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Title
ロラン・パルト:記号と倫理 -構造主義的局面の意義と問題点-
Author(s)
遠藤, 文彦
Citation
長崎大学教養部紀要. 人文科学篇. 1992, 32(2), p.125-157
Issue Date
1992-01-31
URL
http://hdl.handle.net/10069/15296
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長崎大学教養部紀要(人文科学篇) 第32巻 第2号 125-157 (1992年1月)
ロラン・パルト:記号と倫理
-構造主義的局面の意義と問題点-
遠藤文彦
Roland Barthes : Signe et Ethique
-Phase structuraliste-
Fumihiko ENDO
I 「構造」、その方法論的本質と倫理的価値
1)ソシュールによる理論的方法論的影響
我々は既に、バルトが1956年にソシュールを読んだことによって『ミトロジー』
という書物にいかなる影響があったのか、その内容と限界を示した')。 『一般言語学
講義』は体系的に練り上げられた言語学の語嚢・概念を提供し、特に厳密な理論的概
念や方法論的道具もなしになされたイデオロギー批判の対象を「意味作用」の語を以
て定義し、形式化することを可能にした。しかし、この1957年の書物においては影
響は語嚢的なレヴェルにとどまり、何らかの実質的な理論的発見があった訳ではない。
実際、 「今日の神話」における理論的諸命題が、 『講義』が将来の学問として掲げる
「記号学」に依拠しているというには、そのモデルとなるソシュール言語学の本質的
に体系的-更に言えば「構造主義的」-見通しを欠いている。というより、そも
そもそのような必然性はなかったのである。 『ミトロジー』で問題となっているのは、
意味作用の過程、即ちシニフイエとシニフイアンの結びつき方なのであって、記号の
本質的に体系的構成ではなかったのだから。
ところが、同時期に発表された、神話批判的テクスト以外の、いわばより学術的な
論文を読んでみると、ソシュールの真に理論的方法論的影響というべきものが存在し
ており、バルトは1956年に『講義』を読んだ際、記号の、従って記号学の体系的次
元を直ちに見出だしていたのが分かる。 1957年、即ち『ミトロジー』上梓の年、バ
ルトは衣服の研究についての論文を発表しており、そこで対象となる事象の体系的性
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格を明らかにし、この研究における歴史学的アプローチの不十分を指摘しっっ、体系
的性格を説明しうるものとして「社会学的」アプローチの必要を説いている。
(…)衣服の研究はある特殊な認識論的問題を提起するが、ここではせめて
その問題の指摘だけはしておこう。それは、あゆる構造体の分析につきもの
であり、対象を、歴史の中で捉えつつも、構造としてのその成り立ちを失わ
せてはならないという問題である。衣服とはまさに、歴史の各時点において
規範的形態の均衡でありつつ、その全体が絶えず生成する構造体なのであ
る2)。
歴史的時間の中における「構造体」の研究がはらむ複雑さを認めっっも、バルトは
衣服の研究において、歴史的生成よりも構造的秩序が方法論的に優先すると主張する。
これまでの衣服研究はシニフイアン-衣服とシニフイエ-歴史的あるいは心理的決定
要因を結びっけることに腐心し、まずい事には、この二つのレヴェルを混同する傾向
にあった。実際には両者は互いに相対的独立を保っているのである。さて、衣服が意
味のシステムであるとすれば、その研究は基本的にそのシステムの構造を分析するこ
とに存する。即ち記号が互いに取り持つ内的関係を対象とするのであり、一方でシニ
フイ工を、他方でシニフイアンを同定し、両者を結びつけるのではない。事実、シ
ステムにおいて関与的なのは「価値」の関係である。それも「何ものかに価する」
《valant-pour-quelque chose》という垂直的(象徴的)関係(これが『ミトロジー』
の基本的記号概念であった)ではなく、記号にまさに何ものかに価する能力を斌与す
る記号間の水平的(範列的)関係としての体系内的価値である。 「衣服は本質的に価
値論的事象《un fait d'ordre axiologique》である3)」とバルトが述べるのはこのよ
うな意味においてである。また、彼が衣服の「社会学4)」を語り、歴史学的または心
理学的研究の欠陥、誤謬に対してその必要性を主張するのもこのような見通しにおい
てである。要するに、問題の認識論的困難さを認めっっも、バルトが構造論的観点を
採り入れようとするのは、これまでの歴史主義的・実証主義的研究が(十分には)考
慮に入れなかった意味する事象の持つ体系的本性故のことである。
こうして理論上の問題点を指摘しつつ、バルトは衣服研究上の方法論的モデルをソ
シュールの言語学に求めるように提案する。両者の問題系が類似するからである。
衣服をシステムとして扱うのが困難なのは、恐らく、時間の中で構造体の進
展変化を辿ること、その構成要素が不揃いに変化するような均衡体の継起を
連続的に追うことが困難だからである。既にこの同じ困難に出会い、それを
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部分的に解決した学問が少なくとも一つある。言語学がそれである。 (中略)
ここで、構造主義論争に加わろうとは思わないが、中心的問題の同一である
ことは否定し難い。だからといって、同じ問題が双方の場合で同一の解決を
持つというのではない。しかし、少なくとも、現在の言語学が衣服の研究に
対して、既にここ五十年来練り上げられてきた思考の枠組み、素材そして用
語を提供してくれるだろうことは期待できる。よって、早急に、衣服研究に
及ぼすであろうソシュール言語学のモデルの方法論的影響について吟味する
必要がある。5)
言語学と記号学の関係については以下で論じるが、ここではソシュールの影響が
『ミトロジー』でそうであったように語嚢・概念の域を越えて、真に方法論的な水準
において現われているという点を強調しよう。更に言えば、 『モードの体系』におい
て明らかになるように、 「方法」は単に科学的分析の手段ではなく、記号学的探求と
いう「冒険」の本質的樽金なのである。
2)神話の変容
ソシュールの真に方法論的な影響によって、バルトは記号学をもはや単にイデオロ
ギー批判の道具としてではなく、独立した記号の科学として捉える。同時に、彼の関
心は社会批判から社会学へと移行する6)。
しかしながら、それでバルトが神話学的企図を放棄した訳ではない。事実、 1957
年の『ミトロジー』出版後、1959年には『レットル・ヌーヴェル』誌に9編の新た
な「ミトロジー」を書いている7)。このうち初めの8編はおおよそ『ミトロジー』と
その批判の対象及び方法を同じくしている。様々な打嚢声報道を取り上げ、そこで伝達・
表象される一見無意味な事象を記号として捉え、その背後にイデオロギー的意味を読
み取り、欺隅的な意味作用の過程を分析・解体するのである。ところが、 「二つの見
本展示会」と題された最後の記事では、分析の手続きは別にしても、批判的パースペ
クティヴにおいてある変化が認められる8)。この論文では自動車の展示会と事務機器
の展示会が比較されている。魔術的な力を持った自動車という神話については既に
『ミトロジー』に「シトローエンの新車」がある9)。「D.S.」 (デエス-女神)は「天
から降り立った」物体-奇跡として展示される。製品の表象-演出が人間による製作
の痕跡を消し去るようになされるのである。それは視線と触覚の対象であって、行為
の対象ではない。 1959年の自動車の展示会もおおよそ同じ神話に属しており、消費
財の「見世物」をなしている。 「その英雄的時代において、機械は原因から奇跡のご
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とく遠ざけられた効果の見世物であった10)」。確かに、観察の視点は多少変化してお
り、生産物としての自動車ではなく、機械としてのその機能が問題となっている。し
かし結局のところ、同じ対象のこれら二つの相を貫いているのは、材料の魔術的変形加工という神話である。魔術的物体である自動車はそれ自身魔術的に物を産出する機
械、すなわち、液体を運動に変形-加工する機械なのである。 「非常に長いこと、神
話的に言って、機械とは歯車即ち中継の集合体であった。その行程は、象徴的に、曲
がってはいるがとにかく線的な原因・結果の関係を表わしていた11)。」要するに、以
前、生産から切り離された生産物が問題であったのが、ここでは生産それ自身が問題
とされている、すなわち生産物の観点から見て因果関係の線状性を合意する生産の神
話が問題化されるのである。
ところで、バルトは事務機器の展示会で別種の神話を見出だしているのだが、とり
わけ注目に価するのはその新たな神話が神話自体のある変容を証しているということ
である。 「自動車は、大衆の間でいかに成功を収めたとはいえ、既に人口に槍鼓した
機械の神話に属している。それに対して事務機器の展示会が示すのは、その神話自体
が変容するということである12)。」すなわち、この「ミトロジー」で問題となってい
るのは、ブルジョア的神話の様々な現れの-変種ではなく、その神話自身の形式上の
(従って本質的)変化である。論文中繰り返し用いられる文章構成上のアンチテーゼ
は、この形式的(構造的)変化を示すひとつの指標であるように思われる。
自動車の展示会は、一種の定期市であり、祭儀的なものである。事務機器の
展示会は小宇宙の記述であり、構造体の表象である。
機械が人間を機械化するのではなく、人間が己の頭脳の構造を機械に刻印し、
それを人間化する時代がやって来たようだ。
機械はもはや驚嘆の言語の対象ではなく、言語それ自体である。これは技術
の展示会ではなく、構造の展示会である。
これら二つの展示会、従って二つの神話の対照は、しかし、単に修辞的なものでは
なく理論的な内容を持っており、人間が世界を領有するために、世界について持っ考
え方の変化に対応する。機械の神話は材料の変形加工-入口に材料、出口に製品、
間に加工の手段としての労働-という生産の因果論的イデオロギーに由来するのに
対し13)、事務機器の展示会は、その神話自体の変容として、労働についての新たな考
え方を導入する。それによれば、人間は現実を領有するのに、一連の「サイバネティッ
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クス」的操作-切断、分類、配列-を以てする。
作成した数値を書込み、次いで個別的なものを処理すべく、呼び出し、分解
する、これはこれまでになかった新たな動きであり、厳密に言って、変形加工ではなく、配列の動きである。練金術から原子物理学に至るまで西洋全
体に作用してきた物質の質的変形-加工という神話に代わって、新たな想像
力が現われたのである。世界を分類すること自体が人間がその世界を領有す
る物質的行為なのだ。
確かに、問題は常に生産することなのであるが、それはもはや生産物という結果の
観点から捉えられてはいない。生産の目標・終点は生産された事物ではなく、その事
物の意味、即ち分類行為が産み出す対象世界の諸関係としての意味なのである。そこ
では、人間の労働はそれ以外の他の目的の手段として疎外されてはおらず、それ自身
が世界の意味を為す(faire)のである。
結論として、バルトは変形-加工の神話の意味を問い、それが逆説的にも自然の単
一性を信じるブルジョアの意識を安心させるアリバイとして機能していたと述べる。
これに対し、その神話の変容は労働の人類学的次元を開示し、世界の真の技術的変容
