ 正 ク 満 レ パ 覆 ヘ ス
明君子至誠トメ常ニ坐側ニ置テ誠トスルゾ是則物ノ満ヲ悪ン
デ也有レ満必覆ス故也子路間云物ノ満ヲ持ツ道有リヤト云孔
子日聡明叡知也斥愚者ノ如クシ功天下ニ蓋フ陀譲リヲ以一アシ
︹﹁観周散器﹂園説、三恕篇︺ (6ウ7)
武勇世ニ双無ク托恐ヨ冨貴四海ヲ有スル任ヘリ下ン此則満ヲ
持道也
-263-
説苑
︹敬慎篇︺ (6ウ立)
︹性理大全巻五七︺ (9オ7)
ヘハサシカサノ柄ノ上ニ一ツシマアリ衆/¥ノサカ骨ノ集マ
ルシマロクロノ如ク也ト云ゾ
ル其ノ心ワ瞬ハ是沈ミ滞リタル物ニメ沈タル物也サルニ依テ
①説苑ニモ高y能ク下リ満テ而能ク虚
潜夫論
神ヲ以テ載テレ暁升リ挙ケシム聖人ハ則以レ暁随レ神動衆人則
④此載営暁ノ章ヲ蘇頴漬カ解ニ云ゾ神カ暁ヲ載テ行ト解シテ在
(2ウ 4 ) H V
陳土元云②
神役レ醜ト云ゾ此ヲバ悪キト破シテ在ルゾ其ノ儀ハ神ハ載レ醜
行是則剛強升挙ノ儀也老子ハ只柔伏退歩ヲ干要トスル呈蘇頴
演 カ 儀 ハ 不 レ 嘗 也 ト 云 也 ︹ 性 理 大 全 巻 五 七 ︺ (7ウ7)
⑤朱子カ儀ニ一瞬ハ是一魂ハ是一一一ハ是レ水一一ハ是火二抱レ一火守
非レ守レ之謂也只是専て一 y無一一間断一致レ柔是到一一那柔之極処一
レ水魂載レ暁動守レ静也専気致レ柔只看一一他這→甚慶様工夫一専ラ
性理大全
縁ニ有二事発露一便是剛這気便粗了云云
︹性理大全巻五七︺ (7ウロ)
⑥性理大全一便生二二便生四老子却説二生L 7便是不理曾得
オ4)
ω
(
⑦敬夫カ日老子ノ云不善人ハ善人ノ資善人ハ不善人ノ
師輿下孔
︹性理大全巻五七︺
③ 或 人 間 朱 子 老 子 経 ノ 三 十 l其無ト云無ハ車ノ坐スル慮カト
子見レ賢思レ斉見二不賢一内省之意上不同為下老子不レ合二有レ資
多蔵必厚亡老子也是説得好云云
云朱子云恐クハ不然若シ坐スル慮ヲ以テ無トセパ上ノ文ニハ
レ之意不善上也云、
③性理大全或問知何是天得以一清築庵李氏日夫物不一而各在其
︹性理大全巻五七︺(おオは)
轄ト穀ト以云ヒ下ノ文ニハ戸臆パ斑埴ヲ以テ云一例ノ語肱ナ
︹性理大全巻五七︺ (7オ6)
②営ハ焚ノ字ト古字通スルト性理大全ニ有リ
阜一不レ得云云︹性理大全巻五七︺(叩オ比)
①朱子ニ老子ノ此才十三章ヲ問ヘパ朱子カ日ク従前理コ乱ル寸此
(初ウ9)
①張子ヵ西ノ銘ニ存レハ吾順ニ y事フ没スレハ吾寧シト云リ
西
リ某思ヲ無ハ載中ノ空慮ナリ此空慮能ク受レ軸運縛不レ窮ゾ輪
-264-
銘
モルコス
一如日月之照臨星辰之輝祭風雷之鼓舞雨露ノ漆漉各有其一而
相貫ス如レ環ノ無レ端云云
(剖ウ3)
本草網目
不相乱天惟得不一之一一是以清浄無第一一 y化 推 レ 此 言 之 地 得
レ一以寧神得レ一以霊谷得レ一以盈万物得一以生候王得一以矯
︹王世貞序︺(初オロ)
①本草網目ノ序ニモ解ニ其装一無二長物一但此本草ハカリアルト云
ル﹁
備書
学ヲ忌心也
(8オ8)
(必オ2)
文字心カ大恵乗矩ハ世間種々ノ法ハ皆忌執着ヲ義也老子ノ鴬
灰 ヲ 吹 テ 二 タ ヒ 刊 行y今 碧 岩 集 是 也 嶋 中 張 居 士 カ 井 刊 ハ 不 看
師第其概一ツ也隅中ノ張明遠ト云カ大恵焼テ後ニ碧岩集ヲ冷
