王安石の思想における「神」の意義について

王安石の思想における「神」の意義について
梶 田 祥 嗣
て「神」に入ったと評価している。「通乎昼夜」以下は、『易』繋辞
上 伝 「 範 囲 天 地 之 化 而 不 過。 曲 成 万 物 而 不 遺。 通 乎 昼 夜 之 道 而 知。
摘 さ れ て い る よ う に、「 入 於 神 」 の 意 が 不 詳 で あ る。 こ の 点 に 関 し
故神无方而易无体」 を典拠とする文であるが、 引用した末文にも指
小稿は、 王安石 (一〇二一~一〇八六) の思想において 「神」 が
て殆どの先行研究では、 例えば 「神是指不可見的至道、 是超越人之
一 問題の所在
如何なる意義を持っていたのかを検証するものである。 本稿執筆の
上 的 」、 と 評 さ れ る 程 度 で、 そ れ 以 上 の 思 想 分 析 は 行 わ れ て い な い。
世 之 下、 追 尭 舜 三 代、 通 乎 昼 夜 陰 陽 所 不 能 測 而 入 於 神。 初 著
源 流 浸 深。 宋 興、 文 物 盛 矣。 然 不 知 道 徳 性 命 之 理。 安 石 奮 乎 百
蔡京為『安石伝』、其略曰、「自先王沢竭、国異家殊。由漢迄唐、
びに 「神」 の周囲に付随する思想についても併せて検証していきた
の解明を端緒として、 王安石の考えた 「神」 とは何であるのか、 並
現状である。 このような問題点を踏まえ、 以下では 「入神」 の意味
まして 「入神」 については議論の俎上にさえ載せられていないのが
(1)
きっかけは、 次の文章の傍線部に対する疑問からであった。
『 雑 説 』 数 万 言、 世 謂 其 言 与 孟 軻 相 上 下、 於 是 天 下 之 士、 始 原
い。
六七
王 安 石 の 論 攷 に お い て、「 神 」 と い う 言 葉 は 道 や 気 と い っ た 他 の
二 「入神」
道 徳 之 意、 窺 性 命 之 端 云 」。 所 謂『 雑 説 』 即 此 書 也。 以 京 之 夸
至 如 此、 且 不 知 所 謂 「通 乎 尽 夜 陰 陽 所 不 能 測 而 入 於 神」 者 為 何
等語。故著之。(『郡斎読書志』巻十二)
右 は『 王 氏 雑 説 』( 佚 文 ) の 解 題 で あ る。 傍 線 部 で は、 王 学 門 下 の
蔡京 (一〇四七~一一二六) は王安石について、 宇宙の深奥に通じ
王安石の思想における「神」の意義について
概念と比べさほど多くは登場しないが、 ここではまずその数少ない
で あ る。 理 を 精 察 す る 道 は 一 を 窮 め る こ と に あ る。 そ の 一 を 窮
万 物 に は 必 ず 至 理 が あ る。 そ の 理 を 完 全 に 精 察 で き る の は 聖 人
六八
資 料 の 中 の 幾 つ か を 挙 げ、「 神 」 の 語 の 意 味 を 確 認 す る こ と か ら 始
めれば、天下の万物に意識することなく対応できる。『易』に、
(2)
め る。 比 較 的 わ か り や す い も の か ら 挙 げ て い く と、『 老 子 注 』 に は
「 一 致 に し て 百 慮 す 」(『 易 』 繋 辞 下 伝 ) と あ る の は、 あ ら ゆ る
思 慮 を 一 に 帰 着 さ せ る こ と を 言 う。 も し 一 を 窮 め て 天 下 の 理 を
次のような文が見られる。
有無・難易・高下・音声・前後といった事象は皆相対的概念か
精 察 す れ ば、「 神 」 の 境 地 に 入 る で あ ろ う。 既 に 入 神 す れ ば、
れ ば、 そ の 効 能 は ま ず 自 分 の 身 の 安 定 に あ ら わ れ る。 天 下 の あ
ら 抜 け 出 せ な い。 た だ、 こ の 六 者 (五 者?) の 相 対 性 を 超 越 す
(『老子注』第二章)
ら ゆ る も の の 中 で、 自 分 の 身 よ り 親 し い も の は 無 い。 う ま く そ
そ れ は 道 の 至 り と 言 え る。 こ れ は 無 心 無 為 で あ り、 寂 然 と し て
「 六 者 」 と は『 老 子 』 第 二 章 の「 有 無・ 難 易・ 長 短・ 高 下・ 音 声・
の 用 を 養 い 自 分 の 身 を 安 定 さ せ れ ば、 あ ら ゆ る 事 象 に 対 処 で き
れ ば、 神 と い う 境 地 に 入 る。 そ こ へ 至 れ ば、 天 下 に お い て も 相
前 後 」。 こ の「 六 者 」 の よ う な 事 物 一 般 の 相 対 的 関 係 を 踏 ま え た 上
る。そうすることは徳の極致である。『易』に、「義を精しくし
静 ま り か え っ て い る 状 態 で あ る。 し か し な が ら、 天 下 の あ ら ゆ
で、 王 安 石 は 天 下 の 相 対 的 価 値 観 を 超 越 す れ ば 「 入 神 」 と い う
て 神 に 入 る は 以 て 用 を 致 し、 用 を 利 し て 身 を 安 ん ず る は 以 て 徳
対性に囚われなくなる。
「 対 」 の な い、 つ ま り 絶 対 的 な 境 地 へ 至 る と し て い る。 同 注 に 「 夫
を崇くす」(『易』繋辞下伝) とある。 これは道が展開していく
る 事 象 に 対 し て も 思 い 通 り に 為 す こ と が で き る の は、 天 下 の 大
美者悪之対、 善者不善之反、 此物理之常。 惟聖人乃無対於万物。 自
順序を言う。
( 有 之 与 無、 難 之 与 易、 高 之 与 下、 音 之 与 声、 前 之 与 後、 是 皆
非聖人之所為皆有対矣」 とあるように、 万物の理を窮め、 究極的境
( 万 物 莫 不 有 至 理 焉。 能 精 其 理、 則 聖 人 也。 精 其 理 之 道 在 乎 致
本 に 通 じ て い る か ら で あ る。 こ れ は 聖 人 が 天 下 に お け る 「 神 」
地へ達する当事者は聖人に限定される。 そしてその 「入神」 という
其一而已。致其一、則天下之物可以不思而得也。『易』曰、「一
不 免 有 所 対。 唯 能 兼 忘 此 六 者 則 可 以 入 神。 入 神 則 無 対 於 天 地 之
境 地 は、 前 掲 の『 老 子 注 』 に あ る「 無 対 」 と 同 じ 状 態 を 指 す。「 入
致 而 百 慮 」。 言 百 慮 之 帰 乎 一 也。 苟 能 致 一 以 精 天 下 之 理、 則 可
の 用 を 窮 め た 点 で 何 よ り も 貴 い 所 以 で あ る。「 神 」 の 用 を 窮 め
神」 へと至る経路とその効用については、 次の 「致一論」 でより詳
以 入 神 矣。 既 入 於 神、 則 道 之 至 也。 夫 如 是、 則 無 思 無 為 寂 然 不
間矣。)
細に述べられている。
た様態を想定しているのである。 ただし 「致一論」 においても、 両
『 易 』 で は 「 無 思 也、 無 為 也、 寂 然 不 動 」 と い う 無 為 の 領 域 に 属 す
「 不 思 而 得 」 は『 中 庸 』 第 二 十 章、「 誠 者 天 之 道 也。 誠 之 者 人 之 道
者 は 完 全 に 分 断 さ れ て い る わ け で は な い。「 通 天 下 之 故 」 と い う 道
動 之 時 也。 雖 然、 天 下 之 事 固 有 可 思 可 為 者、 則 豈 可 以 不 通 其 故
也。 誠者不勉而中、 不思而得、 従容中道聖人也。 誠之者択善而固執
の 作 用 は 無 為 を 基 点 と し な が ら、「 入 神 」 を 両 者 の 結 節 点 に 措 定 す
る 道 の 作 用 と、「 感 而 遂 通 天 下 之 故 」 と い う 有 為 の 領 域 の そ れ と が
之者也」の語。「無思無為寂然不動」は『易』繋辞上伝、「易無思也、
ることで、 本来 「無思無爲」 である道であっても、 有為の場では聖
哉。 此 聖 人 之 所 以 又 貴 乎 能 致 用 者 也。 致 用 之 效 始 見 乎 安 身。 蓋
無為也、 寂然不動、 感而遂通天下之故。 非天下之至神、 其孰能与於
人 の 「 致 用 」 と し て 発 露 す る と 王 安 石 は 解 釈 す る。 更 に そ の 「 致
混在しており、 その両者の即時的発生に易の 「至神」 な霊妙さの価
此 」 を 典 拠 と す る。「 致 一 」 は 先 の『 老 子 注 』 第 二 章 の 内 容 に 照 査
用 」 は 「 安 身 」 と い う 個 人 の 涵 養 に よ っ て 発 揮 さ れ、 最 終 的 に は
天 下 之 物 莫 親 乎 吾 之 身。 能 利 其 用 以 安 吾 之 身、 則 無 所 往 而 不 済
