緋色の詩 スノウレッツ ︻注意事項︼ このPDFファイルは﹁ハーメルン﹂で掲載中の作品を自動的にP DF化したものです。 小説の作者、 ﹁ハーメルン﹂の運営者に無断でPDFファイル及び作 品を引用の範囲を超える形で転載・改変・再配布・販売することを禁 じます。 ︻あらすじ︼ 全てを終えたとき、あなたの隣には誰がいましたか。 目 次 緋色の詩 ││││││││││││││││││││││││ 1 緋色の詩 ◇ 外は一面の吹雪であった。 別にいつもの事だったかもしれない。しかし、外と繋がった﹃現在﹄ ではいつものことすらが今まで以上に愛しいものだ。 世界は救われた│││というか元へと戻ったというべきか│││ どちらにせよ、私の役目は一先ず終わったんだろう。 人類史に存在した七つの特異点は修復され、終局の王座すらが我々 カルデアの活躍により崩壊した。 魔神が願った人への憐れみは、他でもない人が否定した。獣は愛を 知り、己の生に満足して散っていった。 長かった旅も、これでおしまい。 うむ、それがいい。もう疲れた。 一生を使って成し遂げる程の偉業を、只の一年程度で終わらせてし まったのだ。 そりゃあ、人には疲れる。 私は、エントランスのソファに背をもたれた。片手にはペットボト ル。この間、外部からの補給で自動販売機に補充された。実に一年ぶ りの新鮮な現代の物資である。 中身は普通のミネラルウォーター。 ごくりと、一口飲むたびに喉を駆ける水流が何とも言えない幸福感 をもたらしてくれる。 ﹁ぷ、はー﹂ 吐いた息は白かった。これは空調が効いてないな。電力も無駄に 出来なくなったということか。カルデアの財政難も露見すればこん なものである。 まあ、気にすることもない。 というか、これくらいで文句を言おうとも思わない。特異点先での 1 経験は私を人間的にも精神的にも成長させたらしい。 肺を焼くような砂漠の熱気を知っている。 肌を突き刺すような雪原の冷気も知っている。 良く体調を崩さなかったな、と今から思ったりもする。 ﹁ふー﹂ 四角い窓を見る。 相変わらず吹雪は四角を塗り潰している。 私が見ている景色には、無機質な壁面と、天井には薄暗い照明、奥 には白い滝の窓。 変わらない。いつまでも変わらない。 風景画にするには、ちと、寂しい。 こんなところにいらしたのですか﹂ こんな殺風景には、そうだな│││ ﹁あら、旦那様 │││ああ、君のような少女が良く似合う。 漆黒の着物、淡い髪色、竜角を模したような髪飾り│││カルデア の英霊の一人、名を清姫と言った。 ﹁ああ、清姫。おはよう﹂ 幾らでもある。 ﹁そうだな、昼食は君に作ってもらおうか ﹂ だが、朝が過ぎてしまうのならば、次は昼があるのだから、機会は ああ、本当にもったいないことをした。 ﹁それは、それは⋮⋮﹂ ﹁⋮⋮もったいないことをしたな、朝食は一番に終わらせちゃったよ﹂ たら私がお作り差し上げますが│││﹂ ﹁はい、お早う御座います。朝餉はもう御済みになって まだでし ? ﹁お隣、よろしいでしょうか﹂ そういえば、君とも長い付き合いになるな。 しないでもない。 初めて君と会ったときのように、しかし幾分か、より魅力的な気が にこりと、可愛らしい微笑みを見た。 ﹁まあ。それは嬉しい申し立てで御座います﹂ ? 2 ? ﹁ん。いいよ、構わない﹂ 隣に清姫が座ると、私との間が狭まる。 距離が近いのも、結構慣れてきてしまって、特にあたふたすること ﹂ もない。独りよりは誰かと居たいというのもあるかもしれない。 身体がほんの少し暖まるのを感じた。 ﹁こんなところで、何をなさっていたのでしょうか 見たかっただけ﹂ い。 ﹁ますたぁ ﹂ 古典原典を紐解いてみても、頭の良くない私では君の心が分からな い。 君がどうして私を好いてくれているのかも、私には、よく分からな 君の思っていることが私には分からない。 君の考えていることが私には分からない。 ということは単に私が鈍感なだけかもしれない。 や結構あったな。いろいろあった。 にそれ自体は気にとめないし、何か弊害が出るようなことも、ああい 清姫の頭の中では私が旦那、自分が嫁と変換されているようで。別 しょう。なに、そういうことでもないですか。ふぅむ⋮⋮﹂ ﹁あら、この程度の冷気など我々の恋情で融かし尽くして差し上げま 懲りたよ﹂ ﹁はは、外は寒いじゃないか。雪の寒空を切り裂いて行くのは聖夜で ﹁外には出向かないのですか ﹂ ﹁うーん。いや、まあ。別に、何かってある訳じゃないよ。外の景色が ? ない。 ﹁どした ﹂ ﹁別に⋮⋮なんもないよ。レイシフトは出来ないし、外は吹雪いてる し、自室でやることもない﹂ 3 ? 君の顔を見る。君の瞳は相変わらず、私を見ているようでそうでも ふいに呼び掛けられた。 ? ﹁ええ⋮⋮本日の御予定などは、如何程かと﹂ ? カルデアはもの寂しくなった。 殆どの英霊は国連の捜査から逃れる為、一時的に退去していった し、言った通りにレイシフトも制限がかかった。というかもうレイシ フトはする意味がない。 過去には幽かな歪みもなくなった。 全ては現在へと集約する、もうこのカルデアという機関そのもの も、一つ役割を終えたのだ。 未来は機械で写すものではないのだから。 現在を生きる人が、それぞれの未来に足を進めていけばいい。力な ど無限に存在する。 如何なる壁が霊長を狭もうが、人はもう止まらない。行き着くとこ ろまで行くだろう。 そして、果てに絶望すればいい。 星の嘆きを聴くがいい。 日常の一部と化していたかもしれぬ。 私が勝手に押し掛けているだけであって 清姫は慌てた様子で手を振る。 ﹁それは マスターか ! ら、そんな⋮⋮そんな風に言われたら勘違い、してしまうというか ! 4 天の叫びを聴くがいい。 宙はきっと墜ちてくる。 それが、すぐ近くのことではないことを、私は祈るしかない。よう やく得た平穏、私は無限に享受していたい。 ﹂ 少なくとも│││今日ぐらいは、穏やかなままでいたい。 ﹁では、今日は共に居てもよろしいですか ﹁⋮⋮ああ。私も、君の側に居たいかな﹂ ああいえ、その、なんでしょう。 ﹁どうしたの、そんな顔して﹂ ﹁⋮⋮ その⋮⋮いつもと少し違うような気がして﹂ ﹁そうかなぁー、わりといつも一緒にいるだろう ﹂ 君は目を丸くした。まるで珍しいものを見たかのように。 ? 気がつけば側にいるのが清姫という少女であって、ともすれば私の ? ! ⋮⋮﹂ 残念ながらその通りだ。 ﹂ 君がそう思ってしまったのならば、これはきっと勘違いのままであ る。 しかしながら、私には分からない。 愚問でしょう、それは﹂ それは⋮⋮それを、聞きますか ﹁清姫は⋮⋮何でまだ此処に残ってるのさ ﹁え 今さら ﹂ ﹁いいや、分からないね﹂ ﹁は⋮⋮い ? ? も。 ﹁ちょっといいかな。顔かして﹂ ﹁な、何を││﹂ 彼女の頭に右手を添える。 綺麗な髪。美しい、灰と幻想の色。 じぃ、と見つめる。 まだ心の準備が⋮⋮ 瞬く間に君の顔は沸騰した。 ﹁き、急です⋮⋮ ﹁⋮⋮ ﹂ ただ│││ 開いていた距離が零になる。 二人の影が重なる。 ゆっくりと顔を近づける。 ﹁ん⋮⋮﹂ ﹂ ﹁目、瞑って。大丈夫、怖いものじゃない﹂ 望まれたものをそのまま実行できるほど私は器用な性格ではない。 ! そうだ私には分からない、よって知りたいのだ。君の心を、何もか ? そんなものはさせる暇も与えない。 ! 清姫の緊張が緩んだのが分かる。 あちらは、恐らくは│││を望んで覚悟していたのかもしれない 5 ? ? こつん、と触れ合ったのは額と額。 ? が、すまない。 一つ、実験をしたかったんだ。 失敗すれば、それはそれでいい。 だけど、試してみる価値と││時間と平穏が、ちょうど良く、今の 私にはあった。 額同士をくっつけたまま、私は唱える。 ﹁││聖杯よ聞いてくれ﹂ ﹁え⋮⋮﹂ 彼女の霊基に聖杯が埋め込まれていたのは偶然だったが、願望器と しての機能も欠片程度は残っているだろう。 ﹁捧げるは令呪全画、これを以て経路とする﹂ ﹁あ、ああ│││﹂ 令呪が輝く。 そもそも魔力源としてしか使えない劣化品だったが、聖杯を起動さ せるにはまあ足りるんじゃないかという浅薄な考えで、私はこれを消 費する。 ﹁│││君の魂、夢の軌跡を⋮⋮どうか、私に見せておくれ﹂ 令呪三画を犠牲にし、清姫とのパスとする。 本来はカルデアの電力で賄っている、英霊が現界するための魔力を 全て私の方で回す。 より深く、より単純に、私は君と繋がっていく。 これは、かつて度々起こっていた特異事象の試行実験だ。 始まりは崩壊の残滓。 幻想の聖夜、嵐の決闘、戦乙女の祈り、恋の色をした菓子、最果て の監獄、聖典探訪、無限の戦争│││ それは夢ともつかぬ、しかし確かな現実。 レ ム レ ム ト ラ ン ス ああ、マシュはこうも称していた。 │││﹃浅き夢の彷徨﹄とか。 何処ぞの夢魔の真似事でもある。 二つは一つに入り交じり、私があなたに入り込む。 意識が肉体から解離する。 6 段々と認識が白く染まっていく。 さあ、見せろ。 