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『シヴァ・プラーナ』の年代に関する覚え書
神舘, 義朗
滋賀医科大学基礎学研究, 2: b1-b23
1991-03
URL
http://hdl.handle.net/10422/1176
Type
論文(Article)
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Shiga University of Medical Science
﹃シヴァ・プラーナ﹄ の年代に関する覚え書
蝣
申
t
*
-
舘 義 朗
さて、表題に掲げた﹃シヴァ・プラーナ﹄(Slva-pur昔a)は、近
プラ-ナであった=.ところが、一九七〇年、﹃古代インドの伝承と
頃まで﹁副プラ-ナ﹂に属するものと見なされ、従って存在感の薄い
プラーナはインドが生んだ一種の宗教的文献群であるが、その総数
神話﹄というタイトルの許に全ての﹁大プラーナ﹂を英訳・出版する
論
はl五〇にも達すると言われい、全貌は未だ充分に解明されていないO
ナ﹄であった持.以来このプラーナは遥かに脚光を浴び、次いで一九
計画が実行に移された時、その最初に訳出されたのが﹃シヴァ・プラー
描
その中で特に重要視され比較的よ-読まれてきたものが十八あり、こ
惹くことが少なく、X・O ハズラ(H.C.Hazra)を除けば﹁副プラー
ころがへ この﹁副プラ-ナ﹂は﹁大プラーナ﹂に比べて学者の関心を
ナが存し、普通﹁副プラ-ナ﹂(upaIpur甘a)と呼ばれている10と
れに次ぐ地位を与えられているものとして、やはり同数の十八プラー
ら区別されることがあるは。これらの﹁大プラ-ナ﹂に対しては、そ
る。そこで本稿では、特にその年代について気付いたことを書き留め、
の重要な問題には未だ疑問なところが多-、今後の究明が待たれてい
た。しかし、その年代、成立過程、インド思想史上の位置付け、等々
紹介したことから"、このプラーナも漸く注目されるようになってき
ナ﹄に於て本書を﹁大プラーナ﹂として扱い、可成りの真数を割いて
八六年、ローチャーが、ホンダ監修﹃インド文献叢書﹄の1冊﹃プラI
にわ
れは時に﹁大プラーナ﹂(maha-pur昔a)と呼ばれて他のプラーナか
ナ﹂を研究対象とする目立った専門家は皆無に近い。まして﹁大プラー
備忘かたがた今後の研究の一助に資したい。
一般に、プラーナの年代決定は何れのプラーナにとっても極めて困
ナ﹂と﹁副プラ-ナ﹂以外の諸プラ-ナに至っては、その存在すら殆
ど無視されているのが実情である。
滋賀医科大学基礎学研究第二号(一九九1年)
(1)
(隻)ごとに先ずハズラの所論を摘示し、次に、それに対する論評を
記述は総べて右のハズラの研究に負っている。だから本稿では、各
チャーが﹃プラーナ﹄の中で本プラーナの年代に言及した際も、その
とは言え、今のところ彼に続く本格的研究は現れておらず、前記のロI
れども、.それは試論と呼んでもよいもので、不備な点が少なくない。
いる各(隻)(samhita)ごとに成立年代の推定を試みているけoけ
いては既にハズラが、その中に散在する手がかりを探捜し、構成して
難な問題で、﹃シヴァ・プラーナ﹄の場合も例外ではない。本書につ
なければならない必然性は何処にもない。次に'脚から㈲の諸項であ
場合へ西暦一〇〇年頃の聖典を引用している書物の上限が九五〇年で
ウパニシャッド﹄は、遅くとも西暦lOO年頃の成立である持。この
ものとは思われない。先ず、第m項に言う﹃シヴェ-タ-シヴァタラ・
ラ・集﹄の成立を九五〇年以降とする積極的で確実な根拠になり得る
ところが、右の諸項は、その何れを見ても、﹃ヴィディエーシヴァ
ヴィ-ヤ・集﹄を利用しているように見えること、が挙げられている0
トラ的要素を有していること、及びm本プラーナ所収の ﹃ヴァ-ヤ
勧めへ㈲党天崇拝の不人気に言及し、㈲ヤントラの承認といったタン
﹃シヴァ・プラ-ナ﹄ の年代に関する覚え書(神舘)
付け加えることとしたい。以下、ハズラに言及する場合は、特に断ら
るが'それらの事象が何時頃からインドで知られたり行われたりする
﹁六集本﹂の諸集の方が﹁七集本﹂のものより古い成立である (四七
含まれる諸集も殆ど半分が違うものである。そしてハズラによれば、
なお、﹃シヴァ・プラーナ﹄には﹁六集本﹂と﹁七集本﹂とが存し、
利用したと見るべきか、それとも関係を逆に見るべきか、といった問
については、ハズラのように本(集)が﹃ヴァ-ヤヴィ-ヤ・集﹄を
の点も本(隻) の年代決定に余り役立つとは言えないo最後の第m項
ようになったか、確かなことは殆どわかっていない。従って、これら
す
ない限り、右の論文を指すのである。
頁註一)。しかし、主に流布しているのは﹁七集本﹂ であり、上記の
題の検討が充分に為されていない憾みがある。その上、もしハズラの
ESSES玩-
英訳も﹁七集本﹂に依拠しているから、本稿では﹁七集本﹂について
主張を認めたとしても、彼自身が﹃ヴァ-ヤヴィIヤ・集﹄の成立を
第二章、第三章の第1-五句、及び第1九-二五章は、﹁六集本﹂に
ところでハズラによると、﹁七集本﹂第一章の第四句・後半以下、
して尊重すべきものであろう。
だ、これを積極的に否定する有力な材料もないわけで、碩学の心証と
ラの九五〇年上限説は厳密な論証に欠け、あまり説得的ではない。た
立は、西暦八〇〇年以降とされなければならない。このように、ハズ
この (隻)から引用したとされる﹃ヴィディエーシヴァラ・集﹄の成
西暦八〇〇-1000年の問に置いているのであるから (六三頁)、
サソヒター
見てゆくことにするはo
(Vidyesvara-samhita)
一、第l ﹃ヴィディエーシヴァラ・集﹄
aiEEa!
本(隻) は﹁六集本﹂では第二集になっている。その年代をハズラ
は西暦九五〇年以降と見る。理由としては、川この集が﹃シヴェータシヴァタラ・ウパニシャッド﹄を引用し、惚星宿や七曜名を知ってお
り、㈱ツラシー樹の聖性を認め、㈱五所礼拝法(pancayatana)杏
(2)
具体的なことは何も言っていない (五七-五八五)。そこで、この部
欠けている。そして彼は、これらを﹁比較的後世の付加﹂とするが、
の上限は1五〇〇年前後となることも考えられる。
る可能性も存する(後述参照)。それ故、この点から見れば、﹃第一集﹄
確度の高いものと言える。それどころか、十五世紀末以後の成立であ
二、 ﹃第一集﹄・第二章には(現身解脱者) について次のような
分について目に留ったことを次に述べておきたい。
サソヒター
一、本(集) の第二章は、第三四句以下に於て'﹃シヴァ・プラー
﹁この﹃シヴァ・プラーナ﹄を、毎日、怠りなく、力の及ぶ限り、
叙述がある。
サ・集﹄とが格段に優れた功徳を有しているとして、口を極めて賞賛
信愛をもって読謂する人、そのような人が現身解脱者と言われる。﹂
ナ﹄を構成する七集の中で特に第二﹃ルドラ・集﹄と第六﹃カイラー
し、第四七句では﹁他の諸(隻)もあらゆる願望と果報を適えて-れ
るが、﹃ルドラ・集﹄と﹃カイラーサ・集﹄は(遊戯)と(識知) に
yatha-sakti pathed bhaktyasa jivan-mukta ucyateII21
etac-chiva-pur甘amhi ya甘praty-ahamatandritah
り - ラ - ゲ ' ^ < 1 ▼ - チ
満ちていて別格と知らるべきである。﹂と明示している。そこで右の
﹁この、七集から成る完全な﹃シヴァ・プラ-ナ﹄を、尊崇の念
をこめて読諦する人、そのような人が現身解脱者と言われる。﹂
両集を見ると、﹃ルドラ・集﹄では世界の創造等がシヴァ神の(遊戯)
耶血
であることを説きO、﹃カイラーサ・集﹄では全編がシヴァ派の教説・
etac-chiva-pur昔amhi sapta-samhitamadarat
.2
諸原理の詳述に当てられ(識知)が重視されている臼。即ち前引の第
paripumampathed yas tu sajivan-mukta ucyateII63
100-l二〇〇年頃と見られているOO
.
¶
り
定義が散在する(第十l、二〇、二一句)。本書の成立年代は西暦1
が一〇箇、一群となって出てくる。また第五編・第十六章にも同形の
三。ここには、内容こそ右の定義と異なるが形式は全くT致するもの
一、﹃ヨーガ・ヴァ-シシュタ﹄(Yoga-uasistha)三・九・四I l
次の六書に右と同様な定義が纏って現れる。
とを予想せしめるものがある。そして事実、管見の範囲内だけでも、
ここには、(現身解脱者)を定義する一定の型が既に存在していたこ
のような人が現身解脱者と言われる。﹂と同一の形式で結んでいる。
この両句は、何れも先ず具体的内容を示した後、それを承けて﹁そ
う
四七句の記述によく合致するわけで、そのような両集がこの記述の前
に存在していたことは間違いない。
では、この両集の年代は何時頃であろうか。先ず﹃ルドラ・集﹄に
ついて、ハズラは西暦十四世紀より前ではないと言う(六五頁)。
後に見るように、この場合もハズラの所論は説得力に欠けるが、様々
の点から考えて彼が提示した年代は妥当なものと思われる。だとすれ
ば、この﹃ルドラ・集﹄を知っていた﹃第T集﹄の現形成立は1四世
紀以降となるであろう。また﹃カイラーサ・集﹄ の年代については、
それが九五〇年以前ではあり得ないということしか言えないと述べ、
さらに十一世紀以後である可能性を示唆している(五九頁)。このハ
ズラが示唆した可能性は、少なくとも﹁七集本﹂で見る限り、極めて
滋賀医科大学基礎学研究第二号(一九九1年)
(3)
相達し、細かく言えば三種の別がある仏。この十三句の中、二句(四
四四〇日。ここには十三の定義が見られるが、形式は右のものと少し
二、﹃ヴィヴェ-カ・チュ-ダーマニ﹄(Viveka-c打damara)四二八I
﹃ヨーガ・ヴァ-シシュタ﹄以来、多くの書物で用いられてきたこと
以上を通じて我々は、この形式による (現身解脱者) の定義が、
には共通する句が見られるが、その前後関係については何とも言えない。
ンタ定説の精髄・要集﹄九六七-九七四に相当する。その外にも両署
﹃シヴァ・プラーナ﹄ の年代に関する覚え書(神舘)
二九、四三〇)が内容上﹃ヨーガ・ヴァ-シシュタ﹄ 三・九・七と
を知り得る。そこで、前引の﹃シヴァ・プラーナ﹄ の二句であるが、
三、﹃全ヴェ-ダーシタ定説の精髄・要集﹄(Sarva-vedanta-sid-
的境地を叙述しているものが本来的である筈で、右の各署の定義も大
最高の宗教的境地を指す言葉である。従って、その定義は特別な精神
頚uて
三・九・十二とに相当する.本書はシャンカラ(抄ankara)に帰せら
この二句が﹃ヨーガ・ヴァ-シシュタ﹄よりも前に存在していたとは
dhanta-sara-samgraha)九六七I九七八。ここには十二の定義があ
体そのようになっている。﹂例を挙げると、六書の中で四書に共通し
&3
れているが、恐らく後世の偽菅で、その製作年代は右の第一書と次の
考えられない。理由は以下の二つである。(こ、(現身解脱者)とは
るが、形式は﹃ヨーガ・ヴァーシシュタ﹄のものと全-1致し、その
て見られる﹃ヨーガ・ヴァ-シシュタ﹄三・九・七は、﹁目覚めてい
ins
第三書との問の時期であろう仁。
中の六句が同書からの引用である仁。本書もシャンカラ作とされてい
ても熟睡状態にあって、目覚めの状態にあることなく、その覚知に
5
B
-
るが、実際には遥かに後のもので、その上限は﹃ヴェ-ダーンタ・サー
習気がない人、そのような人が(現身解脱者)と言われる。﹂と述べ
境地を述べたものではな-、﹃シヴァ・プラ-ナ﹄を読葡する功徳を
taa!Exa!