と知的領有の在り方を明らかにするのである14)。 (それは、究極的には、ブルジョア
的意識に映る「現実」の地位自体を揺るがすことになるであろう。)他方、バルトは、
当の神話はブルジョア流の反主知主義的イデオロギーを支えるものであると言う。従っ
て「以後あらゆる政体、あらゆる労働に共通の価値」であるサイバネティックス的想
像力を働かせることにおいて、事務機器の展示会は「前衛的展示会」なのである。
結局のところ、事務機器の神話は厳密には『ミトロジー』でいうところの神話に相
当しないであろう。神話が本来歴史的であるイデオロギーを自然化する特殊な表象形
態であるなら、事務機器の「神話」は人間の知的活動をその人類学的真理と超歴史的
有効性において表わすのであるから。 (この記事には、神話学的言説のエトスの変化、
それがもはや単に批判的ではなくむしろ肯定的であるという傾向が認められるが、そ
れもこうした事実から理解しうるのではないだろうか。)この神話の変容が意味する
のは、ある神話が他の神話に、あるイメージが別のイメージに取って代わったという
ことではない15)。あるイマジネーションが他のイマジネーションに取って代わり、神
話が文字通り形を変えたこと、即ちそれが形式において変化したことを表わしている
のである。
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3)神話学(者)の転身
「今日の神話」で定式化された記号学は、記号を等価の関係にあるシこフイアンと
シニフイエの結合体であるとする原理に成り立っていた。イデオロギー的概念が自然
化されて伝達される過程を解明するのがイデオロギー批判としての『ミトロジー』の
目的であったので、記号学は事後的にではあるが、その目的の理論的根拠並びに方法
論的手段となりえたのである。
しかしながら、そのような記号観は記号の二つの構成要素とその結合の本来的「慈
恵性」を明らかにするが、記号がその周囲を取り巻く他の記号と取り持っ諸関係、そ
れが属するコンテクストにおける機能、要するに記号の本質的に体系的・組織的成り
立ちを説明しはしない。ところで、 『ミトロジー』出版後、バルトがソシュールの影
響を経て、意味作用という概念において強調するようになるのは、過程(proces)
ではなく体系(systbme)の観点である。バルトの関心が過程から体系へ移動したこ
とにはどのような意味が合意されているのであろうか。
i記号学的「想像力」
1962年、バルトは「記号の想像力」と題された論文で記号観の三つのタイプにつ
いて語っており、記号をなす諸関係を意識、更にはイデオロギーに差し向けることに
よって、あるタイプから別のタイプへの移行の意味を探ろうと試みている16)。科学の
諸分野及び芸術の諸領域を通して共通に観察しうる記号観の三つのタイプに結びつけ
られる意識はそれぞれ「象徴的」 《symbolique〉 「範列的」 《paradigmatique》 「連
辞的」 《syntagmatique≫と命名される。象徴的意識は「シニフイアンとシニフイエ
を結合する」記号の「内的関係」を表わす。範列的及び連辞的意識は二つの「外的関
係」を代表するが、 「前者は潜在的であり、記号を他の諸々の記号の貯蔵庫に結びっ
ける。記号はそこから取り出され、言連鎖の中へ挿入される。後者は記号をそれに前
後する言表中の他の記号に結びつける。」 (EC, p.206)
とりわけ、この論文の記述が、記号学という学の客観的技術的現実に関わるという
よりは、その現実についてのひとっのヴィジョンに関わっていることに注目しよう。
「記号は単に特殊な知の対象であるばかりでなく、ヴィジョンの対象でもある。」
(ibid., p.210) (この記述は記号の三つの関係を見る-生きる-主体の観点から
なされているのであり、言ってみれば焦点が絞られている(focalis6)のである。)
三つの関係のうち一つないし二つを採用することは、真に倫理的と言いうる選択に基
づいており、逆にその選択は「イデオロギーを合意し」主体を倫理的更には政治的に
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性格づけるのである。事実、バルトは「これらの意味の意識についての記述をもう一
度取り上げ、ひとつの歴史に結びっけ、 (…)記号学者についての記号学、構造主義
者についての構造分析を企てる」 (idem.)可能性を一種のイロニーとして示唆して
さえいる。記号の諸関係は形式であり従って空虚なのではあるが、まさにそれ故にそ
れらを支える各々固有の意識様態に差し向けられており、それぞれの選択は直ちにあ
る種の倫理的意味を持ちうるというのである。更に詳しくこの記述を見てみると、バ
ルトがこれら記号学的意識を単に示差的に区別しているだけでなく、それらの問にあ
る種の階層づけを試みているのがわかる。それは象徴的意識から、範列的意識を経て、
連辞的意識に達する。
各々の記号意識に、あるいは少なくとも一方に一番めの意識、他方に残りの
二つと分けてみると、それぞれには、個人的であれ集団的であれ反省的思考
の何らかの段階が対応する。とりわけ構造主義は、歴史的に見て、象徴的意
識から範列的意識への移行と定義しうる。 (Ibid., p.201)
範列的意識は象徴的意識の二面的関係に代えて(少なくとも)四面的な関係
を措定する。 {Ibid., p.209)
三つの意識の中で、最もよくシニフイエに関わらないで済ますのは、連辞的
意識である。それは意味論的であるというより構造論的意識である。 (Ibid.,
p.210)
特に最後の引用文で明らかなように、この序列はそれぞれの意識がシニフィエに対
して取る距離の大小に従っている。象徴的意識にとって、シニフイエはシニフイアン
に対して独立した超越的実体(entite)として定立される。 「象徴的意識は本質的に形
式の拒否である。この意識にとって、記号において重要なのはシニフイエであり、シ
ニフイアンはそれによる規定を受けたものにすぎない。」 (ibid., p.208)範列的意識
にとっては、対立的関係が意味の条件と考えられ、シニフイエそれ自体は「第一次分
節」から生じた相関的項(terme)にすぎない。連辞的意識は記号の分節よりも連結
に、意味論的潜在性よりも統辞論的顕在化に関わる。故に「最もよくシニフイエなし
で済ませる」。
象徴的意識から構造的意識に移行することによって、シニフイ工はいわば後退し、
シニフイ工の面でもシニフイアンの面でも意味の実体は意味の関係へ席を譲る。この
「関係」こそが唯一「意味する」ものなのであるが、といってシニフィエに満たされ
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ることをアプリオリに帰結Lはない。意味の構成(構成された意味ではなく)にとっ
て関与的なのは、意味の条件としての記号のシステムであり、シニフイエとシニフイ
アンの結合としての意味作用の過程ではない。倫理的なレグェルで言うと、もはや記
号の慈恵性(意味作用の率直さ(franchise)ではなく、記号の体系的関係の明白さ
が問題となる。その明白さばシニフイエからの記号の開放(affranchissement)杏
合意している。その際、シニフイアンの体系(体系としてのシニフイアン)は実体と
してのシニフィエ(シニフイ工という実体)から自律し、意味作用はいわば宙に吊ら
れた形となる-中断される(suspension)であろう。
他方、神話学者にとってみればこの移行は本質的であり、単に分析上の観点の移動
ではない。例えば、ある対象をある視点から分析した神話学者が、再度、同じ対象を
同じ操作をもって、但し今度は別の視点から分析するということではない。そうでは
なく、意味作用がシニフイエとシェフイアンの結合からなる実体と考えられる限りに
おいて、意味作用の形式自体が問題化されるのである。この移行においてはシニフィ
エの実体的地位、従って神話学の拠って立つ基盤自体が揺るがされる。このことは、
言い換えれば、記号学的パ-スペクテイヴの変化によって、神話学者が自らの対象と
言葉を変化させ、故に自分自身を転位させるということであろう。
ii神話学の神話
象徴的関係が神話学を基礎づけていた等価関係を前提としているのに対して,他の
二つの構造論的関係は記号問の相互関係を規定している。それらは象徴的関係とは異
なって、最早「深さ」や「類似性」を知らず、ただ示差的かつ相関的であるのみであ
る。それらの関係こそがシニフイエとシニフイアンの結合過程を対象とする神話学者
の意識には当然のことながら(ほとんど)欠如していたのである。
記号についての三つの関係を比較検討することによって、バルトは象徴的意識に固
有の倫理的意味を明らかにし、意味作用の過程自体を、単にその特殊な顕現形態例えば「神話」 -においてではなく、その原理において問題化するのである。
とすれば、たとえ神話学者がシニフィエをではなく、意味作用の過程、その形式を
相手にするのだと言って't/、結局、彼の意識はシェフイ工がシニフィアンに対する超
越的地位を有し、実体としての同一性を保持することを前提とするであろう。シニフイ
エとシニフイアンの間に象徴的関係を見ることはそれ自体が神話的ヴィジョンなので
ある。実際のところ、神話が象徴的意識に基づいている、とではなく、象徴的意識こ
そが本質的に神話的であると言わねばならないであろう。象徴的意識が開示するのは、
ブルジョア的「神話」という歴史的地理的に(比較的)小さく限定された記号実践の
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特殊な-タイプというよりも、西欧世界全般に共通する記号実践一般を支え貫く「神
学的」基盤なのである17)。そもそも神話学者はその地位からして、歴史に(参与して
いるというよりも)帰属しており、二重に決定づけられている。一方で、シニフイエ
において。神話学者は形式のみを対象とするとはいえ、実際の分析では、手続き上、
常に歴史的決定を受けているシニフイエ(イデオロギー的概念)に依拠せざるをえな
い。他方、より決定的な形で、固有の対象である意味作用の形式そのものにおいて。
シニフイアンとシニフイエの結合過程としての意味作用は、意味の条件としての、シ
ニフイエとシニフイアンを同時に構成する諸関係にとっては二義的で必然性をもたな
い事後的な現象にすぎない。その上、対象である神話ばかりでなく、それについて語
る神話学者の言葉自体も同じ意味作用の形式を共有しており、その神学的基盤に依拠
している。
それに対し、構造論的関係とともに、人間に固有の能力としての意味作用の人類学
的次元が開示される(ここでいう意味作用とはシニフイエとシニフィアンを結びつけ
る過程ではなく、意味を創出する行為の謂いである)。即ち、構造論的関係は、意味
創出活動としての意味作用がその人類学的本質において展開される地平である。この
創造的意味においてこそバルトは例えば文学の「本質」や「存在」について(最早草
にその制度をではなく)語るのであり、 「構造主義的活動」の「人類学的」性格を評
価するのである。これらの言葉を神話的概念(-ブルジョア的イデオロギー)と見倣
すことは出来ない。それは創出された意味の普遍的真理(V色rit色)についてではなく、
人間の意味を為す能力、その諸形式の一般的有効性(validit色)について言われてい
るのである。創出された意味が歴史的に決定されているということは今や二義的なこ
とであり、そのことが意味創造の人類学的形式の存在を妨げる訳ではない。
iii観照から行為へ
象徴的なものから構造論的なものへと移行することにより、記号を考える際、実体
としての意味なしで済ませることができ、体系内の記号の形式的関係が前景に現われ
てくる。範列的意識はシニフイ工について、 「その証明の役割18'」 (ibid.,p.209)をの
