博士論文要旨 論文題名:中世後期京都の社会構造 立命館大学大学院文学研究科 人文学専攻博士課程後期課程 サカワ ユキコ 酒匂 由紀子 本論文は、中世後期における京都の社会構造の解明を目指すための問題提議と予備的考 察を目的としたものである。 中世後期の京都の研究は、京都を都市と位置づけつつ考察してきたものが多い。そうし た研究のなかで、林屋辰三郎氏が唱えられた「町衆論」は、後々の研究に多大な影響を及 ぼしていく研究である。同氏は、「町衆」を「この内乱(応仁・文明の乱を指す)を契機 に都市生活の全面に進出し来った「町」に拠って地域的な集団生活をいとなむ人々を指」 すと定義付けた。具体的には、「町衆」による自治に関しての研究を展開され、特に祇園 会における山鉾巡行の再興は、権力に抵抗する「民衆」の自治の象徴と位置付けられた。 林屋氏は、「町衆」のなかで指導者的な立場にあったのが、富裕層であった土倉・酒屋 であったとされる。この定義の影響は甚大なもので、都市史研究、民衆史研究、経済史研 究のみならず、「町衆」である土倉・酒屋による土一揆撃退や法華一揆としての戦争行為 を行ったとし、土一揆研究や宗教研究史へも「町衆」の自治の論理は波及していった。 他方で、そうした土倉・酒屋について経済史研究の分野では、土倉・酒屋=金融業者・ 質屋という前提を基に進められてきた。豊田武氏は、土倉とは質をとって金融を行う者で あり、この質を土塗りの倉に納めて保管したことから土倉という名がついたとする。いう なれば、従来における土倉とは、店の者と店舗自体を指してきたことになる。また、土倉 を兼帯する酒屋が多かったと捉えられてきたため、両者は同業者として扱われてきた。 この分野において、土倉・酒屋を検討対象にした研究で成果があげられてきたのが室町 幕府財政の研究と、それに関連する延暦寺の山徒の土倉のものである。南北朝期から戦国 期まで、京都には土倉・酒屋が存在し続け、幕府から役を賦課され続けていた。その役の 徴収には、山徒の土倉のうち納銭方に選出された者があたっていたことが明らかにされた。 また、この徴収の仕組みが、応仁・文明の乱後に変化することについても詳細が示されて きた。 しかしながら、「町衆論」の論理と経済史研究の成果を合わせて考察された土倉・酒屋 像は、諸権力に頼らず、京都の都市内で利潤を生みだしつつ、幕府と山門の下で役銭を払 い続ける商人というものであった。この様相は、他の中世京都の民衆の様相とは、およそ かけ離れたものであった。 こうした考察の結果となる理由として、土倉・酒屋の実態が明らかになっていないとい うことがあげられる。そこで、本論文では、第1章から第3章において、土倉・酒屋の本 質を解明するための布石ともいうべき研究を行った。 第1章では、土倉名簿と位置付けられてきた天文十五年の分一徳政令史料の解釈を再検 討した。結果、同史料は、京郊の村々とその周辺の土豪との間で生じた貸借関係であり、 土倉名簿として利用できるものではなかったことが判明した。本章での検証により、本来 土倉ではなかった者を、近年の研究が土倉と意味づけていたことが明らかになった。 第 2 章では、土倉・酒屋の本質を探究することを目的とした研究を行った。従来のよう に法制史料を用いるのではなく、古記録を用い、古記録の執筆者と土倉との関係に注目し た。結果、両者との間に主従関係が認められる事例も確かめられた。本章での検証により、 土倉は京都において、特殊な身分・立場なのではなく、他の都市民と同様に複数の権門に 兼属していたことが明らかとなった。 第 3 章では、土倉・酒屋が都市の金融業者であるとする解釈が、いつどのように形成さ れていったのかということについて検証した。結果、明治 20 年~30 年代の研究にたどり 着いた。しかも、中世の社会状況や習慣などを考慮した解釈だったのではなく、近世史料 から考察されたものであったことが判明した。 以上のことから、土倉・酒屋を通して描かれた中世京都の様相について、再考を迫るこ とができると考える。 他、京都経済に関する研究と「町衆論」に関する論文を付論とした。
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