私は今│││どうしようもなく│││ 君のことが、知りたくて堪らないんだよ。 ◆ 憧憬の獣は│││実はとうの昔に、愛を知っていたのかもしれない が│││ なに、既に彼女は役割から外れていたのだから、気にすることもな い。 穏やかな日常を、愛しい隣人と共に在ればいい。 7 それだけで、彼女はもう救われたらしいから。 だから、そうだな。 私は│││ もうちょっとだけ、幸せが欲しかったんだ。 強欲と笑うかい 気づけば、峠の頂に二人は立っていた。 小さくさざなみが聴こえる。 風も、空も、人も、森も。 穏やかな風景が広がっている。 ◆ 人の根は、全て其処に通じているのだ。 なに、それはとても人間らしい。 ? ﹁ここは⋮⋮潮見の峠⋮⋮ そんな、まさか⋮⋮﹂ 一体、何が⋮⋮﹂ ﹂ ? は、少し白みが差している。 ﹂ すごいな、峠の茶屋だ 本当にこういう風に在るのか ﹁無言は肯定と受け取るよ。それにしても⋮⋮ ああ 団子でも頂きたいな ! りが鼻をくすぐる。 ﹂ ﹁│││お待ち下さい﹂ ﹁どうした、清姫 ﹁何を⋮⋮何をしようとしているのですか ﹁何ってそりゃあ⋮⋮何だろう。 見てみたいんだ。夢の終わりを。 ﹂ 時代劇で観るようなのより、ずっと立派な店構えで、茶と小豆の香 ! 困惑は、段々と恐怖に変わっているような印象を受けた。彼女の顔 ﹁⋮⋮⋮⋮﹂ 此処は紀伊の国でいいのかな 魂の旅路に入り込んだ、というのかな。 ﹁⋮⋮少し、君のことが知りたくて。 多少、困惑していた様子で、清姫は私に駆け寄る。 ﹁マスター⋮⋮ ﹁へえ、ここが、そうなのか﹂ 眺望から名付けられた│││熊野三山への参拝道が一つ。 熊野古道中辺路、潮見峠│││海を、つまりは大いなる潮騒を聴く ここは紀伊の国。現在でいうと和歌山の辺り。 ? びやお、と。人気ごと世界をまっ平らにしていった。辺りから生気 風が吹く。一迅の風。 それで、私は一つの答えを得ることが出来ると思うんだよ﹂ ? ? 貴女は、何を欲して│││﹂ を消していく。 ﹁答え⋮⋮ その時。 ? 8 ? 峠には二軒、茶屋があった。 ! ! 何かが、私たちを通りすぎていった。 人か。人だろうか。 それは淡い蒼の着物を振り撒いて、息を荒げながら走り去っていっ た。 血の足跡を残していった。 ﹂ そして、それを見た少女の、声にならない叫びを聞いた。 ﹁⋮⋮ ﹁何だ、一息つく暇もないらしい。 早く追っかけないと間に合わなそうだ﹂ 私が前へ足を向けると、強く袖が引かれる。 ﹂ ﹂ 清姫は必死に私を止めた。 ﹂ ﹁駄目です、それは ﹁なぜ ﹁だって、だって⋮⋮ 君は茫然とした表情で私を見る。 恐れている。何かに。 私が此処にいることに。 ﹁そんな⋮⋮何を、言っているのです⋮⋮ 私は歩き出すことにした。 ﹁本 人に聞くのが一番じゃあないかな﹂ オリジナル なに、つまりは。 そうやって枝を手繰ると行き着くのだ。 英霊とは英雄の側面である。 サーヴァントとは英霊の側面であり、 全ての太源、存在の根幹。 英霊には存在する筈だ。 そう、答えを得るには最も近い。 口角が勝手につり上がるのを感じた。 ﹂ ﹁なあに、英霊からでは分からないというのならさぁ﹂ ? ﹁私はあれに会いに来た、挨拶に来たというのがいいか﹂ ! ! 伝承では、清姫は故郷である真砂の里から、塩見、田辺、印南と安 9 !! ? 珍を追い、途中、一度だけ安珍と会話をする筈だ。 とかく、それだ。 恐らくは、其処が最終分岐点。 英霊清姫の全ては其処から始まっている。 ◇ 清姫の嘆きを背後に聴いている。 お願いです けれど私は歩みを止めない。 ﹁歩みを止めて下さい 私が何か気に障るようなことをしましたか ああ、心当たりが有りすぎる 私は、私は│││﹂ ﹂ 軽蔑なさるでしょう ﹁あのような姿を貴女に見せたくない だって醜いでしょう やめて⋮⋮やめて下さいまし 清姫は私の袖を引いたまま、けれど確りと後をつける。その叫びも 尤もだろうか。 自分の末路を見せつけられるのだ。心に抱えた闇を暴かれる。プ ライバシーなどあったものじゃない。 いや⋮⋮どちらかと言えば、私がそれを直視することを恐れている のか。 ﹁ははは⋮⋮まさかここまで拒絶されるとは思わなかったけど。そう さね、私は別に清姫に嫌われることは大して気にしないかな﹂ これは嘘だ。私は君に嫌われたくなどない。 嘘は⋮⋮ちゃんと嘘にしてください ! よってこれは単なる時間稼ぎだった。 ﹁ッ ﹂ ﹁おっと、悪いね。もう時間切れだ﹂ ﹁え、あ│││いけません ﹁問題ないよ。何の問題もない﹂ ! 