福音のヒント 年間第 4 主日 (2017/1/29 マタイ 5 章 1-12a 節

福音のヒント 年間第 4 主日 (2017/1/29 マタイ 5 章 1-12a 節)
教会暦と聖書の流れ
この箇所の直前、マタイ 4 章 24 節に次の言葉があります。「人々がイエスのところへ、
いろいろな病気や苦しみに悩む者、悪霊に取りつかれた者、てんかんの者、中風(ちゅうぶ)
の者など、あらゆる病人を連れてきたので、これらの人々をいやされた。」きょうの箇所は
この「群集」を見て、イエスが語った長い説教のはじめの部分です。特定の「弟子」だけ
でなく、群集も聞いていたことは、この説教の結びの箇所(7 章 28 節)からも分かります。
福音のヒント
(1) マタイ福音書5~7章の長い説教
は、以前はよく「山上の垂訓」と言われて
いましたが、今では「山上の説教」と呼ば
れることが多いようです。イエスがある時、
実際に語った長い説教が記録されていた
と考えるよりも、さまざまな場面でイエス
の語られた言葉がつなぎ合わされて今の
形になったと考えたほうが良さそうです。
何のために初代教会の人々は、これらのイ
エスの言葉を集めたのでしょうか。
内容から考えて、これらの言葉は、新しくキリスト信者になった人々に、キリスト
信者としての新しい生き方を指し示す言葉として集められている、と考える学者がい
ます。だとしたら、まず第一に「幸い」と言われているのも納得できるでしょう。
(2) きょうの箇所は「八つの幸い(真福八端)」と呼ばれています。この「八つの幸い」
の前半とよく似ているルカ福音書の「3つの幸い」を比べてみましょう。
マタイ5章3節 心の貧しい人々は、幸いである。天の国はその人たちのものである。
4節 悲しむ人々は、幸いである。その人たちは慰められる。
5節 柔和な人々は、幸いである。その人たちは地を受け継ぐ。
6節 義に飢え渇く人々は、幸いである。その人たちは満たされる。
ルカ6章20節 貧しい人々は、幸いである。神の国はあなたがたのものである。
21節前半 今飢えている人々は、幸いである。あなたがたは満たされる。
21節後半 今泣いている人々は幸いである。あなたがたは笑うようになる。
マタイの3節とルカの20節、マタイ6節とルカ21節前半は多くの言葉が共通しています。
マタイ4節とルカ21節後半も内容的にはよく似ています。もともと1つのイエスの言葉が伝
えられていくうちに2つの形になった、と考えることができるでしょう。そしてさらに言え
ることは、単純なルカの形のほうが元の形に近いだろうということです。
マタイの5節「柔和な人々は」の句はルカにはありませんが、この言葉は、詩編37編11
節の引用と言ってもよい言葉です。新共同訳聖書でこの箇所は「貧しい人は地を継ぎ」と
訳されていますが、「貧しい」と「柔和な」はどちらもヘブライ語では同じ「アナウ」という
言葉(もともと、身をかがめて小さくなっている様子を表す言葉)です。古代の写本の中に
は、4節と5節を入れ替え、「心の貧しい人々は」の句の次に「柔和な人々は」の句を置い
ている写本があります。「柔和な」の句はおそらくイエスの言葉が伝えられていく途中の
段階で、「心の貧しい人々は」の句を説明するために挿入されたものでしょう。
(3) 「貧しい人は幸いである」というと1つの叙述文ですが、原文の語順どおりに訳
せば、「幸い、貧しい人々。なぜなら、あなたがたのものだから、神の国は」(ルカ)とな
ります。これは目の前の人に向かって語りかける祝福の言葉なのです(マタイは三人称
になっていますが、同じように受け取ることができます)。イエスは、病人やその家族とい
う、他に頼るところもなくイエスのもとに集まって来たボロボロの群集に向かって、「幸
い」と語りかけたのです。
「貧しい人」「飢えている人」「泣いている人」がなぜ幸いなのか。それは「神の国はあなた
がたのもの」だからです。「国」はギリシア語で「バシレイアbasileia」で、「王(バシレ
ウスbasileus)であること、王となること」を意味します。神は決してあなたがたを見捨
ててはいない、神が王となってあなたがたを救ってくださる、だから幸いなのです。
「満たされる」「慰められる」という受動形は、「神が満たしてくださる」「神が慰めてくださ
る」の言い換えです。これも同じことで、これこそがイエスの福音=よい知らせなのです。
この言葉をわたしたち自身に向けられた「福音=よい知らせ」として聞くこと、こ
れが「幸い」の言葉を受け取るためのもっとも大切なヒントです。
(4) 「心の貧しい」は明治以降の伝統的な日本語訳ですが、ほとんど誤訳と言わざる
をえません。「心が貧しい」という日本語は「精神的貧困」を意味しますが、ここではそ
ういう意味ではないからです。直訳は「霊に貧しい」で、「神の前に貧しい」という意味に受
け取るのがよいと考えられます。マタイは決して物質的な貧しさを無視しているのではな
く、物質的な面だけでなく、神の前にどうしようもなく欠乏し、飢え渇いている人間
の姿を示そうとしているのです。なお、フランシスコ会訳聖書は「自分の貧しさを知る人」
と訳し、新共同訳ができる前の共同訳聖書は「ただ神により頼む人」と訳しています。どち
らもかなり大胆な意訳ですが、参考になります。
なお、ルカがただ「飢えている人」というところを、マタイは「義に飢え渇く人」と言
います。ここでもマタイは神との関係を強調していると言えるでしょう。
(5) マタイの後半の4つの幸いは、貧しいだけでなく、その中でもっと前向きに生き
ようとする人々の姿を表しています。それは「憐れみ深い」「心の清い」「平和を実現す
る」「義のために迫害される」という生き方です。「八つの幸い」というマタイの形はもはや
単なる祝福ではなく、その祝福の中を生きるとは具体的にどういうことかということ
をも示しているのです。そういう観点から「八つの幸い」全体が整えられていったと考え
ることができるでしょうし、「八つの幸い」全体を受け取ることは、わたしたちにとって
も大切なことです。なお、ルカ福音書では別の発展がみられますが、今回は触れることが
できません(C年年間第6主日の「福音のヒント」参照)。