Hirosaki University Repository for Academic Resources Title Author(s) Citation Issue Date URL 古代日本における対唐観の研究 : 「対唐外交」と国 書問題を中心に 森, 公章 弘前大学國史研究. 84, 1988, p87-109 1988-03-30 http://hdl.handle.net/10129/3036 Rights Text version publisher http://repository.ul.hirosaki-u.ac.jp/dspace/ - 「 対等 外交 」 と国 書 問 題 を中 心 に- 公 章 国と の通交 の中心を成 した唐 に ついては如何 であ ろう か。 日本 の第 一吹 舌代 日 本 に お け る対 唐 観 の研 究 - はじめに 文化的 ・人的交流 の面など では膨大な研究蓄積 が行 われ '日本 と これら 争 レ礼 、不 レ宣 二朝命 .而還」 とあ り '彼 は使命 を 達 し得 ず '日本 は冊 勅 二所 司 一無 レ令 二歳頁 .」 と の記載 が見 え る 。 これ は毎年 朝 貢 '冊封 ( 51 体制 への編 入を前提 とした歳貢免除 と解 す る のが よ- '唐 は日本を 冊封 ( 6) しょぅ としたが '遣唐使帰国 ととも に来 日 し た唐 使高 表 仁 は' 「 与 レ王 遣唐使 ( 以下 '遣唐使 仰 ︹ 貯明2︺ の如 - '次数 ・ ( 任命 )年 次を 略記 ( 4) する) の来朝を記 した ﹃ 旧唐書﹄東夷伝倭 国条 には' 「 太宗準 一共通遠 . の国 々と の関係が解明され てき た 。 し かし'外 交 の システ ム面 '外交意 封を拒否 したも のと思われ る 。 したが って古 く から遣唐 使が注 目 さ れ' 古代 日本 の国際関係 にお いて主要な位置 を占 めた のは'朝 鮮諸 国 ( 令 識 、使人 の迎接 ( 賓礼) 、国書 '外交機 関 ・機 構 な ど t には、な お論 究 通交 の事実面 の解明が行 われ て いる割 には、日本 が唐 の冊封を受 けず ' 着実 な研究が行 われ てき た。例 えば本稿 の関 心 と関 わ る律 令 国家 の対外 分を占 め、史料も比較的豊富な ことから 、近年 ' システ ム面 にお いても いよう に思われ る 。特 に国書 不携行説 は、日本 の対唐外 交 の対等 性 と結 ・ J ・; び つけられ る ことが多- '本稿 で課題 とす る日本古代 の対唐 観 と関 係 す ても '遣唐使が国書を携行 したか否 かと いう点 の明快 な結論 は出 て いな も充分 ではな い。 また国際通交上 '両 国間 の意志 を 確認 す る国書 に つい 唐使来 日も殆 どなく '政治 ・外交上 の問題 が稀少 であ り'遣唐 使 の役 割 ( 7一 も文化面が強調 され るた めか'外交 の シ ステ ム面 で の研 究蓄積 は必ず し 樹海) と中 国諸 王朝 であ った。従来 '外交史 の分 野 では'通 交 の事 実 ' 不充分な点があ ると い って過言 ではな い 。 意識 に ついては'七世紀末 の律令 国家 成 立期 に'朝 鮮諸 国を 「 蕃 国」 ・ 私 は先 に外交 の場 での君主号 の検討 から、天皇 号 の成 立 に関 す る考察 ただ '上記 二地域 のうち'朝鮮諸 国 は、古代 日本 の国際 関係 の主要 部 服属国と見 なす意識が確立 Lt これが 八世 紀 の朝 鮮 と の通 交形態 を も規 ( -) . 定 した ことが指摘 され ており'また律令 国家 に変容 が見 られ る九世紀 以 ( 2) 降 に関 しても 、優 れ た考察が 口 重され て いる 。 そ の他 '賓 礼 や国書 の検討 ( 3一 など にも'堅実 な成果が見 られる 。 を試 み'日本 は対唐外交 に際 して'漢 語 の正式 な君 主号 たる天皇号を用 ると ころが大き い。 一方 、中 国、特 に今 日でも中 国=唐 と いう観念 が残 り'日本 古代 の中 87 日 し て いる 。 それ ら のうち、貯 明 四 ∼五年 の唐 使 高 衰 仁 は、 ﹃ 延書式 ﹄ 唐 から の使 人 は'百済鋲将 派遣 のも のを 含 め て'大 宝 以前 にも 四度莱 たが '今 のと ころ 一応見解を改 める必要 はな いと考 え て いる。但 し '前 玄書 式 の難波 で の案礼 の唯 一の実 例 であ る (﹃ 書 紀 ﹄ 貯 明 四年 十 月 甲寅 この点 に ついては何 人 かの方 から御 批判を賜 わ っ I 稿 で は'そ の点を 対唐 外交 のあ り方全体 の中 に位 置 づ け た訳 で はな いの 条 )が '既 に触 れ た よう に'彼 は使命 を 果 さ ず帰 国 し 、右 の記事 以 外 の 。 で'本稿 では'遣唐使盛行期 の八 ∼九世紀を中 心 に'外交 の システ ム面- 具体的 な賓 礼 は不明 であ る 。 また百済 の役 後 '天智 三年 郭 務 惰 '同 四午 た I・ . - J 唐 使 の案礼 '対唐 意識 '国書 問題 など - の検 討 に より '古代 日本 の対 唐 劉徳高 '同十年 郭務保 など の来 日が見 られ るが ' いず れ も具体 的 な案 礼 いていな い旨を述 べ 観 に 一考を試 み る次第 であ る。 記事を欠 いている。 したが って以下 では'宝亀 九年 唐 便 の検討 を中 心 に' 唐使 に対 す る案礼 を考 え る こと にな る。 唐 使 の例 から'そ れ は 「 蕃 例 」 =朝 鮮諸 国 の場 合 に准 じ たも のであ る と たが 'それ は朝 鮮諸 国 の便 人 の場合が中 心 で '唐 便 に ついて明 言 さ れ て ( 1 2) いる のは'管 見 の限 り では'石母 田正氏 だ け であ ろう。氏 は '宝亀 九午 「はじ め に」 で触 れ た よう に'近年 '案 礼 の研 究 も行 わ れ る よう にな っ 案礼 は 一国 の対外観を推察 さ せるも のであ り 'そ の検討 は重要 であ る。 無 また彼 らを送 るた めに遣唐 使 ㈹ ︹ 宝字 5︺が計 画 さ れ るが '結 局 「風波 ず '大宰府 で供給を受 けたに留 まる (﹃ 続紀﹄ 天平宝字 六年 正月 乙酉条 ) 0 魚袋 沈惟 岳等 九人水手 '越 州浦陽府 別将 腸 線 陸 張 什等 升 人 」 に ついて触 ︹ 宝字 3︺)高 元度を 送 って来 日 した 「押 水 手官 越 州 浦 陽 府 折 衝賞 紫 金 一、来 日唐債 に対す る膏 礼 見 '遣唐 使 仰 ︹ 大 宝 元 ︺ の目的を大 宝 律 令 制 定 告 知 のた め のも の'令 文 唐 国荒乱 により送使 を派遣 できな い旨 を 告 げ られ た彼 ら は'帰化 か帰 国 そ の検 討 に入 る前 に'天平 宝字 五年 八 月 ' 迎藤 原 河 清 使 ( 遣唐 使 ㈹ の天皇号 や公式令-詔書式条 集解 古記 の唐=隣 国観 は徐 々に唐 にも認 め かは各 人 の希望 に委 ね られ ( 同 七年 正月庚 申 粂 ) '帰 化 し た者 も多 か っ l便 」 た め渡 海 せず した日本 の主体 性 の 一端を 示す とされ た。 宝亀 九年 唐 使 は'大 宝 以降 で 条 の'唐便 の内 部争 いと日本 の対 応 に注 目 し た い。 この事 件 は'副使 紀 さ て' この便人 ( 水手 ) に関 し ては ' ﹃ 続 紀 ﹄ 天 平 宝 字 六年 五月 丁酉 ( 同 六年 三月庚 辰 朔 '四月 丙寅 '七 月是 月条 ) ' れ ておき た い。彼 ら は水手 であ り '正式 な唐 使 で はな - ' 入京 を 許 さ れ られ たとす る立場 と相侯 って'唐 を中 心 と し た国際 的 秩 序 の中 に留 ま り 唯 一の正式 な使人 であ り'唐便 の賓礼を考 える際 に、大切 な史料 とな る 。 喬容 以 下 三十 八人が大便沈惟岳 の臓 汗 を 訴 え '更迭 を 求 めたも の で、 日 3 1) ( た。 但 し'遣唐 使 派遣 目的 も含 め て'右 の石 母 田氏 の理解 には同意 し難 い点 なが らも ' 「 小帝 国」 として朝 鮮 に対 す る優 位 の黙 認 を 唐 に求 め よう と があ る ので'本章 で は'まず唐 便 に対 す る賓 礼 を 検 討 し' 日本 古代 の対 本側 は'大宰府 も臓 汗 の事 実 ( 内容 不明 )を 認 め て いるが '中 央 は 「 報 ( 4 1) 目。大使副使並是勅使謝時 和 与 二蘇州刺史 .相量所 レ定。不 l可 二改張 ご 唐 観 を考 え る手懸 かり とした い。 88 と いう判断を示す に終 ったと いうも のであ る 。 つまり中央 は唐使 の内部 11月 19日 大宰府 に労問使を派遣 17目送唐客使任命 /唐使趨宝英 に絶 八十 匹 ・綿 二百屯を 曙贈 12月 15日 唐客 入朝 に備 え左右京 に騎兵 八百人を差発 使 の内部争 いの場合 は' 「 太政官処分。樹海通事従 五位下高説昌。遠捗 二 26 日 唐客拝朝儀衛 に陸奥 ・出羽蝦 夷 二十人を追 す る 争 い への関与を避けたと言え よう 。 一方 '宝亀 十年十 一月 丙子条 の樹港 槍波 (数廻入朝。言思忠勤。授以 こ高 班F次 二彼鉄利之下 F殊非 二優寵之 ( 宝亀 10年 ) L と、中央 の介 入が記 され て いる 。 意 7宜,異 二其列位 (以顕 .品秩 4月 21日 領唐客使 より唐客領送 に ついて質疑 があ る b この場合 、高説昌が日本 の官位を持 って いたので介 入したとも解 し得 る 30日 唐客入京 、騎兵 二百 ・蝦夷 二十 人が 迎接 5月3日 唐客が唐朝書 ・信物を上 る が 、やはり外 国使 の内部争 いに関与す る のは、先 の唐使 の例 と比 べて' 著 しい相違 であ ろう。 20日 右大臣大中臣清麿第 にて賜饗 17日 朝堂 にて腸宴 '唐客 に授位 ・賜禄 慮を加えていた ことを読 みとりた い 。 このような予見を持 って、次 に宝 25日 唐客辞見 、臣下 による腸壁 、唐 客 に賜物 したが って私 は、以上 二例 の対比 から、日本 は唐使 に対 し て 一定 の配 亀九年唐使 の賓礼 の検討 に進もう。 27日 唐客帰国 勧海使が 、正月 l目∼二月 二日 に入朝 したた めであ るが 、日程上 は唐使 遣唐使㈹ ︹ 宝亀 6︺は、渡海以前 に副使 の交替 や大使佐伯今 毛人 の柄 による下船があ り、帰路も第 四船 は耽 羅 に漂着 し抑留 され '新羅 により 5 1) ( 帰路溺死) 救出されるな ど 、波潤 に富むも のであ ったが 、副使小野石板 ( の正月入朝も可能 であ った。 この点 に関 しては、川唐使 の正月 入朝 ・拝 賀を 回避 、何樹海使入朝 との重複を 回避 、と いう可能性が考 えられ るO この中 で宝亀十年 の年頭記事がな いのは、前年 九月 二十 一日 に来 日 した を送 って来 日した唐使趨宝英 一行 のう ち、宝英を含 む 二十 五人 は途次 に 溺死 し ( 宝亀九年十 一月乙卯粂) 、絶 か に判官孫 興進 、秦付心 期 の 一行 だ 6 1) ( けが 入京 し た 。 但 し、新羅使 に付 いて入京 した例 であ るが '今 回 の唐 使 の 一行 であ る判 7 1) ( 正月 己 巳条 ) の 官高鶴林 ら は 、宝亀十 一年 の正月拝賀 に参 列 し て いる ( で、伸の見方 は成立し難 い。そ こで'他 に例 はな いが 、仲 の蓋然性が高 まず日時を追 ってこの時 の賓礼を瞥 見す ると、次 の通 りであ る ( 出典 は ﹃ 続紀﹄当該条)0 鮮諸国とを同 1に扱う ことが できな か った のであ るま いか。 この点 は、 国使全般 に対す る普遍的賓礼が欠如 して いた ことが窺 われ ・特 に唐 と朝 複数講書 の入朝が通常 であ った。 l方 、仲 の見方 に立 ては 、日本 では外 いと考 える。後述 の唐 における争長事 件を例 に出す ま でもな- 、唐 では 遣唐使第 三船が帰着 ( 宝亀9年) 10 月 22 日 28 日 第三船寄乗唐使 には大宰府が使者 を派遣 し て労問 <この間 、他 の三船も帰着 > 89 先 の外国使 の内部争 いに関す る私見 とも合 致 す る。 