み考慮し、連辞的意識は記号について、他の記号と取り持つ結合規則をのみ考慮する。
二つ合わせて、両者は意味の呪縛から開放し、命名を免除する。といっても、意味を
廃絶する訳ではなく、それを「指で示す」のである。つまり、 「意味の場所を言うが、
名指したりはしない」 {ibid.,p.219)。構造論的意識はシニフィアンの下にシニフィ
エを見つけだし、分析者以前に独立してある世界の意味を引き出すのではなく、世界
に意味を「付け加え」、それを了解可能なものと為す。この了解可能性とは、実体的
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に存在するシニフイ工や充満した意味ではなく、 「模造」 《simulacre》の名をもって
呼ばれる構造の示差的関係と諸構造問の相同的連関(homologie)の謂いである(コ
ピーとしての類似(analogie)ではない)。
かくして、構造論的意識はむしろ実践、より具体的に言えば製作の観念に近いもの
となる。 1963年の「構造主義的活動」と題された論文は文字通りそのことを語って
いる19)。
詩的創造も反省的思考も、ここでは世界の始源的「印象-刻印」といったも
のではなく、もとからある世界に似せたひとっの世界の真の製作であり、そ
れも前者を物理的に真似るのではなく、知的理解を可能にする類の類似であ
る。 {EC,p.215)
更に、この製作の観念において重要なのは、製作された結果ではなく、製作の技術
およびプロセス即ち本来の意味での方法(-道)なのである。
技術はあらゆる創造の本質そのものである。 (…)いってみれば、道が生産物
を為すのである。それ故にこそ構造主義的生産物とではなく活動と言わねば
ならないのだ。 (J6id.,p.216)
バルトはここで、記号の構造論的概念を創設する範列的並びに通辞的意識を再度取
り上げ、今度は「構造主義的活動」の原理を為す二つの主要な操作として記述する。
「切り取り」 《decoupage》と「配列」 《agencement≫とがそれである。 「模造製作の
活動に素材として与えられた対象を切り取ることは即ちその対象の中に可動性を持っ
た断片を見出だすことであり、それらの断片の示差的位置づけが何らかの意味を産む
のである。」 {idem.) 「諸単位が定められたら、今度は構造論的人間はそれらに組み
合せの規則を発見または決定してやらねばならない。呼び出しの活動に配列の活動が
続くのである。」 (ibid.,p.2Wこれら二つの操作を携えた構造論的人間は、成る程、
レヴィ-ストロースが秀でて構造主義的とみなす「器用仕事をする人」 《bricoleur》
を思い起こさせずにはいない。結局、バルトが批判的見地から構造主義的なもののう
ちに求めるのは、従来の記号概念に対する異化の力であり変異の可能性である。 「新
しいのは、事物に充満した意味を割り当てることではなく、いかにして意味が可能な
のか、いかなる努力を払い、いかなる道を通ってかを知ろうとする思考(あるいは詩
的創造)である。」 (ibid.,p.218)他方、構造主義的思考に本質的なものとして取り
上げられるのは、記号の解読であるよりも、意味するシステムの構築であり、解釈で
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あるよりも創造的活動である。 「極言すれば、構造主義の対象は意味を豊かに所有す
る人間ではなく、意味を作り出す人間である。言い換えれば、人間の意味論的目的を
汲み尽くすのは、意味の内容ではなく、歴史的で偶発的変数であるそれらの意味を産
出する行為に他ならないということであろう。」 (idem.)かくして、記号はもはや、
神話学者の下でそうであったように視線による所有の対象ではなく、構造論的人間に
とってそうであるように行為-創出(faire)の対象となる。構造論的人間は本質的
に行動-作用する(agir)人間であり、観照する人間ではない。彼は神話学者よりも
批判的(従って多かれ少なかれ反動的)動機から(比較的)開放されており、現実に
対するペシミスムからユートピックで神学的なヴィジョンに折り重なることなく、よ
り能動的に現在を生きている。いってみれば、より「ルサンチマン」を免れているの
である。
iv記号学と詩的創造
上に示唆したように、神話学の言説を新たにすること、これが記号概念の変化を要
請するバルトの主要な動機(あるいはその効果)の一つである。この点の詳細を理解
するために、記号に関する考察の新たな局面に当たって、バルトが「想像力」や「活
動」を語るに際し何を念頭に置いていたのかを見極める必要がある。
実際、構造主義的思考は科学的言説の在り方、その地位に新たなものをもたらして
いる。確かにバルトが構造主義に依拠するのは、それが合意する科学的厳密さ故であ
り、それがイデオロギー批判に固有の告発・断罪的抑揚を言わば中和する効果を持つ
からである20)。但し、この科学的性格は客観的真理や実証的事実といった観念に差し
向けられるのではなく、形式的厳密さを意味する。科学の科学性が評価されるのは、
それが発見せしめる真理や事実故ではなく、それ自身の内に再構成してみせる了解可
能性としての意味故なのである。そして、この了解可能性の基準となるのは真理でも
現実でもなく、体系的一貫性、形式的有効性である。こうして意味の再構築を可能に
するものとして構造主義的科学は「虚構」という観念と結びつく21)。
構造主義の「想像力」や「活動」を語ることによってバルトが意味するのは、まさ
しく-逆説的にも-構造主義的言語が科学的メタ言語ではなく、それ自体対象言
語となるということ、より正確には、言語の序列・階層をいわば押し崩すということ
である。象徴的意識に少なからず合意される「うまく清算されていない決定論」 (EC,
p.208)に由来するものとして構造論的意識が問題視するのは、まさにこの言語の階
層関係である。バルトは構造主義的言語活動が本質的に(本来の意味で)詩的-創造
的(poietique)であることを強調する。これこそ、記号学者と芸術家を「意味ヲ為
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遠藤文彦
ス人」 《homo significans〉というカテゴリーに包摂するバルトの真意である。とり
わけ強調しなければならないのは(この点こそが、本論の最後で改めて問題としなけ
ればならない問題をなすのだが)、この語の十全に能動的なアスペクトである。記号
学者は意味を構築し創造すること(signifiant)において詩的活動に参与するのであっ
て、構築され創造された意味(signifi色)によってそうなのではない。知的活動と詩
的活動の分裂は、行為の結果によってではなく、行為そのものにおいて解消されうる
のであり、この限りにおいてのみ『ミトロジー』の終わりで表明された対象言語とメ
タ言語の対立によるジレンマが解消され、 「現実と人間、記述と説明、事物と知の和
解」 {My,p.247)が可能になると言える。それ故にこそ、たとえ構造論的なもので
あろうとも「意識」をではなく「活動」を語らねばならないのである。
4)意味作用と体系:体系のエトス
専ら世界の了解可能性を扱う構造主義は、世界の意味内容に関わりを持っ神話学的
企図より歴史的社会的「現実」に参与する程度がより少なくて済む。といっても構造
論的意識が倫理的問いとは無縁であるということではない。既に確認したように、神
話学は形式の合意するイデオロギー的意味及び倫理的価値を問い、それなりの仕方で
形式の責任を提起していた。実際のところ、構造論的意識も「参加」の観念を持って
おり、それは原則として神話学と同じ方向-意味に対する形式の責任を明らかにす
るという方向-を向いているように思われる。事実バルトは『モードの体系』につ
いて、それが「世界についての倫理的主張を含んでおり、それはそもそも『ミトロジー』
におけるものと同じものである。即ち、自らを記号の体系であると率直に認めようと
しない記号体系につきものの悪、社会的イデオロギー的悪が存在するという主張であ
る」 (GV,p.67)と述べている。
しかしながら、神話学が提起する形式の責任が、コノテーションの把握(「意味の
掘出し物」)を通して確証されるものであるとしたら、その意味把握の原理的基盤を
為すところの形式自体は問題視されていない。これに対し構造主義的パースペクテイ
ヴでは、空虚な形式を通して触知可能な現実が把握されるというのではなく、了解可
能性が世界の意味の条件として据えられ、更には、世界と了解可能性の通常の序列・
位階が反転させられる。故にバルトは『モードの体系』の前書きでこう述べる。 「モー
ドの言葉[パロール]に先立って衣服の現実を定立するのは理に適わぬことのように
思われた。正しい理屈に従えば、逆に、現実を創設する言葉から出発して創設される
現実へと赴くべきなのである。」 GSM,p.9)
「だから、構造論的人間はときに自分に対して向けられる非現実主義との非難を甘
ロラン・バルト:記号と倫理
137
んじて受けはしないであろう。形式は世界の中に参与していないとでもいうのだろう
か。」 (EC,p.219)ここで言われる「形式」を内容を迎える空虚な器(それを満たす
のが象徴的意識である)の意に解してはならない。それは意味を創設する示差的特徴
の体系(それを再構成するのが構造主義的記号学者の務めである)の謂いである。そ
れらの形式に帰される責任とは意味作用の過程の性質(その「率直さ」や「二重性」、
記号の窓意性や有縁性)に直接関わるものではない。それは意味の体系の率直さ、よ
り的権に言えば、既に示唆したように、その開放の度合いに関わる。実際、体系が率
直であるとは、体系が象徴的意識から、従ってシニフイ工の沈殿から解き放たれてい
るということに他ならない。形式はシニフイエから自由であるという意味で「空虚」
なのであり、一方のシニフィエは限りなく希薄化され、無に近づく。この際、シニフイ
アンの体系(体系としてのシニフイアン)は自らを無のうえに支えているようなもの
であり22)、意味作用の過程はいわば中断され、宙吊にされる。この中断・宙吊を記号
実践上のひとつの倫理的態度(色thique)と解することもできよう。即ち、ここで意
味に対する責任を語りうるとすれば、それは意味を引き受けることよりも、意味を中
止することに存するということである。
しかしながら、現実には、常に全ての体系がその全き率直さを以て現われる訳では
ないことを認めない訳にはいかない。体系というものがその厳密な潜在性(virtualite)においては、人類学的一般性と示差的否定性故に主体的・歴史的選択に関与
するものではないとしても、現働化された(actualise)体系は必ずしも倫理的評定
を免れるとはいえない23)。というのも、先に述べたように構造主義的活動は常に象徴
的意識による疎外を受けうるからである。極言すれば、体系の純粋性、言ってみれば
その字義性(lettre)は理論的に定立されるのみであり、現実には-社会において
は-、多かれ少なかれ「イメージ」に堕した形でしか顕現しない。即ち、現働化し
た体系は多かれ少なかれ率直であるしかなく、従って多かれ少なかれ疎外されない訳
にはいかないのである。であるとすれば、絶対的に肯定的なェトスとしての体系の字
義性は現働化された体系にとって回帰不可能な地平(ユートピア)でしかないという
ことになろう。しかし、まさにこのような認識から倫理的判断の可能性、その必要性
が生まれてくるのである。そしてその基準とは、いまLがた我々が精確を期そうとし
た意味での「率直さ」の程度であり、それを実践する倫理的態度として要請されるの
が意味の「中断・宙吊」である。この点を詳細かつ具体的に理解するには、世界につ
いての倫理的主張に貫かれているとバルト自身が証している『モードの体系』 (1967)
をこの観点から読解する必要があろう。
*
遠藤文彦
138