也園悟ワ以書人ヲ誘引シ大恵ハ書ヲ焼テ人ヲ誘引スル其理ハ
師ノ述作ノ書大恵火ヲ以テ焼捨タヲ則讃書多キ者無明多キ義
①大恵龍宗呆ト云ソ固悟禅師ノ法嗣也碧岩集ハ固悟アメル書也
碧岩集
①悌書煩悩ノ塵垢ヲ除キ去テ浬般市ノ玄理ヲ見ト云ト問、ン儀也
ソ
レ天下一亦只是這箇道理且如人君治二天下一亦何容心哉公卿大夫
各因其等例士農工商各就其識分如此則尊卑貴賎不相混靖好悪一
取舎不相命中川臥天下自然一メ治ル云云
︹性理大全巻五七︺(幻オロ)
⑨魯斉許氏日老子以-道徳仁義一皆失ス然後至二於礼礼ハ筋一一忠信
薄y而乱之首一又以レ智治国々ノ賊不以智治レ国々ノ福ト云孟
子日智之賓知一一斯二者弗去是也O 孟子開レ口便説仁義蓋不可須
(叩ウ日)
︹性理大全巻五七︺(おウ4)
央離也道指璃荒之世又謂上徳不徳皆既レ見異不必築挙一玄云
准南子
小補韻曾︹去遇故︺⑬
1)HV
①准南子一一肢行味息ト云注一一ハ音吉トモシタソ
(叫ウ
経
①難経ニ栄ハ行肱中衛ハ行肱外営周メ不息五十一一メ復大曾陰陽
難
公カ義モ此ハ同蔓也
(9ウ1)
③河上公注ニハ微妙ニ玄通スルト通ニ玄ヲカケテ云ソ此注ハ玄ト
ム
ロ
・
宗
①台宗ノ、心ロ無明即明ト云達ス無明ハ迷ノ根本也法性無達観察
妙 ト ヲ 一 ニ メ 通 ス ル ヲ パ 二 ニ カ ケ タ ソ ( ロ オ3)
スル也此ノ非可尽儀阿々不可説云云
︹古紗本老子経序︺ (3ウ臼)
⑤河上公ハ孔ハ大也トシタソ儀同キカ
(口オ6)
(時オ2)
⑫河上公カ注ハ関鍵ノ儀ハ一例セス閉ニ情欲一守二精神一注ス不可
(
nウU)
⑪河上公込善以レ道結レ阜者乃結ニ其ふ一不レ如一一縄索一可得鮮也
而可レ知也云、為一一心佃小河上公注ヲモ書ス(幻ウ5)
⑩河上公注善以レ道計レ夏者守レ一不レ移所レ計不レ多不レ用-一策簿一
(幻ウ2)
⑨河上公カ注善言者謂択レ言而出レ之則無下レ暇二庇諦過上於天下一
ニテスル寸ニ
轍遮一一玄、(勾オ日)
⑧河上公カ注ニ善行レ道者ハ求レ之於身一不レ下レ堂不レ出レ門故無
が正モ或ハ儀也不可用也(幻オ叩)
⑦河上公注ニ言其遠トハ不二起絶一乃復反y在 -1
人身一也ト云ソ是
レ用鮎着シタル義也曲則全ノ儀ヲ取カ子タル義カ
⑥河上公ハ曲レ己従レ衆不二自専一則全ト注セリ是ハ古注ノ儀不レ可
ケヲテニルエ
(ロウ 2)
④河上公注ニハ其進退猶々ト y拘 l制若三人犯レ法畏一一四隣知也ト
ノルカン寸ヲ
(必オ8)
抱掛子
(3ウ 1 ) H V︹史記正義︺⑫
老子河上公章句
①河上公章句ノ老子経アリ河上公ハ河上瞭履ァ為レ業孝文帝好
ム老子一河上公作両難一間二文帝一老子意一文帝不レ解出就ニ河上
公々々々在草奄中不レ出文帝就謂レ之日朕払ん富良シ貧賎スト云河
ニモニ
y
上公乃出日余上不レ累天下不レ累地中不レ累人階下何能余ヲ冨
ニセント云ヲニヲニサニ
貴貧賎忽挙レ上高百齢丈文帝卑辞謝之於レ是矯文帝章句
ノト云也ノヲヲテル
作是河上公章句老子経章段八十一其義解 y云天四時四以乗
ニハヲテル
y
レ九四九舟六地五行五以乗レ九五九四十五九宮五方四維九州法
兄ニ
慮九レ之八十一也
②注ニ陶l ヱヌチノハニツチヲ子ヤシテスルハ陶ト云テツホヤ
茶碗杯作ル慮ノ l也其器物ハ中ノ虚ニメ園ナル物也其虚中ナ