10 !? ! ! ! ! ! ! !? そんな、話を聞いて│││﹂ ! 視線の先には、二人の男女がいた。 男は安珍といった。僧をやっている。 少女は清姫といった。清姫は安珍に恋をしている。 清姫は、背を向けた安珍の肩に手を置いていた。恐る恐る首がこち らを向くのが分かる。 あれは恐怖を感じている。 男は全速で峠を越えた筈だ。 けれど追い付かれた。詰まるところ│││ いくら逃げようが、 いくら目を背けようが、 全て│││││無駄である。知れ。 ﹄ ﹃⋮⋮安珍様﹄ ﹃ひっ ﹃安珍様、どうして⋮⋮ 人違いだ 11 どうして、嘘をついたのです 必ずと、契ったではありませんか。 ああ、けして ﹄ 熊野を参拝した後、必ずや真砂へ寄ると﹄ ﹃せ、拙僧は安珍ではない 人違い、そうだ、お主は人を違っておる どちらが醜いか。 僧である立場を必死に守る男か。 純粋な恋心を一方的にぶつける女か。 果たして、どちらが。 ﹃は、離せ ! 拙僧は安珍などでは⋮⋮﹄ ! 顔面を蒼白にしながら、早口で捲し立てる。 男は少女の手を弾いた。 私は、そんなことを呟いたような気がする。 うけど⋮⋮﹂ まあ坊さんの修行してて奥さん娶るわけにもいかなかったとは思 ! ! ﹁ああ、こいつは見苦しいな。 ! ? ! ﹃一度ならず、二度までも⋮⋮﹄ ﹃な⋮⋮﹄ ﹄ ﹃おのれ、己は何処までも│││ッ ﹃が、ぐぁッ ﹄ !! ﹄ ﹄ ! ﹄ 南無金剛童子、 ﹄ 眼が、眼がァ りに響いた。 ﹃ギャッ ﹃ひ、ひああああああ ﹄ 熊野権現の聖言は、清姫の血走った眼を光で潰す。悲痛な叫びが辺 我が身を助け給えぇ││ ﹃ぐ、あ⋮⋮⋮南無ゥ それとも、男を地獄へと還すのか。 地獄から来たのか、地獄へと還るのか。 その様相、この世のものとは思われぬ。 は般若の如く。 鼻から下を真っ赤に染め上げ、少女は竜の牙をちらつかせる。それ ﹃許すまじ⋮⋮山伏がァ ﹃あ、が│││あぁ│││ 奇妙な形にひしゃげた腕から、血が円のように池と為す。 ぼどり、右の腕が地面に落ちる。 いや、噛み千切った。 清姫が安珍の肩に噛み付く。 !! びを上げた。 ﹃│││おのれ、おのれおのれおのれぇ おのれ安珍、貴様を殺さねば、我が想い果てぬと骨身に知れェ 既にその身は竜であった。蛇であった。 を、凄まじい勢いで追いかけた。 ﹄ 引きちぎった安珍の腕を、白い大蛇は轢き潰す。逃げた安珍の後 !! ! 残されたのは哀れな怪物、その悲嘆から怒りを形成する。憤怒の叫 る。 走り去った。その姿は韋駄天さながらに、残った片腕を懸命に振り絞 安珍は、笠も杖も背負った笈︵かご︶すらも放り出し、一心不乱に !? 12 ! ! ! !! ! ◇ 逃げに逃げた果てに辿るは日高の河川。 ﹄ その日はいつも以上に水量があったとか。 先日の大雨が原因である。 舟を出してくれ ﹃船頭⋮⋮⋮船頭 ﹄ その腕ぇ 鬼が来るのだ どうした若いの ﹄ 対岸まで、早く ﹃ああ ﹃いいから急げ ! ﹄ 分かった乗れ、乗れ で舟の用意をする。 ﹃あ、ああ って、なんだありゃあ ﹄ ! 魍魎の類い。 鈍く輝く相貌が、ただ一点のみを目指して猛進する。 安珍は背筋が凍りつき、恐怖から身体の震えが止まらない。 急げ、急げ ﹄ ! ﹃く⋮⋮もう復活したのか⋮⋮ 船頭、いいか、追い付かれれば貴様も死ぬぞ ﹃ば、ばっか野郎、こんなとこで御陀仏なんぞ出来るかよ ! ! 安珍⋮⋮ッッ ﹄ !! 底知れぬ怒りから、大蛇は火を噴いた。 ﹃安珍⋮⋮ 死ね死ね死ね死ね死ね死ね死ね││││││絶対に、逃がすものか。 潔く死ね、死ね、死ね死ね死ね死ね死ね死ね死ね死ね死ね死ね死ね この期に及んで、まだ逃げるか。 は見た。 大蛇が岸へと着いたとき、舟は川の中腹辺りに浮いているのを清姫 ! ﹄ 牙を血で染めたその貌は、もはやこの世のものに非ず。異形怪異、 ﹃│││逃がすものかァ 砂塵を立ち上げて、白い大蛇が日高の川へ猛然と接近するのだ。 彼方より、鬼神と化した蛇が来る。 !? ! 片腕のない血塗れであった男の、余りの剣幕に圧された船頭は急い ! ! ! ! 13 ! ! ! ! !? 日高の川を干上がらせるのではないか、とまでの業火。灼熱の咆哮 熱い、熱いぃいい が浮舟を一閃する。 ﹃あああああ 嫌だ、嫌だ、死にたくないいいい も怪しい、無惨な最後であった。 ﹄ ! なったことに気がついた。 日高川の一件を見届けた後、もう此処から対岸に向かう手段が無く な﹂ ﹁あ あ ⋮⋮ 忘 れ て た。此 処 を 越 え る 手 段 が な い や。