論文要旨 論文題目 乳児期における投射影知覚の実験的検討 氏 名 佐藤夏月 物体が光に照らされたとき面の受ける照明量に差が生じ,影が成立する。光を遮った物体 の表面に投射される影を陰影と呼び,光を遮った物体が他の面に投射する影を投射影と呼ぶ。 目の前の暗い領域が,影か,あるいは物体表面の反射率が低い領域なのかを正しく知覚する ことは,物体を恒常的に知覚する上で重要であると考えられる。本研究ではこうした影の知 覚について,乳児を対象に検討する。 影は,光源の位置や大きさ,投射される面の凹凸など複数の要因で形状が決まるために, 影のみから光源の位置や影を投射する物体の形状を復元することは,理論上は不可能である。 しかしヒトの視覚システムは,光源に関する仮定(Ramachandran, 1988; Kersten et al., 1996 ) を 有 し , 投 射 影 と 陰 影 を 手 が か り に , 奥 行 き や 形 状 を 知 覚 す る こ と が で きる (Ramachandran, 1988; Cavanagh & Leclerc, 1989; Kersten et al., 1996)。これらの影か ら成立する知覚のうち,投射影と陰影を手がかりとした奥行き知覚は,生後 7 ヶ月頃に発達 することが示されている(Granrud et al., 1985)。形状の知覚については,陰影を手がかり とした場合生後 7 ヶ月頃には形状知覚が発達することが示されている一方,投射影を手がか りとした形状知覚については検討されていない。更に,乳児は投射影を知覚できるのかとい う問題についても,明確な結果は報告されていない。本研究では,第 3 章から第 5 章にかけ て,乳児の投射影知覚について検討を行う。 第 3 章では,乳児は投射影を知覚できるのかを明らかにするため,生後 5-8 ヶ月児を対象 に物体と投射影間の矛盾を検出できるか検討した。第 1 実験では,物体と投射影の形状が一 致する一致図形と,物体に異なる物体の投射影が付加された不一致図形を作成した。一致図 1 形に親近化後,一致図形と不一致図形に対する選好を比較することで,乳児が物体と投射影 間の形状の不一致を検出するか検討した。実験の結果,生後 7-8 ヶ月は不一致図形に対し選 好を示したことから,物体と投射影間の形状の不一致を検出したことが示唆された。第 2 実 験では,この結果が物体と投射影間の矛盾を検出した結果であることを確認した。第 1 実験 の刺激図形の投射影に白色の輪郭線を付加し,投射影として知覚できない図形を作成し,第 1 実験と同様の手続きで実験を行った。その結果,投射影として知覚できない場合には乳児 は物体と投射影間の形状の不一致を検出しないことが明らかにされた。以上の結果から,投 射影と知覚できる場合には,生後 7-8 ヶ月児は物体と投射影間の形状の不一致を検出できる ことが示され,投射影知覚は生後 7-8 ヶ月頃に発達することが示唆された。この月齢は,投 射影と陰影から奥行きを知覚できる月齢と一致している。以上の結果から,投射影の知覚は 生後 7-8 ヶ月頃に発達することが明らかにされた。 図 1. 第 1 実験の刺激例 図 2. 第 2 の刺激例 (左:不一致図形,右:一致図形) (左:不一致図形,右:一致図形) 投射影を手がかりとする知覚のうち,投射影から形状を知覚する能力について,乳児を対 象とした検討は行われていない。第 4 章では,乳児は投射影と陰影を手がかりに形状を知覚 できるのか明らかにすることを目的とした。第 3 実験では Elder et al. (2004)の作成した,投 射影と陰影から異なる形状を復元できる図形を用い,複数の陰影図形(または投射影図形) の中にターゲットとしてひとつだけ呈示された投射影図形(または陰影図形)を検出できる のか,生後 5-8 ヶ月児を対象に検討した。実験の結果,生後 7-8 ヶ月児はターゲットを検出 できることが示され,生後 7-8 ヶ月児が投射影と陰影から異なる形状を知覚したことが示唆 2 された。第 4 実験では,生後 7-8 ヶ月児が局所的な画像特徴の差を手がかりにターゲットを 検出した可能性を調べるため,図形の輝度を反転することで投射影・陰影として知覚されず, 形状が復元できない図形(Elder et al., 2004)を用いた。第 3 実験と同様の手続きで実験を 行った結果,輝度反転図形では,乳児はターゲットを検出できないことが示された。以上の 結果から,生後 7-8 ヶ月児は成人と同様に,投射影と陰影から異なる形状を知覚したことが 示唆された。