ルカ故ニ器トナツテ人ノ用ニモ立ツト云義ゾト可心得也河上
-266ー
A
也
(おオ3V
用皆一例可見以二自然一為レ道時ハ力ヲ不入力ヲ不用遮ヲ顕サス
ト云儀也
(おオ6)
⑬河上公注ニハ己ヲハ語助用テノミト点セリ讃ム時儀其ノマ、
通スル也
⑭河上公注ニハ神器ヲハ器ハ物也人ハ乃天下与布勃也神物ハ好二
安龍一不レ可ルニ有也知一治也一玄、器ハ物也物ハ人也天下人ト云義ニ
(おオ叩)
(幻ウ3)
ハ謂情欲ノ出一一於五内一魂定晩静也故一一生入寸ハ死トハ謂三情欲入
於胸臆精神労惑ス故一一死スト云云養生ノ説尤有レ拠
(Uウ7)
@河上公ニハ十三ヲ九薮四関ト注スルソ人ノ耳目鼻口等ノ九穴
ニアテ、沙汰シタゾ
蘇頴漬カ解︹道徳経解︺
HV
注1
( 7ウ 7 ) H V
性理大全④
注︹老子膚斎口義︺
レ然者過而弗悔首而不一一自得一也若レ然者登高不傑入レ水不レ濡
-267-
用タリ此不可用カ
⑮人ノ好悪ヲ知ルハ是レ智恵也河上公注ノ意ト同意也
(却ウ9
)
⑬死而不亡者害時ト云ハ此ノ一句ハ注自誼自悟可也トイヘリ以二
荘子・注︹荘子膚斎口義︺
①荘子此類尤モ多ト云ソ荘子一一ハ此例不レ一故不レ抄
(幻オ8)
(却ウ1)
②注荘 7一
1
所 l誌滑疑追可レ考一玄、荘子斉物論億是故ニ滑疑之耀聖
文字言句一不説尽処也参得ノ重ト見タリ河上公注ハ不書往見如
文儀味軽薄ナリ
(訂ウ日)
人之所レ図也為レ是不レ用故ニ衆庸中一寓居スルソ不用無二愛成一
⑪執ヲ河上公ハ守ル也ト注ス此注ニ取ノ義也
⑬場ノ字勾曾ニハ口ヘンナシ翁迄及切合也欽也動也緊也通作鉱
︹膏物論篇︺(幻オ9)
愛 ナ ケ レ ハ 道 肪V シ聖ん只此理ヲ既得タリ不レ用寓-一諸庸一此
之謂一一以明一
老子持欲鉱氾祉制曾河上公注本ニモ口偏ハナシ今ノ本口偏ハ誤
(ロウ5)
③荘子ニ日コツギノ光リトハ是也︹膏物論篇︺(印ハカラウ6)
キニ
⑬河上公一一ワ球々ワ輪少落々聡レ多玉ハ少キ故ニ見レ貴石ハ多キ
④荘子日│││太宗師篇一一古ノ之異人不逆寡不レ雄成不レ蕃士若
故ニ見賎ト注セリ
⑫河上公ニ出ル寸生入ル寸ニ死ト本経ニ点セリ注一一出ルトキ生スト
ル陪タリトモテニ
(幻オ3)
カ
入レ火不熱セ是知能登於懐中忠一若レ此一玄、
︹大宗師篇︺(却オ4)
人異寸ハ其神全也乗モ亦不知也墜モ亦不知也死生驚僅不レ入
子其胸中一是故遅レ物ニ而不レ憧彼得全於酒一而猶若是而況也得
︹達生篇︺(絹ウ叩)
⑬荘子知北遊ノ篇ニ生也死之徒也死ハ生之始也執カ知-一其紀人
全於天乎
オ6)
之生ハ集ノ緊也緊ハ則震生散レハ則矯レ死若生死篤レ徒吾又何患
⑤秋水篇ニ至徳ノ者火弗能熱水弗能レ溺寒暑弗能害禽獣モ弗
ω
(
︹秋水篇︺
⑥荘子耕栂篇ニ是故明ニ耕者乱五色活文章青黄鋪敵之埠々-一非乎
ン故ニ万物ハ一也是其所レ美スル者矯レ神苛一其所悪者為臭腐一臭
能賊云、︹④に連続︺
︹耕揖篇︺(部ウ6)
而離朱是トス巳
︹知北遊篇︺ (Uオ3)
腐復化ハ矯神苛神音ハ復化y篤臭腐故日通レ天下一気一耳聖人
故ニ貴一
⑦乱五声非乎枝於仁者O非乎而曽史是トス巳云云荘子ノ丸法ト今
ソ 文 ト カ 一 様 成 ト 注 ノ 指 南 ニ 云 ソ ( ⑥ に 連 続 ) ( お ウ8)
1@
注
HV