ど う し た も の か しかし、私はうっかりしていた。 ◇ しい。 少女のもった怒りは│││其れほどまでに、幼い運命を狂わせたら えなくなっていた。 愛に狂った少女は、一直線に末路へと落下する。もう、それしか見 せ、男への憎悪をたぎらせながら。 大蛇は安珍を追うように、日高の川を渡っていく。その身をくねら 絶対に、殺して差し上げます│││﹄ ﹃逃がさない⋮⋮逃がしません⋮⋮ 復讐の鬼から、逃げていった。 珍は清姫から│││否。 ふり構っていられない、後ろを振り向くこともせず、必死の形相で安 命からがら対岸にまで辿り着き、裸足のまま走り去る。もはやなり しかしながら安珍は一人、舟から川へと飛び込んでいた。 ﹃くそ⋮⋮殺されてたまるものか⋮⋮ ﹄ 舟はそれごと灰になり、川の流れへと消えていく。魚の餌となるか その一息で船頭は焼死した。 !! !! ! 船頭は一人だけだったらしく、海の藻屑と化した彼以外には人が見 当たらなかった。 14 !! これはいけない、この機会を逃してはもう恐らく清姫は早急に座へ 帰還ルートだ。 人の心に土足でづかづかと、はっきり言ってまともな人の所業では ない。 失敗はそのまま、関係の破綻に繋がる。 別にそうなるならそれでも構わないのだが。 今までの曖昧な関係よりは、破綻した方が余程良い。 ﹁│││ますたぁ⋮⋮﹂ ﹁ん﹂ 今にも泣き出しそうな声で呼び止められる。 ﹁もう、良いでしょう⋮⋮ 此処から先は、もう⋮⋮﹂ ﹁んぅ⋮⋮いや、これからだ。 君の心はまだ、この先がそれだ。安珍を殺害したその時の心が必要 なんだよ﹂ ぷつり、堪忍袋の緒も切れた。 少女の声には感情が籠る。 私が、全て答えます 少しの恐怖と、なんだ。 怒りか。 ﹁⋮⋮よう、御座います ﹂ なんだ、君にそんなことが出来るのか。 ! ああ⋮⋮それならそれで、代わりにならないこともないのかな﹂ 此処に来てからはすれ違いしかない。 それも当たり前、君は私を見ていないし、私は君を見ていない。 どうして、こんな⋮⋮﹂ 心を鬼にして、君を糾弾する為に私はこうやっているのだ。 ﹁⋮⋮貴女様は ﹁なん、でしょうか⋮⋮﹂ いいかい、君の心を教えてほしい﹂ ﹁幾つか質問が在るんだ、清姫。 ! 15 ? だから、もう、私のことを覗かないで⋮⋮ ﹁ああ ! ! 私に答えを突きつけられるのか、そうか。 ? ﹂ 雄大な日高の川を正面に、背を向けたまま問いをかける。 ﹁君は⋮⋮安珍が好きなんだろう ﹂ ? そうでなくては、その執念が無くては、私は私 ﹂ ﹁それは、ええ⋮⋮﹂ ﹁今でも好きかい ? ﹁⋮⋮当たり前です でいられない ! ﹁え ﹂ ﹂ 一言、吐き捨てるように溢した。 ﹁何故だ ﹁愛して、おりますが⋮⋮﹂ ﹁そうか。 それじゃあ、私のことは ﹂ 明王の降臨。不浄を清める天の廻炎。 可能性の一端、その顕現。 ただの少女でありながら、その身体を竜へと転換させた│││人の る。 清姫は安珍への底知れぬ執念から、英霊として座へと登録されてい それは真実だろう。 ! ? そこだ。それだけが君と私の間の壁だ。 分厚い、透明な壁。見るものをねじ曲げる。 私からは少女が見える。 君からは何が見える ﹂ それが知りたくて聞いてんだよ。 私の影に、安珍が見えるのか ﹁え、あ⋮⋮そう、そうで御座います ? ﹁心外だね。そんなことを言う君は嫌いだよ﹂ 放つ。 その先は言わせない。君の言葉を遮るように私は強い口調で言い 様の生まれ変わりに違いない。だって、そうでなくちゃあ│││﹂ 一目見たときから、ずっと⋮⋮確信しておりました、貴女様は安珍 ! ﹁君がどうして、私を好いているのか⋮⋮ ? 16 ? ゆっくりと振り向いて、君を見つめる。 ? ﹁は⋮⋮ 嘘です、よね それは嘘です ﹂ ! まりないって言ってんだよ﹂ 久しぶりにこういうことをしている気がする。 心無い暴言に良心は痛むか。否。 良心に呵責は芽生えない。 私はそういう優しい人間じゃあない。 ﹁あ⋮⋮そ、それは⋮⋮﹂ ﹁それにだ、なんだあれが安珍だって 処がいいんだ 君の中ですらあの有り様なのに、どうにも繋がらん ? ﹂ 息をのむ。一つ、二つ、時を数える。 ﹂ ﹁いいか清姫 ﹁⋮⋮ あの男の何 ! 挙げ句に、そいつをずっと見たままに私の側にいられちゃあ不愉快極 ﹁何故も何もないよ清姫。何処の誰かも知らない男に影を重ねられた しかしだ、全てを終えたとき、私はもう我慢ならなかった。 サーヴァントは単なる駒と割りきっていた。 に構う余裕が無かった。 