妖奇譚外伝集 ID:114177

妖奇譚外伝集
雪宮春夏
︻注意事項︼
このPDFファイルは﹁ハーメルン﹂で掲載中の作品を自動的にP
DF化したものです。
小説の作者、
﹁ハーメルン﹂の運営者に無断でPDFファイル及び作
品を引用の範囲を超える形で転載・改変・再配布・販売することを禁
じます。
︻あらすじ︼
﹁遠野物語﹂
時は長崎に黒船が来航し、この国に新しい風が吹き込もうとしてい
た頃。
大樹の上から空を見上げて、外の世界に焦がれる一人の妖怪がいた
⋮⋮。
この物語は並盛妖奇譚に付随する外伝を纏めたものです。一応時
系列順にしてありますが、飛び飛びで書く可能性もありますので、そ
こはどうぞご了承下さい。
目 次 遠野物語 その一 ││││││││││││││││││││
遠野物語 その二 ││││││││││││││││││││
1
23
遠野物語 その一
﹁人の目に触れず、ぬらりくらりとしとる⋮⋮これがわしら、〟ぬらり
ひょん〟じゃ﹂
そう言って⋮⋮男は笑った。
妖怪の戦いには2つの段階がある。
人に対して使われる自らの畏れを表に解放する﹁鬼發︵はつ︶﹂。
妖怪同士で争う為に歴史の中で生み出された、自らの畏れを具現化
し、技として昇華させる﹁鬼憑︵ひょうい︶﹂。
遠野に居着いて100年余り。世は荒れ、飢饉や改革が相次ぐ中、
﹂
新たな時代の胎動が聞こえ始めていた。
﹁またここにいたのか
遠野の中でも一等見晴らしのよい、大木の上にいた少年を見つけた
のは、彼が一時期教育係を務めていた﹁鎌鼬﹂の子供だった。⋮⋮名
を﹁イタク﹂と言う。
﹁そ ん な に 〟 外 〟 に 行 き た い ん な ら、里 の 畏 れ を 破 っ て 出 り ゃ 良 い
じゃねぇか﹂
同じ大木の反対側に伸びる枝に飛び乗って、イタクは少年の横顔を
眺めた。
風に靡く黒の長髪。その横顔は嫋やかな女子のようだといったの
は誰だろうか。
妖怪の中ではいつまでも若々しいのは普通だが、その中でも彼は郡
をぬいている。当年110になると自己申告する彼は、人の姿ではま
だ元服の頃合いにしか見えないだろう。
﹁無理だよ。赤河童様も、許してくれないだろうしね﹂
僅かに唇をあげた少年が見るのはいつも遠いどこかだ。遠野より
もずっと遠い国。もしかしたら更に遠い海の向こうの地だろうか。
﹁⋮⋮んなことねぇよ。赤河童様なら止めたりなんかするものか。お
前は強い。そのことは俺たち皆が認めている﹂
﹂
1
?
﹁半分だけの力でも⋮⋮
?
イタクが言い聞かせようとした言葉に被さってきた少年の言葉に、
咄嗟にイタクは声が途切れた。その反応に、吹き出すように笑いをも
らして、彼は話す。
﹁ごめん。流石に意地が悪かったね﹂
﹁⋮⋮いや﹂
笑みが苦いものに変わるのを見ながら、イタクはどう声をかければ
良いのか分からずにいた。
山吹︵やまぶき︶鯉繋︵りつな︶。遠野に居着いて100年が過ぎる
イタクの嘗ての教育係は、かなりの強さを持つ。妖怪の中では力を持
たない﹁幽霊﹂としては。
そう。それはあくまでその前文がついた上での評価で有り、彼のも
う一つの血筋、父方の力を知るだろう古株達は彼の力量を﹁最弱﹂と
言っていた。
以前から自分達よりも上の世代が、彼を裏で誰かと比べているのは
2
イタクも薄々気づいていた。弟弟子であるイタクが気づいたことに、
鯉繋が気づけないはずがない。
いや。もしかしら彼にはもっと露骨に言われていたのかも知れな
い。
イタクは彼の父方のことに関しては尋ねた事は無いし、他の修行仲
間達にしても同様だろう。ただ上の世代の反応からかなり名のある
妖怪なのではないかとあたりはつけられていた。
⋮⋮そこらの有象無象ではなく、赤河童様と同じく、組を率いられ
るほどの。
﹁急ぐ必要ねぇよ。淡島だって、全然折り合いつけられてねぇって話
だからな﹂
﹁そうだね﹂
我ながらぶっきらぼうになってしまった言葉に、内心イタクは落ち
込むが、返ってきた相手の声音が僅かに上がっていたのに顔を上げる
と、枝の上から鯉繋が立ち上がる所だった。
﹂
﹁そろそろ戻ろうか。お風呂の準備しなきゃ、間に合わなくなっちゃ
うよ
?
イタクと同じ若い世代に、〟天邪鬼〟の淡島という妖怪がいる。彼
は父親が鬼神。母親が天女の生まれで、本人も昼は男。夜は女の妖怪
だ。
それと同じというわけではないが、鯉繋も二親が違う妖怪なのは既
に疑いようのない事実であった。
彼の母親は山吹乙女という名の幽霊だったそうだ。鯉繋は物心つ
い た 頃 に は 既 に 彼 女 し か 身 内 は 無 か っ た と い う。修 業 の 休 憩 時 間。
手伝いの片手間。ポツリポツリと、彼女と共に見た外の世界をよく自
分に話してくれた。
あの当時はまだ己も弱く、里の外に出たことがなかったので、ぶっ
きらぼうに相づちを打ちながらも、その声は弾んでいたのだろう。
田舎の町の風景。様々な山々の景色。気の良い妖怪や人々の話。
そして時折話してくれたのが、力の無かった彼を殺そうとする、妖
お前が教えられる訳でもないん
?
3
怪の話。
﹁多分あれが、もう一つの俺の力なんだろうな﹂
自分よりも格上の相手から逃げるために使っていたのだろうその
力は、自発的に使うにはどうすれば良いのか分からないのだと、鯉繋
は苦笑いしていた。宝の持ち腐れにも程があると。
どんな力なのか、と無邪気に尋ねた俺に、幽霊みたいになる力、と
彼は答えていた。
イタク﹂
彼なりのはぐらかし方だったのではないかと気づいたのはずっと
後の話だ。
﹁まぁた悩んでんのか
﹁おまえが悩んだって仕方ねぇだろ
時は夜。背後にあたる豊満な胸がイタクには毒だ。
タクはあきれたようにため息をついた。
背中から抱きつくといういつものごとく過剰なスキンシップにイ
﹁別に。そんなんじゃねぇよ﹂
は件の淡島。
ストトトトと、包丁を扱うイタクにそうちょっかいをかけてきたの
?