すれば、 天下の相対的事象を窮理して、 唯一絶対的なる境地を得よ
「 徳 」 と し て 帰 着 す る と さ れ る。 つ ま り こ の 「 道 之 序 」 と 名 付 け ら
値 を 置 い て い る。 一 方、「 致 一 論 」 で は、「 無 思 無 爲 寂 然 不 動 之 時 」
うとする志向であり、 その先にはやはり 「入神」 という至高の境地
れ た 道 論 は、『 易 』 の「 精 義 」 →「 入 神 」 →「 致 用 」 →「 安 身 」 →
也。無所往而不済、則徳其有不崇哉。『易』曰、「精義入神以致
が設定されている。 その主体も同じく聖人であり、 完璧な窮理を行
「崇徳」 という展開と完全に軌を一にしていることがわかる。
と 「有可思可爲者」 とは二項対立的に分解され、 両者の間には明確
うことのできる聖人のみが 「不思而得」 という自由自在な能力を保
「 入 神 」 と い う 境 地 は、 前 述 の『 老 子 注 』 と 同 じ く 道 の 最 高 到 達
用、利用安身以崇徳」。此道之序也。)
持できるとする。 この 「入神」 理論の根拠として引かれているのは、
点ではあることは間違いない。 ただ、 王安石は聖人の 「致用」 の方
な 一 線 が 引 か れ て い る。 す な わ ち 道 の 機 能 に お い て、『 易 』 で は 相
先に挙げた 『易』 繋辞上伝の 「易無思也、 無為也、 寂然不動、 感而
に 価 値 を 認 め る た め、「 入 神 」 は 最 終 目 標 と す べ き 境 地 と し て は 考
(「 致 一 論 」『 臨 川 先 生 文 集 』( 四 部 叢 刊 ) 巻 六 十 六、 以 下『 文
遂通天下之故。 非天下之至神、 其孰能与於此」 と、 後の 「精義入神
え ら れ て い な い の で あ る。 で は、 至 高 の 境 地 と さ れ る 「 入 神 」 と、
即 的 形 態 を 想 定 し て い る が、「 致 一 論 」 で は 無 為 と 有 為 と に 異 な っ
以致用」 である。 そもそも 「致一論」 自体がこの二つの引用を巧妙
神妙なる聖人の 「致用」 に跨る方向性の矛盾をどのように理解すれ
集』と省略する。)
に組み合わせて解釈された一種の注釈であるとも言えるが、 丹念に
ばよいのであろうか。 先行研究では、 両者の関係について深く講釈
六九
(3)
読んでいくと 『易』 にはない王安石独自の思想も確認される。 まず
王安石の思想における「神」の意義について
有 為 か ら 無 為 へ と 至 る 「 入 神 」 と、 無 為 か ら 有 為 へ と 向 か う 「 致
来 で あ れ ば、『 易 』 と そ れ に 依 拠 し た「 致 一 論 」 の「 道 之 序 」 は、
用」 を重視したとするのは片手落ちの解釈と言わざるを得ない。 本
している。 この 「道之序」 論を総合的視点から捉えれば、 単に 「致
還元し、 結果的に 「安身」 へと結実する径庭全体を 「道之序」 と称
為的世界へ 「入神」 し、 更にその道の効用を天下の 「致用」 として
しかしながら、 王安石は有為的世界における窮理から始まり、 無
ける致用を重視した、 と単純な結論を導くのみである。
したものは管見の限り皆無であり、 概ねどの論文も有為の次元にお
可 得 而 精 也。 猶 之 人 身 之 於 崇 徳 也。 身 不 安 則 不 能 崇 徳 矣。 不 能
也。 夫 不 能 精 天 下 之 義 則 不 能 入 神 矣。 不 能 入 神 則 天 下 之 義 亦 不
( 蓋 道 之 序 則 自 精 而 至 粗。 学 之 之 道 則 自 粗 而 至 精。 此 不 易 之 理
ためである。
一 つ の こ と で あ り、 二 つ を 同 時 に 語 る の は、 そ の 過 程 を 述 べ る
せ る こ と が で き よ う か。 こ の 「道 の 序」 と 「之 を 学 ぶ の 道」 は
徳 の 極 致 へ 至 る こ と が で き な く て、 ど う し て 自 分 の 身 を 安 定 さ
自 分 の 身 を 安 定 さ せ な け れ ば 徳 の 極 致 へ と 至 る こ と は で き な い。
い。 こ れ は ち ょ う ど 人 が 徳 の 極 致 へ と 至 る よ う な も の で あ る。
い。 そ れ が 不 可 能 で あ れ ば、 天 下 の 義 も 精 察 す る こ と が で き な
七〇
用 」 と が 相 即 一 貫 し た 論 で あ る と 考 え る の が 自 然 で あ る。「 入 神 」
崇 徳 則 身 豈 能 安 乎。 凡 此 宜 若 一 而 必 両 言 之 者、 語 其 序 而 已 也 )
(4)
から 「致用」 への還元は、 道の無為性を認めつつも、 最終的には道
(同右)
序 」 で あ る と 述 べ ら れ て い る。 先 述 の「 道 之 序 」 で は、「 精 義 」 か
れ て い る の に 対 し、「 入 神 」 か ら「 崇 徳 」 へ 向 か う 過 程 は「 道 之
こ こ で は、「 精 義 」 か ら「 入 神 」 へ と 至 る 過 程 が「 学 之 之 道 」 と さ
の 効 用 を 有 為 の 場 で 発 揮 さ せ よ う と し た 狙 い が あ っ た は ず で あ り、
いわば 「出神」 とも言える作用が期待されているのである。
三 「神」とは何か
過 程 の み を 指 し、 そ の 対 象 が 異 な っ て い る こ と に 気 づ く。「 入 神 」
ら 「崇徳」 までを総称していたが、 この箇所では 「入神」 から先の
では実際に、「神」に「致用」「安身」へと繋がる「出神」と呼べ
から 「致用」 へと至る過程を重視するためにこのような説明をした
う 場 面 が 想 定 さ れ て い る た め に、「 学 之 之 道 」 と い う 別 の 説 明 を 付
るような作用があるのかを、 同じく 「道之序」 について述べた同論
や は り 道 が 展 開 し て い く 過 程 は 精 か ら 粗 へ 至 る。 学 習 者 が 道 を
したのであろう。 とすると、 先の聖人による窮理と個人によるそれ
とも考えられるが、 恐らくは、 実際に個人が学習を通して窮理を行
学 ぶ 過 程 は 粗 か ら 精 へ 至 る。 こ れ は 不 易 の 理 で あ る。 そ も そ も
とは、 同じ 「精義」 という語で説明されているものの、 実際にはそ
攷の末文を解読しながら検討を進めていく。
天 下 の 義 を 精 察 で き な け れ ば、 神 な る 境 地 へ 入 る こ と は で き な
「無思無為寂然不動」については、「大人論」においても次のよう
ではあるが、 先の引用に戻って再度考察を試みたい。
先の 「致一論」 の引用箇所にもその一端が示されていた。 甚だ煩瑣
からも窺える。 このような 「入神」 における道の非公開性は、 実は
也。 学 者 所 不 能 拠 也 」(「 答 韓 求 仁 書 」『 文 集 』 巻 七 十 二 ) と い う 文
め か ら 期 待 さ れ て い な い こ と は、「 語 道 之 全、 則 無 不 在 也、 無 不 為
「 入 神 」 で き る 訳 で は な い。 そ も そ も、 個 人 に よ る 道 へ の 窮 理 が 始
付けて説いていることからもわかるように、 必ずしも一般の人間が
の内容は異なっていると言える。「精義」「入神」の両者に否定辞を
考 え ら れ る。 実 は 先 の「 致 一 論 」 に お い て も、「 無 思 無 為 寂 然 不 動
ず脇に置いて、 純粋に道の存在論的側面のみを問題にしたかったと
空間の意であり、 この引用では徳に代表される人倫的側面をひとま
地 へ と 至 っ た「 入 神 」 の 状 態 を 示 す。「 之 間 」 と あ る の は 文 字 通 り
間」 という語である。 この表現は先の 「致一論」 と同じく無為の境
て い る。 注 目 す べ き は 「 虚 無 寂 莫 不 可 見 之 間 」 の 記 述 に あ る 「 之
は、 不可視である道は、 天下では人間の徳として顕在化するとされ
て論じた箇所は比較的多い。 管見の限りでは王安石の徳論において
玄 徳。 道 之 在 我 者 徳 也 」( 第 十 章 ) と あ り、 道 と 徳 と の 関 係 に つ い
徳」 と同意で、 他にも 『老子注』 には 「生之道也。 畜之徳也。 是謂
乎 虚 無 寂 莫 不 可 見 之 間。 苟 存 乎 人、 則 所 謂 徳 也。 是 以 人 之 道 雖
