緋色の詩 ID:109128

緋色の詩
スノウレッツ
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︻あらすじ︼
全てを終えたとき、あなたの隣には誰がいましたか。 目 次 緋色の詩 │││││││││││
1
うむ、それがいい。もう疲れた。
長かった旅も、これでおしまい。
足して散っていった。
魔神が願った人への憐れみは、他でもない人が否定した。獣は愛を知り、己の生に満
より崩壊した。
人類史に存在した七つの特異点は修復され、終局の王座すらが我々カルデアの活躍に
役目は一先ず終わったんだろう。
世界は救われた│││というか元へと戻ったというべきか│││どちらにせよ、私の
とすらが今まで以上に愛しいものだ。
別にいつもの事だったかもしれない。しかし、外と繋がった﹃現在﹄ではいつものこ
外は一面の吹雪であった。
◇
緋色の詩
1
一生を使って成し遂げる程の偉業を、只の一年程度で終わらせてしまったのだ。
そりゃあ、人には疲れる。
私は、エントランスのソファに背をもたれた。片手にはペットボトル。この間、外部
からの補給で自動販売機に補充された。実に一年ぶりの新鮮な現代の物資である。
中身は普通のミネラルウォーター。
ごくりと、一口飲むたびに喉を駆ける水流が何とも言えない幸福感をもたらしてくれ
る。
吐いた息は白かった。これは空調が効いてないな。電力も無駄に出来なくなったと
﹁ぷ、はー﹂
いうことか。カルデアの財政難も露見すればこんなものである。
まあ、気にすることもない。
というか、これくらいで文句を言おうとも思わない。特異点先での経験は私を人間的
にも精神的にも成長させたらしい。
肺を焼くような砂漠の熱気を知っている。
肌を突き刺すような雪原の冷気も知っている。
良く体調を崩さなかったな、と今から思ったりもする。
﹁ふー﹂
緋色の詩
2
四角い窓を見る。
相変わらず吹雪は四角を塗り潰している。
私が見ている景色には、無機質な壁面と、天井には薄暗い照明、奥には白い滝の窓。
変わらない。いつまでも変わらない。
風景画にするには、ちと、寂しい。
こんな殺風景には、そうだな│││
こんなところにいらしたのですか﹂
を清姫と言った。
﹁ああ、清姫。おはよう﹂
?
だが、朝が過ぎてしまうのならば、次は昼があるのだから、機会は幾らでもある。
ああ、本当にもったいないことをした。
﹁それは、それは⋮⋮﹂
﹁⋮⋮もったいないことをしたな、朝食は一番に終わらせちゃったよ﹂
し上げますが│││﹂
﹁はい、お早う御座います。朝餉はもう御済みになって
まだでしたら私がお作り差
漆黒の着物、淡い髪色、竜角を模したような髪飾り│││カルデアの英霊の一人、名
│││ああ、君のような少女が良く似合う。
﹁あら、旦那様
?
3
﹁そうだな、昼食は君に作ってもらおうか
﹂
は誰かと居たいというのもあるかもしれない。
身体がほんの少し暖まるのを感じた。
?
﹁外には出向かないのですか
﹂
﹁うーん。いや、まあ。別に、何かってある訳じゃないよ。外の景色が見たかっただけ﹂
﹁こんなところで、何をなさっていたのでしょうか
﹂
距離が近いのも、結構慣れてきてしまって、特にあたふたすることもない。独りより
隣に清姫が座ると、私との間が狭まる。
﹁ん。いいよ、構わない﹂
﹁お隣、よろしいでしょうか﹂
そういえば、君とも長い付き合いになるな。
初めて君と会ったときのように、しかし幾分か、より魅力的な気がしないでもない。
にこりと、可愛らしい微笑みを見た。
﹁まあ。それは嬉しい申し立てで御座います﹂
?
﹁はは、外は寒いじゃないか。雪の寒空を切り裂いて行くのは聖夜で懲りたよ﹂
?
いうことでもないですか。ふぅむ⋮⋮﹂
﹁あら、この程度の冷気など我々の恋情で融かし尽くして差し上げましょう。なに、そう
緋色の詩
4
清姫の頭の中では私が旦那、自分が嫁と変換されているようで。別にそれ自体は気に
とめないし、何か弊害が出るようなことも、ああいや結構あったな。いろいろあった。
ということは単に私が鈍感なだけかもしれない。
君の考えていることが私には分からない。
君の思っていることが私には分からない。
君がどうして私を好いてくれているのかも、私には、よく分からない。
﹂
古典原典を紐解いてみても、頭の良くない私では君の心が分からない。
﹁ますたぁ
﹂
?
イシフトも制限がかかった。というかもうレイシフトはする意味がない。
殆どの英霊は国連の捜査から逃れる為、一時的に退去していったし、言った通りにレ
カルデアはもの寂しくなった。
もない﹂
﹁別に⋮⋮なんもないよ。レイシフトは出来ないし、外は吹雪いてるし、自室でやること
﹁ええ⋮⋮本日の御予定などは、如何程かと﹂
﹁どした
君の顔を見る。君の瞳は相変わらず、私を見ているようでそうでもない。
ふいに呼び掛けられた。
?