今までは別に気にするまでもなかった、生きるのに精一杯で、他人 残念ながらこれも真実だ。 何故そんな悲しいことを言うのですか ? ああ、何よりもだ││││﹂ ? ! てない ﹂ ﹂ 神に誓っても良いさ 何故なら私はあんたを好きで好 きで堪らないから ﹁はい、はい⋮⋮⋮はい ! ろう。あの御粗末を見れば、少なくとも私はそう思うね。けど、私は ﹁私の魂に、少しでも彼が混ざっているのなら、きっと君を拒絶するだ ならば理屈も言ってやる。 君は唖然としている。というか意味がよくわかっていないらしい。 あー、あー、言ってしまった。 !? ! 17 !? ? ﹁私は安珍なんか知らないし、安珍の生まれ変わりなんかじゃあ決し ! ! 君の側にいたい でもね⋮⋮﹂ 疎ましさなど欠片も在るものか い ﹂ ? 君になら殺されようが構わな ﹁だって⋮⋮安珍様でもなくちゃあ、私を側に置く筈がありませんも 君自身の心が封じ込められる。 君の瞳から光が消える。色が消える。 ブレーカーが降りる音がした。 ﹁ますたぁ、は⋮⋮間違っております﹂ ぷつり、と。 無が、暫く続く。しかし。 森がささやかに揺れ動く。 風が川上からやってくる。 れだけ聞かせてほしい﹂ 私が好きか、あの安珍とかいう男が好きなのか、それだけだよ。そ ﹁⋮⋮端的に言うと、なんだ。 しかし、それは│││ る。自身への問いを、深いところまで潜航させる。 清姫は口が開いたまま、次の言葉が出てこない。答えを探してい ﹁あ、ああ⋮⋮それ、は⋮⋮﹂ 君を壊してでも、私は君が欲しいのだ。 無理やりにでも組伏せようか。 ねじ曲げられるのか 狂いが確定している君は、自分の存在すら崩しかねないその想いを どうだ⋮⋮君に答えは出せるか。 かない関係は御免だよ。 ﹁君が安珍を好きなままなら、私は君を諦める。 そんな食い違いし だからもう、きっちり話をつけてやる。 君の想いが欲しいのだ。 君の心が欲しいのだ。 今の君では駄目だ、私だけを見てくれなくては私は満足できない。 ! ! の。私のような狂った女の頭を撫でてくれるのは安珍様以外に有り 18 ! 得ませんもの。 貴女は、間違っている。そんなことを言う人は⋮⋮焼いてしまいま しょう。私の中から、消し去ってしまいましょう。構いませんよね、 ﹂ 貴女が安珍様でないというなら⋮⋮消し炭にしてしまっても、良いで しょう 矛盾している。君の言葉は、矛盾したままに成立している。 君という、清姫という英霊は、思考という試行を一定のラインから 放棄している。 狂化という呪いが、君の心を蝕んでいるから。だからこその狂化、 精神を潰し存在を昇華させる呪いの召喚。 バーサーカーとはそういうものだ。戦争に使う駒として、心を封じ させる非道の手段だ。 しかし、それでも私は君が好きで、君の本当の想いを知りたいのだ。 ﹂ な ん と も 狂 っ た 女 で あ る。二 人 と も 頭 の ネ ジ が と ん で い た ら し い。 似た者同士で惹かれたのかも。 ﹁出来るのかい、君は、私を殺せる の業火である。 ふうと、私は息巻く。 ﹁さて⋮⋮ここまで来たが⋮⋮ははは 賽を投げたのが私なら、結果も私に任せてくれよ⋮⋮ッ でもな│││﹂ 背水の陣、逃亡には死しかない。 ああ、 これなるは火生三昧、幻想の夢に顕現せし、万物を焼き果たす明王 花が散っていく。風が灼熱を帯びた。 地面が熔けている。森が燃えている。 それは流石に竜の魔力か、空間ごと揺るがすほどの絶対量。 魔力が開放される。 ないのなら、要りません、必要ありません。死んでください﹂ ﹁出来ますとも。安珍様がいれば、私は良いのです。貴女が安珍様で ? 君との関係にもこれでけじめをつけてやろう。 なに、世界を救えたのだ。 ! ! 19 ? ﹂ たかが少女一人、呪われた暗き牢からその身を救い出せないわけが ない│││ ﹁│││転身、火生三昧 灼熱の咆哮が迫る。 焔は世界を断絶していく。 全身に熱の接近を感じている。それこそ、即死に等しき火葬の業 火。 ここは夢の中、しかし其処で死ねば、現実でも私の肉体は滅びるだ ろう、崩壊するだろう。 だが│││まだ、死ぬわけにはいかない。 今の君に殺されるのは、ちと、具合が悪い。 私は幸福のうちに死にたいのだ。幸せに充たされたままに殺され たいのだ。 だからな。 ﹁やっぱ、死ぬのは怖いなぁ│││﹂ │││末路、視界は緋色に染まった。 ◇ 日高川は清姫の宝具によって、一閃。 本当に川は干上がってしまった。 灼熱は川底の砂鉄を溶かし、川を断絶する壁を造った。