( 古 之 聖 人 其 道 未 嘗 不 入 於 神。 而 其 所 称 止 乎 聖 人 者、 以 其 道 存
「神」 と呼ぶことはできず、 徳と言うのみである。
つ ま り 人 間 の 道 は 入 神 と 同 じ よ う な 境 地 へ 至 っ た と し て も、
る。 も し 人 が そ の よ う な 境 地 に あ る 場 合 は、 い わ ゆ る 徳 を 指 す。
道が虚無であり寂寞として不可視の間に存在しているからであ
し (神 人 と 称 さ ず に) 聖 人 と 称 す る に 止 ま っ て い た の は、 そ の
古 の 聖 人 は 道 に お い て 必 ず 「神」 な る 境 地 へ 入 っ て い た。 し か
人倫性とを切り離して考えていることがわかる。 要するに、 道の無
次元の差異を明確に意識した上で、 無為的世界の道と有為的世界の
のように王安石は道の 「無思無為」 について語る場合、 道と徳との
あり、 その代わりに道は徳という作用として顕現するのである。 こ
さは 「神」 と形容されるが、 有為の次元において 「神」 は不可視で
るように一定普遍の法則を備えた自然現象の意であろう。 道の霊妙
有度数存焉、謂之時。此天道也」(『詩義』国風、秦風、兼葭)とあ
は、「 降 而 為 水、 升 而 為 露、 凝 而 為 霜、 其 本 一 也。 其 升 也 降 也 凝 也
之時」 と 「之時」 という語が添えられていた。 この場合の 「時」 と
(5)
に述べられている。
神、而不得以神自名、名乎其徳而已。)(『文集』巻六十六)
為性を抽象的世界、 すなわち存在論の枠のみに限定して問題にして
(6)
道の不可視性は 『老子注』 にも 「道本不可道。 若其可道、 則是其迹
いるのである。 次に挙げる 『老子注』 第一章では、 道の存在論的側
(7)
也。」( 第 一 章 ) と あ る よ う に、『 老 子 』 本 文 の 道 論 に 準 ず る。 現 実
面と価値的側面とを明瞭に分けて論じている。
七一
に 道 が 顕 現 す る 場 は 人 間 の 徳 に あ る と い う 説 も、「 致 一 論 」 の「 崇
王安石の思想における「神」の意義について
る 深 遠 な 実 相 で あ る。 有 は 道 の 末 で あ り、 い わ ゆ る 眼 前 の 現 象
と は 何 で あ ろ う か。 有 と 無 で あ る。 無 は 道 の 本 で あ り、 い わ ゆ
道 は 本 来 一 で あ る が、 そ れ を 解 釈 す れ ば 二 と な る。 い わ ゆ る 二
無 則 無 以 出 有。 有 無 之 変、 更 出 迭 入 而 未 離 乎 道。 此 則 聖 人 之 所
有 無 者 若 東 西 之 相 反、 而 不 可 以 相 無。 故 非 有 則 無 以 見 無、 而 無
之際、 而其末也散於形名度数之間。 是二者其為道一也。 ……蓋
而 所 謂 妙 者 也。 有 則 道 之 末 所 謂 徼 者 也。 故 道 之 本 出 於 沖 虚 杳 渺
七二
で あ る。 そ の た め、 道 の 本 は 空 虚 で 神 秘 的 な と こ ろ か ら 出 て、
引用文冒頭の 「道一也」 から 「無以出有」 までは、 道を 「有無」 も
謂神者矣。『易』曰、「無思也、 無為也、 寂然不動、感而遂通天
す 無 き な り、 寂 然 と し て 動 か ず、 感 じ て 遂 に 天 下 の 故 に 入 る 」
しくは 「本末」 の二側面に分けて論じ、 それ以後の文脈では聖人を
道 の 末 は 形 名 度 数 の 間 に 散 在 す る。 こ の 本 末 の 二 者 で 道 の 一 を
と あ る の は こ の よ う な こ と を 言 う の で あ る。 や は り 古 の 聖 人 は
主語として、 天下における 「神」 の顕現について、 やはり 『易』 繋
下 之 故 」。 此 之 謂 也。 蓋 昔 之 聖 人 常 以 其 無 思 無 為 以 観 其 妙、 常
常に思惟を働かせず無為な状態になることで道の深遠な有り様
辞伝を根拠に論じている。 前半は 『老子』 の道を存在論から解釈し
形づくっている。 ……有と無とは東西が相反するようなもので
を 観、 常 に 外 界 に 感 応 し て 天 下 の 本 質 に 通 じ る こ と で 現 実 の 実
て い る が、 後 半 は「 致 一 論 」 と 同 じ く、「 神 」 の 霊 妙 な 作 用 と 天 下
以 感 而 遂 通 天 下 之 故 以 観 其 徼。 徼 妙 並 得 而 無 所 偏 取 也、 則 非 至
相 を 観 た の で あ る。 道 の 深 遠 と 実 相 の 二 つ を 観 て 偏 り が な い の
における道の顕在化についての解釈が提示されている。 道はその属
あ り、 必 ず 相 対 の 関 係 を と る。 そ の た め 有 が な け れ ば 無 は 存 在
は、 至 神 で な け れ ば 誰 が こ れ に 与 る こ と が で き よ う。 そ う で あ
性が具現化される段階に至ったとしてもその存在論的様相がそのま
神 其 孰 能 与 於 此 哉。 然 則 聖 人 之 道 亦 可 見 矣。 観 其 妙 所 以 窮 神、
る な ら ば 聖 人 の 道 も 見 る こ と が で き る で あ ろ う。 道 の 深 遠 な さ
まの形で立ち現れることはなく、 聖人の 「神」 なる状態に仮託され
せ ず、 無 が な け れ ば 有 も 存 在 し な い。 有 無 の 変 化 や 出 入 と い っ
ま を 観 る こ と が で き る の は 「神」 を 窮 め て い る か ら で あ り、 道
てこそ、 はじめて道の霊妙さは可視化されるとする。 注意すべきは、
観其徼所以知化。窮神知化、則天地之道有復加乎。)(『老子注』
の 実 相 を 見 る こ と が で き る の は 変 化 を 知 っ て い る か ら で あ る。
先の 「致一論」 や 「大人論」 のように道の顕現が徳であるとする論
た 移 動 は あ る も の の、 道 か ら 離 れ る こ と は な い。 こ れ は 聖 人 の
「 神 」 を 窮 め 変 化 を 知 れ ば、 天 地 の 道 に お い て 他 に 何 を 付 け 加
がここでは一切語られていない点である。 これはこの道論が道の具
第一章)
えようと言うのか。
体的な効用といった価値論を問題にせず、 宇宙生成論的な存在論に
いわゆる「神」なる状態を示す。『易』に、「思う無きなり、為
( 道 一 也、 而 為 説 有 二。 所 謂 二 者 何 也。 有 無 是 也。 無 則 道 之 本
性に引き摺られることはない。 その結果、 道の無為性を聖人の神性
存在論に限定されているため、 実際の有為的世界において道の無為
こうすることで、 道が無を基底とするという論を唱えても、 それは
く具体的効能を顕現させられるような工夫を取っていることによる。
聖人の 「神」 を媒介として道の無為性が有為の場で矛盾することな
を 取 っ て い る の も、 道 論 に お け る 両 側 面 の 混 同 を 周 到 に 防 ぎ つ つ、
この論攷全体の構成が、 存在論と価値論とを併置した道論という形
の で あ る こ と を 強 調 す る 意 図 が あ る こ と を 汲 み 取 る べ き で あ ろ う。
ように記述されること以外に、 現実の場においても道が不可視なも
返し 「無思無爲」 と表現されるのも、 存在論的側面の分析からその
範囲を絞った言説であることを意味する。 道の根源的な様子が繰り
平而中、不盈而平者沖也。)(第四章)
『字説』、沖気以天一為主、故从水。 天地之中也、 故从中。又水
生、 既至虚而一、 則或如不盈。
気 至 虚 而 一。 在 天 則 為 天 五、 在 地 則 為 地 六。 蓋 沖 気 為 元 気 之 所
( 道 有 体 有 用。 体 者 元 気 之 不 動。 用 者 沖 気 行 於 天 地 之 間。 其 沖
満ちることがなく平らかであるのが沖である。
中 心 に あ る た め、 中 か ら 成 る。 ま た 水 平 で あ り な が ら 中 で あ り、
『 字 説 』 に、 沖 気 は 天 一 を 主 と す る た め、 水 か ら 成 り、 天 地 の
虚であり一であれば、 また満つることがないかのようである。
繋 辞 上 伝 )。 や は り 沖 気 は 元 気 か ら 生 じ た も の で あ り、 既 に 至
であり一である。天にあっては天五、地にあっては地六(『易』
は 沖 気 が 天 地 の 間 に 運 行 し て い る こ と を 言 う。 そ の 沖 気 は 至 虚
る 「沖虚杳渺之際」 の語は、 先程来問題にしている 「無思無為寂然