だからよ﹂
軽い口調ながらも、淡島の言葉は正論だ。
鯉繋の父親が誰かも分からないイタクでは鯉繋にもう一つの血筋
の力を教える事はできない。
それは他の連中も同じで。
﹁ほっときなさいよ﹂
考え込みかけたイタクを引き戻したのは冷めた女の声。
嘗て鯉繋の教育係だった雪女⋮⋮冷麗だった。
﹁ばかばかしい。自分の畏れなんて、自分自身と真っ正面から向き合
うしかないの。そうあればおのずと見えてくる物なんだから。出来
ないのはまだ本人にそこまでの実力が無いってだけよ﹂
汁物の煮込み具合を確かめに来たのだろう、そのまま鍋に向かう冷
麗にイタクは唇をかんだ。
鯉繋より更に上にいる冷麗にはいじめられた経験しか無く、咄嗟に
体が竦むが、それ以上に彼女の言葉には納得できるだけの要素しか含
まれてなかった。
この遠野では力が全てだ。
だからこそどこの妖怪組織にも属さず、どこの味方もする傭兵稼業
で成り立っている。
︵⋮⋮力が無ければ、何も出来ない︶
鯉繋は分かっているのだろう。だからなにも言わないのだ。外に
出たい⋮⋮そんな我が儘さえ。
﹁⋮⋮⋮っ﹂
その身から湧き上がる感情をこらえながら、イタクは包丁の動きを
早めた。
今の時間鯉繋は、風呂焚きをしているはずだ。
なにも出来ないのは分かっていたが、会いたかった。
一瞬の浮遊感。
グランと重力がのしかかってくる感覚に、鯉繋は軽く頭を振った。
風呂場から修行場まで。距離にすればそこまで遠くないのに、いつ
4
までたっても慣れることは出来ない。
︵果たして⋮⋮実戦で使える代物なんだろうか
︶
頭によぎる不安に、鯉繋は深く息を吐き出した。
使えるか否かではない。使えるようにしなければならないのだ。
自分には⋮⋮この2つしか無いのだから。
﹃ごめんなさい。ごめんなさい。鯉伴様﹄
魘されていた母はいつもそこにいない誰かに詫びて、泣いた。
﹃あなたの子を、ちゃんと生んであげられなかった。妾︵わたし︶は
⋮⋮﹄
違 う。母 さ ん の せ い じ ゃ な い。何 度 も、病 床 の 彼 女 に 言 い 聞 か せ
た。その回数はあまりの多さに、幼い頃の俺は数を覚えていられな
かったけれど。
﹁⋮⋮集中しろ﹂
言い聞かせるように活を入れ、自らの畏れを掌に集中させる。
本来なら妖怪の扱う畏れの発動⋮⋮〝鬼發〝は1つの形しかない
ものだが、鯉繋は母、山吹乙女から幽霊としての力の使い方を教わっ
ていた。
幽霊は滊︵おもい︶を糧とする妖︵あやかし︶。
自らの畏れと滊を合わせれば、無いものを有るものへとすることが
出来るのだと。
畏れの認識ができるようになってすぐに、教わったのは、自分の肉
体の作り方だった。
母がいなくても⋮⋮生きていけるように。
自分独りでも生き残れるように。
﹃ごめんなさい⋮⋮鯉繋。あなたを⋮⋮孤独︵ひとり︶にしてしまう﹄
今際の母が漏らした本心。
案じられていたのだと分かっている。彼女は恐らく分かっていた
のだろう。
一人になった子供になにが待ち受けているか。
ぬらりひょんの血を継ぐ者が、ぬら組の庇護を持たないというのが
どういうことか。
5
?
﹁⋮⋮っ、はぁ、で⋮⋮きた﹂
はぁっと、息を吐き出した鯉繋の掌には刃渡り数センチの小刀が握
られていた。
︵やまふき︶︾と名付けられた刀である。
山吹色の鞘に納められているそれが、鯉繋の畏れによって創られ
た、︽邪魔
嘗ては無銘であったこの刀に、名を付けるよう命じたのは当時彼の
教育係だった冷麗だった。
曰く、名があればその分、愛着がわくし、創造の際にその姿を浮か
び上がらせやすいのではないかと。
彼女のいうように効果があったのかはまだ分かっていないが。
この遠野は妖気が溜まりやすい立地にあり、肉体の構成にしろ、そ
れ以外にしろ、殆ど体内の畏れを奪う事は無い。
もともと強い妖怪ではない鯉繋には、その立地は少し、息苦しく感
じるときもあるが。人でいえば咽せるに近いだろうか。
6
﹁最弱か⋮⋮﹂
ポツリと呟いて、苦く笑う。
昔は父親について﹁鯉伴﹂という名前しか知らなかった。
しかし遠野での生活が長くなれば、自然と各地の話にも耳敏くな
る。
四国の狸、京都の狐。⋮⋮江戸の﹁ぬらりひょん﹂。
﹁⋮⋮いけねっ﹂
気づけば刀を持つ手に力を入れていたのか、
握っていた手のひらが真っ赤になっていた。
正面に刀を構え、そっと呼気を整える。
﹂
滊を練る事が、幽霊の畏れの一番の基本だ。鬼發にしろ鬼憑にし
ろ、それが乱れれば負けてしまう。
分かっていた、はずなのに。
﹁おめぇが、﹁遠野のぬらりひょん﹂かい
気配がなかった。
ようやく。
気づけば目の前にいた。一人の男。押し倒され、目を合わされて、
?
﹂
﹁だ⋮⋮れだ⋮⋮
﹁鯉繋っ
﹂
!
﹁鯉繋
﹂
﹂
但し見知らぬ妖怪に押し倒されて。
いた。
遠野の数ある実戦場の中で一番広い場所。そこに果たして、鯉繋は
場所の目星は容易く付けられた。
しかしイタクとてなまじに彼の弟弟子はやっていない。彼の行く
たのか鯉繋の姿は見えなかった。
夕食の支度を終え、イタクが風呂焚き場に行けば、用意は既に終え
彼の祖父との出会いだった。
これが山吹鯉繋が初めて出会った、自分以外のぬらりひょん。
ひょん〟じゃ﹂
﹁人の目に触れず、ぬらりくらりとしとる⋮⋮これがわしら、〟ぬらり
正面にいる男が、どこか面白そうに鯉繋に尋ねる。
﹁どうじゃ
振り向けば、弟弟子であるイタクの驚愕に満ちた顔。
後方の木の上から聞こえた声。
!?
思議な事ではない。自分の畏れを使いこなせれば猿でもできる。
問題は、なにも騒ぎになっていないことだ。
﹂
遠野にいる誰にも、気づかれていないことだ。
﹁何者だ、貴様
その言葉の内容はイタクの耳にはちっとも入って来ない。
﹁赤河童に呼ばれてきたんだが⋮⋮案内しちゃあくれねぇかい
﹂
そう言って、笑うその顔を見て⋮⋮イタクは驚きに目を見開いた。
﹁心配せずとも、怪しいもんじゃねぇよ﹂
とった。
しかしその動きを読んだのか、鯉繋から離れ、男は二人から距離を
かけようとする。
木から実戦場の中へと入り込み、男の背後へと回り、その頸へ鎌を
!
?
7
?
反射的に鎌に手を伸ばす。里の結界を破ったのか。それは別段不
!?
なぜなら男が浮かべたその笑みは⋮⋮鯉繋と、瓜二つのものだった
からだ。
江戸で気儘に隠居生活を楽しんでいた奴良組先代総大将、ぬらり
ひょんが赤河童からの便りをもらったのはほんの数日前のことで
あった。
本家に現総大将たる鯉伴がいないのは既に日常となっており、未だ
に若さのある彼の側近たちも追いかけっこに夢中である。
先代からの側近達は︵目付役である鴉天狗以外︶そのおなじみの光
よほどのことか。なまはげ﹂
景にあきれ半分、和み半分と言ったところか。
﹁わざわざ、おめぇが来るとはなぁ
そこはおめぇ次第だろう﹂
﹁⋮⋮内輪もめ、だぁ
﹂
合う筋合いはねぇからな﹂
﹁もって回すも何も実際そうだ。俺たちはおめぇらの内輪もめに付き
のか、呆れたように息を吐いた。
面白そうににやけたぬらりひょんに、なまはげもその心中は察した
﹁何とも持って回した言い回ししてくれるじゃねぇか﹂
たにも関わらず、返答が﹁そちら次第﹂とは。
にしてまで訪ねてくるほどだ。生半可な内容ではないと予想してい
容が気になる。誰にも着かない独立組織として動く遠野一家が、内密
そのことに内心安堵すると、今度は向こうが言った今回の用件の内
のではないことは予想できた。
内容をつかませない物であるが、落ち着いた様子から切羽詰まったも
ずんぐりとした巨体を屈ませながら首をかしげるその姿は、訪ねた
﹁どうだろうなぁ
奥州遠野一家の長、赤河童の遣い、なまはげである。
迎えた。
そんな本家の縁側に面したある一室で、ぬらりひょんはある客を出
?
生憎とぬら組が関わる問題で遠野に不利益が生まれるような話は
のことを思い浮かべる。
ひょんは、はてと、彼の言葉に該当するような些事があったかと近頃
な ま は げ の 浮 か べ た 表 情 に つ ら れ る よ う に 渋 面 と な っ た ぬ ら り
?
8
?