さて'話を賓礼 の流れ に戻すと'賓礼 の基調 ( 到着 地 '入京時等 の各 々 る日本側 の意見対 立も窺 われ 'やはり 「 蕃 例 」 と同 じ であ ったと は考 え 難 い。以下 'そ の点 に言及 した い。 小野滋野が '帰朝報告 の後 ' 「 但今唐客隔 レ臣 入朝。迎接担 供。令 まず ﹃ 続紀﹄宝亀 九年十月 乙未条 で は'遣唐使第 三船 で帰朝 した判官 者 例 ¶臣具牒 二大宰府 「仰令 二准擬 「」 と言 上 し て いる 。 この場合 '何 ( 22) の場面 に応 じた迎接 と使者 の派遣など) は朝 鮮諸 国 の場合 と差 異 はな い と言 ってよかろう 。も っとも ' この点 は'日本 の賓礼 は '遠隔 使小 野妹 不明 で'また 「 牒 二大宰府 二 とあ る点 から'大宰府 の安置 ・供給を 「 令 大 丞 )が案礼 に ついて意 見を 述 べる ことが でき た か レ同 二 子が将来 したと推定 される'隅 の礼書 ﹃江都集札 ﹄ により中 国風 の礼 と t tI して確立 したとされ '推古十 六年隔使 と同十 八年 新羅 ・任 那使 の賓 礼 の r 19) 基本型 には共通性が窺 われ る ことなど からす る と'当 然 とも 言え る 。但 レ同 二審例 .」と求 めたとも解されるが ' 「迎接担 供 」とな ると'やはり 賓礼全般 とも考 え得 るので'案礼全般を 「同 二審 例 二 と求 めたと の理 ( 23) 解も可能 であ る 。 故滋野 ( 本官 は勅旨 し'難波 での迎船 は'隔使=三十艇 -新 羅 ・任那使 = 各 一腹 かt と いう 明 であ るt等 の差異 は存 した 。 一方 '今 回 の唐 使 には授位 ・賜禄 ( 詳細 では'今 '後者 の理解 に立 つとし て' 「同 二審 例 .」 と いう滋野 の意 賓礼規模 の差 '新羅 ・任那使 には賜禄 が 見 え る のに'惰 使 にはそれが 不 不明)も見 えているLtまた賓礼規模 の点 で は'和銅 七年 新 羅使 の例 は ついて'領客使 は' 「 唐使之行 。左右建 レ旗 。亦有 レ帯 レ仕 。行官 立 二 見 は実 施され たであ ろう か。宝亀十年 四月辛 卯 条 には'領唐 客使 より磨 の他 に数量的比較 のでき る事例がなく 、 や や不安 は残 るが '朝 鮮諸 国 の ( 20) 例 と の差異 はな いと見 てよ いであ ろう 。 な お'死去 し た大使 への賠贈 例 旗前後 ].臣等捨 二之古例 ¶末 レ見 二斯儀 ].」 と不審 を表 明 す るが '中 央 差発騎兵九 百九十人 '蝦夷上京 '入京 時 の迎接 騎兵 百七十 騎 であ り ' こ には ' ﹃ 続紀﹄大宝元年 正月戊 子条 の新 羅大使 金 所 毛 が あ り '絶 百 五十 は 「唯聴 レ帯 レ仕 。勿 使 の進退之礼 ・行列之次 に関 わ る質疑 が 呈さ れ て いる 。 まず唐使之行 に 疋'綿九 百四十 二斤 '布 百段が贈 られ て いる (いず れ の例 も '喪葬 令 5 時 の礼 に関 して'領客使 は遣唐使 仰 ︹ 大 宝 元 ︺ の長安 入京 の際 の例 '釈 年隔使 と同十 八年新羅 ・任那使 の使旨奏 上場 面 には '立礼 ・四拝 -脆 伏 に同 じと見 てよいのであ ろう か。先 に二 っの予見を 示 したが '推古十 六 では'以上 の点 から'唐使 の扱 いは朝 鮮諸 国 に対 す る賓 礼 = 「蕃 例 」 ぅ。 また朝鮮諸国 の使人 の領客車 の様 子が わ かる例 はな - '入京時 の詳 柄 は'まず唐客 の領 送 ・迎接 に定 例がな か った ことを 示す と見 てよ かろ 別式 ¶今下 二便所 ¶宜,接 二此式 .勿 .以遠失 准拠す べき かを尋ねたのに対 して'中央 は 「 進 退之礼。行 列之次。具載 二 羅 王子金泰廉 ( 天平勝宝四年 ) や樹海 使 の入京 例 な どを掲 げ 'ど の例 に レ令 レ建 レ旗 。 」 と いう妥協案 を 示す。次 に入京 職事官条 の規定 より大幅 に多 い)0 礼 ・再拝 と いう差異が存 Lt隔使 には脆伏礼 と いう日本古来 の敬 礼 方式 ・ ∵1、 を要求 していな いと いう 1定 の譲歩が見 ら れ た。 それ と同様 '実 は今 回 細 に ついても '本件 の場合 は ﹃ 続紀﹄ に具体 的 な記載 が な いので'別式 ; 」 と答 え た。以上 の事 の唐使 にも '使旨奏上場面 に重大 な差異 が存 す る 。 ま た室 礼 方法 を めぐ 90 なる賓礼 で対処 した ことを物語 り、今 回 の唐使 の扱 いに関 し て、日本側 野 や領客使が 「 蕃例」 に准拠 しょう と した の に対 し て、中央 はそれ と異 迎え よう としたと考 える ことが でき る ので はあ るま いか。 つま り小 野港 な か った点等 から'中央政府 は今 回 の唐 使 を 「 蕃 例 」 と は異 な る賓礼 で 斯儀 t」とした帯仕 を認 めた点 '入京 時 の礼 を朝 鮮諸 国 の例 に依拠 でき の内容 や朝鮮諸国 の例 との相違などは不明 であ るが 、領客使が 「 未 レ見 . 一 唐開元礼﹄巻 二 元 「 皇帝遺 レ使詣 レ音 量労 」 の'使 人 が南面 Lt北 面 た 「 帝国之儀 」 に ついて、天皇が 「 遂隆 二御 座 二 とあ る占㌫ ら 、 ﹃ 大 史料 は 「 余」 の 「 憤欝」 に注目 し'彼 我 の対等 を期 す 日本 の外交態度 杏 ( 25J 示すも のとして利用されてき たが '最近 、田島 公民 は、 この時日本が と っ 日本 の方が皇位安定 ・民衆従順 であ る 、と いう具合 であ る。従来 、 この 石上大朝 臣賜姓 、同十 一年 二月 丙申 朔条 で大 納 言 ) '史料中 の 「余 」を 上宅嗣も宝亀十年 五月 には中納言物部 宅 嗣 であ り ( 同年 十 !月 甲中 条 で した蕃主 に使旨を告げ る形式が とられ た のであ ろうと L t この時 の賓礼 ( 26) ( 27) を窺わせるも のとして紹介され た。勿論 '本 史料 は現 在 伝存 不明 で'石 の意見対立 の存在を窺 わ せると見 る のであ る。 書 ) そ の点 に関連 して'次 の史料 に注 目 した い。 ( 4 2) 田島氏 は、賓礼総括老 ( 式部下式 に 「 受 二審 国使 及信物 ご 、「 腸 二審 国 ( 大沢清臣本 壬生家文 ( 上略)維宝亀十年歳次 己末 四月 升 目 、唐 国使 孫 興進 等 入 レ京 。 五 使宴 .」等 の規定があ る) と いう観点 から か、式 部 脚藤 原是公 に比定 さ ㈱ が記 され '先生 は 日本 は中 国 から礼 教 を 習 った の で '中 国 に対 し て この史料 の上略部分 には'石上宅嗣を 指 す と思 われ る儒林先生 への反請 柳 緯二此論 一重 二示後 尾 ¶ 外 一( I使 丁欲 レ隆 二万代梧定 天子之 号 t.是大 不忠 不孝 之 言也 。 時人 ︹ □ロ ロロ︺ ︹ 彰︺ 皆服 二此言之有 戸理。然遂隆 二御 座 り鳴呼痛哉。不レ任 二憤欝之懐 I. .此 忠 臣 義 士之志 也 '今 田 Kl .港 君之上 (不,以 二大小強 弱 .而推 謝 . 相如 叱 二秦王 の 後者 の立場も かなり の支持を得 た ことが わ かる 。 つま りそ こには、日本 客使 の進言 に対する中央 の態度 と符合 して いる 。但 し'本史料 によると' 結局 は前者 の意見が採用され たと いう こと であ る 。 これ は先 の滋野 や領 つまり唐使を 「 蕃 国使 」として扱 う べき であ ると いう立場を と ったが 、 之儀」を とるべき であるとした のに対 し て' 「 余 」 は 「蕃 例 」 と同 じ、 如実 に示すも のとして用 いてよ いと考 え る 。 即 ち '宅嗣 は日本 が 「 藩国 史料 は今 回 の唐使 の賓礼を めぐ って、日本 側 に意見対 立が あ った ことを い。 しかし、朱 の小野滋野 や領客使 と中 央 と の意見 の相 違 と合 せ て、本 れるが '彼 と本史料 の成 立 や伝来 との関 係 は不明 であ るt等 保留点 は多 月三日将 レ欲 l 一礼見 「余奉 レ勅 撰 二朝儀 1時有 二大納 言 石上卿 二 一 一 ロ ︹ 伸︺ 備 '彼大此小'須 レ用 二藩国之儀 ¶余対 日、昔仲尼辱 二斉侯於爽谷 .. m L租し 沌 池 r自 レ古 以来 '賢 人 君子 '皆 欲 レ致 二己 君於 他 「 藩 」 と称す べき であ る'㈲中 国 は強 国 な ので'畏怖 す べき であ る t は唐 の 「 蕃 国」な のか、唐 も 日本 の 「 蕃 国」 と し て扱 う べき な のかと い 於 中 国 から風を習 ったので'致敬 す べき であ ると言 うが 、回礼 を 習 った か ぅ二 っの対唐観 の存在が読 み取 れる のではあ るま いか。 ㈲ 以上 、本章 では'宝亀九年唐使 の賓 礼 を中 心 に'唐使 に対 す る賓礼 に らと い って'臣 と称す る必要 はな い' 中 国 は常 に皇位 不定 で、来 意 の 畏れ はな い'何中国 は殿周以降 は革命 は かり で'師範 とす る に足 らず 、 91 「 巽聞 二大国維新之化 .」と卑下 して いる点 な ど に窺 われ '唐使 に対 す 条 の階便と大王との相見場面では'大王は 「 我夷人」'「不レ聞 こ礼鶴 .」' 日本 の請書 として扱 う べき か ( 日本中 心主義 ) t と いう 二 つの立場 の存 検討を加 え'日本が唐 の話者 としてふる まう べき か ( 事 大 主義 ) '唐 も 必ず しも対等外交 を示す とは言えな いよう に思 わ れ る 。 また 「 隣好 」 の語 は'日働交渉 にお いても彼 我 の国書 に散見 し ており ' こと (﹃ 続紀﹄宝亀 九年 十 1月 乙卯粂 ) と合 せ て'日唐 間 の対等 外 交が ( 31) 勅 日本 国 樹 立された ことを物語 ると の見解 も皇 され て いる 。 し かし' 「 ( 32) 王書 」 は'唐 の国際文書様式 では 「 勅 某 王姓名 」 とな る筈 で'別稿 で逮 3 3) ( べたよ う に '決 して天皇号使用 やそ の東認を意味す るも のではあ るま い 。 理解 に立 つ論者 からは'宝亀九年 唐使 が 「 結 二隣好 .」 た め に来 日 した か ったかと思われる 。 一方 '平野邦雄 氏 は'日本律令 の法 理上 は唐 も請 も 'それ は直接唐使 の耳目 には達 して いな いと思 われ る 。 し たが って古 感 じ ており'宝亀九年唐使 の場合 '日本 中 心主義的 立場 の主張 と い って 私 は前章 の考察 から'対唐外交 の対等 性 と いう立場 一辺 倒 には疑 問杏 寅礼上 の譲歩 や' ﹃ 書紀﹄ は階を 「 大 国 」 と記 し' ﹃ 隅書 ﹄東 夷伝 倭 国 在を抽出 し得 たも のと考 える 。 これら のう ち '前者 は既 に晴 使 に対 す る る中央政府 の態度等 にも見出され るので'あ る程度 伝統 的 なも ので はな 蕃 であ るとLt国史 に唐 を 「 蕃 」と記 す 例 (﹃日本 紀略 ﹄延 暦十 四年 七 ( 8 2) た 。 しか 代 日本 の対唐観 の検討 に当 た っては'そ の作 動 の範 囲 も考慮 す る必要が 月辛 巳'同十七年 六月戊戊条 )が存 す る ことを以 て証 左 とされ し'唐を諸薯 とす る見方 だけ では 一面的 であ る こと は'宝亀 九年 唐 使 の あ ると考 えられ る。本章 では'まず唐 の対 日意 識 の考察 から始 めた い0 (﹃ 東大寺要録﹄巻 一所引 「 延 暦僧錠 」 )・ 「困声 彼 君子 」 ( 同 '玄宗 の 「 彼礼儀国 」 (﹃ 曲江集﹄巻七 ・同㈲ ︹ 天平 4︺ ) '「 有義礼儀 君子之 国 」 儀敦行。 」(﹃ 続紀﹄慶雲元年七月甲申朔粂 ・遣唐使 仰 ︹大宝元︺の報告)' ・ 1君子国 は' 「 東聞。海東有 二大倭 国 「謂 二之 君 子 国 ﹃人 民豊 楽 。礼 域 とな る 。以下 '各 々に検討を加え てみた い。 ‖大 国 ∵ 川請書 ・朝貢 国 ∵ tV絶 唐 の対 日意識 は大別 して' ・1君子国 '︰ - 唐 の対 日意識 る手懸 かり にな ると考 えるから であ る 。 