ラ﹄(Vedanta-sdra)の年代、即ち十六世紀初頭と見ることができるO
ている。ところが﹃シヴァ・プラ-ナ﹄の定義は、そのよ,γな解脱の
四、﹃マバー・ウパニシャッド﹄(Mahbpa甘sad)二・四二-六二。
讃えるために敢て内容的に調和しない此の定義を利用した形になって
dり
下限は多分、十七世紀中頃であろうO。
ここに見られる二l句の定義の中、六句が﹃ヨーガ・ヴァIシシュタ﹄
不自然であるから、﹃ヨーガ・ヴァ-シシュタ﹄の定義の方が前にあっ
いる。その意味で(現身解脱者) の定義としては非本来的である。す
-
第三編・第九章と第五編・第一六章に殆ど同じ形で出ている。本ウパ
e
ると、非本来的なものが本来的なものに先立って存在したと見るのは
B
ニシャッドの成立については、﹃ヨーガ・ヴァ-シシュタ﹄以後であ
・
たとしなければならない。(二)、﹃シヴァ・プラ-ナ﹄には此の形式
るということ以外、確かなことは判らない仁。
五、﹃アディヤートマ・ウパニシャッド﹄(Adhyatmdpani切ad)四
す
では畳みかけるように現れてきて、その与える印象が遥かに強烈であ
の定義が二度はどしか出てこないのに、﹃ヨーガ・ヴァ-シシュタ﹄
-
四-四七。この四句は総べて﹃ヴィヴューカ・チュ-ダーマニ﹄から
m
る。このような場合、印象の強い方が先にあって他に影響を与えた、
蝣
六、﹃ヴァラーハ・ウパニシャッド﹄(Varahbpa甘sad)四・二1-
と見るべきであろう。こうしてみると、﹃シヴァ・プラ-ナ﹄第一集
の引用であるO。
三〇。この一〇句は、二六と二八の両句を除-八句が、﹃全ヴェ-ダー
(4)
の成立は十二世紀以降ということになる。尤も﹃ヨーガ・ヴァ-シシュ
在したことを意味するものかどうか、逮かには決定し難いoしかし上
葉が﹃シヴァ・プラーナ﹄以前に﹃ヴェ-ダーンタ・サーラ﹄等が存
能性も充分に認められること、﹃ヴェ-ダーンタ・サーラ﹄が広く読
タ﹄の年代も未だ確定的とは言えないから、そこに多少の幅を認めな
ところで、いま述べたように﹃シヴァ・プラーナ﹄の定義は、内容
まれた有力な書物であったこと、等を考えると、右の言葉は﹃シヴァ・
述のように、﹃第1集﹄の成立が十四世紀から十六世紀にまで降る可
上(現身解脱者) の定義としては非本来的なものであった。そこで考
プラ-ナ﹄の著者(または編者)が、︽その﹃ヴェーダーンタ・サー
ければならないであろう。
えられるのは、本書が内容的に必ずしも適切と言えない此の定義を敢
ラ﹄の内容も総べて我が﹃シヴァ・プラ-ナ﹄の中に取り込まれてい
さて、以上のことから次のように言えるであろう。
て用いたのは、この種の定義が屡々用いられ既に1椴に極めて受入れ
義がそのような定着を見るに至ったのは何時頃であろうか。勿論それ
一、﹃第一集﹄の現形成立は、﹃ヨーガ・ヴァ-シシュタ﹄ や﹃カ
る︾として自らを誇示したもの、と受け取れないこともないのである0
をはっきりと見定めることは困難である。それに、前記の﹃ヴィヴェ-
イラーサ・集﹄との関係から考えて、確実に十一世紀中葉より後であ
られ易いものになっていたからだ、ということである。ではへこの定
カ・チュ-ダーマニ﹄と三ウパニシャッドは成立年代が不明確なこと
ろう。
-
本(隻)は﹁七美本﹂にしかない。この(莱)をハズラは十四世紀
得る。
の精髄を総べて自分のものとしている。﹂(vedanta-sara-sarvasva)
以後の成立と見た。その理由として彼は、﹃ルドラ・集﹄ に次の諸香
(Rudra-samhita)
二 第二﹃ルドラ・集﹄
三、本へ集) の現形が十六世紀以後に成立した可能性も充分にあり
成立としても差し支えない。
二、しかし﹃ルドラ・集﹄との関係等から見れば、十四世紀以降の
もあって、この問題を考えるのに余り役に立たない。然し、﹃ヨーガ・
ヴァ-シシュタ﹄以来、相当の時間的経過があったことは容易に想像
しさ
s
される。それと、本﹃第一集﹄が頻りにヴェ-ダやヴェ-ダーンタと
蝣
の親縁関係を力説している事実を考え合わせると担、右の問題の時期
は、ヴェ-ダーンタの巨匠ヴィディヤーラヌヤ(Vidyaranya)が出
現した十四世紀後半から名著﹃ヴェ-ダーンタ・サーラ﹄が書かれて
大きな影響力を行使した十六世紀頃までと想定してよいであろう。
三、この﹃第一集﹄には、筆者が気付いた限り、﹁ヴェ-ダーンタ
山7
V
という言葉が二度、﹁プラ-ナ﹂に対する修飾語として出てくる担。
からの引用句が存することを挙げている(六五頁)0
l'﹃知識・集﹄(Jnana-samhita)
i
*
i
この言葉は﹃第1集﹄以外にも散見するが¢、これらのIll]薯見て我々
が直ち に想起するのは前記の﹃ヴェ-ダーンタ・サーラ﹄であり、ま
二、﹃法・集﹄(Dharma-samhita)
f-If.・
た﹃全ヴェ-ダーンタ定説の精髄・要集﹄である。勿論、これらの言
滋賀医科大学基礎学研究第二号(1九九1年)
(5)
l般に行われている﹃小本﹄が九〇〇-二〇〇年頃、そして﹃広本﹄
﹃シヴァ・プラーナ﹄の年代に関する覚え書(神舘)
三、﹃ラグフ・ヴァンシャ﹄(Laghu-va息a)
が二九九年の成立とされているから担、何れにせよ、本書からの引
に見てゆこう。先ず﹃パドマ・プラーナ﹄について、彼は現行の出版
ナ﹂である。そこで、これら諸プラ-ナの年代をハズラの所論を中心
最後に六から九にかけての四書であるが、これらは何れも﹁プラー
と言えない。
用を根拠に﹃ルドラ・集﹄の年代を十四世紀以降に求めることは適切
・ォ?・
旧﹃クマ-ラ・サンバハゲァ﹄(.Kumara-sambhava)
五、﹃パンチャ・タントラ﹄(Panca-tantra)
六、﹃パドマ・プラ-ナ﹄(Padma-purana)
七、﹃リンガ・プラーナ﹄(Lihga-purana)
八、﹃ブラフマ・ヴァイヴァルタ・プラ-ナ﹄(Brahma-uaiuarta-
九、﹃カー-カI・プラIナ﹄(Kalika-purana)
であり、大部分は一四〇〇年以前に置かれている担。しかしローチャI
代推定を試みているが、その総てを通じて最も降る年代が1五〇〇年
本を篇や章に従って幾つかのグループに細分し、各グループごとの年
この中、一と二は﹃シヴァ・プラ-ナ﹄の﹁六集本﹂にのみ存する
は、その﹃プラーナ﹄の中で、このハズラの見解を完全に無視して紹
purana)
(集) で、ハズラは前者を西暦九五〇年以降、後者を同じく九〇〇年
介すら行っていない。そこには、このハズラの所論に対するローチャI
.司
以降の成立としている(五六頁及び六四頁)。その下限については何
の疑念を読み耽ることができるo次の﹃リンガ・プラーナ﹄は、ハズ
-
も言わない。従って、この両集が﹃第二集﹄に援引されているとして
s
ラによると、大部分が西暦六〇〇年もし-は八〇〇年から1000年
t
も、そのことが﹃第二集﹄の上限を十四世紀まで引き下げる論拠にな
にかけての成立である担。次の﹃ブラフマ・ヴァイヴァルタ・プラ-
ナ﹄の年代についてハズラは、その中の第四編・第八章と同・第二六
蝣
の得ないことは明白である.
次に、三の﹃ラグフ・ヴァンシャ﹄と四の﹃クマ-ラ・サンバハゲァ﹄
章のみが西暦八世紀から十四世紀初め迄の間の成立で、他の全編はT
ォ = s
は、言う迄もなく詩聖カー-ダーサ (Kalidasa) の作品であるO彼
O-十六世紀の成立だと考えている¢0そして最後の﹃カー-カー・
?