5
過去には幽かな歪みもなくなった。
全ては現在へと集約する、もうこのカルデアという機関そのものも、一つ役割を終え
たのだ。
未来は機械で写すものではないのだから。
現在を生きる人が、それぞれの未来に足を進めていけばいい。力など無限に存在す
る。
如何なる壁が霊長を狭もうが、人はもう止まらない。行き着くところまで行くだろ
う。
そして、果てに絶望すればいい。
星の嘆きを聴くがいい。
天の叫びを聴くがいい。
宙はきっと墜ちてくる。
それが、すぐ近くのことではないことを、私は祈るしかない。ようやく得た平穏、私
は無限に享受していたい。
﹂
少なくとも│││今日ぐらいは、穏やかなままでいたい。
﹁⋮⋮ああ。私も、君の側に居たいかな﹂
﹁では、今日は共に居てもよろしいですか
緋色の詩
6
?
﹂
君は目を丸くした。まるで珍しいものを見たかのように。
ああいえ、その、なんでしょう。
﹁どうしたの、そんな顔して﹂
﹁⋮⋮
その⋮⋮いつもと少し違うような気がして﹂
!
ていたかもしれぬ。
!
清姫は慌てた様子で手を振る。
!
?
しかしながら、私には分からない。
?
﹁清姫は⋮⋮何でまだ此処に残ってるのさ
愚問でしょう、それは﹂
それは⋮⋮それを、聞きますか
今さら
﹁え
﹁いいや、分からないね﹂
?
?
﹂
君がそう思ってしまったのならば、これはきっと勘違いのままである。
残念ながらその通りだ。
んな風に言われたら勘違い、してしまうというか⋮⋮﹂
﹁それは 私が勝手に押し掛けているだけであって
マスターから、そんな⋮⋮そ
気がつけば側にいるのが清姫という少女であって、ともすれば私の日常の一部と化し
﹁そうかなぁー、わりといつも一緒にいるだろう
?
7
﹁は⋮⋮い
﹂
﹁ちょっといいかな。顔かして﹂
﹁な、何を││﹂
彼女の頭に右手を添える。
綺麗な髪。美しい、灰と幻想の色。
じぃ、と見つめる。
まだ心の準備が⋮⋮
﹁目、瞑って。大丈夫、怖いものじゃない﹂
望まれたものをそのまま実行できるほど私は器用な性格ではない。
!
瞬く間に君の顔は沸騰した。
﹁き、急です⋮⋮
!
そんなものはさせる暇も与えない。
﹂
そうだ私には分からない、よって知りたいのだ。君の心を、何もかも。
?
ただ│││
開いていた距離が零になる。
二人の影が重なる。
ゆっくりと顔を近づける。
﹁ん⋮⋮﹂
緋色の詩
8
﹁⋮⋮
﹂
額同士をくっつけたまま、私は唱える。
だけど、試してみる価値と││時間と平穏が、ちょうど良く、今の私にはあった。
失敗すれば、それはそれでいい。
一つ、実験をしたかったんだ。
あちらは、恐らくは│││を望んで覚悟していたのかもしれないが、すまない。
清姫の緊張が緩んだのが分かる。
こつん、と触れ合ったのは額と額。
?
るんじゃないかという浅薄な考えで、私はこれを消費する。
そもそも魔力源としてしか使えない劣化品だったが、聖杯を起動させるにはまあ足り
令呪が輝く。
﹁あ、ああ│││﹂
﹁捧げるは令呪全画、これを以て経路とする﹂
程度は残っているだろう。
彼女の霊基に聖杯が埋め込まれていたのは偶然だったが、願望器としての機能も欠片
﹁え⋮⋮﹂
﹁││聖杯よ聞いてくれ﹂
9
さあ、見せろ。
段々と認識が白く染まっていく。
意識が肉体から解離する。
二つは一つに入り交じり、私があなたに入り込む。
何処ぞの夢魔の真似事でもある。
│││﹃浅き夢の彷徨﹄とか。
レ ム レ ム ト ラ ン ス
ああ、マシュはこうも称していた。
それは夢ともつかぬ、しかし確かな現実。
無限の戦争│││
幻想の聖夜、嵐の決闘、戦乙女の祈り、恋の色をした菓子、最果ての監獄、聖典探訪、
始まりは崩壊の残滓。
これは、かつて度々起こっていた特異事象の試行実験だ。
より深く、より単純に、私は君と繋がっていく。
す。
本来はカルデアの電力で賄っている、英霊が現界するための魔力を全て私の方で回
令呪三画を犠牲にし、清姫とのパスとする。
﹁│││君の魂、夢の軌跡を⋮⋮どうか、私に見せておくれ﹂
緋色の詩
10
11
私は今│││どうしようもなく│││
君のことが、知りたくて堪らないんだよ。
◆
憧憬の獣は│││実はとうの昔に、愛を知っていたのかもしれないが│││
なに、既に彼女は役割から外れていたのだから、気にすることもない。
穏やかな日常を、愛しい隣人と共に在ればいい。
それだけで、彼女はもう救われたらしいから。
だから、そうだな。
私は│││
もうちょっとだけ、幸せが欲しかったんだ。
強欲と笑うかい
人の根は、全て其処に通じているのだ。
なに、それはとても人間らしい。
?