聞いていないのだが。
︵いや待てよ⋮⋮確か先月の総会の後に⋮⋮︶
︶
ぬらりひょんはふと、先月、ぬら組最高幹部の二人がぬらりひょん
の耳に入れた噂話を思い出した。
確か、その噂の舞台が他ならぬ、遠野だったはずだ。
︵だが⋮⋮あれはそこまで大事なもんにはなりえるか⋮⋮
た。
﹂
﹁そこまでやばい奴なのか
﹁でも赤河童様の客だろ
﹂
﹂
遠野屋敷。そこに集まっていた男若衆の中に、イタクの怒声が響い
﹁何なんだ一体あの男は
当てずっぽうだった言葉に、なまはげは意味深く笑った。
﹁そりゃあ⋮⋮遠野に〝ぬらりひょん〝がいるっつう話か
に思い当たる事も無いため、当てずっぽうに近い感覚で確かめる。
その噂話の詳細に思考を巡らせ、可能性は薄いと思いながらも、他
?
?
た。
﹁あーもうっ
イタクがピリピリするようなことじゃねぇ
﹂
お前も会ったんだろ
淡島首締めてんぞ
一体どんな奴だったんだよ
﹁ちょっと⋮⋮待て待て
!?
!!
疲れて⋮⋮⋮ん
?!
振りもなかったことに違和感を覚えた。
﹁鯉繋。お前変だぞ
﹂
そこから解放させた土彦は彼が鬼發も使わず、淡島から脱出する素
を動かす。
だったのか、淡島の手加減のない行為をモロにくらい、ばたばたと手
業を煮やした淡島が首を締めようとした鯉繋は、心ここにあらず
!!
﹂
イタクじゃ話にならねぇ 鯉繋、赤河童様の客って
いと思ったのか、その場を仕切っていた淡島は訪ねる相手を変更し
皆思い思いに口を開く中激昂するばかりのイタクでは要領を得な
じゃねぇかよ﹂
?
鯉繋の顔は淡島に締められた影響か青ざめている。だがそれ以上
フェイスにしては珍しく、ヒクリと表情を固まらせた。
顔をのぞき込んだ〝経立︵ふったち︶〝の土彦はいつものポーカー
?
9
!?
?
!
!
!
﹂
に覇気を感じられない、能面のような姿はどこか作り物めいた異形さ
を感じさせたのだ。
﹁疲れか⋮⋮そうかも。先に休んで良いか
まれるように無言となっている面々を気にもとめずに⋮⋮そのま
周囲の感じる違和感に気づかないのか、鯉繋は薄笑いを浮かべた。
?
ま床へ入る為に寝床へ向かっていった。
﹁な⋮⋮なんか、怖え﹂
残った者の中でポツリと、呟いたのが誰なのかは定かではない。
ぬらりひょんの聞いた噂話は牛鬼組組長、牛鬼と関東大猿会会長、
狒々から聞いた物だった。
当人達も酒の肴程度の認識だったし、己もまったく真面︵まとも︶に
は扱っていなかった。
他人のそら似か、虎の威を借る狐の類いだろうと。
しかしその予想は、遠野でその姿を見た瞬間覆された。
柄にもないことだが、時が戻ったのかと思った。
嘗て息子の傍にいた一人の女性。今でも鮮明に思い出せるぬら組
︶
の中で動き回っていた彼女の後ろ姿と被る。
︵山吹⋮⋮乙女⋮⋮
﹁⋮⋮集中しろ﹂
ともない子供が気づかないのは無理ないのだが。
を破る以前から明鏡止水を発動させているため、遠野から外に出るこ
こちらとしては、赤河童を驚かせたいという悪戯心から遠野の畏れ
仕草か、閉ざした目が開く様子はない。
どうやらこちらには気づいていないのだろうか。彼の精神統一の
明鏡止水を発動させたまま、立ち尽くす彼の者の元へ近づいた。
何故か己にそう言い聞かせながらも、ぬらりひょんは自らの鬼發、
まっている。
髪質が似ているだけの、真黒の髪色が同じだけの他人。そうに決
いものであるし、何より骨つきが女のものではない。
かだった。人でいえば元服するか否かの体は明らかに彼女よりも幼
思わず声にでそうになった言葉。しかしよく見れば違う事は明ら
!?
10
?
唇から零れるかのように聞こえた声。見るとその眉は眉間に寄っ
ている。
どこか思い詰めるように寄せられているその姿はそのまま余裕の
無さを感じさせられた。
認識されていないのを幸いと相貌を眺めていると微かな妖気が子
供の周囲に集まっていることに気付いた。
その中心は右の掌。注意深く見ると掌の周囲の大気が歪んだよう
に揺らぐ。
﹁⋮⋮っ、はぁ、で⋮⋮きた﹂
その直後、何もなかったはずの右の掌に一降りの小刀が握られてい
た。
山吹色の鞘に納められているそれは幻術の類いにはない、実体を感
じさせる厚みと重さを持っている。
しかし先刻まで確かにそこに何も存在しなかった。それはぬらり
︶
11
ひょんが分かっている明確な事実である。
︵これは⋮⋮こやつの畏れか
だが、その瞳の形は彼女よりも、ぬらりひょんの息子、鯉伴と⋮⋮
それは山吹乙女と同じ瞳。
ない。
瞳の色は髪と同じ真黒。その瞳孔は塗り潰したように混じりけが
瞳を見て、二の句が継げなかった。
らない。だがそこで遠くを見るように目線を上げた子供の⋮⋮その
何と比べての言葉なのかは事情を知らないぬらりひょんには分か
﹁最弱か⋮⋮﹂
で入ってきたのはどこか自分を責めるかのような苦しげな声だった。
鏡止水を解き、声をかけようかと逡巡したぬらりひょんの耳に、次い
僅かに青ざめた顔からはどこか苦しげな様子が見える。咄嗟に明
単なる疲労⋮⋮と言うには些かおかしいだろう。
︵待て待て⋮⋮これゃあ︶
いていると、子供の息がひどく乱れていることに気付いた。
無から有を生み出すとも言える、見たこともない畏れに内心舌を巻
?
ぬらりひょん自身と、酷似している。
︵なるほど⋮⋮な。確かに、こりゃあ︶
何故赤河童がここに己を呼んだのか、その理由の一端をぬらりひょ
﹂
んは理解した。同時に聞かなければならないこともできたが。
﹁おめぇが、﹁遠野のぬらりひょん﹂かい
﹁だ⋮⋮れだ⋮⋮
﹂
己をしっかりと映す瞳を覗き込み、得意げに笑みを浮かべる。
ようやくそこにいると、認識できたのだろう。
明鏡止水を解き、覆いかぶさるように押し倒した。
?
﹂
﹁どうじゃ
﹂
改めて目線を目の前にいる子供に合わせ、その目を覗き込み、囁く。
︵まぁ⋮⋮それはこの件が無事に済んでからじゃがな︶
激を受けるのは悪くないだろう。
た。そこに物足りなさを感じているわけではないが、若い世代から刺
総大将を鯉伴に譲ってから、めっきり己が戦う機会は減ってしまっ
にゾクゾクするような面白みを感じる。
後方の木の上から聞こえた声。それと同時に、己に向けられた殺気
﹁鯉繋っ
や己の父の力さえ知らないのだろうか。
ようやく返ってきた言葉。それは問いの答えではなかったが、もし
!
も不思議な事に、その表情は己の妻、珱姫に似ていると思った。
﹁人の目に触れず、ぬらりくらりとしとる⋮⋮これがわしら、〟ぬらり
ひょん〟じゃ﹂
だがその直後。ビクッと、子どもの肩が震えた。
︶
限界にまで、見開かれた瞳に宿った色は⋮⋮怯えだった。
︵⋮⋮なんだ
息を呑む。
﹁何者だ、貴様
﹂
〝ぬらりひょん〝。その言葉を出した瞬間に、起きた変化に思わず
?
そこに切り裂くように割り込む声。
!
12
!?
尋ねられた子供は大きくて目を見開いて、己を見つめていた。何と
?