け とられ ていたかを知 る ことが でき '日本 の対唐 観 の 一端 を 明 ら か にす そ の検討 により'日本が如何 な る主張 を行 い'そ れが唐 にど のよう に受 賓礼を めぐる争 いの結 果を見 れば '明 ら かであ ろう 。 ま た唐 を請書 とす あ る 。 る立場が '律令 国家当初 から のも のか否 かも '事 大 的 立場 と の競 合 と令 9 2) ( そ して'そ れ は日本 の対唐外交 の対 等性 せて'再検討す る必要が 要求 や国書 問題 とも関 わ る論点 であ る。次 章 で は'以 上 のような 二 つの 対唐観 の形成過程 やそ の発動 の場など に ついて考察 を試 みた い。 二へ律令国家におけ る対唐観 の形成 天平八年 '唐 は遣唐使 ㈲ ︹ 天平 4︺ の副使 中 臣名 代 の帰 国 に際 し て' 「 勅日本国王主明楽美御徳」の国書 を付 した (﹃ 唐 丞相曲江張先生文集 ﹄ ︹ 以下 ' ﹃ 曲江集﹄ と略す ︺巻 七)。 この 「主明楽美御 徳 」 に ついて' ( 0 3) れ ' この 石母 田正氏 は令文 の天皇号が唐 に東認 さ れ た ことを 示す と解 さ 92 副使大伴宿祢古麻呂自 二唐国 一至。古麻 呂奏 日。 (中略 /元日朝賀) 定 日。以 「送 日本使 」詩) ・ 「 服 二聖人之 訓 t.有 二君子之 風 .」 (﹃ 文 苑英華 ﹄ 国上 ¶古麻 呂論 日。自 レ古 至 レ今 。新 羅之 朝 二貢 日本 国 .久臭 。 而 F以 二新 羅使 .次 二束畔第 一大食 巻 二六八王椎 「 送 三秘書晃監 ( 阿倍仲麻 呂)還 二日本 国 .井序」 ︹ 以下 ' 今 列 二束畔上 「我反在 二其下 り義 不 レ合 レ我次 二西畔第 二吐蕃下 王経 の詩 と略称 ︺'以上 、同郷 ︹ 勝宝2 ︺) など と見 え るも ので'従来 古麻呂 不 レ青色 F即引 二新羅使 J.次 二西畔第 二吐書下 ¶以 . 一日本使 一 レ得 。時 将 軍呉懐実 見 二知 は これら により'唐 の日本 に対 す る隣 好観 や日本 の国際 的 地位 の高 さ杏 ( 34) 唱える見方が有力 であ った。 しかし'同様 の表 現 は' ﹃旧唐 書 ﹄東夷 伝 次 二束畔第 一大食 国上 ¶ ① ﹃ 東大寺要録﹄巻 一所引 「 延暦僧録 」 新羅条 、 ﹃ 三国史記﹄羅紀孝成 王二 (七三 八)年 二月条 の 「 新 羅号 為 二 君子之 国 t.頗知 t 一書記 ].有 レ類 二中 国 .」 '同景 徳 王十 五 (七五六)午 復 元 日拝朝賀 正。勅 二命 日本使 .可 この事件 に関 しては'当時新羅使 の入唐 記事 が見当 たらな い点など から' ( 37) そ の信悪性を めぐ る論争があ るが 、日本 の対外 観 や唐 の認 識 に関 す る日 レ於 二新 羅使之 上 ¶ 二月条 の 「 興. 二言名義 国 .」 ( 玄宗 の詩 )'﹃ 唐 大 詔令 集 ﹄巻 二 一 九大 暦 「 用 二審君子之風 二 '「 償 二東方君子之 国 .」な ど と'新 羅 にも用 いら 本 の理解を知 る上 では'㊥ ・④ は利用 可能 と思 わ れ る ので、そ の立場 で ≡ ( 七六八)年 ' 「 冊新羅 王金乾運 ( 恵恭 王)文 」'「 冊新 羅 太妃文 」 の れ ている。 したが ってこれら の表現 は '全 -実質 を伴 わな いも のであ っ 考察 を進 める。 この事件 は元 日朝賀 の席次 争 いであ るが o そうす ると' ㊥ ・① の場合 '唐 は日本 の席次を明確 に認 識 し ておらず '日本 が新 羅 に 巻七九蕃主奉見 「 若更有 二諸蕃 t以 二国大小 .為 レ叙。」) 長事件 は'蕃国間 の臣属 ・朝貢関係が反映 さ れ て解 決 に到 ると考 え られ 8 3) ( てお り '唐 も諸審問 の大小を認識 し て いた よう であ る (﹃ 大 唐開 元礼﹄ 唐 は日本使人 の指摘 で初 めて席次を改 めた点 であ ろう 。 一般 に唐 で の争 重要 な のは、 たとは言 わな い- ﹃ 旧唐書﹄東夷伝 日本 国条 の遣唐使 冊 ︹ 大 宝 元 ︺栗 田 「多 二珍物 二 以敬 真人 の評価 (「 好 レ読 二経史 ].解 二属 文 「容 止温 雅 」)等 Iが '多 分 に 5 3) ( り '日本 のみ に対 す る積 中国 の伝統的な東方 君子国観 によ ったも のであ 極的評価 と見 る ことはできな いであ ろう 。 レ倭為 二大 国 惰書﹄東夷 伝 倭 国条 ) ' 仲之 '恒通 レ使往来 」 (﹃ 時 ま でに数次 の遣唐使派遣があ りなが ら'日本 次 に︰ 〓大 国 は'回 「 新 羅 '百済 '皆 以 レ大 」 ( 王椎 の詩 )など に窺われ 、日本 の朝 鮮諸 国 に対 す る 「 小帝 国」 ( 6 3) た 。 しか ㈲ 「海東之国日本為 たるの地位を中 国王朝が公認 して いた ことを 示す と解 さ れ てき を物語 るも のではな いと考 えた い は この争 長事件 により生 まれた = 「 大 国」観 が唐 に認 識 ㈲ で'日本 = 「 大 国 」観 の存 続 ・定着 も の r 40 ) 。 対 する 「 大 国」 であ ると いう観念 もな か った こと にな ろう。 即 ち 、 この し'回 ・㈲を そ のような積極的評価 と結 び つけ てよ いのであ ろう か。 され て いな か った ことは'遣唐使 の目的 に 「小帝 国」黙認 を得 る ことが 9 3) ( あ ったとす る 立 場 の論拠を失 わ せる ので ほあ るま いか。 の王経 の詩 句 右 のうち、㈲ は阿倍仲麻 呂が帰国を 企図 した遣唐 使 肌 ︹ 勝 宝2︺ の際 のも ので、 この遣唐使 は唐 で争長事件 を 起 こした こと で著名 であ る。 ㊥ ﹃ 続紀﹄天平勝宝 六年 正月丙寅条 93 因みに'回 の 「 大 国」 に関 しては' ﹃ 新唐 書 ﹄東 夷 伝 目本条 の高 宗壁 人 -」 の句が あり' ﹃ 唐会 要﹄巻 一 〇〇 聖暦 三 (七〇〇)年 三月 六日勅 のタイプを抽出 し' 「 新羅\ 」 3の ノ如 き は唐 の冊封 下 の国 ' 「日本 国」 の如 / 4 \ き は絶域 の国 であ るとされた。事 実 '壬経 の詩 にも 「伝 二道経 干絶域之 吉 による新羅救援命令 ( 永徽 五 ︹六五 四 ︺年 ) の際 に'唐 によ って否定 1 . 11 4; されたとの見方もあり' 「 大 国」 は唐 の意 向 に左右 さ れ る相 対的 な も の レ給 料 ' 各依 レ式 」 によれば '日本 は正 に. Ⅳ絶 域 であ った 。 「 東 至 二高麗国 「 ( 中略)並為 二人蕃 ).以外 為 二絶 域 (其使 応 であ った。また唐 は席次 の上下 により '同 地域 の諸 国を 互 いに牽 制 さ せ ( 2 4) 大 国」表 現 を 「 小帝 国 」黙 認 に ようとしたとの指摘 も行 われ て お り ' 「 次 にそ の絶域 の国たる日本 に対す る唐 の認 識 ・関 心を整 理 し ておき た い。結論 から言えば '少 なくとも八世 紀 以降 にお いては'唐 の日本 に対 つなげ る ことは難 し いと言わねは な るま い。 以上 '諸先学が唐が 日本 の地位を肯 定 的 に評価 し たと見 る論拠 とさ れ す る関 心 は薄く' 情報 も不充分 であ った。例 えば ﹃旧唐 書 ﹄東 夷 伝 日本 ﹃故中 国疑 蔦。」 てきた -君子国丁 目大国が'必ず しも積極的評価 ではな いことを述 べた。 i大 ' 不 二以 i夷 対 国条 冒頭 には' 「 其人入朝老多自衿 ﹃ 障害﹄ では日本 は 「 蛮夷 」 とさ れ ' 「以 二王慕 一 とす るならば '結局 '唐 の対 日意識 は︰ Ⅲ諸 蕃 ・朝 貢 国 の域を 出 な か った のではあ るまいか 条 )。 また遣唐使 に付 され た唐 の国書 や唐 皇帝 の勅 にも ' 「 或 巳達 二彼 「( 倭 壬が)遠修 二朝貢 一」 の句が あ った (﹃ 書 紀 ﹄推 古 十 六年 八月 壬子 又妄 李 二其 国都方数千 里 ¶」 と記 され ており'唐 には日本 の国号変 更事 でも '国号変更事情 の諸説を掲げ た後 に' 「 使者 不 る こと への コメソ-と見 るのが よいであ レ化 '故 遣 二使 人 .来 レ此 宣諭 」 た め に来 目 し た装 世 清 の国書 に は ' と の記載が見 える。 この部分 は'日本使 人が尊 大 にふるま った と解 され ( 4 4) てき た が ' やはり直前 の倭 国 から日本 国 への国号変 更事 情 が 不明瞭 でめ 5 4) ( ﹃ 新唐書 ﹄ 東夷 伝 日本条 蕃 ]」 (﹃ 曲江集﹄巻 七)'「 卿等 衝 二本 国 王命 二 速来 朝 貢 。」 (﹃ 後紀﹄ 情 や地理など に疑問が残 って いた のであ る 。 ま た この点 は日本 の国情 に ろ う 。 延暦廿 四年 六月 乙巳条 )など の句が見 え '遣唐 使 仰 ︹承和 元 ︺が 「 朝貢 際 の争長事件 '皇帝 死去 の際 の挙京を 「 其 諸蕃 三 日」 の規定 で行 った こ 之中 '倭客最勝 」 (﹃ 書紀﹄斉 明五年 七月戊 寅 条 ) '先述 の請書 朝 賀 の る 。そし て'⋮ 川は日本及 び遣唐使 一行 も充 分 承知 し ており ' 「所朝諸蕃 変更事情 への疑問 に対応す ると思 われ るが ' こ こで は 「霊亀 元年 調布 」 人亦疑 三共偽 二此題 ご と の コメソ-を掲 げ て いる。 「亦 」 は先 の国号 教授された際 の束修 に潤幅布を贈 った旨を記 し' 「 題云 i以 i情 '故 疑 蔦 0 使 」と見なされ て いた ことは' ﹃入唐 求 法 巡礼 行 記﹄ の記述 に明白 でめ も該当 Lt ﹃ 旧唐書﹄ には'遣唐使 ㈲ ︹霊亀 2 ︺が 四門助 教 から儒教 を ︹ 霊力︺ ' 白 亀 元年 調布 。 と (﹃ 後紀﹄延暦廿四年 六月 乙巳条 )な ど は'そ の点 を如 実 に物 語 るも 制定告知 のた めに派遣され たとす る見 と言 え るのではあ るま いか。 この点 は'遣唐 使 冊 ︹ 大 宝 元 ︺が大 宝律令 7 4) ( 方 に有 力 な反 証 が 呈 す る の であ ろ の存在が疑 われ ている。 これ は年 号 よりも ' 「 調布 」 と いう律令 制的 収 ( 46) 取 の存在を疑 ったと解 す ると'唐 は日本 の律令 制 施行 な ど知 らな か った のであ ろう では'そ の請書 ・朝貢国たる日本 に対 して'唐 はど のような意識を持 っ ていたであ ろう か。金子修 一氏 は'唐 代 の諸蕃 国名表 記 に ついて' 二 っ 94 ぅ。そ の他 '先述 の争長事件 の際 の'日本= 「大 国 」観 の欠如 も '日本 ( S ・ ) 朝鮮諸 国 と の国際関係と の関連を有 し て いた。 そ し て,百済 の役 敗戦後 .」とあ る (﹃ 新唐書﹄ 遭 レ使賀 も'遣唐使㈲ ︹ 天智8︺が 「 あ る。 しかし'そ の後 三十余年 を隔 てて再開 され た遣唐使 仰 ︹ 大宝元 ) レ平 二高 麗 の外交 のあ り方 に ついての認識欠如 の例 と し て、付 け加 え る ことが でき 東 夷伝 日本条 ) よう に'国際情勢 を考慮 し た遣使 が 行 われ て いたよう で - ) る0 」 ( 48 礼 以降 には'そ のような関係 は見出 し難 い。 そ れ故 に'大 宝以降 にお いて 以上 '唐 の対 日意識 に検討を加 え'唐 は日本を絶域 の 「 化 外慕 唐 は日本を冊封 しな か った- の朝貢国 '諸 者 の 一っと し て遇 したと の結 は'唐 の対 日意識も上記 のようなも の にな ったと考 え る のであ る。 2 日本 の対唐認識 とそ の形成過 程 唐 の対 日意識 に対応す る日本 の対唐観 に考察 を加 え た い。 そ こで、次 に大宝以降 の日本 の対唐認 識 の検討 に進 み、以上 のような 論 に達 した。そして'絶域 の国たる日本 に対す る関 心'情報量 は少 な か っ レ艶 二 た。 奉 因み に、百済 の役以前 の遣唐使 は'遣唐使 ㈲ ︹ 白 雑 5︺が 「 「皆 随 ︹ 斉 明 5︺が 「天子相見 問 レ是東 宮 監 門 郭 丈 挙 悉 問 二日 本 国 之 地 理 及 国初 之 神 名 天子 「於 レ問而答。 」(﹃ 書紀﹄白雑五年 二月条)'同 価 た在唐中 の詩文 ではあ るが ' 「 戎蕃預 二国親 .」 (﹃ 懐 風 藻 ﹄ 釈弁 正 ' 本節 では、まず唐 に対す る日本 の自 国意 識 の検 討 から始 める。前節 で 風俗を聞 いた文帝 が 「此大無 二義 理 「於 遣唐使仰 ︹ 大宝元 」 ・李隆基 ︹ 玄宗 ︺ の碁友)、「 我是東番客 '懐 訊之。 ( 下略 /天皇 ・臣下 ・人 民 の安 否 '蝦夷)」 ( 斉 明 五年 七月戊 寅 の風俗記事 -来 日隔使 の報告 もあ ろうが - には'冠位 十 二階 を始 め' か 聖唐 二 ( ﹃ 凌雲集﹄菅原清公'同順 ︹ 延暦 20︺)など の句が見 え ている。 見 たよう に'日本側 の史料 にも 日本=諸 蕃 ・朝 貢 国 の観念が存 在 し'普 なり詳細な記述が存 す る。 一方 '大宝 以降 では'両唐書 の記述 は先 掲 の したが って前章末尾 に触 れたよう に'日本を唐 の諸 蕃 とす る事 大的 立場 隔書 ﹄ にも '倭 の 秦)など と'唐皇帝 の国情 下問を うけ て いる 。 また ﹃ 通りであり'皇帝 の下問 には答 えたのであ ろうが '唐 の満 足を得 られず ' らノ0 は'伝統的 なも のとして八世紀初 より存 在 し て いた と考 え てよ いであ ろ レ是 訓令 レ改 レ之 」 とあ り '倭 入宋僧萄然が 「 本国職員令 ・王年代紀各 一巻 」を献 ず るま では、中 国側 唐 国所 レ授 朝 服 「」 と の遣唐使 ㈲ ︹霊亀 2 ︺帰 朝 記 事 が あ る。 一方 ' 因 みに、 ﹃ 続紀﹄養老三年 正月己亥条 には' 「入唐使等拝 見。皆 着 二 レ恩 人 二 は必ず しも日本 に関す る充分 な情報を待 て いな か ったよう であ る ( 王年 一っの憶 説 として'日唐 問 の政治的 関 係 の有 無 を指 代紀 は ﹃ 新 唐書 ﹄ にも利 用 さ れ て いる)。 このような差 異が生 じ た背 景 は詳 ら かでな いが ﹃ 書紀﹄日経 二年 是歳条 にはハ 「新羅 頁調使 知 万沙槍等 、着 二唐 国服 .. 泊 二千筑 紫 F朝庭 悪 二慈移 摘 しておき た い。遣隔使派遣 は勿論 の こと '百済 の役 以前 の遣唐使 も ' )、先 述 「はじ めに」 で触 れ た唐 の日本冊封 の意 図 ( 遣唐使 仙 ︹貯明 2︺ 着用を めぐ る これら二 つの記事 の差 異 はど のよう に理解す れば よ いので . レ 俗 '詞噴 追還 。」 と の記載 が見 え る。唐 服 の高宗重苦 による新羅救援命令 ( 同㈲ ︹ 白 雑 5︺) な ど '政 治的関 係 や 95 あ ろうか。平野卓治氏 は' ﹃ 内裏 式﹄ 正月 七 日儀 の中 の'蕃 国便 に位 階 よ いであ ろう 。そ の傍証 として'唐 の日本=絶 域観 も '天智朝 ま で は目 ( 52) に散見 している。そして'唐 =絶域観 は八世紀初頃 に出現 したも のと見 て ことなど から'やはり七世紀末∼八世紀初 であ る点 を掲 げ た い。 ま た吹 唐間 に政治的関係が存在 した こと'唐 の国書 の充 書 が 「倭 王」 から 「日 へ 53) 本国王」 に変化 す るのは天智朝末∼八世紀初 の間 であ る (三 の表 参 照 ) と当色服を授与す る儀式 に関 して'当初 本 国服 を着 し て いた便 人が '日 本 の位階をもらうと' 「 我朝服」 に着替 えて改 めて参上す る点 に注目 し' し ' これ は位階 ととも に服 と いう可視物 の授与 ・着 用 により '天皇 の臣下 と H Lr7 . ; しての 一体性を生 み出す占荘 意義があ ると述 べられ た。 衣服 の このよう ( 1 5) な機能を認 めるならは '帰朝遣唐使 の唐 服着 用 は'唐 での任官 に対応 の点 は必ず しも戟然 とはしていな いが ' ﹃ 書 紀﹄ は 「 大唐 」 と いう言 い 4 5) ( 方が多 - '五国史 は 「 唐 国」 の方が多 いよう に感 じられ る点 も '先 の金 では'八世紀初頃 に成立 した唐=絶 域観 の下 で'唐 への関 心 は如何 で 唐 の臣下 とな った ことを誇 示す るも のであ り '日本朝 廷 はそれを 許容 し 日本 の 「 朝貢国」 と目され た新羅 が '勝 手 に唐 の臣下 とな った点を 問責 あ ったろう か。唐 が絶域 たる日本 に関 心 ・情 報 量が少 な か った こと は前 子氏 の見解 に照 らせば、唐 =絶域観 の成 立時期 に関連 し て こよう。 したと いう こと にな ろう 。即 ち'養老 三年 条 は'八世紀 の律令 国家当 初 節 で述 べたが'これ は日本側 にも該当 しそうであ る。遣唐使 仰 ︹ 大宝元︺ たと見 る ことが でき るのではあ るま いか。 一方 '新羅 使 の場合 は'当時 から'唐 に対す る事 大的立場が存在 し て いた ことを 物 語 る のであ る。 ぅ日本中 心主義的 立場 は'ど こから出 て- る のであ ろう か。 ﹃ 障害 ﹄ の な か ったとは いえ、新羅使等が来 日し て いた にも か かわ らず '国号変 更 り (﹃ 続紀﹄ 慶 雲 元年 七月甲申 朔条 )'天武 ・持統 朝 には遣唐 使 派 遣 が レ是 大唐 。今称 t 一大 周 ¶国号縁 レ何 改称 。」 と の問 いを発 し てお 「 大国」観 などが '対唐外交 の対等性要 求 と し て維 持 され た ので はな い は 「 先 ことは'前節 で見 た通 り であ る。 そ こで' ここで は'大 宝以降 の対唐 観 ( 光 宅元 ︹ 六八四︺=天武十 三年 )を知 らな いな ど '唐 の国内情勢 への ( 55) 無知 ・無関 心を窺 わ せる 。 また遣唐使 用 ︹ 大 宝 元 ︺ の派 遣 目的 に大宝律 では'前章 で示 したもう 一っの立場 '唐 が 日本 の 「 蕃 国」 であ ると い とし て'以上 の日本 =講書 ・朝貢国 と いう自 国意 識 と は別 の対唐 認 識 が 令 制定告知があ ったとす る見方 に疑問 があ る こと は前 節 で触 れ たが '以 下 に想定 す る大宝令 での唐 の扱 いも '日本 が絶 域 たる唐 に注意 を払 って 存在 し ていた ことを手懸 かり に'考察 を進 めた い。 それ は'唐=絶域観 であ る。唐 の日本=絶 域観 に ついては前節 で触 れ いな か った ことを示す であ ろう 。 養老律令 の外 国 に関 す る規定 は'唐 の律令 条 文 ・用語 と相似 し、蕃 ' たが '唐-絶域観も'遣唐使刷 ︹ 大宝元 ︺帰朝時 の叙位 の際 の 「 以 レ奉 こ 使絶域 一也 」 (﹃ 続紀﹄慶雲元年 十 一月 丙申 '同 四年 五月 壬子粂 )を初 B 外蕃 '請書 、蕃客 '化外人等 に対 す る規定 であ る 。 そう した中 で'賦役 A 凡以 二公使 ¶外書還者。免 二 一年 課 役 ¶其唐 国者 。免 二三年 課 役 ¶ 令 16外書還条 ( 養 ・賦 16と略す) には 見 とし'同 価 ︹ 天平 4︺ の 「 遠境 」 (﹃万葉集 ﹄巻 五- 八九 四) '同 仙 ︹ 勝 宝2︺'仰 ︹ 承和元︺ の 「 奉l ]便絶 域 .」 (﹃ 続 紀﹄ 宝亀 七年 四月 壬 中条 ' ﹃ 三代格﹄承和元年 八月十 二日官 符 ) な ど と '八世 紀 以降 の史料 96 大宝令文 ( 大 ・賦 16と略す)も同文 と いう前 提 で論を 成 し て いる よう で した例が本来的なも のであ った かとの疑問 が あ るが 、とも か-両説 とも の見方があ る。 回 に関 し ては'前章末 尾 に触 れ た よう に'唐 を 「 蕃 」と 8官 司条 ( 話者 との私交易禁 止)を適 用 した例 (﹃三代 格 ﹄延喜 三年 八 ( 57) 月 1日官符) と合 せて' 「 遠蕃 」 たる唐 への遣 使 に優 遇を 加 え たtな ど 「 蕃 」であ り、在 日唐 人を 「遠蕃 」 と記 す例 ( 前掲 ) や唐 商 人 に関 市令 蕃 国 の区分 ( 公式 令 l詔書式桑 葉 解 古 記 ) に基 づ3 (i 1 ㈲法 理上 は唐 も と'唯 7唐 に関 す る規定が見 え る 。 この条 文 に は'抑唐=隣 国 '新羅 こで、次 に賦 16古記 の類例を捜 す と、 二例が存 す る。 場合 でも '特 に令文を掲げ る必要 はな- tB釈 の形 で充分 であ ろう 。 そ 文 の内容説明 としてはおかし い。 また霊亀 三年 格を令 文 の補 足を考 え た て いる よう にも見 え るが '以下 の霊亀 三年 格 は令文 と対象を 異 にLt令 る余地があ る のではな かろう か。確 か に この部分 は 1見大 宝令文を掲 げ 古記波線部も '大 ・賦 16 に規定がな か った ので'補 足を加 えたも のと見 B釈も参照)。そうす ると' 法令を補 足 として掲げ たも のと考 え てよい ( は水手以上 の本人を対象 とす る規定 であ った ので'そ の後家を優 免 した まず古記所引 霊亀 三年官符 はtA穴 ・朱 tB義 解 が説 - よう に、院 16 = あ る。 しかし'私 は大 ・賦 16 には 「 其唐 国」以下 の部分 はな か った可能 ①後宮職員令 4内侍司条 ・尚侍 の職 掌 「兼 二知内 外命 婦朝 参 り及禁内 礼式。」 性が高 いと考 え ている。以下 'そ の点 に ついて私見を述 べてみた い。 始 めに賦 16 に付 された集解を掲げ てお こう。 古記 云。尚侍。兼 二知諸 司事 井妃 以下宮 人礼式 .也。 ① は大宝令文 の復 原 はできず ' これが大 宝令文 か'令文 の補 足 か は不明 A穴云。便謂 水手以上也。外蕃高 百新 等是 。朱 云。 以 二公使 .外書 還 者。免 二 一年課役 「謂。還釆後更免 二 一年 .也。水手以上皆免也。問。 ( 朕5 1) 以. ]公使 T外書還.遭 二風浪 .経 レ年 漂流何。貞答 云。比 二 没 落 .耳。 ︹ 春︺ 問。公季夏季末 二還来 .何。貞答云。唯折免耳。/ B謂。水手以上有 ニ ノ § ノ し ー ノ ′ 課役 ]老也。釈云。依 レ格経歴之年 。同籍雑篠免 i之。古記云。其唐 国 であり'㊤も大宝令文復原 に議論 の多 い部分 であ る。 ただ'② に関 して' る類 例 は計 三例 で' これら から結論を 出 す こと は慎 まねは な らな いが ' 老周 り 古記 云。園聴 二任売 一也。論語 契遅請学為 レ囲。 子 日。吾 不 レ如 二 ② 田令 19賃租条 ・ 「 園任賃租及売 」 老免 二三年 課役 .也。霊亀三年十 1月八日太政官符。遣 二大唐 国 一水手 T之年 内 。若会 二水早 忠 己上後家篠役事。正身 〓居揺役己免。 不 レ及 二別房 F朱 云。唐国免 二三 レ知。此等色。被 レ免 二課役 青木和夫氏が 、古記 は大宝令文 に園 の規定が な か った ので'補 足を 行 っ ( 8 5) た のではな いかと の旨を発 言され て いる点 に留意 した い 。令集 解 におけ 年 課役 一着。未 レ疑何 。 ここでは当該部分が大宝令文引用 ではな- '令 文規 定欠如 に対 す る補 足 復 父母喪等 一何。若更亦 不 レ免 不。 又上復 給 二条 同。亦 所 問題部分 に注釈を施 しているのは古記 と朱 説 であ る。朱 説が養 ・賦 16を であ ると いう可能性を強調 し'若 干 の傍証 を 示 し てみた い。 第 一に' ﹃ 続紀﹄慶雲 四年 八月辛 巳条 「水手等給 二復 十年 「」が注 目 引 用 し、以下 にそ の運用上 の疑点を記 し て いる こと は明白 であ ろう 。 で は'古記波線部 は如何 であ ろう か。 97 真人 は聾 誉九年帰朝)時 の叙位 に続-部分 であ るO この復 十年 について' され る。 これ は遣唐使 仰 ︹ 大宝元︺の副使 巨勢 邑治 らの帰 朝 ( 押便 乗 田 よう に思われる。さ て'以上 のよ-な古記 の注釈 の特色 は'隣 国=唐 ' 25 ︹ 玄幕之最︺)など で'直接 「 蕃」 の内容 が問題 とな る事 例 ではな い 「蕃」 の内容が問題 とな った ことを示す のではあ るま いか。 つまりそれ 天平十年 頃) には 幕国=新羅 の区別 に代表されるよう に'古 記 の時 代 ( 鈴木靖民氏 は'大 '養 ・賦 16同文 の立場 から '賦 16を拡大 解釈 し て七年 ( 59) 問延長 したも のと述 べられた。 