の年代は、学者により少しの違いはあるが、だいたい西暦四世紀から
6
プラーナ﹄は、ハズラの見るところ西暦一〇世紀から十一世紀前半の
蝣
五世紀にかけての頃と見ればよく、これに大き-違背することは考え
問の成立である¢。ローチャーは、このハズラの所見を容認している
P
5
-
s
-
られない¢。だから、この場合も、﹃ルドラ・集﹄を十四世紀以後に
・
以上を見て明らかなように、これら諸プラーナが﹃シヴァ・プラー
s
かのような書き方をしているが、明碓な賛否を表明しているわけでは
ない¢。
置く必然性は認められない。
次に、第五の﹃パンチャ・タントラ﹄は、その原型が西暦二世紀頃
に成立して以来、多くの異本が複雑な過程を経つつ流布伝播してきた
もので、年代決定の基準には向かない書である。しかし敢て言えば、
(6)
十四世紀以降であるということにはならない。先ず、ハズラの年代論
ナ﹄第二集に引用されているとしても、必ずしも﹃第二集﹄の成立が
イナ教徒のものである。即ち、ここでは仏教が同じ異教の代表的存在
四・二八-三〇)。ところが周知のように、このような生活態度はジャ
また、二・五・1六・l以下で党天を始めとする神々がヴィシュヌ
であるジャイナ教と混同され、仏教はジャイナ教の中に溶解してしまっ
である可能性も残っているからである。なおハズラは、前記の諸プラI
神に呼びかける一連の言葉の中に、次の二つの語句が並んで現れる。
そのものが未だ多くの問題を含んでいる上に、たとえ彼の所論をその
ナと﹃第二集﹄とに共通する詩句が見られる場合へすべてを一方的に
即ち﹁仏教徒の姿をしたジナの徒﹂と﹁カルキの姿をした、蛮族の退
ているのである。
﹃ルドラ・集﹄が借用したものと見ているが、貸借関係が逆の場合も
治者﹂とである。これらの言葉の背後には、明らかに(ヴィシュヌの
まま認めたとしても、それに従えば﹃第二集﹄の成立が十六世紀以降
あり得よう。ハズラの所論は、その点を一々明確にしていない以上、
十権化) の観念がある。しかし、ここで﹁仏教徒﹂は﹁姿﹂とともに、
fiS
﹁ジナの徒﹂を修飾する形容詞の位置に後退し、代って﹁ジナの徒﹂
レ ー く
充分な説得力を持つとは言い難いのである。ローチャーも、この﹃第
二集﹄を巡るハズラの年代論については沈黙している。
-
が主体となって前面に出ているβ。つまり、ここで仏陀は八十権化)
3
これらの事情は別として、我々が注意したいのは、﹃ルドラ・集﹄
E
中にしめていた座を放棄し、仏教はジャイナ教に融消して独立の存在
・
の現形が成立した頃、インドに於て仏教が既に消滅し、その記憶すら
を失いかけているのである¢。
ラ
失われかけていたように見えることである。その理由を次に述べよう。
プ
こうしてみると、﹃第二集﹄の作者(または編者) の脳裏に於て、
リ
﹃ルドラ・集﹄第五編の中に、﹁三つの城市﹂を支配する三人の阿修
仏教は如何に影が薄く、その実態が忘れ去られようとしているか、が
ト
羅をヴェ-ダの正法から逸脱させるため、ヴィシュヌが自分自身の中
察知されるであろう。
にせ
から剃髪者アリバン (Arihan)を造り出し、阿修羅どもに偽のヴェー
一
J
・w
さて、このように仏教の存在が殆ど忘れられていることは、﹃第二
ダの教法を説かせる話が出てくる。そこで、ヴィシュヌの命を受けた
集﹄の成立がインドに於ける仏教滅亡の時から相当の長期間を経た後
アリバンは、更に自分と同じ姿の四人の弟子を造り出し、ナ-ラダ仙
であったことを推測せしめる。普通、インドに於ける仏教の消滅は、
の助力を得て、ト-プラの住民にヴェ-ダの真説だと偽って異教の法
一二〇三年、回教徒がヴィクラマシラー寺を壊滅させた時とされてい
を説くのである。その際に説かれた異教の法が、実は﹁仏教の聖典に
るが、その後も仏教は、ある程度の期間、何らかの形で残存したであ
説かれた法﹂(bauddKagama-vinirdi苫an dharman.pi.ace.)なので
ろうβ。爾来、インドに於て仏教が殆ど忘即される迄になるのが、同
7
あったβ。ところが、その四人の弟子達は、呼吸中に極く微小な生物
寺の壊滅から僅々二〇年か三〇年のことであったとは、とても考えら
川
を飲み込んだり歩行中に生き物を踏み殺したりすることがないように、
れない。従って、現﹃ルドラ・集﹄の成立は早-ても一三〇〇年前後、
J
口には布切れを当て、歩く時には帯を推皆野したとされている(二・五・
滋賀医科大学基艇学研究第二号(l九九1年)
(7)
﹃シヴァ・プラ-ナ﹄の年代に関する覚え書(神舘)
の中での馬嗣祭の如く、石の中での宝珠の如く、味の中での甘味の
如く、金属の中での黄金の如く、獣類の中での牡牛の如く、鳥類の
換言すれば十四世紀以降と見てよいであろう。
次に、もう一つ気付いたことを書き留めておきたい。
中での白鳥の如く、四住期の中での乞食者の如く、四姓の中での婆
ビヒクシrl
本書二・五・二・三四-五五に於て'神々は以下のような多くの誓
中では王、解脱地(mukti-k仰etra)の中ではカーシ-、聖地の中で
海の中では乳海、金属の中では黄金へ四姓の中では婆羅門へ人々の
湖の中ではマ-ナサ湖、山々のなかでは山王、牛の中では如意牛、
では真実界、河川の中ではガンジス(dyu-sarit)、色の中では白色、
﹁貴方は神々の中ではインドラ、諸星の中では太陽、諸世界の中
処に見られる親近関係は、1方が他方を知っていたことを明らかに物
拡大されており、両者が完全に一致するわけではない。けれども、此
この二つの叙述を比較すると、﹃シヴァ・プラーナ﹄ の方は遥かに
る。β﹂
の如-(上方伝承)(urdhvamnaya)は総べての法の中で最勝であ
料の中での蔚香の如く、城市の中でのカーンチ-城市の如く、かく
羅門の如く、人間の中での王の如く、肢体の中での頭部の如く、香
は聖地の王、石の中では水晶、花の中では蓮華、山々の中ではヒマ
語っている。ただ、影響を与えた書物が二者の中の何れであるかは判
えを用いてシヴァ神を讃えている。
ラヤ、諸活動の中では語へ詩人の中でパバールガヴァ、鳥の中では
断し難い。しかし﹃第三集﹄にも両書に共通する句が存し、その場合
*-・-ヤ
シャラバハ鳥、猛獣の中では獅子、石の中ではシャ-ラグラーマ石、
は﹃シヴァ・プラーナ﹄の方が借り手と考えられる(後述参照)O徒つ
KMIiE-3>J
I
f
f
--(中略)--、祭儀の中では馬嗣祭、--(中略)--、革の
て、今の場合も事情は同じで﹃第二集﹄の方が借用者である、と見て
ところで、﹃クラールナヴァ・タン-ラ﹄も年代決定が難しい書物
ナィールタ
中ではクシャ草、大樹の中ではパンヤン樹、--(中略)--、清
よいであろう。
ヴ7-チ
浄な修法の中では制息法、光明-ンガの中では全字の主宰神(Vifi-
であるが、専門家によって西暦一〇〇〇-一四〇〇年の成立という見
e s s 姐 E ォ 2
vesvara)β、親しいものの中では法、四住期の中では最後(の遊
解が提示されているβ。この見解は、(I)、先に我々が﹃第二集﹄を
ところで、これと同じ発想が﹃クラールナヴァ・タントラ﹄ (Kit-
﹃クラールナヴァ・タントラ﹄以後の成立であると推定したこと、と
十四世紀以降の成立と予想したこと、(二)、そして今﹃第二集﹄ は
o-
ります。﹂
行期)、--(中略)--、そして悪鬼の中ではバリ (B巴i) であ
1arnava-tantra)三・二1-二五に見られる。それは次のようなもの
﹁神々の中でのヴィシュヌの如く、諸星の中での太陽の如く、
矛盾しない。
蝣
である 。
*
-
-
*
*
ク!T¥-トウ
聖地の中でのカーシーの如-、河川の中でのガンジス(svar-nadi)の
如く、山々の中でのメールの如く、樹木の中での栴檀の如く、祭儀
(8)
三 第三﹃百ルドラ・集﹄
(
酔
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この (集)も﹁六集本﹂には存在しない。ハズラは、この﹃第三集﹄
が次の諸事に言及しているとの理由で、その成立を西暦1四世紀以降
とした(六五貢)0
-、﹃知識・集﹄
二、﹃クマ-ラ・サンバハゲァ﹄
三、﹃リンガ・プラーナ﹄
ー四、﹃ヴァIヤヴィIヤ・集﹄
五、﹃ルドラ・集﹄の﹁サティ-編﹂
さて、右の中、第1-三の三書については前節で述べたが、これら
三事と十四世紀以降との問には何の必然的関連も存在しない。
次に、四の﹃ヴァーヤヴィ-ヤ・集﹄とは﹃シヴァ・プラーナ﹄第
七集のことである。ハズラは、この﹃第七集﹄を﹃第三集﹄が利用し
刊り
ていると言うが、引用関係は逆であるかも知れない。特に ﹃第七集﹄
には﹁百ルドラ・集﹂という名前が出で-るからβへ﹃第七集﹄が
﹃第三集﹄を予想していると見るのが普通であろう。同じことが第五
前述のように、﹃第三集﹄は﹃第二集﹄の前に成立していた可能性が
強い。そして、﹃第三集﹄の現形成立は他の諸集とあまり隔たらない
時期のことであっただろう。このように考えると、その時期は、十三
世紀末もしくは十四世紀より後ということになる。この想定はまた、
次に述べることとも抵触しない。
本書の三・1二・三lに左のl句がある.
. 甥 ほ か
﹁恰も水が水に、牛乳が牛乳に、乳酪が乳酪に投入されたように'
よ・ワ
そのようにβ、ヴィシュヌはシヴァに融没して7 つになる0外に有
り様はない。﹂
yathajalejalamk切iptamksireksiramghrteghrtam,
ekaeva tadavisnuh sive lino na c&nyatha.
この句は﹃クラールナヴァ・タントラ﹄九・T五の次に句を借用し
たものである。
﹁恰も水が水に、牛乳が牛乳に、乳酪が乳酪に投入されたように、
そのように、命我と最高我との間に区別はなくなるであろう。﹂
yath抑jalarajale ksiptamksire ksiramghrte ghrtam,
a-vise;篭bhavet tad-vaj jivatma-paranratmanah.