記号概念のパースペクティヴが変化したことにともない、神話批判は意味する体系
の形式的記述に取って代わられるように見える。確かに、この科学的態度は人間によ
る意味創造の人類学的次元の発見に対応している。ここから『ミトロジー』以降のバ
ルトの諸活動の科学的足取りが説明される。しかしながら、それは実証主義的といわ
れる科学、ましてや科学主義ではない。バルトが構造論的意識を以て批判するのは、
まさに実証主義が掲げる類推の原理あるいは決定論的思考、それらの形式の神話的、
更には神学的性格である24)。 「今日の神話」以後、記号学的探求の客観的見掛けのも
とに、倫理的態度が、確かに固有の意味での神話学とは違った角度からではあるが、
依然として(あるいはむしろより強固になって)現前しているのである。 『モードの
体系』は構造主義的局面におけるバルトの記号学のこれら二側面を証すことになろ
う。
以上が、 1967年の著作を取り巻く理論的かつ倫理的布置である。それはまたバル
トの1957年以降の文芸批評の背景でもある。いずれの場合でも、イデオロギー批判
と記号学が相互に-弁証法的といえる仕方で-絡み合っているということを理解
して置かねばならないであろう。
Ⅱ 「モード」、あるいはブルジョア社会における記号実践の倫理的両義性
1) 「方法の書」
衣服は神話学者に対して自動車や食物と同じく神話的対象として現われうる25)そ
れは物質的レヴェルで機能を持っているとすれば、知的レヴェルでは意味作用を行な
うのである。使用の対象であるとともに価値の媒体である故に、それは「機能-記号」
《fonction-signe茅である26)。衣服がイデオロギー的概念のアリバイとなり、動機づ
けられた記号をなすとすれば、その意味と記号を分析することは神話学者の務めに属
するであろう。
バルトが『モードの体系』で行なった分析は(直接には)神話学に属するものでは
ない。事実、記号学者の関心の対象はシニフイアンとシニフイエの結びっきではない。
また、たとえ体系的なものであろうとも衣服の「潜在的27)」シニフイエを明らかにす
るという意味にすぎないのなら、それは衣服の解読でもない。 『モードの体系』にお
ける記号学は衣服という事象を解釈することに存するのではなく、衣服において現わ
れた意味の条件としての記号の体系、言い換えると、人間が衣服を記号の体系として
構築することにおいて創造する世界の了解可能性を再構築することを目指す。然るに
ここで言われる「モード」とは本質的に意味作用の体系なのである。このような意味
ロラン・バルト:記号と倫理
139
でバルトは記号学的関心の変化について語っており、その転回点は「今日の神話」に
位置づけられる。 「『ミトロジー』の後書きを書いて以来、観念、主題といったものは、
社会がそれらを捉え、意味する体系の実質と成す仕方程には私の関心を引かなくなっ
た。 (…)その体系は形式的なものなので一連の構造論的分析に取り組むことになっ
たが、それらは全て言語学の対象外の言語活動を定義するという狙いを持っている。」
{EC,p.155)ここでは「体系」という語を、神話が「コミュニケーションの体系」
(My,p.193)であると言われたときのように単に便宜的表現としてではなく、その
強い意味において、すなわち構造化された組織として理解しなければならない。同様
に「言語活動」という語も、シニフイアンとシニフイエの等価関係ではなく、構造に
おいて規定される記号の体系の意に解さなければならない。
かくして、 『モードの体系』の目的は、意味作用の過程の分析あるいは記号の解釈
よりも、記号体系の再構築に存する。それ故、シニフイ工を発見する事よりも、体系
の再構築を可能にする技術、即ち方法の探求がその本質的な目標となるであろう。
「何かを語ろうと思うや否や、方法というものが問題となる。ところで、本書は方法
の書である。」 GSM,p.7)これは、単に方法が未だ確立されておらず、これから練り
上げていかねばならないという意味ではない。それなら、本書は一種弁証法的な形で、
方法論的探求であると同時に探求されっっある方法の応用の試みであるということに
なろう。このような見方は、技術的に未発達で不十分であるという事実上の偶然的理
由を考慮するにとどまっている28)。 「著者がこの仕事を企て、その発表形式の構想を
抱いた頃、言語学は後に特定の研究者達が考えたような規範的モデルとなってはいな
かった。既にいくつか業績があがってはいたものの、記号学は未だどの点から見ても
未来の学問であった。従って、当然のことながら記号学の応用的研究は全て発見、よ
り正確に言えば探険という形を取ることになったのである。実際、その成果は非常に
あやふやで手段はかなり初歩的なものだったのである。」 (idem.)しかし、既に示唆
した通り一種の認識論的転回があって、人間の人類学的本質は人間が生産する結果に
よってではなく、生産する手段・過程(技術・手順)によって、目的によってではな
く方法によって規定される。方法は目的に従属する道具にすぎないのではなく、それ
自身が即人間の本質を成すのであり、それ故人類学的価値として肯定されるのである。
方法の問題は構造主義的活動の存在そのものに関わる本質的問題として提起されてい
る。方法と存在が接するこの構造主義的パースペクテイヴにおいて『モードの体系』
は「方法の書」と宣せられるのである。そして、 「方法が問題となる」と言われると
き、そこでは来たるべき-学問のみでなく、人間の存在そのものが賭けられているの
である。
140
遠藤文彦
2)超言語学的システム
「方法」の学問上及び認識論上の本質的問題を明らかにした上で、バルトは「この
研究の起源と意味について説明させてもらいたい」と言う。それについては、事実上
の動機や科学的有用性-それらは結局のところ上に述べたような歴史的状況に従属
する偶然の理由にすぎない-とは別に、ある根本的な選択を引き受けねばならなかっ
たことが述べられる。そして、その選択こそがこの研究の方法論および倫理において
本質的な意味を持っ、と言うのである。 「当初、現実のモード(実際に身に着けられ
たか、さもなければ写真に撮られた衣服)の意味体系を再構築することを旨としたが、
じきに現実の(あるいは視覚的)システムを分析するか、書かれたシステムの分析を
するか、どちらを対象とするか選ばねばならないことに気がついた。」 (ibid.,p.8)
周知の通り、ここでは書かれた衣服が選択されるのだが29)、それは言語学と記号学の
関係についてソシュールが立てた命題の理論的更には認識論的転倒を合意している。
「人間は分節言語に繋ぎ留められている。このことを記号学的研究たるもの無視して
はならない。よって、恐らくソシュールの公式を引っくり返して、記号学が言語学の
一部である、と言わねばならないであろう。」 (ibid.,p.9)30)バルトが言わんとするの
は、固有の意味での言語学を言語外の非言語的なシステムに文字通り(従って、多少
とも濫用するという危険を引き受けつつ) 「応用」しようということではない。そう
ではなく、本来の言語学的事象を超えてはいるが、分節言語によって貫かれ、また同
時にそれを貫いているような意味体系の一般的秩序すなわち「超言語学的システム」
《syst6me translinguistique》が要請されているのである。
超言語学的秩序を要請するに際し、バルトは二系列の理由を挙げている。その一方
は事実上の状況に関わる偶然的なものであり、もう一方はことの本質に関わっている。
実際上、現実の衣服の代わりに書かれた衣服を選択することには、方法論的に見てい
くつかの利点がある。第-に、モード雑誌は「純粋な共時態」を提供してくれる。第
二に、書かれた衣服は美的実質あるいは実際的機能といった、意味作用からみて寄生
的な内容を持たない抽象体である。然るに意味作用こそ記号学の唯一固有の関心の対
象である。要するに書かれた衣服は衣服の意味をその純粋さにおいて与えてくれるの
である。他方、件の選択は実のところ「ある真理」から帰結し、その真理とは「人間
は分節言語に繋ぎ留められている」ということである。 「神話と儀礼が合理という形
態、要するに言葉[パロール]という形を取っている我々の社会においては、人間の
言語は単に意味のモデルであるばかりでなく、その基盤でもある。」従って「モード
の言葉に先立って衣服の現実を措定するのは理に適わぬことに思えた。正しい理屈に
従えば、反対に、現実を創設する言葉《la parole instituante》から創設される現実
ロラン・バルト:記号と倫理
141
《le r呑el qu'elle institue》へと向かうべきなのである。」 (ibid.,p.9)分節言語はそ
の意味作用の精確さ、複雑さ、豊かさにおいて他の意味作用する体系に勝り、 「あら
ゆる意味する秩序の不可避の中継者」となっている。かくして「モード」がその本質
において意味作用の体系であるとすれば、書かれたモードこそがモードの存在そのも
のであることが理解されよう。
形式的にみて、非言語的な意味のシステムを中継する言葉(パロール)はラングか
らみれば二次的なシステムをなすことになり、最早本来の意味での言語学の扱うとこ
ろではない。それは、ラングを貫き、当の言葉自身その現働態のひとつでしかないよ
うな超言語学的システムに帰属する。バルトが言語学の「第二の誕生」を語り、その
再生によって言語学が「あらゆる想像された世界の科学」 (ibid.,p.10)になりうる
と述べるときの言語学とは従ってこの超言語学の謂いであって、本来の限られた意味
での言語学のことではない。もとよりバルトがソシュールの公式を引っくり返し、
「記号学が言語学の一部である」と主張してみせるのも、この意味においてである。
非言語的システムを語る言葉は超言語学的分析の対象であり、本来の言語学が対象と
する言語システムからすると二次的な故に「上位コード」 《sur-code》と言い表わさ
れもする。 「フランス語のある下位コードの一部が分析の対象となっているのではな
い。それは、いってみれば言葉によって衣服の現実に押しつけられた上位コードであ
る。というのも、後に見るように、ここで言葉は衣服を対象として語っているが、衣
服はそれ自体既に意味作用の体系なのであるから。」 {ibid., p.19)
超言語学は、実体としてはラングに属しそこに由来するが、システムとしてはラン
グを超越しそれから区別されるあらゆる意味作用のシステムを扱う。ここで一例とし
て文学という事象を思い浮べることもできよう。実際、文学は秀でて超言語学的シス
テムであり、バルト自身しばしば文学とモードの形式的類似性を指摘している。文学
は、ラングにとって二次的システムをなすゆえ超言語学的規定を持つが、とりわけ寄
生的ともいえる仕方でラングから派生しており、それを自らの実質としている。いず
れにしても、文学もモードも言語学レヴェルでは「パロール」 (あるいは「メッセー
ジ」)であるが、超言語学レグェルではそれぞれ「ラング」 (あるいは「コード」)を
なしているのである31)。
3)言葉(パロール)の両義的地位
ソシュールによって構想された「記号学」は、バルトによって定式化し直されるこ
とにより方法論的に甚大な貢献を受ける。というのも、これまで言葉の持っ創始的機
能を考慮に入れなかったために、ごく単純な事物体系をしか扱い得ず、またこれといっ
遠藤文彦
142
た成果をあげることもできなかった記号学に、理論的にも技術的にも飛躍的発展をも
たらすと期待できるからである。他方、この新たな定式は、意味作用の体系は全て必
然的に言葉による中継を受け、言葉によって構築され、その基盤の上に成立するとい
う認識論的命題と密接に関わっている。
ところで、この基本的命題は自らのうちにある両義性を胎んでいるように思われる。
それは、言葉というものが人類学的な一般性を持つと同時に歴史的な特殊性をも合意
し得るという二重の性格に由来する。事実、一方で、言葉については、それが人類学