し かし' この場合 '大宝 二年 六月 出発 の と見 るのであ る。 ま いか。そ こで,私 は'む しろ大 ・賦 16 には唐 の規定 が な- '絶 域 た る 復十年 には該当 せず '昧 16の拡大解釈 と い っても '拡 大 しすぎ ではあ る と考 える。 とす るな らは '大宝令制定時 には、唐 は絶 域 の国 であ り'日 公使 「外書還者。免 二 一年課役 「」 であ り '唐 に関す る部分 はな か った 以上 '迂遠な説明 に終始 したが '要 す る に、私 は大 ・蹴 16は 「凡以 二 ま では唐を 「 蕃」 とす るか否 かの問題 は'充分 に意 識され ていな か った 遣唐使 仰 ︹ 大宝元︺が '漂流等 で帰 国遅引 とな ったとし て'賦 15没落外 ︹ 60) 蕃条 の適用 ( 准用 -)を考 えても '外書 没落 三年 以 上 は復 五年 であ り 、 唐 '遣使後 の年数等を考慮 して、特別 に復十年 と決定 したも のと考 える。 であ る。 っまり八世紀初 において'唐が 「 蕃 」 に入 るか否 かは考慮外 であ った の 本 の律令制定着 の視野 に入 って いなか った と見 る べき ではあ るま いか0 ろ う 。 因みに'以後 、国史 にこの種 の記事が見 えな いのは'養 ・賦 16 で課役 三 ( 61) 年免除が規定され'古記もそ のよう に補足 し ているた めであ 次 に令集解 の 「 蕃 」等 の注釈 において'注 釈書間 に差 異が 見 られ る こ さ て'以上 では'唐=絶域観 の存在を 示 し'八世紀初 の日本 の対唐鶴 容を注解 していな いのに対 元︺) による唐 との通交 の中 で、新 たな対唐観が形成 され た のであ り、 は 1応白紙状態 であ った ことを述 べた。 そ し て'遣唐使 再開 ( 仰 ︹大宝 蕃国-新羅を始 め'職員令 18玄蕃寮粂 '戸令 4-官 戸 自抜条 、選叙令 ‖散 前章 で明ら かにしたよう に'八世紀末 の宝亀期 には二 つの対唐 観が存荏 蕃 」 の内 とを指摘 した い。賦 16A穴記を除けば '古記 以外 の注釈書 は 「 ( 62) 蕃」 位条、33贈官粂 '軍防令14兵士以上粂 '公式令 86官人父母条 など' 「 していた。それら のうち'事大的立場が生 じ る背 景 は、本節 冒頭 で触 れ し て '古記 は'公式 令-詔書式 条 の隣 国 =唐 ' の内容を 入念 に注解 していると いう点 であ る 。例 えば軍 14 の兵 士歴名簿 た よう にt T応問題 な いとして' 1万 の日本中 心主義的 立場 の成 因 は依 然 不明 であ る。 ただ' この立場 の明確な初 見 は宝亀期 と考 えられ 'そ の を作 り' 「 並顕 二征防遠使処所 l」 の部分 は '次 の如 - であ る 。 義解 -遠使者。使 二外書 「/令釈 ・ -追 二審使射手 .之 類。 /古記 -・ 依= 生成過程を窺 わせる材料 は乏 し い。そ こで'以下 で は、律令 の運 用 と' 「 中国」観 の拡大 と いう観点 と から'憶 説を述 べてみた い。 能射 .遁 二大唐樹海 .之頬之 。 = まず養 ・賦 16の唐規定追加 の意味を考 える。結論 から言えは ' これ は' 日本 4車牛人力条 '儀制令 17五行条 '公式令3論奏式粂 )や、 「 蕃」 ( 賦役令3 やはり唐を朝鮮諸 国と同列 の 「 講書 」 とし て故 う こと はでき な いと いラ 因 み に、古記が 「 蕃 」を そ のまま用 いる の は '律 令 条 文 に依 拠 し た例 を そ の他 と対照す る例 ( 職員令 22主計棄粂 '戸令 41官 戸自 抜粂 '考課令 98 8官 司条を唐商人 に適 用 した例も准用 例 と見 る ことが でき よう 。 とす る めへ普遍法 たる律令法を 准用 し得 ると考 え た から であ り 、先渇 の関市令 午 ) には'唐規定 追加 は見 られな いが ' これ は復 除年 数 が充 分 であ るた の没落外書 の年数 (1年 以上-復 三年 、二年 以 上 - 四年 、三年 以上 I 五 立場 から成 立 したも のと思 われ る。例 えは 賦 16と類似 の規 定 であ る 以上 、乏 し い知見 の中 で、日本中 心 主義 的 立場 の成 因 に触 れ た。 し か 本中心主義的立場 の表明 に つなが ってい- こと にな るのではあ るま いか。 中国」観 の拡大が 7っの底 流 とな り'宝亀期 の日 れ' このような日本 = 「 す るな らは '早-も八世紀前半 には唐- 「 話 者 」観 が存 した ことが知 ら できず ' 「 夏」=日本人 へ 「 蕃 」=唐 人 の混用を 認 めた のであ ろう 。 と 在 日唐人 の数 は少 な いので、朝鮮諸 国 の音 楽 のよう に 「 当蕃 」人 に限定 (63 ) な らば '養 ・賦 16の追加 は、普遍法 の枠 に納 まらな いた めであ り '唐 と し、注意 せねばならな いのほ' この立場が唐 に対 し て表 明 さ れ た例 は、 昧1 5 「 話 者」 との区別を意識 したも のと言 え る のではあ る ま いか。 また古 記 あ り'事実 '平安初 の明法家説 には、古 記 のよう に、 「蕃 」 の内 容を 区 但 し'諸蕃規定 の准用 は'そ こから唐= 「 諸 蕃 」 の解 釈を 生 じ る余 地が 強 か ったことを窺わせ、養 ・賦 16の追加を右 のよ- に解す る所以 であ る。 前半 にお いて'唐を朝鮮諸 国 と同列 に扱 う ことが でき な いと いう 立場が 対等意識 や日本中 心主義的 立場を 明示 したも のと は言 えま い。 即 ち 、宝 これは確 かに事大的立場とは異なる日本 の外交姿勢 の存在を窺 わ せるが ' 日本側が示した用字 ( 令義解 の用字 と殆 ど等 し い) であ ると考 えられる。 本 には君主号 の和名 であ るも のを '唐 には姓名 と受 け とら せる意 図 で, げた 「 勅 日本 国王書 」 の 「主明菜美御 徳 」 は、別 稿 で述 べた よ 管見 の限 り では、見当 たらな いと いう点 であ ろう 。 例 えば 本章 冒頭 で渇 6 6) ︹ 別す る立場 は殆ど見 られな い。 したが ってそ こに日本中 心主義 的 立場萌 亀期 の例 に代表 され るよう に、日本 の日本中 心主義的 立場が対唐 国際外 の隣国=唐 、蕃国=新羅 の区別も 、養 ・賦 16 に唐 規定 を 追加 した八世 紀 芽 の 一端が看取 され 'それ は次 の日本= 「中 国」観 と相 供 って'発 展 ・ 交 の場面 で表 明され る ことはな か った のであ る 。 建 国後間 もな い唐 から帰 国した遣隔 留 学 生達 は' 「 其 大唐 国老 法式備 う に '日 形成 したも のではな かろう か。 日本を 「 中 国」と見 る立場が 八世紀初 から存 在 した こと は、朝 鮮諸 国 4 6) ( と の外交 の例 に照 ら し て明 ら か にさ れ て い る 。 そ の他 、南 島 人来 日を (﹃ 書 紀﹄ 推 古 三十 一年 七月条 )。 この言葉 こそが日本 の対唐外交 の基調を 示す も ので'それ は唐 への尊 崇 レ達 。 」 と奏 上 し た 漂着 天竺人 に ついて、 「 後願 習 こ中国語 ¶自謂 二天竺人 ご に基づ-事大的 立場 であ ったとす る ことが でき よう。 日本 は唐 の冊封 こ 之 珍 国也 。常須 暦十 八年 七月是月条 ) と記す例などもあ る。 このような観念 が '唐 の扱 そ受 けな か ったが 'それを以 て対等外交 を 展開 し た と見 る の は早計 で、 「其度感嶋通 二中 国 一於 レ是始 臭。 」 (﹃ 続紀﹄ 文 武三年 七月辛末 条 ) ' いを定 める上 で'全-影響 しな か ったと は言 え ま い。 ﹃ 続 紀﹄ 天平 三年 日唐 の史料 の示す と ころは右 の通 りであ る。 そ し て この立場 は九世 紀 以 ( 7 6) 降 の対中 国外交 にお いても '長-保持 さ れ た のであ っ た 。 (﹃ 後 紀﹄延 七月 乙亥条 には' 「 其大唐楽生 不 レ言 二夏蕃 ¶取 ,堪 二教 習 ]老 3 百済 L 65一 高麗新羅等楽生並取 二当蕃堪 レ学者 ご と いう記事 が見 える。 この場合 、 99 竹符銅契 。本備 "軒 詐 .O世淳 人質 。文契 何 用。」'「 所 大 の論拠 は' ﹃ 性霊集﹄ 巻 五 「 為 二大 使 l与 こ福 州 観 察 使 .書 」 に 「又 の対唐 観 に ついて'唐 側 の受 け取 り方 、 日本 側 史 料 に見 え る各 々の立場 印書 ¶」 とあ る こと '日唐 の史料 に国書 携 行 が 見 え な い こと ' であ る と 本章 では'事 大的 立場 と日本中 心主義 的 立 場 と いう '律 令 国家 の二 つ の成 田など に検 討を加 え た。 この二 つの立場 は '既 に八世 紀 前 半 の天 辛 整 理 でき よう。 いては'伝統 的 に存在 した事大 的 立場 が 主 流 を 占 め'も う 1っの対 唐 観 対唐観 とし て生成 したも のと考 えられ る。 し かし '実 際 の対 唐 外 交 にお れ た。 まず ﹃ 性霊集 ﹄ に ついては'先 掲 部 分 が 国書 と は無関 係 で、む し し かし'不携行説 の二 つの論拠 に対 し て ほ'最 近相 次 いで疑 問 が 呈さ レ献信物 。不 レ用 . . 期 には存 し、 いず れも八世紀初 の唐=絶 域 と いう白紙 状 態 から '新 たな は国際的 に表 出す べ-もな か った のであ る。 勿 論 ' 日本 中 心主 義 的 立 場 ろ積 荷 の明細書 の如 き も のを携行 しな か った ことを 示す とす る見方 は既 ( 6 9) に呈され て いたが'西嶋 定生 氏 は、用 語 の詳 細 な検 討 から '改 め てそ の ( 0 7) 立場を 明確 にされ た 。私 も この見解 を支 持 し た いと思 う 。今 '私 な り に ( 1 7) ﹃ 性霊集﹄ の構 造を 示 せば '次 の如 - であ り ' と見 る考 え方を生 んで いる。 ただ 'そ れ はあ - ま で主観 的 '国内 的 な観 は国内的 には存 続 し'次章 で触 れ るよう な 、 日本 と唐 とが 対 等 であ った 念 に留 ま ったと見 る べき で'実際 の日唐 通 交 に お いて' 「対 等 外 交 」が 1 「賀能 啓 」 で始 ま る冒頭 部 分 / ‖ 1- 「伏 惟 。 大 唐 聖 朝 。」 ∼ 「起 ( 過 去 ) 理由 / iii 「故今 。 我 国主 。」 ∼ レ昔 迄 とられ たと いう明証 は見 出 し難 いと言 わ ねば な ら な い。 レ今 。相 継 不 レ絶。 」・遣唐使派遣 「 非 二我力之所 . ′能也。 」・今次 の遣使 目的 (「 幸 二献 国信別貢等物 「」) では'以上 のよう に'日唐 の通交 形 態 上 ' 「対 等 外 交 」 を 認 めな いと す れば '国書 問題 に ついては如何 であ ろう か。 「対 等 外 交 」 の根 拠 は' と途 次 の苦 労′ Ⅳ 「又大 唐之 遇 二日本 .也 。」∼ 「君子之 国。 蓋 為 朝 。」・過去 の唐 の日本使人 の扱 い ( 上客 と し て扱 い' 「 与. ]夫 喋 々話者 ]. i此 結局 、遣惰 使 の国書 (﹃ 隔書﹄東 夷 伝 倭 国粂 ・大 業 三年 「日出 処 天子 ' 致 二書 日没処天子 1無 山 豆同 日而 可 レ論乎。 」 ) と日本使人 の態 度 ︹ 先掲 部 分 は この箇 所 に出 て- レ志 云 々。 」 )を 対 等 の書 式 と見 る点 '遣 唐 使 が 国 書 を携行 しな か ったとす る点 t に要約 さ れ よう 。 最後 に' こう し た国書 る︺/ v 「然今 。州使責 以 二文書 ご ∼ 「率 然 禁 制 。 手 足 無 レ昔 異。 」∼ ]O」 ・建 中 年 間 レ唐 。 」・今 の書式 や携行 ・不携行 の問題 に触 れ '古 代 日本 の対 唐 観 に関 す る小 考 の 回 の州 使 の扱 い/ ■ >- 「又建 中 以 往 。」∼ 「不 理合 二法令 to事待 二道 理 「官吏之 道 実 是 可 i然 。 錐 レ然 。