感覚と論理を調整する[つくること] 池側隆之(名古屋大学/映像デザイン,デザイン方法論研究) 電車に乗っているとき,見晴らしのいい田園風景の中などで,線路と平行に走る道路上を車が移動するの を車窓から見かけることがある。最初は車が先行しているため,進行方向斜め前方,やや遠目にそれを確認 するのだが,スピードを上げた電車が車に追いつくと,しばらく併走することになる。流れる風景の一部程 度にしか意識していなかった車の存在は,併走が始まった途端,まるで見えない線でつながる支持体として 知覚され,それまで体が感じていた揺れや耳に届いていた小刻みなリズムは雲散霧消し,ほどなく自分の乗 る電車が地表面を静かに滑走しているように感じはじめる。やがて,カーブに差し掛かった車はそのスピー ドを落とし,直進する電車は何事もなかったかのように,運行という規則に基づく世界に戻っていく。そこ にはもう滑走の感覚はなく,再び車窓の風景は明確な輪郭線を持たずにただ流れていく。 動くものが他の動くものを触覚,視覚,聴覚などの感覚を通じて捉えて,さらに対象となる他の動きに連 動することを私たちは「同期」と呼ぶ。一方が静止した状態で動く他方を捉えることは「同期」とはいえな い。動態が動態を捕捉して,初めて両者の間に「同期」が生まれる。動的な存在の集合である世界は常に変 位しながらまさに動態としてそこにあり,様々なレベルにおける対象との同期経験を経て,私たちは生きる ことを実践している。正確にいえば,繰り返される「同期」への試みこそが生きることの実践であろう。す なわち,同期そのものが重要というよりは,同期を目指す調整的な作業を介して生活は見いだされるのであ る。この場合,その対象となるのは,変化を伴う環境であり,その環境に置かれたアーティファクト(人工 物)であり,自分を含めた生態などである。食事の際,私たちは無意識的にスプーンを使う(使いこなす) が,例えば食べ物を掬うこと/口に運ぶこと/摂ること,このそれぞれの動きの間に,身体が皿の上の食べ 物/食べ物がのったスプーン/スプーンから離れる食べ物との同期を試みている。そして同期が達成される や否や次のステップが動きだし,両者の関係は再び新しい同期を目指す。そういった一瞬一瞬の経験の積み 重なりが生きる術となって身体に蓄積されていく。この同期は,電車の例のように経験や認識の世界だけで 起こるのではなく,動的な存在としての私たち人間は, [つくること]を介して意識的に対象と同期すること がある。それは, [つくられたもの]を介して同期するのではなく, [つくること]そのものを介し成される のである。 [つくること]は, 「何」を「如何に」 ,あるいは「如何」に「何を」を思考しながら,有形無形を 問わず「かたち」という何らかの帰結を目指す作業である。 [つくること]においては,その工程の各段階で 想定された理想形に近づくごとに,すなわち,同期ごとに違う世界が認知されるといってもよい。 筆者の専門分野の動向にも少し触れておきたい。近年,建築やデザインの領域では,デザイン方法論に関 する議論が活発に行われている。そもそもデザイン方法論研究は,1960年代の高度成長期に「価値観の多様 化が進み,機能の複雑化,規模の拡大化,デザイン対象の広域化が要請され,一方では生産の合理化が求め られるようになったことを背景として,経験と勘に頼っていたデザイン行為を,客観的に体系化することを 目指して始められた」1ものである。そんな中,建築理論のクリストファー・アレグザンダー2は『形の合成に 関するノート』 (1964)を発表する。そこでは,人間の[つくること]の歴史を3つの段階に分けて説明して いる。 最初に,素材に対する手触り感とコンテクスト(使用環境)への意識,つまり直観的なものづくりの行為 の中にみられた原初的な工程を「無自覚なプロセス」と呼んだ。この場合,多くは作り手と使い手が一致し ていた。次に,アレグザンダーは文化的集団的秩序の形成にあわせて生じたものづくりの社会的要請を,観 念を介するものづくりとして「自覚されたプロセス」と呼んだ。この段階ですでに私たちはデザイナーの存 在を確認することができる。しかしアレグザンダーは,このような頭の中にあるコンテクストの像に頼って 仕事をすることの多くがデザイン行為において間違いを生む元凶であると指摘し,ものづくりの工業化にお いて発生した専門性を伴う分業の工程で共有される観念を「数学的な像」 ,すなわち記号(図像)化し,それ によるものづくりを「改善・自覚されたプロセス」として,当時のデザインに不可欠な視座として提示した。 アレグザンダーが踏み入ったデザインプロセスの理論化作業はデザイン方法論を形成し,直観のみではない 「方法論」が機能するデザインという分野を肯定することが,元来学問が追究する「探求という科学的行為」 の対象としてデザインをとらえる契機の一部になったといえる。初期デザイン方法論が目指した「如何につ くるべきか」は,高度に分業化/専門化された工程において,そこに関わる人間が他者と,あるいは工業化 した作業環境と円滑にコラボレートできるデザインプロセスの探求であり,それは「協働」を促すものであ る。 