明確な殺気に子供から感じた反応も手伝い、ぬらりひょんは子供か
ら離れた所に足を付けた。
殺 気 を 収 め る こ と 無 く こ ち ら を 警 戒 し 続 け る 姿 は ま る で 子 供 を
守っているようだった。
仲間意識か。何にせよ、孤立しているわけではないのは喜ばしいこ
とだ。
﹁心配せずとも、怪しいもんじゃねぇよ﹂
我ながら説得力がないのは自覚しているが、呼ばれてきた客である
﹂
ことは事実である。最も内容が内容なのでおそらく遠野の連中でも
自分の訪れを知っているのは極一部だろうが。
﹁赤河童に呼ばれてきたんだが⋮⋮案内しちゃあくれねぇかい
念押しのように笑いかければ、殺気を向けていた鎌を持つ少年⋮⋮
おそらく鎌鼬だろう彼は、驚いたように目を見開いた。
﹁随分と早いおなりだなぁ。ぬらりひょん﹂
揶揄するように笑みを浮かべるのは遠野の重鎮、赤河童の側近の一
随分と老いたようだのぉ﹂
人、実質的な遠野の二番手だ。
﹁何年ぶりだぁ
だろう。
﹁最初に教えろ。確信を得たのは何時だ﹂
主語はあえて入れずに、ぬらりひょんは問いかけた。
わざわざなまはげを遣いにたて、その上で用件は現地で話すという
用心に用心を重ねるからには彼らは信用できる伝を使って調べたの
だろう。あの子供の身元を。
﹁随分と、急くな﹂
ようやく口を開いた赤河童に、苦笑を浮かべた。
﹁風情が無いのは百も承知じゃ。じゃがな⋮⋮あいつは今も乙女さん
﹂
を探しとるし、わしらもそれを知っておった。そこにいきなりこの話
じゃ。怪しむなってのは致し方なかろう
る大将と言うべきか、気後れする様子は無い。
そのまま目線を鋭く睨みつけるが、流石は長年遠野妖怪を束ねてい
?
13
?
皮肉と共に唇を歪めたところを見ると、おそらく彼も知っている側
?
﹁いつから⋮⋮か﹂
昔に思いを馳せるかのように言葉の間を開ける赤河童
の目にはぬらりひょんの姿は映っていない。
静かな水面に水滴を垂らすように、大妖怪は言葉を続けた。
﹁もう100年になる。あれがここへ連れてこられたのはな⋮⋮連れ
﹂
てきたのは〝朧月夜︵オボロヅキヨ︶〝。お主との血縁関係を聞いた
朧月夜じゃと
のもその時に、奴からじゃ﹂
﹁なっ⋮⋮
と。だから内輪揉めなんて言い方をしたってわけかい
﹂
﹁な る ほ ど。つ ま り お 前 ら が 儂 を 呼 ん だ 内 容 っ て の が あ の 子 供 の こ
ではないことは確かだ。
しかし間違えてもあれは百鬼夜行に加えたいと思えるような相手
年も生きるようなものが、妖怪以外にいるはずねぇからな︶
︵一時は妖怪じゃねぇんじゃねぇかとも疑ったが、術も使わずに何百
様な気配を帯びていると、認めざるを負えなかったのだ。
また何度か関わるうちに妖怪の中であっても彼女はどこか異質、異
の存在の力は上限という物が感じられなかった。
り合ったことはないが、手合わせ程度で数回仕合ったときでさえ、彼
それ故敵対することもなかったのでぬらりひょんも真っ向からや
ろう。
さえも無関心のため、こちらとも不干渉を貫いている、と言うべきだ
言葉を使うなら、居を構えていた場所にしては愛着を持たず、現在で
組内部に取り入れた訳ではないが、敵対している訳でもない。敢えて
在である。一番街をシマとする良太猫率いる化け猫組とは違い、奴良
以前。更に言うなら浮世絵町に居を構える前から江戸にいた、古い存
そう呼ばれているのは、ぬらりひょんが奴良組の本拠を江戸に構える
予想もしなかった名前に、ぬらりひょんは目を見開いた。朧月夜。
!?
最も鯉伴がその存在を認知している様子がない以上、組に入れると
補と考えれば確かに大事になってしまうだろう。
なまはげの言った﹁こちら次第﹂という言葉も、あの子供を3代目候
問いの形をとってはいるが、ぬらりひょんは内心で確信していた。
?
14
?!
なるとややこしい事にはなりそうだが。
そこまで考えてぬらりひょんは先ほどの赤河童の言葉に引っかか
あやつは今幾つじゃ
そもそも母で
るものを感じ、しばし思案にふけ⋮⋮それに気付いた。
﹂
﹁まて⋮⋮100年前じゃと
ある山吹乙女はどうした
!?
しかし、それは先刻までとは明らかに異なる空気で。まるで畏れの
﹁1つ言っておくぞ。ぬらりひょん﹂
られた。
ひょんに、いつの間にか意識の外に出していた対話相手から声がかけ
う伝えるべきか⋮⋮そもそも伝えるべきなのか、思案にくれるぬらり
遠野に来てから次々と明らかにされる事実に、鯉伴や他の連中にど
る。
理であったとしても、何とか奴良組の者と連絡を取ろうとした筈であ
それ以前に山吹乙女が生きていれば、子供が生まれた直後⋮⋮は無
るのなら、同じように遠野で生活していてもおかしくはない。
それはぬらりひょんにとっても納得できる答えだ。仮に生きてい
のだろう﹂
しては儂らも知らぬが⋮⋮あれの様子を見るに既に生きてはおらぬ
﹁あやつは今年で110になる。奴良組2代目の奥方、山吹乙女に関
自身のそれに口をつけ、赤河童は続ける。
前には小ぶりな湯呑み茶碗があった。
いつの間にか運ばれていたのか、ぬらりひょんと赤河童、側近の手
す。
それまで沈黙を貫いていた赤河童が、ため息と共に言葉を吐き出
﹁相変わらず、鋭いな﹂
にも間がなさ過ぎる。
吹乙女が去ったのと、子供が遠野に引き取られるまでの時間にあまり
あたりだった。それは今から100年と少しばかりの時分の筈。山
山吹乙女が奴良組を去ったのは、嫁いでから⋮50年を少し過ぎた
?
奪い合いをするかのような空気の重さに、ぬらりひょんも目を険しく
した。
15
?!
﹁儂らはあれが10の頃より、あれを遠野妖怪として育ててきた﹂
そこで一度会話を区切り、赤河童はぬらりひょんを見据える。
﹁たとえあれが主の血を継ぐ、正当な奴良組の跡目たり得る資格があ
ろうとも、今更奴良組に渡してやる筋合いはない﹂
こちらを威圧するかのような様子の赤河童に、ぬらりひょんは先ほ
どの子供の怯えた目を思い出した。
﹁⋮⋮儂とてそこまで耄碌はしとらんよ。孫だからといって当人の意
思も確認せずに無理やり連れ去る気は無いわい﹂
気怠げにため息をつく素振りをすると、2人の間に流れる空気が僅
かに緩む。しかし残念なことに話はそこでは終わらなかった。
﹁儂はそう考えとる。⋮⋮じゃが﹂
そこで言葉を切り、ぬらりひょんは物憂げにため息を落とした。
鯉伴や他の幹部連中に関しては、そうとは言い切れる保証が無かっ
たからだ。
そこまで赤河童も読めていたのだろう。だからぬらりひょんだけ
を遠野に呼び寄せた。悔しいがその判断は正しいとぬらりひょんも
認めざるを負えない。
もし鯉伴や一部の幹部連中が知ったら、理由はどうあれあの子供の
意思を無視する形で、無理矢理奴良組に引き入れようとする可能性も
ある。
鯉伴は山吹乙女の忘れ形見として、また自らの唯一人の息子として
奴良組を継がせたいと考えるだろうし、幹部の中でも認めようとする
ものと、認めないとするものとで別れるとしても、その思惑はどうで
あれ、遠野に置くことに関しては、眉をひそめるに違いない。
﹁儂らは強要も強制もすることはない。それが誰であってもな。独立
独歩こそが我ら遠野妖怪の誇り。それは我らの内にあってもじゃ﹂
﹁分かっておるわ﹂
赤河童はぬらりひょんに言い聞かせるような⋮⋮否、実際に言い聞
かせているのだろう、そんな口調で話す。僅かに苦々しく思いながら
も、赤河童の言葉にぬらりひょんは頷いた。
しかし、理解はできるが納得は出来ないという物なのだろうか。そ
16
の表情は浮かないものだ。
だがそれでもこれが筋というものだと、ぬらりひょんは理解してい
た。
父である鯉伴に会うことも、奴良組に入ることも、それはすべて子
供本人が決めなければならないことだ。
誰であろうと、その意思をねじ曲げて良いものではない。
ぬらりひょんの口から、子供のことを組の面々に伝えることは簡単
だろう。しかしそうすることで鯉伴や他の者達が、無理やりに遠野か
ら連れ出すような事があったら
珱姫に、山吹乙女によく似たあの子供を無理矢理縛るような真似を
すれば、自分や組の者達は外道になるだろう。たとえその自覚がな
かったとしてもだ。嘗ての強欲な珱姫の父と、鯉伴の祖父と同じよう
に。
無意識とは言え息子の鯉伴を、そのような外道にはしたくなかった
﹂
ま さ か こ の こ と を 知 ら せ る だ け が 用 件 と い う 訳 じ ゃ あ、
という思いから、ぬらりひょんは言葉を吐息の中に飲み込んだ。
﹁で ⋮⋮
ねぇんだろ
くっと唇を歪める。
﹁相変わらずだな。⋮⋮左様、なんだと思う
にて起きたこと、その全て。
﹁あの子供に関する事じゃろう
無いが﹂
﹂
⋮⋮じゃが、あの畏れは見たことが
聞いたこと、見てきた物を思い出す。なまはげが、本家を訪れ、遠野
悪戯を仕掛けるような赤河童のその問いに、ぬらりひょんは今まで
?
