待望の生産再開、再建への歩み

GHQが航空機生産禁止を解除した頃、日本は朝鮮特需に沸いていた。日本の航空機産業は、朝鮮戦争で傷ついたアメリカ軍の戦闘機や
ヘリコプターのオーバーホールの依頼を受けた。1952年、川崎航空機工業にF-51戦闘機、T-6練習機、H-13ヘリコプターなどのオー
バーホールが、翌年1953年には三菱重工業にB-26爆撃機、C-46輸送機などのオーバーホールが発注された。これらのオーバーホールの
発注という特需は、日本が航空機の生産・研究・実験を禁じられていた7年間に進歩を遂げていた海外の最新航空技術を習得する良い
機会となった。
戦後、欧米先進国はジェット機の時代を迎えており、日本の各社もジェットエンジンの生産に関心を寄せていた。しかし日本では経験
が少なく、各社が個別に行うのでは資金・設備・技術者などが限られていたため、1953年に石川島重工、富士重工業、富士精密、三菱
重工業、後に川崎航空機工業も含む5社の出資で日本ジェットエンジンが設立された。1955年、同社によりJ3エンジンの設計が行われ
た。J3エンジンは1956年に1号機を納入、後に石川重工によって量産化されジェット中間練習機T1F1に搭載された。生産台数は247基。