◆
穏やかな風景が広がっている。
風も、空も、人も、森も。
小さくさざなみが聴こえる。
気づけば、峠の頂に二人は立っていた。
﹁ここは⋮⋮潮見の峠⋮⋮
そんな、まさか⋮⋮﹂
れた│││熊野三山への参拝道が一つ。
熊野古道中辺路、潮見峠│││海を、つまりは大いなる潮騒を聴く眺望から名付けら
ここは紀伊の国。現在でいうと和歌山の辺り。
?
﹁マスター⋮⋮
一体、何が⋮⋮﹂
﹁へえ、ここが、そうなのか﹂
緋色の詩
12
?
多少、困惑していた様子で、清姫は私に駆け寄る。
﹂
魂の旅路に入り込んだ、というのかな。
﹁⋮⋮少し、君のことが知りたくて。
此処は紀伊の国でいいのかな
している。
﹂
﹁│││お待ち下さい﹂
﹁どうした、清姫
﹁何を⋮⋮何をしようとしているのですか
﹁何ってそりゃあ⋮⋮何だろう。
?
?
見てみたいんだ。夢の終わりを。
﹂
時代劇で観るようなのより、ずっと立派な店構えで、茶と小豆の香りが鼻をくすぐる。
!
﹁無言は肯定と受け取るよ。それにしても⋮⋮
団子でも頂きた
困惑は、段々と恐怖に変わっているような印象を受けた。彼女の顔は、少し白みが差
﹁⋮⋮⋮⋮﹂
?
すごいな、峠の茶屋だ 本当にこういう風に在るのか
﹂
ああ
いな
!
峠には二軒、茶屋があった。
!
!
13
それで、私は一つの答えを得ることが出来ると思うんだよ﹂
風が吹く。一迅の風。
貴女は、何を欲して│││﹂
びやお、と。人気ごと世界をまっ平らにしていった。辺りから生気を消していく。
﹁答え⋮⋮
その時。
﹁⋮⋮
﹂
そして、それを見た少女の、声にならない叫びを聞いた。
血の足跡を残していった。
それは淡い蒼の着物を振り撒いて、息を荒げながら走り去っていった。
人か。人だろうか。
何かが、私たちを通りすぎていった。
?
﹁なぜ
﹂
?
﹂
清姫は必死に私を止めた。
私が前へ足を向けると、強く袖が引かれる。
早く追っかけないと間に合わなそうだ﹂
﹁何だ、一息つく暇もないらしい。
!!
﹁駄目です、それは
緋色の詩
14
!
﹁だって、だって⋮⋮
﹂
!
君は茫然とした表情で私を見る。
恐れている。何かに。
私が此処にいることに。
?
私は歩き出すことにした。
﹁本 人に聞くのが一番じゃあないかな﹂
オリジナル
なに、つまりは。
そうやって枝を手繰ると行き着くのだ。
英霊とは英雄の側面である。
サーヴァントとは英霊の側面であり、
全ての太源、存在の根幹。
英霊には存在する筈だ。
そう、答えを得るには最も近い。
口角が勝手につり上がるのを感じた。
﹁なあに、英霊からでは分からないというのならさぁ﹂
﹁そんな⋮⋮何を、言っているのです⋮⋮
﹂
﹁私はあれに会いに来た、挨拶に来たというのがいいか﹂
15
伝承では、清姫は故郷である真砂の里から、塩見、田辺、印南と安珍を追い、途中、一
度だけ安珍と会話をする筈だ。
とかく、それだ。
恐らくは、其処が最終分岐点。
英霊清姫の全ては其処から始まっている。
◇
清姫の嘆きを背後に聴いている。
お願いです
けれど私は歩みを止めない。
﹁歩みを止めて下さい
私が何か気に障るようなことをしましたか
ああ、心当たりが有りすぎる
私は、私は│││﹂
﹂
軽蔑なさるでしょう
!?
やめて⋮⋮やめて下さいまし
だって醜いでしょう
!?
!
!
!
!
!
!
﹁あのような姿を貴女に見せたくない
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16
清姫は私の袖を引いたまま、けれど確りと後をつける。その叫びも尤もだろうか。
自 分 の 末 路 を 見 せ つ け ら れ る の だ。心 に 抱 え た 闇 を 暴 か れ る。プ ラ イ バ シ ー な ど
あったものじゃない。
いや⋮⋮どちらかと言えば、私がそれを直視することを恐れているのか。
嘘は⋮⋮ちゃんと嘘にしてください
よってこれは単なる時間稼ぎだった。
﹁ッ
﹁え、あ│││いけません
﹂
﹁おっと、悪いね。もう時間切れだ﹂
そんな、話を聞いて│││﹂
!
清姫は、背を向けた安珍の肩に手を置いていた。恐る恐る首がこちらを向くのが分か
少女は清姫といった。清姫は安珍に恋をしている。
男は安珍といった。僧をやっている。
視線の先には、二人の男女がいた。
﹁問題ないよ。何の問題もない﹂
!
!