﹁あれは本来、二つの畏れを持っている。主らぬらりひょんの力と、母
にため息をこぼした。
と言うには妬心に近いそれを思い出していると、赤河童が呆れたよう
イタク、と言うのはおそらくあの鎌鼬の少年だろう。その怒り⋮⋮
わせていたか﹂
﹁イタクが苛立っていたからもしやとは思うたが、やはりあれと鉢合
?
17
?
場の空気を変えるように笑みを浮かべて問いかけると、赤河童もく
?
?
たる山吹乙女から受け継いだ力をな。ただし、100を過ぎて尚、あ
﹂
れは自発的にぬらりひょんの力を扱うことが出来ていない。それで
主を選んだのじゃ﹂
﹁おいおい、儂に教えろってのかい
予想外の要請に、ぬらりひょんはただ目を見開いた。
同時にどうしようもなく、わくわくとした高揚感があるのも確か
だ。
ただ次いで、鯉伴や他の連中に対しての後ろめたさ。罪悪感。それ
と同等か、それ以上の赤河童への不信感も感じてしまった。
﹁鯉伴でなく、儂に白羽の矢を立てる理由は聞かんでもわかっとる。
﹂
じゃが、ここまでして儂らの畏れを使いこなせるようにさせようとい
う意味が分からん。⋮⋮儂に貸しでも作る気かのう
に応えられない自分に失望し、子を授かることを待ち望む夫に失望さ
今から思えば、彼女は病んでいたのだと分かる。愛する者達の期待
女が⋮⋮自らの母が己を見ていない時がある、と気付いたのは。
縋るように伸ばされた手。気付いたのは何時だっただろうか。彼
﹁鯉繋⋮⋮あなたは、妾と、鯉伴様を繋ぐモノ﹂
母の死も、彼女との出会いも、自分の名前の意味を知ったときも。
辛い記憶は、いつも雪の中のように思う。
物だった。
その言葉の意味は、事情を知らないぬらりひょんには掴みきれない
どこまで行くのか﹂がな﹂
﹁朧月夜の言葉を借りるのなら、儂も﹁興味を持った﹂のよ。﹁あれが
それに、と赤河童は遠くを見るように、続ける。
えられぬものも有ろう﹂
主が最も適任と思ったからに過ぎんよ。ぬらりひょんでなければ、教
﹁案じずとも、お主に貸しなど作る気は無いわ。お主を呼んだのもお
赤河童にその内心を見破られた。
に明らかになった事実に、流石のぬらりひょんも動揺していたのか、
なるべく軽い感じに、さらりと尋ねたつもりだった。しかし、次々
?
れるのを恐れ、彼らの仲むつまじい様子を話す者達が掌を返すのを怖
18
?!
がり⋮⋮。
そうして、自ら流れ着いた孤独の中で、それでも彼らと切れる事が
耐えられなかったのだ。
狂うほどの執念。妄執とも言えるほどの強い滊は、彼女の畏れに強
い力を与えた。だからこそ彼女は守り切れたのだろう。彼女に残さ
れた最後の一粒種を。
狐の呪いを受け、それでも産まれようとする命を。
そして今から110年前の如月の月、静かに雪が降る夜に、己は生
まれた。
最も、全ては母から聞いた話と、生を受けてから見てきた母の様子
から僅かながら想像で補完しながら至った結論で有り、事実だけ述べ
られるなら、己が生まれた月と、その日の天気だけだろうが。
﹁⋮⋮で、そんな話をなんで俺にしてるんだよ。お前は﹂
呆れたように肩を竦めて、徳利から酒を盃に移すのは淡島。
19
﹁そこにいたから﹂
平然と⋮⋮理路騒然と宣うのは一見、通常に見える山吹鯉繋だ。し
かし淡島は既に気付いていた。
夜中に散歩をしていた淡島が、いつもの大木の枝の上にいる鯉繋を
見咎めたのが今から数分前。
床へ入ると言っていた鯉繋がなぜこのような場所にいるのか気に
はなったが、先刻問いただせなかった赤河童様の客について聞く良い
機会だと思い直し、声をかけること数分前。
あの時の自分に問いたい。
なぜ彼の傍らに数十本の徳利と盃がある事に気付かなかったのか、
と。
結論から言おう。彼は強かに酔っ払っている。
しかし、その状態で変に会話が成り立つのが彼のある意味厄介な所
だった。本人に酔っているという自覚が極端に薄いのである。
別にそれでお前そ
最もこれも生まれ持った呪いの後遺症のようなものなのだろうが。
﹁けどよぉ。その呪いって⋮⋮例のあれだろう
んなに不自由はしてないじゃん﹂
?
﹁俺は不自由してなくても、周りはそうじゃないってこと﹂
僅かに自虐の色を含んだ声に、淡島も言わんとしていることに気付
あん
いたのか、徳利を持っていない方の手で、軽く鯉繋の頭に手刀を当て
た。
気にすることねぇよ
﹁お前なぁ、まだ年寄り連中の言ってたこと気にしてんのかよ
なの負け犬の遠吠えみたいなもんだろ
﹁⋮⋮けど。事実だろ﹂
﹂
!! !
何⋮⋮を﹂
べれないというのが本人の言だが。
最も、鯉繋がこういう類いの話をするには、酔わないとうまくしゃ
き出すことが出来るのだろう。
そして、友だったからこそ、他の者には吐き出せなかった悩みを吐
もない分、本音を本気で話せる、数少ない友だった。
弟子であるイタクと比べればその頻度は劣るものの、弟子でも師で
た。
そんなことも相まって、昔から2人はよく共にいることが多かっ
若衆の中では淡島と鯉繋位だ。
異なる妖怪は遠野の中でも珍しく、その数は圧倒的に少ない。
淡島は弟弟子であるイタクとは異なる面で距離が近かった。親の
にも判別できない感情をため息で吐き出した。
言葉にされなかった部分まで想像できた淡島は呆れか、怒りか、己
強くなんか、なれない。
﹁俺は、なりそこないだから﹂
気づく。
盃に目線を落としたまま、鯉繋が打ち明けた言葉に問いかけて⋮⋮
﹁は
﹁母さんも、言ってたから﹂
と、鯉繋は続けていた。
あろう言葉に、どう返せばいいのかと迷いを見せると、
﹁それに⋮⋮﹂
そう囁く鯉繋の声はか細い。おそらく当時から気にしていたので
!?
﹂
﹁待て、まさかこんな大量に徳利を空にした理由、この話をするから
だって、言わないよな
?
20
?
問いかけながらも、長年の付き合いによって育まれた勘がそれの予
想を見事に肯定している。
﹁⋮⋮別に﹂
盃から目線を外すことなく否定した鯉繋の言葉は説得力に欠ける
ことこの上ないが、今それを追求することはばかばかしい限りであっ
た。
﹁なりそこない﹂
その言葉は遠野に来た直後から、鯉繋が己を卑下する時にたびたび
使っていた言葉だった。最も、冷麗に師事していた時はそれを使う度
自分が滊の妖怪だって分かってる 分かって
に凍りづけにされていたものだが。
﹁あんた、バカなの
﹂
いてやってるんなら大馬鹿者よ
当にバカッ
自分で自分の畏れを弱くして、本
?