れ方の唐突さから判断できる。この第三集・第一二章の主題は、シヴァ
この句の借用者が﹃シヴァ・プラ-ナ﹄の方であることは、その現
﹃ルドラ・集﹄に出てくる(光明リンガ) への言及は、﹃第三集﹄と
がヴィシュヌの化身である人獅子を打ち倒し、その皮を脊族のヴィ-
の﹁サティー編﹂について皇ロえる。既に指摘したように葺 、第二
﹃第四集﹄の所論を承けているように見える。だから、﹃第三集﹄の方
ラバハドラに剥がしめて自ら身に纏ったという懐惨な物語である。と
このように、ハズラの十四世紀以降・説には説得力が乏しい。しか
根元的同一性を説くのである。だから、この部分は主題の文脈に馴染
ころが、その途中に突如として右の句が現れ、シヴァとヴィシュヌの
蝣^iwサaらEl
が﹃第二集﹄より前にあった可能性が報いのである.
し同時に、これを積極的に否定する材料も見当らない。せいて言えば、
滋賀医科大学基礎学研究第二号(一九九1年)
(9)
﹃シヴァ・プラーナ﹄の年代に関する覚え書(神舘)
まず、問題の句にしても、作者の思い付きで此処に利用されたとの感
じを否むことができない。
これに対して﹃クラールナヴァ・タン-ラ﹄第九章は、ヨーガ、即
ち、命我と最高我(-シヴァ神)との冥合を主題とし、前引の句はそ
のような(三昧) の境地を比職によって説明する六句の最初に出てく
る。従って、この句は本章の文脈に溶けこんでいて全く違和感を抱か
せない。また、﹃パインガラ・ウパニシャッド﹄(Pairigal①panisad)
J川川7
四・10が、この1句を﹃クラールナヴァ・タン-ラ﹄と全く同じ形
で引用している担。これらのことから、借り手が﹃シヴァ・プラーナ﹄
の方であることは先ず間違いない。
では、﹃百ルドラ・集﹄は﹃クラールナヴァ・タントラ﹄と﹃パイ
ンガラ・ウパニシャッド﹄の何れから右の句を引用したのであろうか。
多分それは前者からである。理由としては、(一)、上述のように、
﹃クラールナヴァ・タン-ラ﹄が権証として﹁ウパニシャッド﹂ に引
かれる程の影響力を持っていたこと、(二)、前引﹃百ルドラ・集﹄
三二二・l≡に見える﹁シヴァに融没して﹂(kive lino)という言
四 第四﹃千万ルドラ・集﹄
(Koti-rudra-samhita)
と
この (集)も﹁七集本﹂にしかない。その成立年代についてハズラ
は、﹁主に﹃知識・集﹄から採られた諸章から成り、一度﹃百ルドラ・
集﹄に言及しているから、十四世紀以前ではあり得ない。﹂と述べる
だけで、特に新しい材料は提示していない (六五頁)0
思うに、﹃第四集﹄は﹃第三集﹄の叙述を承けて、そのまま書き続
けられたものであろう。何故なら、﹃第三集﹄ は十二の (光明リン
ガ)を紹介する第四二章で終り、﹃第四集﹄はその (光明リンガ) の
称賛をもって始まる。そして更に第十四-三三の各章に於て、十二リ
ンガの1々について因縁や功徳等を詳述しているからである。だとす
れば、この﹃第四集﹄は﹃第三集﹄とはぼ同時の成立であろう。従っ
て、十三世紀末もしくは十四世紀より後ということになる。
五 第五﹃ウマ-・集﹄
の影響と見られる文言があったこと、等である。すると、同タントラ
と思われるこぐ (≡)、﹃第二集﹄にも﹃クラールナヴァ・タントラ﹄
﹁本性がシヴァに融溶して﹂('sive vilm&tma)とあるのを承けている
タ・プラーナ﹄(Devi-bhagavata-purana)とベンガル稿本﹃シヴァ・
採られ、(≡)、第四四章の幾つかの句は﹃デーヴィ-・ハハ-ガヴァ
(一)、﹃第四集﹄に言及し、(二)、大部分の章の句が﹃法・集﹄から
この(隻)も﹁七集本﹂にだけある。ハズラによれば﹃第五集﹄は、
(Umd-samhita)
の成立年代などから考えて、﹃第三集﹄をここ世紀末もしくは1四世
プラーナ﹄後篇に由来しているように見える、という (六五頁)。し
葉は、同じく前引﹃クラールナヴァ・タントラ﹄九・一五の直前に
紀以降に置いても差し支えはない。
かし、年代については﹁明らかに後世の作品﹂(evidently a later
work)とするだけで、具体的な数字は示さない。ところでへ右の三
(10)
た、本プラ-ナのベンガル稿本とはベンガルに伝わる一異本で、前・
項の中、新しい材料は(≡)だけであり、その中﹃デーヴィ-・ハハ2
ガヴァタ﹄はハズラに従えば十一世紀か十二世紀の作品である仏.ま
-ラ﹄の二経に対する﹃カイラーサ・集﹄の説明が﹃シヴァ・スート
章のl0-1 1から採られたものであり、引用された﹃シヴァ・ス1
ている。その上で彼は、もし第六章の六、七の両句が﹃第七集﹄第l
K - ト 一 フ
スートラ﹄(抄iua-sutra)から最初の二経を引いていること、を挙げ
後の二編から成り、特に後編が独自の内容を含んでいて十二世紀の作
ラ・ヴィマルシェ-﹄か﹃シヴァ・スートラ・ヴァ-ルッティカ﹄に
この中﹃第七集﹄との関係については引用関係が逆である可能性も強
品であるという(六七頁)。もし、以上の彼の所論が総べて正しけれ
我々としては特に論評すべき材料を持たない。ただ気付いたことを
いが、﹃シヴァ・スートラ﹄に対する﹃第六集﹄の説明の方は、確か
基-ものであるならば、本(集) の年代は十1世紀以降になるという。
1 つ述べておこう.﹃第五集﹄では﹁人身が得難い﹂ことを強調して
に﹃シヴァ・スートラ・ヴィマルシニー﹄に基いていると思われる。
ば、﹃第五集﹄の成立は十四世紀以降となるであろう。
いる(五・二〇・二八-三三、五・四四・一三)。この観念は、他の
まず問題の二経は、本(隻) の第一六章に次のような形で引用され
S
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"
K - 蝣 * - マ ノ ス ー ト ラ
ヽ
prajnana-feabdaife caitanya-paryayas syan na samsayahI
六
)
﹂
﹁知は束縛である﹂というのが、主宰神の第二の経文である。(四
て説かれた。
以上を始めとする、﹃シヴァの諸経文﹄に対する註解が私によっ
のである。(四五)
独立してあること、それを本質としているものが自我と言われる
いる。
﹁精神﹂とは全芋の (本体) であり、1切の知と行を本性として
牟尼よ。(四四)
﹁精神が自我である﹂という﹃シヴァの経文﹄が存在している。
ならない。
﹁﹁慧知﹂という言葉は﹁精神﹂と同義語である。疑念があっては
ている。
(集) にも現れるが﹃第五集﹄では意識的な強調の度が強いように思
EsS
われる¢0ところで、この観念は先に見た講書の中へ ﹃クラールナヴァ・
タントラ﹄ 7 二三-〓ハ、﹃ヴィヴエーカ・チュ-ダーマ1這五、
﹃全ヴェIダーンタ定説の真髄・要集﹄二三八等にも出てくる。即ち
﹃第五集﹄も、これらの著作と共通する雰囲気を分け合っているので
ある。
六 第六﹃カイラーサ・集﹄
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昔
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本(集)は﹁六集本﹂では第三集に当る。ハズラによると'両テキ
ストの問に実質的な相違はな-、その成立は九五〇年以降である。理
由としては、(1)、本書がツラシ-樹に言及していること、(二)、
﹃サナトクマIラ・集﹄ (Sanatkumara-samhita) の内容に触れてい
・
ることS・、(≡)、シャンカラの影響を不していること、(四)、﹃シヴァ・
滋賀医科大学基礎学研究第二号(1九九l年)
(ll)
atnrァti
mune
siya-sutrampravarttitamII44
﹃シヴァ・プラーナ﹄の年代に関する覚え書(神舘)
caitanyam
caitanyam iti visvasyasarva-jnana-kriy賢makam I
d7
作者は1〇二〇-1〇五〇年頃に著作活動を行ったクシェ-マラ-
ジャ(Ksemaraja)担。以下﹃第二註釈﹄と略記.