的なスケールで有効な方法論的能力であることを認め得るであろう。了解可能性とい
う構造分析にとって唯一関与的な観点からして、言葉はそれが持つ諸機能(知覚レグェ
ルの固定化、知識の供給、強調)ゆえに意味作用への入り口とみなされるのである。
とりわけ、言葉は、その非連続的存在様態と非連続化する機能によって本来その在り
方が連続的である事物対象(衣服)を切り取り(非連続化し)、組み合わせ(分節し)、
了解可能な全体(体系)として構築する(構造化する)のに大いに貢献している。
(以上《Introduction : Methode.l. Le vetement ecrit.》並びに《I.Le code vestimentaire. 7. L'assertion d'espece》を参照。)
しかしながら、他方、言葉がこのような方法論的有効性、知的構築力を持っ故に人
類学的所与とみなされるとしても、それが現働化された場合には歴史的社会的決定を
受けてしまうということも認めなければならないだろう。バルトは、人間の言葉が
「意味のモデルであるだけでなくその基盤でもある」のは「神話と儀礼が合理すなわ
ち言葉という形をとる」ような社会においてであると述べていたが、その言は神話と
儀礼を-つまり象徴の、すなわち意味作用の体系を-言葉なしで済ます社会が存
在するということを意味してはいない。それ故、人間は分節言語に繋ぎ止められてお
り、意味の基盤となるのは言葉であるというバルトの認識論的命題に反するものでも、
その人類学的射程を減ずるものでもない。ただ、言葉が人間に一般的に備わった潜在
能力だとしても、それがひとたび現働化されれば、そのたびに歴史的な決定を受け特
ノ
殊な形態を取るであろうということを付言しない訳にはいかない。意味すること(意
味体系の構築)が普遍的であるとしても、意味の仕方(意味作用の形式)もそうであ
るとは言えないのである。このように考えられた言葉は、実証科学の対象であると同
時に類型化する価値評価の対象でもあるという両義性を持つであろう。引用中バルト
の言う「言葉」 (パロール)とは、人間の普遍的能力であると同時に「我々の社会」
すなわちブルジョア社会における合理-理性の形態であると考えねばならない。つま
り、それは単に普遍的概念なのではなく、記号実践の空間における特殊な観念類型
(「イデオロギー素32)」)であり、その限りで価値評価を合意し批判的パースペクティ
ヴに開かれているのである。であるとすれば、バルトが書かれた衣服を分析の対象に
ロラン・バルト:記号と倫理
143
選んだのは、方法論的に有利であり人類学的規模で妥当であるからだとしても、それ
は単に学問上の理由にのみ由来するのではなく、主体的にはある倫理的意味を持った
選択に基づいていると理解することができよう。
このように、本論に入る前に予め自分の仕事の意味について説明を試みるバルトは、
ソシュールの記号学についての命題を逆転することから帰結するこの根本的両義性を
指示してみせている。この逆説的命題は二重の射程を持っており、そのひとっは人類
学的に妥当する科学的・実証的有効性に対応する。もうひとつは、神話学という批判
的展望に開かれており、倫理的な問題提起を合意している。この点の詳細を以下に検
討してみよう。
4) 「言葉」の諸機能
i意味体系の創設
先ず、モードと文学の比較をもう一度取り上げてみよう。 「モードと文学は共通の
技術を有しており、それによって事物対象を言語に変換することを目的とする。その
技術とはすなわち描写である」 (ibid.,p.23)c両者が共有する描写の機能は、しかし
ながら、それぞれが扱う対象の存在様態の相違ゆえに、異なった仕方で遂行される。
というのも、文学における描写は不在の事物を現前させること(現前しているように
すること)を旨とするのに対して、モードが描写する対象は、実際に身に着けられた
衣服、もしくは写真に撮られた衣服として既に表象されて存在しているからである。
この表象作用上の条件の相違のために、 「モードの描写の機能は限定されたものとな
るが、同時に、まさにそれ故に独自のものとなってもいる」 (idem.)。モードの描写
が持つこの独自性は、 「視覚映像に対して言語が有する特殊な機能」とは何かを問い、
そして知ることを可能にするであろう。この問いは、そもそも、事物と言葉の問の伝
統的階層秩序を逆転させる先の記号学と言語学との関係についての命題と関連させて
理解すべきである。実際、事物の意味体系が言語によって創設されるという事態が普
遍的に観察可能な真理であるとすれば、物の体系が言葉によって、そして言葉へと変
換される過程で、要するに事物と言語の間で、何が起こっているのかが当然問われね
ばならない。この問いは、同じ形で文学に向けることは出来ない。文学においては、
描くべき対象が既に視覚的に、現実において、あるいは表象されて存在しているとい
う訳ではないのである。かくして、バルトによる記号学の再定式化が提起する理論的
問題は、分析の実践においては、文学と比較してモード雑誌における言葉の独自の機
能とは何かを知ることであると言えよう。 「書かれた衣服が有する重要性によって確
144
遠藤文彦
認されるのは、言語には独自の機能があって、それらは、視覚表象が現代においてい
かに発展しようとも技術的に果たしえない類のものである、ということである。」
(ifeid,p.23)バルトがモード雑誌の中に認める機能は、 1)知覚レヴェルの固定、 2)
知識の供給、 3)強調、の三つである。これらの機能はすべて同じひとっの目的、す
なわちモードの体系を明示すること、つまりその意味を創設することに向けられてい
る。この指摘は、 「視ることを読むことに対置させる人類学的レグェルでの重大な差
異」を前提にしている。 「視覚表象は呪縛感を、言葉は所有欲を引き起こす。前者は
充満しており飽和した体系である。後者は断片的で空虚な体系である。ふたっを合わ
せると、後者は前者が与えるものを取り損なうように作用する。」 (ibid.,p.28)つま
り、言葉は、視覚表象に由来する雑音(情報学の意味で)を取り払った純粋な意味作
用の体系として衣服の体系を創設するのである。 「要するに、描写の本来の目的とは、
視覚的に表象された衣服の与える無媒介的で漠とした知識を、モードにおいて媒介さ
れ特定化された知識によって方向づけることである。」 (ibid.,p.27)了解可能性をも
たらす言葉の媒介能力に対しては、人類学的普遍性と方法論的価値を認めなければな
らないだろう。逆説的なことに、視覚表象の様々な形態や媒体(写真、映画、テレビ
ジョン等)に溢れているとされる現代社会の中においても、本質的に創設的な媒介の
役割を持ちうるのは、やはり言葉以外の何ものでもないのである。
ii修辞的意味
さて、言葉は意味作用のシステムを創設するに当たって本質的役割を果たすと述べ
たが、その際考えられているのは、専ら言葉の外示する機能(デノテーション)のこ
とである。言葉が描写に徹し、現実のシステムを意味のシステムとして創設するのは、
この外示のレグェルにおいてである。ところで、言葉においてその外示的機能をのみ
考慮するということ、つまり、言葉をその描写する機能のみによって定義するすると
いうこと、それは、現実の社会において言葉に付随する二次的意味の層、すなわち歴
史を通じて蓄積され、現実の言葉の厚みをなす社会文化的意味(コノテーション)杏
捨象することである。また、同じく抽象によるのでなければ、言葉を、弁論および文
学の伝統によって打ち建てられた(あるいは弁論や文学がそれによって制度化されて
きた)言語の二次的操作の体系、すなわち修辞学から切り離すことはできない。言葉
の二次的意味および二次的操作というこれら二つの点において、あらゆる超言語学的
体系がはらむ両義性を指摘できる。すなわち、超言語学的体系というものが、ラング
を構成すると同時にパロールによって構成されているという両義性、つまり、現実に
ついて語る言葉が超言語学的なものとしてラング(意味体系)を創設するとしても、
ロラン・バルト:記号と倫理
145
その同じ言葉は、固有の意味でのラング(国語体系)からすればまさにパロールラングの-現働態-であるという二重性である。かくして、超言語学的体系をその
具体的全体において分析しようとすれば、創設する言葉のうちに一種の分裂が観察さ
れることになろう。この分裂はバルトが企てるモードの研究にとって、極めて重要な
課題と帰結をもたらしている。 「書かれた衣服と視覚的に表象された衣服との対立は、
衣服の体系においてのみ有効である。というのも、言語体系のレグェルでみると、明
らかに描写自身は個々別々の言葉によって支えられているのであるから(このモード
誌のこのページのこの言葉)。いってみれば、抽象的な衣服が具体的な言葉に委ねら
れているのである。書かれた衣服は、同時に、衣服のレヴェルで制度(「ラング」)で
あり、言葉のレヴェルで実行(「パロール」)である。この逆説的地位は重要な意味を
持つ。それは、書かれた衣服の構造分析全体を規定するであろう。」 (ibid., p.29)
超言語学的システムの分析に当たっては、それを突き詰めて行なおうとするなら、
システムを構成する言葉のデノテーションだけでなく、コノテーションと修辞的機能
をも対象として引き受けなければならない。バルトは、 『モードの体系』の第二部を
モードの修辞体系の分析に当てている。それは、マス・カルチャーの伝達様態につき
ものの意味作用の「二重性」を分析・解体することに帰着するゆえ、たとえ体系化を
目指すものであるにせよ、分析のどのレグェルにおいても-シニフイ工、シニフィ
アン、シーニュのいずれの分析においても-結局、神話学的企図の延長線上に位置
づけられる。ここで対象となっているのは、 『零度のエクリチュール』や『ミトロジー』
で定義された意味での「エクリチュール」、すなわちイデオロギー的内容をコノテー
ションとして伝達する集団的言語、より正確には、その言語が概念を自然あるいは合
理として伝達する仕方である。従って、例えば、衣服の記号の修辞学は当の記号の本
来的「慈恵性」を「合理」に変換することに存する、と述べられている。モードはそ
の文字通りの「慈恵的-専制君主的33)」性格を隠蔽するのであり、その際レトリック
は、記号の元来無動機な構成を動機づけられたものへ変質させてしまうのだから、記
号を「疎外」するものとみなされる。レトリックとは記号をイメージへと転落させる
プロセスの謂いなのである。
iii神学的意味
しかしながら、 『モードの体系』における修辞的構造の分析は、超言語学的システ
ムの分析に組み込まれるとはいえ、なんらかの批判的独自性を持つものではない。そ
れは、既に示唆したように、たとえ体系的な仕方でなされるにしても、結局のところ
神話的意味作用を解体すること、すなわちモードにおける修辞的シニフイアンとイデ
116
遠藤文彦
オロギー的シニフイエの結合の過程を分析することに存するのであり、従って神話学
の領域に属すのである。 『モードの体系』の本来の目的は、あくまでも神話過程のい
わば手前にある衣服のコードの構造分析、言葉の観点から言えば、コノテーションに
対するデノテーションのレヴェルの分析にある。この分折が批判的意義を持っとすれ
ば、それは神話批判よりもより根本的なものとなるであろう。実際、それこそが「事
物が言葉によって捉えられるとき、両者の間には何が起こるのであろうか」という先
に引いた問いの意味なのである。指導官によって教えられる、つまり言葉によって中
継されて伝達される交通規則の例はこの点非常に興味深い。
[…]たとえ、私の指導官が十分客観的態度で、 「赤は禁止の記号である」と
いうことを、特徴のない声で、字義通りに私に言ったとしても、つまり(実
際にはあまりありえない事だが)言葉が現実を厳密に外示しえたとしても、
意味作用の一次体系を言葉によって中継するということは、決して当たり前