自分の畏れによる特徴もあわせて、好き、とは言いがたい物ではあ
らかの力に優劣をつけた事など無い。
淡島も鯉繋と同じ二つの異なる力を持っている妖怪であるが、どち
︵なりそこない、ねぇ︶
も、何も言わないのだ。言えないと、言っても正しいのかもしれない。
そこまで鯉繋自身が理解しているからこそ、冷麗もイタクも淡島
そして今も出来てはいない。
その冷麗の指摘に己は言い返す事が出来なかった。
と。
自身の放つ滊が、
﹁なりそこない﹂である状態を作り出しているのだ
かった子を守りきったように。
母が自らの強い執念⋮⋮負の滊によって力を高め、今までなし得な
変化させてしまう弱い存在でもあるのだ。
自身にしろ、他人からにしろ、向けられる滊によって簡単に性質を
幽霊は滊を糧にする妖怪。
てはいたが。
この冷麗の言葉は徹頭徹尾真実だ。ただ、過程の部分を大きく省い
!?
?
るが、それでも、どちらも己ではあると自覚は出来ているのだ。
21
!!
鯉繋もどちらも己ではあるとは、分かっているのだろう。それなの
に、どちらかと優劣をつけてしまう理由は⋮やはり⋮⋮。
﹁親の記憶が残ってるってのも、良し悪しだよなぁ﹂
淡島から言わせれば、それにつきてしまう。
あまりにも簡潔にまとめられた結論に、鯉繋の顔にも苦笑が浮か
ぶ。
﹁そうだな⋮⋮でも、捨てられないんだ﹂
ぼんやりと、虚空に向けられる瞳。手持ちぶさたのように揺らす盃
の中身は、並々と残っているが、恐らく、もう飲む気にはなれないの
だろう。
﹁恨んでる訳じゃないんだ。生んでくれた事に、感謝もしてる⋮⋮た
だ、分からないんだ﹂
ゆらゆらと揺れる鯉繋の掌の水面をなんとなく眺めていると、前振
﹂
22
りも無く、鯉繋から言葉がもれた。
﹁何で⋮⋮死ぬと分かっていて、俺を育てたんだろう
?
遠野物語 その二
﹁何で⋮⋮死ぬと分かっていて、俺を育てたんだろう
鯉繋のもらした言葉に淡島は応えられなかった。
その問いの応えは、簡単なようで難しいもの。
﹂
古今東西、妖怪も人も関係なく、与え⋮⋮授かるもの。
しかし鯉繋に、嘗て彼の母の死に際を聞かされた事のある淡島に
は、簡単にそれを伝えることは出来なかった。
なぜなら⋮⋮それを﹁愛﹂というには、あまりにも鯉繋がうけた痛
みが強すぎるからだ。
﹁鯉繋⋮⋮﹂
なんと応えればいいかも分からないまま、会話を止めることだけは
してはならないと、淡島は言葉を探した。会話を止めて一人で考え込
めば、今までの経験上、鯉繋の思考は堂々巡りを繰り返して尚更土壺
にはまるだろう。
無意識とはいえ相談をしようと酒まで飲んで頼られた手前、淡島と
てそんな結果で終わりにしたいとは思えない。
かといって、どう返せば分からないからこそ、口の開閉を繰り返し
ていた淡島はボスリと肩に重みが加わったことに気づき⋮⋮恐る恐
る顔を上げてその肩を枕に寝息をたてる、微かに笑みを浮かべた鯉繋
これ⋮⋮﹂
の寝顔を見たときは、力なく肩を落としていた。
﹁助かった⋮⋮って、言うべきなんか
にそれを求めるほど空しいこともないかもしれない。
はぁと、再びこぼすため息を聞く者は皆無だ。その一挙のみで気を
﹂
取り直した淡島は、さてと、鯉繋に改めて目を向ける。
﹁どうするかなぁ
くら勝手に酔っていたとはいえ、薄着で眠りこける妖怪を野外に置き
去りというのはあまりほめられる行動ではない。
妖怪なのだから放置しても風邪をひくことは無いだろうが、グチグ
23
?
相談を持ちかけておいて寝るなといいたい所もあるが、酔っぱらい
?
呑気に寝息をたてる子供の寝顔に、淡島は次いで途方に暮れる。い
?
チと文句くらいは言うかも知れない。
︵いや⋮⋮それをやるとしたら冷麗くらいか︶
黒い笑みを浮かべながら、畏れを解き放つ姿まで容易く想像できて
しまい、淡島は乾いた笑みをこぼした。
声をたてずにくくっと笑った拍子に、体にぞわっと悪寒が走る。ク
シュッと、鼻を鳴らした淡島は⋮⋮ようやくそれが、畏れの発動で
あったことに気付いた。
﹁随分と罪作りじゃのう。男だけでなく女さえも骨抜きにしておると
は﹂
傍らから聞こえた声。それは、聞き覚えの無い⋮⋮知らない声で。
敵かと咄嗟に身構えようとした体を、軽く押さえつけられてようや
﹂
く、淡島はその襲撃者の姿を眼に映した。
﹁静かにせんか。起きちまうじゃろう
ふわりと浮き上がる長い髪。上半分が黒く、下半分が白い断層が1
分の狂いも無く、根元から毛先まで続いているそれは、人ならばあり
得ない髪色といえた。
しかし何より目を引きつけるのは⋮⋮その容貌。その面影に目の
前にいる子供を感じたのだ。その上僅かに釣り上がった眼が、鯉繋に
向けるものは明らかに赤の他人に向けるものではない。
数 刻 前 の イ タ ク の 様 子。突 然 の 鯉 繋 の 酒 の 悪 酔 い。そ し て ⋮⋮ 淡
島の知る鯉繋の複雑な家庭環境。
そこから淡島はある可能性にたどり着いた。
鯉繋の傍らにいた少女。それが発した問いは、いみじくも彼女が深
く、鯉繋の根源に関わる問題を知っていることの証左となった。
﹁鯉伴様﹂。そう己の息子を呼んでいたのは、今も昔も息子が愛し、ま
た息子に愛されたあの妖の女性だけだ。
他の者は総じて、二代目やら、総大将やらと他人行儀に呼ぶ。
近しい者は名で呼ぶこともあるが、そういう者達は呼び捨てにする
のがほとんどだ。
24
?
﹂
﹁まさか⋮⋮あんたが﹁鯉伴様﹂か
?
﹂
﹁まさか⋮⋮あんたが﹁鯉伴様﹂か
?
そうでなくても、恭しい様付けが苦手な本家の妖怪は形を整えると
き以外は滅多に使うことはなかった。
﹁⋮⋮もしそうだと言ったら、どうするんじゃい﹂
しばしの間を置いて、肯定ととりやすい言葉を敢えて放ったのは、
まず面白そうだからだ。
ついで、鯉繋と距離が近いだろう相手の反応が見たかったのもあ
る。そんなぬらりひょんの思惑は思ってもみない方法でかえされた。
前触れも無く薙刀が頬を掠めたのを認識して、ぬらりひょんはニヤ
リと悪戯小僧のような笑みを浮かべる。加減したとは言え、明鏡止水
おっさんん﹂
は使っていたというのに、それを難なく無効にした遠野妖怪のレベル
の高さに思わず笑い出したくなる。
﹁褒めてやろう。良く儂に一撃入れたの﹂
飄々と続けた言葉に淡島は顔を歪める。
﹁わざと一拍遅れて動いていて、よく言うな
鯉繋に気づ
薙刀の感触を確かめるように一振りして、改めて淡島はぬらりひょ
んに対峙する。
﹂
﹁悪いが、あんたが鯉伴様だってんなら、容赦しねぇ⋮⋮
かれる前にここを出ていって貰う⋮⋮
!