.刊り
三、﹃シヴァ・スートラ・ヴァ-ルッティカ﹄(Siua-sutra-varttika)-
作者は十l世紀の人ババースカラ(Bhaskara)払。﹃第三註釈﹄
ya甘saatmaparikirttitahII45I
と略記。
svatantryamtat-svabhavo
inanam bamdham iftdamtu dvitiyam sutramisituhII46I
Z
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-
この語も﹃第三註釈﹄には見えない。
蝣
5
5
外にsvabhava-bhedaという複合語で1度、合わせて五回出てくるO
㈱ svabhava.﹃第一註釈﹄に1度出て-る.﹃第二註釈﹄では四度、
つ出てくる(前項惚参照)o﹃第三註釈﹄には無いO
外に、この両註釈書には、svatantraが複合語のl支として1度づ
㈱ svatantrya.﹃第l註釈﹄に1度、﹃第二註釈﹄ に二度現れる。
語頭のsarvaを欠いたinana-kriyatmakaという形がl度現れる。
が﹃第一註釈﹄と﹃第二註釈﹄に一度づつ出てくる。﹃第三註釈﹄には
jnana-kriya-svatantraとsarva-jnana-kriya-sambandha-mayaと
惚 sarva-i出ana-kriyatmaka.これと酷似の二つの言葉、即ちsarva-
(jagat)が用いられている。
m Vifeva ﹃第二註釈﹄ にしか出てこない.他の二着では﹁世界﹂
いるかを調べてみよう。
書について、前引の説明部に出て-る基本的術語がどのようになって
まず右の四書の中、特に後世の書と見られる﹃第四註釈﹄以外の三
註釈﹄と略記。
作者は十五世紀末のヴァラダラージャ (Varadaraja)¢o﹃第四
四、﹃シヴァ・スI-ラ・ヴァ-ルッティカ﹄(f5iva-sutra-varttika)-
ity adi siva-sutr甘amvartikamkathitammayal
7 I ト † ン
7 - ト マ ソ
問題は﹁精神が自我である。﹂という第一経である。今、右の註解
に随いながら言葉を補って言うと、この径で﹁自我﹂は二つの意味を
持っている。一つは(最高我)の意味で、この場合は最高神シヴァと
同義である。従って、この経文はシヴァが精神そのものであることを
表している。第二は(本性)、(本質)、(本体)等の意味で、この
場合の経文は、精神そのものであるシヴァ神が同時に全宇(Visva)
の本体であることを説示している。結局、︽金字の本体であるシヴァ
は全知・全能を本性とする独立の精神的存在である︾というのが第一
経の趣旨である。
スー・J-lt¥
ところで、このような内容は、僅か二語から成る経それ自体から直
接出てくるものではない。当然、註釈書の解釈に基-説明である。で
蝣
は、﹃シヴァ・プラーナ﹄の右の説明は如何なる註釈書に基いていた
のであろうか。
現在、我々が所有する検討すべき註釈書は次の四本である仏。
1、﹃シヴァ・スートラ・ヴリッティ﹄(抄wa-siitra-vrttiY作者不
、司
詳仏。以下﹃第一註釈﹄と略記。
二,﹃シヴァ・スートラ・ヴィマルシュー﹄(抄wa-sutra-uimar臥in叫)0
(12
以上を通覧すると、前引の説明部と最も直接的で密接な関係にある
のは﹃第二註釈﹄であることが判る。だから、本プラーナの説明は主
としてクシェ-マラージャの﹃第二註釈﹄に拠ったものだと言える。
この点からみると、﹃第六集﹄の上限は十一世紀の中葉となるであろ
!S
ここで、前引の第四六句の前半に注目したい。そこでは、第一経の
説明がなされただけなのに﹁シヴァの渚経文(複数)の註解が私によっ
て説かれた。﹂と述べている。次の第二経のことが考えられていると
しても不自然で、前後の脈略にうま-適合しない。ところで、この不
自然さの由因は、前記の説明部分かクシェ-マラージャの註解を承け
たものであったことを念頭に置きながら﹃第四註釈﹄の次の句を読む
とき、自ら明らかとなる。
﹁大自在天派の大聖クシェ-マラージャの口から発せられた正し
t
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い註釈書に倣い、まさに彼が述べた文言を用いて、直ちに、引
の諸経文の註解が私によって為されるのである。﹂(傍線筆者)
maha-mahefevara-ferimat-ksemaraja-mukh&dgataml
anusrtyaiva sad-vrttim aniasakriyate maya.II5
vartikam siva-sutran抑m vakyair eva tad-iritaih
即ち、﹃第六集﹄の作者は、クシェーマラージャの言葉に従って論
述を進めながら、﹃第四註釈﹄の右の句を想起して、その一部を自著
の中に取り込んだのであろう。その結果、上記のような不自然さが生
じたものと推測される。
もし、右の想定が当っており、かつ﹃第四註釈﹄の著者ヴァラダラー
ジャが果して十五世紀未の人であるならば、﹃第六集﹄ の成立は十五
慈覚医科大学基鞄学研究第二号(T九九7年)
世紀末を更に降ることになる。
七 第七﹃ヴァ-ヤヴィ-ヤ・集﹄
(Vayaviya-samhitd)
最後の﹃第七集﹄は﹁六集本﹂でもその最後に位置している。ハズ
ラによると、両者の間に識別し得るはどの相違はなく、成立は西暦
i^wtf^
八〇〇-一〇〇〇年の間である (六二-六三五)。その中、彼が本
蝣
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i
-
(隻)を八〇〇年以前ではないとする論拠については、改めて穿賀し
ないことにする白。何故なら、我々が考える﹃第七集﹄の上限は十三
世紀で、この年代はハズラが言う八〇〇年以降の範囲内に入るからで
サソヒター
ある。そこで問題は、彼が本書の下限を一〇〇〇とする点であるが、
その論拠として彼は、次の三書に本へ集)からの援引が見られること
を挙げている。
l、﹃チャトルヴァルガ・チンクーマニ﹄(Caturvarga-cintamanif
へ-マIドリ(Hemadri)普
二、﹃パラーシャラ古伝書・解明﹄(Paraァara-smrti-vyakhya)-マダハゲァ (Madhava)著
三、﹃ニトヤーチャーラ・プラディIパ﹄(Nityacara-prad唱a)。ナ
ラシンパ・ヴァ-ジャペ-イン(Naras首ha-vajapeyin)著
八川ツ
けれども、この三書の中、第一の書の作者へ-マ-ドリは十三世紀
後半から十四世紀にかけての人である恒。次に第二の書の作者マ-ダ
蝣
^
f
ハゲァは十四世紀中葉に活動した学匠であるJS-。ただ第三書の著者の
み如何なる人物であるのか評かでない。ハズラ自身これら三者の年代
(13
について何も言っておらず、その点でも彼の論証は甚だ不備である。
ラクシャ・シャタカ﹄三六は直前の三五とともに、﹃ヴェIダーンタ・
﹃シヴァ・プラーナ﹄であることも間違いない。何故なら、この﹃ゴー
﹃シヴァ・プラ-ナ﹄の年代に関する覚え書(神舘)
こうして、-少し問題を残しはするが、前二者との関係から見る限り
vijハmbhane.(36)
=
?
蝣
恐らく、全体としての最終的な現形成立は十六世紀前後であろう。
六の両集のように、十六世紀以後の成立を暗示する (隻)もあった。
十四世紀以降である可能性を指示していた。そして中には、第一、第
論を追いながら各集ごとに見てきた。その結果、各集とも現形成立が
以上、七集本・﹃シヴァ・プラーナ﹄の年代について、ハズラの所
結
後と見たいのである。
た恒。それで、我々としては﹃第七集﹄の現形成立を十四世紀中葉以
s
-
うに感ぜられる。そして、それを示唆する事情も認められるのであっ
れるとすると、ハズラの見方が逆である可能性は一層強まってくるよ
う。いま述べたように、﹃第七集﹄の上限が十三世紀まで引き下げら
ここで、﹃第七集﹄とマ-ダハヴァ等との関係が改めて問題となろ
ば恒、﹃第七集﹄の上限は十三世紀となる。
由7
らの引用が認められ、また後者が一二〇〇年前後の著作であるとすれ
さて、このようにして﹃第七集﹄に﹃ゴーラクシャ・シャタカ﹄か
-
引用の形で引かれているからであるβ。即ち、﹃スボーディニー﹄の
サーラ﹄の註釈書﹃スボーディニー﹄にtathac&ktamという﹁論童亡
さらに、ハズラの言う貸借関係は逆の場合もあり得ようから、もし
著者は、これらの句を﹁プラ-ナ﹂のものとはしていないのである。
﹃第七集﹄の下限は十三世紀まで下げることができるであろう。
そうだとすれば、﹃第七集﹄の成立は十四世紀中葉以降となるわけで、
だから、前引句の始源が﹃ゴーラクシャ・シャタカ﹄にあることは動
-S3"
devadatto
かし難いであろう。
この可能性も無視できな.Lのである恒。
ところで、我々が本(集)を十三世紀以降と見る手がかりは﹃ゴー
瑚叫.
ラクシャ・シャタカ﹄(Goraksa- 'sataka)に見える次の諸句であるBO
dhananjayah.(33)
pr甘o'panahsamanas c(5tlana-vyanau ca vayavah,
naga廿kurmo'thakrkarodevadatto
jneyo
udgare nag欝hyata廿kurma5milane smrtaJ.
krkara甘ksutakrj
najahatimrtam capi sarva-vyapi dhananjayah.(37a)
これらは、本(隻) の後編・三七章に殆ど同形で次のように出てく
KM
pr昔opana甘samanas cahy udano vyanaevaca,(35b)
naga甘kurmas cakrkaro devadatto dhanamjaya甘.(36a)
udgare nagaakhyata廿kurmaunmllanesthitah,
krkarah ksavathau jneyo devadatto vijrmbhane.(39)
najahati mrtamcsrpi sarva-vyapi dhanamjayah.(40a)
両書は、これらの句の前後および中間の部分では相違したものになっ
ている0しかし、右に見る文言の1致は偶然と考えられず、両者の問
に貸借関係があったことを歴然と示している。そして借用したのが
(14)
ナ﹄のことではないとして'現行の﹃シヴァ・プラーナ﹄を﹁大プラーナ﹂
ci Haraprasad Shastri"The Maha-puranas",Journal of the
ルマ訳でも'﹃シヴァ・プラ-ナ﹄を﹁副プラーナ﹂とするヴインテルニッ
に基づ-シャルマ(V.S.Sarma)の英訳が現れたo Lかし、最新のシャ
英訳が原著者の校閲を経て出版され'さらに一九八1年へこのケトカル訳
ンド文献史﹄第l巻は'1九二七年、ケトカル(S.Ketkar)による加筆・
から除外し﹁副プラーナ﹂に位置付けている。このヴィンテルニッツ﹃イ
Bihar and OrissaResearchSociety,No.XIV,Ft.Hr.1928,p.324.
註
脚 既に幾つかのプラーナ自身が一八の﹁大プラIナ﹂を列挙している9そ
.
ヽ
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ヽ
四・1二〇-一二二へ七・ I ・ I ・四三-四五)。勿論へそこでは﹃ヴァ-
本プラ-ナにも﹁l八プラーナ﹂のリストが二度はど出てくる(五・四
Series,vols.1-4),4Vols,Delhi:Motilal Banarsidass,1970.
紹介している。それによると'﹁大プラーナ﹂と違って﹁剤プラ-ナ﹂の
.
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ッの見解は明瞭に保持されている Cf.History oflndian Literature,
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Vo1.1.ANewAuthoritativeTranslationfromoriginalGermam
b
ストで﹃ヴァーユ・プラーナ﹄(Vayu-or Vayaviya-pur甘q)と為る
3and p.555.
またハズラは'註川に挙げた論文でも'あらためて﹃シヴァ・プラーナ﹄
が﹁副プラIナ﹂に属することを力説している(四七-五-貢)0
糊 The Siva-pur甘a(Ancient Indian Tradition&Mythology
場合は'リストによって内容の相違が著し-、中には﹁大プラーナ﹂とさ
E
プラーナ﹄にも﹃シヴァ・プラIナ﹄にもR付のテキスト以前の﹁原プラー
英訳者シャストリ(J.L.Shastri)は第一巻の序論の中で'﹃ヴァ-ユ・
ユ・プラ-ナ﹄を除き﹃シヴァ・プラIナ﹄を算入しているoまたへ右の
この論文は、一八の﹁副プラーナ﹂のリスト1八種とその典拠を詳しく
OrientalResearch Institute,No.21,1939.pp.38-62.
㈹ R.C.Hazra, "TheUpapur甘as",Annals ofthe Bhandarkar
触れられている。
となっていることである.この点については註川から註脚に挙げた講書で
ヽ
ところが他のリストで﹃シヴァ・プラーナ﹄(Siva-or Saiva-purana)
れらは多少の例外を除いてl致しているが'最大の問題の1つは'あるリ
J
れるものを含むリストさえ見受けられる。
.
