FMSの実現

1978年に、ヤマザキマザックの現常務取締役、長江
昭充は、ウィスコンシン大学の先生に招待され
て、アメリカで行われていた新しい生産技術の学
会に参加した。
長江は、アメリカの新しい考え方を、目の当たりにし
て、将来、フレキシブル・マニュファクチャリング・シ
ステム「FMS」の方向に進むだろうと感じていた。当
時、日本で「FMS」という言葉を使う人はいなかっ
た。日本人でその学会に来ていた人は、わずか3
名であった。
欧米の「FMS」は、無人化ではなく、作業効率をあげ
ることを意味していたが、モノづくりの生産性をあげ
るためには、作業者の数を減らし、無人で機械を
動かすことを考えた方がよいと長江は思った。
日本では、1台の機械で、夜間に無人運転する工
作機械の技術が、数年前から少しずつ出てきてい
た。しかし、無人運転する工作機械をシステムにま
とめ、システム全体を無人で動かす方式を打ち出し
たのは、ヤマザキマザックが初めてであった。
1981年10月、ヤマザキマザックの大口製作所に、世
界で初めて本格的な無人化運転システム「FMF」
が完成した。
新たに設備された大型CNC機18台を含め、工場
全体をコンピュータで管理し、月産1~100個の大小
機械部品74種類を、夜間完全に無人の状態で24時
間加工することに成功した。投資額は、約40億円で
あった。
無人加工のため、加工に使う工具を63種類まで絞
り込むなど、スケジューリングや工具管理が複雑に
ならないよう徹底されていた。
1つの商品が利益をあげるようになるまでには、通
常10年ほどかかる。1978年頃に本社ビルを建てた
時、ヤマザキマザックの主力商品は、NC旋盤とマシ
ニングセンタで、10年前に開発した商品であった。
技術開発を担当していた現常務取締役、長江昭充
と現専務取締役、福村直慧は、ある日、社長に呼び
出され「このビルの柱を1本建てなさい」と言われ
た。これは、今後の柱となる新たな事業をつくりだす
ことを意味していた。
1つの商品が利益をあげるために、10年かかること
は経験上、理解していた。10年後に向かって、今は
じめなければならないものを考えた結果、長江は
「FMS」と答えた。FMSの説明を聞いて、社長は大規
模で先進的なFMSをすぐに売り出すのは難しいと判
断し、まず自社の工場で活用し、それを顧客に見せ
るよう指示した。
担当者となった長江は、まず工作機械2台でのテス
トケースを提案したが、現場からの回答はノーで
あった。当時、ヤマザキマザックでは生産が伸びた
ことで、機械設備が不足していた。
現顧問、青木修製造本部長は社内での部品加工用
に新しい工作機械を多く入れたいと考えていた。青
木は、長江たちがFMSをやろうとしていることを知
り、2台ばかりでなく、もっと多くの機械を使って工作
機械の生産ラインを作るよう要請した。
そこで、長江は、与えられたスペースいっぱいに入
るように、18台の大規模なFMSをつくった。
次に、このシステムには、オペレーターが25人必要
であると現場へ提案すると、現場の回答はまたノー
であった。その人数ならFMSでなくても、普通に動か
せると言われた。
最終的には、18台の機械を、12名で、24時間動か
すという再提案の結果、ようやく現場からOKが
出た。FMSの考え方を具現化した「無人化工場」は
「FMF」と名づけられた。計画から3年、FMFは稼動し
た。
FMFは開発した当初は、トラブルがあって、なかな
か動かないこともあったが、「クイックターン」という
工作機械がタイムリーに完成したことで大きく前進し
た。「クイックターン」は三菱電機とヤマザキマザック
が共同開発した「マザトロール」というNC装置を取り
つけた最初の旋盤で、これが爆発的に売れた。マ
ザトロールは、専門のプログラミング言語を使わず、
対話型プログラミングを可能とした画期的な機械で
あった。
FMFが完成すると世界中の専門家から注目を集め
た。アメリカのタイム誌やウォールストリートジャーナ
ル紙をはじめ、国内外の新聞やテレビなどでヤマ
ザキマザックの業績が讃えられ、「ロボット元年」と
大きく紹介された。