これは嘘だ。私は君に嫌われたくなどない。
姫に嫌われることは大して気にしないかな﹂
﹁ははは⋮⋮まさかここまで拒絶されるとは思わなかったけど。そうさね、私は別に清
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る。
あれは恐怖を感じている。
男は全速で峠を越えた筈だ。
けれど追い付かれた。詰まるところ│││
いくら逃げようが、
いくら目を背けようが、
全て│││││無駄である。知れ。
﹄
﹃⋮⋮安珍様﹄
﹃ひっ
どうして、嘘をついたのです
﹃安珍様、どうして⋮⋮
必ずと、契ったではありませんか。
ああ、けして
﹄
熊野を参拝した後、必ずや真砂へ寄ると﹄
人違い、そうだ、お主は人を違っておる
どちらが醜いか。
!
!
僧である立場を必死に守る男か。
!
?
!
﹃せ、拙僧は安珍ではない
緋色の詩
18
純粋な恋心を一方的にぶつける女か。
果たして、どちらが。
﹁ああ、こいつは見苦しいな。
まあ坊さんの修行してて奥さん娶るわけにもいかなかったとは思うけど⋮⋮﹂
私は、そんなことを呟いたような気がする。
男は少女の手を弾いた。
人違いだ
﹃一度ならず、二度までも⋮⋮﹄
﹃な⋮⋮﹄
﹄
﹃おのれ、己は何処までも│││ッ
﹃が、ぐぁッ
いや、噛み千切った。
奇妙な形にひしゃげた腕から、血が円のように池と為す。
ぼどり、右の腕が地面に落ちる。
﹄
顔面を蒼白にしながら、早口で捲し立てる。
﹃は、離せ
!
拙僧は安珍などでは⋮⋮﹄
!
清姫が安珍の肩に噛み付く。
!!
!!
19
﹃あ、が│││あぁ│││
﹄
﹄
!
﹄
南無金剛童子、
﹄
眼が、眼がァ
﹄
!?
おのれ安珍、貴様を殺さねば、我が想い果てぬと骨身に知れェ
既にその身は竜であった。蛇であった。
﹄
!!
!
残されたのは哀れな怪物、その悲嘆から怒りを形成する。憤怒の叫びを上げた。
姿は韋駄天さながらに、残った片腕を懸命に振り絞る。
安珍は、笠も杖も背負った笈︵かご︶すらも放り出し、一心不乱に走り去った。その
﹃ひ、ひああああああ
﹃ギャッ
熊野権現の聖言は、清姫の血走った眼を光で潰す。悲痛な叫びが辺りに響いた。
我が身を助け給えぇ││
﹃ぐ、あ⋮⋮⋮南無ゥ
それとも、男を地獄へと還すのか。
地獄から来たのか、地獄へと還るのか。
その様相、この世のものとは思われぬ。
鼻から下を真っ赤に染め上げ、少女は竜の牙をちらつかせる。それは般若の如く。
﹃許すまじ⋮⋮山伏がァ
!
!
!
!!
!
﹃│││おのれ、おのれおのれおのれぇ
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20
引きちぎった安珍の腕を、白い大蛇は轢き潰す。逃げた安珍の後を、凄まじい勢いで
追いかけた。
◇
逃げに逃げた果てに辿るは日高の河川。
﹄
﹄
その日はいつも以上に水量があったとか。
先日の大雨が原因である。
!
その腕ぇ
舟を出してくれ
﹃船頭⋮⋮⋮船頭
﹄
どうした若いの
鬼が来るのだ
!
対岸まで、早く
﹃ああ
る。
﹄
分かった乗れ、乗れ
って、なんだありゃあ
﹃あ、ああ
!
彼方より、鬼神と化した蛇が来る。
!?
!
片腕のない血塗れであった男の、余りの剣幕に圧された船頭は急いで舟の用意をす
﹃いいから急げ
!
!
!
!
!?
!
21
﹄
砂塵を立ち上げて、白い大蛇が日高の川へ猛然と接近するのだ。
﹃│││逃がすものかァ
鈍く輝く相貌が、ただ一点のみを目指して猛進する。
﹄
急げ、急げ
安珍は背筋が凍りつき、恐怖から身体の震えが止まらない。
安珍⋮⋮ッッ
﹄
死ね死ね死ね││││││絶対に、逃がすものか。
潔く死ね、死ね、死ね死ね死ね死ね死ね死ね死ね死ね死ね死ね死ね死ね死ね死ね死ね
この期に及んで、まだ逃げるか。
大蛇が岸へと着いたとき、舟は川の中腹辺りに浮いているのを清姫は見た。
!
﹃く⋮⋮もう復活したのか⋮⋮
船頭、いいか、追い付かれれば貴様も死ぬぞ
!
!
﹃ば、ばっか野郎、こんなとこで御陀仏なんぞ出来るかよ
!
﹄
牙を血で染めたその貌は、もはやこの世のものに非ず。異形怪異、魍魎の類い。
!
!!
る。
熱い、熱いぃいい
!!
日高の川を干上がらせるのではないか、とまでの業火。灼熱の咆哮が浮舟を一閃す
底知れぬ怒りから、大蛇は火を噴いた。
﹃安珍⋮⋮
!
﹃あああああ
!!
緋色の詩
22
嫌だ、嫌だ、死にたくないいいい
その一息で船頭は焼死した。
最後であった。
復讐の鬼から、逃げていった。
◇
﹄
少女のもった怒りは│││其れほどまでに、幼い運命を狂わせたらしい。
愛に狂った少女は、一直線に末路へと落下する。もう、それしか見えなくなっていた。
たぎらせながら。
大蛇は安珍を追うように、日高の川を渡っていく。その身をくねらせ、男への憎悪を
絶対に、殺して差し上げます│││﹄
﹃逃がさない⋮⋮逃がしません⋮⋮
!