用 M.Winternitz,GeschichtederindischenLiteratur,E5d.I,Leipzig
C
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そこには幾つかの重要な﹁削プラーナ﹂も含まれる筈であるQ
その結果へ この叢書が含む﹁大プラーナ﹂は一九になっている。さらに'
プラ-ナ﹄も﹃ヴァ-ユ・プラーナ﹄も共に﹁大プラ-ナ﹂に含めておりへ
ところで、﹃古代インドの伝承と神話シリーズ﹄は、現行の ﹃シヴァ・
その論理は不透明である。
ナ﹂が存在したと仮定し'それらの間に何等かの同一性があったと考える
︰
s
Filliozat,LInde classique,tome I,Paris:Payot.1947,∽835;R.
u
ことで問題を解決しようとしている(Introduction,p.xiii)c Lかしへ
C
C.Hazra,Studies in the Puraide Records on Hindu Rites and
1940).pp.13-15.井原徹山﹃印度教﹄(大東出版社、昭和i八年) 〓ハ
ヴィンテルニッツは'﹁1八の大プラ-ナ﹂のリストに出てくる﹃シヴァ・
三五。
プラ-ナ﹄は﹃ヴァIユ・プラIナ﹄の別名であ鼻汀の﹃シヴァ・プラ-
滋賀医科大学基礎学研究第二号(1九九1年)
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(15
﹃シヴァ・プラーナ﹄の年代に関する覚え書(神舘)
稲へ第七集が前・後の二編から成っているo本稿ではへこの第七集の前・
ナ﹄六・一六・四八に﹁シヴェtタIシヴァタラ枝派の人々﹂(Svet酢va・
したかも知れないと想像しているが(三五-三六五)へ ﹃シヴァ・プラー
なおへオーバーリースは'古代にシヴェータ-シヴァタラ枝派か存在
辛-ス-誕生から紀元後一世紀までの間としている。
後編も'それぞれ数字のlとこで示す。従ってへ I・I ・1とあれば第1
tara S巴khinah)という言糞が出てくる。但しへ この語は ﹃パンチャ・
なお我々が依拠する﹃シヴァ・プラーナ﹄の﹁七集本﹂は'第二集が五
集・第1車・第-句へ 二二・一・一とあれば第二集・第一編・第一章・
ダシI﹄(Pdhca-dds叫)四・二にも見られるからへ それに拠ったものか
と思われる。それは兎も角へ本プラ-ナには'外の八乗)でも﹃シヴェ-
ヽ
第l句へ七・一・l 二とあれば第七集・前編・第1章・第1句のことで
タ-シヴァタラ・ウパニシャッド﹄が幾度か引用されているので'目に
ヽ
ある。
L
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留ったものだけ次に挙げておこう。括弧内の数字は引用さ.れた旬の章・
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されている.二・二・一九・1五'二・二・二四・l六へ 二・二・二四・
またへシヴァの様々な行動やへその神変力の発揮が(遊戯) であると
二・四・一五・二四等。
たとえばへ 二・一・六・一五へ 二・一・七・二二へ 二・四・一三・八、
1
ShのstrTPansikar.4thedition.Bombay‖NirnayaS吟garPress,
OneHundred&Eight Upanishads,ed.by Wasudev Laxman
ettパニシャッドへの言及は'左記の書に収められたテキストに拠るO
V O . 1 . 3 . 1 4 ( V I . 1 4 ) , 畠 . 1 . 6 . 1 7 ( 目 . 4 ) , V H . 1 . 6 . 3 3 ( I V . 1 0 ) .
句 を 示 す V I . 1 3 . 2 9 ( I V . 1 0 ) . V I . 1 3 . 3 0 ( I . 2 ) , V I . 1 6 . 4 8 - 4 9 ( V I . 8 ) ,
1986,pp.30-34,222-228.
但し著者自身は、﹁一八﹂の中に﹃シヴァ・プラーナ﹄と﹃ヴァ-ユ・
プラーナ﹄、の何れを含めるべきか、といった問題にはあまり立ち入らず'
﹁一八﹂という数に特にこだわらない態度を示している。(三四貢)0
ヽ
R.C.Hazra,"The Problems Relating to the Siva-purana",
OhirHeritage 1,1953,pp.46-68.
ヽ
以下の論述では﹃シヴァ・プラーナ﹄のテキストとして左記の書を用い
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TheSivaMahapurana,withanintroductionbyDr.Pushpendra
K
二・三・四四・九六、二・五・一六・一〇へ 二・五・三六・三六へ 二・
四二へ 二・二二三・三六へ 二・三・四四・二六へ 二・三・四四・七六へ
Th.Oberlies㍉DieSvet臥vatara-upani瑚ad:EineStudieihrer
Gotteslehre(Studienzuden"mittleren"Upani佃adsI)",Wiener
特に二 1 ・I二・七五-七六に於て、人知)(js㌢a)よりも轟刑Y
TheYogaudsisthaof Valrniki WiththeCommentaryVaslstha-
maha-ramaya増・t息paryaprakasa,ed,byVasudevaLaxmana
∧Hr
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.
(viinana)が上位に置かれているところに注意したい。
ハはF
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五・四〇・六等。
ZeitshriftfiirdieKundeSiidasiens undArchivfurindische
本ウパニシャッドについてはへこれを﹃パパがヴァド・ギ-クー﹄
Philosophie,Bd.XXXH,1988,S.56-60.
(Bhagavad-gita)に先行する作品で'西暦紀元前の成立と見るのがl般
逆であると論じへ﹃シヴェ-タ-シヴァタラ・ウパニシャッド﹄ の年代を
的傾向であるが'オーバーリースは右の論文の中で、両書の先後関係紘
(16)
by J.Gonda,V01.H,Fasc,3).Wiesbaden:Otto Harrassowitz,
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できない(註㈹参照)Oまたインゴールズは、本書に見られる(覚醒位)
と(夢位)との同1視や'anirvacaniyaの意味の理解が、シャンカラの
真作である他の著書と相違するとして'﹃ヴィヴェーカ・チュ-ダーマニ﹄
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がシャンカラの作であることを否定する。ただ、ハッカIが本書をシャ
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-この外がレIの序論は'改版を重ねる中に付加されたものと思われへ
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ンカラの真作と見ている。彼はシャンカラに帰せられている作品の中、
e
かなり新しい文献も参照している。
ルズ説を採り'ポッタIは'﹁全く面白いことに﹂(interestinglyenough)
ダーマニ﹄を裏作と考えるのである。これに対して前.EE専学氏はインゴー
ヽ
のは真作へ﹁シャンカラ阿閤梨﹂(SankarScarya) と呼んでいるものは
そのコロフォンでシャンカラを﹁尊者﹂(bhagavat)等と呼んでいるも
偽書であるとの基準を立てへこの基準によって ﹃ヴィヴェーカ・チュ-
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pp.219-271).
Sanskrit,Vo1.IV,Minor Works,Poona,Ashtekar&Co,1925,
本書は'テキストにより語句や番号付けに多少の相違がある。たとえ
ば左記の書では'問題の句は第四二七-四四〇である。
という評語を付してハッカー説に言及している。次に述べることを合せ
に、ここで見た諸説の典拠を示すo
考えれば、本書がシャンカラ以後の作品であることは確かであろう。左
e d i t i o n , 1 9 6 6 .
Vivekachudamdni ofShriShankaracharya,TextwithEnglish
A s h r ㌢ m a , 7 t h
Translation,Notes and Index,by Swami Madhavananda,
C a l c u t t a : A d v a i t a
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Poona Orientalist,vol,I,1936,p12;DanielH.H.Ingalls, "The
第一は﹁-㌢=が現身解脱者と言われる(ucyate)。﹂とあるところを
﹁ -が現身解脱者とされる(i仰yate)-﹂とするものへ第二は﹁-・・・-が
ヽ
StudyofSamkaracarya",Annals oftheBhandarkal Or・iental
ヽ
現身解脱者の特相(または定義)である(jivanmuktasyalak畑a唱m)。﹂
Researchlnstitute,v01.XXXm, "1952,p.7;P.Hacker. "Sankaraヽ
という形のものへ第三は﹁・- が現身解説者の特相をもつものである
carya and Sankarabhag-avatpada",New Indian Antiquary,v01.
Its Present Form",Journalofthe Oriental Institute,v01.XV,
ヽ
(iivanmukta-1aksanah)。﹂というものである.重曹では﹃ヨーガ・ヴァ-
K,1947,pp.176--83;S.Mayeda. "Sankara's Upadesasahasri:
ヴェ-ンカタスッビァは、本書が可成り後世の﹃カイヴァルヤ・ウパニ
シシュタ﹄より定義としての形式化が進んでいるへと言えるであろう。
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Philosophies,V01.HI,Advaita Vedantaup to Samkaraandhis
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nos.3-4,1966,p.252,n.3;K.Potter,Encyclopediaoflndian
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シャッド﹄(Kaivalytipanisad)に言及していることへ本書に出て-る
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我々が本書を﹃ヨーガ・ヴァIシシュタ﹄以後と見るのは'(1)へ前
註で述べたように本書では定義の形式化が1層進んでいると思われるこ
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jaha1-1aksanaとajaha1-1ak仰a雫が比較的後代になって問題とされる
ようになったものであることへ等を挙げてへ ﹃ヴィヴェ-カ・チュ-ダー
マニ﹄はシャンカラ以後の著作であると主張している。さらに彼は'本
書が﹃アディヤー-マ・ウパニシャッド﹄ から多-の句を引用している
として、本書の成立が新しいことを強調するが'この点については同意
滋賀医科大学基礎学研究第二号(1九九t年)
(17
が本書を殆ど無視して﹃ヨーガ・ヴァ-シシュタ﹄から問題の定義を採
と、(二)へ次の註に示すように ﹃全ヴューダーンタ定説の真髄・要集﹄
で言及した﹃シャンカラ著作集﹄第El巻に所収(1三〇-1 八東) の
シシュタ﹄にも見られるものである。なおへ本書のテキストには、註的
相当する本書九六九の1句だけで'しかも、この句は ﹃ヨーガ・ヴァ-
﹃シヴァ・プラーナ﹄の年代に関する覚え書(神舘)
用したのは'﹃ヨーガ・ヴァ-シシュタ﹄の文言に本源としての権証性を
﹃全ヴェ﹂ダーンタ定説の真髄・要集﹄は'﹃ヴエーダーシタ・サーラ﹄
ものを用いた。
また本書が﹃全グーエーダーンタ定説の真髄・要集﹄以前の成立である
認めたからだと考えられること、による。
に基いており、その内容を拡大・敷桁した形になっている。そして本書
に比べて格段に詳細であるがへ その骨子は﹃ヴエーダーンタ・サーラ﹄
﹁アートマンの唯一性を覚知することがなければ'究天の百年を経ても
ことは'両書の次の句を比較することによって知られる。
の第二句は﹃ヴェ-ダーンタ・サーラ﹄ の第一句をそのまま援用したも
ある。﹃ヴエーダーンタ・サー一フ﹄が他書を引用する場合は必ず引用で
のである。それゆえ、本書は﹃ヴェ-ダーンタ・サーラ﹄以後の著作で
あることを断っているのに、この第一句にはそれがないからへ右の貸借
マニ﹄六)
﹁真理を証得することがなければ'究天の百億年を経ても(brahtna-
(brahma-sat由ntare).解脱は成就しない。﹂(﹃ヴィヴェ-カ・チュIダー
sahasra-kotisu)へ解脱は成就しない。﹂(﹃全ヴェ-ダーンタ定説の真髄・
一五世紀か一五〇〇年頃と見ている。しかし筆者にはt と-ヤンナが主
﹃ヴェ-ダーンタ・サーラ﹄の年代については、大多数の学者が西暦
関係が逆であるとは思えない。
張する﹁十六世紀始め﹂(the early part of the16th century)とい
両句ともに真理の覚証が解脱のために肝要であることを戟調している
要集﹄三七三)
がrtもし前者が後者よりも後の句であるとするとへ﹃ヴィヴューカ・チュー
ニー﹄(bUbodhini)のコロフォンによればへこの注釈書は西暦一五八八
ダーマニ﹄ が後者の ﹁党天の百億年を経ても﹂という表現をわざわざ
年に書かれたものであることへ(二)へこの ﹃スボーディニー﹄ の作者が
つの事実へ即ちへ(一)へ﹃ヴェ-ダーンタ・サーラ﹄の注釈書﹃スポーディ
れかの一方が他方を知っていたことは確かだと思われる。だとすればへ
﹃ヴェIダーンタ・サーラ﹄の著者サダーナンダ(Sadananda) のこと
う説に傾聴すべきものがあるように思われる。彼が指摘するのは次の二
明らかに﹃ヴィヴェ-カ・チュ-ダーマニ﹄ の方が先にあったことにな
をparama-guruと呼んでおりへこの言葉は﹁師匠の師匠﹂を意味する
﹁党天の百年を経ても﹂と言い変えて遵かに調子を落している点が不可解
るoそこでへもし﹃全ヴェ-ダーンタ定説の真髄・要集﹄が十六・七世
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となる。しかもへ両書には外にも共通する句が幾つか見られるから、何
紀頃の作品だとすれば(註S参照)へ﹃ヴィヴェIカ・チューダーマニ﹄
である Cf.Veddnta-sara.A Work on Vedanta Philosophy by
と考えられること、である。このことから彼は前記の結論を引き出すの
o
,
の成立は十二世紀から十六世紀末までの間となろう。今のところへ この
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Sadananda,editedwithlntrodction,TranslationandExplanatory
間隔を縮める材料を持たないOなお註的参照o
本書九六七-九七二の六句が'それぞれ﹃ヨーガ・ヴァ-シシュタ﹄第
三編・第九章の第四・六・七・八・九・一三の各句に相当する。他方
﹃ヴィヴェーカ・チュ-ダーマニ﹄と共通する定義は、その第四三〇句に
.