める。
考えていなかったわけではないが、それはあくまで鯉繋本人の反応
としてだ。
あの鎌鼬の少年と言い、力こそすべてをうたい、仲間内でもあまり
仲間意識をもたない遠野の地で、ここまで鯉繋に肩入れする者達がい
ることは少しばかり意外であった。
﹂
﹁遠野も随分変わったもんじゃな⋮⋮それとも、あいつの畏れの一端
かのぅ。妖怪を惑わせる術でも持っておるのか
いたなと、嫌な記憶まで思い出してしまい、ぬらりひょん自身も気分
⋮⋮そういえば嘗て大坂城にて、己の妻が同じ言葉を狐に言われて
なるのを容易に感じ取れた。
茶化すように言ったぬらりひょんだが、その一言で相手が不機嫌に
?
25
!
その言葉に込められていた完全な拒絶にぬらりひょんは眉をひそ
!!
が悪くなる。
﹁そんなんじゃねぇよ﹂
儂はそれでも構わねぇが⋮⋮﹂
苦笑に似た笑みをこぼして、淡島は目の動きだけで未だ眠っている
鯉繋を見やる。
﹁気になるんなら止めるかい
気も漫ろな戦い程興の乗らないものはない。
ここでどんな
鯉繋を気にする淡島の様子にその危惧を抱いて切り出したが、淡島
は鋭い睥睨によって応えとした。
﹁こいつのことは気にする必要はねぇよ、あんたはな
出を、ぬらりひょんは肌で感じた。
﹁あら⋮⋮
﹂
ぬらりひょん自身も、まだ若い相手に負けるつもりはなかった。
そして笑った淡島にぬらりひょんも思わず笑みを浮かべた。
﹁だから⋮⋮こっちも遠慮無くあんたをぶっ叩ける⋮⋮
﹂
刀を構えたままの淡島の体から、ぶわりと音が立つほどの畏れの放
ねぇだろうさ﹂
に暴れたって⋮⋮しこたま飲んだんだ。ちょっとやそっとじゃ起き
!
!!
もの寝床に鯉繋がいないことに顔を曇らせた。
﹁あの子⋮⋮まさか外で寝たんじゃないでしょうね﹂
思い返さなくても今日の鯉繋の様子がおかしかったのは覚えてい
る。十中八九、赤河童様の客分であった彼の同族のせいだろう。
遠野妖怪は誰であろうと力に屈することはない。自身が望まない
限りは引き渡される事など無いと分かっているのだから気にしなけ
れば良いものだが、そこまで鯉繋はまだ図太くはなれないのだろう。
いつまでも成長しない弟弟子に溜息をこぼして、しかし現在の不在
に僅かな危機感を抱く。
見たところ、寝床が乱れた様子がないのだ。もしかしたら、部屋を
出てから1度もここへ戻ってきていないのかもしれない。
︵あの子⋮⋮⋮生まれてから百年は経ってるってのに、まだ﹁寝るとき
26
?
それから数時間後。当番制の夜の見回りを行っていた冷麗はいつ
?
︶
は密閉した空間にいないと命にかかわる﹂ってこと、学習できないの
かしら⋮⋮
世話の焼ける弟子に再び溜息をこぼすと、鯉繋を探すため、冷麗は
歩き出した。
そこに僅かな焦りが浮かんでいたことを、本人が気付けていたかど
うかは定かではない。
遠野にいる若い衆の中でも、淡島、冷麗、鯉繋、イタクはやや特殊
な生い立ちを持っている。
物心着いた時から遠野以外に故郷がないというのがそれだ。
正確には鯉繋は、物心着いたときはまだ母親と共にいたが、それこ
そ流浪の民のような生活で、郷里と呼べる安息の地などありはしな
かったらしい。
母親が死んでからも、朧月夜によって遠野に導かれるまではいつ死
んでもおかしくない状況だったと聞いている。
鯉繋は、滅多に自分の話をすることはない。特に命の危険にかか
わったようなことはいつもぼかして話すのが常だった。
あいつの全てを理解できるなどと、傲慢なことは言う気はないけれ
ど、父親を頼れなかったあいつがどれほど壮絶な人生を送らなければ
ならなかったか、少しは分かるつもりだ。
﹁ちっせぇ頃から奴良組って大きな懐で、守られて、大事にされてきた
あんたには解んねぇかもしれねぇけどな。あいつはここに来た当初、
﹂
畏れで肉体を作るっていう、必要最低限のことしかできなかった⋮⋮
それがどういうことか、箱庭育ちのあんたに想像できるか
︵今更だ⋮⋮なんで今更ここに来た
︶
その経験は今も鯉繋の脳裏に刻みつけられているのだから。
彼の答えが如何あろうがすべては取り返しのつかない過去で⋮⋮
い放つが、答を聴く気は端からない。
薙刀と短刀が打ち合う音を聞きながら、淡島は問いかけるように言
!?
いた。そして、彼が呼んだ理由も、解っているのだ。長い目で見れば
呼んだのは赤河童様で、責めるのはそちらの方が道理だとは解って
!
27
!
同族である﹁ぬらりひょん﹂を呼ぶことは、鯉繋にとって間違いなく
プラスに働くだろう。
鯉繋はいまだに、ぬらりひょんの能力をまともに使えない。四分の
一しかない血の薄さも起因するだろうが、それ以上にあったことのな
赤河童様のその決断は間違いじゃ無いかもしれ
いぬらりひょんと言う妖怪を理解できないというのが正しいのだろ
う。
︵だから、会わせた
でも⋮⋮
︶
らりひょんを睨んだ。
!!
日は朝から付き合えと、赤河童に頼まれていた。鯉繋に修行をつける
明日何も予定がないのなら朝まで打ち合っていても良いのだが、明
ろう。
なだけに、偶然止めてくれる相手が出てくるという可能性は少ないだ
一人そう納得して、さてどうすると、思考を巡らせる。時間が時間
⋮⋮少ないじゃろうな︶
︵訂正すれば済む話かもしれんが、この時点で信じてくれる可能性は
のないそれに嫌になる。
面倒になった事態に己の責任と分かってはいるものの、終わる気配
︵面白がってついた嘘がおかしな方向に働いたのぉ⋮⋮︶
れたことに腹を立てているらしい。
鯉繋に大層気があるのだろう女妖怪は、どうやら鯉繋の父親が呼ば
なことを考えていた。
気を高ぶらせている女は美しいと、この時ぬらりひょんは、場違い
感情が揺れる。それだけは納得できそうも無かった。
︵なんでよりによって⋮⋮こいつなんだよ
︶
思うがままにいかない太刀筋にぎりっと唇をかみしめて、淡島はぬ
ると言うものだろう。
ひょいと交わす。腐っても魑魅魍魎の主と呼ばれるだけのことはあ
薙刀を力任せに震うも、風と遊ぶように、ぬらりひょんはひょい
ない⋮⋮
!! !
時間が早いに越したことはないので、ぬらりひょんとしても願ったり
叶ったりである。
28
!!
彼が鯉繋に割ける時間はせいぜい一日から二日だ。それ以上はさ
朝になりゃあ赤河童が説明する
すがに組のものを誤魔化しきれないだろうとぬらりひょんは踏んで
いた。
︶
︵こうなりゃあ⋮⋮逃げるが勝ちか
だろうし⋮⋮
との経験の差か。
どちらにせよ、嘗められたものであった。
︵余裕ぶっこいて居られるのも、今のうちだ⋮⋮
︶
未見の畏れに対して、身構えもしないのは、自信か、それとも淡島
く慌てる素振りが無い。
解放された畏れを一心に向けられている筈のぬらりひょんには、全
﹁ほう⋮⋮見事じゃのう﹂ のここを、異なる場所と錯覚させそうになる。
な香りの花々。フワリフワリと、体を包み込む風が、戦場であるはず
ふわりと、畏れが解放された瞬間、殺伐していた空気が変わる。雅
﹁女神の鬼發﹃戦乙女演舞﹄﹂
く。
怒りに目を染め、放出するばかりだった畏れが、一点に集中してい
れ、情けをかけられているとしか感じなかった。
ぬらりひょんにとっては本心だったが、淡島にしてみれば、嘗めら
﹁あまり⋮⋮娘子に手荒なことはしたくないんじゃがのぅ⋮⋮﹂
んは、溜息をついた。
期待していたわけではないものの、予想通りな風景に、ぬらりひょ
ていた。
考を巡らせていく。見渡す限り木しかない景色は良くも悪くも開け
素早く方針を定め、逃げるために素早く使えそうなものが無いか思
?
﹁⋮⋮なっ
﹂
一撃でけりをつけることを決意し、淡島は一気に攻勢へ転じた。
!!