ない、後ろを振り向くこともせず、必死の形相で安珍は清姫から│││否。
命からがら対岸にまで辿り着き、裸足のまま走り去る。もはやなりふり構っていられ
しかしながら安珍は一人、舟から川へと飛び込んでいた。
﹃くそ⋮⋮殺されてたまるものか⋮⋮
﹄
舟はそれごと灰になり、川の流れへと消えていく。魚の餌となるかも怪しい、無惨な
!!
!
23
しかし、私はうっかりしていた。
日高川の一件を見届けた後、もう此処から対岸に向かう手段が無くなったことに気が
﹁ああ⋮⋮忘れてた。此処を越える手段がないや。どうしたものかな﹂
ついた。
船頭は一人だけだったらしく、海の藻屑と化した彼以外には人が見当たらなかった。
これはいけない、この機会を逃してはもう恐らく清姫は早急に座へ帰還ルートだ。
人の心に土足でづかづかと、はっきり言ってまともな人の所業ではない。
失敗はそのまま、関係の破綻に繋がる。
別にそうなるならそれでも構わないのだが。
今までの曖昧な関係よりは、破綻した方が余程良い。
﹁│││ますたぁ⋮⋮﹂
今にも泣き出しそうな声で呼び止められる。
﹁ん﹂
?
﹁んぅ⋮⋮いや、これからだ。
此処から先は、もう⋮⋮﹂
﹁もう、良いでしょう⋮⋮
緋色の詩
24
君の心はまだ、この先がそれだ。安珍を殺害したその時の心が必要なんだよ﹂
ぷつり、堪忍袋の緒も切れた。
少女の声には感情が籠る。
私が、全て答えます
少しの恐怖と、なんだ。
怒りか。
﹁⋮⋮よう、御座います
﹂
!
なんだ、君にそんなことが出来るのか。
だから、もう、私のことを覗かないで⋮⋮
?
どうして、こんな⋮⋮﹂
!
﹁なん、でしょうか⋮⋮﹂
いいかい、君の心を教えてほしい﹂
﹁幾つか質問が在るんだ、清姫。
﹁⋮⋮貴女様は
心を鬼にして、君を糾弾する為に私はこうやっているのだ。
それも当たり前、君は私を見ていないし、私は君を見ていない。
此処に来てからはすれ違いしかない。
ああ⋮⋮それならそれで、代わりにならないこともないのかな﹂
私に答えを突きつけられるのか、そうか。
﹁ああ
!
!
25
﹂
雄大な日高の川を正面に、背を向けたまま問いをかける。
﹁君は⋮⋮安珍が好きなんだろう
﹂
﹁それは、ええ⋮⋮﹂
﹁今でも好きかい
清姫は安珍への底知れぬ執念から、英霊として座へと登録されている。
それは真実だろう。
そうでなくては、その執念が無くては、私は私でいられない
?
﹁そうか。 それじゃあ、私のことは
﹂
明王の降臨。不浄を清める天の廻炎。
の顕現。
﹂
ただの少女でありながら、その身体を竜へと転換させた│││人の可能性の一端、そ
!
?
﹁⋮⋮当たり前です
!
﹁愛して、おりますが⋮⋮﹂
﹂
?
一言、吐き捨てるように溢した。
﹁何故だ
﹂
?
?
そこだ。それだけが君と私の間の壁だ。
ゆっくりと振り向いて、君を見つめる。
﹁え
緋色の詩
26
分厚い、透明な壁。見るものをねじ曲げる。
私からは少女が見える。
君からは何が見える
?
﹂
それが知りたくて聞いてんだよ。
私の影に、安珍が見えるのか
?
嘘です、よね
﹂
それは嘘です
残念ながらこれも真実だ。
何故そんな悲しいことを言うのですか
﹁は⋮⋮
?
!
サーヴァントは単なる駒と割りきっていた。
かった。
今までは別に気にするまでもなかった、生きるのに精一杯で、他人に構う余裕が無
!?
?
﹁心外だね。そんなことを言う君は嫌いだよ﹂
その先は言わせない。君の言葉を遮るように私は強い口調で言い放つ。
に違いない。だって、そうでなくちゃあ│││﹂
一目見たときから、ずっと⋮⋮確信しておりました、貴女様は安珍様の生まれ変わり
﹁え、あ⋮⋮そう、そうで御座います
!
﹁君がどうして、私を好いているのか⋮⋮
27
しかしだ、全てを終えたとき、私はもう我慢ならなかった。
﹁何故も何もないよ清姫。何処の誰かも知らない男に影を重ねられた挙げ句に、そいつ
何故なら私はあんたを好きで好きで堪らないから
﹂
神 に
あの男の何処がいいんだ
をずっと見たままに私の側にいられちゃあ不愉快極まりないって言ってんだよ﹂
久しぶりにこういうことをしている気がする。
心無い暴言に良心は痛むか。否。
良心に呵責は芽生えない。
私はそういう優しい人間じゃあない。
﹁あ⋮⋮そ、それは⋮⋮﹂
誓っても良いさ
﹂
!