(18)
参考までに代表的な学者の説を挙げておこう。括弧の中は'それらの
著書に示された﹃ヴェIダーンタ・サーラ﹄の年代である。
J.N.Farquhar,An OutlineoftheReligiousLiteratureoflndia,
London:Oxford University Press,1920,p.286(15th century);S.
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て﹃ヴェーダーンタ・パ-ハハ-シャ-﹄(Vedanta-paribh君&)がよ
-読まれるようになるからである0中村元﹁シヶンカラ派の総本山-シュ
二九五。
リンゲ-リー﹂(﹃日本印度学仏教学研究﹄第九巻第一号へ 昭和三五年)
本ウパニシャッドの二・六三((現身解掌の定義ではない)も﹃ヨー
なお、本ウパニシャッド・第二章の四五・四六の両句は'第六章の四五
dicesbyColonelG.A.Jacob,4thedition,Bombay;1925.p.
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TheVedantasaraofbFdananda,togetherwiththe Commentaries
k&panisad n・76; Sarva-vedanta-siddhanta-sara-samgraha979;
C f . Y o g a k u n d a l y - u p a n i s a d n . 3 4 ; P a i h g l & p a i 佃 a d m . 3 ; M u k t 1 -
であり'そこから﹃マバー・ウパニシャッド﹄が引用したのである。
ものと見られていたのである。従って始源は﹃ヨーガ・ヴァ-シシュタ﹄
として引用しているO即ち、この句は本来﹃ヨーガ・ヴァ-シシュタ﹄の
si甘asarasvati)は、明瞭に﹁﹃ヴァIシシュタ﹄に日-﹂(vasisthe)
て-るが'﹃スポーディニー﹄の著者ヌリシンバサラスヴァティー(Nr
ガ・ヴァーシシュタ﹄三・八・l四と同じであり、この句は更に﹃ヨーガ・
Radhakrishnan,Indian Philosophy,V01.n,2nd edition,6thex-
d
クンダリ-﹄へ﹃パインがラ﹄へ ﹃ムクティカー﹄等の諸ウパニシャッドへ
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戸
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pression,1951,p.452n.(15thcentury);J.Fr.Sprockhoff,
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.
﹃全ヴェ-ダーンタ定説の貞髄・要集﹄へそして﹃スボーディニー﹄にも出
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Samnyasa;QuellenstudienzurAskeseim Hinduismusl,Unter-
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suchungenilberdie幹rrnyasa-Upaniァads,Abhandlungenfurdie
S
0
genlandischeGesellschaft,KomissionsverlagFranzSteiner,1976,
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︰A.B,Kieth,AHistoryofS訂nskritLiterature,London:Oxford
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Sarva-dar'sana-sar司raha,editedwithanoriginal Commentary
inSanskritbyMahamahopadhyayaVasudevShastriAbhyankar,
て我々は'︽﹃ヴィヴェ-カ・チュIダーマニ﹄と共通の句が纏って現れ
註㈹で見たように、両書の引用関係を逆に見る学者もある。これに対し
と四八に再出する。
る﹃アディヤートマ・ウパニシャッド﹄四7I六九はへその前の第三〇-
kar Oriental Researchlnstitute,1951.p.541(1560).中村元﹃原文
Government Oriental Series,ClassA,Na4,Poona:TheBhandar-
五〇〇年頃)へ前田専学﹃ヴェ-ダーンタサーラの哲学﹄ (平楽寺書店へ
対訳ヴェIダーンタ・サーラ﹄(平楽寺書店へ l九六二年)一三九貢(l
ンチャ・ダシー﹄は他書を引用する際、その旨を克明に記しているのに、
第四l I六九の諸句も引用されたものであろう︾と考えるのであるo ﹃パ
四〇が﹃パンチャ・ダシー﹄からの引用文で構成されているからへ問題の
なおへ我々が﹃全ヴェ-ダーンタ定説の真髄・要集﹄ の下限を十七世
一九八〇年)四九貢(一五〇〇年頃)0
紀中頃に置-のは'十七世紀になると﹃ヴェIダーンタ・サーラ﹄に代っ
滋賀医科大学基礎学研究第二号(1九九1年)
)
・間
﹃シヴァ・プラーナ﹄の年代に関する覚え書(神舘)
この場合にはそれが見られないから、右の第三〇-四〇の部分は同書が引
用したのでないことは確かである。つまり﹃アディヤートマ・ウパニシャッ
ところセ'本ウパニシャッドに﹃ヨーガ・ヴァIシシュタ﹄の前述箇所
ド﹄が引用したのである。
からの引用は全-見られない。
t六六へ六七へ l・三・二五へ六へ一・一六・六四-六
五へ l・l七・l五一へ l・1八・二三へ L・二三・四〇へ l・二四・七
糾 [・二・四l
ヽ
°
三。このことは外の八乗)にも認められるが一々の指摘は省略する。なおへ
次の第三項参照。
uttamam.(1,2.2a)
vedanta-sara-sarvasvampuranam抑ravayed adbhutam.
糾 vedanta-sara-sarvasvampuranamsaivam
(1,3.1b)
印 六・一・1五、七 1 ・1 二八。またへ六二八・1には﹁ヴェ-ダー
ンタの精髄であり'最高に玄妙なこの秘密を聞いて﹂という言葉がある。
srutvavedanta-saramtadrahasya唱paranradbhutam.
四 辻直四郎﹃サンスクリット文学史﹄(﹃岩波全書﹄へ l九七三年) 四二四三頁。
糾 辻﹃前掲書﹄ l五八-1六二五。
糾 R.C.Hazra,Studies in the Puranic Recordson Hindu Rites
and Customs,pp.181-184.
Cf.L.Rocher,ThePur骨.p.163.
的 R.C.Hazra,StudiesintheUpapuranas,Vo1.2,Calcutta:
Sanskrit College.1963,pp.245-254.
即 日 . 5 . 5 . 3 5 . C f . H , 5 . 6 . 2 8 .
閃 L.Rocher,ThePur甘as,p.182.
yog妙caryaya iainayabauddha-rupay6ma-patel
的 namasteg且ha-dehayaveda-ninda-karayacal
( 日 . 5 . 1 6 . l l - 1 2 a )
namas te kalki-rupaya mlecchanamanta-karineI
英訳では次のようになっているO﹃前引書﹄(註糊)第二巻、八七四頁参
照。しかしへこの英訳は正し-ない bauddha-r音ayaはlamayaを修
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飾する形容詞へkalki-rupayaはanta-karineを修飾する形容詞と解すべ
O
きであろう。
"
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lord of LaksmPi,of the form of Jaina and Bauddha;to you of
hidden body and features and censurer of theVedas,Obeisance
to you of the form of Kalki;the destroyer of outcaste."
的 この﹃第二集﹄ ではヘヴィシュヌの十権化の1 つである仏陀は名前だけ
僅かに生き残った感じである。しかし﹃第七集﹄・後編では'仏陀は十権
化の中から完全に抹殺され'代りにヴィシュヌ自身が入っている。七・二・
ている西暦八〇〇I l〇〇〇年という数字は'厳密に言うと正確ではない.