おかげさ ま、水の流れを塞き止められた川は絶賛氾濫中である。 もちろん、其処には消し炭すら残らない。 私が、ますたぁを 何もかもを、正面の何もかもを焼き尽くし、流し尽くす。 ﹁ああ⋮⋮殺した ? 何故、でしょうか。 20 ! なんと、まあ⋮⋮悲しい、ことを⋮⋮﹂ ? 虚ろな声が聞こえる。 ﹁あら⋮⋮ ? 涙が⋮⋮止まらない 消している。 主を殺した。 それだけのこと。 私は、私は⋮⋮﹂ ﹂ ﹂ ! 私を裏切った安珍様 ? 私のようなのに微笑みかけてくれて│││ 壊れた私を側に置いてくれて│││ 私を裏切ったマスター 本当に好きだったのは、果たしてどちらだろうか。 私の心は、何を言っている 何故 差し伸べられた手を、私が拒絶した、のか。 壊れているのは私なのか。 私が間違えているのか。 それとも│││何だろうか。 ﹁あ、ああ⋮⋮ああああ│││ 何故だ、何故、私は悲鳴をあげているのか。 何故だ。 間違ってなどいない、私は間違ってなど、いない。 私を拒絶した主を焼き殺したまで。 かつても同じことをした。 だ。 間違っている、嘘をついた愚かな主を罰しただけだ。殺しただけ 何故だ。自分は選択した筈だ。 嗚咽が止まらない。 それを理解した途端、膝から崩れ落ちた。 ﹁あ、あ、あぁ│││ ﹂ サーヴァントという枷が、彼女の心を押さえている。本当の叫びを 瞳には、色が戻らない。 ﹁わた、くしは⋮⋮何を⋮⋮ その涙は、何を意味しているんだろう。 ? ! ? 21 ? ? ? 長き旅の終わりに連れ添ったのは│││ ﹁あ、ああ⋮⋮そうか⋮⋮﹂ 何かが砕ける音がした。 心の枷と、私の存在の両方から。 ﹁間違っていたのは、最初から、私だけだったのですか⋮⋮﹂ ﹁││││やはり君一人だと、そういう結論になりかねないから。本 当に危なかっしい娘だよ君ってやつは﹂ 背後から、声が聞こえた。 聞き馴染みのある、ひどく楽観的で、飄々とした声。 それは、有り得るはずのない幻聴か。 ﹁いや、真実だ。私は生きてるからね﹂ ﹁な││え、どうして⋮⋮﹂ 清姫は振り向く。 そして、驚愕した。 ﹂ だけであって、実際はどうなのかなど知らない。 だが、君にとって私とは矛盾の塊だ。 安珍じゃないのに、君を側に置いて、愛でて。 22 ﹁宝具には緊急回避。 当たり前で、至極単純な戦術だろう 腕が黒く焦げていた。 爛れた皮膚に濁った血が滴り落ちる。 もう二度と、その腕が動くことはない。 頬には赤く焼け熔けたような傷痕が生々しいままに。 それでも女はにこやかに微笑んでいた。 ﹁君は私を殺せない。 これで分かったかい、私は安珍じゃない。 私が安珍なら、今のであっさり死んでただろうからね﹂ ﹁⋮⋮そ、そんなことの為だけに、身体を犠牲にしたのですか ﹂ ! ! 君では、答えは出せる筈がない。いや、私が勝手にそう思っていた な⋮⋮言ってくれれば、きっと、私は│││あ、ああ⋮⋮ そん そう言いのけた女の身体は、半分が黒く壊れていた。正確には、左 ? 安珍ではない誰かを必要としないのに、私は彼じゃない。 君は私に彼を重ねた。けれどそれは間違いだ、絶対に有り得ない幻 を君は見ている。 では、私は誰なのか。 それについて答えを出せるのは、きっと君では無理だろうと思って いたのだが、どうやら何とかなりそうだ。 ﹁ま、君の心を開かせるには腕一本で丁度ってとこだろうとは思って たよ。何せ、根底から覆さなくちゃならない。君の中の安珍を否定し ﹂ ないと、私は君に見てすらもらえない。それで、どうだろ。私のこと はどう思うかな 視界が霞む。 もう私の存在が消えかかっているのだ。 君の、君の中の何がが私の全てを否定している、君の選択を否定し ている。 けれど、それでは駄目だ。 でも、そんな、殺 我が左腕を喰い破るのなら、それだけの代償を置いていけ。 彼女の心を置いていけ。 さもなければ、次は貴様を殺しにゆくぞ。 ﹁どう、って⋮⋮そんな、好きに決まっています ﹂ だがな、全く、まだまだ修練が足りない証拠か│││ ランク宝具は何もかもが規格外で困ったものだ。回避したはずなん というかもう囁くくらいにしか力が残っていなかった。全く、EX 耳元で囁く。 た。 へたりついている清姫を残った右手で引き上げ、そのまま抱きとめ ﹁そん、な⋮⋮え 手を差し伸べる。 定だったけど、他ならぬ君から聞けるなら何よりも嬉しいね、私は﹂ 君の本当を、私は聞きたくて此処にやって来たんだ。本体に聞く予 ﹁私は言ってほしい。 しかけた相手に好きだなんて、言える訳が│││﹂ ! 23 ? ? ああ、そんなことどうだって良い。 