?
﹁それにだ、なんだあれが安珍だって
君の中ですらあの有り様なのに、どうにも繋がらん
ああ、何よりもだ││││﹂
﹂
!
?
息をのむ。一つ、二つ、時を数える。
﹂
﹁いいか清姫
﹁⋮⋮
!
﹁私 は 安 珍 な ん か 知 ら な い し、安 珍 の 生 ま れ 変 わ り な ん か じ ゃ あ 決 し て な い
!
!
!
﹁はい、はい⋮⋮⋮はい
!?
緋色の詩
28
あー、あー、言ってしまった。
君は唖然としている。というか意味がよくわかっていないらしい。
ならば理屈も言ってやる。
君になら殺されようが構わない
を見れば、少なくとも私はそう思うね。けど、私は君の側にいたい
疎ましさなど欠片も在るものか
でもね⋮⋮﹂
!
﹂
?
君を壊してでも、私は君が欲しいのだ。
無理やりにでも組伏せようか。
か
狂いが確定している君は、自分の存在すら崩しかねないその想いをねじ曲げられるの
どうだ⋮⋮君に答えは出せるか。
だよ。
﹁君が安珍を好きなままなら、私は君を諦める。 そんな食い違いしかない関係は御免
だからもう、きっちり話をつけてやる。
君の想いが欲しいのだ。
君の心が欲しいのだ。
今の君では駄目だ、私だけを見てくれなくては私は満足できない。
!
!
﹁私の魂に、少しでも彼が混ざっているのなら、きっと君を拒絶するだろう。あの御粗末
29
﹁あ、ああ⋮⋮それ、は⋮⋮﹂
清姫は口が開いたまま、次の言葉が出てこない。答えを探している。自身への問い
を、深いところまで潜航させる。
しかし、それは│││
私が好きか、あの安珍とかいう男が好きなのか、それだけだよ。それだけ聞かせてほ
﹁⋮⋮端的に言うと、なんだ。
しい﹂
風が川上からやってくる。
森がささやかに揺れ動く。
無が、暫く続く。しかし。
ぷつり、と。
﹁ますたぁ、は⋮⋮間違っております﹂
ブレーカーが降りる音がした。
君の瞳から光が消える。色が消える。
君自身の心が封じ込められる。
狂った女の頭を撫でてくれるのは安珍様以外に有り得ませんもの。
﹁だ っ て ⋮⋮ 安 珍 様 で も な く ち ゃ あ、私 を 側 に 置 く 筈 が あ り ま せ ん も の。私 の よ う な
緋色の詩
30
貴女は、間違っている。そんなことを言う人は⋮⋮焼いてしまいましょう。私の中か
﹂
ら、消し去ってしまいましょう。構いませんよね、貴女が安珍様でないというなら⋮⋮
消し炭にしてしまっても、良いでしょう
﹁出来るのかい、君は、私を殺せる
﹂
女である。二人とも頭のネジがとんでいたらしい。似た者同士で惹かれたのかも。
しかし、それでも私は君が好きで、君の本当の想いを知りたいのだ。なんとも狂った
だ。
バーサーカーとはそういうものだ。戦争に使う駒として、心を封じさせる非道の手段
昇華させる呪いの召喚。
狂化という呪いが、君の心を蝕んでいるから。だからこその狂化、精神を潰し存在を
君という、清姫という英霊は、思考という試行を一定のラインから放棄している。
矛盾している。君の言葉は、矛盾したままに成立している。
?
地面が熔けている。森が燃えている。
それは流石に竜の魔力か、空間ごと揺るがすほどの絶対量。
魔力が開放される。
せん、必要ありません。死んでください﹂
﹁出来ますとも。安珍様がいれば、私は良いのです。貴女が安珍様でないのなら、要りま
?
31
花が散っていく。風が灼熱を帯びた。
ああ、でもな│││﹂
これなるは火生三昧、幻想の夢に顕現せし、万物を焼き果たす明王の業火である。
ふうと、私は息巻く。
﹁さて⋮⋮ここまで来たが⋮⋮ははは
賽を投げたのが私なら、結果も私に任せてくれよ⋮⋮ッ
背水の陣、逃亡には死しかない。
君との関係にもこれでけじめをつけてやろう。
なに、世界を救えたのだ。
!
!
たかが少女一人、呪われた暗き牢からその身を救い出せないわけがない│││
﹂
!
今の君に殺されるのは、ちと、具合が悪い。
だが│││まだ、死ぬわけにはいかない。
ろう。
ここは夢の中、しかし其処で死ねば、現実でも私の肉体は滅びるだろう、崩壊するだ
全身に熱の接近を感じている。それこそ、即死に等しき火葬の業火。
焔は世界を断絶していく。
灼熱の咆哮が迫る。
﹁│││転身、火生三昧
緋色の詩
32
私は幸福のうちに死にたいのだ。幸せに充たされたままに殺されたいのだ。
だからな。
﹁やっぱ、死ぬのは怖いなぁ│││﹂
│││末路、視界は緋色に染まった。
◇
日高川は清姫の宝具によって、一閃。
本当に川は干上がってしまった。
灼熱は川底の砂鉄を溶かし、川を断絶する壁を造った。おかげさま、水の流れを塞き
止められた川は絶賛氾濫中である。
もちろん、其処には消し炭すら残らない。
私が、ますたぁを
何もかもを、正面の何もかもを焼き尽くし、流し尽くす。
﹁ああ⋮⋮殺した
?