( 2ウ 2 ) H V
陳士元云②
(Mウ日)︹徳充府篇︺
③注ニ荘子餅抵之保アリ耕揖技指山山一乎佐一哉而紘一於徳附賛牒
捷出ニ乎形一哉間修二於性多方仁義而用之者列二於五蔵哉非道徳
(おオ
(日ウ8) ︹天地篇︺+韻曾︹平微機︺②
6)HV
韻曾︹平魚嘘︺③
之正一也是故ニ耕二於足一者連無用之肉也技於手者樹無用之指
也多方シ耕コ技於五蔵之情一者淫僻於仁義之行一而多一一方シ於聡
注︹荘子属斎口義︺
⑮注合三百六十日一而後矯一歳遂日而除去之則但可調之日不可
︹耕揖篇︺(却ウ1)
⑨荘子除レ日無レ歳トハ荘子則陽篇有之容成氏日除レロ山無歳札い内
謂之歳故日 l此一句自好老子日数車無車亦此意外之名因レ内
明之用一也
︹則陽篇︺(釘オ8)
無外
(1ォ?}
︹則陽篇︺(幻オ9)
而生無内則無レ外失云云︹⑨に連続︺
⑬応一一其師之博一又蒐猟釈老諸書於六経史子之外一者也
︹林経徳荘子後序︺
︹寓言篇︺(却オ5)
⑩荘子ニモ引ケハ大白若辱盛徳ハ若不足
⑪機ト云ハ至楽ノ篇ニ万物ハ皆出ニ於機ヨリ皆入一一於機一ト在リ
︹至楽篇︺(幻オ日)
⑫荘子達生篇ニアリ夫酔者墜レ車難疾不死モ骨節与人同犯レ害与
-268-
︹韻曾上語輿引カ︺
(1オ9)
⑪以口義名トスル者謂其不為文雑偲俗而直述之也ト注セリ
①容輿ト云ハヤスロフト讃ム楚辞ニアリ
杜子美詩
①杜子美詩ニ注一一目寒江一情一一山間
唐詩︹韓愈、流水詩﹁沼泊幾時休﹂︺
①唐詩泊││幾時休没シ入ル義也
カアシフミタテヌ
(必ウ9)
(幻ウ1)
(犯ウ2)
(位オ叩)
①ツレ/¥ニクスシ忠守カマイリタリケルヲナゾニ作ル吾朝ノ
徒然草︹百三段︺
①柴天カ詩一一匹スル知身ノ後有何蔓一廉向世間ニ無レ所レ求
集天カ詩
(
mウ1)+小補韻曾︹入陪諦︺@
柳文徴笹賦
論文ヲ云ソ
①韓退之ワ唐朝ノ文人也於レ文韓文ニ過タルハ希也然ニ退之ワ
韓
︹離騒﹁遵赤水而容輿﹂︺︹九歌雲中君﹁柳迫逢号l l﹂
(ロォロ)
(ロオ 7)
﹁浮雲霧而入冥令騎白鹿l l﹂︺︹九章﹁船1 1而不進守
hV
小補韻曾︹平尤猶︺⑨
滝田水而疑滞﹂注﹁五臣云 l l徐動貌滝流也﹂︺
(ロオ叩)︹九歌、雲中君︺
呉都ノ賦︹文選︺
①周章夷猶任呉都ノ賦一一アルソ
満岳︹西征︺賦︹文選︺
(日ウロ)川 V小補韻曾︹平尤臆︺⑩
李善︹注︺
(2ウ3)ψ 陳士元云②
文
楚
辞
セハヲクヲクニレ・''
(7ウ4)
物舟見ヌ忠守カナドカケタルヲ唐瓶子トトクツレノ寸也
以下出拠未考
朱子日
O朱子日若是知ニ得真賓一必能信レ之篤守レ之国幸而未レ死則可下
(却ウ日)
賢
以充ニ其所レ知為聖為 h
v 万一即死セハ亦不下昏昧過斗了一生一
知二禽獣然上是以為人必以レ聞レ道為レ貴也
(四ウ6)
-270ー
張即之
O有張即之カ筆跡ワ初メワホメタリホメタル時即之ヵ云ヤウサ
(おウ3)
テ我手跡未不レ到也重テ修ス後人大笑其時ニ即之カ修行ヲ止
タリト云寸ヲ或人話未考停
活嘉夫云
O沼嘉夫云人難ニ至愚-責人ヲ則ハ明也難有聡明-恕レ己則ハ昏有
(初オ1)
能以二責レ人之心責レ己之責レ己以レ心恕レ人則不レ患不至聖賢突
古詩
テモテモノ
O古詩得莫二折々一失莫レ悲古今/人蔓落花持続撃す同綴紫間基
春
風
ー