のことではないのである。 [‥.]言語による中継には確かにそれなりの利点
がある。つまり、規則の一覧表なしで済ますことができるのである。しかし、
言葉は記号を孤立させ分離することによって、一次体系のシニフイアンの潜
在的対立関係を「忘れ」させてしまう。いってみれば、言語によって赤と禁
止の等価関係が固定化される、つまり赤は禁止の自然な色となるのだ。色は
記号ではなくなり、象徴となる。意味は形式ではなくなり、実体化してしま
う。言葉は他の意味体系に拡張して用いられると、その体系を自然化する傾
向を持つのである。諸制度のうちでも最も社会的な制度であるものが、人間
に「自然なもの」を産み出させる力でもあるのだ。 (Ibid.,pp.41-42)
非言語的意味体系の分析において言葉が持つ方法論的利点は既に述べた。しかし同
時に、言葉は記号を現働化する、即ちシニフイアンとシニフイ工を名指し、それによっ
て記号が記号を構成する構造の潜在態において持つ示差的性格を唆味にし、更には消
し去ってしまう。そして、記号をシニフイアンとシニフイ工からなる自律的実体とし
て措定する。換言すれば、構造的意識を象徴的意識へといわば退行させる傾向を持っ
のである。我々は既に、バルトが記号の伝統的概念を象徴的意識と名づけ、それが合
意するイデオロギー的意味を神学的なものとして解釈していることを見た。象徴的意
識においては、記号はその深さにおいて捉えられ、シニフイエはシニフイアンの自然
な「質」 《qualit色》とみなされる。非言語的対象に適用されることにより、言葉は、
その対象に逆説的作用を及ぼし、両義的地位を与えてしまう。構成上無動機である言
葉は、他の記号体系を超言語学的体系として創設するとともに、それを実体化し、超
ロラン・バルト:記号と倫理
147
越化してしまうのである。それ故、記号学者の務めは、事象を記号として解釈・解読
することではなく、記号をその示差的成り立ちに置き直し、象徴を記号に再転換する
ことに存する、ということが理解されよう。
5)体系のエコノミーとエトス
意味体系の構造分析と意味作用の過程の分析は、モードの研究に課せられた分析の
ふたっの方向となる。 「書かれた衣服の意味論分析は、諸体系を解きほぐす際には深
みに沿い、各々の体系のレヴェルで記号の連鎖を分析する際には、広がりに沿って行
なわれることになろう。」 (i6id.,p.37)
然るに、 『モードの体系』における衣服研究の本質的な部分は、衣服のシニフイア
ンの構造分析に存している。実際、モ-ド雑誌の言葉によって中継され、創設される
衣服のシニフイアンこそが、モードの存在そのもの、すなわちその了解可能性をなす
のである。
しかし、だからといって、衣服のシニフイエが、そしてシーニュが、事実として存
在することに変わりはない。衣服の構造分析が専ら衣服のシニフイアンの体系を対象
とするとしても、衣服のシニフイエが(たとえそれが一般に貧弱であり、次に見るよ
うに集合Bにおいては希薄でさえあるとしても)衣服のシニフイアンと結びついて
衣服のシーニュを構成する以上、意味作用の過程の分析も必要とされるのである。こ
の意味作用の分析は問題の内部にある倫理的次元を導入し、それは当のシーニュが属
する意味作用のタイプによって決定される。
事実、シニフイ工の顕現の仕方によって、衣服のシーニュには意味作用の二つの違っ
たタイプ(あるいは「倫理」 《ethiques》 (ibid.,p.281)が認められる。その類型化
は、専ら、モード雑誌が書かれた衣服体系(シェフイアン)の構築を通じて唯ひとっ
自らに割り当てる固有のシニフイエ即ち「モード」という概念がいかに意味されてい
るかに準拠している。形式的に次のように図示される複合的意味作用の二類型につい
てかいつまんで説明するとともに、それらが合意する倫理的意味を明らかにしてみよ
う。
遠藤文彦
148
レトリック
S
aモ
Iド
雑
誌
の
文
章
術
コノテーション
S
a表
記
書かれた衣服
Sa又
現実の衣服
レトリック
書かれた衣服
mmi
J
SMMz
S∈
,モ
ー
ド
Sを
記
述
内
容
S
a衣
服seW W
1
Sa モー ド雑誌の文章術
集合A
Se (世界の表象)
Sa 文 ⊥ Se記述内容
現実の衣服
Sa 衣服l S竺ニ当
集合B
集合Aにおいては、シニフイエ- 「世界」がそれと端的に命名されるのに対し、
シニフイエ- 「モード」は直に名指されることなく二次的レグェルに送られている。
前者は明示的だが、後者は「潜在的」 《latent》である。集合Bにおいては、シニフイ
エは「モード」ひとつしかなく(厳密には、 「疏行/流行遅れ」というパラダイムで分
節されているのだから二つあるいは一対と言うべきであろう)、やはり名指されるこ
とはないが(モード雑誌は一般にモードについてのメタ言語ではないMr、 「暗黙のも
の」 《implicite》として意味されている。モードの本質的シニフイエは、あくまで
「モード」という概念であり、 「世界」についてのシニフイエはモードにとって外在的
審級に差し向けられた付随的意味にすぎない。それ故、集合Aの意味作用は神話的
「二重性-欺臓性」 《duplici臓を呈するのに対し、集合Bのそれは「率直35)」であ
ると見徹しうる。前者は「モード」をコノテーションとして暗示することにおいて、
言い換えれば、 「世界」に関する一次的シニフイ工のアリバイを通して二次的に、自
然に意味することにおいて神話的意味作用を行なっている。それに対し、後者は「モー
ド」を媒介なしに直接意味している、つまりデノテーションとして明示しているので
ある。 (上述の〈implicite》並びに《latent》とは、前者がデノテーションについて、
後者がコノテーションについて、それぞれのシニフイ工の存在様態を示す語である。
SM, pp.234-235参照。)
他方、たとえ問題をデノテーションのレヴェルに限ってみたとしても、集合Aに
おける記号は「悪い」と判断されるに値する。というのも、世界に関するシニフィエ
を次々と介在させることは、記号を、意味体系にとって外在的な要素-自然な類似、
機能上の適合、文化的モデル( 《15.5.Cas de l'ensemble A》 ) -によって動機
づけることだからである。このことは、意味作用の「窓意的」性質を隠さない集合B
については当てはまらない。故に「良い」 「完全である」 「成熟している」と見徹され
ロラン・バルト:記号と倫理
149
うるのである36)
どの意味作用の体系においても、動機づけは観察すべき重要な現象である。
何故かというに、先ず、 (アナログではなく)ディジタルの体系がより効率
の高いものであると思われる以上、 -体系の完成度、でなければその成熟度
は、大部分、そこに属する記号の無動機性に係っているからである。次いで、
動機づけられた体系においては、シニフイアンとシニフイ工のアナロジック
な関係は体系を自然と化し、純粋に人間的創造行為の責任を免れさせるよう
に思われるからである。動機づけは、実に「物象化」の一要因に思われ、イ
デオロギー的性格を持ったアリバイ工作を展開するのである。
(J&id, p.220)
最後に、集合Aにおけるシニフイ工の命名は、記号を飽和させ、他の隣接する記
号から切り離し、それが自律的な実体であるかのような錯覚を抱かせる。これは言葉
で教えられた交通規則の例で指摘された効果に他ならない。記号はシニフイアンとシ
ニフイエからなる単位として満たされ個体化される。その結果、どうしてもシニフイ
アンはシニフイ工の道具と見倣されがちになり、シニフイエの方はシニフイアンに対
してなんらかの超越性を有しているかのように現われてしまう。シニフイ工の命名は
それ自体で「物象化」の要因なのである。この点からすると、集合Bの方はいわば
空虚な、 「失望させる」体系である。というのも、それは意味作用を実現するシニフイ
工として「モード」という唯一の意味しか持ち合わせず、しかもそのシニフイエは命
名されることなく「暗黙のもの」にとどまるのであるから。更には、そのシニフイ工
は当の体系の存在そのものである訳だから、集合Bは自己の存在に他ならない「モー
ド」を意味しているにすぎない、即ち自分自身を指し示しているにすぎないのである。
このシニフイ工によって、体系は外部(世界)を指示するのではなく、自分自身にい
わば折り返してしまう。ここでは、意味作用が完全に「同語反復的」な仕方で実行さ
れているのである。
まとめてみよう。言葉が世界に関するシニフイエを名指すことによって、集合A
は、 1)シニフイ工を定着させ、 2)記号を動機づけ、 3)創設された価値、すなわち
「モード」を自然化-神話化する。この上に更にレトリックの操作が加わり、意味す
る体系を大いに神話化するのである37)。反対に、集合Bにおいては、世界について
のシェフィエがなく、とりわけ、唯一持ち合わせている「モード」というシニフイ工
は自分自身の存在そのものに他ならないので、意味体系を変質あるいは「疎外」する
という倫理的にみて嘆かわしい傾向が回避されている。また、そこでは意味作用は同
遠藤文彦
150
語反復の中で中断され(-宙に吊られ)、 「意味の失望(-受け損ない)」
〈deception du sens》 (ibid.,p.286)が実践されており、それは意味作用を破壊す
ることなくシニフイエから開放するという一見逆説的な結果を実現するのである。
(もちろん、集合Bにおいてさえも、モードが文学から借用してくる修辞的小細工を
別にしての話である。後に、モードは文学と決定的に異なる、と述べられるのは、こ
の点をめぐってのことである。 《16.3. Pour une stylistique de l'ecriture》を参照
のこと。)
世界についてのシニフイ工が命名されるにともなって生じる、シニフイ工の定着、
記号の動機づけ、概念の神話化という現象は、従って、倫理的判断が通用される三つ
のポイントとなり、それらがもたらす帰結はあらゆる超言語学的体系の上にのしかか
る。意味体系が真に創設されるのは言葉の中継によってのみだとすれば、それは不可
避的に倫理的価値評価の対象となるのである。
ところで、その価値判断の基準は体系の「経済38)」から導きだされている。実際、
体系はその本質において技術-方法に関わるものであるから、体系の経済を乱し、変
質させるものは一般に倫理的な非難の対象となりうる。この経済的観点からすると、
モードの体系は、上に見た通り構造上異なる二つの体系からなる故に二重の様相を呈
し、倫理的に両義性を示すのである。
モードの二重の体系(AとB)は、かくして、そこに近代の人間の倫理的ジ
レンマが読み取れる一種の鏡のようなものとして現れる。実際、記号の体系
はどれも、世界がそれを「満たす」や否や、余計なものを抱え込み、何か別
のものとなり、変質する運命にある。世界に自らを開くには自らを疎外しな
ければならないが、世界を理解するには距離を取らねばならない。生産的行
為の型と反省的行為の型が、行動のシステムと意味のシステムが、深刻な二
項対立によって分裂しているのである。 (/6id., p.289)
『ミトロジー』の最終節に定式化された神話学者の矛盾が胎むものと同様のジレン
マである。 1957年の本においても、意味作用は専らシニフイアンとシニフイ工を結
びっける過程として考えられており、この問題の解決は「現実と人間、記述と説明、
対象と知識の和解」として要請されたのであった39)。
もとより、ここで問題となっている記号体系の「疎外」は、神話における記号の疎
外とその形式及び対象を異にしているという事態には留意すべきである。神話による
疎外は、シニフイエとシニフイアンの窓意的な結合体として本性上制度的である記号
を動機づけ、自然化することに存する。記号はイデオロギー概念(-世界)に開かれ
ロラン・バルト:記号と倫理
151
る際、変質してしまうのである。構造主義的パースペクティヴにおいては、この問題