なんと、まあ⋮⋮悲しい、ことを⋮⋮﹂
?
33
私は、私は⋮⋮﹂
何故、でしょうか。
虚ろな声が聞こえる。
﹁あら⋮⋮
涙が⋮⋮止まらない
﹂
?
主を殺した。
間違ってなどいない、私は間違ってなど、いない。
私を拒絶した主を焼き殺したまで。
かつても同じことをした。
間違っている、嘘をついた愚かな主を罰しただけだ。殺しただけだ。
何故だ。自分は選択した筈だ。
嗚咽が止まらない。
それを理解した途端、膝から崩れ落ちた。
!
それだけのこと。
﹂
サーヴァントという枷が、彼女の心を押さえている。本当の叫びを消している。
瞳には、色が戻らない。
﹁わた、くしは⋮⋮何を⋮⋮
その涙は、何を意味しているんだろう。
?
?
﹁あ、あ、あぁ│││
緋色の詩
34
何故だ。
﹂
何故だ、何故、私は悲鳴をあげているのか。
﹁あ、ああ⋮⋮ああああ│││
それとも│││何だろうか。
私が間違えているのか。
壊れているのは私なのか。
何故
私を裏切った安珍様
私を裏切ったマスター
何かが砕ける音がした。
﹁あ、ああ⋮⋮そうか⋮⋮﹂
長き旅の終わりに連れ添ったのは│││
私のようなのに微笑みかけてくれて│││
壊れた私を側に置いてくれて│││
?
?
本当に好きだったのは、果たしてどちらだろうか。
私の心は、何を言っている
?
差し伸べられた手を、私が拒絶した、のか。
!
?
35
心の枷と、私の存在の両方から。
﹁間違っていたのは、最初から、私だけだったのですか⋮⋮﹂
娘だよ君ってやつは﹂
﹁││││やはり君一人だと、そういう結論になりかねないから。本当に危なかっしい
背後から、声が聞こえた。
聞き馴染みのある、ひどく楽観的で、飄々とした声。
﹂
それは、有り得るはずのない幻聴か。
﹁いや、真実だ。私は生きてるからね﹂
﹁な││え、どうして⋮⋮﹂
清姫は振り向く。
そして、驚愕した。
当たり前で、至極単純な戦術だろう
もう二度と、その腕が動くことはない。
爛れた皮膚に濁った血が滴り落ちる。
た。
そう言いのけた女の身体は、半分が黒く壊れていた。正確には、左腕が黒く焦げてい
?
﹁宝具には緊急回避。
緋色の詩
36
頬には赤く焼け熔けたような傷痕が生々しいままに。
それでも女はにこやかに微笑んでいた。
﹁君は私を殺せない。
これで分かったかい、私は安珍じゃない。
私が安珍なら、今のであっさり死んでただろうからね﹂
﹂
﹁⋮⋮そ、そんなことの為だけに、身体を犠牲にしたのですか
れば、きっと、私は│││あ、ああ⋮⋮
そんな⋮⋮言ってくれ
﹁ま、君の心を開かせるには腕一本で丁度ってとこだろうとは思ってたよ。何せ、根底か
やら何とかなりそうだ。
それについて答えを出せるのは、きっと君では無理だろうと思っていたのだが、どう
では、私は誰なのか。
君は私に彼を重ねた。けれどそれは間違いだ、絶対に有り得ない幻を君は見ている。
安珍ではない誰かを必要としないのに、私は彼じゃない。
安珍じゃないのに、君を側に置いて、愛でて。
だが、君にとって私とは矛盾の塊だ。
際はどうなのかなど知らない。
君では、答えは出せる筈がない。いや、私が勝手にそう思っていただけであって、実
!
!
37
﹂
ら覆さなくちゃならない。君の中の安珍を否定しないと、私は君に見てすらもらえな
い。それで、どうだろ。私のことはどう思うかな
視界が霞む。
もう私の存在が消えかかっているのだ。
君の本当を、私は聞きたくて此処にやって来たんだ。本体に聞く予定だったけど、他
﹁私は言ってほしい。
きだなんて、言える訳が│││﹂
﹁どう、って⋮⋮そんな、好きに決まっています でも、そんな、殺しかけた相手に好
さもなければ、次は貴様を殺しにゆくぞ。
彼女の心を置いていけ。
我が左腕を喰い破るのなら、それだけの代償を置いていけ。
けれど、それでは駄目だ。
君の、君の中の何がが私の全てを否定している、君の選択を否定している。
?
!
ならぬ君から聞けるなら何よりも嬉しいね、私は﹂
﹂
手を差し伸べる。
?