特に 「沖気」 においても確認することができる。 右の引用文中にあ
もっとも、 道の動態的機能の重視は 「神」 に限らず、 道の存在論、
有効であった。
無之変更出迭入」 とあるように動的なイメージとして把握するのに
や「 虚 無 寂 寞 」 と い っ た 静 的 で 固 定 的 な 状 態 を 表 す と 同 時 に、「 有
る の で あ る。 ま た、 道 の 属 性 を「 神 」 と す る こ と は、「 無 思 無 為 」
献 を 根 拠 と し て 文 字 解 釈 を 行 っ て い る。『 字 説 』 の 正 当 性 の 可 否 は
「 む な し い、 空 っ ぽ の 」、 満 る こ と が 無 い 道 の 有 り 様 と の 二 つ の 文
真 ん 中 に 位 置 す る こ と か ら 水 平 且 つ 中 心 の 意 と、『 老 子 』 第 四 章 の
繋 辞 上 伝「 天 五 地 六 」 に お い て、「 天 一 」 か ら「 地 十 」 の ち ょ う ど
説 』 で は「 沖 」 の「 氵 」 が 水 平 の 意 で あ り、「 中 」 は 上 掲 の『 易 』
理 論 を 用 い て 分 析 す れ ば「 元 気 」 と「 沖 気 」 と に 分 割 さ れ る。『 字
万物負陰而抱陽、 沖気以為和」 の語。 道は本来一つであるが、 体用
「 沖 気 」 は『 老 子 』 第 四 十 二 章「 道 生 一、一 生 二、二 生 三、三 生 万 物。
(8)
に転換して、 価値論の場で現実的な道の有効利用を図ることができ
不 動 之 時 」 と ほ ぼ 同 義 で あ る が、「 沖 」 に つ い て は『 老 子 注 』 の 中
別 と し て、『 易 』 と『 老 子 』 と の 文 脈 を 相 互 補 完 的 に 解 釈 し て い る
七三
点でこの説は興味深い。 体用理論によれば、 用である 「沖気」 は体
で、『字説』を用いて次のように説明している。
道 に は 体 と 用 が あ る。 体 と は 元 気 の 動 か な い も の で あ り、 用 と
王安石の思想における「神」の意義について
が 幾 つ か 認 め ら れ る。「 沖 気 」 と「 神 」 は 動 態 的 作 用 を 有 す る と い
物にその作用を及ぼしていく 「沖気」 は 「神」 の性状と共通する点
でありながら無尽蔵に生成していく。 このように道から派生して万
るように天下における万物の養育にあり、 その様は鞴のように中空
而生養万物、如槖籥虚而不屈、動而愈出」(『老子注』第五章)とあ
体 的 な 役 割 は、「 道 無 体 也、 無 方 也。 以 沖 和 之 気 鼓 動 於 天 地 之 間、
の 「元気」 とは異なり、 有為の次元で動的に作用を及ぼす。 その具
天官太宰注)
有所示、非所以為神。惟其無所屈、是以異於示也。)(『周礼義』
二 為 小。 而 神 亦 从 示 者 神 妙 万 物 而 為 言、 固 為 其 能 大 能 小、 不 能
神 無 体 也、 則 不 可 以 言 大。 神 無 数 也、 則 不 可 以 言 一。 有 所 示 則
故 天 从 一 从 大、 示 从 二 从 小。 从 二 从 小 為 示 而 从 一 从 大 不 為 神 者
有 所 示 故 也。「 效 灋 之 謂 坤 」、 言 有 所 示 也。 有 所 示 則 二 而 小 矣。
( 神 之 字 从 示 从 申 則 以 有 所 示 無 所 屈 故 也。 示 之 字 从 二 从 小 則 以
ただ屈するところがないという性質から示とは異なるのである。
七四
う 点 で は 同 じ で あ る。 た だ し、「 沖 気 」 は 存 在 論 に 限 定 さ れ て い る
繋 辞 上 伝) と は、 示 す と こ ろ が あ る こ と を 言 う。 示 す と こ ろ が
すところがあるためである。「灋を效すを之れ坤と謂う」(『易』
屈 し な い た め で あ る。 示 の 字 は 二 と 小 か ら 成 っ て い る の は、 示
神 の 字 が 示 と 申 か ら 成 っ て い る の は、 示 す と こ ろ が あ り な が ら
蟄、 以 存 身 也。 精 義 入 神、 以 致 用 也 」 に よ る も の と 思 わ れ、「 入
も 引 用 さ れ て い た『 易 』 繋 辞 下 伝、「 尺 蠖 之 屈、 以 求 信 也。 龍 蛇 之
无 方 而 易 无 体 」 を 典 拠 と す る 語、「 無 所 屈 」 は 先 述 の「 致 一 論 」 で
説 』 と は 明 ら か に 異 な っ て い る。「 無 体 」 は『 易 』 繋 辞 上 伝 の「 神
あって、「示」は神事、「申」は雷の意で会意と取り、王安石の『字
「神 妙 万 物 而 為 言」 は『易』 説 卦 伝「神 也 者 妙 万 物 而 為 言 者 也」 に
あ る の は 二 で あ り 小 で あ る。 そ の た め 天 は 一 と 大 か ら 成 り、 示
神 」 の 作 用 を 尺 取 虫 の 屈 伸 に 見 立 て た 表 現 で あ る。「 神 」 が 無 体 で
の で、「 神 」 ほ ど の 重 要 性 は 与 え ら れ て い な い。 で は「 神 」 に は 一
は 二 と 小 か ら 成 る。 二 と 小 か ら 示 と な る が、 一 と 大 と で 神 と し
あ る こ と や 万 物 に 影 響 を 及 ぼ す こ と は 「 沖 気 」 の 様 相 と 重 な る が、
よる。「申」は申束、すなわち屈伸の意で、『易』坤卦の柔弱性に託
な い の は、 神 は 無 体 で あ る か ら 大 と 言 わ な い の で あ る。 神 は 無
変幻自在な伸縮性や無為有為の両次元に渡る変動性は 「沖気」 には
体、 如何なる価値を認めているのであろうか。 試みに 「神」 の 『字
数 で あ る か ら 一 と 言 わ な い の で あ る。 示 す と こ ろ が あ れ ば 二 を
存在せず、 また 「神」 のような聖人の霊妙さを示す意も無い。 すな
けて論じている。『説文繋伝』に「天神。引出万物者也」(巻一)と
小 と す る。 し か し 神 も ま た 示 か ら 成 る の は、 神 は 万 物 に 妙 用 を
わち 「沖気」 には価値論的要素が見られないのである。 ただ、 道の
説』 も確認しておくと次のようにある。
も た ら す と こ ろ か ら 言 わ れ る。 も と よ り 大 と な っ た り 小 と な っ
存在論においても上述の静的な 「元気」 よりも動的な 「沖気」 を重
(9)
た り し て、 示 す こ と が で き な い も の は、 神 で あ る と は 言 え な い。
(
存在論、 価値論を問わず道の動的側面を重視していたことを裏付け
用 理 論 に お い て は 用 の 表 象 と し て 考 え ら れ て い る 点 を 考 慮 す る と、
視している点は斟酌すべきである。 生成論の中間 点 にありながら体
認した通りであるが、 それはすでに道そのものの姿ではない。 その
「崇 徳」 が「道 之 序」 の 最 終 的 な 帰 結 で あ る こ と は「致 一 論」 で 確
に 該 当 す る。 た だ、 徳 は 道 の 作 用 が 人 間 に 備 わ っ た も の で あ り、
「 神 」 と 形 容 す る ほ か 無 く、 仮 に 人 間 界 で 代 替 物 を 探 せ ば、 人 の 徳
(
る 判 断 材 料 と な る こ と は 確 か で あ る。 逆 に、「 沖 気 」 に 対 す る 言 及
『孟子』に、「充実して光輝有るを之を大と謂い、大にして之を
道が徳として還元される過程、 すなわち 「入神」 から 「崇徳」 の間
の比較により、 傍証的ではあるがあらためてその意義を確認するこ
化 す る を 之 れ 聖 と 謂 い、 聖 に し て 之 を 知 る べ か ら ざ る を 之 れ 神
の少なさは、 道の存在論的側面において必要以上の的証追究に禁欲
と が で き た。「 神 」 は 単 に 聖 人 の 玄 妙 さ を 形 容 す る 語 に 止 ま ら ず、
と謂う」(『孟子』尽心章句下)とある。この大・聖・神の三者
にある 「致用」 が如何なるものかを検証する必要があろう。 本章で
「 更 出 迭 入、 而 未 離 乎 道 」 と い う 無 為 有 為 を 縦 横 無 碍 に 行 き 来 し つ
は 皆 聖 人 の 名 で あ り な が ら 呼 び 方 が 同 じ で な い こ と か ら、 実 際
的であったことの現れと言えよう。 つまり天地のメカニズムを必要