これだけ伝えられれば、いい。 ﹁好きだよ清姫。他でもない、私の言葉だ。 これは私だけの想いだから│││ きっと、間違いでもない﹂ 涙混じりの声がする。 ﹂ それは嬉々としたものだったような、錯覚。 そうだといいなと、私は思うのだ。 お慕いしております 他の誰でもない、貴女を ﹁ああ⋮⋮はい、はい 愛しています 漸く、私と彼とが解離したらしい。 これで、私は彼と同じ舞台に立てるのか。 ﹁そっか│││よかった﹂ なんて、幸福に満ちた結末だろう。 満足した。これ以上ない選択だ。 支払いが左腕一本なら、お釣りまで来るな。 ﹂ │││夢も、一つ終わるか。 ﹁もう、戻ってもいいかな ﹁じゃあ、そろそろ目を覚まそうか⋮⋮ でも、そうまでしても、私は│││ ごめん、こんなことでしか伝えられなくて。 君の心に少しでも、私は傷を穿てたかな。 私はとても、嬉しく思う。 薄れ行く景色、腕のなかで君の体温を感じながら。 その中に、もしかしたら、私が発生したのかも知れないと│││ この世界は、再び始まりから│││清姫の夢は、永遠に回り続ける。 全ては白紙に戻る。 る。 再び、この世界に入ったときと同じように、意識が白く塗り潰され 眠くて、眠くて、仕方ないんだよ│││﹂ ! ! ! ﹁ええ。マスターがそう望むのであれば﹂ ? 24 ! ◇ ﹁ん、ああ⋮⋮﹂ 意識は再び現世へと。 薄暗い廊下の一辺、ごーんごーんと隣で自販機の駆動音。 すうすうと、肩からは少女の吐息が聞こえる。 それも、すぐに途絶えた。 ﹁ますたぁ⋮⋮﹂ 目の前に君がいる。瞳には涙が溜まっている。 それは鮮やかで、透き通るような、美しい眼をしていた。 ﹁⋮⋮﹂ ﹁⋮⋮⋮⋮﹂ 互いに言葉がない。 ﹁嘘は嫌です﹂ ﹁嘘じゃないさ﹂ 嘘じゃあない。 君のためなら、何だってやれるよ。 そんな気がする。 ﹁では⋮⋮抱き締めて下さいまし。 両の腕で、しかと。私をもう離さないで﹂ 25 顔を付き合わせたまま、時が流れる音がする。 ﹂ つうと、君の頬を涙が伝った。 ﹁⋮⋮怒ってる ﹂ ? ﹁良いとも、一つと言わず、好きなだけ叶えてあげるよ﹂ ﹁⋮⋮一つ、お願いを聞いていただけますか 観念するとしよう。 清姫が私を抱き止めていたから。 離れようとしたが、動けない。 ﹁あはは⋮⋮ごめん﹂ ﹁ええ、それは、もう﹂ ? ﹁ああ、それくらいなんてこと⋮⋮⋮⋮あれ﹂ しかし、無理だった。 どれだけ力を入れ込もうが、君を抱き締めるには能わない。 いきなりの挫折。 ﹁はは⋮⋮左腕動かないや。 ごめん、今のなしでお願い。 ですので、嘘になりますね﹂ 片腕しか残ってなかったよ﹂ ﹁でしょう にこりと。 君の心を弄んだって﹂ 目の鼻の先で、幼い笑顔が私を見ている。 ﹁私を殺すかい ﹂ ? 貴女様が奪い去って下されば⋮⋮ ﹂ ﹁刻み付けて⋮⋮私の心を、押さえつけて下さいまし⋮⋮愚かな私を ﹁どうすれば、その痛みは治まると思う 最後、どちらかで止まるのを待っている。 メトロノームはかつ、かつと。 揺れ動く心の音がする。 頭も、心も、貴女様を前にして、ひどく痛むのです⋮⋮﹂ 苦しいのです、悩ましいのです。 ﹁殺せない、貴女を殺したくなんか、ない⋮⋮ 少女のそれだった。 か弱い力だった。人のようだった。 悲痛な声で、背中に回った腕に力が籠る。 一つ、二つ、涙が零れる。 ﹁殺したい、です。でも│││﹂ ? 哀しげな吐息が聞こえたが、気にせず。 ﹁あー⋮⋮そうか。じゃあ│││﹂ 君の望みを、叶えよう。 そうだな。 砕けた心を、掬っても構わないだろうか。 君の想いを、私は汲み取れるだろうか。 ! 26 ? 間髪いれずに、その吐息を封じる。 君の唇は、雪のように柔く、儚い。 右手は、君の細い首に回す。 優しく、包むように、壊れ物を扱うように。 どうやら選択は間違いでなかったらしく、私の背にも腕が回る。 何も聞こえない。 何を見ることもない。 ただ、君を側に感じているだけでいい。 いつの間にか、吹雪は止んでいて。 雲の切れ間から一筋の陽光が雪原に注いだのだが│││ 残念ながら、その一瞬を観るものは恐らくいなかったであろう。 互いは、互いを感じるだけで、幸福に充ちていたのだから。 ◇ くちづけ いついつまでも。 緋色の接吻は、君と私を焦がし続ける。 暖かいままに、緩やかなままに。 雪解けの交合は密に、君と私の距離を詰めていく。 それは、ああ、なんて││││ 27
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