論文題名: 近代日本における「Philosophy」の翻訳に関する研究 - R-Cube

博士論文要旨
論文題名:
近代日本における「Philosophy」の翻訳に関する研究
立命館大学大学院文学研究科
人文学専攻博士課程後期課程
フリガナ
氏名
ホー
許
チヒャン
智
香
本稿は、近代日本における「Philosophy」の翻訳に関する研究である。そのなかでもとくに、
二つの時期を想定して本課題に取り組む。まず、一つ目は、Philosophy を漢字語「哲学」には
じめて翻訳したと知られる西周(1829〜1897 年)の経験に注目する。すなわち、かれが西洋の
概念を翻訳する過程で書きあげた文章を取りあげ、以前には見られない新たな「学」という概
念のなかで「哲学」をどのように位置づけようとしたのか、そして、実際にかれが西洋の概念
を翻訳する際においてどのような文献を読んでいたのかに注目し、他の概念との関連性も視野
に入れながら「哲学」の翻訳過程について考察していく。二つ目は、西周の次の世代に当たる
時期である。そこでは、Philosophy の訳語として「哲学」がすでに定着し、東京大学の学科名
として選ばれた時期である 1870 年代より、井上哲次郎の『哲学字彙』という字典が出版される
1880 年代を中心に、制度としての「哲学」の定着について論じる。各部におけるおおかまな内
容は以下のとおりである。
まず、第Ⅰ部「「辞」から「概念」へ―西周(1829〜1897 年)と Philosophy 翻訳」では、
西周という人物に注目し、かれの Philosophy 翻訳過程を明らかにする。まず第 1 章では、西周
の思想遍歴に注目する。これまで主に朱子学への批判および徂徠学への志向より説明されてき
た部分についてその問題を指摘したあと、西が通っていた津和野藩の「養老館」における教学
の形成過程を辿る。創立当時より、西周が身を置いた時期までの長い期間を視野に入れながら、
西の思想遍歴というのが単に朱子学への批判として説明しきれない部分があることを指摘する。
また、亀井茲監の藩政改革によって国学が養老館の理念として掲げられた時期に西が養老館に
入学していること、その時期における具体的な教師などを取りあげ、西の青年期を具体的に再
現することを目指す。
第 2 章では、Philosophy の翻訳過程を問う既存の研究が、実際の「哲学」という概念が出現
する文脈に集中されてきたのに対し、多少異なる方向から問題にアプローチする。具体的には
Philosophy を、既存には存在しなかった名詞に記録する経験自体を、かれが生前行った翻訳作
業のなかから論じるために、まず、西周の翻訳作業がはじまった原点であるかれのオランダ経
験に戻る。その際にかれが持って帰った講義筆記の翻訳物である『性法説約』を取りあげ、西
洋概念を特定の名詞に記録することで、「性」という既存のものに何が起こったのかを明らか
にする。その次に、西の「尚白劄記」を取りあげ、かれが西洋の概念を理解する際に「理」と
いう概念が前提になっている事態について指摘する。そして最後に、「哲学」という翻訳語と
関連して、以上の「性」「理」のバリエーションを「生性発蘊」より確認することで、「哲学」
という翻訳語の文脈について新たな考察を試みる。
第 3 章では、西の「百学連環」を取りあげる。「百学連環」は、かれが 1870 年に開いた私塾
「育英舎」で行った講義である。本稿では「百学連環」を、近代的訳語の出現や、近代的学問
の様子を確認できる資料として考える前に、かれが具体的に何をもとにして「百学連環」を構
想したかを明らかにする。その上で、西周にとって「学術」とはどのようなものだったかにつ
いて考察する。
第Ⅱ部「概念の定着―制度としての「哲学」」では、西周の後の世代を軸に、概念の定着
様子を考察する。ここで「制度」というのは、単なる学科制度のみならず、他の言語との関係、
また当時「哲学」という名のもとで形成された言説の場や教科内容まで含む。ゆえに第 1 章で
は、東京大学という近代的学術システムを主題の中核に置きつつ、以下の諸問題について答え
ていく。ⅰ)「理学」という言葉との関係、ⅱ)『哲学会雑誌』における「哲学とはなにか」
という問いの反復、ⅲ)学制編制の具体的な内容、ⅳ)「哲学史」という問題である。帝国大
学の専攻科目名に「哲学」が選ばれたことが、その訳語の定着に決定的であったという指摘は、
これまでの研究においても多く指摘されている。第 1 章では、他の言語との関係、問いの構造、
哲学史に含まれた思想といった問題を、近代的学術制度と関連づけてより具体的に問うことに
する。
制度としての「哲学」を問う際にもう一つ欠かせないのは、字典という要素である。第 2 章
では、1881 年に東京大学の井上哲次郎・和田垣謙三・有賀長雄が編纂した『哲学字彙』を取り
あげる。具体的には、まず井上哲次郎の言語観を取りあげ、かれが 19 世紀後半において漢字翻
訳語を肯定し、それを活用して字典を編纂したことを指摘する。また、当時刊行された他の字
典との比較を通じて、概念の説明がほとんどなく、アルファベットの見出し語と、漢文注釈か
ら遠く離れた新たな漢字語が、綺麗な一対一の対称関係を見せている『哲学字彙』の性質につ
いて考察する。
最後に補論では、明治日本で具体的に生成された学知としての「哲学」が、植民地朝鮮とど
のような関連性をもつのかについて考える。具体的に補論 1 では、これまで日本思想史分野に
閉じ込められて論じられてきた井上円了という人物を取りあげ、かれの朝鮮巡講活動を、かれ
の「哲学」認識と関連させて考察する。そして補論 2 では、安倍能成という人物を取りあげる。
安倍能成は、植民地朝鮮における最初の官立大学である京城帝国大学の哲学科で、15 年間「哲
学及び哲学史」を教えた。補論 2 では、かれの講義がどこから起因しているのかについて、大
正期におけるかれの哲学関連著作および活動より探ってみる。そこから「教養主義」と「個人
の自由・内面」を主な性質とする大正期のアカデミー哲学の一面を明らかにし、その植民地と
の関連性について考察する。ここでは、かれが残した講義ノートが主な論証の対象となる。