は同じ仕方で考えられてはおらず、ある意味で二次的にしか立てられていない。ここ
での疎外は、本来空虚な記号の体系を意味によって満たし、合理化することに存する。
記号体系はシニフイエ(-世界)に開かれるや否や、変質してしまうのである。そも
そもここでいう「動機づけ」は単にシニフイエとシニフイアンの結びっき方について
ではなく、シニフイアンがシニフイエに満たされること(シーニュになること)自体
について言われているのであり、逆にいえば、記号を満たすこと自体レトリックに属
すると考えるべきなのである(ibid.,p.220sq)。要するに、 『ミトロジー』では「自
然」による記号の疎外が問題であったのに対し、 『モードの体系』では、シニフイ工
によるシニフイアンの疎外が問題化されている。後者において意味をもつのは、意味
作用の過程ではなく意味の条件としての記号体系であり、そこでシニフイエは根本的
に、単に二次的-修辞的次元においてでなく、一次的デノテーションの次元で問題化
され、意味体系を変質させる要因として否定的価値と見倣されている。単に記号の二
次的自然化ではなく、より根源的レヴェルでその実体化を問題とするところに、 1957
年の著作に対する1967年の著作の批判的オリジナリティーが認められるのである。
バルトはこのようなジレンマに対し、大衆文化の記号実践におけるレトリックへの
依拠との関連で、いくつかの社会学的説明を与えようと試みている。例えば、モード
の極めて慈恵的な性格ゆえに、 「モードは法則とか事実とかのレトリックを展開する
が、それは、合理化したり自然化しなければならない己れの慈恵的性格が歯止めのき
かないものであるだけに尚一層必要なのである」 (ibid.,p.220)と。あるいは、より
イデオロギー的説明として、当のレトリックは「民主主義的」社会がモードのような
貴族的現象を自らのものとして所有すべく編み出したひとっの妥協であり、それは一
方で「貴族的雛型を映し出し」、他方で「さも幸福に満ちているかのようにモードの
消費者たちの世界を表象する」 (ibid.,p.290)ことからなる、と。あるいはまた、道
徳・宗教的には、モードが無価値で軽薄な取るに足らないものであることに対する一
種の怖れあるいは罪悪感があって、それが、モードを合理化することによって正当化
すべく、レトリックに向かわせる要因なのである、と(《19. Rhァtoriquedu signe:
la raison de Mode》 )。いずれにしても、現代の大衆文化は人間の創造行為の根源
的な無動機-無償性{pourHen)を支えることができないかのようである。実際、
記号の「一般経済」 (ジョルジュ・バタイユ)というものがあるとすれば、この無償
性こそがその原理となるであろう。無償であるとは、際限なく、つまり最終的目的単一の方向を持たずに「浪費」することであり、このように無-意味であることにお
いて無垢で高貴な営為の謂いである(集合Bではこれが比較的維持されている)。こ
の無償の記号活動を倫理的価値として「シニフイアン」の名を以て呼ぶこともできよ
152
遠藤文彦
う。この高貴なる無償性に対し、記号実践上の経済論的な冗長性を卑俗さと見倣すな
ら、大衆文化においては、高貴な記号実践は常に卑俗な記号に堕してしまう傾向を持
つと言える。この卑俗さに対しては、やはり倫理的ではあるが否定的な価値として
「シニフイエ」の名を与えることができよう。意味作用の二重性を告発する神話学者
バルトの眼にも、体系の価値あるいは価値としての体系を肯定する構造論者バルトの
眼にも、書かれたモードが示す倫理的両義性は、自らの知的創造を肯定しえず、同時
に「純粋に人間的な創造行為の責任」 (ibid.,p.220)を回避するような社会の弱さの
記号-症候として現われるのである。
6)シ二フイ工の「場所」の問題
記号学についてのソシュールの定式を引っくり返し、記号学は言語学の一部である
とすることによって、超言語学としての記号の科学を考えることには、方法論的にも
理論的にも大いに関与性がある。実際、言葉の持つ創始的役割を考慮し直すことによ
り、記号学は技術的にも理論的にも飛躍的に発展しえた。しかし、この記号の見直し
は倫理的射程をも合意している。意味体系を創設するとされる言葉(パロール)はそ
れ自体ある種のイデオロギーに属してもいるのである。バルトの記号学的関心におけ
るパースペクテイヴの変化は、記号についての倫理的問題を深化させ、先鋭化させた
といえる。それは、最早、単にブルジョア社会に固有の意味作用の-タイプを断罪す
るだけでなく、西洋文明における記号実践の基盤となる意味作用一般を、その形式に
おいて問題化するのである。
ところで、実践的に見て、構造主義的なパースペクテイヴは無償の記号活動として
のシニフイアンを開示し、価値として肯定することを可能にした。その際、肯定的な
倫理的態度として要請される意味作用の中断・宙吊は、シニフイアンにとっての超越
者であるシニフィエを限りなく希薄にし、空虚なものとすることからなる。しかしな
がら、その場合、たとえ実質上空無化されはしても、シニフイエが形式上「場所」を
持っていることには変わりがない。この空虚ではあるが超越的な場所は、体系を以て
閉じた全体とし、相対的であるとはいえ揺るぎない制度であるような反動的審級を成
立させはしないであろうか。シニフイエの場所が場所として存続するかぎり、シニフイ
工はやはりシニフイ工として機能し、そのことにおいてシニフイアンを疎外するので
はないだろうか。であるとすれば、意味作用をそれ自体において問題化しようとする
構造主義的視点は、それ自身、当の問題を十分に免れていると言えるであろうか。
この点についてバルトは、構造主義を基礎づける記号観がそれ自身歴史的イデオロ
ギー的決定を受けていることを十分認識している。 「支配的関係の選択はそのつど何
ロラン・バルト:記号と倫理
153
らかのイデオロギーを合意する。」 (EC,p.207) 「記号の歴史というものが存在する訳
だが、それは記号についての意識の歴史である。」 (idem.) 「構造主義もそれ自身世
界の一つの形式であり、世界とともに移り変わる。」 (i&id,p.219)このような意味
で、構造的人間としての記号学者について、 「彼は己れの(真理ではなく)有効性を、
世界の従来の言語を新たな仕方で話す能力において感じるのと同様に、歴史の中から
別の新たな言語が出てくればそれで自分の任務が終了する、ということを承知してい
る」 (ifeid.,p.220)と述べられるのである。この、メタ言語と対象言語が決定的に相
対化されてしまう言語の無限に重層的な空間、これこそが構造主義的パースペクティ
ヴにおける「歴史」を成すものであろう。
ここで、先に示唆しておいた構造主義的活動の能動的アスペクトについてもう一度
検討してみよう。バルトは『モードの体系』について、それが「固有の意味で詩的な、
即ち物を製作する企図」 (GV.p.68)であったと述べている40)。しかし、この著作を
終えるに当たっては、記号学者の「未来の死」ということを語っている。 「記号学者
とは自らが世界を名指し理解した言葉の中に未来における自らの死を表わす者のこと
である。」 (SM, p.293)記号学者の詩的-創造的活動とその死の関係は、上述の意味
での「歴史」における「真理と言葉の混同を余儀なくされた」人間の知の「ヘラクレ
イトス的に生成変化する性格」 (ibid,p.293)の表現であると言える。実際、構造主
義的活動という考え方において本質的に重要なのは、人類学的有効性を持っものとし
ての形式の創造(より正確に言えば、創造としての「形式」 -シニフイアン)を肯定
することであり、それは、創造された形式と区別されるべきものであり、これに対す
る肯定的価値として肯定されねばならない。そのためには、まさに、ある特定の形式
が不変-普遍のもの(従って「真理」)であるという科学的メタ言語に固有の幻想が
捨てられなければならないであろう。記号学者の死とはこの幻想の棄却の謂いである
が、 「真理と言葉の混同を余儀なくされた」者にとっては、その死が自身の創造の成
就と一致するのである。真に普遍的なのは、特定の形式ではなく、形式の創造、創造
としての(従って本質的に「ヘラクレイトス的なもの」としての) 「形式」なのであ
るから。この「形式」の中に身を置きっっも、自らの形式の創造を「真理」であるか
のごとくに遂行せざるをえないこと、すなわち「真理と言語の混同を余儀なくされて
いる」ということ、ここに記号学者にとっての構造主義的活動の本質的両義性の理由
があり、従ってまた、多かれ少なかれその居心地の悪さが由来するものと思われる。
記号学者は自らの死をいわば猶予すべく運命づけられているのであり、その猶予期間
においてのみ、そうとは知らずに(その地位を純粋に意識し、享受することなしに)
詩人なのである。その期間が過ぎ、己れの仕事を終えたとき、記号学者は自らがそう
であるところの詩人とともに死を迎える。形式の創造(創造としての「形式」)は特
154
遠藤文彦
定の形式(即ち内容)となり、成就した「真理」は決定的に旧くなる、即ち、歴史の
刻印を押される。創造としての「形式」の「目的」ないし「内容」 (-シニフィエ)
である形式、このようなものとしての形式は決して「普遍的」であったり「人類学的」
であったりすることはなく、歴史的に決定された常に特定の形式なのである。要する
に、記号学者の創造は「真理」という終わり-目的のある創造である。 「真理」によっ
て記号学者は記号学者であるとともに、それによって詩人としては限界づけられ、疎
外されている。創造としての「形式」は終わりのないもの(プランショ)であり、そ
のことにおいてのみ「形式」なのであるから。記号学者の死は、 「真理」に運命づけ
られた詩人の死であるとともに、始まりも終わりもない真に詩的な空間への参入の契
機であると言えるだろうか。 「真理」によって限界づけられた詩人-記号学者として
死ぬことが、真の詩人として生まれるために与えられた条件であり、機会であるかの
ように。
「形式」は、 (単にレトリックとしてではなく文字通り)終わりなきもの、果てしな
きものである限りにおいてのみ普遍的で真に人類学的なものと見徹しうる。そうでな
ければ、 「形式」は内容と対立する形式、即ち「内容」となってしまう。バルトが、
構造主義的「意識」に次いで、それとは別に構造主義的「活動」を語るのは、この
「形式」をめぐっての両義性を意識してのことではないだろうか。 「範列的意識」と
「通辞的意識」が「構造主義的意識」として括られたのは、 「象徴的意識」を問題化す
る戦略であるとしたら、原理的には両者は区別されており、前者が固有の意味で構造
主義的意識を代表するのに対し、後者はそれを越えて、本来の意味での「記号的実践」
を合意するように思われる。しかしながら、.構造主義的言説は一般にこの点について
混同することはなかったであろうか。内容と形式の対立を解消するとして、その対立
を、形式的であるだけに尚更決定的なものとすることはなかったであろうか。そうで
あるとすれば、創造と創造物、形式と内容、シニフイアンとシニフイ工の乗り越えら
れたとは言い難い対立の問題は、語られる対象に関わるというより、語る枠組みとし
ての構造主義的言説に内在する言語上のものであると言えよう。構造主義的パースペ
クティヴにおいては、たとえメタ言語と対象言語の対立は相対化されたとしても、言
語間の階層的分裂自体が、更には世界と言語との間の「深刻な二項対立による分裂」
が解消されたとは言い難い。従って、問題の解決は、そもそも当の問題を胎むところ
の語る枠組み自体についてのより根源的な理論的反省を待たなければならないであろ
う41)。
ロラン・バルト:記号と倫理
155
注
本文中の引用で、バルトの著書及び著書に収められた論文については次の略号で示し、ページを付した。
My: Mythologies, Seuil, (Points) , 1970.
