PDF/614KB - みずほ総合研究所

 英国は「ハード・ブレグジット」へ
テリーザ・メイ英首相は、
1月17日に行われた英国の欧州連合(EU)離脱(ブレグジッ
ト)に関する演説において、対 EU 交渉の基本方針を表明した。英国の EU 離脱交渉開
始のトリガーとなる「離脱通告」は3月上旬にも準備が整う公算が大きい。いよいよ英
国・EU間の交渉が幕を開けるが、
交渉は難航が予想される。
要があった。その意味では、英政府が国民投票の意思
の一部である「移民抑制」を優先したことは、当然の
選択であった。
テリーザ・メイ英首相は、1月17日に行われた英国
「ハード・ブレグジット」
により、
EU域内市場への自
の欧州連合(EU)離脱(ブレグジット)に関する演説
由なアクセスが失われることから、在英企業の対 EU
において、対 EU 交渉の基本方針を表明した。首相演
ビジネスへの影響が懸念される。
一方で、
英国はEU域
説の骨子は図表1の通りである。
内市場への参加の見返りとして求められる EU 法の
首相演説の中で最も重要なのは、EU 域内市場へ
順守義務が無くなる。このため、自国の判断で EU か
の参加よりも EU 移民の抑制を優先する、いわゆる
らの移民流入を管理することが出来るようになった
「ハード・ブレグジット」を目指す姿勢を英政府が明
り、
EUへの予算拠出の必要が無くなったりする。
らかにした点である。同時にメイ首相は、英国が EU
今後の英国と EU の間の交渉における注目点は 2
と新たに「自由貿易協定(FTA)」の締結を目指す旨
つある。第一は、英国と EU の間の交渉開始のトリ
を宣言した。EUは「移民抑制」と「EU単一市場への参
ガーとなる、EU条約第50条に基づくEU理事会への
加」の両立を認めておらず、英国はどちらかを選ぶ必
離脱通告がいつ行われるかである。第二は、英国と
EU による FTA 交渉の内容や締結に要する時間、EU
側の反応といった交渉の行方である。
●図表 1 メイ首相演説のポイント
① EUからの移民数は制限する
② EUの単一市場からは離脱する
③ EUの関税同盟からは離脱する
第一の注目点である EU への離脱通告は、3 月上旬
④ 欧州司法裁判所の管轄からは離脱する
にもその準備が整う公算が大きい。英政府は、
「政府は
⑤ EUとの最終合意については議会で採決を取る
議会による立法無くして離脱通告を実施することは
⑥ EU予算の負担は行わない
出来ない」という最高裁判所の判決を受け「欧州連合
⑦ 英国内のEU市民、EU内の英国民の権利を保証する
(離脱通告)
法案」
を1月26日に議会に提出した。
法案は
⑧ アイルランドとの共通旅行区域(CTA)を維持する
既に下院を通過し、現在上院で審議中である。法案が
(資料)英政府より、みずほ総合研究所作成
下院を通過した時点で、今後、法案が否決され「離脱通
11
告」が取りやめになる可能性は事実上なくなった。上
院が法案修正を要求して、成立を遅らせることは可能
だが、
その可能性も低い。
交渉や、FTA交渉は難航が予想される。
例えば、英国にとって重要な国益の一つである金
融サービスの自由な EU 域内市場への参加について
2 月 8 日の下院決議では、与党保守党のほぼ全員に
は、フランスなど一部の国はEUにおける国際金融セ
加えて、野党第一党である労働党も約4分の3の議員
ンターとしての地位をロンドンから奪うために、国
が法案支持に回り、494票対122票の大差で法案は可
を挙げたキャンペーン活動を既に開始しており、容
決された。EU 残留を支持していた野党・労働党が法
易に賛成は得られそうにない。昨年調印された EU
案支持に回ったのは、EU 離脱が「国民投票で示され
とカナダとの包括的経済貿易協定(CETA)において
た国民の意思」であるためだが、国民投票で離脱に投
も、金融サービスのEU域内市場への自由な参加は認
票した選挙区出身の労働党議員も多く、議決に反対
められていない。
できないという事情もあった。実際、国民投票で残留
EU との FTA の交渉期間についても、英政府の目
に投票した地域選出の議員などを中心に 52 名の議
標より長期化する可能性がある。メイ首相は「2 年間
員は法案に反対票を投じた。
での大筋合意」を目指す旨を表明している。しかし、
805名の議員が所属する上院は、中立議員が178名
これまでEUが他国と行ったFTA交渉は4〜8年程度
いることから保守党は過半議席を占めていない。し
の時間がかかっており、上記のカナダとの CETA の
かし、中立議員を含む上院議員の多くは一代・世襲貴
ケースでは、交渉開始から調印までに 7 年を費やし
族である。選挙で選ばれない上院議員は、大勢とし
た。EU 懐疑政党が台頭する欧州主要国の 2017 年の
ては国民の代表である下院の決定を覆すことはな
選挙日程などを考えても、EU各国は英国に安易な妥
いと考えられる。一部議員が法案修正を求めること
協は出来ず、メイ首相が目指す 2 年間での合意形成
も予想されるが、サッチャー政権下で雇用相を務め
は困難で、かつタイトなスケジュールであると言わ
たノーマン・ファウラー上院議長は「(選挙で選ばれ
ざるを得ない。
た)下院の優位性を認識している」と述べている。英
FTA 合意が、離脱通告後 2 年間で大筋合意に達す
BBC 報道によれば、検討中の定数削減を含む上院の
ることが出来なかったり、移行期間に関する取り決
効率化議論が「政府の決定に従わなければ首を切る」
めが結べなければ、一時的に英国とEUの間には何の
という暗黙のプレッシャーになっているとの見方も
通商協定もない「空白期間」が生まれてしまうこと
ある。法案が下院に差し戻され、成立時期が遅れると
になる。その場合、両地域間の貿易は世界貿易機関
いった事態が起こる公算は小さい。
(WTO)のルールにのっとることになると予想され
上院でも法案が可決されれば、法案は国王の裁可
る。WTOルールとなれば、EUとの輸出入取引におい
を得て成立し、メイ政権はいつでも通告が実施でき
て関税が発生したり、通関手続きが復活したりする
る準備が整う。英政府は法案の上院での可決を 3 月 7
可能性があり、日本企業を含む在英企業への影響が
日にまでに行うことを上院に求めていることから、
懸念される。通告実施からはまだ 2 年程度の時間が
英タイムズ紙は、最速では、3 月 9・10 日の EU 首脳会
あるとはいえ、企業の投資判断は一朝一夕に下せる
合において離脱通告を実施することが可能と報じて
ものでもない。
「ハード・ブレグジット」への懸念が強
いる。
まる中で、在英日本企業も具体的な対策を考えねば
ならない時期に差し掛かっている。
みずほ総合研究所 欧米調査部
無論、離脱通告の実施は、英国が長く険しい EU と
の交渉のスタートラインに立つことを意味するに過
ぎない。
「離脱通告」実施後の英国・EU 間の脱退協定
12
上席主任エコノミスト 吉田健一郎
[email protected]