つ、 しかも道の如く汎神的に世界全体へと作用を及ぼす動態的特質
に 指 す も の も 異 な る の で あ る。 道 か ら 言 え ば 神 と 言 い、 徳 か ら
は ま ず、「 神 」 が 聖 人 に よ っ て 如 何 に 天 下 へ と 派 生 さ れ て い く か を
を 有 す る。「 神 」 は「 入 神 」 の よ う に 窮 理 の 最 高 段 階 で あ る 無 為 の
言 え ば 聖 と 言 い、 事 業 か ら 言 え ば 大 人 と 言 う。 古 の 聖 人 は 道 に
以上に解明するという方針を王安石は取らなかったのである。
次 元 に 位 置 す る が、 最 終 的 に は 有 為 の 次 元 に お い て、 聖 人 に よ る
お い て 必 ず 神 な る 境 地 へ 入 っ て い た。 し か し ( 神 人 と 称 さ ず
見ていきたい。
「致用」 にその効用の発揮が求められるのである。では、 その「神」
に) 聖 人 と 称 す る に 止 ま っ て い た の は、 そ の 道 が 虚 無 で あ り 寂
寞 と し て 不 可 視 の 間 に 存 在 し て い る か ら で あ る。 も し 人 が そ の
よ う な 境 地 に あ る 場 合 は、 い わ ゆ る 徳 を 指 す。 つ ま り 人 間 の 道
前 章 の「 大 人 論 」 中 に あ っ た、「 古 之 聖 人 其 道 未 嘗 不 入 於 神。 而
け れ ば 顕 れ ず、 聖 は 顕 れ る と い っ て も、 大 で な け れ ば 形 と し て
き ず、 徳 と 言 う の み で あ る。 そ の 神 は 至 高 で あ っ て も、 聖 で な
は 入 神 と 同 じ よ う な 境 地 へ 至 っ た と し て も、 神 と 呼 ぶ こ と は で
其所称止乎聖人者、 以其道存乎虚無寂莫不可見之間。 苟存乎人、 則
七五
現 れ な い。 そ の た め、「 此 の 三 者 皆 聖 人 の 名 に し て、 之 を 称 す
王安石の思想における「神」の意義について
所謂徳也」 という文言を見る限り、 道の具体的な顕現は聖人による
四 「神」の致用
による致用とは如何なるものなのか、 次章で検討していきたい。
価値論に根差した動態的な 「神」 は、 特質の類似する 「沖気」 と
((
七六
(『 孟 子 』 曰、「 充 実 而 有 光 輝 之 謂 大、 大 而 化 之 之 謂 聖、 聖 而 不
は、 爻に存しているからである。
の 作 用 は 徳 や 業 の 間 に あ る か ら、 そ れ は 徳 や 業 の 至 り で あ る こ
徳はいわゆる聖であり、 業はいわゆる大である。 ……やはり神
神 の 為 す と こ ろ は 必 ず 盛 徳 大 業(『 易 』 繋 辞 上 伝 ) に 現 れ る。
至於神、則不見可欲矣。」(第三章)とあるように、不可視であるこ
可 知 之 謂 神 」。 夫 此 三 者 皆 聖 人 之 名 而 所 以 称 之 之 不 同 者、 所 指
と が わ か る。 そ の た め、「 神 は 聖 に 非 ら ざ れ ば、 則 ち 顕 れ ず。
る の 同 じ か ら ざ る 所 以 の 者 は 指 す 所 の 異 な り」 と 言 う の で あ る。
異 也。 由 其 道 而 言 謂 之 神。 由 其 徳 而 言 謂 之 聖。 由 其 事 業 而 言 謂
聖 は 大 に 非 ら ざ れ ば、 則 ち 形 れ ず」 と 言 う の で あ る。 こ れ は 天
とを強調する。 道と徳とは同一の道から派生するものの、 具体的な
之 大 人。 古 之 聖 人 其 道 未 嘗 不 入 於 神、 而 其 所 称 止 乎 聖 人 者、 以
地の全体であり、 古の人の完成体である。
『 易 』 に、「 蓍 の 徳 円 に し て 神、 卦 の 徳 方 に し て 以 て 智 」(『 易 』
其 道 存 乎 虚 無 寂 莫 不 可 見 之 間。 苟 存 乎 人、 則 所 謂 徳 也。 是 以 人
( 神 之 所 為 当 在 於 盛 徳 大 業。 徳 則 所 謂 聖、 業 則 所 謂 大 也。 ……
作 用 の 差 か ら 区 分 さ れ て い る こ と が わ か る。 し か し な が ら、 同 じ
之 道 雖 神、 而 不 得 以 神 自 名、 名 乎 其 徳 而 已。 夫 神 雖 至 矣、 不 聖
蓋 神 之 用 在 乎 徳 業 之 間、 則 徳 業 之 至 可 知 矣。 故 曰、「 神 非 聖、
繋 辞 上 伝) と あ る。 そ も そ も 『易』 の 書 は 聖 人 の 道 が 尽 く さ れ
則 不 顕。 聖 雖 顕 矣、 不 大 則 不 形。 故 曰、「 此 三 者 皆 聖 人 之 名、
則 不 顕。 聖 非 大、 則 不 形 」。 此 天 地 之 全、 古 人 之 大 体 也。)( 同
「大人論」 の別の箇所では次のようにも述べている。
而 所 以 称 之 之 不 同 者 所 指 異 也 」。『 易 』 曰、「 蓍 之 徳 円 而 神、 卦
右)
た も の で あ る。 卦 を 称 し て 智 と 言 う の に 対 し、 神 と 称 さ な い の
之 徳 方 以 智 」。 夫 易 之 為 書、 聖 人 之 道 於 是 乎 尽 矣。 而 称 卦 以 智
差はあるものの、 効能が発揮される対象が異なるのみで、 一つの道
聖・ 神 ) の 後 半 三 つ を 俎 上 に 乗 せ、「 大・ 聖・ 神 」 の 三 者 は 名 称 の
王 安 石 は、『 孟 子 』 の 善 か ら 神 へ と 至 る 六 段 階( 善・ 信・ 美・ 大・
た 天 下 の 事 業 に 顕 在 化 す る。 こ こ か ら、「 神 」 は「 聖 」 の 顕 現 で あ
あるように、 道の作用は 「神」 を媒介として 「徳」 や 「業」 といっ
うに、『易』における生成過程の最終段階に位置する。「神之用」と
象、 四 象 生 八 卦、 八 卦 定 吉 凶、 吉 凶 生 大 業 」( 繋 辞 上 伝 ) と あ る よ
「 大 業 」 は、 同 じ く『 易 』 に、「『 易 』 有 太 極、 是 生 両 儀、 両 儀 生 四
から派生した内実を異にする属性であると述べている。その論拠と
る「 徳 」 と、「 大 」 の 顕 現 で あ る「 業 」 の 両 者 よ り も 一 段 上 位 に あ
不称以神者、以其存乎爻也。)(『文集』巻六十六)
し て 王 安 石 は こ こ で も『 易 』 繋 辞 上 伝 を 引 用 し、「 神 」 が 聖 人 の 道
り、「 神 之 用 」 が こ れ ら の 作 用 の 淵 源 に 該 当 す る こ と が わ か る。 更
(
における至高の状態であること、 またその 「神」 は 『老子注』 にお
に「 神 」 は、『 易 』 の 生 成 理 論 と 併 せ て 勘 案 す れ ば、 生 成 過 程 の 末
(
いても、「『孟子』曰、「可欲之謂善」。夫善積而充之、至於神。及其
((
十六章) とあり、 二者は同類のものと見なされ、 共に天下の有徳者
徳則隠而内、以業則顕而外。公与王合。内外之道也」(『老子注』第
に つ い て は、「 背 私 則 爲 公。 尽 制 則 爲 王。 公 者 徳 也。 王 者 業 也。 以
用 的 な 影 響 を 有 す る 作 用 で あ る こ と も 確 認 さ れ る。「 徳 」 と「 業 」
端である 「大業」 まで道の作用を貫通させることから、 宇宙的、 汎
る 点 は 興 味 深 い。 実 は こ の 他 に も、「 致 用 」 の 具 体 的 な 効 能 は 天 下
が、 その 「盛徳」 の至りが礼であるという 『孟子』 を持ち出してい
は 『易』 の 「盛徳大業」 を念頭に置いていることはほぼ間違いない
考 察 し た「 神 」 の 特 質 と 似 通 っ て い る こ と が わ か る。「 盛 徳 」 の 語
にその徳を担う具体的な人格が想定されていることから、 第二章で
不 動 」 の 道 に 基 づ く 徳 で あ る こ と、 ま た、「 孔 徳 之 容 」 と あ る よ う
(
に よ り 顕 在 化 さ れ る と 明 言 さ れ て い る。 以 上 の 点 か ら、「 神 」 の 作
の礼を通して発揮されると主張している箇所が幾らか散見される。
(
用 は 道 の 末 端 部 分 に ま で そ の 力 を 波 及 さ せ、 そ の 末 端 が 「 大 」 や
道 に は 本 末 が あ る。 本 と は 万 物 の 生 じ る 所 以 で あ り、 末 と は 万
(
「徳」といった聖人の致用を指すことがわかる。では、「神」の効用