遠 人乍 到 。 本文書 の中 心 はⅤ以下 の部分 ' Ⅴ 然今。州使責以 二文書 ﹃疑 二彼腹心 ¶検 二括船 上 ¶計 二数 公私 ¶斯 乃。 末尾 ・今 回 の州使 の扱 い への不満 と待 遇 改 善 要 求 ( 七八 〇∼三)以前 の唐 の日本使人 の扱 い/ m ︰ 「 今 別 。事 与 レ検 二船 物 まと めとした い。 三 遣唐使 の国書 問題 を めぐ って 日本 の遣唐使 が国書 を携行 し た か否 か に関 し て は、従 来 '対 唐 外 交 に ( 8 6) おける対等性要求 と いう見方 ととも に'不携行 説が有力 であ っ た 。 そ の最 1 00 触 レ途多 レ菱。海中之愁。猶委 二胸臆 「徳 酒之 味 末 レ飽 二心腹 F率蘇 Ⅴ 禁制手足無 レ暦。又建中以往。入朝便船 。直着 二楊蘇 り無 二漂蕩之 苦 F 受 け取 り方 はわ かるも のの ( 但 し、後掲 表 天智 三年 の例 のよう に'正史 とが判明 しただけ であり'中 国史料 におけ る 「表 」 の存 在 は'中 国側 の しかし'携行説 にと っても ' ﹃ 性 霊集﹄ は問題解 決 の論 拠 にな らな い こ レ昔 異 。 るのであり'州使 に提出を求 められた 「文書 」 と は'船物 に関 す る公葱 にあ ると考えられ る。 つまり この文書 は、船 物検 括 への不平を述 べ て い 要 にな るのであ る 。私 は'対唐外交 は 「 対 等外交 」 で はな- 、基 本的 に 証を求 めることと'国書携行 とすれば 、そ の書 式 如何 を 考 え る ことが 必 な携行を裏付 け るも のではあ るま い。 つまり 日本側 史料 に国書携行 の明 .Oダ 別事与 州県諸 司 。慰労恩恵 。左右任 に 「 表 」とあ っても'実際 の書式 は異 な る場合 もあ り 、書 式 決定 はでき ( 宋 の公葱 の実 例 は ﹃ 朝野群載﹄ 巻 二十 参 照 ) の如 きも のであ ったと見 は朝 貢 であ ったと見 ており、やはり遣唐使 は国書を携 行 した ので はな い レ便 。 不 レ検 二船物 遇将望疎。底下愚人。窺健 二驚恨 .O伏願。垂 二柔 i遠之 恵 7顧 二好 レ隣 な い) 、依然 日本側史料 に明証を待 ておらず '必ず しも 日本側 の積 極的 るのが至当 であ ろう 。因 み に'今 回州便 が船物 に関 す る文 書提 出を求 め Lt国書携行説を より確実 なも のにした い。 郭 「 亡 司 : : 1 蓑 人 ( 3) 仁 宿 の 本 勘 「 を 文 問 五 月 援 令 \_/ 引 天 『 フ 亡 所 翠 等 / \J す 元 口 『 『 上 め 天 が 紀 』 ( 粂 所 ≡ 一 二 巨 = ヨ を 進 カ 『 書 〕 紀 』 国 三 年 永 節 @) 軍 記 る a 牒 ) 〔 =『 ∃至 「「l 』 : 条 千 三 〔 め 』 天 ワ 辰 粂 経 鋲 将 令 _ 国 記 倭 王 裏 函 輿 た か し 所 引 (目 隣 国 宝 記 救 九 月 封 冊 表 函 要 出 ● し _ 荏 年 壬 璽 書 進 国 / 三 外 の 粂 本 記 -1 し 防_ 智 海 午 皇 「 済 し 一 差 L j 一 つ 「 / 四 諸 家 情 .唐 か ら 日本 に宛 てた 国書 劉 1 01 下略 ) 之義 ¶従 二其 習俗 ¶不 レ怪 二常 風 ¶ ( た のは'福州 と いう場所 ( 遣唐使 到着 の前 例 は括州が最 南端 ) '安 史 の 7 2) ( 例 '遣唐使 ㈹ ︹ 宝亀 6︺- ﹃ 続紀﹄ 乱後 の唐側 の入京人数 や貿易 の制限 ( 表 使 目 籍a 後〕 伝/ かと考 え て いる 。 そ こで'以下 では、上記 二点 に ついて私見を 明 ら か に 宝亀九年十月 乙未 、十 一月 乙卯条 )な ど によると思 われ 'ま た福州観察 惰 使 磨 使 の赴任直後 と いう事 情 (﹃ 後紀﹄延 暦廿 四年 六月 乙 巳条 )も関係 した 磨 進 のかもしれな い 。したが って ﹃ 性霊集﹄ は'船物 に関す る文書 の不携行- 遣 伝 唐 の貿易統制 への認識 不足 のた めかI を 示す だけ で'国書 不携 行 説 の根 磨 峠 拠 にはな り得な いのであ る 。 磨 宝を 次 に目唐 の史料 に国書携行 が見 えな いと いう点 に関 し ては' ﹃ 冊府 元 ( 七二五) 亀﹄巻九九九外臣部請求 「 ( 開元) 廿 三 年 閏十 一月 '日本 国造 二其 臣名 午 明 管 概 ( る 帝 1 6 推 百 も 代 .来朝,献 レ表懇 ,求 二老子経本及天等像 ).以帰 二千 国 「発 中揚聖教 h ( 七八〇) 許 レ之」'巻九九七同技術 「 倭 国'以 二徳宗 建 中 初 ) .遣 二大使真 人興能 ). 自 二明州路 「奉 レ表献 二万物 .」と'遣唐使 ㈲ ︹ 天平 4︺'脚 ︹ 宝亀9︺ ( 73) が 「 表 」を献 じた記事 の存在が指摘 さ れ て いる 。 以上 により,国書不携行説 は最大 の論拠を失 ったと言う ことが でき る 。 日 4 節 高 宗 高 名 5 白 雑 3 4 夷 東 吹 天 を め 古 天 管 勝 宝 天 辛 養 老 天 武 元 遺 磨 逮 遣 逮 磨 使 磨 使 磨 倭 蘇 輿 倭 磨 倭 磨 使 磨 便 務 郭 ( 1 7 ) ( 1 6 ) 進 仙 ( 9) ( 8) 保 末'唐 大 勅 ≡ E 巨 ヨ 磨 朝 顔 「 勅 勘 文 中 書 〔 a ≡ E 巨 ヨ 杏 敬 日 本 @ 敬 、の ロ 進 郭 ほ の 皇 函 カ る 上 / 壬 之7 7 問 I ) J l 王 国 主 大 〔 ( 7)刺 使 致 て 音 梅 の め 務 上 も 帝 お は の は 問 莱 莱 明 部 書 坂 , A 仁 コ〕 カ 後 十 で 唐 書 り '智 天 如 く 大 「 倭 王 御 徳 大 分 於 日 」 に 本 老 を十 年 あ つ 敬 帝 」 〔 と- た 問 a る .と 日 〕 来い 本 / 天文 / 右 渇 請 家 」 月 〔 a / 〔 『 曲 江 集 C 午 請 七 秦 』 巻 月 / 王 乙 巳 刀 中 心主義的 立場 と唐 の国書 が矛盾す るも の であ った た め'正史 に不掲 戟 「 勅 ( 香 ) 」 とも称 す 'b論事 とな ったと憶 断 し ておき た い。 へ 76) な お'唐 の国書 の書式 は'中村 裕 l氏 の研 究 に よる と t a慰 労制 書- 「皇帝 ( 敬 )問某 」 の形式 ' 「璽書 」 勅書= 「 勅 某 」 の形式 t aよりも劣 る相 手 に出 す t の二 つであ り ' いず れも皇帝 が 臣僚 に下す文書 であ った。 ま た C 「致 書 」 は'対 等 関 係 を 示 aと変化 しt aに落 ち着 いた と見 る ことが でき る 。 これ は'八 す国家間 の文書 であ り'君臣関 係が な い場 合 にも用 いられ る ことが指 捕 ( 7 7) され て い る 。 そうす ると'唐 の国書 は '大 宝 以 前 の aから '大 宝 以後 は clbl 世 紀初 には'絶 域 たる日本 の扱 いは未 定 で '当 初 は君 臣関 係 を 示 さ な い ct次 いで朝 貢国 とし てbl aとな った と解 し得 る の で はあ るま い か0 因 み に'遣唐使 胤 ︹ 霊亀2︺ に付 さ れ た ( 実 際 は仰 ︹ 大 宝 元 ︺大 使 坂合 部大分 に付 す) 「 致書 」文書を右 のよう に理解 す ると'遣隔使 の 「 致書 」 別 の理由を考 え る べき で' ﹃ 書 紀﹄ には晴 の国書 が 掲 載 さ れ て いる こと 秘蔵 され ていた訳 ではな い。したが って正史 への内 容 不掲載 に ついては' 後紀﹄承和六年 九月丙中条)'右表 の諸家勘 文 に利 用さ れ て いるよう に' を射 たも のとは言 え ま い。 ま た唐 の国書 は内 記 が 保 管 し たら し- (﹃ 続 にも唐 から の国書 があ った こと は記 さ れ て お り ' この見 解 は必ず しも的 まず唐 が ほぼ毎 回遣唐使 に国書 を付 し て いる点 に、注意 を喚 起 し て お ( 74) き た い。日本側 正史 に唐 の国書 掲載 が な いの は' 日本 より の国書 不携 行 ( 5 7) と釣 り合 いを保 つた めであ ると いう見 方 も あ る が '右 表 のよう に' 正史 国書奉 呈場面 の有 無 は不明 であ るが '先 の中 国側 史 料 の 「衰 」 の存 在 と 書提出を期待 し ていた ことがわ かる 。 この場合 '円仁 は入京 し ておらず ' 日条 に'円仁 の台州行 き申 請 に対 し て '唐 が 「須 待 二本 国表章 到 ].令 二 ( 79) 発起 .老 」 と応 じたと いう 「 蓑章 」を '国書 と解 せば '唐 は遣唐 使 に国 いた。 ま た ﹃入唐 求法 巡礼行 記﹄開 成 三 (八 三 八= 承知 五)年 九 月 二十 さ て'以 上 のよう に'唐 は日本 の遣 唐 使 に国書 を 付 す のを 通 例 と し て この文書 には 「 天子 」、「日出処 」 と 「日没 処 」な ど '他 の要 素 の問 題 も ( 8 7) 残 ってお り ' ここでは右 の視点を記す に留 め'識者 の御 教 示を侯 ち た い。 も対等関 係 以外 の考 え方 が でき そう であ るが '如何 であ ろう か。 ただ ' ( 推 古十 六年 八月 王子条 ) '五国史 の時 代 に は日本= 「 中 国 」観 が 成 立 午 九 月 〕 発 那 秦 承 和 六 廿 四 の 日 〕 延 合 せ て'とも か-中 国側 の意 識を看取 す る こと は でき よう。 1 02 'が 天 '皇 武 『 」 元 書 年 紀 四』 武 月 に 元 @ に よ 年 天 乙 す 王 \ _ / 負 カ 』 宝 紀 』 ( 自 1 〔 b 」 蛋 『 ヨ 敬 帝三 問 / す 後 」 続 『 紀 を 秦 附 / す 杏 〕 〕 a 粂〔 カ 香 函 「 皇 して いる こと等 により' ここでは'国内 的 に は 一定 の地歩 を 占 めた日本 遣 2 8 4 6 〕 天掲 諸 家 ' 勘 2 4 宝 負 10 五 』 る 「 と の も 智 十 大 延 磨 蘇 和 レ之 」時 のも のであ 国書提出 の記事 は見 えな い。また右表 中 の諸 家勘 文 は'来 日宋 商 人が辛 では'日本側史料 に国書携行 の明証 が存 す る であ ろう か。 五国史 には 条 には' 「 到 レ唐下 レ牒之 日.如借 三間 無 二大使 .者 . 量 レ事 分疏 。其 佐伯今毛人が病 により渡海を辞退 した際 , ﹃ 続 絶﹄ 宝亀 八年 六月辛 巳朔 そ こで'次 のような例 に注目 した い。 まず遣唐 使 皿 ︹ 宝亀 6︺ の大 使 古相互送 レ使贈 レ物'其牒状 '自 二大唐 . ハ天皇 に送上 と書 '彼国王 ヲ ハ か勘申 でき ていな い。 一方 ' ﹃ 玉葉﹄ 承安 二年 九 月廿 二日条 には' 「上 右表天智三年 の場合 (「日本鎮 西筑紫 大将 軍牒 」を 百済鎮 将 に付 す) し 文 による限 りは'日本側 の例 としては'推 古紀 の晴 への国書 ( 後掲 ) と にも返牒 ・万物差遣 の当否が勘申 され た ことが見 え る 。 し かし'現存勘 り (﹃ 善隣国宝記﹄鳥羽院元永元年粂 )'﹃百錬 抄﹄ 元永 元年 六月 八 日条 速申 腸 倍利 .」 と見 え る こと に注意 し た い. 遣唐 使 仰 ︹承和 元 ︺ は 「大 は'帰朝遣唐使を慰労 した詔 の中 に' 「 大 唐 天子 止毛 治 労 礼 。 返事 t早 続後 紀﹄ 承和 六年 九月 丙午条 に 使用 した ことが確認 され る 。そして' ﹃ 意志を交換す る時 に用 いる文書 であ ろうが 'とも か-も遣唐使 が文書 を 見 える ( 開成三年 八月 三日'十 日条 な ど) よう に'遣唐使 が唐 の官人 と 牒」 は国書 ではな - ' ﹃入唐 求法 巡礼行 記﹄ にも 見 える 。 この場合 ' 「 石板老著 レ紫 。猶称 二副使 「其持 レ節 行 した架 の国書を 「 此書叶 二旧例 ,否 '命 こ諸家 -勘 天子 卜書 '自二我朝 一 ハ又送 卜書'相 互無 二差別 一」 との記載が見 える。 唐勅書 」を 貸しており ( 右表 )'「 返事 」 とあ る から には'日本 からも 国 古記 云。