だそこに立っていることしか出来ないはずだった。
それであるにも関わらず、ぬらりひょんは、己の舞に紛れた薙刀の
29
!
淡島の、女神の舞に目を眩んだ者は、誰でも動くことも適わず、た
!?
連擊に、合わせるように動き、受け流したのである。
﹁儂の明鏡止水と同じ、広域型の、牛鬼と同種の幻惑⋮⋮いや、この場
合は、魅惑と言うべきかのぅ﹂
しかもじっくりと観察した後、このような助言までしてくる程であ
る。
遠野の連中にとっても目の保養になるじゃろう
﹁戦いの技においてだけで無く、もう少し日頃の所作でも女らしさを
出したらどうじゃ
に﹂
﹂
!!!
した。
﹁⋮⋮ん
﹂
﹂
!!
︶
?
﹂
!!
に言いかかる。
﹁何のつもりだ
冷麗。邪魔すんじゃねぇ
つい遠い目をしてしまうぬらりひょんに構うことなく、淡島は雪女
︵雪女ってのは⋮⋮どいつもこいつも皆こうなのかい
にいる遠野出身の、容赦のかけらもない雪女を思い返した。
怒声と共に震われた強烈無比な一撃に、思わずぬらりひょんは本家
冷麗の怒声と共に、体半分を氷結させられた。
﹁あんたたち⋮⋮何やってんのよ
本意ながら⋮⋮迷い事無く、ぶつけようとして⋮⋮。
せ、淡島は迷うこと無く拳を⋮⋮獲物は薙刀一振りしかないので、不
やや、運に頼った結果となったが、それもまた実力と己に言い聞か
もと嘗められた怒り。
勝機を見いだした途端、淡島は早かった。女と侮られた怒り。子ど
気にぬらりひょんが劣勢となる。
それが、ぬらりひょんの着ていた着物の裾を突き刺してしまい、一
﹁しまった⋮⋮
﹂
怒りで冷静さを欠いた淡島は、勢い余って、薙刀を手から何故落と
﹁⋮⋮⋮このっ⋮⋮クソ野郎
その内容は、余計な世話の何物でも無かったが。
?
ぬらりひょんを鯉繋の父親と思っている淡島は、てっきり見回り当
!
30
!?
?
番の冷麗が、客分と、戦闘をしているという理由で、冷麗が止めに入っ
たのだと思ったのだ。
赤河童様がたとえ許したとしても、鯉繋の幼少期を知る分、淡島が
彼の父親に向ける怒りは強い。
これ以上鯉繋と同じ空気を吸わせることも、我慢できないというの
淡島
﹂
に、あまつさえ、無防備な寝顔まで見られて到底黙っていることは出
⋮⋮あなたこそどうなのよ
!!
なかった。
﹁何のつもり、ですって
!
﹁今の時間は、いつ
⋮⋮日が変わる間際よ
間際っ
﹂
としか言えないも
!!
鯉繋はいつもの場所にいる
ぶように答えていた。
﹁木の上だ
⋮⋮早く連れてけ
!!
﹂
!!
ろう。見る見るうちに顔は青ざめ、冷麗がふたたび口を開く前に、叫
の。しかし、いわれた淡島の方には、その意味が正確に伝わったのだ
その言葉は、ぬらりひょんからしたら、だから
!
今この場の主導権が、冷麗に渡ったのが、確定した瞬間である。
ていた。
ビクリと、思わず関係の無いはずのぬらりひょんまで背筋を伸ばし
?
ら消える。
おそらく鯉繋のいたあの樹木へと向かっているのだろう。しかし、
なぜあそこまで急ぐ必要があるのか。ぬらりひょんには分からない
ことだらけだった。
一体︶
︵単に怒るだけならあそこまで切羽詰まったような焦り方はしねぇ筈
⋮⋮何なんだ
への怒りだろうか。
ぬらりひょんに勝てなかった悔しさと、彼を倒せなかった脆弱な己
そこにあったのは、強い怒りと、悔しさ。
﹁てめぇ⋮⋮本当に何も聞いてねぇんだな﹂
⋮⋮己が撒いた、厄介な嘘を、この時ばかりはすっかり忘れていた。
この場所にいる淡島へ問いかける。
首を傾げるぬらりひょんだったが、やはり解明しないが故に、直に
?
31
?
?
冷麗の行動は早かった。一瞬の内に畏れで己を雪に変え、その場か
!
﹁聞いてない
﹂
気にかかった単語を繰り返すと、淡島はあぁと頷いて、ついで思い
出したように変わる。
﹁あぁ⋮⋮でも、あいつの話だと、確か産み落とされるまで、母親にも
気づかれていなかったって話だし、しょうがねぇかもしれねぇな﹂
まるでこちらを嘲うかのような言葉に、ぬらりひょんは、僅かに目
を眇めた。
あまり、コソコソと悪い噂をたてられるのは好きではない。無実無
根なら更にだ。
﹂
﹁要領を得ないな。言いたいことがあるならはっきりと言え。⋮⋮鯉
繋の何を聞いてないって
﹁⋮⋮呪いだよ﹂
﹂
!
︶
?
じゃいられねぇ
一日の4分の1、日が変わってから最初の6時間、
﹁4分の3しか妖怪じゃねぇから、あいつは一日の4分の3しか妖怪
た。しかし続けて淡島は言葉を続ける。
それがどういうことか、ぬらりひょんにはうまく理解できなかっ
︵その4分の1を⋮⋮持っていない
の構成の4分の1は、人間の筈である。
半妖である鯉伴と、妖怪である乙女から生まれた、鯉繋は、その体
ンマ数秒の間が必要だった。
その言葉を、純粋な妖怪であるぬらりひょんが、理解するには、コ
いつは⋮⋮人の体を持たずに生まれてきた
﹁あいつは、生まれながらに、京の狐からうけた呪いを持っている。あ
淡島は、雪女以上に、冷徹な空気を纏っていた。
下半身を凍りづけにされているのも、影響していたのか、この時の
?!
︵⋮ん
人間の体を持っていない︶
訪れる時間だろう。そこを責めてもしょうがないところだ。
一日の数時間、人間になる。それは血の混じるものなら、皆に平等に
吐き出すように言葉を投げる淡島に、ぬらりひょんは首を傾げる。
あいつは妖怪としての全てを失っちまうんだ﹂
!
32
?
⋮⋮では妖怪の力が無くなったとき、どうなるのだろうか。
?
その答が、冷麗のあの切羽詰まった反応では無いのかと。
﹂
⋮⋮だったら、何で今も生き続けてるんだ
﹂
鯉繋は一日
﹁単なる人間が、肉体無しで生きられるわけねぇの、分んだろ
﹁⋮⋮⋮っ
一回死んでんのかい
?
いのである。
﹂
だから、鯉繋は妖怪の道を選んだんだ。幽
うつしみ
!
⋮⋮何も
弱々しく震えている。
﹁あんたらは
﹂
淡 島 の 声 は、い っ そ 呪 詛 に 近 か っ た の だ ろ う。僅 か な 動 物 さ え、
﹁なのに、あんたらは⋮⋮何も知らないのか⋮⋮
﹂
畏れが無くなれば、出ることが出来ないだけで、死なないわけでは無
が、〝憑依〝は一度入ってしまえば、後は畏れを消費する事は無い。
〝現身〝は、畏れが使えなくなれば構成を維持できずに消滅する
〝。
正確には肉体を作る〝現身〝と、器物を自らの依り代とする〝憑依
ことが可能だった。
そう。だからこそ、鯉繋は遠野に来た当初から、畏れで肉体を作る
霊の力を使うしか、生き残る道が無かったからっ⋮⋮
﹁死んでたまるかよ⋮⋮
を倒した己から、始まったものなのだから。
るべき怒りの筈だからだ。その呪いはは、他ならぬ三百年前に羽衣狐
なぜならもし彼女が言ったとおりなら、これは正真正銘、己が受け
ぬらりひょんは目を背けなかった。
ギロリと、射貫かんとばかりの殺気が宿った淡島の鋭い視線から、
?
!
!
!!
それしか、今のぬらりひょんには出来なかった。
その呪詛が終わるまで、ぬらりひょんは微動だにしなかった。
!
33
?
!