心理学史の中の 女性たち [第 1 回] シャーロッテ・ビューラー サトウタツヤ 立命館大学総合心理学部教授。学校法人立命館・ 学園広報室長。日本心理学会教育研究委員会資料 保存小委員会委員長。今回から女性心理学者に焦 点を当てた新シリーズが始まります。 時期区分というのは便利なもの はなく,アメリカからトールマ で,時間の流れにメリハリを与え ン,ニール・ミラーなども滞在し てくれる。たとえば地球の歴史で て教えを受けていた。 言えば氷河期。人間の発達でいえ シ ャ ー ロ ッ テ は, 詳 細 な 観 ば反抗期。いずれも「期」という 察に基づいて提案した発達検 語をつけることで,ある時期のこ 査(1928) お よ び そ の 改 訂 版 とだということを示しているし, (1935;ヘッツァーとの共同研究) 氷河期や反抗期は「有る」ものだ と思わせてくれる。しかし,これ らは「概念」にすぎない。 反抗期という概念を提唱したの 真ん中がシャーロッテ,彼女の左手 側は夫のカール,右手側はマズロー (IQ)に範をとり発達指数(DQ) (1959) http://www.apa.org/monitor/2016/02/ という概念化を行ったのもシャー immigrant-couple.aspx が関心を集めていた。知能指数 ロッテであった。また,日記を用 がシャーロッテ・ビューラーであ いた分析を行い今でいうライフサ ナチス ・ ドイツに侵攻される数日 る。彼女は裕福な建築家の娘とし イクルに関する先駆的な研究を 前のことであった) 。 て生まれ,ミュンヘン大学のキュ 行っていた。児童期と青年期に現 アメリカに移住した夫・カー ルペの元で心理学を学び博士号を れる親に対する反抗的な時期を反 ルは年齢が 60 才だったこともあ 得 た(1918)。 そ の 2 年 前 に ヴ ュ 抗期(第一,第二)と名づけたの り,ドイツでの名声を活かすこと ルツブルグ学派として思考や言語 も彼女であった。そもそも彼女は はできず,逮捕のショックもあっ の研究をしていたカール・ビュー 日記をつけるということが青年に てアメリカでは精彩を欠いていた ラーと結婚。1928 年にウィーン 特徴的な行動であることに注目し と さ れ る。1945 年, ビ ュ ー ラ ー 大学で心理学の准教授となる。教 たからこそ日記を素材にして青年 夫妻はカリフォルニアに移住し 授を務める夫・カールと共に心理 の心理について詳細な分析を行っ た。シャーロッテは南カリフォル 学研究所を主宰し,その当時はあ たのであった。 『児童期と青年期』 ニア大学医学部の准教授のポスト まり重視されていなかった児童心 (1928),『若者の心』 (1929) , 『児 を得て,新しい研究に着手した。 理・青年心理の分野の研究を行っ 童の社会的行動』(1930)などの まず,彼女は集団精神療法に関心 た。彼らの元ではラザースフェル 著書は大きな評価を得ることに をもった。また,マズローやロ ト,ブルンスヴィック,ルネ・ス なった。 ジャーズと知己を得ることによっ ピッツらが研究を共にしただけで だが,ユダヤ人だったシャー て,人間性(ヒューマニスティッ ロッテには時代の暴力が押し寄せ ク)心理学の活動にも関心をもっ る。1938 年 3 月にヒトラーが率い た。1962 年 に は『 心 理 療 法 に お るナチス・ドイツがオーストリ ける価値』を刊行した。 アを併合したのである。この時, カールが 1963 年 10 月に亡くな シャーロッテはロンドンに滞在中 るとシャーロッテはその後 10 年 であったが,オーストリアにいた ほどアメリカで講義や研究に勤し 夫・カールは当局に逮捕されてし み,晩年はドイツに移住した。彼 , まった。カールが釈放された後, 女は自伝を残しているが(1972) Bühler, Charlotte(1893-1974) http://america.pink/charlottebuhler_938365.html 夫婦はノルウェーに避難して 1 年 それによると,様々な土地で暮ら ほど滞在した。そしてカールがミ し多くの知己を得たことが人生 ネソタのカレッジに職を得るこ の喜びであったとのことである。 とができたため 1940 年にはノル シャーロッテは 1974 年 2 月に亡く ウェーから離れた(ノルウェーが なった。 29
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