へたりついている清姫を残った右手で引き上げ、そのまま抱きとめた。
﹁そん、な⋮⋮え
緋色の詩
38
耳元で囁く。
というかもう囁くくらいにしか力が残っていなかった。全く、EXランク宝具は何も
かもが規格外で困ったものだ。回避したはずなんだがな、全く、まだまだ修練が足りな
い証拠か│││
ああ、そんなことどうだって良い。
これだけ伝えられれば、いい。
これは私だけの想いだから│││
﹁好きだよ清姫。他でもない、私の言葉だ。
きっと、間違いでもない﹂
涙混じりの声がする。
これで、私は彼と同じ舞台に立てるのか。
﹁そっか│││よかった﹂
﹂
それは嬉々としたものだったような、錯覚。
お慕いしております
そうだといいなと、私は思うのだ。
他の誰でもない、貴女を
﹁ああ⋮⋮はい、はい
愛しています
!
漸く、私と彼とが解離したらしい。
!
!
!
39
なんて、幸福に満ちた結末だろう。
満足した。これ以上ない選択だ。
支払いが左腕一本なら、お釣りまで来るな。
﹂
│││夢も、一つ終わるか。
﹁もう、戻ってもいいかな
﹁ええ。マスターがそう望むのであれば﹂
?
でも、そうまでしても、私は│││
ごめん、こんなことでしか伝えられなくて。
君の心に少しでも、私は傷を穿てたかな。
私はとても、嬉しく思う。
薄れ行く景色、腕のなかで君の体温を感じながら。
その中に、もしかしたら、私が発生したのかも知れないと│││
この世界は、再び始まりから│││清姫の夢は、永遠に回り続ける。
全ては白紙に戻る。
再び、この世界に入ったときと同じように、意識が白く塗り潰される。
眠くて、眠くて、仕方ないんだよ│││﹂
﹁じゃあ、そろそろ目を覚まそうか⋮⋮
緋色の詩
40
◇
﹁⋮⋮怒ってる
﹂
つうと、君の頬を涙が伝った。
顔を付き合わせたまま、時が流れる音がする。
互いに言葉がない。
﹁⋮⋮⋮⋮﹂
﹁⋮⋮﹂
それは鮮やかで、透き通るような、美しい眼をしていた。
目の前に君がいる。瞳には涙が溜まっている。
﹁ますたぁ⋮⋮﹂
それも、すぐに途絶えた。
すうすうと、肩からは少女の吐息が聞こえる。
薄暗い廊下の一辺、ごーんごーんと隣で自販機の駆動音。
意識は再び現世へと。
﹁ん、ああ⋮⋮﹂
41
?
﹁ええ、それは、もう﹂
﹁あはは⋮⋮ごめん﹂
離れようとしたが、動けない。
清姫が私を抱き止めていたから。
観念するとしよう。
﹁⋮⋮一つ、お願いを聞いていただけますか
両の腕で、しかと。私をもう離さないで﹂
﹁では⋮⋮抱き締めて下さいまし。
そんな気がする。
君のためなら、何だってやれるよ。
嘘じゃあない。
﹁嘘じゃないさ﹂
﹁嘘は嫌です﹂
﹂
﹁良いとも、一つと言わず、好きなだけ叶えてあげるよ﹂
?
どれだけ力を入れ込もうが、君を抱き締めるには能わない。
しかし、無理だった。
﹁ああ、それくらいなんてこと⋮⋮⋮⋮あれ﹂
緋色の詩
42
いきなりの挫折。
ですので、嘘になりますね﹂
?
君の心を弄んだって﹂
?
揺れ動く心の音がする。
頭も、心も、貴女様を前にして、ひどく痛むのです⋮⋮﹂
苦しいのです、悩ましいのです。
﹁殺せない、貴女を殺したくなんか、ない⋮⋮
少女のそれだった。
か弱い力だった。人のようだった。
悲痛な声で、背中に回った腕に力が籠る。
一つ、二つ、涙が零れる。
﹁殺したい、です。でも│││﹂
﹁私を殺すかい
目の鼻の先で、幼い笑顔が私を見ている。
にこりと。
﹁でしょう
片腕しか残ってなかったよ﹂
ごめん、今のなしでお願い。
﹁はは⋮⋮左腕動かないや。
43
メトロノームはかつ、かつと。
﹂
最後、どちらかで止まるのを待っている。
﹁どうすれば、その痛みは治まると思う
て下されば⋮⋮
﹂
﹁刻み付けて⋮⋮私の心を、押さえつけて下さいまし⋮⋮愚かな私を貴女様が奪い去っ
?
君の望みを、叶えよう。
そうだな。
砕けた心を、掬っても構わないだろうか。
君の想いを、私は汲み取れるだろうか。
!
何も聞こえない。
どうやら選択は間違いでなかったらしく、私の背にも腕が回る。
優しく、包むように、壊れ物を扱うように。
右手は、君の細い首に回す。
君の唇は、雪のように柔く、儚い。
間髪いれずに、その吐息を封じる。
哀しげな吐息が聞こえたが、気にせず。
﹁あー⋮⋮そうか。じゃあ│││﹂
緋色の詩
44
45
何を見ることもない。
ただ、君を側に感じているだけでいい。
いつの間にか、吹雪は止んでいて。
雲の切れ間から一筋の陽光が雪原に注いだのだが│││
残念ながら、その一瞬を観るものは恐らくいなかったであろう。
互いは、互いを感じるだけで、幸福に充ちていたのだから。
◇
くちづけ
いついつまでも。
緋色の接吻は、君と私を焦がし続ける。
暖かいままに、緩やかなままに。
雪解けの交合は密に、君と私の距離を詰めていく。
それは、ああ、なんて││││