御宇 日本天皇詔旨。対 二隣 国及蕃 国 .而詔之辞。問。隣 国与 l . 次 に公式令-詔書式集集解 の記載 から '遣唐 使 の国書 持参 が想定 され ( 80) ていたとす る意見もあ る 。 この史料 には信頼 は置き難 いと思 われ る 。 国」 の評を得 た日本が '約 二十年 毎 と は いうも のの'何 度 も遣使を行 い 平穏 な通交が期待 され ていた。 とす るな らは '形式的 と は いえ' 「君千 宝亀 七年 四月 壬中条 ' ﹃ 続後紀﹄ 承和 三年 四月 丁酉条 ) とあ り'和 順 ・ 此意 ぺ1 其 人等 乃和 美安 美応 為 久相 言 部 。警 呂之岐事 行 奈世" :: 。」 ( ﹃ 続 紀﹄ 「 本 与利朝使其国示達 之其 国与利進渡 郁理 O依 レ此 弓虜 次 止遣物 曽 。悟 二 l如 . .前勅 ご と の指 示が 但 し' 「 上古」 とはい つのこと か不明 で'少 な - とも右 表 の唐 の国書 の 書を持参 した可能性を窺わせるのではあ るま いか。日本 の遣唐使派遣 は, 蕃国 .何其別。答。隣 国著大唐。蕃 国者新羅也。/穴云。 ( 中略)問。 ながら'国際通交 の儀礼上最も重要な国書 (﹃ 延書式﹄ では元 旦'即位 と i事 書式 とは合致 しな いLtまた 「 対等外 交 」 の見方 に立 って いる点 でも ∼ レ別哉。答。合 i有也 .仮 . 遣 二審 国 .者 。 用 二此 蕃国与 二隣 国 .有 「受 二審 国便蒙 l」が大儀 )を携行 しな か った と は考 え難 いのであ る 。 以上 '結 局 '国書携行 の明証 は得 られな か ったが 'ご-僅 かなが ら ' i レ審 . 可 レ検 。 式 「便乗時亦同.通 二隣国 .老合 二別勘 ¶不 レ依 二此式 F但便乗 明合 放 二用此式 .也. 千二別条 .故也。末 国書携行 とすれば 'そ の書式 は如何 であ った か に触 れ '本稿 の論述を終 国書携行説 の可能性を高 めることが でき たと思われ る 。そ こで'最後 に' 宣命 の書式 であ り'国書 の書式 は別 に存 した の えた い。 しかし'穴記中略部分 でも 「宣」が問 題 とさ れ て いる よう に'詔書式 紘 「 削) で ' や はり国書携行 の証 左 とはならな いのではあ るま いか。 1 03 レ志 云 々。 まず日本 の国書 の実例 は'二例が存 す る 。 ㊦ ﹃ 晴書﹄東夷伝倭 国条大業三年 日出処天子 '致 二番 日没処 天子 ¶無 ⑦ ﹃ 書紀﹄推古十 六年 九月辛 巳粂 ) 。 し たが って殆 ど問 等 な - 文携行を指 示され (﹃ 続紀﹄ 天平勝宝 四年 」 ハ月 壬辰条 ) '以後 は特 例を ( 85) 除 いて'国書なき場合 は放却を命 じられ て いる ( 天平宝字 四年九月葉卯 ' 同七年 二月莫末 '宝亀 五年 三月莫卯条 な ど 受け入れられた遣唐使 と比す る ことは でき ず ' この見方 を支 持 す る訳 に はいかな い。 そ こで'日本 の対唐外交 が 基本的 には朝 貢 で'国書 携行 の 可能性が高 いと いう立場 に立 つ時'む し ろ日働交渉 に往 目 せねは な らな r 86) い。 日働交渉 では'日=慰労詔書-働=啓 tと いう形 が とられ た。樹海 東天皇敬白 二西皇帝 「 ( 中略)謹白 不 レ具 。 書」 では問題が起 こる (﹃ 障害﹄ には 「 帝覧 レ之 不 レ悦。謂 二鴻臆卿 一日 の 「王啓 」 は、王名 の前 に 「臣」字 がな - (「某啓 」 の形)'「 永 敦 二隣 最近 '西嶋定生氏 は'㊦ の 「 致書 」を対 等 の文書 と見 る立場 から ' 「教 蛮夷書有 二無 レ礼者 ].勿 二復 以聞 ご とあ る) のでtG) .公式令 -詔書 好 .」 と述 べる ことより'書式上 は上長 に奉 ず る形式 を とりなが ら '内 。 式条 、 「 勅 日本 国王書 」などを勘案 し て'大 宝 以降 は' 「明神御 芋 日本 問もあ るが '日本側も '日勧間を 「 族惟 兄弟 '義則 君臣 」 ( ﹃ 続紀﹄ 天平 容上 は相手を同格 に扱 うと いう樹海 の対 日外交 姿勢 に基づ -も のであ っ ( 7 8) たと言われ てい る 。先述 のよう に' 「隣 好 」が 即対等 関 係を 示す かは疑 主明楽美御 徳敬白大唐 皇帝 。 云云。謹白 不具 。」 の書 式を 用 いた のでは ( 2 8) な いかとされ た 。前述 のよう に'国書 の書 式 と は異な る詔書 式 に拘 泥 し 3 8) ( 点 'な ど は支 持 し待 な た点 '右 の書式を対等性を示す ためのも のと した いが '対唐外交 での実例が 不明 であ る現時 点 にお いて、 た とえ対隔 外交 の例 とは いえ'日本 の国書 の実例が '㊦ ・⑦ の如 - 、 「 表 」形式 ではな 勝宝 五年 六月 丁丑'宝亀 三年 二月己卯 粂 ) と認 めて おり ' 「隣好 」 の表 ( 8 8) 現 '貢献物 の名称 も互 いに信物 '土毛等-新 羅 には許 さな か った- の表 9 8) ( ど 'あ- まで朝貢を要求 し て対 立 し た日羅関 係 と は異 な る そ こで'注目した いのが '日働交渉 におけ る樹 海 の国書 であ る 。新 荏 国王主明楽美御徳」 で始 まる書状 形式 ( 啓 '敬白 など) ではな か った か 以上 のような 日働関係を参照す る時 '私 は'遣唐 使 の国書 は' 「日本 現を用 いるな の克礼要求以後 の日羅間 の国書 のあり方 (日=慰 労 詔書 ︹「天皇敬 問 」 と考 え'先 の西嶋氏 の見解を支持 した い。 し かし'冊封 下 にな か ったと い点を考慮す る時'右 のような書状 ( 私状 )形 式を 想定 さ れ た のは優 れ の形式 ︺-荏-国書 ナ シ)を参照 し て' 「日本 の遣唐 使 が唐帝 より の勅 て通交を認 められたか否 かは問題が残 る と ころで'唐 の外交 形式 に関 す と ころがあ った。 書を授 かりなが ら日本天皇 より の国書 を携行 しな か った と思 われ る事 情 ( 4 8) 対等外交 」 とよ-似 ている」と解する意見もあ る が '日本 の対唐外交が 「 るより深 い理解が必要 であ ろうが '今 は右 の憶 測を 記 す に留 め'今後 の た着想 であ ると思う 。 でな か った ことは前 二章 で述 べた通 り であ る 。 また新 羅使 は'国書 不携 検討 に委 ね た い。 東蕃 」 の 一国 たる日本が ' 「表 」 ではな- '書状 形式 によ っ はい え ' 「 行 の明確な最初 の使人王子金泰廉 の時 こそ 入京 を 許 さ れ たが '今 後 の義 1 04 ( 3) 田島 公 「日本 の律令 国家 の ﹃ 賓 礼﹄」 (﹃ 史林﹄ 六八 の三) '平野 「 対等外交」主張 の 一っの根拠 ともな る- は国際 的 には表 明 され な か っ ただ'日本 の律令 国家 には二 つの対唐 観 が あ り '日本中 心主義 的 立場- 国書を携行 したと いう立場を '些 かな り とも補強 し得 たと考 え て いる0 解答 しか出 せな か ったが '対唐外交 は基本的 には朝 貢 であ り '遣唐 使 は かィたと いう 「 通念 」 に再検討を 試 み た。 いずれ の点 に ついても唆 味 な 本稿 では'対唐外交が 「 対等外交 」 であ り '遣唐使 は国書 を携 行 しな のよう に数 える ( 次数 、任命 ・出発年 月 ) 0 博徳 ら は唐本国 に行 っていな いので除 いた) 、遣唐 使 の次 数を次 とうし」 の項 の 「 遣唐使 一覧」を参照 し ( 天智 六年 十 1月 の伊 吉 ( 4)本稿 では、 ﹃国史大辞典﹄5 ( 吉 川弘文館 、 一九 八 五年 ) 「け ん 「慰労詔書 に関す る基礎的考察 」 (﹃ 古文書 研 究﹄ 二三) な ど。 け る新 羅 ・樹海使 の接 待 法 」 ( ﹃九 州 史 学﹄ 八 三 ) 、中 野高 行 類従完成会 ' 1九八五年 )'ブ ルー ス ・バ ー ト ン 「 律令制 下 にお び たが'正史 へ唐 の国書 の内容を掲載 しな いなど'国内的 には 一定 ︹ 以上︺ 心労明 二年 八月 、胤日経四年 五月 '㈲同 五年 二月 、㈲芳 明 五年 七 す の影響力を有 して いた。そう した いわば 二重 の対唐 観 の存 在 が 、 いかに 月 '㈲天智四年 、㈲同八年 、仰大 宝 元年 正月 任1同 二年 六月 、胤 む して日本 の対唐外交方針 の決定 に作 用 し た か'ま た外交 方針を 決 める場 霊亀 二年八月任1養老元年三月 、㈲天平 四年 八月任1同 五年 四月 、 卓治 「 律令位階制 と ﹃ 請書﹄」(﹃日本古代 の政治 と制度﹄ 続群書 は如何 であ ったか'など は未解明 であ り ' 「はじ めに」 で触 れ た外交機 ㈹天平十 八年 任1中 止 、仙天平勝 宝 二年 九月 任・ 1同 四年 閏 三月 、 (﹃ 歴史学研究﹄ 別冊 ' 一九 八三年 ) など 。 東 アジ アと日本﹄ ( 日本書籍 、 一九 八三年 ) など 。 ( 7)森克己 ﹃遣唐使﹄ (至文堂 ' 一九 六六年 ) 、井 上秀雄 ﹃ 変動 期 の 本歴史﹄ 二八〇) により' 「王」 とす る のが よ い。 ( 6) ﹃旧唐書﹄ は 「王子」 と記すが 、池 田温 「蓑 世清 と高衰 仁 」 (﹃日 学生社 、 一九八 一年 )0 ( 5)西嶋定生 「七世紀 の東 アジ アと日本 」 (﹃日本古代 史講 座﹄ 5' 七月 、㈹寛平 六年 八月任1中止 三年 三月 、仰承和元年 正月任1同 三年 五月1 同 四年 七 月・ 1同 五午 任1同十年 五月 、㈹延暦 二十年 八月任1 同 二十 二年 四月1同 二十 月再編 1中止 、㈹宝亀 六年 六月任 1同 八年 六月 '個同九年 十 二月 皿天平宝字 三年 正月任1 同三年 二月 、個同 五年 十 月任1同 六年 四 関 ・鎖積 の研究 と合 せて'今後 の課題 と した い。 文中 '憶 測 に頼 った部分 も多 - '不充 分 な点 は多 々あ ろう かと思 われ るが '諸賢 の照覧 に委 ね' ひとまず潤 筆 す る こと にした い。 註 ( -)鈴木靖民 「 奈良時代 における対外意識 」 (﹃ 日本史籍論集 ﹄上巻 ' 」 吉川弘文館 ' 一九六九年 ) '酒寄雅志 「古代東 アジ ア諸 国 の国際 意識 ( 2)石上英 1 「日本古代 7 0世紀 の外交 」 (﹃日本古代史講座﹄7' 学生社 ' 一九八二年 )'「 古代 国家 と対外関係」 (﹃ 講座 日本歴史﹄ 2'東京大学出版会 ' 一九八四年 ) など 。 1 05 ( 8)木宮春彦 ﹃日立交通史﹄上巻 ( 金刺芳 流堂 ' 一九 二六年 ) 、森註 いたも のと考 えられる。な お、 ﹃ 唐大和 上東 征 伝﹄ に 「 都塵 天 侯 る ことなどから、今 回の唐使 の 叫行 で'遣唐 使第 四船 に同乗 し て 冠軍大将軍太常卿 ( 正三品相当 )上柱 国高 鶴林 」とあ る のは、大 ( 7)爪 、山 田英雄 「日 ・唐 ・潮 間 の国責 に ついて」 ( ﹃日本考 古学 ・古代史論集﹄吉川弘文館 、 1九 七 g3 年 )な どG 使趨宝英 の帯官 ( 液転令 ︹ 従七品下 ︺)と比 べて疑問が残 り、後 ) O ( 9)拙稿 「﹃天・;1 1 i号 の成立を めぐ って」 (﹃日本歴史﹄ 四 叫八 考を侯 ちたい。 「遣 唐 使 と国書 」 一九 八 系月報﹄六 一)参照。 (27)大沢清臣 に関 しては、石井庄 司 「 大洋清臣が事 ども」 (﹃ 神道大 3)論文。 (26) 田島註 ( 唐使」 (﹃ 中央史壇﹄ 六 の四)な ど。 (25)由水生 「遣唐使」 (﹃歴史地理﹄ 五 の二㌧三) '西岡虎之 助 「遣 との校異 は ︹ ︺で示した。 稿) にょる。 ﹃ 古事類苑﹄外交 部 八四六貢∼八四七頁所収 のも の ( 2 4) ﹃粟里先生雑著﹄巻 八 「石上宅嗣補 伝 」 ( 明治 二十年 十 二月九 日 (23)石母田註 (12)論文。 亀期 の勅旨省 は内蔵寮 と重複す る榛能 を有 して いたとす る。 (22)角 田文衛 「 勅旨省 と勅旨所」 (﹃ 古代 学﹄ 一 〇 の二-四) は'宝 二二頁、鍋 田註 (19)論文など。 (21)坂本太郎 ﹃ 聖徳太子﹄ ( 吉川弘文館 ' 一九七九年 ) 二 〇 一 頁∼ 一 (20)石母田註 (12)論文 も同様 の指 摘を行 う。 汲古書院 ' 一九八四年 )。以下 '両便 の比較 は この論文 にょる。 (I9)鍋 田 一 「六 ・七世紀 の賓礼 に関す る覚書 」 (﹃ 律令制 の諸問 題﹄ 集﹄ ' 一九六三年 )。 (18)滝川政次郎 「 江都集札 と日本 の儀式 」 (﹃ 岩井博 士古稀記念論文 (17)註 (16)参照。 ( 0 1)平野邦雄 「 書 評 ・森公章 ﹃天皇﹄ 親 の成 立を めぐ って」 (﹃ 法制 史研究﹄三四)、川北靖之 「臼唐 律令 におけ る君主 の称 号 に つい て」 (﹃ 神道史論叢﹄国書刊行会 、 一九 八四年 )な ど。 )。 な お 、西嶋 定 生 (11)拙稿 「天皇号 の成立 とそ の意義 」 (﹃ 古代史研究 の最前線﹄第 一 巻 、雄山闇 、 一九 八 六年 、 )0 (﹃ 遣唐使研究 と史料﹄東海大 学出版会 へ 一九 八七年 )も同様 の 見解を呈して いる。 (12)石母田正 「天皇 と ﹃ 話者﹄」(﹃ 法 学志林﹄ 六〇 の三 '四 。 十り 使 謝時和 -」 と読 ん で いる (13)佐伯有清 ﹃ 新撰姓氏録 の研究﹄ 考証篇第 四 ( 吉 川弘文館 二年 )四〇 六頁∼四 一九頁参照。 ( 14)国史大系本 '朝 日本 はとも に 「-勅 が 、天平宝字 五年 八月甲子条 で は、中 謁老謝時和 と蘇 州刺 史李帖 が造船 、水手選定 の平茸を行 って いる。勿論 '彼 ら は勅命 によ っ たのであ ろうが '選定 主体 は彼 ら であ り '水手を勅使 と見 る こと はできな いので、本稿 のよう に読 む。 (15)拙稿 「耽羅方肺 考」 (﹃ 続 日本紀研 究﹄ 二三九 )参照。 (16)宝亀十年十月莫 丑条 で新羅使 ととも に来 日した唐客高 鶴林 ら五人 は' この新羅使が耽羅漂着 の第 四船救 出 に関連 し て来 日 した こと ( 註 (15)拙稿)'同十 7年正月 己 巳条 に唐使 判官高 鶴林 と見 え 1 06 八- 四三三〇号大同 二年 四月甘九 日大事府牒 にも 、唐= 「遺書 」 政治過程 の研究﹄吉川弘文館 、 一九八五年 )Oな お' ﹃ 平安遺文﹄ (28)平野邦雄 「国際関係 におけ る 〝帰化 〟 と 〝外 書 ″」 (﹃ 大化 前代 と、新羅 ・樹海 はそれ より劣 る論事 勅 書 であ ると いう 。但 し、右 唐末 の ﹃ 翰林学 士院 旧規﹄ 「 答著書 井使紙 及宝 函等事 例」 による (40) 因み に、唐 の日本 への国書 は慰 労制書 に定着 し ( 三 の表参照) 、 (43 ) 7)書 。 1) 、井上註 ( (45)増村宏 「誇大 '不以実対 に ついて」 (﹃ 鹿児島 経大 論集﹄ 二〇 の 一八 の三)参照。 ( 44)研究史 は増村宏 「旧新両唐書 目本伝 の理解 」 (﹃ 鹿児島経大論集 ﹄ 山川出 版 社 、 一九八四年 ) 0 金子修 一 「 唐代冊封制 一斑」 (﹃ 東 アジ ア史 におけ る国家 と農民﹄ (42)浜 田註 (訓)論文。 岩波書店 、 T九八七年 )八六頁 O ( 41)石上英 一 「 古代東 アジア地域 と日本 」 (﹃ 日本 の社会史﹄第 一巻 、 に ついては後考を侯 ちた い。 の書 には日本 の規定 は見 えず 、 この時 の 「大 国」 と の関係 の有 無 「 隔 倭 国交 の対等 性 に ついて」 ( ﹃ 文 の意識が見 え ている。 (29 )対晴外交 に ついては、徐先尭 化﹄ 二九 の二)など参照。 (30)石母 田註 (12)論文。 (31)川北 註 (10)論文 など 。 (32)金子修 一 「 唐代 の国際文書形式 に ついて」 (﹃ 史学 雑 誌﹄ 八 三 の 一 〇)など参照。 9) 、 (11)拙稿参照。 (33)註 ( (34)石原道博 「 中 国 におけ る隣好的 日本観 の展開 」 (﹃ 茨城 大学文 理 学部紀要﹄ 二) 、森註 ( 7)書 な ど 。 (35)湯浅幸孫 「遣唐使考弁 二則 」 (﹃日本 歴史﹄ 四六 四) も同様 の指 (37)山尾幸久 「遣唐使 」 (﹃日本古代 史講座﹄ 6、学生社 、 1九 八 二 (36)石母 田註 (12) 、平野註 (28)論文 な ど。 羅が 、独自 の年 号使用を問責 さ れ た例が あ る (﹃三国史記﹄ 羅 紀 が示され ている 。な お、年号 に ついては'唐 の冊封 下 に入 った新 と史料﹄東海大学出版会 、 7九 八 七年 ) 二七 八頁 にも同様 の見方 (鶴) 田中健夫 ・石井正敏 「古代 日中関 係編年 史料稿 」 (﹃遣唐使 研究 年 ) は否定説 、石井正敏 「 唐の ﹃ 将 軍呉懐実﹄ に ついて」 (﹃日 真 徳 王二年冬 、四年 是歳条 ) の で、独自 の年 号 の存在 は疑 われな 摘を行 う 。 本歴史﹄ 四〇 二)、「 大伴古麻呂奏 言 に ついて」 (﹃ 法政史 学﹄ 三 か ったと考 える 。 2、岩波書店 ' 一九 六 二年 )。 (S)西嶋定生 「六-八世紀 の東 アジ ア」 (﹃ 岩波 講座 日本 歴史﹄ 古代 (47)石母 田註 (12)論文。 五) は肯定説。 (灘)浜 田耕策 「 唐朝 におけ る樹海 と新羅 の争 長事 件 」 (﹃ 古代 東 アジ ア史論集﹄下巻 、吉川弘文館 、 一九七八年 )。 (39)石母 田註 (12)論文など。 1 07 (49)西嶋註 ( 5)、(舶)論文 '金結球 「初期 の日 ・唐関 係 に関 す る 1 考案 」 (﹃ 日本歴史﹄ 四二三)など。 3)論文。 (50)平野註 ( ・青木和夫 ・亀 田隆之 「 ︹輪講 ︺賦役令 ・附合 」 (﹃日 (57)平野註 (38)論文。 ( 8 5 )井 上光貞 本歴史﹄ 一四九)三三貢 。 (59)鈴木註 (56)論文。 (60)既 _5は復除年数 は復 原 できな いが 、そ の他 の部分 は大 宝 、養老 両 (51)遣唐使 の唐 での任官例 は次 の通 り であ る。 仰押便乗 田真 人1司膳卿 '副 使 巨勢 邑治 1率 、大使 坂合 部大 分 令文 は同文 である。また唐開元 二十 五年 令文 の構造 ・復除年 数 は 一九 四 弘仁十 1年 正月 甲午 粂 〇 六頁∼ 一 〇 八貢な ど. 唐文化﹄ ( 六興出版 ' 1九八八年 ) 1 8) の諸論文、パ ート ン註 (3)論文 '王金 林 ﹃奈良文化 と (68)註 ( (﹃ 思想﹄四五四)など。 7)毒 、石母 田正 「日本古代 におけ る国際 意識 に ついて」 (67)森註 ( 9)、(‖)拙稿参照。 (66)註 ( とにな る法令 に依拠 した蓋然性が高 い。 観 により、後 に改変が加わ った可能 性もあ るが '本条 の場合 'も ( 5 6) ﹃ 続紀﹄ は編纂史料 であ るから、正史 に窺 われ る日本 = 「中 国」 -)論文など。 (64)鈴木 、酒寄註 ( (63) この条文 に ついては註 (60)参 照。 釈' ︹ 雑令 29蕃使往還条義解 ︺) は除 いた。 を継承 した結果 ' 「 蕃」 に区別が見 られ るも の ( 職 18'公 86 の令 (62)但し、註 (15)拙稿 で触れ たような '令 釈 や義解 が古 記 の説 ・例 はな か った陵戸 の語 の使用例もあ るQ 服令2親王条集解古記など に明 ら かであ り 'そ の他 、大宝令文 に (61)古記が養老令文を知 っていた こと は'賦役令 21免期年 経役 条 へ衣 養老令文 と同 じであ る。 (㈲ととも に帰国)1衛尉少 卿 '仙大便藤原清河1特進 、副使大 伴古麻呂l銀青光禄大夫光禄卿 '同吉備真 備 1銀青光禄大夫秘書 監衛尉脚 '㈹判官高階遠成1中大夫試太子中 允 、 ( そ の他 、 ﹃ 後 紀﹄延暦廿四年 六月乙巳条 に 「 賜 二便人告身 .」 とあ る) 、仰大 使藤原常嗣1雲摩将軍検校太常 脚兼左金吾衛将 軍員 外置 同 正員 (52)唐以外 に 「絶域 」を用 いた例 は' ﹃ 続紀﹄養老 元年 十 一月甲辰粂 i復 終 レ身 。 」 、﹃ 類 衆 国史﹄ 巻 「 高麗百済 二国士卒O遭 二本国乱 7投 二於聖化 日朝庭憐 二其絶域 「 給 (樹海 へ の国書 ) の 「悠 々絶域 」 の二例 であ ろう0前者 は滅 亡 国 のた め'後者 は文字通 りの地理的遠 隔を 示す た めに 「 絶 域」を 用 いたと考 えておき た い。 (53)国名表記 に ついては金子註 (43)論文参照 。 ( 4 5) ﹃ 書紀﹄ でも 「唐国」を用 いた例が い- つかあ るが 、五国史 では 「大唐商 人 」 と いう言 い方 を 除 けは 、 「大 唐 」 の用 例 は少 な い ( 原史料 の引用 は除-) よう に思 われ る。 (55)但 し' ﹃ 那須国造碑﹄ には 「永昌元年 」 の年 号 が見 え' 一定 の知 識 は流入 か。 (56)鈴木靖民 「﹃賦役令﹄外書還条覚 え書 」 (﹃国学院雑誌﹄ 六八 の 〇)な ど。 一 08 ( 69)板沢武雄 「日唐通交 に於ける国書 問題 に ついて」 の 1)など。 (﹃ 史林﹄ 二四 慰労詔書 に盛 り込 まれると見 て いる。 (82)西嶋註 (‖)論文。 け のポ ーズ'国書 には 「国王」 の字 を 入れ '君臣関 係を 示 した' ( 83)但 し'西嶋註 (11)論文八四貢 ∼八 五貢 では'対等 姿勢 は国内 向 (71)川北 註 (10) '西嶋 註 (11 ) 論 文 な ど ほt i vの 「建 中 以往 」を 書式 は 「 表 」 の可能性もあ るtな ど の示唆 も 示 され て いる ( 西嶋 ( 70)西嶋註 (‖)論文。 「建中以降 」と解 しているが '建 中 元=宝亀 十 1年 であ り' この (85) ﹃ 続紀﹄ 天平宝字 八年 七月甲寅条-唐 国勅 使韓朝 彩 に日本 国僧戒 (84 ) バ ート ン註 ( 3)論文。 氏自身 はこれらを否定)0 ﹃ 新訂 日宋貿易 の研究﹄ 間'遣唐使㈹ ︹ 延暦 20︺まで遣使 はな いので' 「 以往 」 は 「 以前 」 と解す べき であ ろう。 ( 72)中国における貿易統制 のあり方 は'森克己 融 の本国達 不を告げ るため'宝亀 元年 三月 丁卯条 -藤 原河清 '朝 衛 の書を費す'同十年十月乙巳条-耽羅漂着 の遣唐使救出 ( 但 し' ( 国書刊行会 ' 一九 七五年 )三 三頁 ∼四五頁な どを参 照 。 (73)山尾註 (37)論文 。 同十 一年 二月庚戊条 では' 「 表 」な - し て入京 な しと いう原則 が ( 69)論文など でも指摘 され ている 。 (74)板沢註 示され ている)。 (日本学術振 興会 特 別研究員 ) (89)拙稿 「 古代 耽羅 の歴史 と日本」 (﹃ 朝鮮学報﹄ 二 八)参照。 年 六月十 八日太政官牒 など 。 ﹃三代実録﹄貞観十 五年 五月廿 五 目条 ' ﹃ 都 氏文集 ﹄ 巻 四元慶 元 正月英丑'天長三年 五月辛 巳条 ' ﹃ 続後紀﹄承和九年 四月丙子条 ' (88 ) ﹃ 続紀﹄宝亀 三年 二月己卯条 ' ﹃ 類 釆 国史﹄ 巻 一九 四弘仁十 三年 (87)石井 正敏 「 第 一回勧海 国書 に ついて」 (﹃日本 歴史﹄ 三 二九 ) 。 式が基本 であ った。 天平宝字 三年 正月庚午条 には 「 表 」奉 口 王の記事 も見 え るが '啓 形 (86 ) ﹃ 続紀﹄天平勝宝五年 六月丁丑条 では上表文 でな い点が問責 され ' (75)山 田註 ( 8)論文。 (76)中村 裕 一 「 唐代 の慰労制書 に就 いて」 (﹃ 律 令制 ﹄ 汲古書 院 ' 一 九八六年 )。 (77)中村 裕 一 「 惰唐 五代 の ﹃ 致書﹄ 文書 に就 いて」 (﹃ 武庫 川女 子大 史学研究報告﹄Ⅴ)0 (78) これらを めぐ る論争 に ついては'西嶋 定生 「遣隔 使 と国書 問題 」 (﹃ 学 士会会報﹄ 七七六) に簡 便 な整 理が あ る 。 (79)足立喜 六訳注 '塩 入良道補注 ﹃入唐 求法 巡礼 行 記﹄ - ( 平 凡社 ' 一九七〇年 )四四頁。 ( 80)西嶋註 (‖)論文。 ( 81)中 野高行 「慰労詔書 と ﹃ 対審使 詔﹄ の関 係 に ついて」 (﹃ 古文 書 研究﹄ 二七) は'詔書式 は和文 を 重 し'そ の内 容が漢 文化 さ れ て 1 09
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