物 が 成 る 所 以 で あ る。 本 な る 者 は 自 然 か ら 発 生 す る た め、 人 の
下 ) と 言 う の で あ る。 や は り「 惟 れ 道 に 是 れ 従 う 」 と は、「 孔
「 動 容 周 旋、 礼 に 中 る 者 は 盛 徳 の 至 り な り 」(『 孟 子 』 尽 心 章 句
「 孔 徳 」 と は 『 孟 子 』 の い わ ゆ る 「 盛 徳 」 で あ る。 そ の た め、
階 で は、 聖 人 は 無 言 無 為 な 態 度 を と ら な い。 そ の た め、 古 の 聖
で あ る こ と に よ る。 人 の 力 を 頼 ん で 万 物 が 出 来 上 が る と い う 段
力 を 借 り ず に 万 物 が 自 然 に 生 じ る の は、 聖 人 が 無 言 無 為 な 態 度
渉 る た め、 人 の 力 を 頼 ん で、 そ の 後 に 万 物 が 出 来 上 が る。 人 の
(
によって顕現するこの 「大」 や 「徳」 といった抽象的な概念は具体
徳の容」、すなわち大いなる有徳者の姿である。
人 が 頂 点 に 君 臨 し 万 物 生 成 の 任 を 担 え ば、 必 ず 四 術 を 制 し た。
力 を 借 り る こ と な く、 万 物 が 自 然 に 生 じ る。 末 な る 者 は 形 器 に
(「孔徳」、『孟子』所謂「盛徳」是也。故曰「動容周旋中礼、盛
れ る「 盛 徳 」 に 読 み 替 え、『 老 子 』 の「 孔 徳 之 容、 惟 道 是 従 」 の 二
主 題 と す る が、 王 安 石 は「 孔 徳 」 を『 易 』『 孟 子 』 に 共 通 し て み ら
『老子』 の本文では偉大な徳を持つ聖人がひたすら道に従うことを
は り 無 が 自 然 の 力 か ら 出 て、 無 が 与 っ て い る か ら で あ る。 今 の
か し 空 所 と は い っ て も 車 の 製 作 者 が こ の 無 に 及 ば な い の は、 や
軸 一 本 の 妙 用 は 本 来 車 と し て 動 い て い な い そ の 空 所 に あ る。 し
の 用 有 り 」( 第 十 一 章 ) と あ る。 そ の 三 十 本 の 車 輻 と 中 央 の 車
『老子』に、「三十輻、一轂を共にす。其の無なるに当たって車
句を転倒させることで主旨の軸を、 道そのものの原理的な説明から
七七
車 を 作 る 者 は 車 輻 と 車 軸 に つ い て は 知 っ て い る が、 無 に 及 ぶ こ
王安石の思想における「神」の意義について
聖人による徳論へとずらしている。 この 「孔徳」 は 「無思無為寂然
二十一章)
四術とは礼楽刑政のことであり、 万物を成す所以である。 ……
的にどのようなものを指すのか。
((
徳 之 至 」。 蓋「 惟 道 是 従 」、 則「 孔 徳 之 容 」 矣。)(『 老 子 注 』 第
((
然 工 之 琢 削 未 嘗 及 於 無 者、 蓋 無 出 於 自 然 之 力、 可 以 無 与 也。 今
輻 共 一 轂、 當 其 無、 有 車 之 用 」。 夫 轂 輻 之 用 固 在 於 車 之 無 用。
焉。四術者礼楽刑政是也、所以成万物者也。……其書曰、「三十
不 能 無 言 也 無 為 也。 故 昔 聖 人 之 在 上 而 以 万 物 為 己 任 者 必 制 四 術
可 以 無 言 也 無 為 也。 至 乎 有 待 於 人 力 而 万 物 以 成、 則 聖 人 之 所 以
待 人 力 而 後 万 物 以 成 也。 夫 其 不 仮 人 之 力 而 万 物 以 生、 則 是 聖 人
者 出 之 自 然。 故 不 仮 乎 人 之 力 而 万 物 以 生 也。 末 者 渉 乎 形 器。 故
( 道 有 本 有 末。 本 者 万 物 之 所 以 生 也。 末 者 万 物 之 所 以 成 也。 本
下に用いる所以は礼楽刑政にある。
ら な い。 そ の た め 無 の 無 た る 所 以 は 車 輻 と 車 軸 に あ り、 無 の 天
天 下 に お け る 用 と 同 じ で あ る。 し か し 無 の 所 以 に つ い て は わ か
車 を 動 か す 術 に つ い て は 固 よ り 疎 い。 今 の 無 の 車 に お け る 用 は
と は な い。 ま た 車 を 作 る 者 は、 や は り 車 輻 と 車 軸 は 備 え る が、
は 無 い よ う で 必 ず 存 在 す る も の で あ り、 無 為 で あ り な が ら 必 ず
あ れ ば、 礼 は 「 神 」 の 成 し た も の で あ ろ う か。 そ も そ も 「 神 」
の は 明 ら か で あ り、 理 で あ り 顕 な る も の は 微 か で あ る。 そ う で
は 実 に 道 徳 性 命 の 微 に 隠 れ て い る と 言 え る。 事 で あ り 幽 な る も
で あ る。 こ こ か ら、 礼 の 事 は 形 名 度 数 の 粗 に 顕 れ る が、 礼 の 理
う し て 聖 人 の 私 智 で あ る と 言 え よ う か。 実 に 天 理 の 為 す と こ ろ
任 命 す る こ と で そ の 効 用 が 充 分 に 発 揮 さ れ る。 六 官 の 設 立 が ど
治 教 礼 政 刑 事 に よ っ て 天 下 を 治 め る が、 そ れ は 天 地 四 時 の 官 に
無 の 道 は 天 地 と 四 時 (春 夏 秋 冬) に よ っ て 万 物 を 掌 る。 聖 人 は
を任官し、 その官が法を施行した後、 礼は完成される。 ……常
れ ば 法 に 存 し、 そ れ を 押 し 広 げ て い け ば、 人 に 存 す る。 そ の 人
れ る。 聖 人 は 道 の 序 に 随 っ て 礼 を 制 す る。 制 し て 実 際 に 運 用 す
は 法 の 大 本(『 荀 子 』 勧 学 ) で あ り、 道 は 実 に こ の 礼 に 寓 せ ら
道 は 分 か れ て 万 物 の 成 理、 理 の 成 具、 不 説 の 大 法 と な る。 礼 と
七八
之 治 車 者 知 治 其 轂 輻 而 未 嘗 及 於 無 也。 然 而 車 以 成 者 蓋 轂 輻 具、
為 す。 聖 人 は 礼 を 建 て て そ れ を 体 と し、 そ の 体 を 行 う こ と で 翼
ある。
則 為 車 之 術 固 已 疎 矣。 今 知 無 之 為 車 用、 無 之 為 天 下 用。 然 不 知
この引用箇所については、 既に多くの先行研究で取り上げられてい
( 道 判 為 万 物 之 成 理、 理 之 成 具、 不 説 之 大 法。 礼 者 法 之 大 分、
と し た。 事 を 処 す る の に 礼 を 制 と し て 用 い、 曲 事 に も 礼 を 防 と
るため詳説を控えるが、 先の 「致一論」 と比較すれば、 ここで言う
道 実 寓 焉。 聖 人 循 道 之 序 以 制 礼。 制 而 用 之、 則 存 乎 法。 推 而 行
所 以 為 用 也。 故 無 之 所 以 為 用 者 以 有 轂 輻 也。 無 之 所 以 為 天 下 用
「 四 術 」、 す な わ ち「 礼 楽 刑 政 」 は「 致 用 」 の 具 体 的 な 顕 現 で あ る
之、 則 存 乎 人。 其 人 足 以 任 官、 其 官 足 以 行 法、 然 後 礼 之 事 挙 矣。
し て 用 い る こ と も、「 神 」 が 必 ず 存 在 し、 必 ず 為 す と い う 意 で
ことは明らかであろう。 ただ、 王安石の構想した 「致用」 の内容が
……然則常無之道為万物而有天地四時。聖人為天下而有治教礼
者以有礼楽刑政也。)(「老子」『文集』巻六十八)
「礼楽刑政」 のみに止まらないことは次の資料から推測できる。
(
者 微。 然 則 礼 其 神 之 所 為 乎。 夫 神 無 在 而 無 乎 不 在、 無 為 而 無 乎
之 粗、 而 礼 之 理 実 隠 於 道 徳 性 命 之 微。 即 事 而 幽 者 闡、 即 理 而 顕
私 智 哉。 実 天 理 之 所 為 也。 由 此 以 観、 則 礼 之 事 雖 顕 於 形 名 度 数
政 刑 事、 天 地 四 時 道 之 所 任 以 致 其 用 者 也。 噫 六 官 之 建 豈 聖 人 之
「 礼 」 に 代 表 さ れ る の で あ る。 ま た、 王 昭 禹 の 言 う 礼 の 「 理 」 と
道 は 社 会 的 な 規 律 で あ り、 そ れ が あ ら ゆ る 人 倫 道 徳 を 包 摂 す る
義 』 国 風、 秦 風、 兼 葭、『 詩 義 鉤 沉 』 九 十 五 頁 ) と あ る よ う に、 人