しかし,1970年代には,デザイン方法論に関する議論は一旦下火となる。それは,豊かな時代の到来と共 に社会が複雑の度合いをいっそう増し,実際にデザインによって対応できる問題を一義的に定義できないと する認識が一般化したためである。そしてそれ以降,社会は工業化から脱工業化へ,電子化から情報化へと 加速し,今日私たちの周辺には情報環境が構築されている。物の消費においても,時代は不特定多数に供給 するマス・プロダクションから,明確な個性を有した多数のニーズに呼応するマス・カスタマイゼーション へと変容してきている。デザイン方法論への関心も高まり,誰もが工程に参画できる「協働」性を伴った民 主的なデザインプロセスも検討されてきた。したがって,現代における「如何につくるべきか」は, 「何をつ くるべきか」の議論と双対の関係でなければならない。すなわち,デザイン方法論の意義は, 「合理性の追求」 というベクトルだけではなく,常に「如何に創造的であるべきか」という作り手自身に向けられたベクトル と共に機能しなければならないといえよう。計画性と恣意性の混淆,認識と実践の両義性,あるいは構造的 作業と直観的作業の連関によってものづくりは成立する。 今日では, 「何を探求するのか」と「如何に探求するのか」という問題意識の狭間に自らを置き,それを創 造的な行為として捉える建築家やデザイナーが増えており,理論分野でもこの傾向は着目されつつある。し かし, 「何を探求するのか」と「如何に探求するのか」の間を行き来する自由度は,下手をすると創作行為を 堂々巡りの状態に陥らせる危険性を孕んでいる。したがって, 「何を」と「如何に」の調整,すなわち両者に 対する意識的な同期を適度に制御し,創造的可能性に身を委ねるには極めて高度な実行力が求められる。最 善の解を目指すこの往還的作業を,建築の場合は「スタディ」 ,プロダクトデザインの分野では「プロトタイ ピング」と呼んでいる。ここで[つくられる]ものは,建築模型や実働可能なモデルであり,このアウトプ ットは新たな調整的作業を生じさせる次工程のインプットとなっていく。 生命を宿され常に動的な存在であるはずの私たちは,一度立ち止まり,物事を静観し,客観的であること を学びの基本としてきたといえるのではないか。また教育においても, 「何を」と「如何に」を同時に捉え, それらを一度に分析対象とすることは極力避けられてきたといえよう。 「如何に」 (分野ごとの方法論)が明 確でないと, 「何を」 (研究対象,問題設定)は探求できない。逆に, 「何を」が見つからない限り,既存の「如 何に」は適応できない,と。 「何を」と「如何に」を共存させることは相当の労力を要する。しかし,アレグ ザンダーの指摘するとおり,かつて人類は[つくること]において無自覚的にそれを実践してきていた。現 代においては[つくること]に新たな「改善されたプロセス」が求められ,そこでは「何を」と「如何に」 を「自覚的に」共存させること,そしてその流動性の中から何らかの結果を導き出すことが重要となる。す なわち,持続可能性や共生の問題を思考し,また価値創造への道筋を整備するためには,周辺環境を知覚し, 調整的な同期作業の活発的な循環が至る所で求められるのである。 対象との同期を目指す調整的な作業を通じて,新しい世界像を捉えることができないか。常にプロセスの 中にあること,そして,動態が動態を捉えること。その同期の中に生じる「可能性」を実社会に引き出す判 断力こそが客観性と呼べるものであろう。客観性は, 「何を」と「如何に」の同期の狭間にこそ立ち現れるも のである。その客観性は[つくること]の理解を通じて新しく獲得する真理であり,本プロジェクトはその 探求を担う可能性を実証しつつある。人類学をベースとしながらも,プロジェクト・メンバーのそれぞれの フィールドへの応用的展開がさらに期待され,概念的にも近接する先述の建築やデザイン領域の動向におい ても新しい視座を提供するものとなるであろう。 研究プロジェクトでは,分野を異にする参加者らが,ディスカッション,作品鑑賞,そしてワークショッ プを1年にわたり実践してきた。次の1年間では,さらにアートやデザイン,そして認知科学や生活科学など の視座を積極的に取り込みながら,感覚と論理を調整する[つくること]の本質と可能性を理解し,動的な 人間の生に立脚した視座から世界をつかまえることを[表現=作品]によって提示することを目指す。プロ ジェクト・メンバーの領域をつなぐのは,生きることの実践の場としての生活であり,日常である。探求を 通じて捉えたこれらの場から,再度学問の世界にダイブを試みたいと考える。 1 門内輝行「設計科学としてのデザイン方法論の展開」 『建築雑誌』vol.119 No.1525,18,2004 専門は建築・都市計画,著書に『パターンランゲージ』 (1984,鹿島出版会)などがある 2
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