EC: Essais critiques, Seuil, 《Points》 , 1971.
SM: Syst&me de la mode, Seuil, 1967
GV: Le Grain de la voix, Seuil, 1984
1) 「ロラン・バルト:記号と倫理-神話学、その理論的諸問題」 『文化』第54巻、第1・2号、東北大
学文学会、 1990。
2) 「衣服の歴史と社会学」 ( 《Histoire et sociologie du vetement》,Annales, 12eann由, no 3, juilletseptembre, 1957, p.431. )
3) Art. cit., ibid., pAS4.
4)実証主義的な社会学というよりは、社会の構造論的分析と言うべきであろう。バルトは「社会学」に
対して「社会-論理学」と言う表現を試みているO 《Sociologie et socio-logique. A propos de
deux ouvrages recents de Claude Levi-Strauss》 , Information sur les sciences sociales, vol.
41, no 4, nouvelle sfirie, 12/1962. (in L'Aventure s&miologique, Seuil, 1985. )
5) Art. cit., ibid., pp.434-435.
6)注4参照。
7)新たに週刊となった『レットル・ヌーヴェル』誌の第1号(Lettres nouvelles, nouvelle serie
hebdomadaire, 1, 4mars1959)から第8号まで連載、間をおいて第28号(22novembrel959)
に最後となる9番目の「ミトロジー」が掲載されたo (「スキャンダルとは何か」 「映画、右翼と左翼」
「食堂車にて」 「円卓会議」 「家庭編み物」 「職業の選択」 「動詞etreの-用法について」 「悲劇と高遠さ」
「二つの展示会」)
8) 《Les deux salons》 , Lettres Nouuelles, ed. cit., no 28, 4novembre 1959.
9) 《La nouvelle Citroen≫ , Mythologies.
10) 《Les deux salons〉 , art.cit., ibid., p.46.
ll) Ibid., pA5.
12)Idem.
° °
13)マルクス主義内部にも見られる因果論的あるいは現象・本質論的決定論のイデオロギーについてはア
ルチュセールによる批判を参照のことLouis ALTHUSSER, 《L'objet du Capital》 , Lire le
Capital, Maspero, 1965.
14) 「区別し、比較し、呼び出し、破棄する、これらが今日において普遍的な操作であり、その目的は、古
来そうであったように、精神を安心させアリバイで育むのではなく、技術的に現実を変革することに
ある。」 ( 《Lesdeux salons》 , art.cit., ibid.,p.46)
15)シトローエンの新車は、神話的内容の変化を表わしており、そこに神話自体の形式的変化は認められ
ていない。 「それは人間化された技術であり、それ故シトロ-エンの新車は自動車神話にある変化を印
しているといえる。今日まで、自動車の貞髄は獣じみた力にあったが、今や、より精神的かつ客観的
となったのだO」 {My, p.152)
16) 《L'imagination du signe≫ , Arguments, 27-28, 1963. (in Essais Critiques.)
17)記号の「イデオロギー素」と「意味」の神学的地位についてはJulia KRISTEVA, 《Le sens et la
mode》 , Critique, 247, decembre 1967.
18)証明的役割を持つというのは、即ち、換入テストにおいて比較される二項が示差的であるか否か、つ
まり意味構成にとって関与的であるか否かを明らかにする証明の機能を持っということであろう。
19) 《 L'activit6 structuraliste》 , Lettres nouvelles, 32, ffevrier, 1963 (in Essais Critiques.)
20)ジョナサン・カラーはバルトの科学への関心を、それ自体としてではなく、そこから引き出しうる批
遠藤文彦
156
判的効果、例えばその証明力や「異化」の効果によって説明している。 Jonathan CULLER,Roland Barthes, Oxford University Press, New York, 1983.
21) 「先ず、 (神話学的)介入、次いで(記号学的)虚構(‥.)」 (RB,p.148)
22) 「主題」に対するフロベール的シニスム(「何についても書かれていない本-無の上に立っ本」 《un
livre surrien》 )の倫理的意味というものが考え得るのではないだろうか。
23)構造の潜在態《virtualit6》と顕在態《actualite〉あるいは差異化《differentiation》と差違化
《diffsrenciation》の相違についてはGilles DELEUZE, 《A quoi reconnaiトon le structuralisme?》 , LaPhilosophieauXXesiecle, Hachette, 1973を参照のこと。 「従って、我々は、潜在
的同時存在の集合体としての一領域の全体構造と、その領域における諸々の現働化された形態である
下位構造を区別しなければならない。潜在性としての構造については、完全且っ全体的に差異化され
ているが、末だ差違化されてはいない、と言わねばならない。 (現在または過去の)任意の顕在的形態
に現働化された諸々の構造については、差違化されている、従って、現働化するとは差違化すること
であると言わねばならない。」 (p.308)
24)実証主義に対するイデオロギー批判についてはマン-イム『イデオロギーとユートピア』を参照のこ
と。
25) 『ミトロジー』後も、バルトは自動車について書いているが、そこでは神話的意識の変容を記述してい
る。 《Lavoiture ,laprojectiondel'ego≫ ,R'ealife, 123, octobre1963.また、食物についても
書いているが、それは単に神話学的分析ではなく、構造分析の試みである。 《Pour une psych0sociologie de l'alimentation contemporaine) , Annales, septembre-octobre, 1961(
26) 「機能-記号」については、 『モードの体系』、 19.ll, p.266以下Oまた、 Jean BAUDRILLARD,
《La morale des objets. La fonction-signe et la logique de classe≫ , Communications, 13,
1969を参照。ボードリヤールは経験主義的仮説をいわば反転させ、 「社会学的にみて正しい仮設」を
提示する。 「事物の地位は、先ず第一に実用主義的であって、次いで、記号の社会的価値による決定が
その上に加わる、というようなものではない。それどころか「象徴的な」交換価値こそが根本的に重
要なのである。使用価値は大抵その実用上の保証物(さらに言えば、合理化作用そのもの)にすぎな
い。」(p.23).
27) 『モードの体系』 p.234-235c
28)例えば、 「バルトの著作を適時的に見た場合、ここ[- 『モードの体系』]で初めて、方法と応用(理
論と実践)が一緒に結びっいて見られる」 (Louis-Jean CALVET, Roland Barthes : un regard
pohtique sur le signe, Payot, 1973. )
29)表象されたモード、ついで書かれたモードの選択は、バルトによる衣服研究の三つの段階に対応して
おり、それは、研究の進展に応じて発表された三つの主要な論文に明確に現われている。 「衣服の歴史
と社会学」 1957 (構造分析の必要性)、 「言語と衣服」 1959 (資料体としてのモード雑誌の選択)、 「今
年の流行はブルー」 1960。詳細は、篠田浩一郎『ロラン・バルト』岩波書店、 1989年、第二郎、第一
章を参照のこと。
30) 「序文」『コミュニカション』 4号、1964。この「序文」と『モードの体系』の「前書」との間の時間
的および論理的順序については、カルヴェの前掲書(p.113-116)を参照。
31)ここでは、シニフイ工とシニフイアンの間の表象関係を話題としている訳ではないのだから、文学や
モードのメタ言語的あるいは修辞学的地位が問題となっているのではない。もちろん、モードは現実
の衣服について語るのだから、それがメタ言語であるというのは確かである。しかし、ここで問題と
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なっているのは、あくまで、固有の意味でのラング(国語体系)から発し、そこから派生したシステ
ムを成すという意味での超言語学的性格である。
32)注17参照。 「イデオロギー素」についてはJuliaKRISTEVA, LeTexteduroman, Mouton, 1970,
pp.12-13.
33)モードの体系における記号の「慈恵性」とは、言語記号におけるシニフイアンとシニフイエの結びつ
きの無動機性を意味するのではなく、衣服を記号として創設するファッション・グループの文字通り
ロラン・バルト:記号と倫理
157
慈恵的な、言い換えれば「専制君主的」な決定の謂いである。この「慈恵性」の意味の相違から、言
語が契約的システムであるのに対し、モードは「道徳的」システムであることが説明される. 「言語に
は間違い《erreurs》があり、モードには過ち〈fautes》がある」 (SM,p.220)<
34) 「今年の流行はブルー」というような場合は別。
35)記号の率直さではなく、体系の率直さである。
36)バルトは意味作用する体系の質について、しばしば「ェレガント」 「趣味」 「成熟」 「高貴」などといっ
た主観的印象に関わる形容をする。しかし、実際には、それらは構造的に(経済的、更には数学的に)
定義され、客観的な基準となっている。例えば、 「今日、卑俗な作品とは何かを精確に定義できるよ
うに思われる。かつてではなく、今日、構造分析のおかげで、卑俗さを、意味論的機能不全、記号の
悪しき経済と定義できるようになった今日のことである。やがて、趣味なるものが、謎めいた時代遅
れの優美さの問題ではなく、他ならぬコードの技術的問題として現われるてくるだろうと確信してい
る(既に古典主義時代にそうであったように)。」 ( 『ェスプリ』誌1965年5月、 p.836)
37)ただし、こうしたシニフイエの在り方についても、その判断には留保が可能であり、また必要でもあ
る。バルトは「モ-ドの写真」と題された『モードの体系』の補遺で、写貞に撮られたシニフイエ
(集合Aにおける「世界」の表象)を分析し、それが自分自身を過剰に(従って多かれ少なかれ無益
に)意味していることを指摘する。こうした誇張的・自己詰諺的在り方によって当のシニフイエは自
らを非現実化し、逆にシニフイアン(衣服)を唯一現実的なものとして提示するのであり、この点に
おいて結局集合Bと同じ「意味の失望」を遂行している、というのである。 「誇張することは否定す
ることに劣らず距離を置くことである」 (SM,p.305)との言は、バルトがプロレス(「プロレスの世界」
『ミトロジーJ)やオランダ絵画(「対象事物としての世界」『ェッセ・クリティック』)その他の記号実
践(専ら視覚表象)に認める「ヌーメン」の肯定的価値の内容を端的に説明していると言えよう.
38)意味体系の経済であり、現実世界の経済、いわゆる「政治」的経済(gconomie politique)からは
自律しており、その自律性は下部構造・上部構造という対概念が含意する決定論的思考(アナロジー、
反映の関係)に抗して肯定される。
39) 『ミトロジー』 p.247及び拙論(前掲論文)参照。
40)それ故にこそ、逆に『モードの体系』を執筆すること自体はむしろ退屈な作業であったということを
バルトは語っている。 Voir GV,p.138.
41)バルトにとって理論的言説の本質は、実践に対する抽象にではなく、言語の自己反省- 「自らに折
り返す言語」 《un langage qui se retourne sur lui-meme》 ( 《Entretien sur la theorie》 VH
101, 2, 1970, p.6) -にある。
(1991年10月17日受理)