本 一 也。 其 畜 也 斂 也 散 也 有 度 数 存 焉、 謂 之 礼。 此 人 道 也。」(『 詩
個 人 の 倫 理 で あ る と 考 え た。「 畜 而 為 徳、 散 而 為 仁、 斂 而 為 義、 其
(
不 為。 聖 人 立 礼 以 為 体、 行 体 以 為 翼。 事 為 之 制、 曲 為 之 防、 亦
「 事 」 の 二 様 相 は、 王 安 石 の 言 う「 神 」 の 作 用 と 同 定 さ れ る。「 更
(
先の 「老子」 という論攷では 「礼楽刑政」 を挙げていたが、 ここで
こ と が わ か る。 道 の 無 為 性 を 天 下 の 有 用 性 に 変 換 す る も の と し て、
更に個人の倫理の三種を重層的に備えた、 言わば全体的秩序である
を 基 礎 と す る 礼 と は、 天 地 自 然 の 理 法 と、 い わ ゆ る 一 般 的 な 制 度、
「 人 」、 す な わ ち 倫 理 と な る と す る。 す な わ ち、 こ こ で 言 わ れ る 道
際 に 制 度 と し て 運 用 す れ ば 「 法 」 と な り、 範 と し て 行 動 す れ ば
度数」 という事物の秩序を掌る役割として顕在化する。 その礼は実
礼は道から成る万物自然の理を備えながら、 天下においては 「形名
り返し述べてきた 「神」 の作用をすべて礼の働きに還元させている
そこに 「礼」 を肉付けをしたような体裁をとる。 つまり、 本稿で繰
は 「入神」 → 「致用」 → 「崇徳」 という 「道之序」 を骨組みとして、
て 必 ず 影 響 を 及 ぼ す も の と 考 え ら れ て い る。 こ の 王 昭 禹 の 「 原 序 」
という霊妙微かで顕在化し得ないものの、 具体的な礼の背後におい
章 に て 検 証 済 み で あ る が、 そ の 「 神 」 の 最 終 的 な 顕 現 は 「 礼 之 理 」
道の如く汎神的に世界全体へと作用を及ぼす動態的特質は既に第三
出 迭 入、 而 未 離 乎 道 」 と い う 無 為 有 為 を 縦 横 無 碍 に 行 き 来 し つ つ、
やはり中正でありながら崇高にしなければならないのは徳であ
のである。 王安石の論においてこれほど直接的に 「神」 と礼との関
こ こ か ら、「 致 一 論 」 の「 道 之 序 」 で 言 う「 致 用 」 の 具 体 的 な 顕 現
る。 節 度 は 一 つ ご と に 対 処 す べ き で あ る が 積 み 重 ね な け れ ば な
は 『周礼』 の六官がそれに相当する。 注目すべきは、 聖人が 「道之
は 礼 に あ り、「 崇 徳 」 は そ の 礼 の 遵 守 に よ っ て 自 然 に 涵 養 さ れ る 倫
らないのは礼である(『荘子』在宥)。礼が高まることで隠れて
係について明言している箇所は無いが、 礼論の基本軸は王昭禹のそ
理 に 当 た る と 言 え る。 王 安 石 も「 徳 以 礼 為 体 」(「 易 象 論 解 」『 文
し ま う の は、 道 と 一 と な り、 徳 の 極 み と な る か ら で あ る。 道 が
序」 に従って礼を制定したという箇所である。 この 「道之序」 の語
集』 巻六十五) と述べているように、 礼は徳の母体であり、 徳は礼
七九
降 っ て く る と 顕 れ る の は、 ひ と つ ひ と つ の 礼 の 節 度 に 対 処 す る
王安石の思想における「神」の意義について
が天下において制度のように万遍なく敷き渉った後にもたらされる
れとほぼ共通であると言えよう。
(
神之無不在無不為之意也。)(王昭禹『周礼詳解』原序)
((
は 第 二 章 で 確 認 し た 「 致 一 論 」 を 踏 ま え て い る こ と は 確 実 で あ る。
((
焉、 則 為 道 之 一、 為 徳 之 高。 由 道 之 降 而 顕 焉、 則 為 礼 之 節。
( 蓋 中 而 不 可 不 高 者 徳 也。 節 而 不 可 不 積 者 礼 也。 由 礼 之 升 而 蔵
からである。……『新経』(『周礼義』)云云。
( 道 有 升 降、 礼 有 損 益、 則 王 之 所 制、 宜 以 時 修 之。 修 灋 則 爲 是
ることを意味する。
時 宜 に 注 意 し て 修 め な け れ ば な ら な い。 法 を 修 め る と は こ う す
道 に は 昇 降 が あ り、 礼 に は 損 益 が あ る の は、 王 の 制 す る も の は
八〇
……新経云云。)(『周礼詳解』巻二十七、夏官節服氏注)
る 聖 人 の 崇 高 さ は、「 聖 人 独 以 其 事 之 所 貴 者 何 也。 所 以 明 礼 楽 之 本
物而万物各得其性。 万物雖得其性而莫知其為天地之功也。 王者無所
王 に よ る 礼 の 敷 設 は ま た、「 王 者 之 大、 若 天 地 然。 天 地 無 所 労 於 万
故也。)(『周礼義』秋官大行人注)
也。」(「 礼 楽 論 」『 文 集 』 巻 六 十 六 ) と あ る よ う に、「 礼 楽 之 本 」 す
労 於 天 下、 而 天 下 各 得 其 治。 雖 得 其 治、 然 而 莫 知 其 為 王 者 之 徳
礼の隠顕的作用は道のそれと軌を一にする。 また、 道の主体者であ
なわち 「礼之理」 を明らかにすることができるためとされる。 この
の 有 り 様 を 王 の 政 治、 具 体 的 に は 礼 に 直 結 さ せ る た め に 行 わ れ た。
也。」(「王覇」『文集』巻六十七)と、天地自然の道の有り様とも同
人 は 各 お の 上 に 同 調 し て 自 ら 尽 く し て い く こ と は、 礼 が 一 か ら
この意味で 「神」 は無為と有為とに分断された道を架橋する唯一の
言及と 「致一論」 の 「聖人之所以又貴乎能致用者也」 とを照合すれ
出 て 上 下 が 治 ま る こ と を 意 味 す る。 外 に は 祭 器 を 作 っ て 神 明 の
ものであり、 無為から有為への道の作用を説明するのに有効な概念
一視される。 道の 「無思無為」 性の強調は、 無為自然の基づく天地
徳 に 通 じ、 内 に は 徳 を 養 っ て 性 命 の 精 を 正 す。 礼 の 道 は こ こ に
であったと言える。 無為と有為の間を融通無碍に行き交い、 有為の
ば、「致用」の内実が礼楽であることは明白であろう。
おいて至っているといえる。
次 元、 す な わ ち 天 下 に お い て も 遍 く 道 の 作 用 を 行 き 渡 ら せ て い く
法 治 事。 将 神 而 化 之 与 民 宜 之 必 有 以 推 而 行 之、 以 致 乎 不 窮 之 用。」
(人 各 上 同 而 自 致、 則 礼 出 於 一 而 上 下 治。 外 作 器 以 通 神 明 之 徳、
王 安 石 の 構 想 す る 礼 は い わ ば 対 外 的 な 意 味 を 持 つ 祭 祀 だ け で な く、
(『 周 礼 詳 解 』 天 官 太 宰 注 ) と い う 文 章 に 端 的 に 示 さ れ て い る。「 致
「 神 」 の 汎 用 的 性 質 は、「 天 下 之 理、 渉 道 者 常 久、 渉 事 者 易 壊。 蓋
内 面 の 徳 の 修 養 ま で 要 求 す る の で あ る。「 礼 出 於 一 」 の「 一 」 と は、
用 」 が「 致 乎 不 窮 之 用 」 と 言 い 換 え ら れ て い る の は、「 神 」 の 無 窮
内 作 徳 以 正 性 命 之 精。 礼 之 道 於 是 為 至。)(『 周 礼 義 』 春 官 大 宗
「 礼 当 自 王 出 故 也 」(『 周 礼 義 』 春 官 大 宗 伯 注 )、「 法 当 自 王 出 故 也 」
性が反映されているのである。 王安石は 「神」 から 「礼」 への直接
道円而神。 故運而無窮。 事方而粗。 故止而有弊。 先王以道制法、 以
(『 周 礼 詳 解 』 巻 二 十 四、 春 官 内 史 注 )「 教 之 道 実 出 于 王 也 」( 同 書
的 な 作 用 を 明 確 に は 提 示 し な か っ た。 し か し、「『 詩 』 上 通 乎 道 徳、
伯注)
巻九、 地官敍官注) などの例から具体的には王のことを指す。
下 止 乎 礼 義。 放 其 言 之 文、 君 子 以 興 焉。 循 其 道 之 序、 聖 人 以 成
焉。」(「 詩 義 序 」『 文 集 』 巻 八 十 四 ) と あ る よ う に、「 道 之 序 」 の 構
造 論 的 な 分 析 に よ っ て、「 神 」 の 作 用 は 結 果 的 に 礼 へ と 結 実 し、 そ
れが 「致用」 の内実を形成していると言えるのである。
五 まとめ
以上の考察から、「神」の作用には「入神」だけでなく、「神」を