生後 7 ヶ月頃という月齢は,陰影を手がかりとした形状知覚や,投射影を手が かりとした物体の運動軌道の知覚の発達時期と同時期であり,影を手がかりとした形状知覚 は生後 7 ヶ月頃までに発達することが示唆された。 図 3. 第 3 実験の刺激例 図 4. 第 4 実験の刺激例 (陰影図形の中に投射影図形を1つ呈示) (第 3 実験の図形の輝度を反転した図形) 第 3 章と第 4 章の結果から,生後 7-8 ヶ月児は成人が有する影を知覚する為の必要条件を 既に獲得していることが示唆される。必要条件とは,(1)影と非影領域の間で,コントラス ト極性に矛盾がない, (2) 影は隣接する非影領域より暗い, の 2 つである(Cavanagh & Leclerc, 1989) 。第 3 章では, (1)の必要条件を,第 4 章では(2)の必要条件を崩すことで,影とし て知覚できない図形を作成した。本研究の結果は,成人が有する必要条件を崩すことで,乳 児の影知覚も成立しなくなることを示し,乳児期から成人同様の必要条件に基づく投射影知 覚が発達することを示唆する。 このように,視覚システムは影知覚に関連し,仮定や必要条件などに基づいた処理を行う ことが明らかにされている(cf. Ramachandran, 1988)。成人が有する影に関する前提のひ 3 とつに「影の中は暗い」というものがある。この前提に基づき,影を通過する際に物体の明 るさが暗く変化しても,それを自然な変化と知覚することができる。第 5 章では,影の中は 暗いという前提を乳児が有するか明らかにするため,影を通過する物体の不自然な明るさ変 化を検出するか検討した。第 5 実験では,ヒヨコの明るさが影を通過する際に暗く変化する 自然条件と,影を通過する際に明るく変化する不自然条件を用いた。ヒヨコが影の外側を通 過する動画を繰り返し提示し,慣れさせた後,自然条件と不自然条件に対する選好を比較し た。その結果,生後 7-8 ヶ月児は不自然条件を選好することから,影を通過する物体の不自 然な明るさ変化を検出したことが示唆された。しかし自然条件と不自然条件では、局所的な コントラストに差があり,このコントラストの差が選好に影響した可能性が残された。第 6 実験では,乳児が影を通過する際の不自然な明るさ変化を検出したことを確認するため@, ヒヨコが通過する影を取除き,自然条件と不自然条件と同じように明るさが変化する動画に 対する選好を比較した。第 5 実験と同様の手続きで実験を実施した結果,有意な選好は示さ れなかった。この結果は,第 6 実験の結果は生後 7-8 ヶ月児が影は暗いという前提に矛盾す る不自然な明るさ変化を検出したことを示唆する。以上の結果から,生後 7-8 ヶ月児は,成 人同様に影は暗いという前提を有することを明らかにした。 図 5. 第 5 実験の刺激例 図 6. 第 6 実験の刺激例 (左:自然条件,右:不自然条件) (自然・不自然条件から影を取除いた動画) これまでの投射影知覚の発達研究は,投射影を手がかりに成立する奥行き知覚と物体の運 動軌道の知覚を検討した研究のみであった(Yonas & Granrud, 2006; Imura et al., 2006)。 本研究では,生後 7-8 ヶ月児が (1)物体と投射影間の形状の不一致を検出し,投射影を知覚で 4 きること(第 3 章) ,(2)投射影と陰影から知覚される形状の違いを検出し,投射影を手がか りに形状を知覚できること(第 4 章) ,(3)影を通過する物体の不自然な明るさ変化を検出し, 影は暗いという前提を有すること(第 5 章),を明らかにした。これらの結果から,乳児は投 射影を絵画的奥行き手がかりとして利用するだけではなく,成人と同様に,影知覚の必要条 件や,影は暗いとする前提に基づいた投射影知覚が生後 7-8 ヶ月頃に発達することを明らか にした。本研究の結果から新たに示された知見は以下の通りである。 1. 投射影知覚は生後 7 ヶ月頃に発達する。 2. 投射影を手がかりとした形状知覚は,陰影を手がかりとした形状知覚と同時期(生後 7 ヶ月頃)に発達する。 3. 生後 7-8 ヶ月児は,成人と同様の必要条件に基づき,投射影を知覚する。 4. 生後 7-8 ヶ月児は,影は暗いという前提に基づき,影を通過する物体表面の明るさ変 化を知覚する。 これらの知見から,生後 7-8 ヶ月間に,乳児は成人と同様の必要条件や前提に基づいた投 射影知覚を獲得することが示唆される。この月齢は,3 次元的な空間構造の知覚が発達する 時期であり,影の知覚は 3 次元空間知覚と関連する可能性が考えられる。 5
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