る(一八七I一八八頁)O但しへ ローチャーがハズラの見解として紹介し
の中で諸家の説を示しているが'その中ではハズラが最も新しいと見てい
である(三・四二・三〇)。そして次の﹃第四集﹄では'第二二章がヴィ
る。その中の第七がヴィシヴェ-シヴァラで'カーシーに生じたリンガ像
糾 ﹃第三集﹄の最終章にl二の﹁光明リンガ﹂(Jyotir linga)が出て-
闘 平川彰﹃インド仏教史﹄下巻(春秋社へ一九七九年)二四-二九貴。
三〇・五八へ七・二・三一・一三五参照。
印 註印に挙げたハズラの書へ l六六へ l八七-1八八頁。このプラーナを
シヴェ-シヴァラとカーシーの因縁を詳述Lへ続-第二三章で両者の特別
関 前註に挙げたハズラの書へ 1七九I l八〇頁。ローチャーは﹃プラ-ナ﹄
西暦十五へ十六世紀に置-ことで専門家の意見はだいたい一致している。
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lJu一u
(五三個)と言っている。すると、﹃第二集﹄の﹁光明リンガ﹂への言及は'
・の功徳を称賛して﹁カーシIで死ぬ人には(輪勉の海への) 再生はない﹂
﹃第三集﹄および﹃第四集﹄の所説を承けているのかも知れない。
糾 R-K.RaiKular,増vaTantra,Varanasi︰ChowkhambaSans-
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(Param&rtha-sara)
salile saliamksire ksiram iva brahmani lay!syat.
ksilamksile y巴h抑ksiptamtailamtaile jalamjale,
(Viveka-c息ama甘)
saH顎uktam ekatamyatitathtttmany atmavin munih
中では比較的後のものであることを窺わしめるp
糾 註的に引用したハズラの書へ三四六頁。
等に見られる。しかし﹃第五集﹄・第五章では・﹁極めて得難い﹂(atidur-
的 たとえば二 I・1二・四二へ七・二・二六・1四へ七・二・二六・1六
1abha)と言い、特に多くの言葉を用いて人身の貴重さを力説している。
㈹ ﹃サナトクマトラ・集﹄とは本プラトナ﹁六集本﹂ の第四集のことで'
ハズラはへこの(隻)を﹃シヴァ・プラ-ナ﹄所属の詩集の中で皐も古くへ
s
ダーマニ﹄の句は同音を並べて調子を整えた跡が顕著であり'同類の句の
﹃パラマールタハ・サーラ﹄はアビヒナヴァグブタ(Abhinavag-upta)
k r i t S e r i e s O f f i c e , 1 9 8 3 , p p . 4 9 - 5 0 . C f . K u l a r 梢 a v a T a n t r a , I n t r o -
8
chiction byArthur Avalon.ReadingsbyM.P.Pandit.Sanskrit
9
の作であるからへ西暦一〇〇〇年前後のものである1.﹃ヴィヴェ-カ・チュI
1
Texted.by TarSnMhaVidyaratna,Delhi:Motilal:Banarsidass,
ヽ
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Sakta Literature (A History of Indian Literature,ed.by J.
朗 Teuri Gotidriaan and Saniukta Gupta,Hindu Tantric and
G
94.但しへ上記の年代の提示者はG.Carlstedtである。
闘 本プラーナの七 I ・ 1 五九へ七・一一・六二。
八世紀の成立と見ている(五九-六〇五)0
闘 註朋参照。
的 原文にtadaとあるのはtathaの誤植であろう。
稿では此の書をテキストとして用いる。本書には校訂者自身による党文註
糾 これらの四本は総べて左記の書に収載されていて便利であるOそれで本
㈹ 引用関係について言えば﹃パインがラ・ウパニシャッド﹄第四章は前三
章と全-趣を異にLへ句と句の間に論旨の適がりを欠いて'恰も外の各書
釈も含まれているが'これは現代のものであるから考察の対象とならない。
から手当り次第に言葉を寄せ集めてきたかのような印象を与える。事実へ
四・・1-三aは﹃カータハカ・ウパニシャッド﹄三・三-四に相当する.
ShriAcharya Vasugupta's Siva加配ram,wihtFive Commen-
やJ・シングは作者不詳とする。なおシングはへ この書の作者がクシュー
ている.だとすると、本註釈書の年代は九世紀となる。しかしチ寸テルジ
的 前証に示した書ではバッタハ.・カルラタ(Bhatta-Kallata)の作となっ
ヽ
殆ど全同である。従って﹃パインがラ・ウパニシャッド﹄の方が引用者で
taries,edited with Introduction by Sarvadarshanacharya Shri
またへ検討の範閲は第1'第二の両経に対する註釈部分であるO
あることは間違いない。ちなみにへもし﹃シヴァ・プラーナ﹄が先にあっ
Krisknananda Sagara,Varanasi:Shri Om Prakash Saraf.1984.
それに四・一九b-二〇aiS>﹃クラールナヴァ・タントラ﹄ l・一二と
て﹃クラールナヴァ・タントラ﹄が借り手だったとするとへこの句を﹃パ
インがラ・ケパ=Iシャツド﹄は前者と同じ形で引用したことであろう。
なおへこれと似た句が﹃パラマールタハ・サ上フ﹄五一や﹃ヴィヴェカ・チュ-ダーマニ﹄五六七にも見られるので'参考のため次に示す。
滋賀医科大学基礎学研究第二号(l九九1年)
(21)
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﹃シヴァ・プラ-
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マラージャである可能性も強いと言う Gf.J.C.Chatterii,Kashmir
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L i t e r a t u r e , p . 4 4 8 ; S .
P h i l o s o p h y , V o 1 . 日 , p . 4 2 7 ; K .
o f 哲 m s k r i t
o f l n d i a n
H i s t o r y
H i s t o r y
p . 2 2 6 ; A . B . K i e t h , A
D a s g u p t a . A
A.Nilakanta Sastri,A History of幹uth India,Oxford︰Oxford
S
YogaofSupremeldentity,TextsoftheSutrasandtheCommentary
University Press,1955.p.345.
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A顎ojanturaniso'yam atmanassukha-duhkhayoすご
的 ﹃第七集﹄(七・1・五・六三)に次の句が見える。
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あることは確実だと言える。Cf.T.M.P∵Mahadevan,ThePhilosophy
糾 マ-ダハゲァについては面倒な問題があるが'彼が1四世紀半ばの人で
三〇九年に書かれたという。
キースによると'﹃チケトルヴァルガ・テンタ-マニ﹄は一二六〇-一
ofVimarかiniofKsemaraua,translatedinto Englishwith lntro-
ducion,Notes,Running Exposition,Glossary and Index,Delhi:
Motilal Banarsidass.1979,Preface,p.viii,Introduction,p.xvii.
㈹ H.C.Pandey,Abhinavagupta,anHistoricalandPhilosophical
Study(Chowkhamba Sanskrit Studies,v01.I).Varanasi:
Chowkhamba Sanskrit Series Office,1963,p.254.
的 J.C.Chatterji,Kashmir Shaivism,p.9;J.Singh,打iva Sutras.
The YogaofSupremeldentity,Introduction,p.xviii.上記の'ハ
﹃大史詩﹄(Maha-bharata)三・三〇・八八に相当する。そして更にマ-
註解書(Ga息apada-bh曹a)に引かれておりへ中村了昭氏によると
この句は去教諭個﹄(軒khya-karika)六1に対するがラダパーダの
がvara-prerito gacchetsvargamvasvabhram eva val
ダハゲァの﹃全哲学・要集﹄(幹rva-darsana-sdmgraha)の﹁シヴァ
の箸件のことで'同名の﹃第四註釈書﹄のことではない。
(Kr瑠adasa)という別名を持っていたへと述べているが'根拠は全く挙
㈹ シングはへ このヴァラグラージャが十五世紀末の人でク-シュナダーサ
派の哲学﹂を紹介する章にも出てくる。﹃シヴァ・プラーナ﹄ は、この句
(22)
Eズラが言う強シヴァ・スートテ・ヴァ-ルティカ﹄は、このパバースカラ
げていない ・Cf.J.Singh,SivaSutras.The YogaofSupreme
ヽ
ldentity,Introduction,p.xviii.
いるのを知っていたため、この句に対する印象が強かったとも考えられる。
を﹃大史詩﹄から直接引いたのであろうが﹃全哲学・要集﹄に援引されて
中村了昭﹃サーンクフヤの哲学﹄(大東出版社、昭和五七年)五〇九五参
確で、年代決定の基準となりにくい。たとえば、彼が指摘する﹃カー-カ・
照。
㈹ 第一節で述べたのと同様へここでもハズラが挙げる諸事象は年代が不明
アーガマ﹄(Kamik&gama) への言及にしても'ホンダはこの書が古い
はそのまま引用する。
印 テキストは左記の書に所収のものであるO誤植もあるようであるが'今
Poona,1951,p.176.
A,Na4),ed.by Mahamahopadhyaya V.Sh.Abhyankar,
Cf・幹rua-dar恥ana-samgraha(GovernmentOrientalSeries,Class
著作な.のか後世の著作なのか唆味なままにしておりへ ハズラ自身は同書の
Cf.J.Gonda,Medieval Religious Literature in幹mskrit(A
年代について全-何も言わないのである。
History of Indian Literature.ed.byJ.Gonda,Vol H.Fasc.1),
J.N.Farquhar,An Outline ofReligious Literature oflndia,
Wiesbaden:Otto Harrassowitz,1977,pp.184,201.
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G.W.Briggs,GoraknathandtheKa唱athaYogis,Delhi︰
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tariesofNrsimhasarasvatiand Ramatlrtha-ed.by Colonel G.
糾 The VedantasaraofSadananda,togetherwiththeCommen-
﹃スポーディニー﹄四〇-四1頁では﹁天啓書﹂とともに﹁副プラーナ﹂
A.Jacob,p.19.
であることを明示している。
を引いているが'その際は﹁天啓書・古伝書﹂(sruti-smrti)からの引用
年前後の人と見られている。
卵 ﹃ゴーラクシャ・シャタカ﹄の著者ゴーラクシャは、だいたい1二〇〇
Cf.J.N.Farquhar,An Outline of Religions Literature of
lndia,p.254;G.W.Briggs,GoraknathandtheKanpatha Yogis,
2 2 1 - 2 2 2 .
p.250;J.Gonda,MedievalReligiousLiterature in bFnskrit,pp.
糾 そのlつは註糊に述べた。﹃パンチャ・ダシー﹄の著者ヴィディヤーエフ
ンヤはマ-ダハゲァと同時代で'両人は同一視されることもある。同書の
ヽ
大きな影響力を考えへそして同書と本プラ-ナに於てSvetasvatarasakhinaすという言葉が置かれている文脈を比較すれば'前者が後者に与
えた影響が示唆されるであろう。これは﹃第六集﹄に関することであるが'
同様のことが﹃第七集﹄にあっても不思議ではない。
﹃第七集﹄に関しては註帥参照oまたへ﹃第七集﹄はl二〇〇年前後の
﹃ゴーラクシャLシャタカ﹄から引用しているのであるから'本(集)を
れにへ﹃第七集﹄は他の諸集の名を挙げているからへその現形成立は相当
引用しているとされるへーマ-ドリとの間隔がやや窮屈に感ぜられる。そ
に後代でなければならない(第三節参照)。これらの点から'﹃第七集﹄と、
滋賀医科大学基礎学研究第二号(一九九1年)
-
へ-マ-ド-やマ-ダ′ヴァとの関係は'改めて考える必要があるように
なお、この問題については、本書の形状の変化ということも考慮さるべ
思われる。
きであろう。
(23)