外へ及ぼす言わば 「出神」 と言える作用があり、 両者が相即するこ
頁。ちなみに二〇〇〇年以降に発表・出版された思想分野における王安石
関連の論文・書籍の内容を概観すると、研究主題の潮流がそれ以前の王安
石の思想分析を中心とするものから、王安石及び彼の門下の学に対する研
究や他学派との比較検討から学派としての性質を考察する研究、また思想
史上から王学(新学)を位置づける研究など、学派研究中心へとシフトし
ていることがわかる。例えば、簫永明『北宋新学与理学』(陝西人民出版
社、二〇〇一)、羅家祥「北宋新学的興衰及其理論価値」(『河北学刊』、二
〇 〇 一 第 三 期 )、 王 書 華「 荊 公 新 学 与 二 程 洛 学 在 経 学 領 域 的 対 立 与 分 岐 」
(同上)、簫永明「論荊公新学的治学特点」(『中州学刊』二〇〇一第五期)、
金生楊「程朱理学与王安石『易解』
」
(『孔子研究』二〇〇四第四期)、劉成
国『荊公新学研究』(上海古籍出版社、二〇〇六)、楊倩描『王安石『易』
学研究』(河北大学出版社、二〇〇六)、方笑一『北宋新学与文学―以王安
石為中心』(上海古籍出版社、二〇〇八)など。これら近年に発表された
一連の論文群を概況すると、概念分析系の論文が提出した考察結果を批判
と で、「 致 用 」 や「 崇 徳 」 と し て 顕 在 化 す る こ と が 明 ら か と な っ た。
こ の「 道 之 序 」 論 に よ っ て、 無 為 に 属 す る 道 で あ っ て も、「 神 」 と
的に踏まえ、部分的に修正を試みているものの、多くはその枠組みを無批
八一
(3) 夏長樸氏はこの点について、「
「易繋辞伝」在「無思無為寂然不動」之下、
『老子註』佚文」がある。
『道書輯校十種』(蒙文通文集第六巻、巴蜀書社、二〇〇一)所収「王介甫
こ こ で は 明 記 し な い。『 老 子 注 』 の 輯 本 に つ い て は 上 書 の 他 に、 蒙 文 通
(2) 容肇粗輯『王安石老子註輯本』中華書局、一九七九。以下『老子注』と
省略する。句点等については適宜改めた箇所があるが、煩瑣を避けるため
い。
なお、本稿は土田健次郎氏「王安石に於ける学の構造」(『道学の形成』
(創文社、二〇〇二)第六章第一節)の研究成果に負うところが少なくな
を試みたものである。
い。本稿は王安石の思想概念に対する再点検する意図のもとに構想・執筆
下や王学といった周縁の問題へと考察の範囲を拡げているものが少なくな
判に継承するか、もしくは検討を顧みないまま、それを土台として王学門
いう有無の両次元に渡って融通無碍に変化する作用により、 道の効
能は有為の世界においても矛盾無く 「致用」 へシフトすることが可
能となる。 並びに、 その 「致用」 は礼を通してはじめて具現化する
ものと考えられていたことも判明した。 しかし 「神」 と 「礼」 との
関係は 『三経義』 にも跨る思想問題であるため、 本来であれば 『周
礼 義 』 を 中 心 に 新 義 の 思 想 に つ い て 更 に 深 く 検 証 す る 必 要 が あ る。
この点については本稿の考察結果を踏まえた上で、 今後の課題とし
たい。
注
(1) 李祥俊『王安石学術思想研究』北京師範大学出版社、二〇〇〇、二五二
王安石の思想における「神」の意義について
沖気之所生也。沖気則無所不和」(
『文集』巻六十五)とあり、やはり沖気
八二
が問題となる文脈は存在論に限定されていると言える。
) 王
安石の宇宙観によれば、この世界は一気で構成され、「一陰一陽之謂
道。而陰陽之中有沖気。沖気生於道。道者天也。万物之所自生。」(『老子
「感而遂通天下之故」
、正是変無為成有為的表現」(「論王安石的致用思想」
(
注』第五十二章)というように、道は元気―陰陽―沖気―(五行)―万物
の順で生成していくとする。李之鑒前掲書、七十七頁参照。
)『孟子』の「大・聖・神」については、張載(一〇二〇~一〇七七)が
次のような論を立てている。
「全備天理、則其体孰大於此。是謂大人。以
其道変通無窮。故謂之聖。聖人心術之運、固有不疾而速、不行而至、黙而
識之処。故謂之神」(『黄渠易説』説卦)。張載は王安石と同時代人であり、
同じく思想内容は異なるものの、「神」に重大な関心を寄せていたことは
事実である。同時代的現象として思想史的側面から研究すべき対象である
( ) この「大・聖・神」の問題について、王安石の実子である王雱(一〇四
四~一〇七六)は、安石の議論をより先鋭化させて次のように述べている。
が、本稿では紙数の関係上割愛する。
「大而化之之謂聖、聖而不可知之之謂神。聖則吉凶与民同患、而神則不与
(
『李覯与王安石研究』
(大安出版社、一九八九))と、無為から有為への変
化とする。筆者も概ねこの論に同調するが、本稿ではこのような単純な枠
組みで解釈する方法を取らない。具体的な見解については後述する。
(4) 有為の次元における窮理の先には無為が存在するが、更にその先にはま
た有為の次元へと道の作用が還元されるという考えは『老子注』において
も確認できる。
「
「為学」者窮理也。
「為道」者尽性也。性在物謂之理、則
天下之理無不得。故曰、
「日益」
。天下之理宜存之於無。故曰、「日損」。窮
理尽性、必至於復命。故「損之又損之以至於無為」者復命也。然命不亟復
也。必至於消之復之。然後至於命。故曰、「損之又損之以至於無為」。然無
為 也 亦 未 嘗 不 為。 故 曰、
「 無 為 而 無 不 為 」。」( 第 四 十 八 章 )。 有 為( 窮 理 )
→無為→有為(復命)というパターンは既に『老子』に内包された道論で
(5) 後に引用した『老子注』第一章においても、「道之本出於沖虚杳渺之際、
而其末也散於形名度数之間」とあり、各句の語末に付されている「之際」
(6) 邱漢生輯校『詩義鉤沉』
(中華書局、一九八二)九十五頁。『詩義』につ
いては、程元敏『三経新義輯考彙(二)―詩経』(台湾、国立編訳館、一
九八五)を参照した。
(7) こ の よ う な 傾 向 は 道 の 存 在 論 を 直 接 取 り 上 げ た 文 脈 で も 確 認 さ れ る。
「両者有無之道、而同出於道也。言有無之体用皆出於道。世之学者、常以
無為精、有為粗、不知二者皆出於道。故云「同謂之玄」。此両者同出而異
名者同出於神、而異者有無名異也。
」
(『老子注』第一章)。
(8)『 老子注』では、
「未離乎道」と類似した表現を用いて、道の不可知性を
言 う。
「
「士者」
、 事 道 之 名。 始 乎 為 士、 則 未 離 乎 事 道 者 也。 終 乎 為 聖 人、
則 与 道 為 一、 事 道 不 足 以 言 之。 与 道 為 一、 則 所 謂 微 妙 玄 通、 深 不 可 識 是
已」
(第十五章)
。
(9) 沖気について言及した箇所はあまり多くはないが、「洪範伝」に、「土者
聖人同憂。尭之初治天下也、則天之大而化於民、其憂楽与天下共。所謂有
為之時也。及其化極而至於変、則鼓舞万物而不知其所然。所謂無為之時也。
無為出於有為、而無為之至則入神矣。夫聖人之功待神以立、而功既極神則
固宜全神。此尭之所以謙天下也。夫功既極神而不能反、則神之所以虧矣。
此尭之所以有爝火浸濯之喩也。」
(王雱『南華真経新伝』巻一)
)『
中庸』第二十章「不思而得」を基にした「致一論」の「能精其理、則
聖 人 也。 精 其 理 之 道 在 乎 致 其 一 而 已。 致 其 一、 則 天 下 之 物 可 以 不 思 而 得
也。」と通じ、同時にそれは「入神」の状態にあることはすでに本稿第二
章で検証した通りである。
( ) この資料は王学門下と見られる王昭禹(生没年未詳)の論であるが、王
安石の「道」と「礼楽刑政」との関係をより詳細に述べたものであり、王
(
「之間」の語はこの道論が宇宙論であることを示していると思われる。
あるが、同時に王安石の思想における骨子であるとも言える。
10
11
12
13
安石の「致用」の内実を考える上で参考となる文献であるため取り上げた。
14
(
王安石の『周礼義』と王昭禹『周礼詳解』との関係については、修士論文
「王安石『周礼義』における経義思想について―王昭禹『周礼詳解』との
比較を中心に―」にて論じた。なお、この『周礼詳解』原序の引用部分と
非常に類似した論として、程頤『易伝』序に、「君子居則観其象而玩其辞、
動則観其変而玩其占。得於辞、不達其意者有矣。未有不得於辞而能通其意
者也。至微者理也、至著者象也。体用一源、顕微無間。観会通以行其典礼、
則辞無所不備。
」とある。王学と道学の関係については、土田氏前掲書参
照。
王安石の思想における「神」の意義について
) 制度の充実が自然な結果として教化の実をあげるものとする論について
は、土田氏前掲書を参照。
15
八三